魔法先生ツインズ+1   作:スターゲイザー

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第32話 過去からの来訪者

 

 和美の部屋を出て大浴場に向かう夕映達の足取りは軽くない。

 

「結局、何も分からなかったね」

「残念ですが、元より当てになれば良しと考えていたことです。朝倉さんに手間をかけさせてしまいました」

「後でお礼をしないと。何が良いかな?」

「また後で本人に聞いてみましょう――――へくしっ」

 

 寄り道をした所為で濡れた体が更に冷えたのか、夕映はクシャミをした。年頃の乙女として幸いにも鼻水は出なくて良かったが、悪寒が走ったのかブルリと体を震わせる。

 

「急ごう、夕映。お風呂に入って体の芯から温まらないと風邪引いちゃうよ」

「ですね」

 

 悪寒も直ぐに引いたが、このままでは本当に風邪を引いてしまうと自覚した夕映はのどかの言葉に頷き、二人は足早に大浴場に向かう。

 麻帆良女子寮が誇る大浴場『涼風』に着いた時、大浴場は殆ど三-Aの生徒で貸し切りの状態に近かった。

 

「よー二人とも。帰り遅かったじゃん……………………どうしたの、なんか辛気臭い顔して?」

「何でもないです」

「うん、なんでもないから」

「そう? ならいいけど………」

 

 脱衣所で締め切り間近でも流石に年頃の女子中学生として風呂に入りに来て服を脱いでいたハルナと遭遇し、普段はちゃらんぽらんでも察しの良いところにあるハルナに辛気臭い訝しまれるも答えられることではない。適当に濁しつつ服を脱いで大浴場に繋がる引き戸を開ける。

 中に入ると、更に大勢のクラスメイト達の姿があった。風香・史伽の鳴滝姉妹にまき絵・裕奈・アキラ・亜子の運動部の面々も居る。少し離れたところに千雨や美空、美砂・桜子・円のチアガール三人組、超・葉加瀬・五月の超一味の姿もあった。

 各部屋にシャワールームがある寮にわざわざ造られているだけあって、熱帯の樹木まで植えられて『ジャングル風呂』と言ったところだ。部屋に風呂があるにも関わらず、こちらを愛用する者が多いのも頷ける話である。

 他の学年、クラスの者達の姿はまばらだ。皆数人のグループで浴場内に散り散りになっており、入り口付近は三年A組の生徒が占拠している状態だ。  

 

「塗るだけで、そう身・美白・引きしめ・潤い効果!! 一人でもお手軽全身パック『ぬるぬる君X』!! 蜂蜜のようにとろりとしたリッチな触感があなたのお肌を即座に大美人に!!」

 

 悩み捲くる三人の耳に裕奈の宣伝文句の大音量が浴室内を響き渡った声が聞こえた。思わず風呂にいる全員がそちらの方を向いたが興味を示したのは三-Aの生徒だけで、他のクラスや学年の生徒達は騒ぎが起こる前にそそくさと風呂から出て行った。

 ハルナは興味を引かれたの祐奈らの方に向かったが、夕映とのどかも一緒になって騒ぐ気にはなれず、掛け湯をして湯船に脚を入れる。

 気落ち状態なのを隠せないので離れた所に行こうとすると、奥まったところに先客がいた。

 

「古菲さん?」

 

 口元まで湯に沈んでいる褐色肌の少女――――古菲は夕映の呼びかけに視線を向けはしたが、その場から動こうとはしなかった。

 

「横、失礼します」

 

 普段と違う様子に困惑した夕映の隣をのどかが通り過ぎ、古菲の隣に座った。

 古菲は嫌がりはしなかったが夕映同様にのどかの行動に驚いたように目をパチクリとさせていた。自分だけ立っていても仕方なく、遅ればせながらも夕映も先に座ったのどかの隣に座る。

 三人は並んで座っているがそこに会話はない。

 沈黙を破ったのは、チャプンと湯の中から浮かび上がった古菲の握られた拳だった。

 

「私はこれでも自分が強い人間だと思てたアル。でも、今日その自負が打ち砕かれたアル」

 

 アスカに突っかかり、成す術もなく一蹴されたことを言っているのだろう。

 

「素質が違うのは最初に手合せした時から感じてたアルが、ああも一方的にやられると自信喪失アル」

「素質、ですか? 才能ではなく」

「さあ、アスカのことは良く解らないアル」

 

 キョトンとしたのは夕映とのどかの方であった。

 二人の目にはアスカと古菲のやり取りが見えなかったが、勝敗が決した以上は才能はアスカにあると考えていたのだ。

 

「そこら辺、アスカはちぐはぐアル。言えるのは戦闘者としての素質がズバ抜けているとしか」

 

 夕映達はそこら辺の理解が出来ないので首を捻った。

 古菲も理解されると思っていなかったのか、苦笑するだけで詳しいことを説明しようとはしなかった。自分達には理解できないが、そうなのだろうと考えることにした夕映は次の話題を振った。

 

「古菲さんはこれからどうするんですか?」

「これから……」

 

 夕映の問いに古菲は考えもしなかったかのように目を瞬かせた。

 古菲は何かを言おうと口を開いた。

 

「お、おい。ちょっと待てよ。マジで何かこの水、からみついてくるぞ!?」

 

 突然の大声に三人は発信者を見た。

 大浴場の端っこにいる夕映達と違って真ん中辺りにいる長谷川千雨が声の主だった。教室では物静かで大人しい彼女が、らしくもなく狼狽している。

 

「おわっちょっと待て、お前! そこはシャレにならねぇって!?」

 

 明らかな異常に真っ先に気付いた千雨が立ち上がって浴槽から抜け出そうとするも、湯が纏わりついて果たせず、変なところを触るのを感じて真面目に貞操の危機を感じ取って大きな叫びを上げた。

 

「きゃあ!?」「何、コレ?!」「いやあ~ん! ぬるぬる~~~ッ!?」

 

 千雨と同様に円・桜子にも被害が及び、ぬるぬる嫌いのまき絵は体を丸めて涙を漏らす。湯の中に「クスクス」「キャハハハ」という女の子のような笑い声にも気づかず。

 

「キャー!」「キャー!」「いやー!」「バッ……ちょっ……」

 

 彼女たちの反応が面白かったのか被害は千雨・まき絵・桜子・円の四人に集中していた。

 

「何をやっているのですか、一体」

 

 被害は主に四人の周辺にだけで起きている所為で他の少女達には遊んでいるようにしか見えず、夕映が呆れるのも無理はなかった。水中から迫る魔の手から逃れられる最後のチャンスだとも気づかず。この大浴場にいるのは人だけではないのだから。

 直後、背後から湯が巨大なドーム状になり、夕映達を包み込み。偶然、真っ先に気付いたのどかの驚愕を飲み込み、水中へと引っ張り込まれる。

 

(こっ…………これは!?)

 

 それがなんなのか確かめる時間すらなく、少女達はぬるぬるした何かに浴槽の底へ引きずり込まれた。夕映が襲われたと状況を理解した時には既に手遅れ。この中で唯一打開出来る可能性を持っていた武道派の古菲はタイミング悪く、引きずり込まれた瞬間に息を吐き出していた所為で早々に溺れて戦力にはならない。

 

(!?)

 

 よく見れば彼女たちの体に纏わり着く小さい女の子たちが浴槽の中を泳いでいるのが分かっただろう。それを示すように、夕映の目の前にせせら笑う少女の顔が浮かび上がる。

 目前にはあどけない笑みながら感情を移さない眼の小さな少女の姿。明らかに透明で、こんな生き物が他に存在するはずがない。少女が笑みを強くした瞬間、そこで夕映の意識は途切れた。

 

「あれ? ゆえー、のどかー?」

 

 ハルナが「湯船に入ると、先に湯船に入っている親友二人や古菲の姿が無い。片手にタオルを引っ掛けて名を呼ぶハルナの声に答えられる者は残念ながらいなかった。

 最後に少女達が吐き出した気泡が湯船を沸き立たせたがハルナが気付くことはなかった。誰に気付かれることなく少女達は連れ去られてしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 天ヶ崎千草は不機嫌である。過去形ではなく現在進行形で不機嫌なのであった。アスカが頭から血を流して雨に降られてずぶ濡れで天ヶ崎邸にやって来た時は、前後不覚になりかけたネカネに比べれば千草はまだ冷静だったが千草も心底驚いたものである。

 

「どうなんや、アスカの容態は」

 

 幼い頃からのコンプレックスである鋭い目つきが、今も自室で寝ているであろうアスカがいる部屋の方向へと向けられている。

 

「ネカネ姉ちゃんが言うには寝てるだけやって。しゃあないんちゃうか。最近は悪夢ばかり見てあまり寝ていなかったようやかなら」

「人に心配かけといて呑気に寝てるわけかいな。まあ、頭打っとるみたいやし変化があったら救急車呼ばなあかんか」

「千草姉ちゃん、目つきが怖いって」

「うっさいわ」

 

 アスカらの部屋を見る目つきが剣呑になっているのを、近くの椅子に反対向きに座って観戦している小太郎に指摘されて自覚したが改める気はなかった。

 千草は室内着である和服の裾を直しつつ、一人だけフローロングの床の正座をしているネギを見下ろした。

 

「正座をしているじゃなくて、させられているのを間違いだと思うんですけど」

「黙らっしゃい、この共犯者が。後、人の心を読まんといてくれるか」

「思いっきり考えてることが顔に出てるって、姉ちゃん」

 

 殴られはしなかったが雰囲気が凶悪な千草に、文句を言ったネギは射すくめられたように身を縮める。

 外では問題児達に振り回されがちな千草も天ヶ崎邸では家長であり、絶対者なのである。行儀を悪くすれば怒られ、門限までに帰らなければ食事にはありつけない。手のつけられない悪童だった小太郎を真人間とまではいかなくても通っている、小学校に溶け込むまでに矯正した手腕はスプリングフィールド一家にも十分に通用していた。

 

「共犯者って言い過ぎじゃありません?」

「侵害やって言いたいんか? 女の子を泣かせて苦しめた片棒を担いだ自覚がないんやったら………………分かってるやろうな」

 

 ドスの聞いた脅しそのものの言い方に、ネギも首を竦めて何度も頷くことしか出来なかった。

 

「分かってへんかったら地獄フルコースやったところやが、自覚をしてるんなら勘弁したろ」

 

 ひぃぃぃぃぃぃっ、と地獄フルコースが何なのかを知らなかったネギだったが、近くにいた小太郎が椅子から転び落ちながら蹲ってしまっては首を捻ることも出来ない。耳を伏せ、尻尾を股の間に入れて震えている姿はどう好意的に見ても怯えていた。

 ネカネの折檻と似たようなものなのだろうと、背中に多大な冷や汗を掻きながら断じて突っ込むまいとネギも心に誓う。この辺がネカネと波長が合うのだろうなと益体もつかない考えを必死に心中だけに収める。バレたら二の舞になるのは過去の経験から知っていた。ネギは過去から学ぶ男なのである。

 

「当のアスカがあんな調子やし、ネギばかりを責める気もないけどな。もうちょい遣り様というか、せめてうちらに相談の一つぐらいはしてほしかったわ」

 

 小太郎のことを気にもせず、千草が愚痴る。

 

「すみません。でも、僕達は間違ったことはしていません」

 

 褒められたことではないと分かっていても、悩んで苦しんで迷って傷つきながらも選んだアスカの決断をネギが否定できるはずがない。

 

「間違っとるとは言わんよ。うちは一般人がこっちに関わるのは反対や、但し相手が明日菜やなかったらな」

「意外やな。姉ちゃんは明日菜姉ちゃんがこっちに来るのは反対やと思ってたわ」

「復活速いね、小太郎君。それはともかく僕も同じように感じてました」

 

 慣れているのか直ぐに復活した小太郎が真っ先に意見を口にした姿は、哀しくもトラウマが常習化してしまった者特有の行動だった。自らもそうであるから努めて突っ込み過ぎないように注意したネギは、この姉達は弟妹を折檻することが趣味なのかと頭の一部で考えながら小太郎の意見に同意する。

 

「魔法無効化能力」

 

 ポツリと千草が漏らした単語に反応したのはネギだけだった。

 

「その様子やとネギはアーニャから聞いとるようやな」

「明日菜さんにその能力があると。ですが本当に」

「分かったんは修学旅行の時やけどな。確かめるのは止めときや。これ以上、秘密を知る者が増えるのはようない」

 

 今更ながらに気が付いたことだが、アスカ達は三人だけで完結してしまっている部分があることに千草も気付く。幼少期からの経緯を鑑みれば無理もない話ではあっても物事には良い面と悪い面が必ず存在する。今回は悪い面が前面に出た形である。

 

「何も魔法無効化能力やから明日菜が例外ってわけやない。だから、そんな睨まんでもええやろ。ちゃんと説明したる」 

 

 明日菜の能力を悪用する気なのかとネギの視線が鋭くなったのを制しつつ、どれだけ大人びていようとも子供の限界を超えれていないことを改めて千草は実感する。年を経ることだけが大人の条件ではないことを知っているが、年を経なければ成熟出来ないこともまたあるのだと目の前に少年教師の存在によって学んだ。

 

「魔法無効化能力――――大したもんや。希少にして貴重、あらゆる魔法使いの天敵にして、使いようによっては世界すらも滅ぼしかねんと言われた能力や。悪用されたらとんでもない」

 

 教師生活で千草も人に物を理解させるのに必要な手順を学んでいた。今回もその手順に乗っ取って話を進める。

 

「歴代の能力保持者は例外なく実験動物か、その能力を時の権力者達に死ぬまで利用されてきた。どんな目から見ても幸福とは言い難いやろ」

「だから、僕達は余人に知られる前に明日菜さんをこっちの世界から遠ざけようとしたんです」

「まず土台の前提から間違ってんねん。もうな、明日菜の能力はこのメンバー以外――――フェイト・アーウェンルンクスに知られてる」

「え!?」

 

 やはりこの事実をネギは知らなかったのだと、驚いている様子から千草は判断する。あの場にいた小太郎は明日菜が魔法無効化能力であると知らないはずで、ならば後から知ったアスカはどうなのだろうか。

 

「アスカは分かった上で拒絶したのか、分かっていなくても拒絶したのかが問題やな」

 

 と言いつつも、千草はそのこと自体は大して気にしていなかった。

 

「戦闘の最中やったし、そのフェイトいうんが、エヴァンジェリンも直後に現れたこともあって明日菜の能力のことを覚えてるとは限らん。やけど、前提が変われば考えも変わるやろ」

「いや、でも……しかし…………」

 

 今の動揺具合を見れば、少なくともアーニャとネギは余人が明日菜の能力を知らないと考えていたからこそアスカの決断に乗った面が大きいと分かる。

 政治の話まで子供にする気のない千草は、これでこの件に対する楔は打ち込んだと納得したはずだが表情は冴えない。

 

「問題はアスカや」

 

 決断の主導を握っているアスカ。最近の明らかな修行への傾倒は、戦闘ジャンキーなのは明白だったので元よりその気があったのだから絶好の機会と場を与えられれば理解できなくもない。ただそれが度を越していただけで。

 

「最低で半年やったか。周りよりも年くってどうすんねや。生き急ぎ過ぎてんねん」

 

 半年――――アスカが別荘を使用したことによって生じた外界との時間差である。この日数は決して無視できるものではないが、これでも抑制した結果なのだ。

 年を経ることを抑えることは吸血鬼のような不老にでもならない限り不可能である。時間を巻き戻すことは神ならざる人の身には出来ない事なのだから。

 

「一度、アスカと腹を割って話をしなあかんか。小太郎、向こうに行ってアスカが起きたら連れてきい」

「いつ起きるか分からんのに傍についてろっていうんか?」

「こういう問題は時間が空くとこんがらがってくんねん。頭を打ってるから様子を見なあかんけど、本当やったら叩き起こしたいぐらいなんや」

 

 言葉尻も強く言い切った千草。この中で最も千草に近い関係であるから彼女の焦燥を鈍感ながらも感じ取り、小太郎はそれ以上の言葉を紡ぐことを止めた。「分かった」と告げて立ち上がり、ネギと千草の視線を背中に受けながら小太郎はアスカ達の部屋へと消えて行った。

 

「…………風が出てきたような」

 

 与えられた情報、己らの決断に対して思索を深めていたネギは、ふとした拍子に零れ落ちたように聞こえた千草の呟きに知らずに下りていた顔を上げた。

 千草はもうネギを見ていなかった。その視線はカーテンに遮られた窓の向こうに向けられている。風が出て来たのか、窓がガタガタと音を立てパシパシと聞こえるのは雨粒が当たっているからだろうか。徐々に増していく音が風の勢力が増していくことを示している。

 

「嵐になるかもしれんな」

 

 不吉な予言とも取れる千草の囁きにネギが痩身を震わせた正にその時だった。突如としてドアが開いた。アスカ達のいる部屋のドアではなく玄関である。

 

「朝倉?」

 

 玄関に背を向けて正座していたネギよりも早く、千草が乱暴に天ヶ崎邸に入って来た人物の名を口にした。

 振り返ったネギは目を丸くした。よほど急いでいたのか、床に四肢をつけて息を荒げている。傘も持たずに来たのか、雨に濡れた服が年の割に豊満なスタイルにピタリと張り付いていた。高校生や大学生でも通用するスタイルがそんな状態にあっては、見方によっては淫靡に感じるものだが和美が上げた悲壮な表情が否定する。

 

「………! っ、!?……!!」

 

 天ヶ崎邸に躍り込んで四肢を床に付けていた和美が何かを言った。言葉は発せられていないが何かを言おうとしている。

 

「何を……」

「待ち、ネギ」

 

 問おうとしたネギを千草が止めた。その意味を問おうとしたネギは改めて和美の姿から、息が荒れて言葉が発せられないのではなく発することそのものが出来ないのだと気づいた。

 

「何や? 何を言いたいねん朝倉」

 

 大人の対応とでも言うべきか。言葉が出ないことに焦りを表に出していた和美が、穏やかに微笑んで近寄って来る千草の言葉に目に見えて落ち着きを取り戻していく。

 

「っ、ぁ……!」

 

 それでも言葉が出て来ない。まるで何かに邪魔をされているように。この現象を引き起こす要因としてネギの脳裏に一枚のカードが浮かび上がる。

 

「まさかアーティファクトによる制限?」

 

 和美のアーティファクト『ミライカメラ』には得た情報を他者に伝えることが出来なくなる制限がかかっている。具体的にどのような制限がかかるのかをネギも知らなかったが、伝える手段の一つである言葉そのものを出ない様にすることなのだと和美の反応から推測する。

 ネギ達の背後で再び別のドアが開く。

 

「なんだ騒々しい」

 

 今度こそ現れたアスカはふらつくのか片手で頭を抑えつつ、玄関付近にいる和美を見て目を丸くした。その後ろにはネカネと小太郎の姿もある。

 アスカの姿を視界に収めた和美の反応は劇的だった。フラフラの足で立ち上がり、和美の様子と存在に困惑しているアスカの下へ歩いて行こうとして果たせなかった。途中で膝がガクリと崩れ、倒れ込む。

 和美の異変にアスカの反応は早かった。

 

「おっと」

 

 軽い声と共にアスカは和美を受け止めていた。目の前にいたはずのアスカが何時の間にか移動していることにネカネが目を丸くしていた。そして小太郎はといえば、和美に意識を割かれていたとはいえ、目の前にいたはずのアスカの挙動を見逃した。

 

(俺が、見逃したやと?)

 

 意識を別に割いていても目前の挙動を見逃すなどありえない。それをしたということはそれだけアスカの動きが小太郎の知覚を超えたということ。

 この一ヶ月、アスカが真祖の吸血鬼であるエヴァンジェリンから師事を受けていたことは小太郎も知っている。負けじと今までのなんとなくではなく自らも地獄のような鍛錬を積んでいた。出来たばかりの友達の誘いを断り、アスカが一時間で一日を過ごせる特別な場所にいようとも負けないだけの鍛錬を。

 

「っ! ……!?」

「ネギ説明」

 

 和美が頑張って何かを伝えようとしているが理解することを一瞬で放棄したアスカが近くにいたネギに説明を求めるその背中を、小太郎はありえてはいけない事実に気づいてしまっていた。ぐらり、と何かが傾き、ゆっくりと暗黒の坂を転がり始めたかのような衝撃に立ち尽くす。

 

「多分、ミライカメラによくないことが映ったんだと思う。僕達の所に来たということは魔法絡みのことだと思うけど」

 

 推測は出来ても原因までは流石に特定できないと、説明役のネギも困惑していた。

 ネギの言葉を千草が引き継ぐ 

 

「時間から考えて一度は女子寮に戻ったんやったら刹那の方に頼む方が速いやろ。わざわざここに来るには遠すぎる」

「…………または刹那さんも巻き込まれて助けを求められないのだとしたら」

「嫌な推測やな、あり得るだけに」

 

 言い難そうに口を開いたネカネの推測に、千草は世界一苦い物を食べたかのように顔を顰めた。

 アスカに縋りついている和美の反応を見れば、推測が当たっていることが分かってしまう。

 千草は選択を迫られる。迎撃か、防衛か――――――――――それとも別の方法か。いずれにしても時間はない。取れる方法も限られてくる。

 

「ここは麻帆良や。危険があるかもしれんからって勝手に動くわけにはいかん」

「では、どうするんですか?」 

「まずは学園長への連絡やな。これはうちがやる」

 

 というよりも、こういう報告事は事態を理解しており、年長者の方が望ましいから自分がやることになると千草は心の嘆息する。修学旅行といい、東西交流の為に留学して来た千草が関わることでない。それでもやることはやらねばならないと思うのは性分だろうか。

 

「朝倉のアーティファクトの能力を説明すれば、最低限の確認はしてくれるやろ。時期とメンバーからして何かが起こるのは女子寮やし、確認しに行った方がええな。ネギと小太郎はうちについてき。朝倉のことは頼むで、ネカネ」

「俺も行く」

「怪我人は来るなっちゅうても、その顔は無理をしてでも来るやろ、アスカ。ついてくんのはええけど、目の届く場所で大人しくしきや」

 

 方針は決まった。アスカが女子寮に向かうことにネカネは良い顔をしないが、千草が言うように無理をするぐらいなら周りに人がいる方が良いと判断して差し出して来た和美を受け取った。

 ネカネに支えられている和美が何度目かも分からない数の口を開けた。

 

「………っ、み………皆を助けて!」

 

 言葉が出た。アーティファクトの制限が解除された意味を認識するよりもアスカが急に顔を玄関に向けた。釣られて全員が玄関を見て、一瞬外で降りしきる雨が地面を叩く音が室内を支配する。

 

「え……?」

 

 ドクン、ドクンと何故か高まる心臓の音が雨の音を掻き消す様にネギの耳に木霊する。

 半開きの扉が外から吹いた風に押される様にゆっくりと開く。開かれた扉。その扉の遥か向こうに人がいた。人の現在地は天ヶ崎邸からさほど離れていない場所だ。それこそ五十メートルの位置に立っている。

 天ヶ崎邸は隣のスプリングフィールド邸やエヴァンジェリン邸と同じく街外れの郊外にある。滅多に人が訪れる場所ではなく、こんな時間と天気で誰もいない通路の真ん中に傘も差さずに佇む人影があった。

 雨で詳細ははっきりしないが、誰かがいると感じるのは人が直感的に察する気配から。

 人影はゆっくりと水溜りを踏みしめながら歩いてくる、天ヶ崎邸を目指して。何故、向かってくるのか誰にも分からなかったが天ヶ崎邸にいる全員が直感した。人影は天ヶ崎邸に用があるのだと。

 一歩ずつ確実に近づいてきていることで強い雨に遮られて見えなかった人影の詳細がはっきりとしてくる。黒いロングコートを身に纏い、鍔広の帽子を目深に被っている。かなり高身長の男性だ。間違いなく180㎝以上の長身、下手したらこの中では一番背の低いネギの倍はあるかもしれない。

 

(体が…………動かない)

 

 もしかしたら自分達になど用はなく、ただ歩いているだけだと思いたいネギだったが、防衛本能は何らかの行動を移そうとするとするが体は意思に反してピクリとも動いてくれない。そこから一歩として動くことが出来ない。

 男性が放つ異様な雰囲気、只者ではない事が一目で理解出来たために、動かない肉体とは別にネギの意識は自然と戦闘態勢へと移行する。

 

「やあ」

 

 無関係であってほしいというネギの小さな願いは叶えられることなく、男性は天ヶ崎邸の数メートル手前で歩みを止めた。帽子のお陰で表情を窺う事が出来ないが、見える髭を蓄えた口元をニヤリと笑みの形に歪に歪めて喜悦の感情に染まっていることだけは分かった。

 敵、だと全身が発した警報にネギが身を委ねるよりも早くその横を通って、もしくは前にいた人物が爆発するように床を蹴って跳ねるように飛び出した。飛び出したのは二人――――アスカと小太郎である。

 

「疾っ!」

 

 小太郎よりも玄関に近かったアスカが先に天ヶ崎邸を飛び出し、右手を振り上げて男に飛び掛かった。距離の違いはあるにせよ、同時に飛び出した小太郎を大きく引き離して老人の懐に一気に踏み込んだアスカは振りかぶった拳を放つ。

 近くで雷が落ちたかというほどの重低音が雨の音を消し去る。アスカの目の前を雨粒が落ちて行く。

 

「そら、こちらも行くぞ」

 

 拳を老人は身動ぎ一つせずに受け止めて薄く笑い、カウンターの要領で右ストレートを放つ。この一撃をアスカは持ち前の反射神経で反応し、左手で右ストレートを受け流した。言い様からして相手が自分のことを舐めているように見受けられる間に次の手を仕掛けようとする。

 

「ぐっ!?」

 

 しかし、それよりも早く男が瞬きもしない間に放った左の拳が咄嗟に傾けた頬の横を通過する。威力はそれほどでもなく擦過傷が出来た痛みに顔を顰める程度。アスカの眼は男が構えるのを捉えている。相手の体勢を崩しつつ、男は本命の右拳を構えていた。

 本命に備えようにも、次いで放たれたジャブとでも言うべき左の追撃がバランスを崩す。

 男の攻撃は一発に終わらず、素早い左の連打。アスカは手だけで捌き切り、拳を右手の掌で受け止める。パン、と気持ちが良いとさえ思える音を響かせる男のパンチに、アスカは自らの失策を悟った。本命の右拳への備えを怠ったのである。

 

「良い反応だ――――だが、こっちもあるぞ」

 

 下から掬い上げるように放たれる右アッパーの射線上に辛うじて腕を割り込ませる。来ると分かっていながらも防ぐことしか出来なかった重い一撃によって身体を衝撃が貫き、体が宙に浮く。

 

「しまっ」

 

 無防備な体を晒してしまうことを悔やむ暇もなく、ぎゅるっと男が右足を起点に回る。

 冷静に宙に浮くアスカを観察し、回転力を付加された回し蹴りをアスカの防御した腕ごと蹴り飛ばした。空中であったこともあり勢いを殺すこともできずに蹴り飛ばされる。

 アスカの眼前を通過した雨粒が地面へとようやく落ちる。

 

「「「「「「次は俺や!!」」」」」」

 

 蹴り飛ばされたアスカと入れ替わるように無数に増えた小太郎が男に向かって突っ込む。

 

「おお、それが影分身という東洋の神秘かね」

 

 男の表情が驚愕に彩られたのは、向かってきた小太郎が六人に増えたという点。なんと小太郎は空中で六人に分裂したのだ。多角方向からの攻撃、六人の小太郎を相手にしても男は揺るがない。

 

「しかし、所詮はそれだけだ。数が増えようが君の強さは変わらない」

 

 入れ代わり立ち代り、自身に向かって上段の蹴りや顎狙いの突き、左から蹴り、右からフック、正面から打撃の嵐が繰り出されても冷静に捌いている。

 通常の分身と違い、全てがある程度本物に近い能力を持った実体である。その分身体が一斉に襲い掛かっては普通なら対処が出来るはずがない。男の腕が二つしかない以上、全ての攻撃を捌き切ることは不可能。

 不可能を可能にするとしたら、それは男の実力が小太郎を遥かに上回る時だけ。

 

「マジックショーがやりたいのならば、相応の場所でやりたまえ」

 

 男の左手が消えた。同時に五体の分身が掻き消え、残った一体が殴打されたように体を揺らす。

 

「君が本体か」

「ぐあっ!?」

 

 さっきのアスカと同じく空中に身を曝した小太郎へと男が放った右ストレートが鳩尾に決まった。

 殴り飛ばされた小太郎を、先に蹴り飛ばされて天ヶ崎邸のロフトに足から着地していたアスカが受け止める。

 

「きゃああ!?」

 

 突然、始まった暴力劇に驚く暇も無く、部屋の奥にいる和美の口から悲鳴が上がる。彼女を真っ白な顔色のネカネが奥の部屋へと引っ張っていく。

 

「無事か、小太郎」

「ちっ。強いわ、このおっさん」

 

 先の一撃をなんともなさそうなアスカから下りて、唇の端から流れる血を拭いながら小太郎も認めずにはいられなかった。

 男は小太郎の評価に帽子の鍔を微かに上げて、楽しそうにニヤリと笑った。

 

「うむ、素晴らしい。二人とも幼さの割に非常に筋がいい。私も楽しめたよ」

 

 構えを取ることもなく立っている男は、帽子の鍔越しに二人を明らかな格下相手と見ていた。

 

「なんやって?」

「待ちい、小太郎」

 

 こちらを簡単に倒せると思っている傲慢、子供扱いされた苛立ち、負けず嫌いな小太郎はヘルマンの言いようにカチンとさせられて、更に向かって行こうとしたところを千草が止める。

 玄関から出て来た千草は二人の後ろに立ち、男を見据える。ネカネと和美は玄関を出る時に部屋の奥に下がらせた。ネギは二人を守る最終防衛ラインで、千草の背に隠れるようにして携帯電話で学園長に連絡を入れてもらっている。千草がするべきことは、この男の目的を明らかにすること。

 

「こんな辺鄙な場所に何の用や、爺さん。この子らが喧嘩を売ったのは悪い思うけど、初対面にしてはえらいやることが物騒やないか」

「これは失礼した。私も些か興奮していたようだ。無礼は謝ろう」

「謝らんでええから去ねや。うちらは忙しいねん。喧嘩の相手が欲しかったら他を探し」

 

 これ以上は言うことはないと千草は胸の下で組んだ腕が振るえない様に強く握り、小太郎を抑えてくれているアスカに感謝していた。

 

「そうはいかない。こちらにも事情があってね」

「なんでうちらがあんさんの事情に付き合わなあかんねん」

 

 このまま引き下がってくれれば恩の字。しかし、千草の頭脳はその可能性が限りなく低いことを予測していた。和美の緊急の訪問と合わせるように現れた男、両者を結び付けるのは容易い。

 

「君達の生徒六人を誘拐させてもらった、と言えば私の事情に付き合ってくれるかね」

 

 最悪の推測が当たってしまったことに、予想を立てていても千草は表情を顰めるのを止めることが出来なかった。背後のネギが動揺したのが分かり、視線の先の男に和服の袖でネギが見えないようにするために両腕をゆっくりと開いて大袈裟なリアクションを取る。アスカが僅かに目を見開いただけで抑えていられるのは不思議だったが、今は目の前の誘拐犯の方を優先する。

 

「…………何が目的や? 身代金か? なんにしろ中学生を誘拐するやなんて最低やな」

「そんな俗な物ではないよ。私はこう見えても召喚された悪魔でね。雇われの身であるからして仕事は選べない」

「はん、望んだ仕事やない言う割には楽しそうやないけ」

「悪魔であるから他者が苦しんでいるところを見るのは何よりの喜びなのだよ。性分は消せないものだ」

 

 クツクツ、と笑って言われても嫌々やっているようには見えない。千草は男が自分の嫌いなタイプであることを認識して、心底から関わり合いになりたくないという感情で目付きが鋭くなるのが自覚できた。

 男は千草が機嫌を害しているのを感じ取り、笑みを収めて少年達を順に見ていく。

 

「さて、戯言はここまでにしておこうか。ふざけ過ぎて女性を怒らせるのは紳士足り得ない」

「子供を攫っといてどの口が紳士なんてほざいとんのや」

 

 ニヤリと男は笑って応えず、視線をずらして注意深く観察する眼を向けて来るアスカで止めた。

 

「お前は、誰だ?」

 

 アスカは今も痺れるのだろうか、攻撃を防御した腕の掌を何度も握ったり開いたりしながら記憶を思い返す様に眉尻をきつくし、男を睨み付けながら問いかけた。その問いに男は傍から見ても分かるほど喜悦を露わにする。

 

「問われたのならば名乗ろう」

 

 雨の中であっても気にせずに帽子を取った男が優雅に一礼する。露わになった顔は、年の方は定かではないが白に染まった髪と髭も相まって外見は高年齢に見える。しかし、老人といってもその体つきはガッシリとしており、動作に老いを感じさせない。

 

「我が名はヴィルヘルム・ヨーゼフ・フォン・ヘルマン伯爵。伯爵などと言ってるが没落貴族でね。まあ、これは今は関係ない。簡潔に言おう――――私は、君達の敵だ」

 

 顔を上げた男――――ヘルマンは帽子を被り直すことで表情を隠し、その真意を欠片も覗かせない。

 

「今から三十分後、学園中央の巨木の下にあるステージにて待つ。要求は大したことはない。人質を無事返して欲しくば、スプリングフィールド兄弟のみで来て、私を一勝負と行い、見事に打倒して見せ給え」

 

 言いながらも男の足下から粘性の高い水のような液体が絡み付くように伸びる。

 

「そうそう、人質の身を案じるなら助けを請うのも控えるのが賢明だと思うがね」

「あっ、待ちぃ!」

 

 一瞬の動揺の隙をついて、そう言い残すと一方的な要求に戸惑いと怒りを感じる千草達の前で、巻きあがった水は男を下に引っ張るように、足元にあった水溜りへと消えて行った。

 千草の制止の言葉はその場には届かずに水溜りだけが残った。

 

「くっ……」

 

 相手の言葉に動揺を誘われたとはいえ、何もできなかった千草は歯噛みする。まだ男の言うことが真実だという確証は無いので、事実を確認するために急いで少女達がいるはずの女子寮へ向けて向かおうと考え…………。

 

『成程のう。敵の目的はそういうことじゃったか』

 

 千草の背後から聞き覚えのある声がした。振り返ってもそこにいるのは嗄れ声の持ち主ではなく、まだ声変わりもしていないネギしかいない。千草とてネギが発した声とは思っていない。そもそも声自体が違う。声の発生源はネギが持つ携帯電話である。

 

「その言い方やと、そっちでもなんか起きとんのか学園長」

『面倒事じゃよ、格別のな』

 

 千草の問いに電話の主――――近衛近右衛門は疲れたように電話の向こうで深い溜息を吐いた。

 雨の音にも負けずに不思議と鮮明に声が聞こえるのは何らかの魔法を使っているからだろう。違和感を感じさせない自然さは学園長の魔法の腕が非凡であることを示していた。

 

『少し前に先程の声の男――――ヘルマンは儂の目の前に現れ、木乃香を人質に取ったとわざわざ宣言に来おったよ。さっき言ったようにアスカ君とネギ君以外が所定の場所に現れた場合、そして儂が学園長室から一歩でも動けば人質達の命の保証はしないとな』

「他にもなんか言われたんとちゃうか? 学園長ほどのお人が何の策も打たんわけがない」

 

 疲れた口振りから放たれる学園長の言葉は現在進行形で異変が起き続けていることを示していた。千草はその辺を突いてみた。

 

『…………封魔の瓶という物を麻帆良学園のあちこちに仕掛けられた。発見された封魔の瓶の中には低位とはいえ魔物が封印されており、何時封印が解けてもおかしくない状況にされておる』

「つまり、人質は女生徒六人だけではなく、この麻帆良学園にいる全員だと?』

 

 学園長が開示した情報に、聡いネギはその意味を逸早く気づいて戦慄した。

 ただの人間には低位とはいえ、魔物は十分な脅威である。あちこちに仕掛けられたというなら一つや二つではないはず。麻帆良学園のあちこちに仕掛けたというなら広範囲に渡り、麻帆良学園都市にいる全ての人間が無自覚の人質となる。

 

『現在、回収に成功したのが五つ。間に合わずに封印が解けたのは一つ。そっちは被害が出る前に再封印と出現した魔物の討伐に成功しておるが、正直こちらも人手が足らん状況じゃ。手を貸すことは申し訳ないが出来ん』

 

 ヘルマンが親切に封魔の瓶を置いてある場所を教えてくれるはずもなく、探す労力と回収と再封印の手間で人がかかる。どれだけの数があるかも分からず、目の前の事案に全力を注がなければ犠牲者が出る。

 たった六人と学園都市全ての住民の命。トップたる学園長がどちらを選ばなければならないかは自明の理。

 

「アイツの目的は何か知らないが、俺達との勝負を望んでるなら乗ってやる」

 

 命の天秤を左右する者――――ヘルマンとの対決をアスカは望むところだと胸張って請け負った。

 

「僕達がみんなを助けます」

 

 アスカに並び立つは双翼たるネギの役目。呼び出した父の杖を手に握り、決意も高く宣言する。

 

『すまんが、頼むぞい』

 

 言葉少な気に学園長は通話を切った。直後、通話が遮断されたように何も聞こえなくなった。もしかしたら敵によって学園長室に何らかの魔法的処置が行われたのかもしれない。

 

「行くぞ、ネギ」

「うん」

「おいおい、俺を忘れとんやないで。あの野郎には舐められた仇を返さなあかんのやからな」

 

 たった二人で敵地に向かおうとするアスカ達を、小太郎が止める。彼もまたこの事態にふんぞり返っていられるほど呑気な性格をしていない。彼らしく義憤に燃えていた。

 小太郎の参戦表明にネギが嬉しいような困ったような複雑な表情を浮かべる。

 

「でも、あの悪魔は僕達だけで来いって」

「そこはやり様や。うちに案がある。奴さんは三十分後っていう作戦の時間をくれたんや。直にアーニャとエヴァンジェリンも別荘から出てくる。時間は有効に使おうやないか」

 

 悪魔と同じ土俵に上がる必要はない。千草は悪魔よりも悪魔らしい笑みを浮かべて、逸る少年達を天ヶ崎邸へと押し込む。

 長い夜は、まだまだ始まったばかりなのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 学園中央にある世界樹が雄大な姿を見せている広場。残り三ヵ月を切った学園祭『麻帆良祭』に向けて、大学部にあるライブなどに使われる野外ステージには、雨が絶え間なく降り続いていた。

 降りしきる風雨と遠くで鳴り響く雷の稲光によって満たされた空間で、囚われていた一人の少女が不意に目を覚ました。

 

「ん、アレ? ここは?」

 

 囚われた一人の少女―――――神楽坂明日菜の瞼がゆっくりと開く。混濁していた意識が覚醒し始め、妙に重い瞼を擦ろうと手を動かそうとするが動かない。顔を顰めてぼやける視界が正常に戻ると、状況を把握するより先にそれが目に入った。

 

「ここって、学祭で使う大学部にあるステージ?」

 

 眼を覚ました明日菜が周囲を見渡すと目の前に広がる見覚えのある光景が広がる。

 学祭当日のライブの時には満員になるだろう客席は、学祭前である時期・夜中といってもいい時間・風雷雨が降りしきる悪天候、これだけの状況が重なっては誰もいるはずがない。

 激しく降る雨が地面を叩くが辺りに響き渡るステージ上で、明日菜は目を覚ました。両腕は頭上の屋根から伸びたツルのようなものに拘束されているが、何時までも悠長に観察している場合ではない事に気づいた。

 

「…………って、きゃああ――――っ!! なな何よこの格好は――――っ!」

 

 まだ五月も中旬から下旬にかけた時期は、夏が近づいているといっても薄着でいるには寒い季節。

 幾ら外にいるといっても屋根のあるステージ上にいて雨に濡れていないのに、妙に風や地面に跳ねた雨が体に直接当たる気がして見下ろすと、ビスチェと呼ばれるようなものだろうか。要するに明日菜の主観ではエッチな下着を着させられていた。記憶にない、金持ちのお嬢さんの下着を着させられた自分の格好に気付いて声を上げる。しかも、なぜか首からはペンダントがかけられている。

 状況を理解できずに混乱冷めあらぬ彼女に、笑い声を浮かべながら老紳士が姿を現した。

 

「ハッハッハ、お目覚めかね、お嬢さん」

「誰!?」

 

 恥ずかしさから薄らと眼の端に涙を浮かべながら隣から声が聞こえてきて、明日菜がそっちを向くと目の前には初老の紳士が立っていた。

 黒の長いコートを着て、黒の手袋、黒のブーツと全身黒一色。黒のつばの広い帽子をかぶった老人が、女子寮に侵入して明日菜をねじ伏せたヴィルヘルム・ヨーゼフ・フォン・ヘルマン伯爵がそこにいる。

 

「囚われのお姫様がパジャマ姿では雰囲気も出ないかと思ってね。少し趣向を凝らさせてもらったよ」

「そんな趣向はいらんわこのエロジジィ――ッ!」

「ろも"っ」

 

 喋り方・表情・動作の全てが紳士然としている癖にやっていることは、ただのエロ爺。圧倒的な力でねじ伏せ、人を攫った者がやることではない。明日菜が透明の蔦のような物に両手を上から固定されているのを利用し、羞恥から来る激怒に身を任せて勢いをつけつつヘルマンの顔面を力の限り蹴り飛ばした。

 両手が使えない状態ながら何とか自由の効く足でヘルマンの頬に強烈なキックをお見舞いする明日菜は、『囚われの姫君』で収まるには元気がありすぎるようであった。

 

「いやいや、最近の若者は軟弱になったと聞いていたが、彼らの仲間は生きが良いのが多くて嬉しいね」

 

 羞恥の収まりがつかずに追撃を加えようとした明日菜の動きが止まった。口調、表情共に柔らかいものがあるのだが、目だけが冷やかで自分を観察していることに気付いたからだ。

 気取って楽しそうに笑みを浮かべて言いながら、グローブに包まれた右手で折れて血が流れ落ちている鼻をゴキゴキと治すのを見て明日菜は声を無くした。無意識に気が込められていた蹴りは、避けも躱しもしなかったヘルマンの鼻を容易く折った。普段の明日菜なら泣いて謝罪する場面だが別の感情を抱いていた。

 

「なによ、アンタ。なんなのよ」

 

 恐ろしい、怖い、と。普通の人間であるならば痛みに泣き叫ぶか、成した明日菜を罵倒するか、表現の違いはあれど本質は似通ってくる。なのに、ヘルマンが表した感情はその何とも違う。それが恐ろしいと、怖いと熱した明日菜の感情を一気に冷まし、逆に冷静にさせてしまうものだった。

 気がつくと明日菜は小刻みに震えていた。本能的な恐怖に支配され、足が竦んでいる。

 

「ふふ、勘の鋭い子だ。好みだよ、君のような子は」

 

 明日菜が自らを警戒していることを見て取るとヘルマンは笑みを深める。それにより目つきも優しげなものに変わったのだが、明日菜は警戒を解くことはできなかった。逆に恐ろしいと、恐怖に震える心胆を押さえつける。

 不安がるように鼓動は速度を増し首筋の辺りを伝う雨とは違った冷汗が止まらない。分からない。なんだ、この気持ち悪い感覚は。修学旅行で僅かなりとも感じ取った実戦の空気とも違う。背筋をヌメヌメと蛞蝓が這い回るような異様な雰囲気。その雰囲気の名に至るよりも早く、明日菜を呼ぶ声がした。

 

「明日菜―――ッ!」「明日菜さん!!」

「!?」

「ああ、彼女達は私が用意した観客だよ」

 

 警戒心を露にヘルマンを睨んでいた明日菜は自分の背後、学祭で使うステージの奥の方から自分を呼ぶ聞き覚えのある声が聞こえ、拘束されている体を捻って後ろに振り向いた。

 

「こっちこっち、明日菜―――!」

 

 後ろから聞こえた声に振り返ると、半球状・半透明な物体が幾つか鎮座しており、中に見知った顔が閉じ込められていた。最も大きい水玉の中には、部屋にいた時の格好そのまま近衛木乃香や何故か裸の綾瀬夕映・古菲・宮崎のどかの姿がある。

 

「コラ―、エロ男爵!!」

「ここから出すアルヨー!」

 

 水らしき球体のドームの中でその壁を叩いている木乃香。物知らずにもヘルマンを罵倒しているのは上から夕映と古菲。

 

「みんな!?」

「彼女らは全て招待させてもらった。囚われの姫は多い方が映えるのでね」

 

 自分程には拘束されていないようだが同じように捕まったらしい級友達の姿に首だけを後ろに向けて叫ぶ。何故か木乃香以外はみんな全裸だったが。

 

「刹那さん!?」

 

 木乃香たちから少し離れたところで正反対の場所に、水球に入れられた見覚えのある級友の姿を見ると絶句した。

 木乃香達から見て向かって左側に、危険視されているのか水球の中で手足を縛られた刹那が浮かんでいた。意識が無いのか、眠らされたのか分からないが、目を硬く閉じた状態でピクリとも微動だにしない。

 

「退魔師の少女は危険なので眠ってもらっている。怪我一つさせていないから安心してくれたまえ」

 

 真ん中には水球のドームの中に服を着た木乃香と裸の古菲・夕映・のどかの四人。向かって左側に意識はないが普通の格好をしているものの両手足を縛られた刹那。自分も含めれば六人の少女達が捕まったということになる。

 明日菜には懸命に状況を冷静に分析しようと試みるも、事態を正確に飲み込めというほうが無理だろう。

 自分の腕を拘束している水の蔦はどれだけ力を込めようとも解けない。この面子の中で最強戦力である刹那は眠らされており、例え目覚めたとしても厳重に拘束されているので戦力にはなりそうにない。他に戦力になりそうなのは自分を除けば古菲ぐらいだろうが、言いたくは無いが武術と身体能力を発揮できない今の状態では他の少女達と大差ない。

 目の前にいる黒服の老人が放つ人ならざる雰囲気は紛うことなき強大な敵であることを予感させた。これが示すものはつまり、自分達だけで逃げることはほぼ不可能だということ。

 

「そ、そっちのみんなは何で素っ裸なの?」

 

 余裕を見せるヘルマンの笑みに腹立たしさを感じながらも脱出の為の糸口にと、木乃香以外が裸の理由を問いかけた。

 

「風呂場で襲われたんです!」

「文句はそのおっさんに言うアル!!」

 

 入浴場で攫われたというなら、明日菜をパジャマから下着に着替えさせるぐらいならば彼女達に何か着せた方が良かったのではないだろうかと疑問が脳裏を過る。

 

「流石に彼女達の服までは用意できなくてね。勘弁してくれたまえ」

 

 明日菜みたいに下着みたいなのを用意できたら着せたのだろうか。疑問は絶えない。

 

「なーなー、そこのおチビちゃん達!」

「こ、ここから出して―――」

「一般人が興味半分に足を突っ込むからこーゆー目に遭うンダゼ」

 

 膝をついて水球の壁を叩く木乃香とのどかは自分達を見張る三人の少女達相手に懇願するも、少女達がヘルマンよりも組しやすいと見たスライム達こそが水牢を作ったのであり、それに応えることなどするはずも無く、一見して可愛らしい見た目の彼女たちの返答はやはり辛酸なものであった。

 

「あうぅ」

「ム……」

 

 丸眼鏡をかけたあめ子、勝気そうなすらむぃに溶かして喰われないだけ在り難いのだと次々に脅され、大浴場に行く前に危惧していた通りの展開の正鵠を射た発言に言い返せずに夕映とのどかが押し黙る。

 

「ま、この水牢を中から破るには「すらむぃ、余計なことは言わなくてもいい」―――分かったヨ」

 

 三人のスライム少女たちが作った特製水牢。内からでは物理攻撃によって破られることはまずない強度がある。これを中から破るには、強力な魔法を用いらねばならない。

 彼女たちを嘲って中から出られる手段を言いかけたすらむぃをヘルマンが遮る。流石に言い過ぎた自覚があるのかすらむぃも大人しく頷いて木乃香達の傍から離れていく。最後の一体、長すぎる髪を床に垂らしたぷりんは最後まで無言だった。

 

「こんなことして、何が目的なのよ!」

「なに、大したことではない。仕事でね。『学園の調査』が主な目的だが…………」

 

 ここまで持って回る老人に激昂する明日菜だが、ヘルマンは特に隠し立てせず、事も無げに答えて白日の下へと曝け出した。

 

「『アスカ・スプリングフィールド』と『ネギ・スプリングフィールド』、そして君……………………『カグラザカアスナ』が今後どの程度の脅威となるかの調査も、依頼内容に含まれている」

「え…………わ、私!? ど、どういうことよ!!」

 

 木乃香も囚われている事からまた京都の時のように木乃香を狙った敵かと思っていた明日菜だったが思いもよらない言葉に驚く。『英雄の息子』に襲い掛かる脅威を知ったばかりなのでネギやアスカなら納得出来なくも無い。

 あくまで一般人である自分が脅威などと何を言っているのだ、と自らの名が出たことに明日菜は混乱した。ヘルマンの言葉に明日菜は戸惑うばかり。

 

「ふむ、来たようだ」

 

 彼女の戸惑いが手に取るように分かるヘルマンは説明を続けようとせず、ふと上空を見上げた。

 明日菜も釣られてヘルマンが見上げた先に雨雲を見上げると、強化をしなくても異常な視力を誇る彼女の視線の先に杖に跨ったネギと、生身で飛ぶアスカが一緒にこちらへ向かってくるのが見えた。

 

「ただ―――――ネギ君とアスカ君に対して個人的な思い入れがあるが、特にアスカ君には思うところがあってね。あの年齢では私を一瞬とはいえ欺いた技術と咄嗟の判断力を見せた。あの時からどれだけ使える(・・・)少年に成長したかは私自身、非常に楽しみだ」

「え……?」

 

 言葉尻からネギとアスカ―――――明らかにアスカと何かがあった台詞を聞いて明日菜の視線が下がって再びヘルマンを捉える。

 彼女の目には左手で軽く帽子をヘルマンの後姿しか見えなかったが、発する雰囲気が「嬉」に近いことは察しがついた。だが、それは長年会えなかった友と再会を喜ぶような感じではない。最も別の異なる何か。明日菜の中で目の前の老人とアスカを絶対に会わせてはいけないと嫌な予感が広がり始めていた。

 

「いた!! あそこだ!!」

 

 杖に跨って空を飛んで指定した戦いの場所へと向かっていたネギとアスカは、上空からヘルマンと明日菜の姿を確認した。

 降りしきる雨やステージの屋根で遮られて後ろの少女達までは確認できないが、ヘルマンと明日菜の姿だけは遠目ながらも確認できた。

 

「ラス・テル・マ・スキル・マギステル 風の精霊17人 縛鎖となって敵を捕らえろ!」

 

 二人の姿を視認したネギは、隣を飛ぶアスカと視線を合わせて先制攻撃だとばかりに魔法の詠唱を開始する。

 間違っても明日菜を傷つけないように、その魔法は攻撃ではなく捕縛を目的としたもの。

 

「魔法の射手・戒めの風矢!!」

 

 明日菜の場所からでもネギの魔法がヘルマンに向けて飛んでくるのが見えた。

 弱ければ捕縛の魔法にかかり、強いのならばなんらかの対処をする。

 牽制を第一に、対処の仕方の一つをとっても千差万別。アスカが何もしないのはヘルマンの対応から実力を図り、少しでも敵の情報を得ようとしているのだろうとヘルマンは当たりをつけた。

 時間の指定をして待っていると告げただけで、攻撃をしてはならないと言っていない。

 

「捕縛系の魔法で私の反応を見ようというのか。思いきりの良い選択だ」

 

 唇を笑みの形にして慌てず騒がず一歩も動かずに、敢えて放たれた魔法の迎撃はせず右手を前に翳した。

 

「まずはその選択を挫くことから始めようか」

 

 たったそれだけ、後少しでヘルマンに当たると思われたネギの魔法が何かの壁に消されるように掻き消えた。

 

「!? あうっ!」

 

 それと同時に明日菜の首にかけられたペンダントが光り輝いて、彼女に少しだけ電気が走ったみたいな痛みを与える。

 

「弾かれた!?」

「いや、何かに掻き消されたっぽいな」

 

 他の誰にも分からない明日菜自身にしか分からない痛みに顔を顰めていると、どういう訳か魔法の射手だけがまるで何事もなかったかのように掻き消えることに驚愕しつつ、二人がステージから離れた客席に着地した。

 

「みんなを返してください!」

 

 ステージの周りにある円状に配置された客席の一番上に降り立ったネギが叫んだ。

 隣のアスカは、彼らしくもない冷静さで囚われた少女達を見る。

 ステージ中央に囚われている明日菜ばかりに目がいくが、背後にも別の方法で囚われる少女達の姿が目に入った。ただ中にいる人間の意識はあるようで、水牢の壁を必死に叩いて助けを呼んでいる。

 

「ようこそ、私が主催した恐怖劇(グラン・ギニョール)へ来てくれた。歓迎するよ、アスカ君、ネギ君」

 

 囚われた少女達の前に立つヘルマンが悠然と一礼する。

 

「来たくて来たわけじゃない。こんなことをする目的はなんだ?」

 

 声に怒りを隠しきれていないアスカが一歩前に出て、ヘルマンに向かって真意を問いつめる。

 ネギは叫びを上げかけたところでアスカの横顔が視界に入ったことで、自らが頭に血を上らせていることに気が付いた。

 責任感の強い性分であるために、人質にされている木乃香達を見て、自分達が巻き込んでしまったという気持ちと守ってあげられなかったという不甲斐なさを感じていた。この状況で冷静さを失うのは致命的。

 交渉はアスカに任せることにして、ネギは状況の把握に努めた。

 

「いや、手荒な真似をして悪かった、アスカ君。人質でも取らねば、この平和な時代と場所で悪魔たる私が君達と闘う場を作れなくてね」

 

 悠然と構えてステージから場所からネギを見上げ、窘めるような口調で言葉を返すヘルマンは「全く以て情けない限りだ」と続ける。

 

「私はただ、君達の実力が知りたいだけだ。私を倒すことが出来たら彼女達は返す、条件はそれだけだ」

「む……」

「簡単なものだろう。勝者は得て、敗者は失う。世の鉄則だ」

 

 真意を話す気はないと暗に告げて、ヘルマンはアスカを見据えた。

 

「これ以上、話すことは無い。聞きたければ私を倒し、屈伏させてみたまえ」

「………………いいだろう、やってやる」

 

 条件は本当に至極単純。これ以上シンプルな解決法は無い。

 小難しいことを考えることを放棄したように見えるアスカは提示された条件に渋々ながらに頷いた。

 

「ネギ」

「分かってる。フォローは任せて」

 

 二人のバトルスタイルは確立されており、ペアを組んで戦う時はアスカが前衛・ネギが後衛を担う。

 既定の事実に頷きながら杖を構えたネギを見たアスカは、大きくジャンプして観客席の中段に着地する。

 

「来いよ」

「残念ながらこちらは既に動いているよ」

 

 特に構えを取るでもなく言ったアスカに、ヘルマンはグローブのつけた左手の親指と中指を弾いて何かの合図を出した。合図に呼応するように、足元の水溜りから突如として少女の姿をした三人組が現れてアスカに襲い掛かる。

 背後からすらむぃとあめ子が背後から迫り、二人に気を取られた瞬間に足下に現れた長い髪のぷりんがスライムの特性を活かし、腕を長く伸ばして足を搦め取ろうとする。

 

「しゃらくせぇ!!」

 

 アスカはその場で前転宙返りをして、ぷりんの接触とすらむぃとあめ子の強烈なキックを躱す。

 下げた頭の後ろを通過して足が前にきたところで踵落しの要領で、蹴りを放った直後のすらむぃとあめ子の背中を蹴り飛ばす。

 

「「うおっ!?」」

 

 すらむぃとあめ子は背中を襲った蹴りに最下段まで蹴飛ばされ、遅れてぷりんもやってきた。こちらはネギが放った低空からの魔法の射手に受けたことによるものだ。

 蹴り飛ばしてからアスカはスライム三人娘の存在に気づいたように目を瞬かせた。

 

「なんだ、アイツら?」

「スライムじゃないの。四肢が伸びてたし」

「イメージと全然違うじゃないか。スライムってのは、こうタマネギっぽい形のやつだろ」

「ゲームと現実を一緒にしたら駄目だよ」

 

 アスカが思い描いているのはゲームに出てくるような典型的なタイプで、ネギは苦笑しながら訂正する。かくいうネギも魔物図鑑で見聞きしただけでなので、軟体動物染みた少女達とイメージとの違いにちょっと驚いていた。

 

「で、どう? 戦える?」

「軟体動物っぽいだけだ。手応えは大したことない」

「女の子っぽい外見だからって聞きたかったんだけど、ま、いっか」

 

 完全に戦闘モードに入っているアスカに、聞きたかったことの本質がずれていたが戦えるならば問題ない。元より殴ると決めれば男女平等に殴り飛ばすアスカである。気にしたところで仕方ないと気持ちを新たにして杖を構える。

 

「フェアリー・テイル・マイ・マジック・スキル・マギステル 戦いの歌!」

 

 反撃とばかりに最下段から飛んで向かってくる三体のスライムを見遣り、アスカが【戦いの歌】という魔法を発動させた。

 【戦いの歌】は魔法使いが白兵戦に臨む際に使用される完成度の高い魔法。魔法使いの体は、持続性の高い対物魔法障壁によって保護され、また、筋肉の収縮力は、パワー・スピード・筋持久力の全てにおいて、飛躍的に向上する。そして、こういった超人的な筋肉の収縮による術者自らの肉体の破壊(肉離れや捻挫、腱の断裂など)を防ぐため、筋や腱の伸張力もまた高められる。また、筋の運動を支配する神経系の興奮が適度に高められ、運動における術者の反応速度が極めて高くなる。

 

「おお!」

 

 迎え撃つとばかりに飛んだアスカは、先頭にいたメガネをかけたあめ子に強烈な右ストレートを叩きこんで、後ろにいたロングヘアーのぷりんもろとも後方に吹き飛ばした。

 残ったすらむぃが空中で身を切り返して、攻撃を放ったばかりのアスカを強襲する。

「見えてんぜ」

 

 スライムの特性を活かして鞭のように撓らせて放たれた左腕の攻撃を受け流し、形を崩して振るわれた右腕の攻撃を左手で冷静に受ける。

 

「お」

 

 受けた右手が変形しながら左手に絡みついていくのを見ても焦らず、冷静に右掌打を顔に放って追撃を狙っていたすらむぃの狙いを阻んだ。

 

「アバ!?」

 

 掌打事態に大した打撃力は無かったようだが、無詠唱による雷の魔法の射手が込められていて、バチィッと何かが弾けたようにすらむぃの体が悲鳴と共に吹き飛ぶ。

 

「へっ、一矢の魔法の射手しか撃てないような奴の魔法なんて効かなイッ」

 

 定型を持たないスライムは魔法の射手程度では何ともない。

 スライムは、元々アメーバ状の決まった形を持たない生物なので、物理的なダメージは効果が無い。斬り裂こうが、叩き、すり潰しても直ぐにつながるのであまり意味はない。即座に斬られた分がつながる。

 幾ら実体がないといっても、それにだって程度というものがある。己を構成する全てが消滅しても存在できるなら真祖の吸血鬼並みに危険視されている。スライムが危険視されていないのは一定のダメージを受ければ破壊されることが周知されているから。例えば炎系魔法による蒸発等、魔法を使えば意外と簡単に倒すことが出来るのだ、スライムは。

 アスカはスライムの特性を知らないし、理解しているわけではない。だが、どうすれば倒せるかを本能で感じ取る。

 

「古いぜ、その情報――――――フェアリー・テイル・マイ・マジック・スキル・マギステル」

 

 すらむぃは、というよりヘルマン達はアスカ達の情報を調べていたのだろう。確かにアスカは魔法の射手、それも一矢しか使えない未熟者だった。しかし、もうその情報は過去の物である。

 

「来れ、虚空の雷、薙ぎ払え」

「ゲッ!?」

 

 奏でられる詠唱は雷系の上位古代語魔法のもの。すらむぃもこれから放たれる魔法が自分に当たればどうなるか理解して回避動作に移ろうとするが、雷の魔法特性によって痺れていて果たせない。

 

「助け――」

 

 ぷりんとあめ子に助けを求めようと、動く目だけを仲間に向けるとそこにいたのはネギが放った『紫炎の捕らえ手』によって身動きが取れなくなっている仲間の姿。

 親玉であるヘルマンはスライム三人娘達が劣勢になろうとも焦りの表情は無く、冷静に二人の実力を見極めようとする冷淡な眼だけがあった。

 

「雷の斧ッ!!!」

 

 魔法名が唱えられると、すらむぃの命を刈り取る巨大な雷の斧が振り下ろされる。

 すらむぃが最後に見たものは、視界を一杯に染める死神の刃だった。

 

「すらむぃ!」

 

 降っている雨を集めて内側から『紫炎の捕らえ手』を破ろうとしていたあめ子が、すらむぃの危機に咄嗟に叫びながら飛び出そうとしたが既に時は遅し。

 雷の斧がすらむぃを襲い覆い隠した直後、この夜で最も大きな爆発とガラスが割れるような音が響き渡った。

 圧する爆発によってすらむぃの存在を誰も確認出来ない。

 余波によって蒸発した雨の水蒸気にによって視界が遮られる。風はないが雨によって粉塵が晴れるのは通常よりも早い。回避不可能な状態だったすらむぃの安否が気になるあめ子とぷりんにとって、その僅かな時間こそがどんな時よりも長い時間だった。

 雨で洗い流されるように粉塵が晴れていく。粉塵が晴れた先には何もなかった。

 断末魔の声すら上げられずにすらむぃは跡形もなく消滅した。後に残るのは余波によって蒸発した雨の水蒸気だけ。勿論、核を完全に破壊された以上は再生など不可能。驚くほど呆気なく消滅した。

 

「――――――炎を纏いて吹きすさべ東洋の嵐」

 

 すらむぃの死を悲しむ暇もなく、ぷりんとあめ子にも死の気配が迫っていた。

 ネギが二体に向けて杖を向けている。既に魔法の詠唱は済んでいた。

 

「炎の暴風っ!!」

「クソッ!?」

「逃げるです!!」

 

 ネギが放った『雷の暴風』と同系統の魔法である炎熱の大嵐が、その牙も露わに二体に襲い掛かる。

 二体は仲間の死を悲しむ間もなく、檻のように捕らえている『紫炎の捕らえ手』に自ら突っ込んで場合によっては核を直撃する可能性があっても囲いから脱出する選択を選ぶ。

 水分で出来ている肉体が蒸発し、体面積を著しく減少させられたことを憤れはしない。炎の暴風は紫炎の捕らえ手を呑み込み、直進して観客席に着弾してダイナマイトが爆発したかのような衝撃を辺りに散らせる。

 スライム二体はダメージが大きく、炎の暴風が着弾した衝撃がステージに広がっている中で動ける者はいない――――アスカを除いて。

 

「――――来るかね」

 

 一直線に向かってくるアスカに対するように、ヘルマンが右手右足を前に少し腰を落として構えを取るのを敵意の視線で見据える。

 後少しでヘルマンの間合いに入るというところで、アスカが頭を斜めに傾けた。炎の暴風を放った後に直ぐに別の詠唱を始めていたネギの次なる一手が魔法名が唱えられる。

 

「紅き焔!」

「ぬ……」

 

 ヘルマンがネギが放つ紅き焔に気を取られた瞬間、アスカがギリギリまで残していた上体を動かして一気に側面に滑り込む。ヘルマンの視界からは、アスカの姿が消えたかのように映っただろう。一連の動きは水が流れ落ちるように自然に成された。

 

「あくまで人質の奪還を優先するか」

 

 ヘルマンの脇を通り抜けようとしたアスカの背筋に悪寒が走る。

 防御の構えを取る訳でもなく、寧ろこれを待っていたかのように無防備に紅き焔を無視してアスカに向けて拳を振り上げているのを感じて横っ飛びをして、ヘルマンを見る。

 あの場にいたら攻撃を受けたと感じ取った直感は直後に証明される。避けた場所を光が抜けて行った。その直後、紅き焔がヘルマンを直撃する。

 

「ひゃっ…………ああああっっ!!」

 

 紅き焔がヘルマンに着弾すると同時に、両手を頭上から下りる長い水の蔓で拘束された明日菜の胸元で光り輝くペンダント。またもやペンダントが光り、先程までとは違う強力な衝撃が襲って苦悶の表情を浮かべる。

 

「明日菜!?」

 

 両手を縛られて状態で明日菜が身を捩り苦しんでいる。上がった悲鳴にヘルマンから距離を取っていたアスカが叫ぶ。

 明日菜の首にかけられているペンダントが強烈な光を出して輝いていた。

 攻撃魔法の影響を受けた様子のないヘルマンは何か行動しようという素振りを見せない。まるで何かを確かめる様に目の前で壁にぶち当たったように掻き消されていく紅き焔の経過を観察している。

 そして最初から何もなかったように紅き焔は消えた。

 

「紅き焔が掻き消された?」

 

 弾かれるのではなく、消しゴムで消される様に消えた現象はネギにそう悟らせるのに十分であった。苦しそうだが明日菜の悲鳴も止んでいる。

 

「実験は成功のようだね。放出型の呪文に対しては有効だ」

 

 茫然としてしまいそうになるネギとアスカの意識を引き上げたのは皮肉にもヘルマンであった。

 並び立って驚愕する少年二人にヘルマンは口の端を吊り上げた。防がれる、弾かれる、ではなく「消される」という事に少年達は驚いていた。

 

「マジックキャンセル…………魔法無効化能力という奴だよ」

 

 ぽつりと、ヘルマンが呟いた言葉。 その言葉に聞き覚えがあったアスカとネギの顔が驚愕に染まる。アーニャから聞いた明日菜の能力だったのだから。

 だが、ネギはそれだけで全てに納得したわけではない。魔法無効化が明日菜の能力ならヘルマンはただ利用しているだけで、必ずどこかに手品の種があるはず。

 

(あのペンダントか……)

 

 明日菜の肢体を観察して最初に注目したのは豪勢な下着で、次に注目したのは胸元にあるペンダントペンダントだった。記憶を思い返せば魔法が掻き消される度に光り輝いてた……………ような気がする。

 明日菜の叫び声と苦悶の表情ばかりが印象に残っていてペンダントの印象が薄い。が、取りあえず下着とペンダントは合わないのでどう見ても怪しいと結論を出した。

 

「一般人のはずのカグラザカアスナ嬢、彼女が何故か持つ魔法無効化能力。極めて希少かつ、極めて危険な能力だ。今回は、我々が逆用させてもらった」

 

 今まで一歩も動いていなかったヘルマンが、まるで自慢するかのように苦しむ明日菜の下へ歩み寄ってペンダントを毟り取って笑う。

 

「さて…………そろそろ、私も混じらせてもらうとしよう。まさかこれで終わりではあるまい?」

 

 一歩踏み出したヘルマンに反応して、アスカがネギの前へと下がる。遂に敵の実働部隊のリーダーであり、上位悪魔のヴィルヘルム・ヨーゼフ・フォン・ヘルマンが動く。

 戦闘態勢を整えたヘルマンを見てネギの背筋に悪寒が走り抜ける。ヘルマンの全身には明確な殺意が宿っていた。

 ネギは持っている杖をギュッと強く握りしめると、気後れしないようにヘルマンを睨み付ける。自分に言い聞かせるように「大丈夫」と何度も何度も口の中で呟いた。だが心を蝕む悪夢にも似た恐怖心は、簡単には払拭できない。

 

「この一帯には外部の者が侵入出来ないように結界を張らせて頂いた。全力で戦って大騒ぎしても周囲に気づかれることはないよ」

 

 それはつまり、周囲に気兼ねすることなく戦えると同時に救援が来ないことを意味していた。

 

「取りあえずは見事だと言っておこう。すらむぃを苦もなく一閃し、ぷりんとあめ子を一蹴するとは、以前に会った時とは別人のようだ」

 

 パチパチと気の抜けたような拍手。発信源はヘルマンである。

 ヘルマンは凄惨な笑みを浮かべると、狂気で彩られた目で特にアスカを熱く見つめた。その声は冷や水のような冷たさで、直接視線を向けられたわけでもないのにネギを震え上がらせた。

 

「俺はお前と会ったことはない…………はずだ」

「うん? いや、そうだね。確かに今の私では分からなくても無理はないか」

 

 眉根を寄せて言ったアスカだが確信はないようだった。当のヘルマンは、疑問に返答を返すことなく一人で納得するように頷く。

 ヘルマンの前に戻ったあめ子が、仲間を殺されて呪い殺しそうな眼でアスカを睨んでいた。

 普段は無口なぷりんも表面上は分かり難いが目に暗い炎を燃やしていた。しかし、すらむぃを瞬殺したアスカと魔法使いとして優れた技量を持つネギらの底知れぬ実力を前にして迂闊に飛び出せない。それでも隙あらば何時でも飛び出せるように身構えていた。

 

「説明したいのは山々だが、今はしがない雇われの身であってね。私の仕事は、この麻帆良学園都市の調査、そして君達兄弟とカグラザカアスナの情報収集だ。依頼人より情報を手に入れ次第、直ぐに送るようにとの命令を受けている」

 

 ヘルマンはそう言うなり、懐に手を入れて掌ほどの大きさの水晶玉を取り出した。

 

「先に仕事を完遂させてもらおう」

 

 ヘルマンが手に持つ水晶球を握り潰した。同時にカッと眩い光がぷりん(・・・)を包み込む。

 

「すらむぃの仇!」 

 

 アスカの意識がヘルマンが手に持つ水晶玉にあるのを隙と見て、背後からの閃光で眼が眩むはずだと考えたあめ子が飛び出した。ぷりんの体が光に包まれているとも知らず。

 

「させるか!」

 

 水晶球で何をするつもりなのかは分からない。それでも自分達にとってプラスになるものではないと察知したアスカは、閃光に焼かれて眼が眩みながらも気配だけを頼りに飛び出す。

 ネギは冒険に出ることが出来ず、防御を選択して自分の前に障壁を最大で展開して突進したアスカの前にも風の防御膜を作る。

 

「伯爵! ナニヲ……」

 

 無口なぷりんも自分の中から魔力が抜き出されるのを感じて叫ぶ。あめ子もぷりんもこんなことをするとは聞いていない。飛び出したあめ子は背後にいるぷりんの状態に気づいていない。

 

「これは依頼者から渡された、命を代償とすることで発動する転移魔法具でね。すまないが君の命を使わせてもらう」

 

 ぷりんを構成していた全てが消滅していくのを見届けることなく、言いながら力を込めた一撃を放つ。標的は後ろで拘束されて動けない少女達。

 人の肉体など粉々に出来そうな拳から放たれる光弾を、囚われてる少女達には防ぐ術は無い。しかし、そこにステージの死角から超人的な速さで飛び出した現れた人影が防ぐ。

 

「やはり現れたか!」 

 

 結界を破って侵入したのはアスカだけではない。

 光弾を防いだ人影――――――犬上小太郎は受け切れずに跳ね飛ばされ、遅れた現れた千草が作った猿型の式神――――猿鬼に受け止められる。囚われている人質の救出の為に奇襲をかけるつもりだったのに、隙を見つける前に炙り出されてしまった。

 熊型の式神である熊鬼が刹那の下へと向かう。

 

「あ……あぁ……」

 

 ぷりんの体から魔力が抜け落ちて、形を成していた水が型から零れるように崩れていく。 

 

「間に合え!」

 

 この場にいる気配の一つが急速に薄れていくことに強烈な悪寒を抱いたアスカが叫びながら、進路上にいるあめ子ごと屠らんと右手に紫電を走らせる。

 あめ子がすらむぃと同程度なら、無詠唱の魔法の射手を収束させて拳に乗せた一撃の前には壁の役目すらも果たせずに突破できるはずだった。

 

「そうはさせんよ! 悪魔パンチ!!」

 

 囚われている少女達に攻撃を放って小太郎が防いだのを、ぷりんの時と同様に最後まで見届けることなく、ヘルマンが振り返りざまレーザー砲のような悪魔パンチをアスカに放った。間にいるあめ子がいるにも関わらず。

 

「!?」

 

 まさか仲間がいるにも関わらず攻撃をするとは想定していなかったので、視界が回復したばかりのアスカは咄嗟に大きく回避行動を取らされる。

 

「……ぁ」

 

 自分に迫る巨大な気配を感じて咄嗟に回避行動を取ったアスカを見て、あめ子は背後から迫るヘルマンの攻撃に気付いたが手遅れだった。何故、自分が攻撃をされているのか分からないといった表情のあめ子を、ヘルマンが放った悪魔パンチは一瞬の間に飲み込んだ。

 あめ子を呑み込んで直進し、咄嗟に受けることよりも回避を選んだネギがさっきまでいた場所を貫く。

 

「くそっ!」

 

 一度攻撃を回避したことで、回避動作によって取られた時間の遅れは致命的だった。アスカがぷりんの元に辿り着いた時にはそこに何もない。転移が一歩だけ早く成功したのだ。 

 

「ふふ、残念だったが転移は成功した。予想通り、侵入者も現れてくれた」

 

 二秒にも満たない攻防は仲間を仲間とも思えぬ攻撃によってヘルマンに軍配が上がった。

 もう明日菜には用はないとばかりにその場で跳躍して観客席の頂上に着地し、ぷりんがいなくなった場所で拳を握り締めるアスカを嘲笑うように哂う。

 

「ちっ、全部仕組んでたっていうんかい」

「招いた時にいた君達だ。来ると予想していたからこそ、慌てなかったに過ぎない。事実、私は君達の存在を感知できていなかった」

「まんまと炙りだされたことかいな」

 

 式神に人質の少女を助けさせた千草がステージ脇から現れて歯噛みする。与えてはいけない情報が敵の手に渡る。考え得る中で厄介なことだった。

 

「この……っ!」

 

 全てのスライム達が死んだことで、水球や水の蔦も形を成さなくなり、崩れ落ちた。明日菜は解放されると、千草の下へと走る。

 

「さしずめ、私の隙を伺って人質を奪還する作戦のようだったが――――――最早、人質に意味はない。好きにするといいさ」

 

 人質だった少女達が解放されたが、ヘルマンはその瞳でじっくりと吟味するようにアスカだけを見つめて完全に意識の外から外していた。

 

「強くなったな、アスカ君。本当に、あの時とは段違いだ」

「貴様のことなどどうでもいい。さっさと倒させてもらう」

 

 睨みつつ、言葉通り全身から戦意を漲らせてヘルマンに跳びかかろうとしたアスカだったが、次の一言で凍りついたように固まった。

 

「六年前はただ震えて守られているだけの君が、それをバネにしてこんなに強くなったのだからあの夫婦に感謝しなければならないかな」

 

 帽子のつばで隠れていた目の鋭さを増してヘルマンは言い放った。それは長年浮かび上がらなかった情景を脳内でチリチリと引き起こすものだった。

 

「え……」

 

 それだけで今にも飛び出そうとしてアスカの全身が固まる。世界の時が止まった様に感じられた。記憶の奥底にある六年前に感じた感覚によって体が震え出す。何故、ヘルマンが六年前のことを知っているのかという疑問はある。

 

「ああ、分からないかね? 君に会ったのもよく覚えているよ。私もあの時、あの村にいたのだからな」

 

 興奮しているのか饒舌なヘルマンの表情は、極上の獲物を前にした狩猟者のようであり、鮮やかな食虫花が毒を滴らせるかのような、おぞましくも禍々しい笑みであった。

 

「一瞬とはいえ驚かされたのだ。君に貰った一撃は今でも衝撃として残っている。あっという間にサウザンドマスターに一蹴されてしまったがね」

 

 一端、深く帽子を被って一瞬顔を見せないようにして楽しげに笑いながら帽子を脱いだ。帽子に隠された顔が再び全員の前に現れた瞬間、そこにあったのは違うものだった。

 

「……!? え……」

 

 捻れた一対の角が伸びる、どこからどう見ても人の顔ではない異形に明日菜は小さく声を漏らす。

 

「改めて自己紹介しよう。私の名はヴィルヘルム・ヨーゼフ・フォン・ヘルマン。六年前の冬の日、君達の村を滅ぼした悪魔だ」 

 

 まるでショータイムのように帽子を下ろしたヘルマンの顔。事実、彼にとっては楽しい楽しい娯楽の時間だ。子供の心の闇を穿り返そうが娯楽の一種に過ぎない。

 帽子を取り去った後にあったのは人間ではなく悪魔の頭。老紳士は、人間の真似をするのを止めて本性を曝け出した。

 

「はっはっは、喜んでもらえたかな。いい顔だよ、二人とも。その表情だ。いやぁ今時、ワシが悪魔じゃーと出て行っても若い者には笑われたりしてしまうからねぇ。これだけでもこの街に来た甲斐があったというものだよ」

 

 長く捻じ曲がった二本の角に、仮面を思わせる硬質な卵の殻のような漆黒の顔。瞳がないはずなのに、両目の部分は淡い光を放っている。

 

「……ッ!!」

 

 その姿を見ただけで、六年前のフラッシュバックにネギの呼吸と心臓が一瞬確実に止まって全身が凍りついた。

 

(あ、アイツは――――)

 

  深い恐怖と絶望を思い出して心臓が不規則な動悸を繰り返し、汗が噴出して瞳孔が一気に開いていく。ネギ・スプリングフィールドの肺が変な風に動く。息を吸っているのか吐いているのかも分からなくなる。それほどまでに頭がグチャグチャに混乱していた。

 明日菜達にも、その顔に若干見覚えがあった。それはネギとアスカの過去を見た時だ。視線だけでアスカを見るも、明確な反応は見えない。それがどうしようもなく不安だった。だが、視力の良い者なら分かったかもしれない。彼の両手の指先が、ほんの僅かに、しかし不自然に震えている事に。

 ヘルマンは右手で帽子を胸元に抱えたまま、割れた口から笑い声が出ている。

 

「あ…………あなたは…………」

 

 その顔を見たネギは息を呑み、呼吸さえも忘れたかのようにじっと見つめている。下ろした帽子の向こうにあった顔は、初老の老紳士といった顔ではなく彼の記憶に焼きつけられたあの夜の悪夢。その象徴的な存在。

 

「そうだ。私は君の仇でもある、ネギ君。ふふ、また再会できるとは、運命の女神がいるのなら感謝しなければな」

 

 ネギが浮かべる顔を見て、今の悪魔化して分かり難いヘルマンの表情が分かり易いように変化した。嘲笑、嘲り、何でもいい、負の感情が凝縮された狂気を感じさせる笑み。 

 当事者本人だったのだからネギは当然知っているはずだ。 虫が這い上がってくるような感覚が脳を埋め尽くし、身体が思うように動かない。ネギの目に、今はハッキリとヘルマンの背後に燃えさかる村の情景が浮かび上がっていた。

 

「お前が…………あの時の悪魔、か?」

 

 ヘルマンの一言一言に、巨大すぎる感情に逆にフラットになってしまったアスカの声が問いかける。

 

「断言しよう、アスカ君。君が会ったのも私だ。私が―――――君の仇だ」

 

 狂笑を浮かべた悪魔は言いながら帽子を再び被り直した。すると、悪魔の頭は消えて、再び一見温和そうな老紳士の顔に戻る。ただその表情はどこまでも冷ややかでその目には、何物よりも冷たく、心の闇を暴く冷徹な光があった。

 

「――――――――」

 

 アスカの顔から全ての表情が消えた。微かに取り繕っていた表面上の感情さえも消え去り、残った仮面染みた無表情がヘルマンを捉える。

 ヘルマンに顔を向けたまま、アスカは一秒間だけ目を閉じた。敵の前でありながら眼を閉じるなど愚の骨頂。それこそ相手がまさに一生物の恋をしたかのように恋焦がれていた相手だとしても。

 

「あの日、召喚された者達の中でも極僅かにいた伯爵級の上位悪魔の一人。君達の叔父さんや村の仲間を石にして村を壊滅させたのも、この私だ」

 

 人のトラウマを暴くことに対して何ら呵責を覚えておらず、それどころか薄く笑みを浮かべている悪魔。

 

「私を殺したサウザンドマスターと同じコンビネーションを身に着けたのだな。私に対する復讐の為かね。ならば光景と言っておこう。この身に鍛えた刃が届くか試してみるかね?」

 

 ネギの心音が上がり、全身から汗が噴き出ている。今までずっとナギを追い求めることで目を逸らし、封じ込めていた感情が、増幅され、理性という殻を破ろうとしていた。

 

「ネ…………ネギ先生?」

 

 のどかは思わず言葉を失った。見れば、静かに瞳を閉じたアスカと違ってネギの様子が明らかにおかしい。

 記憶がフラッシュバックする。あの日のことが鮮明に映し出された。他のことが何も考えられない。

 今のネギにとって、アスカのことも、明日菜ら少女の存在もも些細なことに成り下がっていた。下手に数時間前にその情景を他人に伝えただけに、その光景がいつも以上に鮮明に思い描ける。

 六年前、ネギ達が住んでいた村を襲った悪魔。目の前には自分の村人を石に変えた仇がいる。体の震えは収まるどころかどんどん増していき、さっきまで早鐘みたいに打っていた心臓がリズムを変えて、独特の血液の流れを作り始めた。

 溢れだす悲しみが、怒りが、憎しみが、一つに縒り合されて鋭い槍となって彼の中にあった理性と制御能力を貫き殺す。それらの感情に呼応するようにサウザンドマスター譲りの膨大な魔力が止めどなく溢れ出て、体に力が漲っていく。怒りに身を任せ、悪魔の前に飛び出そうとしたその時。

 

「ネギ、落ち着け」

 

 肩に置かれたアスカの手とかけられた声がネギを現世に押し留めた。

 怒りのままに振り返ったネギは唖然とした。

 

「六年か。長かったのか、短かったのか」

 

 笑っていた。アスカは笑っていたのだ。

 笑いながら前に出て口遊む。

 

「叔母さんも」

『いい、ここからはあなた達二人で逃げなさい。出来るわね?』

 

 怯えたアスカ達を宥める為に、優しく頭を撫でてくれたあの手を忘れていない。

 

『さあ、行きなさい! 走れ!!』

「叔父さんも」

 

 勝てないと分かっていながらも、悪魔に立ちはだかったあの背中を今でもハッキリと覚えている。

 

「村のみんなを…………何もかも…………」

 

 あの時の記憶が脳裏で再生させる。煮え滾るような血が体中を流れて沸騰するような感覚と、ドクドクと、耳に聞こえる血流の音が聴覚を支配する。体を巡る煮え滾る血。鉄の匂いが、味が、嗅覚を、味覚を支配する。ある意味で今のアスカを形作る契機となった事件。六年前―――――弱さは時として罪であると思い知り、色々なモノを失った日。

 

「みんなを石化させたなら知ってるはずだ――――――答えろ、石化した人達を元に戻す方法を」

 

 アスカがヘルマンに向けて静かに吠える。

 想いの激しさは、彼自身の肉体を超えて、雨に、風に、空へと伝わっていた。今までアスカが積み重ねてきた感情の代わりとばかりに空が泣いて終わることはない。風がようやく激情の向ける先を場所を見つけた歓喜を示すように猛り狂って大気を鳴かせる。

 

「答えると思っているのかね?」

 

 アスカの内側に収まりきらずに外界に漏れ出た力を感じ取って愉快になりながらも、挑発するように愉悦する。激発の声、怒りの瞳、この世界のあらゆるものを目の前の自分ごと否定しようとするアスカの瞳に喜悦が止まらない。

 

「言わないんなら吐かせるまでだ」

「出来るかな、君程度の力で」

「その為に鍛えた力だ。出来ないはずがない」

 

 ばちっ、と鋭い火花が空中で弾けた。バチバチと夜の森が激しく光を放ち、それらの火花は互いにつながって忽ち波のように広がっていった。雨の粒達が火花の波に触れて、あちこちで蒸発し始める。鼓膜を焦がすような甲高い金切り音がせり上がってくる。

 今までとは比べ物にならないほど、アスカの戦意が跳ね上がった。戦意に反応した統制された魔力によって大気が耐えられないと火花を震わせる。

 

「く……ぅ……」

 

 途端に押し寄せる戦意の奔流にその場にいる全員が息を飲み、心臓を握り締められるような恐怖を感じ取った。暴力的ともいえる圧迫感に押されてしまう程に全身から圧倒的な気配が吹き上がった。

 誰も動けない。指先を動かす関節の音すら、瞬きの立てる音すら心臓ですら止まってくれと願うほどに怖れた。特に他の鈍い者たちと違い、実力者である―――――いや、中途半端な実力を持つ古菲は大きく息を喘がせる。

 

(身じろぎ一つ出来ないアル。こんなところに後一分もいたら、こっちが参ってしまうアルよ)

 

 盾にする者がいない古菲と明日菜がこのように剥き出しの殺気を叩きつけられて正気を保っていられるのは、持ち前の精神力故。それがなければ殺気を浴びた瞬間に発狂していたかもしれない。それでも手で触ることさえ出来そうなアスカとヘルマンの発する凄まじい圧力に、古菲の精神は次第に圧倒されつつあった。

 言葉通り、後一分も殺気に晒されれば自ら自死を選びかねない。そんな状況であった。

 

「――――下がるで」

 

 二人の圧力に脂汗を掻きながらも、少女達の前に壁として立った千草がそう言った。それだけで少女達を支配していた過度の緊張からほんの僅かだけ解き放った。

 

「さっさと全員を連れて行け。今は一分一秒でも惜しい」

 

 視線を向けることなく、アスカは千草に言った。

 

「当初の予定通り全員でかかった方が確実や、って言うても聞きそうにないな」

「悪い」

 

 アスカの体からは湯気が立ち上っている。もしかしたら、その気迫で雨が体に触れぬ内に蒸気と化しているのかも知れない。それほどまでに今のアスカが放つ気迫は途方もなかった。

 

「ネギ。アレ(・・)を完成させるのにどれだけの時間がかかる」

 

 アレ、と固有名詞を言うこともなく向けた問いに、ネギはその意味を理解して生まれた感情を押し殺して奥歯を強く噛んだ。

 

「っ!? …………9割出来てるから一時間もあれば」

「この戦いが終わるまでに完成させろ」

 

 言い捨てて前に出たアスカの横に並ぶ人影が一つ。犬上小太郎であった。 

 

「まだ虚仮にされた分を返してないんや。俺もやるで」

 

 移動してアスカの横に並んだ小太郎が意気揚々に自分の拳と掌を合わせる。

 

「小太郎、お前も下がれ」

「なん、やと?」

「お前も下がれ、と言ったんだ」

 

 アスカは小太郎を見ることもなく止めた。その眼は一心不乱にヘルマンを見ている。一人で戦うという姿勢を前面に出し、決して小太郎を見ることはない。

 

「これは俺の戦いだ」

 

 だからお前は必要ない、とその背中が言葉よりも悠然に物語っていた。

 小太郎を置き去りにして更に一歩、アスカが前に進む。その背中が小太郎にとって今はとても遠い。

 

「なにやっとんねん、小太郎。行くで」

「…………ああ」

 

 唯人の身体能力しか持っていない少女達を熊鬼と猿鬼で抱えて大跳躍しながら、寂しそうな背中をする小太郎に千草は言った。

 答えた小太郎の声は小さかったが、確かな返事に千草は物哀しくなった。

 小太郎は理解してしまっている、アスカの気持ちを。理解しているからこそ、踏み込めない。

 

「友達やのにな……」

 

 友達だからこそ、小太郎は引き下がることしか出来なかった。

 少年少女達が去った直後、アスカの魔力が爆発した。

 

「くっ!?」

「「「「「「きゃっ!」」」」」」

「「うわあぁっ!」」

 

 衝撃波にも等しい力圧を浴びて、皆を抱えて跳躍していた式神の身体の構成が揺らぐ。何とか整えたが必死にステージから離れていく。

 京都で小太郎と戦った時の勢いのままに垂れ流すような魔力とは違う。精錬され、熟成され、芳醇と成った魔力が高まり続ける戦意と共に臨界を超えて物理現象となって現われたのだ。

 

「ふ…………ふふはははは、興味深い。実に興味深い。そこまで力をつけたか。あの時の少年がここまで力をつけると誰に分かろうか! これほど愉快なことはない!この時を待ちかねたぞ、少年!」

 

 アスカの魔力が吹き荒れるステージに一人残ったヘルマンは、自らが育てた戦士を前にして喜悦を抑えきれずに大きな笑い声を上げる。

 学園結界の中では高位の魔物・妖怪の類は動けない。ヘルマンほどにもなれば、自ら魔力を限界にまで押さえつければかなり動きが阻害されるものの動けないことはない。そんな状態でありながらも威圧だけで圧倒したのだから驚きだ。

 このまま真っ当に戦えば、恐らくアスカが勝つ。だが、ヘルマンの顔に焦りはない。何故ならば彼には秘策があった。

 

「時間だ」

 

 『学園結界』が落ちる。何の脈絡もなく、ヘルマンの力を抑えつけていた『学園結界』が突然、落ちた。途端、軽くなるヘルマンの体。

 麻帆良学園都市には高位の魔物・妖怪の行動を押さえる『学園結界』が張られている。低・中位なら周りに被害を及ぼさずに対峙することが出来る。だが、高位になればそれも難しく、また倒せる人材も少ない。『学園結界』はヘルマンの力を半分以下にまで下げていた。その縛りが解けた。

 

「君の内に秘める力はその程度ではあるまい。もっともっと見せてくれ!」

 

 最早、少女達やネギに一切の興味を失ったヘルマンは、奇妙に含みを持たせた言い方をして身構えると同時に体から凄まじい勢いで魔力を噴出させた。

 まるでヘルマンが本気を出すのに合わせたように落ちた『学園結界』によって彼を縛る鎖はない。鎖から解き放たれた猛獣が目の前の獲物に食らいつくかのような鬼気がヘルマンから放出される。その威圧感は先程の比ではない。比べることすら烏滸がましい程の力。

 アスカだけの力だけではなくヘルマンから発せられる魔力が衝突し、削って喰らい合い、時に反発することによってステージが嵐の如き風が吹き荒れる。両者の唸りを上げる力に呼応して、発生した衝撃波が風となって轟々と渦巻く。一転して収束に向かう力は、恐ろしい密度に肉体に凝縮され、今にも爆発せんと時を待つ。

 

「さあ、あの時の続きをしようか、アスカ・スプリングフィールド!」

 

 名を呼ばわれたアスカ・スプリングフィールドが返答するように厳しい視線をヘルマンに向けた。

 遂に出会ってしまった因縁の二人の行方は、ぶつかる以外にありえない。

 

「ここで潰えろっ!」

 

 先にアスカの方が爆ぜた。空気を切り裂いて砲弾となったアスカが一直線にヘルマンへと跳ぶ。

 

「来たまえ、アスカ君!」

 

 ヘルマンは獲物を目の前にした狩人のような顔でニヤリと笑い、翼をはためかせて空中を飛んだ。直後、二人の激突を覆い尽くすように雷が落ち、稲光が周囲を照らすと同時に轟く轟音が衝突を覆い隠した。

 

「だ、だめ……」

 

 それは『直感』ですらなかった。もっと原始的な動物としての本能に似た何かを神楽坂明日菜は感じていた。

 開始された激闘を阻む者はいない。それでも尚、そんなことよりも強く感じることがあった。

 

(駄目……あの二人が戦ってはいけない)

 

 何かが致命的に狂ってしまう。身動きできない状況にありながらそんな予感に苛まれていた。

 


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