魔法先生ツインズ+1   作:スターゲイザー

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第80話 完全なる世界

 

 

 

 

 

 壁に並んだ窓から柔らかな陽光が差し込んでいる。

 白いテーブルクロスが敷かれたテーブルの上には、から揚げやコロッケといった揚げ物が沢山並び、マカロニサラダのボウルがどでんと置いてある。子供が好きそうな油ものばかりだ。

 

「………………」

 

 兄弟の誕生日会に集まってくれた人達は誰もが笑顔で楽しそうで、違和感を感じているアスカだけがおかしいのか。

 状況だけ見ればとても楽しいイベントなのだけど、どうにも現実感がないというか、ずっと夢の中にいような気分。しかも微妙に居心地のよくない夢。

 違和感があったはずなのに、具体的なところは何も思い出せない。傾けた器から零れ落ちる水のように、サラサラと勢いよく失われていく。後に残されたのは、なんとも言い難いモヤモヤとした違和感だけ。

 

「紹介するぜ! 今日のサプライズゲストだ!!」

「?」

 

 皆が楽しく食事と会話を繰り広げる中で消えない違和感を抱えているアスカを熱に巻き込むように、一度部屋の外に出ていたナギ・スプリングフィールドが誰かの手を引っ張って戻って来た。

 

「ほら、早く来なって。いい年した年寄りが恥ずかしがってないでさ―――」

「分かったから引っ張るな、ナギ。後、誰が恥ずかしがっておるのかと」

 

 サプライズゲストが姿を見せる。その姿を見た時、アスカの心臓は間違いなく一瞬止まった。

 

「……あ、あ……!」

 

 喉が、胸が震えるのを感じた。熱いものが込み上げて、ガクガクと小刻みにアスカの芯が震え出す。

 忘れるものか。忘れられるものか。アスカ・スプリングフィールドがアスカ・スプリングフィールドであるならば、その声だけは絶対に魂の奥底から失われるはずがない。

 

「久しぶりじゃな、二人とも」

 

 ナギに力任せに引っ張られて部屋に入って来たのは一人の老人だった。

 着慣れない衣服にまごつきながらナギに文句を言いつつ、肩に一匹のオコジョ妖精を乗せて皆がごった返す室内に足を踏み入れる。

 

「スタンさん! カモ君!」

 

 のどかと談笑していたネギが一人と一匹の姿を見て椅子から立ち上がって名を呼ぶ。

 皆から注目されていたスタンは喜色満面のネギの姿に平静を取り戻して咳払いをした。

 

「ゴホン。お前達が修行を頑張っとることは二人から聞いておる。儂らはプレゼントを渡しに来ただけじゃ」

「へへ、俺っちも関わってることもお忘れなく」

「お前は大したことはしとらんじゃろうに、カモ」

 

 肩にオコジョ妖精のカモを乗せたスタンが後ろ手に何かを背中に隠しながら歩み出てアスカの前で立ち止まった。

 

「へへ、兄貴達。誕生日おめでとう。つまらねぇものだが、プレゼントだ。よかったら貰ってくれ」

 

 老人の肩から机に飛び下りたオコジョ妖精はスプリングフィールド兄弟を見遣り、魔法を取り出した包装された誕生日プレゼントを短い脚で二人の前に押し出す。

 

「誕生日、おめでとう。これは儂と村の皆からのプレゼントじゃ」

 

 そう言って背中から綺麗に包装された紙包みを取り出してアスカに差し出した。

 そうだ、違う。

 

「どうした、アスカ?」

「どうしたんすか、アスカの兄貴?」

 

 スタン、カモと順々に問いかけてくる。アスカは少しだけ目を鋭くして周囲を見回した。

 穏やかな毎日に、大切な人達。そこは確かにアスカにとっての理想郷なのだろう。だが、そこには何か、何かが決定的に足りないような気がした。

 

「あぁ…………ごめん。ありがとう、嬉しいよ」

 

 ずっと、強いとは何かを問い続けてきた。愚かな話だ。今の今まで己の弱さを克る事こそ、強さの道だと想っていた。

 人は自分という殻から、自分自身の運命から逃れることは出来ない。そも、変えるべきは運命じゃない。自分が変わらなければ願いを叶えたとしても未来に光は差すはずがない。されど、己とはどこまでいっても一人、如何に威を張り通そうとも越えられるものもまた己一つに過ぎぬ。アスカが本当に求めていたのは強さなんかではない。この当たり前の風景、幸福。これこそがアスカの欲しかったもの。

 改めて左右に視線を走らせる。

 明日菜がいて、ネギがいて、アーニャがいて、小太郎がいて、ナギがいて、アリカがいて、今まで出会って来た様々な人達が笑顔でアスカを見ている。イギリスのウェールズに住んでいるのに、わざわざ今日の為に日本に来てくれたスタンも、その肩に乗っているカモも笑顔だ。

 そうだ、確かにここは素晴らしい場所だ。だが、何時までもここにいることは出来ない。

 

「……………でも、受け取れない」

 

 だが、だからこそ今の(・・)アスカに受け取る資格はない。いや、受け取ってはいけない。

 ずっと無意識にこの光景を求めてきた。だげど、それは間違いだった。幸福とはただ求めるだけでは得られない。自分の手で掴み取らなければ意味がないのだと。

 

「はぁ!? 何言い出すんだよ、アスカ!!」

「ちょっとアンタ酷いよ!?」

「アスカ………」

「アスカ、どうした?」

 

 アーニャが明日菜が怒り、ネギとナギが心配そうにアスカの顔を困惑したように覗き込んでいた。

 

「ここは俺のいるべき場所じゃない」

 

 手を離したのならそれがどんなに辛くてもまた繋げばいい。手から零したのならどんなにみっともなくてもまた拾い集めればいい。もう過去の夢は量り尽くした。答えを恐れる日々はとうに過ぎた。振り返ってはいけない。無限の未来の可能性は決して誰にも量りえぬものなのだから。求めるならば実現せよと、そんな当たり前のことから逃げていた。

 

「ゴメン、行かなくちゃ」

 

 自らが作り出した大切な人達の模造品達を押し退けるようにして廊下に転がり出て、正面玄関に向かった。

 

「待つのじゃ、アスカ!!!」

 

 アリカの静止を無視して正面玄関に辿り着いてドアノブを回しても、鍵はかかっていないのに開かない。

 ドアを開けようとドアノブをガチャガチャと動かしているアスカの背後からざわざわと無数の足音が迫って来る。

 

「この開けっ!」

 

 体当たりをかましてみたがドアは開かない。腰の入った蹴りを見舞ってみたが、やはりビクともしなかった。

 

「止めろ。ここからは出られやしない」

 

 背後から妙に優しく、そのくせしてひどく乾いた男の声が掛けられた。

 振り返ったそこ、玄関からリビングにつながる廊下には先程まで誕生日会に参加していた大勢の影が犇めいていた。彼らの前に出て話しかけるのは、声と顔に怒りを滲ませたナギだ。

 

「ここにいるみんなで楽しい夢を見ているのに、どうしてお前は辛いこと哀しいことを思い出そうとするんだ?」

「恐れや苦痛の全てから解放されるのに、どうして出ていこうとする?」

 

 ナギとその横に並んだアリカが順に問いかける。アスカは彼らを見て、その後ろに並ぶ哀しみと怒りに染まっている人々に眼をやった。

 

「ここにいれば永遠の安らぎがある。心穏やかにすれば………………きっと素敵な夢を見られるはずだ」

 

 二人の間から進み出たスタンが言いつつ、アスカに向けて手を差し出す。

 

「ここから出てしまったら、儂達はもう二度と会えなくなるぞ。共に終わらない理想郷で過ごそう」

 

 生前と変わらぬスタンが静かに告げてきた。

 酷い現実から目を背けて生きられたら、どんなに楽だろうか。恐怖と焦りと、妬み、憎悪、嘲り、蔑み、数え切れぬ不快な想念から解き放たれて楽しい夢だけ見ていけたら、どんなに良いだろうか。望みさえすれば、それは手に入るのだと言う。

 しかし、それならばなぜこの世界で自分には『孤独』しか見えなかったのだろうか。

 

「アスカの兄貴ももう気づいているだろう。ここは現実世界じゃあない」

 

 スタンの肩に乗っているカモの言う通りだ。

 未だナギとアリカの居場所は分かっていない。スタンもカモも、現実世界では既に死んでいる。そんなことは少し考えれば分かることだ。そんな簡単なことに何故今まで気がつかなかったのか――――――――アスカが無意識の内に気づくのを拒否していたというわけか。

 再度、ドアを壊してでも外に出ようと振り向いた。だけど、腕を振り上げることが出来なかった。抑えるように肩を節くれ立った年輪を感じさせる手が掴んできたからだ。

 

「ここは現実ではない。だからここから外に出れば、アスカは二度とこの世界には戻って来れなくなる。儂は寂しい。何時までも一緒にいれぬか?」

「出来ない。俺はもう行かないといけないんだ」

 

 無論、手の持ち主が誰なのかは振り向かなくても分かる。その持ち主がどんな表情をしているのかも見なくても分かった。だからアスカは背後を見ようとはしなかった。見てしまえば決心が鈍るから。

 

「行くな、アスカの兄貴。行けば、きっと今以上に苦しむことになる」

 

 振り返ろうとしない背中にカモが声をかける。

 

「あんな、あんな絶望と不幸に満ちた世界のどこがいいんだ? 俺っち達と一緒にいるのはダメなのか?」

 

 この期に及んでの甘い囁きが極上の誘惑となってアスカの決心をどうしようもなく揺さぶる。

 

「違うよ。俺は、みんながいれば他には何もいらない。みんながいない世界なんかに行きたくはない」

 

 これもまたアスカの裡にある本音。

 目を閉じると、さっきまでの温かな空間が思い出される。許されるなら何も知らなかった頃に帰りたい。誰にも死なないでほしい。それでも、アスカはもう喪いたくない。

 

「なら、行くな。ここで儂達と一緒に永久に生きよう」

 

 そっ、と掴んでいた肩から手を離したスタンが優し気に言った。

 スタンが振り返ったアスカに向けて手を差し出す。それは甘露のように甘い誘いだ。だが、その手を掴むことは、アスカには出来なかった。

 

「違う、違うんだよ。俺の知るアンタ達は、そんなことを言ったりしない」

 

 その手を振り払うように、アスカは叫んだ。

 頭では分かっていても、本当は辛くて、分別も何もかも捨てて取り戻しておかないと後悔すると分かっていても拒絶する。

 

「俺は誓ったんだ。どんな時でも諦めないって! 誰にも負けないように強くなるって! ここで立ち止まったら、俺はみんなを裏切ることになるんだ! だから、俺は行かなきゃいけない!」

 

 アスカは答えを導き出した。スタンを見つめる瞳に、小さな炎が宿っている。

 

「じっちゃんもカモも…………死んだんだ。二人は俺の作り出した幻影に過ぎない。生きちゃあいない」

 

 現実は覆せないのだと自らに言い聞かせるように事実を口にする。

 

「こんな世界からは何時か覚めなくちゃいけない。俺達は現実を生きているんだ。夢は束の間だけでいい」

 

 生きることがどんなに残酷でも、その中から一つ一つ大切な宝物を探し出していく方がいい。生きている日々にこそ真実の幸せがあって、それ故に夢が生まれるのだ。

 

「夢は与えられるものじゃなく自分で見つけ出すものだ。この世界は間違っている」

 

 忘れてしまった夢もある。新しく見出した夢も、そっと胸に抱き続けている夢だって…………。

 アスカが決意を込めて言うと、カモが悲しそうに目を閉じた。

 

「残酷なことを言うじゃねぇか。俺っち達がこれほど言っているのに、アスカの兄貴はそれに応えてくれないのか」

「でも、ダメなんだカモ。だって、お前は本物のカモじゃない。俺の望みが生み出した紛い物に過ぎないんだから」

 

 アスカは血を吐くような思いで叫んだ。眼からは何時の間にか、涙さえ零れていた。

 カモの顔でそのように言われるのは、アスカとしては身が裂かれるように苦しかった。だが、それでもアスカの決心は変わらなかった。

 

「なぜ儂達が幻だと思うんだ?」

 

 流れる涙を服の袖で拭うアスカにスタンの冷静な声が問いかける。

 

「リアリティっていうのかな。現実って感じがしなかったていうか、望む全てがある世界―――――でも、そんなの俺の願望にしかありえなくて………幸せだったけど本当の幸福じゃない気がしたんだ」

 

 果たして死んだ人間を生き返らせるのは、どれだけの罪か。多くの人は言うだろう。「褒められたことではない」と。しかし、医者は人を治す。それは罪ではない。これもまた事実である。

 医者は、死を治療できない。最後の不可能が約束されているから許されている。不可能を可能にするのは、倫理を犯す罪だ。人を殺したり、かっぱらったりするのとはまた次元の違う話である。何故罪かと言えば、それが不可能で、不可能だから大事にしてきたものが山程あるからだ。それが完全なる世界でならば、擬似的(・・・)にだが可能である。

 完全なる世界は本気で、平和な世界を創ろうとしているのだ。誰もが悩みなく満ち足りて暮らせる、幸福な世界を。

 

「ここは幸福に満ちた世界だと思う。敵もいなくて、戦う必要も無くて。清明で温かな善意に満ち満ちた世界。でも、言い換えれば俺に都合の良い独善に満ちた世界だ。ここに他人はいない」

 

 他者の干渉、己以外の存在、自らの認識できない未知なる要素を排除して初めて、完全なる幸福は約束される。

 

「他人がいるから、自分よりも優れた者には嫉妬し、劣る者を侮蔑する。それが争いの元になる。完全なる世界は他者を排斥し、個人で完結することで幸福を達成する。」

 

 世界に他人はおらず、そこに自身以外の人間は己のために世界が用意した構成要因、歯車。他人がいるということは必ず軋轢を生み、反発が生まれ、争いが出来る。

 『夢』こそが人を駆り立て、未来を創っている。

 『夢』があるから、『願い』があるから、『希望』があるから―――――それらの『欲望』があるから。

 『夢』とは『欲望』の別の名だ。人はああしたい、こうしたいと、未来を願う。それに『夢』という美しい名をつけて愛でているのだ。『夢』は『欲望』。その結果は善とも、悪ともなる。進歩は人の命を救い、幸せを齎すのと同時に争いを生み出す。もっと多くをと望む心が他者を虐げ、戦いを引き起こす。

 殺し合い、憎み合う際限のない負の連鎖。血で贖い、切り拓いてきた人類の未来。

 自分は結局、何時も同じ事を繰り返しているにすぎないのか、とアスカの胸を虚しい想いが過ぎる。

 戦いたくないと思いながら、自分はまた戦おうとしている。これからやろうとしていることは、ただ自分の欲望の為に。人類の長き戦いの歴史を長引かせる行為でしかないのか。己の身勝手な思いの為に、この世界に訪れようとしている平和を阻害しようとしているだけではないか。

 『夢』があり、欲望から自由になれない限り、人は戦い続けるしかないのだろうか。

 誰もがみな、幸福に生きられる世界、戦争もない平和な世界。完璧でこれ以上の幸福ない世界。

 

「絶対的な一つの観念でありながら、そこを訪れた者それぞれに用意される閉塞世界――――――限定された天国こそが、この完全なる世界。対象の深層意識から読み取った理想世界を具現化するもの。そして当事者にとって、この世界は限りなく現実に近い。なのになぜ、その理想を自らを破壊しようとする?」

 

 スタンの、アスカの中にあるスタンの姿を模造した偽物が問いを投げかける。

 

「生きている。生きてきた。今まで色んな人に会ってきた。それは今までの世界だから出来たことだ。この楽園のような世界じゃ出来ない事だった」

 

 『幸福』の確定した世界に『夢』はない。最初から与えられ、それ故に過大な欲望は生まれず、生まれたとしても世界に否定される。お前が持つべきものはこれとこれ。それ以上は過分だと。その世界では、人は与えられたものの中でも満ち足りて生きる。

 

「幸福はあっても夢はなく、希望もない。ただ、幸福を続けていくだけの独善的な寂しい世界」

 

 そこは個人だけの満たされた自分だけの世界。同時に、夢、望み、希望を失う。決まった幸福からの逸脱など、その世界では許されない。死も許されず、一本のつながった円の道を回り続けるしかそこにはない。人は一人では生きていけない。なら、この世界で生きていると言えるのだろうか。

 

「俺は満たされたままの生に価値を見出せても、ずっとここにいたいとは思わない。夢を持つことが出来ず、ただ停滞した静けさの中で生きるなんて真っ平だ」

「だが、これはアスカの理想の世界のはずだ。どれだけ否定しようとも、ここはお前の深層意識が望んだ世界。争うことのない平和な世界で、家族や大切な人達と穏やかに過ごす日々。それがアスカの望んだ世界のはずだ。いったい、何が不満だ?」

「不満なんてないさ。だから、俺はこの世界にはいられない」

「良いのかい? この世界はきっと、これからアスカの兄貴がどれほどの頑張っても二度と手に入らない楽園なんだぞ」

「選べない。そんなことは絶対に出来ない」

 

 スタンとカモの懇願に応えるアスカの声は静かで殊更に大きいものではない。なのに、空間に深く広く響いていた。

 

「何故、と聞いても?」

 

 痛みを痛みとして感じる自分。苦しみを苦しみとして理解する自分。それをもし消し去ることが出来るのなら、こんなにも幸福なことはない。だけど、そんな楽園のような世界では――――――。

 

「そんな楽園にいたら、今の俺は俺でなくなってしまう」

 

 カモの問いに対する答えはちっぽけなものだ。

 人々が平和に、幸せに暮らせる世界が来ることを、自分も確かに望んでいる。だが、己の身に危険が迫れば、人はみんな戦う。それは生存するための本能だ。だから彼らは戦う。人の歴史は、そんな悲しい繰り返しだ。こんなことはもう終わりにしたい。殺し合いたいわけではない。戦わずとも人は生きていける。戦い続けなくとも人は生きていけるはずだ。

 

(目的が同じというなら、何で完全なる世界を否定するのか?)

 

 アスカは心中で疑問する。

 望みは同じ。だが、彼らの望んでいる世界とアスカの思い描くものは違う。

 

「途絶えることなく、移り変わることなく、まるで悠久の太古から続いているような――――――そう、まるで夢のような世界だ、ここは」

 

 「完全なる世界(コズモ・エンテレケイア)」は各人の願望や後悔から計算した最も幸せな世界を提供する。人生のどの時期であるかも自由、死も無く幸福に満たされた暖かな世界。

 都合の良い夢かもしれないが、あり得たかもしれない幸福な現実、最善の可能世界。見方によっては、これを「永遠の楽園」の実現と捉えることも出来る。そんな世界なら、もうあれかこれかと迷うことから解放される。目の前に選択肢がなくなるからだ。人は決められた幸福だけを与えられ、悩みから逃れる。

 

「絶対の幸福が約束された世界。ああ、誰もがこの世界で生きることを望むだろう」

 

 アスカもまた誘惑に駆られる。自分のしたことを、洗い流したくなる。全部、全部だ。

 己の手を見た。別段、それが血塗れになっているわけでもない。それでも緩やかに丸められた指は、それが成し遂げたことを物語っていた。きっと直接、間接的にアスカによって被害を被った者でなければ止める権利も義理もない。だけど、それをしたらアスカは人間ではなくなる。

 

「でも、この世界で生きているのは俺だけだ。他の全ては俺を幸福にするためだけの部品に過ぎない。一人で幸せになっても虚しいだけだ」

 

 「完全なる世界」とは文字通り完全であるために主人公たる自身以外は虚構である。そして主人公たる自身は世界を構成する部品(パーツ)。それが本当に人間と言えるだろうか。

 いや、とここでアスカは迷った。

 

「ならば、今この世界が幸せと言えるのか。惨たらしく殺し合い、際限なく憎しみあう、悩み多き不完全な世界が」

 

 カモに問われ、アスカは直ぐに答えられない。

 自分も平和を望む。完全なる世界とは違う世界を望む。だが、それがどうすれば始められるか、どんなものか明確に思い描くことが出来ない。

 そんな自分が正しいと、完全なる世界が間違っていると言えるだろうか。

 平和で満ち足りた世界。誰もが希求するそれを、銀の盆に載せて差し出そうとしている者を、非難することが出来るのか。

 それが果たして正しいことなのか、自己満足に過ぎないのではないか、迷う。アスカは自責の思いに沈み込む。手にした何かが失われる日を知らず、失われた後に過去を悔やむことから逃れ得ない。何度も、何度も――――。

 

「俺を構成しているものの中には苦しみや哀しみも含まれている。楽しい思い出や素敵な記憶とかと同じくらいには両方とも俺の一部なんだ。どっちが欠けてもいけない。どちらかだけでもいけない。両方あってアスカ・スプリングフィールドなんだから」

 

 現実世界は不完全で争いによって憎しみが生まれ、多くの悲しみが生まれている。だけど、今のアスカがあるのはその世界を生きてきたからこそだ。

 沢山の出会いが、別れがあったからこそ。あらゆる苦しみが、痛みが、悲しみがあったからこそ。もしそうして定められた道を歩んでいたなら、多くの人との出会い自体が存在しなかったかもしれない。

 

「この世界がニセモノだから認められないと? ここはあり得たかもしれない幸福な現実。最善の可能世界であるというのに」

 

 スタンは意表を突かれたような顔をして、アスカの顔に見入った。アスカはただ、真っ直ぐに彼を見つめて続ける。

 

「もしも二十年前の時点で完全なる世界が全滅していたら、こういう世界になる、彼らがいなければナギとアリカが行方不明になることはなく、六年前の村の襲撃もナギによって未然に回避され、修学旅行での事件もナギ達が対処し、危険を冒して魔法世界に来ることもない。心労を重ねなかった儂もまだ生きておっただろうし、カモが殺されることもない。つまりアスカにとっての敵、戦いのない世界、清明で暖かな善意に満ち満ちた争いなき世界となるのだ」

「ホンモノだとか、ニセモノだとか、最善だとかは関係ない。どんなに幸福な世界であろうと、俺が歩んできた道じゃない。過去に浸って、現在を逃避して、未来を閉ざしてしまうことは間違っている」

 

 アスカは淡々と告げた。「完全なる世界」が実現すれば、確かに人類は殺し合いの歴史に幕を閉じる。恒久的な平和が訪れるのだ。同時に自らの人生も。

 

「他人がいて、色んな意見があって、ぶつかって…………未来は他人がいなけりゃ生まれない、望めないんだ」

 

 夢を見る。未来を望む。それは全ての命に与えられた、生きていく力だ。何を得ようと、夢と未来を封じられてしまったら、人類は既に滅びたものとして存在することしか出来ない。死がないだけで、死んでいるのと変わらない。

 

「ぶつかって、傷つけあって、間違って、何度もそんな馬鹿なことを繰り返してここまできた」

 

 奪われたことに傷つき、得られぬ物の為に苦しみ、翻弄されるように此処まで来た。

 

「他の奴から見れば無駄であっても、不幸である道のりと言われたとしても、この無駄な道のりがなければ、今の俺はここまで到達することが出来なかった」

 

 それらの日々を思い返し、アスカは心の底から思う。出会えて良かった、と。

 苦しみ、悩んだ、不幸な日々であろうと、それが現在の自分を創った。無駄とも思える遠回りがなければ、自分という存在は殆どないも同然だ。そしてそれは、これからも続くのだろう。間違い、悩み、遠回りして道を選び取る。間違ってやり直すことは、同じ到達点に至るにしても、間違わずに真っ直ぐ進むこととはまるで違う。決して無駄でも不幸でもなく、天から与えられた人生の賜物だ。

 

「爺さんもカモも死んだ。死者は蘇らない、喜ばない、悲しまない、何も――――――――感じない。だけど、死は終わりじゃない。生きている者が想いを消さない限り、死は終わりなんかじゃない。生きている者の胸の中に在り続ける」

 

 死んだ人間の生命は、消滅した情報に過ぎないのかもしれない。だが、生きている者達は、その怨念に取り込まれるのではないかと恐怖しながらも、死者に束縛されて前に進むしかない。人が過去を忘れることが出来ない生命であり、そうして文化と生命をつないできたのだから、過去そのものである死者に報いたい、と思うのは当然の事であろう。

 人はより良い未来を夢想して、ずっと戦ってきた。悪しき欲望に取り憑かれて、他者を虐げ、戦乱を生んだ者達もいる。だが、だからといって幸福以外の欲望を全て否定してしまうこともまた間違いだと思う。夢が人を駆り立てている。そのこと自体は善悪両面の顔を併せ持っている。人は各々戦って、何が正しいかを選び取っていかなければならないのだ。誰かに与えられるのではなく。

 

「小奇麗な日常の全てが光り輝いているわけじゃない。不満なんて、どんな世界にも必ず存在する。だけど、全ての面で自分にとって都合の良い究極の世界は、突き詰めれば他人の事情を全く無視した独善の空間になる」

 

 自由意志を持つ一人の人間として、別の意思を持つ誰かと出会う。この先、どんな道筋を辿ろうと、これらの出会いが自分達の人生に齎したものを否定することだけは出来ない。完全なる世界に自由意志など必要ない。他人の存在しない幸福に新たな出会いなど存在しないのだから。

 自分に出来るのは戦うことだけだ。そう分かっていても、ただ戦士としては生きられない。今のアスカはそんな生を過ごすぐらいなら、生まれてきたこと自体を呪うだろう。

 

「俺は何時果てるとも知らない弛緩した幸福に縛り続けられるよりは、普通に生きて普通に死ぬ。愚かでもいい、短くても生きていて良かったと思える本当の生を謳歌したい」

 

 アスカは語り続けた。

 沢山の幸福の日常の切れ端たちを見て美しいと感じながらも、切り捨てるように語り続けた。

 無意味とも思える時間の片隅で誰も覚えていない記憶を語り掛ける。もしも時間が一つの物語であったなら真っ先に添削され、忘れ去られてしまいそうな、そんな当たり前の風景がそこにあった。

 忘れられ、失われ、それでいてあらゆるものの一番奥にしっかりと溜まり積もってゆき、例えそこに居合わせた全員がこの世から退場した後も、静かに静かにずっとキラキラと輝き続ける。

 

「完全なる世界を間違っているとは言わない。言う資格もないし、誰かがこの世界にいたいと望んでも反対もしない」

 

 択ぶ余地はなく、だからこそ択ぶ価値がある。誰もが未来に向かっている。避けることの出来ない明日を自らの意思で選び取る。

 理念や思考では説明できない体の奥底に息づく原始的な本能の叫びであったのだろう。生きることは戦いだ。例えこの戦いが終わったとしても、生きていく限り、人は日々戦っていかなければならない。

 現実で生きることを放棄したら、ここまでだと諦め、終わってしまったら、人は自分を捨てることになる。

 戦士であることと自分自身であること、それは同一でもないが別でもない。例え戦士でなかろうと、皆に対する自分の気持ちが変わるわけではない。

 本当は何と戦うべきか。

 どうすれば戦いを終わらせ、目的を達することが出来るのか。果たしてそれが本当に正しいことなのか。何もかもがまだ分からない。

 迷いはまだこの胸の中に。

 結局はまた一巡して同じところへ戻る。何時も答えは出ない。答えがないことこそ答えなのかもしれない。

 それでもやらなければならないことがある。いや、何としてもやりたいことがあるのだ。自分の信じることのために戦う。守りたいともののために戦う。守りたいものがある。言えなかった言葉がある。まだ間に合う――――――――きっと、だから。

 

「俺は進まなければ行けない。阻むというなら誰であろうと打ち砕く」

 

 回る時計のように、巡る季節のように、何時までも同じ場所には留まっていられない。想いが、ここにちゃんとあるから。

 誰が許してくれようとも、足を止めたアスカ・スプリングフィールドを自分自身こそが認めないと拳を握って皆に向けて、己の出した答えを阻むのならば倒すと突きつけた。

 

「―――――きっと、そういうことなんだな」

 

 守りたい、生きたい、と最も原初的で基本的な衝動に身を任せ、一歩を踏み出したアスカの姿にカモは納得したようにそう言い、そっと微笑んだ。

 

「そうか、決心は変わらないか」

 

 近寄ってきたスタンが正面からそっとアスカの腰に手を回し、顔を近づけて頬を押し当ててきた。

 

「少しだけ、少しだけでいいからこうさせてくれんか? 少しでいいから」

「………………ああ」

 

 答えながらアスカも恐れるようにスタンの背に手を回した。

 この温かさ、柔らかさ、香り、全てがアスカの知る現実世界で失われてしまったスタンと同じなのだ。だが、悲しいくらいにこの世界は虚構でもある。アスカの感じる全てが偽物なのだ。

 アスカは、この世界を捨てて醜い現実世界へ戻らなければならない。今を生きる生者が何時までも死んだ者に囚われていけないから。

 しばらく抱き付いていたスタンが離れてもアスカは顔を上げられない。そんなアスカをカモが、やれやれと苦笑を滲ませて見ている。

 

「アスカよ、これだけは忘れんでくれ。儂はお前の幸せを願っておるよ」

「俺は幸せになるよ、爺さん」

 

 アスカの言葉にスタンは満足にそうに頷いて微笑んだ。

 

「俺っちからは特にいうことはねぇな。どうせ兄貴は自分でどうにかすんだろ。ま、頑張ってくれや」

「お前らしいな。もっと言うことがあるだろ」

「男は細かいことに拘らねぇもんだぜ」

 

 と言って短い親指を立てて答えたカモに、苦笑してアスカは後ろのドアを振り返る。

 そして魔力を高めると右拳に集めて思いきりドア目がけて叩きつけた。木製の戸に蜘蛛の巣状の亀裂が入る。もう一度、今度はありったけの力を込めて拳を叩きつけると、激しい衝撃音と共にドアは崩れ落ちた。

 四散したドアの欠片を踏みつけながら外へと出た。

 

「進めよ、アスカ。道の果てまで」

 

 誰かが背中に向けて言って来た。

 歩き続けるアスカが首だけで後ろを振り返っても、残された人達は誰一人として追ってこなかった。霞がかかったかのようにぼんやりと姿を薄れさせていくので表情すら読み取れなかった。ただ、細められた瞳だけがアスカの選択を嬉しそうに思っていると感じ取った。

 

「行ってくる」

 

 光が差し込んできて、道が拓けている。アスカは光の差す方へ走り出した。

 血塗られた闘争の道は、まだ終わりそうにない。重い荷物を背負ったまま、何時果てることなく続いていく。それでも彼は駆け出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 アーティファクト『幻灯のサーカス』を発動し、アスカ一行を等しく疑似・完全なる世界に送り込んだザジ・レイニーデイは勝利を確信していた。

 

「何故――」

 

 満たされぬ想いが多ければ多いほど、心の穴が大きければ大きい者ほど、甘美な夢である完全なる世界からは逃れられない。

 

「何故何故――――」

 

 幻灯のサーカスで作り出した完全なる世界はあくまでレプリカ。本物は肉体ごと異界に取り込み、永遠を与える。それでも取り込まれた者の幸福の世界から逃れることは出来ない。その世界を望んだのは自分自身なのだから。

 

「何故何故何故何故――――――――何故、目覚めたのですか!?」

 

 起き上がったアスカを前に、ザジはその不可解な結果を受け入れられずにいた。

 目覚めぬはずだった。確実にアーティフアクトに囚われていたはずだった。小賢しい若造に過ぎないアスカ・スプリングフィールドが擬似とはいえ完全なる世界を上回る意思を持っているのでもない限りは。

 

「そんなものがあるはずがない………そんな意思があるはずがない。なにも知らない幼子でもなければ。挫折を知り、失敗を知っている。諦観と己の限界を知っているはず。絶望を知っているはずなのに何故!?」

 

 知っていれば、その先に希望などない。絶望なのだから。その先などない。

 生物として生きる彼らに、それを相克する力などあり得ない。肉体とは朽ちていく肉の塊だ。生暖かい体液と蠢く腱、その集合だ。限界を持つべくして限界を持つ物質だ。

 

「人が甘美なる夢を捨てて進むなど―――――あるはずがない!」

 

 いずれ滅びる種、死すべき個人が至上の誘惑を振り払えるはずがないと彼女は信じていた。いま、このときまでは。

 

「進むさ。俺が足を止めるのは死ぬ時だけだ」

 

 立ち上がったアスカは甘美な夢を振り払うかのように頭を振り、歩みを止めさせようとするザジをその鋭い眼差しで見る。

 

「この滅びが確定した世界で足掻くなど、無駄なことでしかないというのに」

「無駄かどうかを決めるのはお前じゃない。俺だ」

 

 表情を歪めるザジに対して揺らがぬアスカは戦意も高らかに一歩前に足を進める。

 

「そこをどけ、ザジ。俺はこんなところで足を止めるわけにはいかないんだ」

 

 アスカの後ろで倒れていた者達が起き上がり始めた。

 一人が抜け出したことで術式が緩み、他の者の目覚めも誘発してしまった。所詮はレプリカである以上は本物に遥かに劣るとはいえ、本来ならば誰一人として抜け出せるはずがないのだから分かるはずのない欠点であった。

 

「誰もが幸福な世界を捨てるなど、ありえない。滅びる世界の為に戦うなど無駄以外のなにものでも」

「俺も全部分かってるわけじゃない。あるんだろ、世界を救う方法が」

 

 言葉を途中で遮られたザジは、幻灯のサーカス発動前には明確に答えずにはぐらかしていた。

 

「墓守り人の望み通りに、世界を救うというのですか」

 

 ギリッ、と歯を噛み締めたザジは決して認められぬと吐き捨てるように言った。

 

「必要なら、そうするだけだ」

「世界を存続させるための贄になると」

 

 首肯したアスカに、やがてザジは諦めたように肩を落として強く拳を握った。

 

「認めません、そんなことは!」

 

 毅然と顔を上げて叫んだザジの姿形が変容する。

 魔力の高まりと共に額と頭の横に合計四本の角が生えて伸び、腰の辺りから黒い翼がバサリと広がった。そして背後に女の顔が中心に浮かぶ上半身だけの異形の悪魔が召喚される。

 

「はっ、やる気か」

 

 ザジの背後に浮かぶ、巨大な腕と昆虫のような胴体に羽根を宿した異形を前にしてもアスカは臆さない。

 

「力ずくでも止めます。今度こそは二度とは戻れぬ真の完全なる――」

 

 世界へ、と続けようとしたザジの言葉を遮るように、彼女の周囲の地面から突如として複数の物体が空中へと浮かび上がった。

 

「ジャンプ地雷? 何時の間に設置を」

 

 即座にザジはアスカの後ろで真名が何かのスイッチを押しているのを見て、自分に向けての攻撃だと推測して撃ち落とそうとした。

 まさか撃ち落とした瞬間に地雷と思われたそれが本来の機能を発揮するなど考えもせず。

 

「くっ」

「超鈴音特製重力地雷だ。一瞬だが五百倍の重力がかかる」

 

 いかなる実力者であろうとも予測もつかない攻撃には弱いもの。幾ら高位魔族であろうとも動きを一瞬でも止められれば隙だらけ。

 撃ち落とされる前に取り出した強力な貫通力を持つ銃で、五百倍の重力が掛かっているザジがいる辺りの地面を撃ち抜く。

 

「――っ!?」

 

 墓守り人の宮殿は浮遊宮殿である。間違っても底が抜けないように頑丈に作られているが、構造上どうしても脆い場所がある。例えば直ぐ下が空いた空間であるとか。

 発着場の下にも下層が有り、ザジがいた場所はその下層の空間がある真上だった。

 人の何倍もある巨大魔の重量と五百倍の重力が掛かる地面に強力な貫通力がある弾丸を打ち込めば、底が抜けるのは必然である。

 

「ザジの相手は私が引き受けよう。お前達は先に行け」

 

 下層へとザジは落ちたが自前の羽もあるのだから飛べないはずもなく、先を進むためには足止めか倒す必要がある。その役目を立候補した真名は周りを見て言った。

 

「いや、ザジの実力は未知数だ。フェイト達以上の強敵の可能性もある。ここは俺が」

「馬鹿なことを言うな。最大戦力をこんな序盤で投入してどうする。私を信じろ」

 

 次なる銃を取り出しながら真名は止めようとするアスカの肩を軽く叩く。

 

「囚われのお姫様を救い出すのに王子様がいなくてどうする。ここは私に任せて上へ向かえ」

 

 ニヤリと彼女らしく笑って穴に向かって身を躍らせる。

 その後ろ姿を見送り、尚も動かぬアスカの肩に真名のように楓が手を置いた。

 

「真名ならば、きっと大丈夫でござるよ」

「足止めに徹すれば、どんな相手にも遅れは取りません。私が保証します」

「…………分かった。先に進むぞ!」

 

 刹那にも言われて納得したアスカは今度こそ上へ向かって進み出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その夜、魔法世界には『風』が吹き荒れていた。現実のそれではない。多くの人々を翻弄し、常に歴史の転換点に吹いていた『運命』という名の嵐である。

 その嵐に巻き込まれた者は必ず選択を迫られる。一つの決断は更に多くの選択と決断を強制し、波紋は更なる波紋を呼んで、ドミノ倒しのようい世界を席巻していくのだ。本人の思いと末路に関わらず、一度吹き始めた『嵐』はとめどなく他人へ影響し続ける。

 オスティア宙域を覆う戦闘はなおも継続しており、魔法世界軍勢と召喚魔との戦いは続いていた。

 オスティア終戦記念祭のために新オスティアに駐留していたヘラス帝国・メガロメセンブリア連合・アリアドネー・他数多の勢力が手を結び、混成艦隊を編成して「完全なる世界」が召喚した召喚魔を相手に立ち向かっていた。

 二十年前の再現、現出した世界の危機を前に、彼らは良く奮闘していた。

 戦艦から放たれる砲火や魔法使い達が放った魔法が数多の召喚魔を飲み込み、やられた分を返すように召喚魔が魔法使いや戦艦に取り付き撃沈されていく。

 夜の闇を斬り裂くように響く砲撃に続く砲撃、放たれる大魔法の数々、命をかけた特攻とも言える攻撃で空域は震撼し、断末魔の叫びで大気が震えている。空が炎と煙で覆われて今が昼か夜かも判らない。

 光球の多くは、戦艦の砲火や魔法使いの魔法に飲み込まれた召喚魔であり、召喚魔に取り憑かれて爆撒した戦艦の光であったが、当然、それ以外の光も含まれている。単身で空域を飛んで戦う戦士達の、戦艦に乗っていた人々の、光球は全ての人たちの命の散華だった。

 一人の戦士が召喚魔を屠れば、もう一方も負けじと爆砕させる。どちらもどれだけの損耗を強いられようとも一行に止む気配がない。寧ろ戦意という薪をくべたかのように激しく猛り上がった。

 まだ後衛に位置する混成艦隊に比べて、最前線に単身で空域を飛んで戦う戦士達の状況はもっと悪い。

 双方共に少しずつ撃ち減らされているにもかかわらず、戦いは終局の見えない乱戦に雪崩れ込んでいた。召喚魔達の集団と、どちらが前か、どちらが後方であるのか、もはや彼らにすら判断することは難しい乱戦へと陥っていた。

 空中を飛び回る内に既に上下左右の感覚を消失して、もう自分がどちらを向いているのか、何を相手にしているのかすら分からない。ただ我武者羅に攻撃をして、向かってくる敵意を避けることしか出来ない。

 

「うおおおおおおおおおっ!」

 

 ある者が喉から気合の咆哮を迸らせ、目につく敵に向かって魔法を放ち、次々と撃破していく。周りは敵だらけでどんな下手な鉄砲でも放てば当たるし、横へ凪ぐように剣を走らせればそこに切り裂かれた敵の姿が散見できる。

 ある者は仲間と互いに背中を預けるように守りあい、迫り来る敵に向かって戦場に光のリングを描くような密度をもって攻撃を叩き続ける。

 無秩序な、ある種の狂乱の様相さえ呈していた光の群れだったが、迫り来る敵の数に比べればあまりにも少なすぎる。数体の召喚魔を屠っただけで大勢に全く影響が及ばない。どこを向いても敵なのだから撃てば当たる、などと前向きに精神を昂揚させられるような精神的余裕は、敵の圧倒的な数の前にあえなく崩れ落ちた。

 破壊と死が隣人となっている。神経が麻痺したように、恐怖は感じなかった。すとんと抜け落ちたように、憎しみや悲しみはなくなっている。感じるのは熱風と爆圧、そして飛行魔法の移動による目まぐるしく変化して殺しきれない重圧に、体をシェーカーに掛けられて血液がシェイクされているように感じて、内臓がひっくり返りそう気分が続いている。

 誰もが必至だった。生きることに懸命になっていた。だが、死出の旅路についているのは敵ばかりではない。召喚魔達も停止しているわけではない。

 

「ぐぬぬっっ……ぁ!?」

 

 高速で移動し、隙あらば食らいつこうと突進してくる。それらを必ずしも躱せるとは限らない。

 今も尖った爪に胸を貫かれて一人の戦士が堕ちた。一人の戦士を殺したガーゴイル型の召喚魔の眼が不遜に光り、取り残された手負いの相棒を憐れんだようだった。

 

「ラスティ……!」

 

 メガロメセンブリアの戦術飛行部隊ヨーハン・メルバスは長年の友であり相棒でもあるラスティ・ビアスの名を叫んだ。

 叫んだ頭が真っ白になり、ヨーハンは束の間だけ体が動かせなくなった。

 

「やったなぁっ!」

 

 頭が真っ白になり、全身の毛が逆立った。

 ラスティとの思い出が脳裏を掠め、楽しかったことや苦しかったことを共に分かち合った思い出が心身の一番深い所を抉り取ってゆく。ありったけの気合を吐き出し、目の前の相手だけは生きては帰さんと攻撃を放つ。

 

「よくもラスティを! このぉぉぉぉぉっ!」

 

 ヨーハンが相棒のラスティを堕とされた弔いのために攻撃を重ねる。しかし、攻撃に夢中になりすぎて背後の警戒が疎かになって、気付いた時には大型召喚魔が戦士の後ろから至近距離まで迫ってきていた。

 

「殺らてたまれるか! ラスティの分まで死んでも帰るんだよ!!」

 

 全方位から迫る敵に障壁を全開にしてスパークする視界を前にしてヨーハンが叫ぶ。

 後少しで障壁が破られるというところで友軍が駆けつけ、中級魔法を大型召喚魔に叩き込んで消滅させる。

 

「すまねぇ、助かった! あんた、名前は!」

 

 爆煙と化した召喚魔から飛び離れたヨーハンは今度こそ周囲の警戒を怠らず、十分に距離をおいて攻撃を仕掛ける。

 

「いいってことよ。俺の名はヘラス帝国近衛騎士団ギルサ・コルダだ。お前は!」

「俺はメガロメセンブリア戦術飛行部隊ヨーハン・メルバスだ!」

 

 互いに簡単な自己紹介をしつつ、ギルサと背中を合わせながら近づいてくる召喚魔に魔法の射手を放ち牽制する。

 

「おら! もっと気をつけろよ!」

 

 誰でもいいから自分の辛さを分かってくる、と思わなければ、例え覚悟していたとしても、こんな命の価値がないに等しい戦場にいられるはずもない。他国であろうと、事実上の敵国であろうと、鉄火場に放り込まれてしまえば今まで間に蟠っていた感情も超えて繫がりを求める。

 

「はっ、テメェもな!」

 

 憎まれ口には憎まれ口を返す。それだけのことだが、それだけのことが如何に心を落ち着かせるものか。

 先に逝った仲間がいる。生きているだけで未来を感じることが出来た。守るべきものがある。覚悟と決意はしている。後は逝ってしまった僚友達の分も戦うだけだ。

 多くの僚友達が沈んでいく中で、残った者達は必至に足掻き続けていた。

 

「合わせろ!」

「お前がな!」

 

 国を跨いだ即席のコンビながらも息の合った攻撃を重ねつつ、ギルサとヨーハンは敵が密集している区域へと突撃していく。同じような光景がそこかしこで見られた。乱戦だ。至近に迫る召喚魔と誰が放ったかも知れぬ攻撃に阻まれ、各自が独自に敵を撃破するしかなかった。   

 隙を作ってしまった者と、その機会を逃さなかった者。一瞬ごとにその振り分けが行われ、生と死という全く逆の、或いは紙一重の運命を押し付けられることになる。誰一人例外ではいられない残酷なまでの平等な世界だ。

 どんな過酷な状況でも、どんなに哀しい場所であっても、人はそこに信頼と友愛を見出すことが出来る。

 だけど、敵の数はまだまだ多い。手を伸ばせば、鷲掴みに出来るほどに。ある者は目にも止まらぬ速さで動く。またある者は味方に守ってもらいながら高位呪文を唱える。

 そんな多くの戦士達が入り乱れる空域を、ただ只管にアリアドネ―に所属する魔法女戦士ガトー・ラリカルは駆けた。

 無数に群がってくる召喚魔達の攻撃を巧みに回避する、まだ二十代の半分を少し超えたばかりのまだ妙齢の美女が外見に似合わった華麗な動きは、あたかもダンサーのステップのようだった。

 

「邪魔、どきなさい!」

 

 避けようもない位置に追い込まれると、ガトーは叫ぶや背中に背負っていた自らの身長を遥かに超える巨大な大剣を握って振り上げる。

 

「雷撃武器強化!!」

 

 弱体化するが詠唱破棄して武器に雷を流して強化されて黄色く輝いて囀る刃は切れ味を上げる。鈍重な大剣を両手に握ってそのまま突進した。まさしく、戦場を駆ける鬼神の如く。

 狙いは突破さえすれば包囲網から抜け出せる位置にいる人型に翼を生やしたガーゴイル型。

 敵もガトーが自分を狙っているのに気付いた。しかしガトーの行動の方が速かった。雷の刃が、ガーゴイル型を文字通り真っ二つにした。瞬きの間隙だった。

 しかし、ガトーの背後から別のガーゴイル型が迫っている。 

 

「行かせるか! ギルサ!」

「応よ!」

 

 そこへギルサとヨーハンの即席チームが飛び込んで、ガトーの背後に迫っていたガーゴイル型をハチの巣にする。

 

「囲まれているぞ!」

 

 激戦区では挨拶を交わしている暇もない。四方八方から迫りくる召喚魔に三人は死角を失くすために背を向け合う。

 

「クソッたれ! 全然敵の数が減らねぇ!」

 

 敵は増え続け、味方は減り続ける。戦略の基本が「敵より数を揃えよ」であるのならば、召喚し続ければ幾らでも数を増やすことが出来る「完全なる世界」側の圧倒的な有利。

 

「目の前に集中しろ! 気を逸らしたらやられるぞ!」

「互いの背中を信じるしかありません!」

 

 ヨーハンの愚痴にギルサとガトーが気持ちは同じだと叫び返す。この戦友達となら共に死んでやってもいい、と思える関係には敵も味方もあるものではない。その場限りとはいえ、戦友とはそういうものだ。

 

「ところで貴女は、もしかしてナギ杯前年度優勝のガトーさんでは!」

「そうですが何か!」

 

 背中合わせに飛ぶ中でヨーハンは助けた女性が有名人であることに気付いて、戦いの中で戦いを忘れた。彼は有名人大好きなミーハーであり、年の近いガトーのファンなのであった。

 

「十年前から貴女のファンです! 生きて帰れたら一緒に酒を飲みませんか!」

「あら、お酒だけでいいんですか?」

「もしかして、その先もオッケーでありますか!?」

「アリアドネ―では強すぎて誰も誘ってくれないんですよ。生きて帰れたら考えてあげます」

「うっひょー! これは絶対に死ねないぜ、俺ぇっ!!」

 

 いまや滅亡の淵に立たされた彼らが胸中に何を描いているのか。戦死した仲間の復讐を誓っているのか、この敗勢から武勲を上げて立身出世の道を夢想しているのか、自分達が魔法世界を守る最後の砦であると信じて殉ずる覚悟でいるのか。そのいずれれであるにせよ、本人達以外に知りようもない。

 だが、たった一つだけ彼らに共通する真理があった。

 

「酒を飲むなら俺の一押しの店で飲み明かさないか?」

「むっ、ギルサとかいいましたか。アナタは私を誘わないのですか?」

「俺、妻子持ちなんで。浮気ノーセンキューです」

 

 上下左右から間断なく襲い掛かってくる召喚魔の群れの中で抱くそれは、どのような欲に塗れた願いであれ、純粋な理想であれ、生き残らなければ実現しないということだ。まるで英雄譚に出てくる端役みたいな扱いで、決して主役(英雄)になれないと知りながらも彼らに撤退の意思はない。

 戦えない程の傷を負おうとも関係ない。そんなものを問う段階は、とっくの昔に終わっている。

 

「行けェェ――――――ッ!」

 

 召喚魔の軍勢が、まさに雲霞の如く空を覆っている。生きて帰る理由が出来たヨーハンの号令に三人はその中に真っ直ぐ突っ込みながら、立て続けに中級魔法を放つ。胴体や羽を損傷した何体かが落下していく。

 召喚魔の軍勢の一部が三人の突入によって動きが乱れる。これだけ密集している中で下手に応戦すれば、同士討ちの危険があるからだ。だが直ぐに彼らも態勢を立て直し、左右に散開して背後を庇い合う三人を狙う。

 

「家族が待ってるんだ。こんなところで、やられてたまるかァァァッ!!」

 

 ギルサの憤怒の叫びがその口から迸る。巨大な大剣に眩いほどの炎を迸らせ、ドラゴン型を袈裟懸けに斬り下ろした。

 空中で左右に斬り離された胴体が一瞬漂い、虚しく霞となって消える。その時にはギルサは素早く振り下ろした大剣を切り返して、別の召喚魔に躍りかかっていた。

 

「どうだぁァァァァ…………!」

 

 ヨーハンから放たれた高位魔法が周囲に絶え間なく巨大な氷の柱を築いていた。

 しかしいくら敵を倒そうとも、取り囲む召喚魔の数にまるで変化はないように見えた。

 

「突っ込みなさい!」

 

 ガトーの合図に三人がここしかないという敵の間隙に飛び込む。

 彼らは臆さない。己の危険を省みず、痛みに対して泣き言の一つも告げず、死地と呼べる場所へと何の躊躇いもなく飛び込んでいく。守る、その一点に収斂した思いが、彼らの心を支える下地となって戦場を際どいところで支えていた。

 死ぬ気でやっているのではない。死んでも守るという決意しか感じ取れない。彼らは軍人だ。プロだ。戦うことを強制付けられ、そのための訓練を積んできた。だが、そんな彼らでもこのような絶望的な戦いに参加させられて命が惜しくなって逃げ出したところで無理はないのに、逃げるどころか命を盾にして敵に挑んでいた。

 

「くっ、戦線が下げられている…………このままでは新オスティアが巻き込まれる! これ以上は下がれんぞ!」

 

 二人よりも実力が一歩も二歩も上のガトーでも戦線を睨みつけることしか出来なかった。

 

「下がるな! 俺達の後ろには新オスティアが、守るべき人達がいるんだぞ!」

「そうだ、少しでいい。少しでも戦線を押し返せ!」

 

 ギルサとヨーハンの叫びに呼応するように戦線のあちこちで怒号が響き渡った。先だった声に応じるように各所で返答の怒号が沸き上がる。

 

「敵陣営とだって背を預けられるんだ。まだこの世界は捨てたもんじゃねぇだろ!」

 

 人の繋がりが、本当なら共に歩まない者を結び合わせていた。光を浴びる英雄達とは違った場所で、みんな戦っていた。

 

「ここは私達の世界だ! 終わらせたりするもんか!」

 

 この世界は地獄ではなく、救いある楽園ではない。ここはただ人が生きる場所だ。だから、敵でも味方でもなく人がいるだけだ。

 彼らは軍人で、戦うことに関してはプロだ。しかし、それ故に彼らは知っている。彼らが負けてしまったら、一体どこの誰がその被害を被るのかを。彼らは大切な人を守りたいからこそ軍に志願したのだから。

 軍に入った時の市民を守る誓い通りに、あやふやな希望と良心の為に命を本当に投げ打って行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 日も回ってどこの家でも寝静まる時間帯だが、この日だけは違った。日が変わる前から始まったテレビ中継を見るために、眠気を振り払っていたためだ。

 

『引き続きニュース速報をお送りします。新オスティア。地区一帯に地域外避難命令が出ています。対象地域にお住いの方は、テレビやラジオなどのニュースに耳を傾け、落ち着いて避難して下さい。荷物は必要最小限に留め……………』

 

 右上の隅に小さく「LIVE」と白いスーパーが入った、緊張した顔で喋る亜人の女性アナウンサーの映像が乱れる。

 

「ここは避難区域に入らないのね」

 

 ヘラス帝国軍の軍人である夫を持つメネナ・コルダは、要避難地域のテロップを読んで自分達の住む地域外であることを確認してテレビの前から離れた。

 避難区域でないにしてもコルダ家はヘラス帝国の中でも比較的新オスティアに近い地域にある。巻き込まれることはないと思うが家にいるよりはシェルターにいた方が安全なのは違いない。

 

「まさかこれを出す時が来るなんて」

 

 物置から防災リュックを引きずり出し、埃を払ってから肩に背負う。

 軍人である夫は常々家族に万が一における事態の行動を言っていた。

 

『軍人の俺は何かあってもお前達の傍にいれないかもしれない。念には念を押してだな。いや、何事もなければそれでいいんだが』

 

 と言われて渋々用意した防災リュック。二十年前の大分裂戦争以来、戦争どころか自然災害も起きていないので必要ないと思っていたのに、まさか本当に使う日が来ようとは駄目亭主の言うことも聞いてみるものである。

 

「ほら、フェイスもリュックを背負って。ええと、後必要な物は……」

 

 夫が溺愛し過ぎて甘えん坊な息子にも子供用リュックを背負わせ、数日分の着替えと水分と食料を手早く詰め込む。

 

「まさか後になって防災訓練とか言い出したりしなんて…………そんな都合の良いことはないか」

 

 一抹の不安も湧くが、二十年前の子供だった頃になんの準備もせずに味わった苦労を思い出して振り払う。

 

『英雄アスカ・スプリングフィールドが墓守り人の宮殿に突入して三十分が経過しましたが、以前戦況に何の変化もなく―――――』

 

 寝ているところを叩き起こされた息子は、テレビに映る今まさに現実に行われている戦争という非現実的な光景を事態を理解していない顔でテレビの中継画面を眺めている。見たことのないパノラマ的光景が現出されていれば、男の子が魅了されるのは仕方ない。

 

「フェイスも手伝いをって、二十年前は私も何もしてないじゃない」

 

 二十年前の自分が子供だった頃はどうかと記憶を振り返り、同じように親に任せて何もしていなかったことを思い出して肩を落とした。

 

「大丈夫よね、ギルサ。ちゃんと帰って来なさいよ」

 

 呑気な様子に僅かな苛立ちを覚えつつも、夫が現在戦闘中の新オスティアにいると思えば気持ちも変わってくる。

 

「さあ、フェイス。シェルターに行くわよ」

「ええ~、テレビ見てたいよ」

「馬鹿言わないの。世界の危機なんだから。少しでも安全な場所に行かないと」

 

 子供にダダ甘亭主でも帰らなければどうすればいいのかと不安もあれど、息子を護れるのは自分だけだという決意が溢れ、テレビを見ている小さな体を抱え上げ、メネナは玄関に向かった。

 急ぎドアノブに手をかけて開けば、外は自分と同じように危機感を覚えた人達がまさに避難をしている最中だった。

 

「みんな、考えることは同じね」

「ママ……怖いよう……」

 

 周りを見ていて気づかなかったコルダ夫人とは違って、空を見上げた息子はソレ(・・)に先に気付いて恐怖を覚え、服にしがみ付いてくる力を強くする。その声には恐怖が込められていた。

 避難している人達もまた、ざわめきながら空を見上げていた。遅まきながら空を見上げたコルダ夫人も固まった。

 

「な、なんなの一体?」

 

 息子の恐怖に気がつかぬほど、コルダ夫人の全身の産毛が総毛立っていた。

 空が輝き、海が広がっているようにオーロラが出現している。金色の光が帯のように連なり、どこまでも伸びていく。金色の帯が全身を総毛立たせるほどの濃い魔力だと分かるので、これほどの魔力が可視化するなど凄まじい光景だった。

 次第に大きくなっていくオーロラの光は強くなり、背筋が凍り付くような感覚を増大させていく。

 そのオーロラの始まりが新オスティアの方角から伸びていることに気付き、コルダ夫人の全身が恐怖に縛られる。

 

「…………神様、どうかあの人を、ギルサをお守りください…………」

 

 未来が分からないという不安を、人はどこまでも振り切ることが出来ない。だから、生き続けるが怖く、失うことに怯える。

 彼女は知らない。祈っている神が作り出した使徒こそが既存の世界を滅ぼそうとしているのだと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この世に絶対の神はいない。だがそれでも世界には人を暫し魅了し、支配する不思議な力が少なくとも一つはある。恐怖という名の力だ。

 世界各地のゲートポートが破壊された事件はまだ記憶に新しい。大規模なテロを仕掛けられたことは知っていたが、それらは旧世界に縁のない大多数の者達にとっては遠い世界の出来事、テレビのニュースやニュースペーパーで語られる情報でしかない。

 が、空に流れる具象化されるほどの魔力の川が、これが現実であることを突きつけて来る。

 

「これが世界の終わりか」

 

 シェルターなどない寂れた地方都市の街頭テレビに多くの人々が集まっており、その中から絶望に満ちた言葉が漏れた。

 旧世界の黙示録にも記された終末の予言が、今こそ人類に襲い掛かっているかの如き悪夢の光景。

 

「熱っ」

 

 その途端、押し寄せてきた熱風に嬲られ、嘗てノアキスでアスカと僅かに関わった薄汚れた亜人の少年は顔を背ける。

 伸び放題の整えられていない靡く髪を押さえつけ、空を仰いだ少年は思わず息を飲んだ。そこは少年の見知った世界ではない。空は夜なのに血のように赤黒く染まっていた。

 現実離れしたその光景に、少年の思考は瞬間的に停止する。映画の中にでも迷い込んだのではと錯覚するほどだ。だが肌から伝わってくる鮮烈な感覚は、少年に嫌というほど現実を突きつけてきた。

 

「誰が好き好んで世界を滅ぼすんだよ。馬鹿じゃねぇのか」

 

 そんな化け物のような人間が本当に存在するものなのかどうか。否定の論理を述べようとして、並べきれずに顔を背けた。

 一般人にろくな想像力はない。世界のなんのと言われてもピンと来ず、個人の見識を問われても戸惑う他ない。ろくな想像力がなければ、上等な理念に共鳴できる頭も持ち合わせてはいない。

 

「どうせ英雄様が二十年前と同じように世界を救うんだろ」

 

 根無し草の少年にとって、戦争もどこかの地域で起こった紛争も、大戦から二十年経って大規模な闘争から遠ざかった環境にいたのでフィクションと同列の出来事という以外の感想は持てなかった。

 現実感がないのに少年は全身の力が抜け落ちるような思いと闘っていた。戦争とはこういうものだと分かっていたはずなのに、いざ目にしてみると戦慄する。

 殆ど、いや全てが理解を超えていた。ただ一つだけ分かっていたのだ。

 

(これは、僕の物語じゃない。脇役どころか名前も載らない役割すらも与えられていない)

 

 どこかで、何時の頃から始まったかも分からない、この世界の命運を賭けた戦いが行われているのだ。

 歴史の本にも載りそうな出来事が見上げる先で繰り広げられている。戦っているのは、果たして善と悪なのだろうか。光と闇なのだろうか。そんな陳腐な、理解不能な、二つの相反する力がぶつかっているのだろうのか。

 

(滅びるんなら、滅びろ。こんな世界)

 

 少年は泣いていた。己の無力への怒り、悔恨、悲哀。整理できない様々な感情が爆発し、沸騰した体液になって目から吹きこぼれるのを感じ続けた。

 悪い奴がどこからかやって来て、平和な世界を脅かす。そんな単純な物語であってほしい。人の物を盗んだら警察に捕まるように当たり前で当然な論理が展開されていれば、孤児で碌に教育を受けたことのない自分にだって理解できる。納得がいく。

 

(現実がこんな簡単なわけがない)

 

 善と悪、光と闇、白と黒。簡単に二極に別たれる分かりやすい物語じゃない。世界の謎を、丸ごと抱える物語。これが世界の命運を賭けた戦いであることは絶対に確かだ。でも、これは決して少年の物語ではない。

 

「どうして、僕は…………」

 

 空を見上げる少年の頬に何かが触れた。それが自分の目から溢れた涙であることに、彼は気付かなかった。分かっていたのは自分が途方もなく無力であることだけ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 足元がボロボロ崩れてゆくようで、不安で仕方がなかった。世界中で、誰もが救いを求めていた。だが、この世界に彼らが求める救いを齎す神はいない。

 誰もが浮き足立ち、上を下への大騒ぎになっていたわけだが、ある者達はただ一つの目的の為に行動していた。

 

『もっと高度を上げろ。その方が早い』

『しかし、それでは連合のセンサーに引っ掛かりますが』

『大丈夫だ。きっと連合も同じことをしている』

『了解しました、准将』

 

 深黒の夜の清澄な大気の中を、軍艦の群れが飛んでいく。

 高峰を掠め、森の梢を何万となく超えて煌めく絹のように広がる大海原を渡り、複雑な島や大陸の地形を遥かに眼下に見下ろして飛ぶ。

 雨雲の中に入り込むと、稲妻が走り、雷電が閃いた。氷の礫が滝と降りかかり、空を行く鉄の船を打ちのめそうとした。鉄の船は雷鳴に負けじと精霊エンジンをフル稼働させて唸りを上げ、スピードを上昇させて黒雲を貫き、風を追い抜かんと飛翔した。

 

『では行くぞ、新オスティアへ』

 

 やがて彼方に黒い塊が見えてきた。鉄の船を行く手を塞ぐように龍山山脈の山々が険しく伸びている。尖った頂上は、たなびく雲に隠されている。

 

『そうだ! 片道の燃料を全開にすれば、今からでも戦場に辿り着ける! あの放送を聞いただろう! 今行かなければならないんだよ!』

『帝国の連中に敗けられん!』

 

 誰もが裡から湧き出た熱情に駆り立てられていた。正しいと思ったことを、ただ正しいが故に人々は成そうとした。彼らは誰に命じられたのではなく、自らの意思で動いていた。

 声が聞こえる。世界を存続させようとする者達の抗いの声が。

 

 

 

 

 

 儀式発動まで残り四時間四十七分五十八秒。

 

 

 

 

 








次回『第81話 心に弾丸を』




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