並んで中庭を歩きながら、陽子が満面の笑みで傍らの青年を見上げた。
「改めて、お久しぶり、楽俊」
「ああ。顔合わせるのは、ほんとに久しぶりだな」
鸞を交わしているから声は聞けるが、直接顔を見て話したのはずいぶん前のことのような気がする。
「元気だった?」
「おいらはかわりねえ。陽子こそ、無理してねえか?」
問い返されて、陽子はくすりと笑う。
楽俊はいつだってそうだ。自分は平気だ、と言い、そういうお前は元気か、大丈夫か、と聞くのだ。
彼らしい気遣いに、胸の内が暖かくなる。
この暖かさが、とても好きで。
それはたぶん、二人で旅をしたあのころから変わっていない。
「祥瓊たちが無理なんてさせてくれると思う? 玉葉より厳しいからね、鈴も祥瓊も」
そりゃ怖いなあと、楽しそうな青年の声。
ひとしきり笑って、楽俊がさて、と言った。
「大学内、といってもなあ、講義中のところはみせられねえし、空き教室見たって仕方ないだろ。陽子は何が見たいんだ?」
「まずは全景、かな。どんなところに何があって、何を教えてるとか、そういうの」
そうか、と頷いた楽俊は、陽子を見晴らしのいい丘に案内した。
丘といってもここは凌雲山の一部である。山全体から見ればちょっとした隆起に過ぎないが、学内を見渡すにはちょうどいい場所だった。
やや強い風が、二人の髪を巻き上げる。
「よくこんなところ見つけたね」
「入学して最初の頃にな、陽子とおんなじで大学の全体をみたくてうろついてたらここをみつけたんだ」
考えることは一緒だな、と顔を見合わせて笑う。
「あれが正門だな。陽子もあそこから入ってきたろう。そこから正面が、主な教室のある建屋で、手前で横にそれると中院」
「楽俊が寝てたところ」
半畳を入れる陽子に、それは忘れろ、と苦笑って、周囲を巡る回廊を指す。
「あの回廊は、学内の全ての場所を繋いでるんだ。一番遠いのが馬場。馬術の講義はここだな。それと、弓射場がそっち」
「あの囲いの中だね」
「そうだ。下手な奴等が見当違いの方に飛ばしても、外には被害が出ないよう、壁が高くなってる」
軽快に笑った陽子が、楽俊を見上げた。
「弓射の講義、どう?」
「うん、なんとか的に当るようにはなった」
興味津々で見上げる陽子に、楽俊が笑う。てらいのないもの言いをされて、陽子が吹き出した。
「なんとかって」
「ほんとになんとかだ。最初なんか、飛びもしなかったからなあ」
楽俊は見栄を張らない。
できることはできる、できないものはできないとそのまま言い表す素直さは、どうやら母親譲りのようだ。それがいかにも率直で明朗な彼らしい。だから、陽子に会ったばかりの頃、自分は頭がいいと言ったのは、根拠のない自慢ではない。
なにしろ少学を出ていないどころか、その下の学校ですらまともに講義を受けていないのに、名高い雁の大学に主席入学を果したのである。これで謙遜されたのではただの厭味にしか聞こえない。
そんな楽俊にも苦手なものがあるとは、弓射の話を聞くまでは思いもしなかった。
「鳴賢が、弓と馬を特訓してくれるんだ。その成果ならいいな」
そうなんだ、と陽子は楽しそうに聞いている。
「私は剣なら教えられるかもしれないけど、弓となるとやったことがないな。冗祐はできるのかな」
「陽子が弓を持ってどうする。そういうのは専門のやつがいるだろ」
「それもそうか」
納得した陽子に、楽俊が笑う。
この少女は人ではない。仙ですらない。
号で言うなら、慶東国王、景。
この世界に十二人しかいない、至高の存在。
本来なら景女王と呼びならわすのが当然だが、楽俊はただ陽子、と気さくに呼ぶ。
女王だとか海客だとか半獣だとか。そんな煩わしいものは、二人の間にはないから。
「陽子はどうだ、仕事は」
王様業は、とはさすがに言えないから、外では仕事と言いかえる。
「浩瀚がばっさばっさ片付けていってくれるから、格段に楽になった。そのかわり、ものすごく厳しいけれど」
どこか引きつった顔に、今度は楽俊が吹き出した。
「しごかれてるか。ものすごく切れるお人だとは、風漢様からうかがってはいたけどな」
風漢、つまりお忍びの延王から陽子の近況を聞くことがある楽俊も、浩瀚の話は耳にしていた。
慶の朝にいるのでなければ雁に欲しいくらい優秀だという一方で、これ以上煩い奴を増やしたくないしと延王が言っていたところをみると、陽子の表情にも納得がいく。
「怖いとか気が短いとかじゃなくて、にっこり笑って容赦ないっていうのかな。理詰めで淡々と説かれるんだけど、あの笑顔が出た瞬間に『ごめんなさい!』って叫びたくなるかんじ」
「……ああ、わかるような気がする」
雁の朝にも、同じような人物がいる。道理で延王が顔をしかめるわけだ。
「祥瓊や桓魋殿も、皆元気か?」
「元気だよ。祥瓊たちも会いたがってる。遊びにくればいいのにって」
はは、と二人で笑う。
関弓と尭天は遠い。騎獣や使令を使っても、そう易々と往復できる距離ではない。
遊びに、と言うほうも言われるほうもそれを承知ではいるが、やはりたまには顔を見たくもなるのが友人というものだ。
「桓魋が、弓が苦手なら教えてやろうかって言ってたけど」
「そりゃあありがたいが、どんな弓を引かされるかと思うとなあ」
大学の弓射はあくまで儀礼であるから、所作も優雅で典礼に近い。軍で教える弓術とは、そもそも挙措からが違うのだ。
まして熊の半獣である桓魋の扱う弓など、到底引けそうにない。
かつて鼠の姿で熊に変じた桓魋に担ぎ上げられたことがある楽俊は、その怪力に仰天したものだ。
「まさか、桓魋と同じ弓なんて引かせないと思うよ」
想像したのか、誰もそんなの引けないよと陽子が笑い転げる。
なにしろ大の大人分の重みはあろうかという鉄槍を軽々と振りまわす将軍である。
彼が張った弓など誰にも扱えないだろう。
さんざん二人で笑ったあとで、改めて学舎をまわる。
まだ講義中の教室も多く、学生にはさほどすれ違わなかったが、幾人かは楽俊に目を留め、傍らの陽子に不思議そうな視線をよこした。
それでもあえて声をかけてくる者はなく、「『景王、雁国の大学に忍び込む』ってとこだな」と楽俊が笑った。
あらかた見てまわったあと、学生用の堂に場所を移した。備え付けのお茶を片手に取りとめもなく喋りながら陽子が帳面を広げ、そこに楽俊が学内の様子をあれこれと書きつけていく。
「講義の内容は雁でも慶でもそんなにかわらないんじゃねえかな。国によってなにに重きを置くかは違ってくるが、基本にそれほど差はねえはずだ。まあ、これは乙老師や他の人がよく知っていなさるだろう」
さらさらと綴られる達者な文字に、頷いて聞いていた陽子がふと溜息をついた。
「……今更だけど、楽俊て字が上手いよね」
どうしたいきなりと聞けば、私の字なんてミミズの寝言みたいなんだもん、と拗ねる。
とんでもない例えに楽俊が笑った。
「まだ覚えたての陽子から見りゃそうかもしれねえけど、おいらだって父ちゃんに比べたらまだまだだぞ」
「だって、浩瀚も感心してたよ。祐筆にもこんないい字を書く者は少ないって」
「誉め過ぎだ、そりゃあ」
「だってあの浩瀚だよ。お世辞なんか言うと思う?」
「……お世辞というより試されてる気はするけどな」
陽子には聞こえないよう、口の中で呟いた。
誉められていい気になったら、たちまち叩き落とすような人物な気がする、とは延麒が言った台詞
だが、なにしろ権に媚びずその能力だけで冢宰に抜擢されるような男である。一筋縄ではいかない。
なに? と目を瞬かせる陽子に、なんでもねえと答える。
「第一、乙老師とかほかのお人とか、おいらなんかより字の上手い人なんてたくさんいるんじゃない
のか?」
「遠甫の手は達者過ぎて真似できないし、景麒は線ひとつ引くにもああじゃない、こうじゃないってうるさいし、祥瓊もあれでけっこう厳しいし」
景麒、という名だけは声を潜めたものの、陽子は眉根を寄せて指を折った。
「そうだ。楽俊、なにかお手本かいてくれないか?」
「手本?」
そう、と少女が頷く。
「手習いのお手本。楽俊の字って読みやすいから、目標にしたいし」
「おいらで手本になるかはあやしいけどなぁ」
苦笑いながら、楽俊が筆を取る。
開きなおした白紙にゆったりした運びで綴られたのは、陽子にも見覚えのある一文だった。
「仁道をもって治ること……なにも大綱をもってこなくたっていいじゃないか」
たぶん王になって最初に書かされたであろう文句である。陽子が口を尖らせるのも無理はない。
想像したとおりの反応に楽俊がくすりと笑った。
「見覚えのある物のほうが書きやすいだろ。乙老師に書かされたか?」
「景麒」
憮然とした陽子に、なるほどなぁ、と頷いた。
「まあ、楽俊が書いてくれたと思えば、気分も変わるけどね」
気を取りなおして、陽子が楽俊から筆を受け取る。
眉を寄せ、息を詰めて筆を動かす陽子の横顔に、楽俊は吹き出しそうになるのを懸命にこらえた。
陽子は一生懸命に書いているのだから、笑われるのは不愉快だろう。
そうは思うのだが、その生真面目さが面白いやら可愛いやらで、なんとも可笑しい。
一行書き終えようやく息をついた陽子は、隣人の様子がおかしいことに気がついた。
卓子に肘をつき、こちらから微妙に顔を背けて、片手で顔を覆っている。
その肩が、小刻みに震えていた。
「……楽俊、なに笑ってるの」
不機嫌を固めたような声に、楽俊の肩がよけいに揺れる。
「人が真剣に書いてるのに、なんで笑うんだ!」
「陽子は真面目だからなぁ」
憤然とする少女に、指の隙間から、涙の滲んだ黒い瞳が笑った。
「手習いに、そんな真剣になることないんだぞ。書けば書いただけ上手くなるんだから、最初から
綺麗に書こうなんて気負わなくたって、丁寧に丁寧に、って心がけるだけでいいんだ。そうすりゃ、そのうち上手くなる」
くつくつと笑いながら、まだ口を尖らせている陽子の頭を撫でてくれる。
「だって……書類の一つ、手紙の一つもまともに書けないんじゃ、情けないじゃないか」
代筆はたいがいが景麒。その流麗な文章の最後に、まるで子供の落書きのような自分の御名を見
たときの気分は、楽俊にはわかるまい。
「しょうがないだろ。陽子はこっちの文字を知らないんだし、むこうでは筆を使って字を書かない
って言ってたじゃねぇか」
「そうだけど……」
筆を持ったことなど、小学校の書初めくらい。それだって、大したものは書いていないのだ。
「あーあ、こちらに鉛筆があったらな」
鉛筆とは言わないまでも、ペンがあればもう少し書きようもあるのだが、いかんせん毛筆は扱い
にくい。
「ないものねだりしてねぇで、練習することだな。おいらだって最初はそんなもんだったんだ。
あとは練習練習」
隣では、まだ楽俊が笑っている。ひがみのせいか、たいそう楽しそうに見える顔を睨めつけて、
溜息をついた。
「どうにも筆運びが上手くいかないんだ」
筆と鉛筆では手の動かし方からしてまったく違う。丁寧に丁寧に、と内心唱えつつ、一字二字と
書きながらぼやく。
達筆の楽俊に見られながら下手な字を書くのは気恥ずかしいが、せっかく教えてくれているのになにもしないのでは申し訳ない。
陽子の手元を見ていた楽俊が、つと席を立った。
なに、と思うより先に、背中から抱えるような体勢で右手を取られる。
「楽俊?」
「ただ字を書くよりも、基本を覚えた方がいいな」
陽子の手ごと筆を持ち、ゆっくりと大きな字を書いた。
「永?」
「永字八法、というな。この一字の中に、筆運びの基本が入ってんだ。これが綺麗に書けるように
なれば、他の字だって上手くなる。まずはこれを練習してみちゃどうだ?」
とめ、払い、と数えながら、ひとつずつゆっくりと筆を運んで行く。
幾度かそれを繰り返して、陽子が溜息をついた。
「楽俊は教え方が上手いな。うちの教師陣は、誰もこんなこと教えてくれなかった」
「まあ、これは筆を持ち始めた子供に教える方法だからなあ」
渋面を作る陽子を見て、椅子に戻った楽俊が笑う。
「字も文も、そうそうすぐに身につくもんじゃねえ。焦ることはねえさ。気長に構えて、しばらく
は代筆を頼んでおけばいい。そのうちいやでも自分で書かなけりゃならなくなるんだから」
「うん、そうする」
にこりと笑った陽子は、楽俊の手の動きを思い出しながら、ゆっくり筆を運ぶ。
線の引き方、筆の強弱。
口で言われただけではさっぱりわからなかったことが、手を取って教えてもらえばこんなにわか
りやすい。
横から見ていた楽俊が破顔する。
「ん、いい字だ。たいしたもんじゃねえか」
「ありがとう。楽俊のおかげだ」
一度筆を置き、黒々とした墨跡を眺める。
「楽俊も、相当練習したの?」
問われて、楽俊がちょっと口の端を上げた。
「そうだなあ。なにしろ手本が父ちゃんだろ? 手本と自分の字の落差が、子供の目にも激しくてなあ。最初はもう、今の陽子以上にがっくりしたような覚えがある。で、そのあとはもうひたすら真似して書いてたな」
小さな鼠の子がしょんぼりと肩を丸める姿を想像して、陽子が笑う。
だいぶ冷めてしまった茶碗を口に運びながら、二人ともなんとなく字の書き散らされた帳面を眺
めた。
「おいらのうちはそりゃもう貧乏だったから、墨も紙もそうそうは買えねえ。だから、普段は土間
とか庭先で地面に書いてたな。地面はなんべんでも書きなおしがきくだろ?書いちゃあ消し、書い
ちゃあ消しってしてたからすっかり土が柔らかくなっちまって、母ちゃんに土間に畑でも耕してん
のかい、ってよく笑われたもんだ」
楽俊が懐かしげに笑って話すのを真顔で聞いてた陽子が、手元の筆を手に取った。
「……そうだな」
「ん?」
怪訝そうな声に薄く苦笑を浮かべて、じっと筆を見る。
「……蓬莱には、物が溢れていた。要るものも、要らないものも、小金を出せばなんだって買え
たんだ。だから、物のありがたみというものを知らなかった……わかろうともしなかった」
ちょっと可愛いからと使いもしないペンやノートを買って、すぐにそれを忘れてしまう。
小遣いは親から貰い、それを当たり前だと思っていた。
戻れもしないほど離れてから初めてわかる、あちらの世界の歪み。
「どんなものも誰かが作ってくれたもので、それをあがなう金は、親が額に汗して働いたものだ。そうやって手に入れた物を大切にするなんて当たり前のことなのに、私はそんなこと思いもしなかった」
そうやって溢れたごみが、大地を埋めるほど積もって。
なんて浅はかな自分。
なんてうつろな世界。
「大事に、大事にしないといけないんだね」
一文字書くための筆も、墨も、硯も、紙も。
楽俊が丁寧に、と言ったのは、筆運びだけではなくて、使う道具ひとつひとつに心をこめて、という意味なのかもしれない。
作ってくれた人に感謝を。
手に入れることのできる境遇に感謝を。
なにより、道具そのものに感謝を。
例え本人は無意識でも、楽俊は万事にそういうところがあった。
だからきっと、これも陽子の単なる想像ではないだろう。
「丁寧に、丁寧に、だね」
微笑んで顔を上げた陽子の目に、意外なほど真面目な楽俊の表情が映った。
「楽俊?」
呼ばれた青年が、ん、と笑う。
「やっぱりお前はすごいな、陽子」
「すごいって……なにが?」
きょとんと見返す少女に、楽俊が破顔した。
「わからなくっていいんだ。陽子はそのままでいろな」
「なにそれ、わからないよ、楽俊」
眉を寄せる陽子の頭を、彼女のそれよりひとまわり大きな手が撫でる。
陽子はいつだって前を向いて歩いている。
迷いながら、悩みながら、それでも歩くことはやめない。
きっと、と楽俊は思う。
彼女に統べられる慶の民は幸せだろう。
かの国の王は、民と同じ目線に立って考えることができる人なのだから。
「ねえ、どうかした?」
「いんや、なんでもねえ。さて、戻る前に街でなにか食っていくだろ?」
「そりゃあ食べるけど……」
はぐらかされた陽子がぷうとふくれた。睨まれて、楽俊がわざとらしく余所を見る。
「なんだ、行かないのか? せっかく陽子のために安くて美味い店、探しといたんだけどなあ」
「行く!」
安くて美味い、と聞いて緋色の髪が飛び跳ねた。豪華で高価な料理よりも、下町の安くて手軽な
食べ物の方が好きなのは変わらないらしい。
満面の笑みを浮かべた次の瞬間、まんまとのせられたのがわかったのだろう。しまったといいたげな表情で卓子に突っ伏し、うう、とか唸っている。
「……どうせ私は単純だとか、思ってるだろう」
「なに、単純で悪いことねえさ。おいらだって単純だもんなあ」
まだ卓子にかじりつくような姿勢の陽子の頭を軽く叩く。
「そら行くぞ、陽子。早くしないと混んじまうからな」
あしらわれた風情の陽子は口を尖らせたものの、休みをもらった時間は短い。
なにより、わがままに付き合ってくれる友人相手に長くすねていられるわけもなく、よし、と声を上げて立ち上がった。
「じゃあご飯につられるとしますか!」
「おう、存分につられてくれ」
安いけどな、安いのが大事だよ。
そんな他愛ない応酬でも、直接交わせることが嬉しいから。
二人して笑いながら、堂を後にした。
なんか、当初の予定からずかずか離れて行ったのはなぜでしょう。
へんだなぁ。楽俊が陽子に手を取って字を教えるだけだったんだけど。
肝心のところが印象薄くてごめんなさい。あー、なんか淡白な文章なのはぜんぜん変わらんなー。
《永字八法》の名前をぽこりと忘れて、お習字習ってる同僚に聞きに走ったのは、ここだけの話。や、調べるの面倒だったもんで。
アニメではなにやら不可解な文字でしたが、壁先生が「かろうじて筆談は出来た」と言ってる所を見ると、ほぼこちらの文字と同じということでいいんでしょう。きっと。