やはり俺が闇鴉なのは間違っている   作:HYUGA

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第三話 生成りと生焼けのクッキー 前編

 

 

 ――2011年4月某日、東京・陰陽塾入学式当日――

 

 

 すぐに彼だと分かった。一目見た瞬間、鼓動が早くなるのを抑えられなかった。

 見方によっては、整っているように見えなくもない顔立ち。まるで死んだ魚の様に腐った目。何か得体のしれない雰囲気を醸し、どこか澱んだ霊気を纏うその姿は、間違いなく彼だった。

 陰陽塾の合格者ともなれば、呪術的に優れた素質を持った者達ばかりだ。だが、そんな者達の中において、彼は異端な存在だった。

 まるで周囲との接触を断つように耳にはイヤホンを入れ、純文学らしい本を黙々と読む。

 ゆえに、教室の誰もが、そんな彼に目もくれず、各々好きに過ごしている。

 教室で彼の素性を知る者はいない。誰も彼の存在を認識せず、そして彼自身、それを当然のことのように受け入れていた。

 たった独りで。

 たぶん、これからもずっと。

 だから、

 

 

 「……うん」

 

 

 彼女は被っていたぶかぶかのニット帽を深くかぶり直し、彼の席の前に立つ。

 教室では、その行為に気づく者はいない。けれど、そえでも彼女は構わなかった。あの日、あの時から、彼女はもう一度、彼に会いたいと願った。そして今度こそ、彼女は彼の側にいる。そう決めていたのだ。

 彼女に気づいて、彼が顔を上げた。正面から見ると、驚くほど、彼の目が腐っていることが分かった。

 柄にもなく胸が高鳴る。

 それを誤魔化すように、彼女は明るく笑った。

 

 

 「こ、こんにちは、比企谷くん。……私のこと、覚えてる?」

 

 

 自分を見上げる瞳に、不審と警戒が走った。覚えてないのだ。いや、本当は彼女にも分かっていた。彼が、自分なんかを覚えているはずがないことを。

 期待と不安に胸が揺れる。それを必至に押し隠しながら、彼女は必死に言葉を紡いだ。

 

 

 「私ね、由比ヶ浜って言うの…。由比ヶ浜結衣」

 

 

 分かっている。あれからまだ一年も経ってないとはいえ、あんな一瞬の出来事の話だ。自分にとっては忘れがたい想い出であろうと、彼にとってはそうではない。

 それでも、心から願った。どうか覚えていてほしい。あの日、あの時、彼が救ってくれた一人の女の子のことを。

 しかし、

 

 

 「……悪い」

 

 

 それはどこか苛立たしい、怒ったような口ぶりに聞こえた。

 やはり忘れているのだ。

 無理もない。そう、頭では理解しつつ、彼女は少なからずショックを受けた。そのうえ、この突き放すかのような態度だ。彼が自分を見る視線は、まるで仇を見るかのようだった。

 忘れられている覚悟は出来ていても、そんな態度、そんな視線は予期していない。自分でも気持ちが制御できず、彼女は思わず黙り込んだ。

 肌が切れるような痛い沈黙。

 すると彼は、落ち着かない様子で視線を逸らした。

 

 

 「……よ、用がないならもういいか? すまん。独りにしてくれ」

 

 

 そう告げたあと立ち上がり、逃げるように彼女の前から去っていく。

 彼女は彼を追うこともできず、ただその場に立ち尽くした。それでも、彼女達の会話に耳を傾けるクラスメートは誰一人としていなかった。

 

 入塾前から夢にまで見ていた―――。

 これがその、再会。

 

 

 

 

         *

 

 

 

 

 

 

 ――2010年4月某日、東京・陰陽塾――

 

 弱弱しいノックの音が、奉仕部の部室に響く。

 その音に呼応するかのように、俺と雪ノ下の視線は自然と扉へと向けられた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――― 第三話 生成りと生焼けのクッキー / 前編 ―――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「どうぞ」

 

 

 珍しいこともあるものだ、と。俺は少しだけ驚きの感情で、雪ノ下の入出を許可する声を聴く。俺はノックの音が鳴った入口に目を向ける。こんな辺境の地に来る物好きに、若干の興味がわいた。

 

 

 「し、失礼しまーす」

 

 

 戸が少しだけ開かれて、ちょこっとだけ隙間が空いた。そこから身を滑り込ませるようにして彼女は入ってきた。まるで誰かに見られるのを嫌うような動きだった。

 探るようにして動く視線は落ち着かず、俺と目が合うと、ひっと小さく悲鳴を上げ、情景反射なのか、被っているぶかぶかのニット帽を深くかぶり直した。

 その仕草に、俺は改めて彼女を女だと認識する。初対面の女子には、基本的に軽く悲鳴を上げられるのがデフォだからな。みんなだってそうだろ? え、なんだ、俺だけか。

 

 

 「な、なんでヒッキーがここにいんのよ!?」

 

 

 不意に彼女が声を荒げる。思わず、肩をびくりと震わした。

 

 

 「……いや、俺ここの部員だし」

 

 

 情景反射で答えてしまったが、ヒッキーってまさか俺のことなのだろうか。まぁ、雪ノ下は、明らかにヒッキーってイメージではないから、俺なんだろうけど。

 けど、俺にこんな知り合いいたか? いや、いるわけないか。だって雪ノ下と話すまで、最後に同年代の女子と話したのって…。……あれ? いつだっけ?

 と、とにかく。俺にこんな今時の女子高生みたいなギャルギャルしい知り合いはいないはずなんだ。俺にその手の女子高生との交流はない。なんなら、その手じゃなくともない。

 でも、向こうは俺の事を知っているみたいだし。はて、どこかで会ったことがあるのだろうか?

 

 

 「そ、そうだったんだ…」

 「…つうかなんでお前、俺のこと知ってんの? ってか、お前だれ?」

 「はあぁああああああああああ!?」

 

 

 至極当たり前のことを聞いたのに、すごい驚かれた。え? だから、なんで? 

 俺達のその会話を見て、雪ノ下は呆れたようなため息を漏らした。

 

 

 「あなたは確か、由比ヶ浜結衣さん、ね?」

 

 

 言いながら雪ノ下は、適当な椅子を引っ張り出して、由比ヶ浜(?)に座る様に促した。

 

 

 「あ、あたしのこと知ってるんだ」

 

 

 「えへへ」っと、由比ヶ浜は嬉しそうに笑いながら、落ちてきたニット帽をもとの位置に戻した。

 

 

 「えぇ。それと、比企谷くん。いくらあなたが教室で、一人さびしく自分の世界に引きこもっているニートだとしても、最低限、クラスメートの顔くらいは覚えておきなさい」

 「おい雪ノ下。確かに、俺は教室では穏形してて、周りを拒絶してるが、ニートはいいすぎだ。俺はまだ学生だからニートじゃねーよ」

 

 

 衝撃の事実。由比ヶ浜ってクラスメートだったのか。マジか。全然気づかなかった。

 いや、だって、クラスじゃ基本的に穏形してるから、俺の存在知ってる人間がいるなんて思わないじゃん。うん、だから僕は悪くない。

 

 

 「てか、お前。よく知ってたな。まぁでも、ユキペディアさんなら、全校生徒の名前覚えてそうだし、不思議はないか」

 「……その不愉快な呼び方はやめてくれないかしら。それと、私は何でもは知らないわ。知ってることだけよ。だって、あなたの存在なんて知らなかったもの」

 「なにおまえ。それ猫つながり? それから、ナチュラルに俺をディスるのやめてくれませんかね」

 「あら、別に落ち込むことではないわ。むしろこれは私のミスだもの。あなたの矮小さに目もくれなかったことことが原因だし、何よりあなたの存在からつい目を逸らしたくなってしまった私の心が弱いのよ」

 「……ねぇ、お前それで慰めてるつもりなの? 慰め方ヘタすぎでしょ。俺のライフはもうゼロだよ? 終いには泣くぞ、こんにゃろー」

 

 

 ぼっちの心って、かなり繊細なんだからな。

 そう言って、ジト目で雪ノ下を見るも、雪ノ下はまるで興味がないかのようにファサッと肩にかかった髪を払った。

 

 

 「なんか……楽しそうな部活だね!」

 

 

 突然の由比ヶ浜の言葉に、俺は目をひん剥いた。

 えっ、なに言ってんのこいつ?

 俺と雪ノ下が、仲良く見えるだと。頭の中、お花畑が広がってるんじゃないの?

 由比ヶ浜は、またずり落ちてきたニット帽を上げて「えへへ」と笑う。

 雪ノ下は、その言葉がどうにも気に入らなかったのか、「別に愉快ではないけれど……。むしろそのかんちがいがどく不愉快だわ」と、聞こえてきそうな冷たい視線を送っている。その視線に、由比ヶ浜はあわあわ慌てながら両手をぶんぶん振る。

 

 

 「いや、ほら、二人ともなんか遠慮しないで好きなこと言ってるし、ヒッキーってクラスじゃずっと穏形して引きこもってるし、ここでは凄いお喋りなんだなって! 教室だとなんかキョドり方、キモいし!」

 

 

 由比ヶ浜の攻撃。比企谷は精神に1000のダメージを受けた。比企谷の精神は死んでしまった。

 ぐふっ、由比ヶ浜、お前も俺をディスるのか。

 あぁ、なんかこの人をバカにしくさった視線には見覚えがある。そうだ、これは中学の時のクラスの女子がこんな汚物を見るようなときどき俺を見てたわ。陰陽塾じゃずっと、穏形で引きこもってるから、女子から見られることすらないしな。

 あ、ということはこいつは俺の敵じゃねえか。うわ、気使って損した。

 

 

 「……このビッチめ」

 

 

 あれ、口が勝手に。思わず小声で毒づいてしまった。

 

 

 「はあぁああああああああっ!? ヒッキーそれどういう意味だし!?」

 

 

 無論、俺の声は由比ヶ浜に届いていたらしく、お猿さんみたいにきーきーと喚く。

 これだからビッチは。近隣の事も考えろっつーの。ほら、雪ノ下なんていつもより数倍冷たい目してんじゃねーか。もう冬は過ぎてるのに寒いと思ったらこれだよ。

 

 

 「いや、ビッチにビッチと言って何が悪いんだ」

 「ビッて、いきなり何言ってんのよ! それに私はまだ処―――、わー! 今のなし! なし!」

 「安心しろ由比ヶ浜。もういまさらどれだけ見繕っても、お前のビッチ臭さは消えないから」

 「またビッチって言ったあぁあああああああああああああああ!!!!」

 

 

 由比ヶ浜は悔しそうにう~っと、小さく唸りながら、涙目でこっちを見てくる。

 雪ノ下は、そんな俺達のやり取りに疲れたのか、眉間に指を当てた。その表情を見る限り、この状況を、心の底からうっとおしく思っているようだった。

 

 

 「はぁ…二人とも。いい加減【黙りなさい】」

 

 

 そして、気が付いたときにはいつものパターンだった。

 いきなり声が出なくなった由比ヶ浜が、びっくりしたように「え?え?」と、きょろきょろする。対して俺は、もう慣れてしまったのか、この『声が出ない』という異常な状況にも、慌てることなくため息を吐いた。

 そして、雪ノ下に目で訴えける。「もう少し、他のやり方はないのか?」と。

 

 

 「あら、この場合これが一番効果的だと思ったのだけど?」

 

 

 俺の視線から、俺の考えをくみ取ったのか雪ノ下が応える。

 ここになって、由比ヶ浜もこの状況の犯人が分かったのか、雪ノ下を見る。ぶかぶかのニット帽がまたずれ落ちた。もうお前、それ小さいのにしろよ。

 

 

 「それより比企谷くん、紅茶が切れてしまっているのよ。何か飲み物を買ってきてくれないかしら?」

 

 

 なにナチュラルにパシらせようとしてんの。雪ノ下さんマジぱないわぁ。

 俺は雪ノ下を睨みつけた。

 

 

 「だって、あなたがいると話が進まないじゃない」

 

 

 いや、確かにそうだけどさ。そんな殺生な。せめてこの術解いてくんない?

 俺は指でトントンと自分の喉を叩く。

 

 

 「何か困ることでもあるかしら? どうせあなた、塾内を歩いても話しかけてくる人間なんていないのだから、別に問題ないでしょう?」

 

 

 ふざけんな。お前、知らないかもしれないけど、普段出てる声が出ないって、むちゃくちゃ違和感あって気持ち悪いんだぞ。そんな思いを込めて、雪ノ下を睨んだ。

 

 

 「そんなこと知らないわよ。いいから、早く行きなさい。じゃないと、さっきから声が出なくて涙目になってる由比ヶ浜さんが可哀想でしょ?」

 

 

 雪ノ下はこちらに目もくれず、肩にかかった髪をさっと手で払った。

 ……へーへーそうですか。そんな『が』のところを強調しなくても分かってるつーの。俺は、なんかこのやり取りがばかばかしくなって、鞄から財布を出す。由比ヶ浜がなにか申し訳なさそうにこちらを見ていた。

 

 

 「あ、それと比企谷くん」

 

 

 不意に名前を呼ばれて振り返る。なんだ? さすがの雪ノ下さんもこんな哀れな俺に思う所でもあったのか? そして、この場で唯一声が出せる雪ノ下は、普通の男子なら見惚れる綺麗な笑顔でおっしゃった。

 

 

 「私は『野菜生活100いちごヨーグルトミックス』でいいわ」

 

 

 由比ヶ浜のぶかぶかなニット帽がまたずり落ちた。

 

 

 

 

          *

 

 

 

 

 そこは、甘いバニラエッセンスの匂いで満たされていた。

 俺と雪ノ下。それから由比ヶ浜は陰陽塾から離れ、雪ノ下の家にやって来た。

 理由は簡単だ。俺達は、由比ヶ浜の依頼を叶えるためだった。

 そう、由比ヶ浜は平塚先生に勧められて奉仕部にやって来た今回の依頼主だった訳だ。

 

 由比ヶ浜の依頼内容は、とある人物に、手作りのクッキーを渡したいとのことだ。

 だが、その依頼を叶えるのは、この陰陽塾では些か困難なのだ。

 俺が、陰陽塾に入塾して嬉しかったことの一つに、調理実習がないということがあった。あんな好きな人とグループを作って料理するなんておぞましい拷問をしなくていいと思うと、俺は心が躍ったものだ。

 そして、それは必然的に『家庭科室』の存在の排除に繋がる。

 ゆえに、陰陽塾には『家庭科室』がないのだ。

 さて、ここで問題になるのが、どこで、由比ヶ浜の依頼を叶えるかということだ。一応、陰陽塾にも教員の当直用の簡単な茶室はあるのだが、如何せん小さく、機材も少ないため、複数で調理するには向かない。さらに、都合の悪いことに、地方から出てきてる俺も由比ヶ浜も、寮生であるため、自身で用意できる調理場がないのだ。

 そこで、白羽の矢が立ったのが雪ノ下の家だった。

 

 

 「おい雪ノ下。こんないいマンションに一人で住みやがって、なんだお前、ブルジョワじゃねーか」

 「あら、何か問題でも? お金があるのだから使うのは道理じゃない。それから比企谷くん、今回は特別だけど、私の家で何か問題でも起こしてみなさい。あなたを社会的に抹殺するから」

 

 

 と、まぁこんなやり取りもあったが、俺達はつつがなく依頼に取り掛かった。

 ちなみに、俺は味見役である。クッキーが出来たらメールするらしく、俺は二人が調理中は雪ノ下の家を追い出された。わー、信用ねー。

 てなわけで、二人の調理が終わるまで雪ノ下の家の近くにあった本屋で時間を潰す。

 あ、「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている」の最新刊だ。買っとかないと。

 そして、それから婚活パーティを追い出された平塚先生に会ったり、平塚先生に誘われて仕方なくラーメン食いに行ったりした。仕方ねーじゃん。だって、あの人渋谷駅の前で泣くんだぜ? ハチ公を待ち合わせにしていた人からすっげー変な目で見られた。

 まぁ、そんなこんなあって、俺はメールを受け取り、雪ノ下の部屋へと戻ったわけだ。

 え? なんでこんな無駄なこと話したのかだって? 人間、誰だって現実逃避したくなるときがあるんだよ。俺は遠い目で雪ノ下のマンションから見れる東京の絶景を眺めた。

 うん。とりあえず、一言言いたい。

 

 ど う し て こ う な っ た。

 

 

 「……木炭?」

 「クッキーだし!」

 

 

 俺の正直な感想に、由比ヶ浜は勢いよく反論した。

 おかげで、彼女の被ってるぶかぶかのニット帽が、また目元まで落ちた。

 

 

 「な、何を言ってるんだお前。こんな真っ黒なクッキーがあってたまるか。どうしたんだよ、これ。まさか火行符で焼いたのか…?」

 「ヒッキー! バカにし過ぎだし! ちゃんとオーブンで焼いたよ!」

 

 

 だったらなんでこうなるんだよ。オーブン使ったんなら、時間さえ守れば焦げねーだろ。

 え、だってこれどう見たってジョイフル本田の木炭じゃん。外で焼き肉とかする時に使うあれじゃん。どう考えても人が食べる物じゃないから!

 このあとどうすんの? まさか、これ食うの? いやいやいや、明らかにこれ発癌物質の塊だろ。

 無理無理! 絶対無理~!

 そんな俺の心境も露知らず、何か疲れた様子の雪ノ下は、残酷にも告げた。

 

 

 「さぁ比企谷くん。食べなさい」

 「殺す気かっ!!」

 「ふえっ! ひどいよっヒッキー!」

 

 

 いやいやいや、そんな捨てられた子犬みたいな目で見られても、これは無理だから!

 くそっ、こうなることが分かってたら自分そっくりの式を造っとくんだった。あーでも、あれって五感共有してるから無理か。

 

 

 「た、確かに見た目はあれだけど…食べてみなきゃわかんないことだってあるよ!…たぶん。……あれ、これホントに食べれるのかなぁ?」

 

 

 なんだか、後半あたりでは、由比ヶ浜自身、自信を失っていた。

 まぁ、なんだ。こんな状態の由比ヶ浜には残酷かもしれないけど、結論を言おうと思う。

 由比ヶ浜には、料理の才能はこれっぽっちもなかった。

 

 

 「おい、これマジで食うのかよ? なんなら火行符で焼いて、そこの窓から捨てるべきですらあるぞ」

 「ちょっ! ヒッキー!」

 「心配しないで。一応、食べられない原材料は使ってないから問題ないわ。たぶん」

 「……お前にしてはえらく曖昧な物言いじゃねーか。あと、そう思うならこっち向けよ、お前。目と目を合わせて、今の台詞もう一回言ってみろよ」

 「……黙秘権を行使させてもらうわ」

 「マジか、お前…」

 

 

 嘘だろ…。あの、もう一度言うが“あの”雪ノ下に「黙秘権」なんて言葉使わせるとか、どんだけなんだよ由比ヶ浜のクッキー。俺は戦々恐々の思いで、例の物体をしげしげと眺めた。

 

 

 「大丈夫よ、比企谷くん。私も食べるから」

 「……いいのかよ」

 「えぇ。私はあなたに試食をお願いしただけで処理をお願いしたわけではないもの。それに、彼女のお願いを受けたのは私よ? 責任くらいとるわ」

 

 

 そう言って、雪ノ下は皿を自分の側に引き寄せた。

 

 

 「それに、何が問題なのかを把握しなければ、正しい対処は出来ないのだし、知るためには危険を冒すことも仕方のない事よ」

 

 

 虎穴はいらずんば、虎児を得ずの精神か。さすが、雪ノ下さん。その律儀な思いに感服した。

 雪ノ下は、それこそ、バカな上官の命令で特攻させられる二等兵のような顔もちで、ごくりと喉を鳴らした。それは、明らかにおいしいものを前にした時の反応とは思えない。

 鉄鉱石と言われても不思議ではない黒々とした物体を摘み上げ、俺を見た。心なしか、目が少し潤んでいた。

 

 

 「……死なないかしら?」

 「俺が聞きてぇよ……」

 

 

 視線が由比ヶ浜へと向く。由比ヶ浜は、例のぶかぶかのニット帽が落ちてこないように押さえながら、仲間になりたそうな目でこっちを見ていた。……ちょうどいい。こいつも食えばいいんだ。人の痛みを知れ。

 

 

 

 

          *

 

 

 

 

 由比ヶ浜の創った(誤字ではない)クッキーはギリギリ食べることが出来た。

 けれど、その成果は芳(かんば)しくなく、何も得ることはなかった。ただの食い損だった。

 

 

 「理解できないわ……。どうしてあれだけのミスを重ねられるのかしら……」

 

 

 さしもの雪ノ下も、打つ手なしのようである。小声である辺り、一応、由比ヶ浜への配慮はあるみたいだが、それでも、我慢しきれず、漏れたという感じだった。

 疲れたのか、頭を押さえながら、雪ノ下はキッチンの方へと行った。

 俺は由比ヶ浜が作ったクッキー(仮)を一つとり、パクリと食べた。由比ヶ浜がびっくりしたように俺を見た。

 

 

 「マズッ!」

 「まさかの追い打ちっ!?」

 

 

 食べた感想はその一言で十分だった。正直、食べ物を名乗るのもおこがましい出来だ。

 俺は外で買ってきた『スポルトップ』を一気に煽り、飲み込めない物体Xの残骸を、無理やり異に流し込んだ。これ、明日腹壊したりしないよな?

 

 

 「……こりゃ、解決策は一つしかないな」

 「え! ヒッキーなにかあるのっ!」

 

 

 由比ヶ浜がキラキラした顔で俺を見る。だから、そんな勢いよく顔振れば、ほら。あぁ、またニット帽が目元まで落ちたよ。ってか、料理中くらいそのニット帽取れよ。もっと言えば、人んちに上がってんだから。

 よいしょっと、ニット帽を元の位置に戻し、由比ヶ浜は俺を見る。けれど、悪いが俺は由比ヶ浜のそのキラキラした顔の期待には、応えられそうになかった。

 

 

 「いいか、由比ヶ浜…」

 「う、うん」

 「お前の依頼を解決する方法。それはな……」

 「そ、それは…」

 

 

 俺が真剣な顔で見つめれば、由比ヶ浜が顔を赤くしてたじたじとする。

 そして、俺ハ告ゲル。真ノ世界ヲ。

 

 

 「由比ヶ浜。お前が料理をしないこと、だ」

 「それじゃ意味ないじゃんっ!!」

 

 

 いや、だってもうこれしかないじゃん。そこに、何か飲み物を持って雪ノ下が戻ってきた。

 

 

 「駄目よ。比企谷君、それは最後の手段だから」

 「それで本当に解決しちゃうんだ!?」

 

 

 うぅっと、唸りながら由比ヶ浜はニット帽を深くかぶる。

 その様子は、どこか消沈しているように見える。ま、ここまでズタボロに言われたんだから、そりゃそうなる気持ちも分からなくはないけどな。

 俺からも雪ノ下からも酷評された由比ヶ浜は。がっくりと肩を落として、深いため息をついた。

 

 

 「はぁ、やっぱりあたしって才能ないのかな……」

 

 

 ため息交じりに出た由比ヶ浜の言葉は、しかし、この氷の女王の琴線に触れてしまったようだ。

 

 

 「……解決方法がわかったわ」

 「どうすんだよ?」

 

 

 尋ねてみると、雪ノ下は平然と答えた。

 

 

 「努力あるのみよ」

 「……そいつはまた、陰陽師を目指してる奴の台詞とは思えない解決方法だな」

 

 

 雪ノ下のその答えに、俺は「ははっ」と、苦笑した。

 努力。それは、俺達の目指す業界では、あまり意味のない言葉だ。

 陰陽師の力は、才能によるものが大きい。それは、呪術界全般の認識だ。無論、だからと言って努力をしない人間はいない。けれど、俺は思う。努力する、というのは、最低の解決方法だと。

 しかし、雪ノ下は俺の言葉に首を横に振った。

 

 

 「そんなことはないわ。努力は立派な解決方法よ。正しいやり方をすればね」

 

 

 そして雪ノ下は、ニット帽で顔を隠す由比ヶ浜を見た。その瞳は、ただひたすら真っ直ぐで、見つめられた人間を決して逃がさないという力強さもあった。

 

 

 「由比ヶ浜さん。あなたは才能がないって言ったわね?」

 「え、あ、うん」

 「その認識を改めなさい。最低限の努力をしない人間には、才能がある人を羨む資格はないわ。成功できない人間は、成功者が積み上げてきた努力を想像できないから成功しないのよ」

 

 

 凛と言うその姿に、俺は不覚にも見惚れてしまった。雪ノ下の言葉は辛辣だった。そして、反論を許さないほど、どこまでも正しい。正しいからこそ、俺にはその言葉がひどく眩しかった。

 

 けれどそれは、どこまで行ってもやはり「才能のあるやつの」台詞でしかなかった。

 

 

 「で、でもさ、こういうのみんな最近はやらないっていうし。……やっぱり、こういうの合わないんだよ」

 

 

 由比ヶ浜自身。ここまで直接的に正論をぶつけられたことはないのだろう。顔には戸惑いと恐怖が生まれ、彼女はそれを隠すように、ニット帽をまた深くかぶった。

 けれど、もう何度目になるか分からないその行為が、雪ノ下の中にある「なにか」に触れた。

 

 

 「……由比ヶ浜さん。いい加減、その帽子を脱ぎなさい。ひどく不愉快だわ。あなた、自分が触れてほしくない事を言われると、いつもその帽子で顔を隠すわよね? そんな現実逃避の行動では、何の解決にもならないわ。ちゃんと現実を直視しなさい」

 「え…でも、私…。みんな、何も言わないから…」

 「だから、その周囲に合わせるのをやめてと言ってるのよ。自分の不器用さ、無様さ、愚かしさの遠因を他人に求めるなんて恥ずかしくないの? それじゃあ悩みは解決しないし、だれも救われないわ」

 

 

 雪ノ下の語調は強かった。

 救われない。それはどういう意味なのだろう。少なくとも、この状況に合う言葉ではない。だいたい「救う」なんて言葉、陰陽塾の塾生とはいえ、一介の女子高生が口にする言葉じゃないだろう。いったい、何が彼女をそこまで駆り立てるのか、俺にはとてもじゃないが分からなかった。

 

 

 「……」

 

 

 由比ヶ浜は気圧されて黙り込む。俯く彼女から表情は読み取れないが、ただニット帽からは決して手を離さない、彼女のその姿に、俺はいい加減疑問に思った。

 思えば、最初からそうだった。由比ヶ浜結衣。彼女は、今日初めて部室に来た時から、決して帽子を脱ごうとはしなかった。料理をするから脱げ。人の家に上がるから脱げ。決して口にはしなかったが、それは常識の範囲内だ。いくら彼女がアホの子とはいえ、それくらいの節度はあるはずだ。

 だが、それでも彼女は帽子を脱がなかった。まるで、何かを守るかのように。

 

 

 「「……」」

 

 

 雪ノ下も、由比ヶ浜も、それから少しの間、何も話さなかった。

 雪ノ下は由比ヶ浜が帽子を脱ぐまで、由比ヶ浜は雪ノ下が許してくれるまで、お互いに、譲る気はないようだ。そして、二人の眼中にすら入れないオレェ…。気まずい沈黙が雪ノ下の部屋に流れる。

 

 だが、やがて、由比ヶ浜はキュッとニット帽を掴む手に力を入れた。そして、何かを決意したかのように、雪ノ下を見る。由比ヶ浜の瞳は潤んでいた。けれど、それと同時に何か強い決意を感じた。

 

 

 「……そうだよね。こんなの、二人に失礼だもんね。分かってる、ホントは分かってた…」

 

 

 そう言って、由比ヶ浜は俺と雪ノ下を交互に見る。「分かってた」という彼女のその言葉が、何を意味するのか、俺には理解できなかった。けれど、由比ヶ浜がその帽子に、並々ならぬ何かを秘めているのだけは分かった。

 そして、由比ヶ浜は「はぁ~」と、一度大きな深呼吸でワンクッション挟んで、

 

 

 「……大丈夫。きっと、ヒッキーと雪ノ下さんなら。こんな私でも―――」

 

 

 ばさりと、勢いよくニット帽を脱ぎすてた。

 

 

 「お?」

 「…あら」

 

 

 隠れていた茶色い髪がふわりとたなびいた。思わず声が出る。それは雪ノ下も同じらしく、珍しく驚きの表情を浮かべていた。

 帽子に隠れていた由比ヶ浜の素顔。髪を出しただけで、こんなにもイメージが変わるとは思わなかった。脱いだら凄いとか、ネタ古すぎだろ…。けど…、まぁ…、悪くはないな。

 

 

 「ごめん。次はちゃんとやる」

 

 

 由比ヶ浜は、逃げなかった。肩が小刻みに揺れている。声も今にも消えそうなか細いものだった。だが、それでも由比ヶ浜は逃げなかった。その姿に、俺は一種の感動を覚えてすらいた。

 

 

 「ありがとう、雪ノ下さん。私、決めた。もう逃げないって」

 

 

 ぱさり落ちたニット帽には目もくれず、由比ヶ浜は雪ノ下をまっすぐ見つめ返す。

 その姿は、さっきまでの自信なさげな由比ヶ浜ではない。気のせいか、隠れていた髪が露わになったおかげなのか、さっきまでの由比ヶ浜以上に輝いて見えた。

 俺は雪ノ下に目配りする。雪ノ下もどうやら、すると雪ノ下も俺に視線を向けたらしく、すっと目があった。だが、それが気に入らなかったのか、雪ノ下はまるで素直じゃない猫みたいに、すぐにぷいっと目を逸らした。

 苦笑しつつ、俺は雪ノ下に言う。

 

 

 「……正しいやり方ってやつを教えてやれよ。由比ヶ浜もちゃんということ聞け」

 「……あなたに言われるまでもないわ」

 

 

 おっと、それは大変失礼しました。

 はじめこそ戸惑っていたものの、雪ノ下も由比ヶ浜の変化には好意的に見えた。俺の言葉に、ふっと、短いため息をついて、雪ノ下は頷いた。

 

 

 「それでは由比ヶ浜さん。一度お手本を見せるから、その通りにやってみて」

 

 

 そう言って立ち上がると、雪ノ下は手早く準備を始めた。

 

 

 

 

 

          *

 

 

 

 

 

 

 「なんか違うよ……」

 「どう教えれば、ちゃんと伝わるのかしらね……」

 

 

 完成したクッキーを見て、由比ヶ浜がしょんぼりと肩を落とす。それに呼応するかのように、雪ノ下もうんうん唸りながら首を捻った。

 二人の作ったクッキーはそれこそ、雲泥の差ほどあった。食べ比べてみたら一目瞭然。明らかに、雪ノ下の作ったクッキーがうまかった。

 けど、それでも由比ヶ浜に成長がないわけではなかった。今では、由比ヶ浜が作るクッキーも十分にクッキーと呼んでいいレベルのものが出来ていた。さっきの木炭紛いのものに比べれば、随分とマシになった。普通に食べる分には別に問題はない。

 けれど、由比ヶ浜も雪ノ下も、納得はいかないようだった。

 俺は二人の様子を見つつ。クッキーをもう一つ齧(かじ)った。

 

 

 「あのさぁ、さっきから思ってたんだけど、何でお前ら美味いクッキー作ろうとしてんの?」

 「はあ?」

 

 

 由比ヶ浜は「こいつ何言ってんの? 童貞?」みたいな顔でこっちを見た。あまりにもバカにしくさった顔だったから、イラッとして、思わず呪符ケースに手を伸ばしかけた。

 まぁ、その前に、「私の家でなにかしたら、あなたをパチンとするわ」的な視線で由比ヶ浜の後ろにいる雪ノ下から見られたから、なんとか抑えれた。パチンってなんだよパチンって。

 顔が引くつくのを何とか抑え、俺は下手に出て言葉を出す。

 

 

 「明日。俺がお前らに、本当の手作りクッキーってやつを食わせてやる。だから、今日はもう解散にしよう。そろそろ日も暮れるしな」

 

 

 俺がそう言うと、二人は怪訝そうな顔をするも、コクリと頷いた。

 二人が調理の後片付けをするのを確認すると、俺は由比ヶ浜のクッキーを失敬する。形は悪いし、不揃い。それに加え、一口かじったら中は生焼けだった。だけど、

 

 

 「……このクッキーを貰うであろうリア充やろう。……砕け散れ」

 

 

 俺は彼女の思いがこもったそれを、細心の注意を払って袋に詰めた。

 

 

 

 

          *

 

 

 

 

 

 ―― 2012年4月某日、東京・陰陽塾奉仕部部室 ――

 

 

 「さぁヒッキー! 本物の手作りクッキー見せてもらうからね!」

 

 

 翌日の放課後、いつもなら静かなはずの奉仕部の部室にソプラノボイスの声が響いた。

 

 普段なら静かな部室で、由比ヶ浜がきゃんきゃんと吠える。

 明らかに怒気を含んだ声。だが、どうも由比ヶ浜の怒っている姿には如何せん迫力がない。なんかどこか犬っぽいし、甘噛みされた気分だ。

 対して雪ノ下は、こちらもこちらで素直じゃない猫みたいにそっぽを向いている。

 けれど、雪ノ下の目線はしっかりと俺の持つ袋に向いている辺り、彼女もまた俺の作ったクッキーを気にしているようだった。

 

 

 「まぁ待てって、由比ヶ浜。とりあえず雪ノ下、紅茶でも入れてくれよ。なにか飲み物がないと味気ないだろ?」

 「いやよ。あなたに命令されるなんて屈辱でしかないわ」

 「……雪ノ下さん。紅茶を入れてくれませんか。お願いします」

 「はじめからそう言いなさい」

 

 

 なんとまぁめんどくさい女だ。

 けれど、言った事は忠実にこなす雪ノ下は、彼女が持参したティーカップに紅茶を入れる。その間に、俺は持参したクッキーを机に広げた。

 奉仕部部室内に、剣呑な雰囲気が流れた。

 

 

 「……これが、本物の手作りクッキー?」

 

 

 由比ヶ浜が小首を傾げながら、俺の顔を見る。

 その視線に応えるように、俺はこくりと頷いた。そこに雪ノ下も紅茶を持って戻ってきた。

 

 

 「……あなた、これって―――」

 

 

 どうやら一目見ただけで、雪ノ下は感づいたようだ。彼女の訝るような視線が俺へと向けられる。

 その視線に俺は黙って首を振った。それだけで、彼女は何かを悟ってくれたようで、何も言わず、紅茶の配膳に取り掛かった。

 そして俺は、クッキーを由比ヶ浜に勧めた。

 

 

 「とりあえずひとつ食べてみろよ。なんだかんだ言っても、一番は味だからな。うん、なんか、某料理漫画のタイトルみたいだな」

 「う、うん。そこまで言うなら……」

 

 

 あ、無視っすか。

 彼女が疑わしげなのは、その表情から読み取れた。

 由比ヶ浜は、俺が差し出したクッキーを一つとり、くんくんとまずは匂いを嗅いだ。いや、ちゃんと手洗ったから心配すんなって。そして、ぽりっとクッキーをかじる。

 それはクッキーを食べてない俺達にも分かるほど、ひどく湿気った音だった。

 

 

 「っ! こ、これはっ!」

 

 

 由比ヶ浜の目がくわっと見開かれた。味覚が脳に達し、それにふさわしい言葉を探し出そうとする。

 

 

 「って、これ特別何かあるわけじゃないし、中身生焼けで、正直、湿気っててあんまりおいしくない!」

 

 

 驚きから一転、怒りへと感情が揺れ動く。そのふり幅が大きかったせいか、由比ヶ浜はキッと俺を睨んだ。雪ノ下も呆れたように俺を見る。「なんでこんなことをしたの? もしかしてあなた、バカ?」と、目が語っていた。その二人分の視線を受け止めてから、俺はさっと目を伏せた。

 

 

 「そっか、おいしくないか。……頑張ったんだけどな」

 

 

 俺が俯くと、由比ヶ浜も気まずそうに視線を床に落とす。

 

 

 「わり。今から火行符で焼いてくるわ」

 

 

 そう言って、クッキーを詰めた袋をひったくってくるりと背を向けた。

 

 

 「ま、まってヒッキー!」

 「……なんだよ」

 

 

 由比ヶ浜は俺の手を取って止めていた。そのまま俺の言葉に返事する代わりに、その不揃いで生焼けののクッキーを口に入れ、シャリシャリと噛み砕いた。

 口の中のものを飲み込んだ彼女は、ニット帽を深くかぶりなおすと、にっと満面の笑みを見せた。

 不覚にも俺は、その笑みに見惚れてしまった。

 

 

 「……ヒッキー。確かに、湿気てて、生焼けで、形もばらばらだけど、このクッキー……すごく、おいしいよ」

 

 

 なんてことはないように、由比ヶ浜はそう言った。屈託のない、まるで子供みたいな笑顔だった。

 彼女のその言葉に、俺は今までやったことが、全部無駄になった気分だ。

 そうだ。別に、俺がこんな事をしなくても、いつか彼女はそのことに気付いたと思う。そして、その方が、きっと彼女も、彼女の思い人も喜んだはずだ。

 無言でぷいっと顔を反らす由比ヶ浜。その頬は夕日のせいか、赤くなっているようにも見えた。

 

 

 「そっか、だったらよかった。そいつは昨日、お前が作ったクッキーだからな」

 

 

 だから、俺は、しれっとその真実を告げた。俺が作ったなんて一言も言ってないから、ウソにはならないはずだ。由比ヶ浜がぽかんと口を開けて間抜けな声を上げた。

 そう言うなれば、これは一種の『乙種呪術』なのだ。

 

 

 「え? え?」

 

 

 目をパチクリさせながら、俺と雪ノ下を交互に見詰める。何が起こったのか、さっぱり把握できてないようだった。

 雪ノ下がいかにも不機嫌ですよオーラを出しながら、俺を見る。

 

 

 「比企谷くん、よくわからないのだけど。今の茶番に何の意味があったのかしら?」

 

 

 そんな不機嫌そうな態度を隠そうともせず、そう言う雪ノ下。混乱から回復した由比ヶ浜も一緒になってじっと俺を見つめる。

 二人とも、その視線で俺の行動の意味が分からないと訴える。

 どうやら、この二人の美少女には……いや、だからこそ男心というものが、理解出来ないらしい。そもそも二人とも、陰陽塾生と言う立場上、そういうものに疎いのかもしれないな。

 

 

 『おまたっせーい。ご飯出来たよー、おにいちゃーん』

 『おう、いつもすまないね』

 『もーおにーちゃん。それは言わない約束でしょー』

 

 

 古い記憶が、俺の脳裏によみがえる。

 相手が思いを込めて作ったものは、たとえそれがどんなものでも嬉しいものなのだ。

 それが、誰もが羨む美少女ならなおのことだ。少なくとも、由比ヶ浜も雪ノ下も、俺がこれまで知り合ったどんな女子よりもお顔がよろしいのは間違いない。まぁ、内面はあれなのが偶にキズだが、それでも、やはり彼女たちの青春ラブコメはまちがっていないのだろう。

 俺は気をなおして、雪ノ下の言葉に応えた。

 

 

 「あのな、お前らはハードルを上げ過ぎてんだよ」

 

 

 だからいつまで経っても越えられない。そんなに頑張らなくても、男のハードルなんて風が吹けば倒れるくらい脆いものなんだから。

 

 

 「いいか、お前ら。男ってのはホント残念なくらい単純なんだよ。話しかけられただけで喜ぶし、手作りクッキーなんて渡された日には、翌日には木に登っちまうまである。ようは発情期の猿と同じなんだよ」

 「うわ、ヒッキーすこぶるさいてーだ」

 

 

 なんとでも言え。男は猿。それは何物にも代えがたい心理だからな。

 

 

 「だからさ、そんな気張らなくてもいいんだよ。下手でも、特別何かあるわけじゃないと、ときどきじゃりってする生焼けのクッキーでも、男心なんてものは簡単に揺れるんだよ」

 

 

 「だから」と、言葉をつづけ、俺は由比ヶ浜を見つめた。

 

 

 「お前は、ただ一生懸命やればよかったんだよ。それだけで『愛があれば、ラブ・イズ・オーケー』だったわけだ」

 「~~~~っ! うっさい!」

 

 

 由比ヶ浜が怒りにまかせて呪符を取り出した。ちょっ、おまっ、それはヤバいって!

 呪符を人に向けてはいけません! これ、ぼっちとの約束な。

 だが、直前のところで由比ヶ浜は呪符を握る手の力を緩めた。あ、あっぶね~…。こいつ、もしかして事あるごとに言霊使う雪ノ下と同種なのかもしれない。

 キッとこっちを睨んで、由比ヶ浜は立ち上がった。

 

 

 「ヒッキー、マジ腹立つ! もう帰るっ!」

 

 

 ふんっと顔を背けて、ドアに向かってたったか歩き出す。その肩はわなわなとふるえていた。

 

 

 「ん? どーした?」

 

 

 けれど、由比ヶ浜はドアの直前で振り返る。彼女の表情は、ドアの向こうから差し込む夕日による逆光で、読み取れなかった。

 

 

 「ね、ねぇヒッキー。さっきの話なんだけど、さ。その…ヒッキーも、女の子からクッキー貰ったらさ、その…心、揺れるの?」

 「あ? あーもうちょう揺れるね。むしろ、優しくされただけで好きになるレベル。あと、昨日からずっと思ってたけど、ヒッキーってよぶな」

 「ふ、ふぅん」

 

 

 適当な返事をすると、由比ヶ浜は気のない返事をしてまたすぐ顔を反らした。

 

 

 「あ、それと雪ノ下さん。今日も雪ノ下さんの家に行っていい? もう一度だけ、クッキーを作らせてほしいの」

 

 

 雪ノ下が、俺の顔を見る。俺は黙って頷いた。

 

 

 「えぇ、構わないわ」

 「ありがとー! ゆきのん!」

 

 

 そう言って、由比ヶ浜が雪ノ下に抱き着いた。ゆきのん? それはもしかして雪ノ下のことか?

 雪ノ下は困り顔で由比ヶ浜を見た。

 

 

 「ゆ、由比ヶ浜さん。その、ゆきのん、というのはもしかして、私のことなのかしら?」

 「うん! 可愛いと思わない?」

 

 

 雪ノ下が困惑している。あの雪ノ下雪乃が、だ。俺は、こらえきれず「ぷっ」と声を出してしまった。

 俺の声に反応して、雪ノ下がこっちを向く。俺は気づかないふりをしてそっぽを向いた。

 

 

 「……比企谷くん。覚えておきなさい」

 

 

 おぉ、怒ってらっしゃる。けど、雪ノ下の表情を見る限りでは、あまり嫌そうには見えなかった。

 ほう、あの雪ノ下をデレさせるとは。由比ヶ浜、お前なかなかにすごいやつだな。

 抱き着く由比ヶ浜を離そうともがく雪ノ下、けれど、その力加減を見る限り、本気で話そうとは思っていないらしい。それに、本気で彼女を離そうと思ったら言霊を使えばいい話だしな。

 

 

 「暑苦しいのだけど、由比ヶ浜さん。離れてくれないかしら」

 「えへへ…。それじゃ、ゆきのん。レッツゴーだよ!」

 

 

 そう言って、由比ヶ浜は雪ノ下の腕を引っ張って連れて行く。どーでもいいが、今日は俺はハブなのね。ま、慣れてるからいいんですけど。

 扉を出る寸前、雪ノ下は困惑を浮かべた表情で俺を見る。俺は、彼女に見えるように、部屋の鍵を掲げ、「鍵は閉めておく」とアピールした。

 うん。確かに、彼女たちの青春ラブコメはまちがっていなのかもしれない。

 

 けれど、やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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