絢の軌跡   作:ゆーゆ

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もう1人の私

本校舎の北東に位置する本会議室は、1階のどの部屋よりも広い。

高級感溢れるダークブラウンの会議テーブルが中心を囲っているが、それでも周囲にはまだ大分スペースに余裕がある。

普段は教職員のみに使用が限られているせいか、こうして席についているだけで緊張してしまう。

それに・・・・・・若干タバコ臭い。

マカロフ教官は会議中まで喫煙しているのだろうか。

 

「ありがとうございます。調書取りの方は、これぐらいにしましょう」

 

勿論、この場にマカロフ教官はいない。

テーブルを挟んで私達B班の前に座るのは、鉄道憲兵隊の女性幹部、クレア・リーヴェルト大尉だ。

年齢はサラ教官と同程度だろうか。

女性の身でありながら幹部クラス、それでいて容姿端麗―――正直、前者がどうでもよくなる程に見惚れてしまいそうになる。

 

「ケルディックでの件といい、皆さんには助けられてばかりですね。流石は特科クラス《Ⅶ組》の生徒達です」

「い、いえいえそんな。先月は僕達の方こそありがとうございました」

 

「ケルディックでの件」とは先月の特別自習、ルナリア自然公園での一件だろう。

こちらからすれば、危うく不当に身柄を拘束され掛けたところを救ってくれたのが彼女達だ。

エリオットが言うように、助けられてばかり、というのは同意しかねる。

 

「流石は《Ⅶ組》の生徒、ね。それには同意だけど、それだけで済まそうってんじゃないわよね」

 

含みのある物言いで冷ややかな視線をクレア大尉に浴びせるのは、サラ教官。

その口調からハッキリと分かる。彼女は怒っている。

後ろでまとめられた赤髪が、心なしか逆立っているようにも見えた。

 

「あたしの生徒が『ちょっとしたゴタゴタに巻き込まれた』って言ってたわよね。どの辺がちょっとなのかしら。アンタどういうつもり?」

「・・・・・・申し訳ありません。サラさんには無用な心配を掛けたくなかったんです」

 

そもそも何故本校舎の会議室で調書取りが行われているかと言えば、それはサラ教官の計らい―――というより、超強引なゴリ押しによるものだ。

 

大型魔獣の襲撃に何とか耐えきった私達は、程なくして駆けつけた鉄道憲兵隊に保護され、魔獣も彼らの手により排除された。

列車内に取り残された乗客達も救護バスにより無事帝都まで送り届けられ、特に負傷者もなく事態は収束に向かっていった。

 

私達はといえば、ヘイムダルの運輸指令所と列車無線でやり取りをしていたこともあり、事情聴取のためヘイムダル駅での待機を命じられていた。

いたのだが、サラ教官からARCUSを介して直々に命令が下ったのだ。

 

『そんなの無視していいから早く帰ってきなさい。責任は全てあたしが持つ』

 

結局クレア大尉からも同様の指示があったようで、私達は戸惑いながらも2日振りの士官学院に足を運んだ。それが約2時間前の出来事だ。

振り回される方の身にもなってほしいが、クレア大尉のやり取りを聞いて、漸くサラ教官の胸中が垣間見えてきた。

根本には、彼女なりの優しさがある。これはこれで悪い気はしない。

 

「無用な心配って・・・・・・ふざけんじゃないわよ。一歩間違えれば大参事だったのよ?分かってるの!?」

「重々理解しています」

「鉄道憲兵隊ともあろう精鋭部隊がついていながら、あたしの生徒に何かあったらどう責任を―――」

「だから私が直接出向いたのです」

 

クレア大尉は席を立ち、軍帽を下ろしながらテーブルの前、私達の目の前に立った。

 

「代表して、感謝の意を表します。皆さんの冷静且つ機敏な行動により、最悪の事態を免れることができました。後日、軍からは正式に謝意表明があるでしょう・・・・・・どうか誇りに思って下さい」

 

(うわー・・・・・・)

 

身に余る光栄とはまさにこのことだ。

正規軍から直々にとなれば、一躍有名人になりかねない。

 

「何とも面映ゆいな」

「だね。私には勿体無いっていうか・・・・・・食べ物とかでいいんだけどな」

「あなたは少し黙ってなさい」

 

私達のやり取りを聞いていたクレア大尉が、口元に手をやりながらクスクスと笑う。

と思いきや、その表情は次第に真剣なそれへと変わり、再び軍帽を身に付けながら口を開いた。

 

「同時に、件の責任は私達鉄道憲兵隊にあります。それを真摯に受け止め、再発の防止に全力を尽くしましょう・・・・・・サラさん」

「何よ」

「いい生徒さんですね」

「知ってるわよ・・・・・・さっきは言葉が過ぎたわ。ほら、用が済んだらさっさと行きなさい。こっちも暇じゃないのよ」

 

サラ教官が右手をヒラヒラと動かしながら退室を促す。

確かにこの後には、特別実習の報告会が控えている。そこまで時間を取ることはできない。

 

「大尉殿、1つだけ宜しいでしょうか」

 

会議室を後にしようとしていたクレア大尉を、ラウラが呼び止める。

もしラウラがそうしなければ、私が呼び止めていたところだ。

 

「何ですか?」

「今回の一連の騒動・・・・・・真相は、一体どこにあるのだ?」

 

ラウラの一言で、緩み掛けたその場の空気が張り詰めた。

 

突然意識を失った列車の車掌に整備員、そして鉄道憲兵隊。

魔獣除けの導力機が作動していなかったことも含め、不可解な点が多すぎる。

まず間違いなく、今回の騒動には人為的な原因があり、そして『犯人』がいるはずなのだ。

 

「それをこれから調べるんでしょ。今問いただしたところで、何も出はしないわよ」

 

意外なことに、一番クレア大尉に詰め寄っていきそうなサラ教官が、半ば諦めたように言った。

結局クレア大尉は会議室を後にし、サラ教官は時計の針を確認しながら今後の予定を話し始めた。

 

「ゆっくりしてる時間は無いわね。16時から教室でA班の報告会、君達B班はその30分後にしましょう。何か質問は?」

「分かりました。・・・・・・その、サラ教官」

「何?」

「教官には、思い当たるところがあるんですか?」

 

アリサが単刀直入に問いただすと、サラ教官は「あくまで可能性に過ぎない」と前置きを置いてから言った。

教官曰く、それは私達でも考えれば必ず行き当たる存在だという。

そんなことを言われても、少なくとも私にはまったく心当たりがない。

列車の乗客全員の命を脅かすなんて、テロ行為とも呼べる大犯罪だ。

 

「そうね・・・・・・なら、君達もA班の報告会に参加しなさい」

「私達もですか?」

「彼らが経験した事態も、『本質的には同じ』なのよ。犯人達の目的を、よく考えてみることね」

 

サラ教官はそう言いながら会議室を後にし、私達B班だけが取り残された。

しばらくの間、誰もが眉間に皺を寄せながら口を開くことはなかった。

 

「犯人達の目的って・・・・・・何?列車を危険に晒すことじゃなかったの?」

 

結局のところ、私にはそれしか浮かばない。

列車の運行に関わる全員の意識を、何らかの方法で奪い去り混乱を生じさせる。

ついでに魔獣の脅威のダメ押しだ。私達が目にした現象は、それだけだった。

 

「待ってくれ。それなら、乗客の命を奪うつもりは無かったということか?」

「・・・・・・ガイウス、それどういう意味?」

「ふむ。要するに混乱を生じさせることが目的であって、命を奪うことまでは考えていなかったということか」

 

そう言われてみれば、同じことを言っているようでまるで異なる意味合いになる。

事実、今回の騒動で負傷者は1人も発生していないのだ。

とはいえ、相当際どい状況だったことも確かだ。

大型魔獣に襲われた時は、どう転んでもおかしくはなかったはずである。

 

「僕もそう思うけど・・・・・・もしかしたら、あれは犯人達も想定外だったんじゃない?あんな魔獣に列車を襲わせるなんて、人の手でできることじゃないはずだよ」

「じゃあやっぱり、ラウラが言うように混乱を引き起こすことが目的だったってこと?」

「目的じゃなくて、手段と言った方が分かりやすいかもしれないわね。一連の騒動の先にある何かが、おそらく犯人達の目的なんじゃないかしら」

「・・・・・・もう少し分かりやすく説明してよ」

「そこまで難しいこと言ってないじゃない・・・・・・」

 

アリサ曰く、今回の事件で最も不利益を被るであろう存在。

それが犯人達の標的であり、犯人を辿る大きな手掛かりになり得るそうだ。

 

「・・・・・・鉄道、憲兵隊?」

 

思うがままに、行き当たった存在を口にする。

先程のサラ教官とクレア大尉のやり取りを見れば、容易に想像はついた。

正規軍の精鋭部隊がついていながらも起きてしまった今回の騒動。

クレア大尉が言うように、責任の所在は当然鉄道憲兵隊へと向けられてしまう。

 

「なるほどな。事の大きさから考えて、今回の騒動が帝国中に広まることは回避できぬであろう」

「当然、鉄道憲兵隊への信用は少なからず失われてしまうってことね。一応辻褄は合うわ」

 

確かに辻褄は合うが、それでいくと犯人は鉄道憲兵隊と敵対する存在になる。

軍と相反する存在―――真っ先に思い浮かんだのは、猟兵団だ。

だがそれは考えにくい。『奴ら』があんなまどろっこしい手段を選ぶとは到底思えない。

 

「鉄道憲兵隊と・・・・・・」

 

クレア大尉の姿が頭に浮かぶ。

そういえば、彼女達と対峙する何者かの姿を、最近見たことが気がする。

あれは先月の特別実習、ルナリア自然公園で―――

 

「―――え?」

 

そんなわけがない。

そう思いながら4人の様子を窺うと、ガイウスを除いた3人、先月のA班メンバーと視線が交差した。

 

「いや・・・・・・でも、流石にそれはないよね」

「ぼ、僕もそう思うよ。だって手段が余りにも強引すぎるし」

「理屈は通るが、こじつけと言われればそれまでだろう」

「『貴族派』の陰謀、か。・・・・・・あくまで可能性に過ぎないわね」

 

もしかしたら、私達の推論はサラ教官のそれと同じなのかもしれない。

 

当たっていてほしくない、と切に思う。

いずれにせよ、考えるのはA班の報告を聞いてからだ。

サラ教官が言うことが正しいなら、そこに答えがあるはずだ。

 

壁に掛けられた時計の針は、午後の15時45分を指していた。

 

____________________________________

 

「―――以上で、俺達A班の報告を終わります」

「はい結構。お疲れ様」

 

時間にして約10分間程度で、リィンの報告は終わった。

要点が要領よくまとめられており、彼らが見聞きした全てが頭の中に思い浮かぶ感覚だ。

 

開いた口が塞がらなかった。

不当に身柄を拘束されたマキアスと、彼を奪還すべく牢獄に侵入したユーシスにA班一同。

そして大型魔獣との戦闘。

そこに思うところは勿論あるが―――それ以上に、突き付けられた現実を認めざるを得ない。

 

貴族派と革新派。

その対立の渦中に、私達B班も巻き込まれたのだ。確証はないが、確信はある。

サザーラント本線の帝都方面行き。当然、ハイアームズ侯爵家の家名が脳裏を過ぎる。

穏健派として名高い公爵家に疑いを持ちたくはないが、A班の話を聞く限り、貴族や領邦軍も一枚岩ではないようだ。

 

それに、別のところに真犯人がいる可能性だってある。

今回の事件を引き金にして、革新派への敵対心を煽る。あるいは、革新派への大胆な挑発と忠告。

いずれにせよキナ臭いことこの上ない。

 

この国は―――一体どこに向かっているのだろう。

 

「それで1つ質問なんだけど。この鉄扉の突破方法は何?」

 

サラ教官の声で我に返る。

彼女が言及したのは、リィンから配られた報告書の最後のページに記された項目だ。

そこには『爆薬による爆破で突破』と記されていた。

 

(ば、爆薬?)

 

流し読みしていたせいで気付かなかったが、確かにそこには爆薬という2文字があった。

 

「私がやった。それしか方法がなかったから」

 

抑揚のない声でサラ教官に返したのは、フィー。

 

「爆薬の携帯を許可した覚えはないんだけど」

「・・・・・・許可が必要なの?」

「あなたに認められているのは、双剣銃と閃光弾の類だけって言ったでしょう。・・・・・・リィン、ここだけ適当に修正しておきなさい。このままじゃ提出できないわ」

「りょ、了解です」

 

その立ち振る舞いから底が知れないとは前々から感じていたが、一体どこで爆薬の扱いなど学んだのか。

私と同じB班側の席に座るメンバーも怪訝な表情で―――ラウラだけが、皆とは少し違う色を浮かべていた。

 

「フィー君。彼らにも話しておいた方がいいんじゃないか」

「話すって、何を?」

「決まっているだろう。お前の過去についてだ」

 

フィーの両隣に座るマキアスとユーシスが、腕を組みながら声を掛ける。

何だかフィーを挟んで左右対称に見えてしまう。この2人の間には、既に以前のような険悪の雰囲気は鳴りを潜めていた。

 

「・・・・・・ん。そだね」

 

フィーは特に迷うような素振りも見せず、いつものように淡々とした声で告げた。

 

「こっちの4人にはもう話したけど、私以前、猟兵団にいたんだ」

 

(―――猟、兵?)

 

ドクン、と胸が激しく鼓動した。

突然、鼓膜が破裂したかのような感覚と耳鳴りに襲われる。

気付いた時には、腰を下ろしていた椅子を後ろに薙ぎ倒しながら―――壁に背中を預けていた。

 

「ど、どうしたのよアヤ」

 

聞こえていなかったのだろうか。フィーは今、確かに猟兵団と言っただろう。

 

「アヤ」

 

私を呼ぶ声で、耳鳴りが収まる。

吐き気を飲み込み、両目に浮かんだ涙を上着の裾で拭い平静を装う。

 

「ごめん、ガイウス。もう平気」

「・・・・・・俺は何も言わない。君自身の問題だ」

「うん、それでいい」

 

いつの間にか握られていたガイウスの手を離し、倒れていた椅子を起こす。

皆の視線が突き刺さるのを感じるが、今ならまだ誤魔化しが効くはずだ。

 

「みんなも、ごめん。ちょっと驚いちゃって」

 

私が笑みを浮かべながら言うと、張り詰めていた雰囲気が少しだけ和らいだようだ。

 

「あ、あはは・・・・・・無理もないよ、僕も驚いちゃったし。でもフィー、今の話本当なの?」

「ん。嘘は言ってないよ」

 

また胸がムカムカしてきた。

胃液が逆流するかのような感覚に襲われる。

 

「俺も驚いたよ。でも俺達にとって、フィーは大切な仲間の1人だ。そうだろう?」

 

何ていう甘さと軽さだ。

自分が言っていることの意味を理解しているのだろうか。

 

「僕が牢獄から脱出できたのは彼女のおかげだからな」

「フン、爆発に巻き込まれるのは御免だ。今後は控えてほしいものだが」

 

この2人もリィンと同じだ。

それで何が変わる。何も変わらないじゃないか。

 

「ええ。私達にとって、フィーちゃんはフィーちゃんです」

 

猟兵団は猟兵団だろう。

人殺しは―――人殺しだ。いい加減にしろ。

 

「冗談じゃないよ」

「・・・・・・アヤさん?どうしたんですか?」

「冗談じゃないよ!!」

 

どうしたもこうしたもない。

何も分かってない。何1つ分かっていない。

 

「みんな、本気で言ってるの?」

 

限界だった。多分、もう無理だ。

『もう1人の私』の声は、もう止まらない。

 

「猟兵団って、お金のために人を殺すような連中だよ。みんな、それを分かって言ってるの?わけ分かんない」

 

皆が呆気にとられた表情で私を見詰めてくる。

思った通りだ。誰も何も分かっていない。

それでよくさっきのような台詞を口にできたものだ。

 

「フィー、あなた人を手に掛けたことはないの?」

 

―――自制が効かない。フィーの無垢な視線が痛い。

胸がはち切れそうだ。お願いだから、さっさと収まってほしい。

 

「・・・・・・やめてください、アヤさん」

「それが生業でしょ。猟兵団ってそうでしょ。あんな奴らと一緒にいるだなんて考えたくもない」

「いい加減にしてください!!」

 

エマが大声を上げる姿など見たことがない。

眼鏡の先に映る彼女の目からは、紛れもない怒りの感情が見て取れた。

 

「何てことを・・・・・・どうしてそんな酷いことが言えるんですか!?」

「何それ?フィーの過去を見ない振りでもしたいわけ?」

「アヤさんこそ今のフィーちゃんを見てください!!」

「今がどうだろうと過去は変わらないよ!殺された人間は・・・・・・お母さんは生き返ったりしない!!」

 

エマが言葉を失い、口に手を当てながら後ずさる。

勘弁してほしい。話が逸れ掛けているし、もはや八つ当たりの域を超えている。

 

「何でみんな庇うの!?じゃあ返してよ!全部元通りにしてよ!!」

 

できるわけがない。死んだ人間は、生き返ったりはしない。

これは私じゃない。私はこんなこと言いたくない。

 

「返して!!お母さんを、伯父さんを、私を!!ユイを返して!!返してよっ!!」

 

いつの間にか、とめどなく溢れ出る涙で視界が塞がっていた。

 

「返してよっ・・・・・・返して。・・・・・・お母さん・・・っ・・・」

 

机に突っ伏す私の嗚咽だけが、教室に鳴り響く。

それが尻すぼみになるにつれ、居心地の悪い静寂だけが広がっていった。

 

漸く収まってきてくれた。傍から見れば二重人格だ。

相当に酷い顔をしているだろうが、その反面頭の中は冷静だ。

 

「・・・・・・B班の報告は10分後に聞くわ。アヤ、あなたはもういいわよ。先に寮へ戻ってなさい」

 

終始口を閉ざしていたサラ教官は、席を立ち一旦教室の外へと出て行ってしまった。

この場は私達に任せるということだろう。

 

なら、私もここにはいられない。もうこの教室にいてはいけない。

涙と鼻水を腕の袖で拭い、視線を合わせないようにして皆の前に立つ。

 

「・・・・・・ごめん、フィー。エマ・・・・・・みんな。私、先に行くね」

 

皆の顔を見るのが怖い。

この2ヶ月間で築いてきたものが、全て崩れ去ってしまった感覚だ。

 

足早に教室を去ろうとすると、アリサの声が後ろから聞こえた。

 

「待って、アヤ」

「何?」

「フィーも、アヤも・・・・・・何も変わらない。変わらないからね」

「・・・・・・そう」

 

アリサらしい。でも今は、優しい言葉を掛けられても返すことができない。

私なんかのために、彼女が気に病む必要などない。

後ろを振り向かずに、私は《Ⅶ組の》教室を後にした。

 

________________________________________

 

深く静まり返った教室の中で、誰もが身動き1つ取れずにいた。

そんな中、先程アヤが倒した椅子を立て直しながら、リィンがゆっくりと口を開いた。

 

「なぁ、ガイウス」

「何だ?」

「ガイウスは・・・・・・全部、知っているのか?」

 

3月31日の入学式。初めてこの教室に足を踏み入れたあの日から、ちょうど2ヶ月間が経つ。

その間に彼らが育んできた絆は決して浅くはない。

だが今となっては、誰もがそれを疑わざるを得なかった。

 

「俺の口から話すべきことじゃない。だが・・・・・・全て事実のはずだ」

 

アヤについて、リィン達が知ることは少ない。

帝国人と共和国人の両親から生を受け、クロスベル自治州で生まれ育つ。

そして3年前、彼女が16歳の時にウォーゼル家の養女となる。それだけだった。

 

「アヤが12歳の時と聞いている。母親と共に、父方の伯父を頼ってこの帝国を訪れた時の話だ」

 

そこから先を、ガイウスは敢えて語ろうとしなかった。

聞かずとも、アヤが発した断片的な言葉を繋ぎ合せれば、彼女の身に起きたであろう悲劇は容易に想像が付いた。

 

「ユイって、誰?」

 

それまで口を閉ざしていたフィーが、おずおずとした口調でガイウスに投げ掛ける。

 

「ユイは・・・・・・ユイ・シャンファは、アヤがその時に捨てた名だ。『アヤ』は母方の伯母の名を借りたと言っていた」

 

大切なのは今で、過去は関係無い。

聞こえはいいかもしれない。だが裏を返せば、全く別の意味合いになってしまう。

 

「気を悪くしないでくれ。これはアヤ自身の問題だ・・・・・・彼女ならきっと、乗り越えて戻ってくる。だからその時は―――」

 

迎えてやってくれ。ガイウスの言葉に返す者は、誰もいなかった。

《Ⅶ組》の最年長者が見せた、初めての顔。

後を追うことさえできない自分達の無力さに、誰もが苛まれていた。


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