龍宮神社の拝殿内にある選手控え室も兼ねている臨時救護室には、ベッドに寝かされている傷だらけのアスカ・スプリングフィールドを囲むように多くの人が集まっていた。
麻帆良女子中等部の女保険医が白衣を緩やかにはためかせながら、最後に最も傷が酷かった頭に包帯を巻いていた。
「これで良し、と。思ったよりも酷くなくて良かったわ」
綺麗に包帯を巻き終えた眼鏡をかけた女保険医は、重労働を終えた労働者のように白衣の袖で額に浮いた汗を拭った。
治療道具を傍らの机に置く為に開いたベッドの横に明日菜が近づく。
アスカの状態を良く見ようと床に膝を付いて顔を寄せると、明日菜の普通の人よりも優れた嗅覚が使われた薬品の臭いが鼻についた。
「本当に大丈夫なんですか?」
これほどの怪我を負っていて酷くないと言った保険医の診察を疑った明日菜が問いかけた。
今のアスカは全身に包帯を巻かれ、顔中にガーゼを張った姿は何回も車に轢かれたようにも見えた。血が出ていた頭部や腫れ上がっていた顔にも治療が為されていて、見た目には見事な重病人の様相を呈していた。
これで酷くないというのだから診察を疑いたくもなる。それほどにアスカの状態は深刻に見えた。
「不思議なことに腫れ上がってたり傷は多いけど、どれも見た目だけで内臓や骨にはそこまでの損傷はないのよ」
机に置いていた治療道具を引き出しの中に直していた女保険医も、自分の診察とアスカの状態を比べて誤診を疑われても仕方ないと思っているのか苦笑を浮かべながら説明した。
「タカミチもそこまでは非情にはなれんかったということか」
近くにいた者にしか聞こえないほどの小さな声で診察結果を不思議がるエヴァンジェリンが呟くのを、刹那だけの耳に入った。
刹那は明日菜にもこのことを伝えるべきかと思ったが、アスカだけにしか目を向けていない今は時期が不味いと後回しにすることにした。すれ違う時に見た高畑の顔を思い出して追い打ちをかけられるほど刹那は非情にはなれない。
「傷自体は一週間も安静にしていれば治るでしょう。でも、頭も大分打ってるし、目が覚めたら念の為に病院に行っておいた方がいいと思うわ」
言って手元に視線を戻した女保険医は眉を顰めた。
「この調子だと包帯が足りなくなりそうね」
開けた引き出しを見下ろしながら頬に手を当てて悩ましそうに言った。
古菲の折れた手を固定するためにも使ったとはいえ、アスカに使った分も合わせると常備していた包帯の半分を使っていた。これほどの重傷者がまだ出て来るとは思えないが、残り二試合あると考えると常備分だけで足りるか心配になってくる。
頬に手を当てたまま思案気に考えていた女保険医は徐に白衣のポケットから携帯を取り出した。
「包帯を持って来て貰えるように頼むから、ちょっと離れるわね」
周りの存在すらも忘れたようにアスカを見つめている明日菜は意地でも傍から離れないだろう。他の面々も程度の差こそはあっても同じ。臨時救護室がアスカ一人になる可能性はかなり低い。
木乃香らの頷きを見て、補充の依頼をするため携帯を片手に持ったまま襖を開けて外に出て行った。
「木乃香、アスカを治せる?」
「やるだけやってみる」
保険医の退出のあまりのタイミングの良さにエヴァンジェリンだけは物知り顔だったが、木乃香に話しかけながらも目の前のアスカにだけ気を向けている明日菜は気付いていない。
「ウチの魔法の腕やと完治は難しいけど、今よりは良くなると思う」
頷いた木乃香の恰好は明日菜達と違ってとんがり帽子を被った魔女ッ娘ルックである。部長を務めている占い研究部で使う衣装で、ミニスカートになっていたりと現代風にアレンジされまくっているのでモデルとなった魔女の原型を留めていない。午後からこの衣装で部活の出し物で占いをすることになっているので、同じように午後からクラスの方に参加する予定になっている明日菜達とは服装が違うのだ。
イメージしか伝わってこない魔女っ娘ルックのズボンのポケットから、二ヶ月前にネギから貰った三十センチほどの初心者用の杖を取り出した。
場所を明け渡した明日菜と入れ違いでベッドに横になっているアスカの傍に立ち、集中を高めるように大きな深呼吸を行う。
「プラクテ・ビギ・ナル 汝が為にユピテル王の力をここに 大治癒」
呪文を唱えた直後、初心者用の杖を持った木乃香の手が白く発光する。見るだけで温かいと解る、目に焼き付くでもない優しい光。光はアスカを包み、やがて消えた。
光が消えた後には、包帯やガーゼに包まれているものの、先程までの傷だらけの腫れ上がった姿とは別人と思えるほどに癒えているアスカの姿があった。完治まではしていないが腫れは随分と引いているように思えた。
「ほぅ、中級治癒魔法を習得していたか」
「お嬢様は勤勉ですから…………成功したのは初めてですが」
「二ヶ月程度でこれだけ出来ていれば十分だ」
魔法を覚えて二ヶ月の木乃香が中級治癒魔法を行使したことに、彼女に多少なりとも教えていたエヴァンジェリンでも驚いた。
適性があるといっても独学で習得できるほど魔法は簡単ではない。人体に関わる治癒魔法の難易度は他の属性と比べても特に高く、魔法学校で教えられる初級と中級の間には天と地よりも高い差がある。初級はともかくとして中級ともなれば段違いに習得が難しく、高位治癒魔法を覚えれば治癒術士と名乗って仕事に出来るほど高難易度である。
木乃香は無意識下での魔力開放で周囲の怪我人を癒すほどに治癒系統への適性を見せていたが、ヘルマン襲来前は小さな火を灯すことができる初心者用の魔法すらも使えていなかった。
一ヶ月前辺りから初心者用の魔法も使えるようになってからは魔力制御などを指導だけしてきた。これは木乃香自身が治癒魔法以外の習得を拒否したからだ。その原因は考えるまでも無い。魔法の恐ろしさを知った見習いが関わりを持とうとするだけで驚嘆に値することをエヴァンジェリンは良く知っていた。
「誰に習った?」
魔法が成功して安心したように息をついた木乃香に、疑念と共にエヴァンジェリンが問いかけた。
どれだけの才能を持っていたとしても一ヶ月程度の短時間で独学で覚えられるはずがない。師事した魔法使いがいるはずだった。
別に自分に師事しておきながら別の者にも師事していたことを怒っているわけではない。吸血鬼であるエヴァンジェリンには自前の回復力があるので治癒系の魔法を不得手にしている。精々が魔法学校を卒業したネギよりも少しマシ程度しかない。
不得手にしている自分よりは得意にしている者に学んだ方が良いことは百も承知していた。
「ネカネさんにお願いしてん。治癒魔法使えるいうから教えてもらったんや」
何時もの緩んだような感じで笑う木乃香が軽い口調で話すことで、臨時救護室内の重い空気を払いのけられた。100%成功したとはいい難いが、幾分かは暗い空気が晴れたのは事実。明日菜から発せられる陰鬱とした空気が薄まった。
麻帆良武道会も準決勝の一試合目が終わり、もう一試合が始まる直前の現状は終盤に差し掛かっていると言ってもいい。
そんな会場は異様な雰囲気に包まれていた。盛り上がっていると言えば盛り上がっているが、どちらかといえば困惑の色が多いと、観客席にいた長谷川千雨は冷静に分析していた。
二回戦終了後のインターバルでは、多くの観客達が高度な戦闘に期待していた。しかし、準決勝での影響が大きいのだ。
「頑張れ、小太郎君!!」
考え事をしていた隣から急に大きな声が上がって、驚きに心臓が多く跳ねた。
「あれ、ネギ先生。アスカの所に行ってたんじゃないですか?」
「今、戻って来たところですよ」
千雨が横を見るのと、ネギが直ぐ傍に立っていた。
千雨は自分も見舞いに行くべきかという考えが一瞬だけ脳裏を過ぎっても、人間不信の気がある彼女では周りの目を気にせずに会いに行けるほどの度胸はなかった。
「それでアスカの容態は?」
「軽症、だそうです。今は眠っています。明日菜さん達が見てくれているので、僕は小太郎君の応援に」
「そうですか……」
「千雨さんは行かないんですか?」
なら安心と言いかけた千雨の機先を制するように、ネギの隣にいたのどかが意地悪い質問をした。
「お前、そんなに性格悪かったのか」
少なくとも命に別状はなく、後遺症もなければ後で誰もいなくなってから顔を見に行こうと考えるのが精一杯。苦渋の判断を下したところで巻き返されると、のどかに一言ぐらい言いたくもなる。
「酷いです。単なる疑問だったのに」
『準決勝第二試合、犬上小太郎選手とクウネル・サンダース選手の試合を行わせて頂きます!!』
のどかの言葉が発せられたのは、舞台上の和美から発せられたアナウンスが広がるのは同時だった。
「―――っし、行ったるか!」
男にしては長い後ろ髪を首の後ろ辺りで括った、同じ年らしいが人種の違いでアスカより少しと背が低い学生服を着た少年の気合の籠った声が観客席の千雨の所にまで届いた。
犬耳のようなアクセサリーを頭の上に付けているので、見た目の小生意気そうな一匹狼的な気性とは違うのかと思えば差に非ず。アスカに付き合って二年も別荘で過ごすほど友情の熱い男なのだ。
そんな思考をしていると、舞台の上から近くで太鼓を叩いたような大きな音が聞こえた。全員の視線が揃って舞台の上に向く。
何時の間にか試合が始まっていて、開始位置から一歩も動いていないクウネル・サンダースが左腕を振るい、背中を殴られたように吹き飛ぶ小太郎の姿だった。
試合開始前、舞台へ向かおうとした小太郎に楓が近づいてきた。
『小太郎、油断は禁物でござるよ』
『心配してくれんでも大丈夫やって楓姉ちゃん。そんなつもりはない』
小太郎にだってクウネル・サンダースと名乗る男が隔絶した力量の持ち主であることを見抜いていた。
試合が始まる前から小太郎の油断はなかった。己の最大の障害にして弱点である戦う相手に対する油断は微塵も持っていなかった。試合前の楓の忠告も受け入れ、どんな相手であろうが油断はしていなかったと断言できる。
初撃必殺。どれだけ実力差があろうとも初撃で倒せれば問題はない。一回戦で対戦した佐倉愛衣を倒したのと同様に、開始直後の瞬動で近づいて一撃で倒すプランに変更はなかった。
「くっ」
戦闘プランに従って開始直後に瞬動をした小太郎は、舞台に体をぶつけた痛みで一時的に失った意識を取り戻した。
意識を取り戻した視界の先には、再び舞台の床が迫っていた。身の軽さで狭い範囲でありながら舞台の床に手をついて、それでも殺しきれなかった慣性をも利用して回転する。
鍛え上げられた柔軟な筋力を存分に駆使して強引に身を捻り、変形型の側転して膝も付かずに両足で舞台に着地した。木目が鮮やかな木板を両靴の底で削りながら体勢を整える。しかし、勢いを殺し終えるのと同時に小太郎の意思に反して右足が踏ん張れずに膝をついてしまう。
(ぐっ……な、何!? 足が……!?)
背中と顎に走る鈍い屯痛を感じながらも表情には戦慄を隠せなかった。事前プラン通りに行動した小太郎の動きの全てがクウネル・サンダースに見切られていた。
開始直後の瞬動を完全に見切られ、顎と背中に一発ずつ叩き込まれた。たったそれだけで狗族とのハーフで人間離れした耐久力を誇る小太郎が動けなくなっていた。たった二撃で戦闘不能に近い状態に陥った己の状態に、立ち上がろう思っても震えてばかりで一向に回復しない足に歯噛みする。
「二撃でこれかいな。今まで戦ってきた奴らと桁が違う」
短いながらも濃密な戦いの中で、ここまで初手で相手との実力差が分かり、愕然とするほどの桁が違い過ぎる相手に会うのは初めてだった。別荘での本気のエヴァンジェリンの戦いの時の戦慄に似た震撼が小太郎の背筋を逆立たせる。
目の前で開始位置から一歩も動かず泰然自若と見下ろす相手が上位にいることを自然と認めていた。
特別速いわけでもなかったのに反応できなかった。気がついた時には意識を刈り取られていた攻撃を前に、獣のような本能が強者に対して本格的に戦う前から敗北を悟らせていたのだ。
「本能ですか、あなたには直感的に私との力の差が分かるようですね。どうです? 私の足下に及ばない気分は」
クウネル・サンダースが開始位置から始めて動く。右足を開いて小太郎の方を向き、足と同じように芝居がかった動作で手を広げる。
小太郎を人間と認識しても蟻を見ているような矛盾した視線。どうしようもなく背筋が粟立つのを止められなかった。
僅かに吹く風に揺らされてローブに隠れ続けた顔が、片膝をついて下から見上げる小太郎から見えた。優しげな顔で性別がハッキリとしないが、その眼だけはどこまでも冷徹に小太郎を見ている。
「ハッキリ言うな。兄さん、アンタ友達少ないやろ」
「紅き翼の面々がいれば必要などありません。私の心は離れても未だ彼らと共にある」
心身を苛み始めた怯えを振り払おうと、小太郎は勘でクウネル・サンダースを男と決めつけた。
どうせ自分よりも強いなら男の方が良い。なんといっても殴っても後味の悪い思いをしなくても済むし、どれだけ殴っても遠慮も呵責も覚えなくても良い。
「アーティファクトを使っても構いませんよ。その方が歯応えがあっていい」
膝をついたまま、小太郎は言われたようにズボンのポケットに入れている仮契約カードを取り出すかを逡巡し、その選択肢を瞬時に捨てた。
「必要ない」
「ほぅ、実力差が分からぬとは思えませんが」
「分からんのか?」
実力の差は歴然。勝ち目は天地がひっくり返ろうともありえないことは一合を交わしたる小太郎自身が誰よりも分かっている。そんな状況にいながら小太郎は皮肉を忘れず笑う。
右脚が震えて立てない程度がなんだというのだ。そんなものは敗北の理由にはならないことを犬上小太郎は誰よりも知っている。己の全てを出し切り、動けなくなって倒れてから敗北を認めればいい。体が動く内は決して負けを認めない。
犬上小太郎には高尚な理念も理由がない。どちらかと言えば古菲のように戦いに喜びを見出す男が、たかがダメージが深すぎる程度でギプアップなどしない。
どこまでも犬上小太郎らしく尖った犬歯を剥き出しにしながら、獰猛な戦意を宿した瞳をクウネル・サンダースに向けて左足の裏に気を溜める。
「分かりませんね。負けると分かっているのに使える手を使わない理由など…………ああ、誇りとかいうものですか。アーティファクトによる戦闘力の上昇は自分の実力ではないから使わないと、そう言いたいわけですか」
下らない、と見ただけで分かる感情を宿したアルビレオは、皮肉気とも自嘲とも取れる曖昧に唇を歪ませる。
「戦いとは、勝利を得なければ何の意味もない。己が持つ全てを賭けずに敗れるような誇りなら――――犬にでも食わせてしまいなさい」
「お前――ッ!!」
小太郎の怒りが爆発する。
左足で瞬動を行うと同時に、九つの分身を作って上下左右から分身達がクウネル・サンダースに様々な体勢からの攻撃を仕掛けた。
『出た――っ! 各所で話題の分身の術!!』
小太郎の分身達が次々とクウネル・サンダースに攻撃を仕掛けるのを、観客達は盛り上がって観戦し和美が乗っかる。
「分身!?」
「小太郎君!」
「いや分身て!?」
常識人でありたい長谷川千雨は周りにも己が常識を当てはめようとする。だからこそ、小太郎の分身も、霞となって消えたクウネル・サンダースの奇術のような行動も、分身なんてありえない現象の前に友達の心配をしているネギに突っ込まずにはいられなかった。
怒涛の連撃が前後左右全ての方面からクウネル・サンダースに襲い掛かっていた。凄まじい攻撃回数に派手な連撃とスピードは、観客の目から見れば小太郎の方が有利に見えた。
常人ならば見切ることも出来ずにボロ雑巾にされてしまいそうな猛攻を、クウネル・サンダースもその実力に疑いなしと示すかのように、全方位から迫る猛攻をその場から一歩も動くことなく涼しい顔で捌き躱す。ただの一度も反撃せずに。
(もろた!!)
遂に連撃に隙を見せたクウネル・サンダースの意識の間隙を縫うように、本体の小太郎が察知しようのない後ろから襲い掛かった。気を充分に巡らせた手で右肩を切り裂く。
「!?」
小太郎は目を疑った。切り裂かれたはずのクウネル・サンダースの姿が、まるで弾丸でぶち抜かれた雲のように目の前で形を失って消えたのだ。
「その心意気や良し。嫌いではありませんよ」
不意に背中側からクウネル・サンダースの褒めるような声が聞こえて、小太郎の背筋にこれでもかと言わんばかりに最大の鳥肌が立った。
分身達が相手をしていたのは間違いなく実体を持っていた。その攻撃の中には本体の小太郎もいたのだから間違いなく本体だったはず。さっきの形を失ったのが分身か幻影かは分からない。そもそも何時の間に背後に立たれたのかすらも小太郎には全く分からなかった。
「ですが、舐められるのはあなたが弱いからです。勇気と蛮勇は違う。あなたも最初の一撃でそれを悟ったはずです」
空中で振り返りかけた小太郎は背後を見た。どこまでも酷薄に、だがどこか気配の薄いクウネル・サンダースの顔が間近にあった。
「自らのそれが蛮勇なのだと」
クウネル・サンダースの左腕が霞み、半身を向けていた視界の外から小太郎の腹部に走る真下からの衝撃。
「がふっ!!」
鈍い衝突音の直後に、優男の風貌からは想像も出来ない超人的な腕力による打撃に目を見開いて口内の水分を一瞬で吐き出し、小太郎の気の防御を突き抜けて腹部で爆発した衝撃に横隔膜が驚いたように動きを止めた。
激痛に半ば意識が飛びかけている小太郎の体が重力に逆らって一メートル近くも浮かび上がる。クウネル・サンダースの攻撃の手は掌底の形をしていた。見た目の打撃力に優れる拳による攻撃などと比べ、打撃対象の内部に浸透する重いダメージを与える。いくら踏ん張りの効かない空中であろうとも数十キロもある小太郎の体重とかかる重力に逆らって一メートル近くも飛び上がった威力は想像も出来ない。
攻撃は左手だけしか行っていない。右手はがら空き。その右手が振り上げられていた。今の小太郎に反応できるはずもない。
観客達にはトンと軽く人を押したようにしか見えなかった攻撃は、小太郎を正面から最高速度の新幹線に轢かれたように吹き飛ばす。その身で舞台床を削り、ぶつかった欄干を跡形も吹き飛ばし、水面を抉りながら拝殿のある舞台へ続く道とは反対側にあった灯篭を真っ二つに折って吹き飛ぶ威力を持っていた。
流石の麻帆良大土木建築研も二回戦第一試合で壊れた灯篭の修理は出来ていない。これで残っているのは拝殿から見て左側の灯篭ただ一つ。
『ああ――っ! 噂の分身の術をものともせず、クウネル選手の掌底一閃! またもや人が吹き飛んだ!? 誰か救急車を呼んで――っ!!』
二回戦第一試合の再現のような光景に、試合直後のアスカの状態を脳裏に思い浮かべた和美は思わず叫んでいた。
観客席にいた千雨がありえない光景が続いて口を大きく開けて唖然とし、一観客として見ていた那波千鶴と村上夏美は慌てた様子で欄干から身を乗り出す。ネギは小太郎を信じるようにのどかが思わず痛がるほど握っていた手に力を込めていた。
「ぐっ……」
誰もがア最悪の結果を脳裏に思い浮かべていたが、上がった水煙が晴れた先には別の光景が広がっていた。
「おおっ、無事だ」
「水面に立ってる!?」
観客の一人が言ったように小太郎は水面に立っていた。両足を震わせ、息を大きく喘がせながらも五体満足で目立った外傷も見当たらなかった。
水面についた足の周囲が波紋を広げている。気を放出しながら反発しない程度の精密なコントロールで、傍目には水面に立っているように見せていた。
(つ、強い!? ここまで圧倒的なんか!?)
底すらも見せないクウネル・サンダースの計り知れない強さに歯がガチガチと鳴るのを抑えられない。
世界には自分を超える者など星の数ほど居ることぐらいは承知していたつもりだった。クウネル・サンダースの力が自分を遥かに上回っていることも。
それでもこの二年で強くなった自分ならば、一撃を与えるぐらいは出来ると思っていたのに、未だに開始位置から一歩も動かせていない。姿を消して移動したように見えても、実は最初の位置に戻っているのだ。
クウネル・サンダースはまだ遊び半分といった感じで全身から分かるほどに余裕を醸し出している。悠然と未だに立ち上がることすら出来ぬ小太郎を見下ろす姿は、まるで両者の間に在る隔絶した力量差を示唆していているようでもあった。
正直、ここまで歯が立たないとは思わなかった。小太郎は見積もりが甘かったと自覚する。
「彼我の実力差がハッキリと分かったところで、一つのお願いがあるのですが」
どこまでも透徹した男はやはり開始位置から動くことなく、立ち上がれない小太郎を見下ろす。
十メートル近く離れているのに耳元で囁かれているように明晰に聞こえてきても不思議には思わなかった。恰好から誰もが思い描く魔法使い然としたクウネル・サンダースが魔法を使っているのだと考えた。
「負けを認めてくれませんか?」
「は?」
あまりにも唐突に切り出された言葉に、一瞬何を言われたのか分からなかった小太郎は間抜けな声を上げてしまった。
次第に言われた意味を理解し始めた小太郎の中で膨れ上がる感情があった。その感情の名は怒りだった。侮られた怒り、敵とすら思ってもらえない怒り、戦う相手としても見てくれない怒り、全てが怒りに染め上げられていく。
「ああ、別に君のことが取るに足らないとかそんなんじゃありませんよ」
「じゃぁ、なんやねん」
言葉通り、攻撃の意志を感じさせないクウネル・サンダースに、しかし小太郎は激昂のままに攻撃を仕掛けられない。自然界において強者こそが絶対の、弱肉強食の掟。二人の間にはその掟が展開されていた。
強者の前に屈することしか出来ない小太郎は侮りに歯を強く噛み締め、憤怒に顔を真っ赤にしながら耐えることしか許されていない。
「君のようなタイプと戦うのは私としては遊べて楽しいのですが、如何せんやり過ぎて棄権になったのでは本末転倒。負けを認めてくれるのが一番問題がなく手っ取り早いのですよ」
ニコニコと邪気のない笑顔を浮かべながら、心配したのはそんなことだった。怪我をする小太郎とか周りのことではなくて、どこまでも我が道を往くのがクウネル・サンダースという男である。
一定のラインを超えた者は強烈な個我を持っている。でなければ堅い扉をこじ開けて先へ進むことは出来ない。クウネル・サンダース――――本当の名をアルビレオ・イマ――――がいる領域は、傲慢と紙一重の力の自負がなければ辿り着けない。
「…………な」
小太郎は内側で渦巻く感情を持て余して、クウネル・サンダースをずっと見ていたら爆発しそうで顔を伏せた。
見下ろした先の手に傷は一つもない。外傷はほぼ皆無でありながら内部は既にダメージで埋め尽くされている。戦闘を重ねてきた戦士としての直感が戦闘の継続の不可を叫んでいる。圧倒的な実力差を見せ付けられては心が挫けても不思議ではない。
「…………けんな」
既に敗北は胸に深く刻み込まれている。だが、だからどうしたと怯え竦み続ける弱者になろうとしている己を、小太郎は叱咤する。震える膝を殴りつけ、無理矢理にでも押さえつけて立ち上がった。
「ふざけんなっ!!」
溜め込んだ激怒をそのまま声に変えて、クウネル・サンダースに叩きつける。
小太郎は決して強者に頭を垂れて尻尾を振る弱者には成り下がらない。さりとて弱者を嬲る強者にも絶対に成る気はない。犬上小太郎の気質は反骨。押さえつける者には反発せずにはいられない。強者に挑み続けることを己が気づかぬままに精神の屋台骨としていた一匹狼が此処にいる。
反骨精神が戦えと叫んでいる。押さえつけられた頭に泥をつけられた示しをつけねばならない。小太郎は喜んで衝動に身を任せた。
「狗神!!」
水面に触れている手の平から黒い炎が舞い上がる。黒い炎は瞬く間に無数の狼の形を取り、大きく口を開けて鋭い牙を剥き出しにして水面を地面のように走る。
疾空黒狼牙。小太郎の持つ複数の狗神を出せる技の一つである。
射られた矢よりも早く疾走する狗神達が次々とクウネル・サンダースの周囲に降り注ぐ。立っている場所を埋め尽くすように狗神達が飛びこんでいることに気づかぬはずもない。
気づいたとしても、小太郎は狗神を目晦ましに瞬動を二回行ってクウネル・サンダースの懐へ飛びこんでいた。一回目は舞台前まで、二回目でようやく飛び込んでくるという、先程の激昂振りが信じられないほど冷静にフェイントを入れていた。
逃げ道はなく、回避をさせるほど小太郎は愚鈍ではない。最速で放てる最高威力の技の準備は整っていた。
「喰らえッ!」
右手に狗神を集め、棒立ち状態で反応が遅れたクウネル・サンダースの胴体のど真ん中に狗音爆砕拳を叩き込んだ。
疾空黒狼牙からのフェイントを入れての狗音爆砕拳。恐らくは今の小太郎に出来る最高の連携攻撃。別荘で始めてアスカに使った時はこの連携で倒せた。これでダメージがないのであればどうしようもないという、如何なる敵であっても倒せる自信のあった攻撃。
「…………ふむ、今のは中々に良い攻めです。しかし、温い」
小太郎が放てる最高の連携攻撃ですらクウネル・サンダースにダメージを入れることが出来ない。クウネル・サンダースが展開する恒常魔法障壁すら突破出来ない現実に小太郎は始めて泣きそうになった。
浮かびそうになった涙すらも、頭の上にギロチンの如く振り下ろされた肘打ちに叩き落とされ、舞台に叩きつけられた衝撃でどこかへ飛んで行った。
「良い資質を持っています。あなたはまだ若い。実力の差に気を落とさないで精進して下さい」
淡々と何回も読んだ物語を改まって聞かせる語り部のような透明な口調で、どこまでも小太郎を上から見下ろしながら告げた。
小太郎を侮っているのでも嘲笑っているのでもない。何処までも冷徹に互いの実力を見据えた上での、強者の立場に立っているクウネル・サンダースが、見上げるしかない弱い犬上小太郎への思い知らせるような残酷な現実だった。
嘗てエヴァンジェリンは、強くなっていけば「魔法使い」と「魔法剣士」の分け方は関係がなくなってくると言ったことがある。クウネル・サンダースはそれを示すように隙が無かった。小太郎が突ける隙が無かった。
「負けられん…………負けられんのや、俺は……ッ!」
全身を痛みで瘧のように震わせて半分意識を失っていながらも犬上小太郎は諦めない。彼独自の挟持が、誇り高い精神が誰よりも敗北を許さない。
衆目に曝してはいけない禁忌を破ろうとも、犬上小太郎は誰よりも己が魂に正直に生きている。
「なっ……」
「不味いぜ、ありゃ。こんなところで獣化する気かよ!」
小太郎の姿が変化する。その姿を見たことがあるネギが言葉を失い、話を聞いていたのどかが口元を手で覆い、ネギの肩に乗っていたカモミール・アルベールが驚愕を露わにする。
「アスカが決勝で待っとるんや!!」
その間にも小太郎の変化は止まらない。変身能力の発動に伴い、髪の色素が変わり、牙が伸び、爪が刃のように鋭くなっていく。骨格すらも変形するように骨が鳴るような音がしていた。
犬上小太郎は狗族と人間のハーフである。半分だけだが妖としての特性を兼ね備えている。即ち、これから行うのは獣化。小太郎の切り札中の切り札であった。
まだまだ未熟で幼い小太郎では半端な獣化しか出来ないが、その効果を身を以て知っているネギにとっては恐怖の対象でもあった。もし、小太郎が最初から獣化して挑んで来ていたら確実に負けていたと思っている。
単純に獣化すれば身体能力は以前の倍、感覚器官は数倍に跳ね上がる。その代わりきちんと制御できなければ暴走する危険性と無理すれば動けなくなる可能性も孕んでいた。
両方の危険性と可能性を無視してでも誇りを穢した報いを与えねばならない。同族に会ったことはないが狗族としての血が叫んでいた。
「こんな所で獣化なんてされたらフォローのしようがありません」
そんな小太郎の守ろうとするちっぽけな誇りすらも、クウネル・サンダースはまるで価値がないかのように易々と踏み砕く。
「――っ!?」
衆目にこのような魔法の存在をバラす可能性が高い行為を魔法使いであるクウネル・サンダースが見逃すはずもない。ふっと何気なく小太郎の上に掲げられた手から放たれた魔法が物理的な圧迫となって、変身しかけていた小太郎に触れることなく舞台の床にめり込ませていた。
この武道大会では簡単に破壊されているが数センチの厚さを持つ丈夫な木の板を打ち砕き、雲の上にいる飛行機から鉄球を落として墜落したかのように小太郎を中心にして舞台が球体状にヘコんでいた。
「しかし、その真っ直ぐな心意気はますます気に入りましたよ。まだまだ修行が必要ですが」
獣化の変化が解けて意識を失った様子でうつ伏せになって倒れている小太郎の姿を見下ろし、クウネル・サンダースはやはり強者として上からの視線を止めない。
彼にとって小太郎は取るに足らない蟻が足元を這い回っている程度の存在で、靴に乗ってきたのを払った程度の認識しかなかった。
蟻程度と思うなかれ、クウネル・サンダース――――アルビレオ・イマ――――は、興味のない相手には一切の関心を持たない男である。彼が無条件に関心を持つのは、遥か遠い過去に連なる者と己が
『きょ、強烈な一撃!! こ、これは犬上選手……!?』
「小太郎君!?」
手を翳しただけで小太郎を舞台に這わせたクウネル・サンダースの奇術を理解できず、周囲の観客からどよめきが起きる。観客達のどよめきに隠れネギの声が発せられた。
「私を一歩も動かせない。これだけの実力差があるのです。負けても落ち込むことはありませんよ。経験上、あなたのようなタイプは一度コテンパンに負けると、強く成長できる。この敗北を糧として励みなさい」
自分に負けなければですが、と貼り付けたような微笑で付け足しながら頭の中では既に勝利宣言を受ける前から次の決勝に移っているのか、クウネル・サンダースは衝撃を物語る木屑混じりの噴煙に横たわる小太郎を見ていなかった。
異変は早々に舞台を去ろうとして、開始位置から動いていなかった足を動かそうとした正にその時だった。
「――っ!?」
この試合で始めてクウネル・サンダースの表情が乱れた。
動かしていた首を戻すと、懐に気絶していたはずの犬上小太郎が立っていた。突き出されている手はしっかりと拳を握っている。
拳がクウネル・サンダースに当たるまでコンマ数秒。練達の魔法使いであるクウネル・サンダースならば、それだけあれば小太郎を迎撃することは容易い。
しかし、クウネル・サンダースは躊躇った。咄嗟に本能で反応しての小太郎への攻撃は命に関わると、理性が攻撃動作に遅れて押し留めた結果だった。
今の小太郎には恒常的に展開している防御障壁を突破する力はないと察していた。本能と理性が鬩ぎ合い、安全策として行動を起こさないことを選択した。
トン、と服を叩いたような軽い音だけで小太郎の攻撃に威力は無かった。ただ、押し込んでくる小太郎の勢いに押されて
そしてそれだけで小太郎の目的は達成された。
「へへ…………ようやく動かしたで」
茫洋として焦点の合ってない目で言われてクウネル・サンダースは足元を見下ろした。今の拳に押されて開始位置から離れてしまっていた。
僅か二歩という、たったそれだけの結果。されどそれだけの結果を小太郎は出した。
クウネル・サンダースは特に拘っていなかったことに小太郎は最後まで拘り続けた。強者の傲慢。それがクウネル・サンダースを動かさせ、小太郎の意地が勝ち取った結果であった。
誰よりも誇り高い犬上小太郎は拳を突き出して立ち続ける。どれだけ死力を振り絞ろうとも小さな結果だったが、誰が彼を笑えよう。虚仮の一念で岩を貫いた小太郎を哂う資格は誰にもない。
既に意識を途切れさせていた小太郎は取り戻した誇りを胸に、前のめりに倒れていく。
倒れる時ですら前向きであった小太郎をクウネル・サンダースは受け止めなかった。それこそ誇り高い戦士を穢すことだと知っていたから。
『だ、ダウン! 犬上選手気絶! よってクウネル選手の勝利!!』
例え草食動物だからといって侮るなかれ。時に草食動物の闘争本能は肉食動物を凌駕して斃すこともある。弱肉強食とは強い者が勝つのではではなく、最終的に勝った者が強者となって肉を貪るのだ。
「見事です、犬上小太郎君。君の名は確かに覚えました」
蟻程度の認識しか持たず一度たりとも呼ばなかった小太郎の名前を呟き、勝者であるクウネル・サンダースは敗者を残して去る。
本当の敗者が誰かを知っている。彼は誇りを知っていて、生き恥を晒しながらも恥の上塗りを決してしない男だった。恥辱に塗れることはクウネル・サンダースではなく、アルビレオ・イマの誇りが許さなかった。
舞台の上に横たわる小太郎は彼に名前を憶えられたことがどれほどの偉業かを知らずに、湧き上がる歓声だけを子守歌にして眠り続ける。その顔はやりきった男の顔であった。
目覚めたアスカや木乃香達と共に舞台へと来ていた明日菜は、やってきた担架に乗せられて運ばれていく小太郎を見る。
「小太郎君……」
体に目立った傷は見受けられないが、気を失っているからその身体はピクリとも動かない。
チラリと隣にいるアスカを横目で見れば、彼だはただ一心に運ばれていく小太郎を見つめていた。
互いの距離が縮まっていく。向こうはアスカ達の横を通って拝殿にある臨時救護室に行くのだから当然だ。
十メートルから五メートル、三メートルとどんどん縮まっていく距離。しかし、アスカは動かなかった。口も開かない。それは距離がゼロになっても変わらなかった。
「何か言ってあげないの? 友達なんでしょ」
横を通り過ぎて拝殿へと向かって行く担架を見送って、結局微動だにしていないアスカに問いかけた。
「………………」
アスカは前だけを見て決して後ろを、小太郎を振り返ろうとしなかった。
勝者は敗者に手を貸さない。
敗者も勝者に手を求めない。
対等である為に、対等であるからこそ、手を伸ばすなんてありえない。
二年を共にしているから小太郎の気質を良く理解していたアスカは、未だ舞台に残っているアルビレオを睨み付け、ギュッと強く拳を握るのだった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
龍宮神社内にある拝殿の『臨時救護室』には本日三名目の患者が運び込まれていた。
一人目は明日菜、二人目はアスカ、そして三人目はクウネル・サンダース―――――本名アルビレオ・イマ――――に負けた犬上小太郎である。
「…………う……あ……れ?」
ベッドに寝かされ、上半身の服を剥ぎ取られて治療が終わった頃、気を失っていた犬上小太郎は目を覚ました。
小太郎が目を開けた時、ぼやける視界で見た先にあったものは雲の少ない快晴の空ではなく、木目調の古い染み跡が時代を感じさせる龍宮神社内の拝殿の天井であった。
「気がついたんか、小太郎」
まだ眠気が半分支配する頭を擽る優しい声が耳に入って来て、会ったことも無い母親が朝だから起こしに来たような気分になった。
母も母代わりの人も知らない小太郎は優しい声に包まれたまま、もう一度眠りにつけたら幸せだろうなと思った。
(俺に親はおらん)
内心で呟きながらきつく瞼を閉じて眠気を振り払うように強く首を振った。
そして直ぐに声をかけてくれたのが誰か分かった。
「千草姉ちゃん?」
恐れるように開けた視界に真っ先に映ったのは、声と同じように優しい笑みを浮かべている天ヶ崎千草の姿があった。
「あれ? 俺……どうして寝てたんや」
ふらつく頭を押さえ、痛む体を押してベッドから体を起こすと上半身の服を着ていないことに気づいた。
着ていたはずの服がボロボロになって、ベッドの足下に畳んで置かれているのが見える。
目覚め特有の記憶の混濁がある小太郎は現状を正しく認識できていなかった。自分がどうしてこんな所で寝ているのか、前後の記憶が頭から飛んでいる。
「那波から電話を貰って急いで来たんや。試合で怪我したって聞いたけど、大丈夫なんか?」
「怪我? あ、ホントや。なんや大袈裟に包帯巻いてんな」
問いかけてくる千草の言葉に、小太郎はようやく起き上がるだけで痛む体を自覚した。
見下ろしてみれば胴体には包帯が巻かれ、右肩を通って固定されている。右腕の二の腕にも包帯が巻かれていた。
「なんやって俺はこないなことに……」
体が丈夫なことが取り得の一つでもあったので、ここまでの治療が必要になったことは滅多になかった。怪我をしていることやベッドに寝ている理由が分からなくて、治療の跡のない左手で腹の包帯を触れた時だった。
積載量を超えてギュウギュウ詰めにした荷物が箱から飛び出るように、頭から飛んでいた記憶が溢れ出てきた。
「そうか。俺、負けたんやな」
クウネル・サンダースに手も足も出ず、苦も無く軽くあしらわれたことを思い出した。有効打を一度も与えることなく、逆に一方的にダメージを蓄積させられ、最後には無様に倒れ伏した。
「…………」
小太郎の言葉への返答は千草の沈黙が暗に示していた。
誰にも否定できない結果を前にして起き上がったままの小太郎は俯いた。長めの髪の毛に隠れるようにして、周りからは小太郎がどのような顔をしているのかは見えなかった。
「小太郎は頑張っとったで」
「頑張ったって負けたら一緒や。勝てな、なんの意味もないんや」
俯いたまま布団を破れそうなほどに強く握った小太郎が呻くように言った。
「勝ち負けなんてどうでもいい…………やなんて、言わん。あんさんもそう言われたないやろうしな」
この麻帆良で――――いや、きっとこの世で犬上小太郎を最も理解しているのは、戦ったクウネル・サンダースでも親友であるアスカ・スプリングフィールドでも他の誰でもなく、天ヶ崎千草である。
椅子から腰を上げて、誰よりも誇り高く自負と自尊を持つ小太郎を、慈愛を以て豊かな胸元で沈む少年を包み込む。
「それでも言わせてんか。小太郎は良く頑張った」
生まれてから母の温もりを知らぬ少年は、母を思わせる姉の温もりに包まれる。優しい匂いと温かい温もりに全身を包まれ、鼻の奥から突き上げるものを感じた。
「…………俺、弱いんかな」
「そんなことない。小太郎は強いで。うちが保証したる」
「今日も負けて…………。俺、戦うしか能ないのに」
俯いたままの小太郎が何時もの腕白小僧のような元気さとはうって変わったか細い声で呟くのを、千草はどこまでも受け入れる。
「アスカと決勝で戦おうって約束したんや。なのに俺は……」
俯く小太郎の目から光る物が流れて布団に落ちても、千草は何も言わなかった。
小太郎の見舞いの為に臨時救護室に入ろうとした楓は引き換えすことにした。今の二人が間に入れる空気ではなかった。入ってもいけないことを重々承知していた。
「強う、なりたい」
千草は言ってくれたが、小太郎は自分は弱いことを知っていた。
「この二年でアスカの方が才能があんのは分かってねん。差は開くばっかりや。それでも」
アスカに負け、ハワイでは合体でしか役に立てず、ヘルマンの時も何も出来なかった。そして今またクウネル・サンダースにも届かなかった。負けを全て認める。犬上小太郎はどうしようもなく弱い。その上で誓うことがあった。
「
「…………」
千草は黙して語らず。小太郎を抱きしめる力を強くすることで言葉の変わりとした。
言葉は移ろいやすく、時に思ったこととは違う意味を伝えてしまうことがある。でも、体が伝える温もりだけは間違えることはない。突き放したり押さえ付けたりせず、苦しくならないように優しく抱きしめてくれる。
嫌われてなんかない。好意を行動として示す千草に小太郎の気持ちが動いた。布団を掴んでいた手を離して、恐る恐る千草の背中に回す。背中に手を回しても彼女は拒まなかった。それがどうしようもなく嬉しい。
「今日だけや……こんなみっともないのは今日だけや」
弱さを曝すのも、涙も流すのもこれが最後だと、小太郎は心に決めた。
そして千草の胸の中で悔しさを吐き出した。馬鹿みたいに涙を溢れさせ、後になってみれば恥ずかしくなるぐらいに泣き喚いた。それでも千草は優しく頭を撫で、宥めるように背中をポンポンと軽く叩いた。
「小太郎、お主はきっと強くなるでござるよ」
臨時救護室の近くに来ていた楓は、部屋の外まで漏れる小太郎の泣き声に確信と共に口の中だけで呟いた。
別人のように成長していく小太郎の姿に、眩しさを覚えずにはいられなかった。この若さで己だけの戦う理由を見い出し、弱さを見せられる大切な人に巡り合えているのは僥倖以外の何物でもない。
きっと小太郎はこれからどんどん強くなると確信を抱いて、僅かに開いていた目を尊いものを見るように細めた。
泣き止んで落ち着いたら一緒に修行をしないかと誘おうと心に決めた楓の心の中は、雲一つ無い青空のように何処までも澄み渡っていた。
「……………」
小太郎の様子を見に来たネギは襖の前で足を止めた。そして何も言うことなく引き返した。
元々、隠れて様子だけを見て戻るつもりだったが、小太郎には小太郎を大切に思ってくれる人がいたから見に来る必要もなかったのだと分かった。
ネギは隣にいるのどかの顔を見て、握っている手を確かめた。隣にいる誰かが救いになるのだとネギは改めて思った。
眼下で盛り上がる舞台周辺と違って、アスカがいる武道会本部ではない方の高灯篭の舞台と向き合わない方の屋根の上は驚くほど静かだった。
座って盛り上がる街を見ていたアスカは、何かに気づいたように立ち上がった。
「来たか、アルビレオ・イマ」
「今はクウネル・サンダースと名乗っているので、出来ればそちらの名を呼んでほしいのですが」
待ち人が現れてゆっくりと振り返ると、そこにはローブを被ったアルビレオ・イマが立っていた。
「良くぞ、私の存在に気が付きましたね。タカミチ君との試合で強さのステージを上げたようだ」
何が嬉しいのか、フード越しでも分かるニコニコと笑っている男にアスカの目付きが剣呑になる。
「そんなことはどうでもいい。話があるから俺を呼び出したんだろ」
「ええ、まあ」
噛みつくように言ってくるアスカに、やはり笑みを崩さないアルビレオは組んでいた腕を解いた。
「まずは感謝を。あのような一方的な約束を守って決勝まで勝ち上がってくれたことに」
気取った仕草で頭を下げるアルビレオに向けるアスカの視線はどこまでも冷たい。
「そんなことを言う為に、わざわざ呼び出したのか?」
「十分に大事なことなんですがね」
「テメェ、人を舐めんのも大概にしろよ」
ギリッとアスカが噛み砕けないほどに歯が鳴り、変わらないアルビレオに瞳が怒りに満ちていく。
怖い怖い、と飄々とした仕草でおどけると、急に雰囲気が真面目なものに変わる。
ようやく本題に入れるかとアスカはアルビレオと話していると疲れて、少しだけ肩が落ちた。
「アスカ君。良き友を持ちましたね」
「は?」
いきなり変なことを言い出したアルビレオにアスカは阿呆みたいに口を開けた。
「切磋琢磨出来るライバルがいるのは幸運なことです。彼はきっと強くなりますよ」
「小太郎のことを言ってるのか?」
「ええ、彼のようなタイプと巡り合えることは稀有です。互いに刺激し合える関係は大切なものですよ」
小太郎をべた褒めするアルビレオ。嘘はついていないようだが、アスカは反応に困って微妙な表情を浮かべる。
アスカのなんともいえない表情に気づいたアルビレオは楽しげな雰囲気を崩さぬまま、胸の前で両手を打ち合わせた。
「それはともかくとして、本題に入りましょうか」
ようやくか、とアスカも口にしかけて、また話が脱線するのも面倒だと開きかけた口を貝のように閉じた。
「決勝まで来れたご褒美です」
向き合っていたアルビレオが、ここに来て歩を進めて距離を詰めて来る。
数メートルの距離を一歩ずつ踏破して、離れていた距離が無くなり、近距離で手を伸ばせば届くほどに接近して足を止めた。
ふわり、と手を伸ばしたアルビレオに何故か反応できず、短い髪の毛を逞しい手でクシャリと力強く撫でられた。強く掻き混ぜるような、どこか懐かしいと感じる撫で方だった。
記憶を遡っても該当する人物に心当たりがない。
「――――俺と戦わせてやる」
どこか中性的なアルビレオの声とは決定的に違う喉太いハッキリとした男の声だった。
麻帆良に来てから始めて聞いた、だけど脳裏にその人物を思い描くことを簡単だった。声に導かれるように俯けていた顔を上げた。
「!?」
そこにはもう誰もいなかった。アルビレオも懐かしいと感じた声の主の姿もなかった。辺りには歓声が満ちているだけで、見渡しても屋根の上には人の気配はない。
アルビレオは霞のように疑問だけを残して跡形もなく消えていた。
「なんなんだよ、一体」
一人しかいない屋根の上でアスカは誰にともなく一人ごちた。
気味悪かった。もしも神の手のようなものが本当にあるのなら、こうして人を導くように思えたのだ。そうなるとアルビレオは神の下僕である天使か。
空は快晴だったが、この時のアスカには自分すらも見えていなかった。