雁州国首都、関弓山。
凌雲山の麓に広がる街よりやや高いところに位置する雁国大学。
ここは、雁各地や周辺国からよりぬかれた精鋭たちが集う、厳粛な学び舎である。
弓射場から池を巡り中庭へと続く瀟洒な回廊を、数人の学生が歩いていた。
今、弓射の講義が終わったのだろう、一同の顔には若干の疲れと開放感がある。
「お疲れさん、文張」
明るい茶色の髪の青年が、傍らを歩く灰茶色の髪をした青年の肩を叩いた。
文張と呼ばれた青年は、まったくだと言わんばかりの顔で溜息をつく。
「必修とはいえ、こればっかりはなぁ」
「そう嘆くなって。なんだかんだ言って、やっぱりお前飲み込み早いよ。最初から比べりゃ相当上達したぞ」
「……そりゃ、最初なんて酷いもんだったからな」
苦笑した青年が、同輩を見てにこりと笑った。
「少しでも上達したんなら、鳴賢のおかげだ。ありがとな」
よせって、と照れたふうな鳴賢が、文張---楽俊に指をつきつけた。
「おだてたって特訓はやめないぞ。お前、今日の講義はもうないんだろ。夕方馬術の練習しないか」
「ああ、ええと……ありがたいんだけどな。このあと友達が来るんだ。大学のなかを見学したいってんで、案内する予定なんだよ」
答える楽俊の黒い瞳が微妙にさまよったのに、鳴賢は気づいていないようで。
「なんだそうか。じゃあまたあとだな」
世話好きだが、けしておしつけがましくはない鳴賢は、あっさりと首肯して、俺は講義があるからと手をあげた。
気のいい友人に返礼すると、楽俊は回廊を外れ中庭の木立の下に座り込んだ。
晩春のうららかな陽光を、萌えたばかりの新緑がそこここで遮って、黄金と緑の紗幕のような光が降り注いでいる。
枝を渡る風はまだ涼しいくらいだから、疲れた体にはありがたい。
大きく息をついて楡の古木に背を預ければ、どんな豪華な寝台で横になるより心地良かった。
来訪の時間にはまだ間がある。すこしくらい休んでもわるくないだろう。
目を閉じていたのは一瞬のような気もしたし、かなりの間熟睡したような気もする。
ふとなにかの気配を感じて薄目を開けると、目に染みるような緋色の糸が視界に入った。
自分を覗き込むようにしているのは、簡素な袍を身につけた、翠の瞳の少女。
長い緋色の髪が、端麗な貌を艶やかに彩っている。
「---楽俊、目が醒めた?」
降ってきたのは、微かに笑いを含んだ、柔らかい声。
「……陽子?」
甘い半睡のなか、まだぼんやりしている頭で、ええと、と考える。
陽子が来ている。
ということは。
「うわ、おいら寝てたのか?!」
一気に覚醒して慌てる青年を、緋色の髪の少女が笑って押しとどめた。
「大丈夫、楽俊は寝過ごしてないよ。私が早く着きすぎただけなんだ」
「そうか、ならいいけど……」
どうやらたいして時間はたっていないらしい。太陽はさっきとあまりかわらない場所にある。
立ちあがって、楽俊は頭をかいた。
「正門まで迎えに行こうと思ってたんだが、その前にちょっとと思って座ったら、寝ちまったらしい。かんべんな」
「私のほうこそ、起こしちゃってごめん。勉強で疲れてるんじゃないのか?」
すまなげな少女に首を振る。
「いんや、そうじゃねえ。さっきまで弓射の講義だったんだ。だから、言ってみれば緊張疲れってやつだな」
「ああ、それで人の姿なんだ」
得心がいったらしい陽子が笑った。
彼女は、楽俊が半獣であることになんのこだわりもない。
海客---蓬莱育ちであるがゆえに偏見の先入観がないといえばそれまでだが、むしろ半獣のいない世界から来た身でありながらここまで気に留めないというのも面白い。
『鼠でも人の姿でも、楽俊は楽俊だ』
陽子はいつもそう言って微笑む。
姿なんか関係ない、と言い切れるのは、陽子が自分というものを持ち、自然体で相手の存在を受けとめることができるからなのだろう。
半獣であることが辛いと思わないが、どんな自分でも受け入れてくれる相手がいるというのは、不思議と安堵するものなのかもしれない。
「どれくらい寝てたんだろうな。陽子はいつ来たんだ?」
「ん、ほんのちょっとまえだよ。気持ちよさそうに寝てたから、起こすのもどうかと思ってね」
「別に、声かけてくれて良かったんだぞ」
「だって、楽俊の寝顔なんてそう見られるものじゃないし、堪能しておこうかなと」
「堪能って」
楽しそうに笑われて、楽俊は額を押さえた。
天真爛漫といえば聞こえはいいが、どうもこの少女は人並みはずれたことをするきらいがある。それは彼にとってけして不快ではなく、むしろ向けられる好意を嬉しいとは思うが、いい年をして呑気な寝顔を見られるのは気恥ずかしいことこの上ない。
まあ陽子のこういうところは今に始まったものではないから、あとは慣れるしかない。やれやれと頭を振った。
「それにしても、よくおいらの居場所がわかったな。探したのか?」
「いや、班渠が教えてくれたんだ。楽俊が木の下で昼寝してるって」
うわぁ、と思わず天を仰いだ。
陽子の足元で、微かにくぐもった笑い声がする。
「昼寝しているとは申しませんでしたよ。お休みですと申し上げたはずですが」
笑い含みの使令に咎められて、陽子が口を尖らせる。
「裏切り者」
「こら」
斜め上から叱れば、ぺろりと舌を出した。上目遣いで青年を見る瞳が笑っている。
「楽俊が寝てたのは本当だろう?」
まあな、と笑って楽俊は歩き出した。
「さて、受付に申請はしてきたんだろ? どこから見たい」
「どこからでも!」
顔を輝かせて笑う少女につられて、思わず声をあげて笑った。
雁国の大学内が見学可能かどうかは、存じ上げません・笑
一つのお題ですが、視点が変わるので3連・おまけの4段構成になります。