夕焼けの下で
昨晩のうちに月は変わり、はや6月。
眩しかった新緑の季節が過ぎ去っていくこの時期に、私は第3学生寮の3階、自室で自主学習に励んでいた。
3日間の寮謹慎。それが士官学院生でありながら、無断飲酒に走った私に下った処分だった。
サラ教官は見て見ぬ振りをするつもりだったようだが、それでは納得がいかない。これはけじめだ。
朝焼けがまだ眩しい早朝に教官室へと足を運んだ私は、誰よりも早く出勤していたハインリッヒ教頭に、事のあらましを説明した。
すぐにサラ教官も呼び出され―――ホームルームの時間まで有難いお説教をお見舞いされた。
私が勝手にしたことで、サラ教官には何の関係もない。
学生であり当事者である私が何度そう説いても、教頭の耳には入らなかった。当然の反応だ。
サラ教官は「気にしないで」と言ってくれたが、流石に無理がある。
―――とはいえ、ある意味で自業自得な部分もある。
「冷蔵庫にあったサラ教官のお酒を勝手に拝借した」と告白した瞬間、教頭の目の色が変わった。
その時に初めて知ったことだが、学生寮では立場に関係なく飲酒は厳禁だそうだ。
要するに、サラ教官は日常的に学生寮の規則を破っていたことになる。
何というか・・・・・・本当に極端な人だ。昨晩は母性溢れるその姿に涙したというのに。
迷惑を掛けたことは謝るが、その点に関しては「知りません」としか言いようがない。
「・・・・・・ふう」
エマが貸してくれた参考書にペンを置き、目元を擦る。
時計に目をやると、午前の11時を指していた。
(そろそろ3時限目が終わる頃かな)
私以外の《Ⅶ組》メンバーは、既にいつもと変わらない日常に戻っている。
第3学生寮には、私以外誰もいない。ある意味新鮮で、勉強が捗る環境だ。
昨晩、私がフィーと一緒に寝息をたて始めていた頃。
この第3学生寮は珍しく喧騒に包まれていた。
『アヤがどこにもいない』
きっかけはガイウスだ。
門限が過ぎても部屋に戻らない私を心配して、危うく騒動になり掛けていたそうだ。
フィーの部屋にいる可能性を見過ごすあたり、皆の焦り具合が窺える。
結局彼らがフィーの部屋に足を踏み入れ、目に飛び込んできたのがベッドですやすやと眠る私とフィーだったらしい。
あられもない姿でフィーに頬擦りをかましながら眠っていたそうで―――思い出したくもない。
昔から酔った勢いで眠ると、衣服を脱ぎ捨てる癖があった。理由はそれ以上でも以下でもない。
事情を理解した私は、昼間の件を含めて皆に謝罪し、皆もそれを受け入れてくれた。
予想はしていたが、お人好しと呼ぶには彼らは純粋に優しすぎる。
あれだけ迷惑と心配を掛けたというのに、以前よりも皆との絆は深まったようにすら思える。
それが、昨晩の出来事だ。
「・・・・・・もう少し頑張ろう」
昼時前ということもあり空腹感を覚え始めていたが、お昼ご飯にはまだ少々時間が早い。
皆もまだ授業中の身なのだ。私ももう少し、机に向かっておこう。
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昼の12時半。3階から階段を下っていき、そのままの勢いで2階の手すりに両手を掛ける。
「よいしょっと!」
勢いよく柵を飛び越え、衝撃を和らげるために全身を使ってつま先から着地する。
よし、100点満点―――そう自己評価していると、目の前から人の気配を感じた。
「あれ、マキアス?」
誰もいないと思いきや、1人いた。
眼鏡がやや傾き、呆気に取られた表情で頬を引き攣らせている。
いつからそこにいたのだろう。階段を下りる音で気付かなかったのだろうか。
「き、きき、君はまたそんな・・・・・・少しは恥じらいを持ちたまえ!」
「ごめんごめん、少し身体を動かしたかったからさ」
心なしか、顔が赤い。視線を合そうともしてくれない。
そこまで怒らなくたっていいだろうに。
「それで、どうしたの?忘れ物?」
「む、僕が忘れ物などするわけないだろう」
そう言ってマキアスが私に差し出したのは、数冊のノート。
表紙には、彼の名前が整った字で記されている。これは彼のノートに違いない。
「え、何?」
「午前中の分だ。中間試験まであと2週間しかないんだぞ?1日でも授業に遅れを取ると、君の場合致命的だろう」
察するに、午前中の授業で使ったノートなのだろう。
以前も見せてくれたことがあった。彼のノートは何も知らない他人が見ても、授業の内容をおさらいできる程の完成度を誇る。
「早く受け取りたまえ」というマキアスの言葉に従い、私はありがたくそのノートを受け取った。
「ありがとう。すごく助かる」
「汚さないでくれよ。くれぐれも物を食べながら使わないように。くれぐれも、な」
「わ、分かってるよ」
私にノートを手渡すと、マキアスは踵を返し寮を後にした。
これだけのために来てくれたのか。相変わらず面倒見のいい副委員長だ。
私は一旦部屋に戻り、マキアスのノートを学習机に置いてから再び2階に下りる。
・・・・・・さっきは中々気持ちがよかった。
だから、もう一度だけ。マキアスには悪いが、別に誰にも迷惑は掛からない。
勢いをつけて宙を舞い、再び1階へと華麗に着地する。
イエス、120点満点―――そう一人ごちていると、再度前方から人の気配を感じた。
「・・・・・・何してるの、アヤ」
「ぽ、ポーラ?」
腕を組みながら玄関の前に立っていたのは、同じ馬術部のポーラだった。
これは驚いた。彼女をこの第3学生寮で見るのは初めてのことだった。
「どうしたの、こんなところで」
「どうしたもこうしたもないわよ。謹慎中って聞いたから様子を見に来たんだけど・・・・・・ていうか丸見えだったわよ」
「何が?」
「まぁいいわ。意外に元気そうじゃない」
そう言ってポーラは腰に手をやりながら、大きく溜息をついた。多分、安堵の溜息だろう。
私が謹慎中の身であることを知っているのは、同じ《Ⅶ組》の生徒だけだと思っていたのだが。
彼女がそれをどうやって知ったかは分からないが、いずれにせよ無用な心配を掛けてしまったようだ。
「私は普段通りだよ。ごめん、変な心配させちゃって」
「いいわよ。それで、どうしてまた謹慎なんて―――」
ガチャリ。
ポーラが言い終わる前に、彼女の背後の玄関の扉が再び開かれた。
こんな時間にまた来客か。そう思っていると、そこから現れたのは―――これまた意外な人物だった。
「・・・・・・何故お前がここにいる」
「・・・・・・アンタこそ何してんのよ」
深々と溜息をつくユーシスと、腕を組みながら目を細めるポーラの間に険悪な空気が立ち込める。
相変わらずな仲がお悪いことで。こんなところで火花を散らさないでほしい。
「えっと、ユーシス?どうしたの?」
「フン、貴族の義務として頭が足りない民草に手を差し伸べようと思ってな」
突然何を言い出すんだ。よく分からないが、ひどく失礼なことを言われた気がする。
そう思っていると、ユーシスは無言で私に向かって何かを放り投げた。
「わわっと・・・・・・え?」
「俺達のクラスから赤点者など出すわけにもいかん」
「こ、これって―――」
表紙には、マキアス以上に達筆な文字で記された、ユーシスの名前。
冊数まで同じだ。間違いない、これは―――ユーシスのノートだ。
「・・・・・・あはっ」
「何?」
「あはは、あはははっ!」
ユーシスとポーラが怪訝な表情で見詰めてくる。
勘弁してほしい。これは何の冗談だ。
息が合いすぎている。何から何まで一緒じゃないか。
「おい、ノートを返せ」
「ご、ごめんごめん。ありがたく受け取るよ、うん。絶対参考にするから」
「わけが分からん・・・・・・」
こみ上げる笑いを堪え、じわりと目に浮かんだ涙を拭う。
ポーラはといえば、鳩が豆鉄砲を食ったような表情でユーシスを見詰めていた。
無理もない。普段のツンツンした彼を見慣れている彼女からすれば、到底信じられない光景だろう。
でも私には分かる。こっちが本当の、素のユーシスに違いない。
「あ、そうだ。ポーラ、ちょっと待ってて」
「え?」
私は急いで3階の部屋に戻り、棚の上に置いてあった袋を持って2階に下りる。
あまり待たせても悪い、そう思って私は三度柵を乗り越え、1階に降り立った。
「150点満点―――ん、文句なしだね!」
「あ、アンタねぇ。さっき言ったこと忘れたの?」
「何が?」
「ああもう。あいつがいたらどうするつもりだったのよ」
あいつ。ユーシスのことだろうか。
そういえば、いつの間にか彼の姿が見えない。
「あれ、ユーシスは?」
「アヤの後を追うように2階にいったわよ」
「嘘、全然気付かなかった」
「それで、何それ?」
ポーラは私の右手の袋を指差しながら言う。
そうだった。私はこれを取りに3階へ戻ったのだ。
「そうそう。これ、セントアークのお土産。部のみんなで分けてよ」
「あら、気が利くじゃない」
セントアーク駅の売り場で購入したものだった。
ホワイトラングドシャの詰め合わせ。白亜の旧都に因んだ純白の包装に目を惹かれて選んだものだった。
そこまで立派なものじゃないが、皆で分ける分には都合がいいだろう。
私がポーラに袋ごと手渡すと、2階から階段を下る足音が聞こえてきた。
「・・・・・・ねぇ、これアイツにも分けなきゃ駄目?」
「あ、あはは。できればそうしてほしいかな」
「何だ、それは」
「べっつに。あーあ、アンタにもこういう気遣いができれば私だって―――」
ポーラの言葉を遮るようにして、ユーシスが手にしていた書籍らしきもので彼女の頭をペシペシと叩いた。
「ちょ、ちょっと!何すんのよ!」
「そんな荒々しい気性では乗馬なんぞ到底無理だと思ってな」
余計なお世話よ。ポーラが言うと、ユーシスは手にしていた本を彼女の胸元に放った。
「・・・・・・何、これ」
「フン、俺が幼少の頃に使っていたものだ。お前にはお似合いだろう」
ポーラの手元を覗き込むと、表紙には『馬術指南書・初級編』の文字。
大分古びているように見える。幼少の頃に、という台詞と合わせれば、これはユーシスの私物なのだろう。
そういえば、特別実習中に彼は実家に足を運んだと聞いていた。
もしかしたらその時に持ってきたものなのかもしれない。
「へー。わざわざポーラのために?」
「勘違いするな。こいつに翻弄される馬が不憫で見ていられんだけだ」
ポーラはしばし目を丸くしたまま手元の本の中身を確認すると、少々納得がいかないような表情を浮かべながらも、ユーシスに向き直った。
「一応、お礼は言っておくわよ」
「いらん。勘違いするなと言っただろう」
「ていうか乙女の頭を叩くなんて最低、信じらんない」
「・・・・・・乙女だと?」
「何か文句あるの!?」
ありがとう、どういたしまして。
その一言二言で済ませてしまえばいいのに、この2人にはどうも無理そうだ。
結局、玄関の前で他愛もないやり取りを散々繰り広げた後、2人は第3学生寮を後にした。
思わず笑みが零れる。
《Ⅶ組》以外でああやってユーシスと気兼ねなく話せる存在は数少ない。
他意はないが、それでもポーラが彼と同じ馬術部に来てくれてよかった。
・・・・・・今のところは憎まれ口しか交わしていないが。
それでも、いつか分かり合える日が来ると私は思う。
「さてと、何食べよっかな」
本当ならキルシェにでも食べに行きたいところだが、あいにく私は謹慎中の身だ。
それに食堂を贅沢に独り占めできるのも、今日ぐらいのものだろう。
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第3学生寮の屋根上。体操座りをしながら、眼下に広がるトリスタの街並みを見下ろす。
考えてみれば、こうして自由行動日でもない『平日』のトリスタを味わったことは一度もなかった。
時刻は午後の17時半。眩しかった日差しが、暖かな赤みを帯びた夕焼けとなる時間帯だ。
キルシェの前では、ドリーさんが箒で店先の履き掃除をしていた。
中間試験が近いということもあり、先週から手伝いを自粛している。
試験が終わったら、また手を貸してあげよう。
ガーデニングショップの前に立つ女性は―――店主であるジェーンさんと、美術部のリンデだ。
ガイウスの言葉を信用するなら、彼と彼女はいい関係を築けているとのことだ。
今のところ、私が知る限りでは《Ⅶ組》以外でガイウスと親しい人間は彼女しかいない。
これからも弟を宜しくお願いしたいところだ。
中央広場に目をやると、ベンチの上で寝転がる銀髪の少女の姿があった。
遠目で見ても分かるぐらい、気持ち良さげな寝息を立てているのが分かる。
物は試しとばかりに、少々殺気立った視線を浴びせてみる。
途端にフィーは跳ね起きるようにして臨戦態勢を取り、鋭い視線をこちらに向けてきた。
その対象が私と分かるやいなや―――眉間に皺を寄せながら、不機嫌そうな表情で頬を膨らませていた。
少し遊び心が過ぎたようだ。後で彼女には謝っておこう。
「そんなところで何をしているんだ」
クスクスと小さい笑い声を上げていると、低く落ち着き払った声が下方から聞こえてきた。
「・・・・・・そっちこそ。そこ、私の部屋なんだけど」
「開いていたからな」
「勝手に入んないでよ」
「君は俺の部屋に勝手に入るだろう」
そのまま返さずに様子を窺っていると、屋根の軒先に両手を掛け、私がいる屋根上へとガイウスがよじ登ってきた。
「どうしてここにいるって分かったの?」
「下から見えたからだ。屋根の上に登れるとは思ってもいなかったぞ」
当然のことだが、屋根に繋がる道があるわけではない。
今し方ガイウスがしたように、窓から力任せに無理やりよじ登っただけだ。
謹慎中とはいえ、流石に部屋に閉じこもってばかりでは息が詰まる思いだった。
屋根の上がセーフかどうかは分からないが、少なくとも第3学生寮の敷地から出てはいない。
「士官学院の方はどうだった?」
「変わりない。試験が近いということもあり、少々張り詰めた雰囲気ではあるがな」
「そう」
ガイウスは私の横に腰を下ろしながら返す。
彼は私に何も訊かない。
昨日のことも、昨晩のことも。訊かずとも分かるということだろうか。
「いい風だな」
「うん・・・・・・ねぇ、ガイウス」
「何だ?」
「その、ごめんね」
なら、私から切り出すまでだ。
私が謝罪の言葉を口にすると、ガイウスは首を傾げながら苦笑いを浮かべていた。
「謝られる覚えはないんだが」
「ほら、昨晩は色々心配掛けちゃったみたいだし。それに・・・・・・」
「それに?」
「考えてみたら、さ。私、姉らしいこと1つもしてあげたこと、ないなぁって思って」
昨晩感じたことを、そのまま口にした。
元々は1人っ子だった身だ。姉らしさの何たるかが分かるわけではない。
シーダにリリ、トーマとはいい関係を築けているつもりだし、ガイウスとだってそれは同じだ。
それでも・・・・・・彼には、いつも気苦労ばかり掛けている気がする。士官学院に入学してからは特にそうだ。
「だから何ってわけじゃないけど、それが少し申し訳ないっていうか」
「・・・・・・フフッ」
「まぁ元々私が・・・・・・って、ガイウス?」
違和感を抱き、恐る恐る俯いていた視線を戻すと―――ガイウスは口元に手をやりながら、笑いを堪えていた。
すぐに彼は耐え切れなくなったようで、後ろ手に両手をつき、上空を見上げながら大きな笑い声を上げ始めていた。
(あ―――)
思わず目を奪われた。
彼がこんな風に感情に身を任せて笑い声を上げる姿なんて、普段は目にすることができない。
それが何だか新鮮で、嬉しくて―――名前の知らない感情がこみ上げてくる。
「ちょ、ちょっとぉ。何でそこで爆笑するの?」
困惑しながらも、それを悟られないようにしてガイウスに投げ掛ける。
彼も笑いのピークを過ぎたようで、目元に浮かんだ涙を拭いながら口を開いた。
「す、すまない。いや何、らしくないと思ってな。そんなことを考えていたのか?」
「・・・・・・そんなことって、アンタねぇ」
これでも真剣に悩んでいた身だ。
それを「そんなこと」で済まされては少々納得がいかない。
「なぁアヤ。俺達が初めて出会った日のことを、覚えているか?」
「え?」
勿論覚えている。忘れるわけがない。3年と2か月前の、あの日。
すぐにでも彼にそう返したかったが、口から出かかった言葉を飲み込み、代わりとなる答えを選んだ。
「胸触られてキスされた日のことでしょ。忘れるわけないじゃん」
これは先程のお返しだ。精々困り果ててしまえ。
私の狙い通り、彼は顔を赤らめながら明後日の方角を見て「変な言い掛かりはよしてくれ」と力なく呟いた。
彼の言うように、あれは不可抗力だ。命の恩人に掛ける言葉ではない。
「それで、それがどうかしたの?」
「・・・・・・あの時の君は、酷い顔をしていたな。まるでこの世の全てを呪っているかのようだった」
「死んでもいいって本気で思ってたからね」
「今もそうか?」
「冗談言わないでよ」
「なら、それでいい」
ガイウスの後頭部にぴったりと夕陽が重なり、後光が差しているかのような錯覚に襲われる。
そのせいで彼の顔が影になってしまい、表情を窺い知ることができない。
「これからも笑って生きてくれ。それだけで十分だ」
歯が浮くような台詞をこうも堂々と。笑い飛ばしてやろうか。
そんな悪戯心を抑えて、私はたった2文字の言葉を口にした後、屋根の上に寝そべった。
「うん」
笑って生きる―――私がそうすることで、彼は何を思うのだろう。
再び心の底から湧き上がってくる不思議な感情に蓋をして、私はトリスタの夕焼けをぼんやりと眺めていた。