やはり俺が闇鴉なのは間違っている   作:HYUGA

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第二話 言霊とふたりのぼっち

 

 ――2010年10月某日、東京・とある施設――

 

 その病室は、外から厳重に鍵がかけられていた。

 呪的処理のなされた扉に、真横に渡された注連縄(しめなわ)。左右に飾られた榊(さかき)の枝。見るからに不気味な部屋であった。

 そこを管理する陰陽医の男は、それを一つずつ丁寧に外し、最後にドアノブに鍵を差し入れ、カチリと回した。

 

 祓魔官である『平塚静』が、ここを訪れたのは仕事の為だった。

 

 今より二か月前。千葉県の大型ショッピングモールで起こった事件。

 それは、呪的解決がなされた『霊災』であった。

 その霊災の呪的解決に、祓魔官の部隊長である平塚も駆り出されていた。

 そして、そこで見た映像は、霊災の修祓から二カ月たった今でも、忘れることはできない。

 

 

 「どうぞ、お入りください…」

 

 

 陰陽医の言葉に、平塚は頭を下げ、厳重に封をされたその部屋の扉を潜る。

 そこは、病室の外とはまるで違う異系の場所だった。

 部屋のあちらこちらに張られた結界用の呪符。窓は完全に鋼鉄の板で閉ざされ、光などはいる余地もなく固められている。そんな気の悪い部屋に、ぽつんと置かれた白いベッド。

 

 

 「……、…………。」

 

 

 その上に、その少年はいた。

 ベッドのタオルケットを肌蹴させ、上半身だけを起こし、少年はこちらを睨みつけていた。

 白い患者用の衣類には、これまた何枚もの呪符が張られ、少年の不気味さを際立たせる。そして、平塚は目を疑った。彼のおびる陽の気が、ひどく澱んでいるいるというその事実に。

 死んだ魚のような目で、こちらを見るその姿は、まるでホラー映画のゾンビのようだと平塚は思った。そんな目で睨まれたが故に、平塚はおののいてしまう。

 だが、平塚はすぐにここに来た目的を思い出し、一歩前へ足を出す。

 彼女はここに、仕事に来たのだ。決して、この哀れな少年の姿を拝みに来たのではない。

 だから彼女は呼んだ。死んだ魚のような、腐った目をしたその少年の名を。

 

 

 「…君が、比企谷八幡君だね」

 

 

 それが、祓魔官『平塚静』と、霊災被災者『比企谷八幡』の最初の出会いだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――― 第二話 言霊とふたりのぼっち ―――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――2012年4月某日、東京・陰陽塾――

 

 時が流れるのは早いもので、俺が奉仕部という謎の部活に入れられて、一週間がたった。

 

 毎日毎日、何の用事もないのに、俺は特別棟のあの教室に足を向ける。

 最早、習慣づいてしまったその行為に、俺はため息を吐く。

 扉を開くと、いつものように雪ノ下が窓際で本を読んでいた。

 軽く挨拶をし、最早指定席になりつつある、教室中央。雪ノ下のいる位置とは正反対の椅子にへと向かう。

 雪ノ下は刹那こちらを見ると、次の瞬間にはその目を文庫本へと向けた。

 

 

 「この距離、この空間でシカトかよ…」

 

 

 清々しいまでの無視に、俺は一瞬「あれ? 俺、穏形してたって?」という錯覚に陥った。

 教室では結構使っている手だから、あながち有り得ない事ではないのだ。

 

 

 「あら、お久しぶり比企谷くん。一瞬、不審者だと思って警戒したわ」

 「昨日も会ってるだろ…。なに、お前? そこまでして俺との記憶消したいの?」

 「当然よ。むしろ、毎日あなたと会うたびに不審者として接しているわ」

 「おいこら、それは俺をデフォルトで不審者扱いしてるということか?」

 「当然じゃない。むしろフェーズ3と言わないだけ、ありがたく思いなさい」

 「俺は霊災か…」

 

 

 あながち間違ってないから笑えない。

 と、まぁ。こんな風に、俺と雪ノ下の関係は俺が一方的に罵られるという関係で落ち着いたように思える。嫌な落ち着き方だ。

 俺は、一つため息をして、今度こそ自分の椅子に腰かけた。

 

 

 「…お前、友達いないだろ」

 

 

 俺の確信めいたその言葉に、雪ノ下は一瞬目を見開いた。

 

 

 「な、何よ突然…」

 「いやさ、お前って見た目と成績は完璧だから、学校でも人気あるじゃん」

 「当然よ。私、かわいいから」

 「……その自身の半分でもあったら、俺もぼっちじゃなくなってたのかもな。まぁ、それはいい。話を戻すけど、お前、それと反比例するみたいに性格最悪じゃん。そんな性格じゃ友達なんてできないんじゃないか?」

 

 

 雪ノ下の視線が明後日の方を向く。おかげであごから首にかけてのなだらかなラインがきれいだなという死ぬほどどうでもいい知識が増えた。

 少し考えればわかることだ。こんな上から目線ナチュラル見下し女が正常な人間関係など構築できるはずがなく、したがって円満な学校生活など送れるはずがないのだ。

 

 それでも、一応、聞いておくか―――。

 

 

 「なぁ、実際のところだ。お前って、友達いんのか?」

 

 

 俺がそう言うと、雪ノ下はまた、ふいっと視線を逸らした。

 

 

 「……そうね、まずどこからどこまでが友達なのか定義してもらってもいいかしら」

 「あ、もういいわ。それ友達いないヤツのセリフだわ」

 

 

 ソースは俺。

 中学の頃も、陰陽塾には行ってからも、友達の定義が曖昧すぎてどうすればいいのかが分からない。おかげで、陰陽塾に入ってからは、教室で穏形して引きこもるという技術を編み出してしまった。まぁ、おかげで、穏形術の成績はクラストップになったわけだが。成績が貼り出される度に、クラスメートからも「え? 比企谷ってだれ?」って、言われる始末だけど。

 閑話休題。

 

 

 「まぁお前に友達いないのはなんとなく想像つくからいいんだけどさ」

 「だから、別にいないだなんて言ってないでしょ。勝手に自己完結しないでくれないかしら」

 「いやでも、いないんだろ。こんなしなびた場所にいつも一人でいるくらいだし」

 「……ただ単に、静かな場所が好きなだけよ」

 「それに、放課後だって、こうして一目散にここに来るくらいなんだからさ」

 「それは…ただ単に、うるさいのが苦手なだけよ。だいたい、授業が終わってから、帰宅もせず、教室で会話に興じるなんて非効率すぎるわ。時間は限られてるのだから」

 「いや。それを言い出したら、今ここで過ごしてるこの時間の方が無駄だろ。えーっと、確か『持つ者が持たざる者に、慈悲の心をもってこれを与える』だっけ? 俺、ここに入部してからそんな依頼、一度も受けたことないんだけど、これってどういう―――」

 

 「【黙りなさい】」

 

 

 刹那、俺は目を見開いた。

 何が起こったのか、一瞬、何が起こったのか分からなかった。けれど、キッと睨む雪ノ下の頬が、僅かに赤くなっているのだけは分かった。

 いや、だが今、問題にするべきことはそこではない。

 いきなり声が出なくなった。俺は無意識に喉に手を当てる。

 息は問題なくできる。喉にも痛みはなく、何ら異常は感じない。

 ただ、声が出ない。その事実に、俺は、少し怨念を込めて雪ノ下を睨みつけた。

 

 こいつ…、またやりやがったな―――と。

 

 

 「いい様ね、比企谷君くん」

 

 

 そう言って、雪ノ下は俺の座る椅子の目の前に来て、俺を見下ろす。

 声が出ない俺は、それを睨みつけることしかできない。俺のその目に、雪ノ下は大層ご満悦なようで、満弁の笑みを浮かべていた。

 

 

 「ふふっ、さて、どう料理してほしいのかしら?」

 

 

 こいつは、ホント生まれながらのどSだな。

 そんなことを考えながら、俺は深々と息を吐いた。これから始まるのは、一方的な罵倒だ。喋れたら反論するが、口をきけない今、俺はそれを受け入れるしかない。ある意味、一定の層の方々にはご褒美の時間だ。まぁ、そんな趣味、俺にはないから、俺にとってはただ苦痛の時間でしかないのだが。

 

 結局、雪ノ下の暴言は、それから五分くらい続いた。

 

 

 

 

          *

 

 

 

 

 「お前さ、いい加減、都合悪くなったら『甲種言霊』で口塞ぐのやめろよな」

 

 

 縛りから解放された俺が、最初に口にした言葉はそれだった。

 甲種言霊―――。声に、強力且つ精緻(せいち)に練られた呪力を込めて、相手の精神に働きかける、強制力のある言葉を放つ『帝式呪術』だ。

 帝式。つまり、この呪術は『汎式呪術』を扱う、この陰陽塾では教えられない呪術なのだが、雪ノ下はこの呪術を最も得意とし、頻繁に使用している。主に俺相手に。そう言う意味でも、平塚先生が最初に俺をここに連れてきたときに言ったように、彼女の言葉は薬なのかもしれない。

 だが、如何せん。彼女の言葉には、呪力のほかに、多くの毒を含んでいるため、縛られる前に心が折れそうになる。いろんな意味で、彼女の言の葉は鋭利な武器だった。

 

 俺の言葉を聞いてるのか聞いてないのか、彼女は自分の席に戻り本を読み進めている。

 その無駄に画になる光景に、俺は口を曲げた。

 

 

 「っつーかさ、お前って呪術界じゃ一、二を争う名家の生まれだろ。それに加えて、呪術の腕も抜群。呪術の自主練にも散々呼ばれてそうなのに、それでもお前、友達いないってどーいうことだよ」

 

 

 俺の言葉に、雪ノ下は「まだ続けるの?」と、言いたそうな目を向ける。

 

 

 「……あなたには関係のない事よ」

 

 

 心なしか頬を膨らまして、そっぽを向く雪ノ下。

 どうやら、本格的に触れては欲しくない事らしい。そりゃまぁ、俺と雪ノ下はまったく別の人間だし。名家の人間には名家にしか分からない悩みがあるのかもしれない。それを聞かされたところで、俺に理解するということは難しいだろう。人と人は、どこまでいてもきっと一人なのだ。

 だが、こと、ぼっちに関してだけはおそらく俺は雪ノ下を理解できる。

 

 

 「……まぁ、お前の言い分は、正直、分からなくもないんだ。一人だって楽しい時間は過ごせるし、むしろ一人でいちゃいけないなんて価値観が気持ち悪い」

 「……。………」

 

 

 雪ノ下は一瞬だけ俺の方見たが、すぐに顔を正面に戻し目を瞑った。それは、瞑想の様にも、何かを考えている仕草にも見える。

 

 

 「好きで一人でいるのに勝手に憐れまれるものもイラッとくるもんだよな。わかるわかる。俺なんて、そんな目で見られるのが気に入らないから、教室じゃ穏形してるくらいだ」

 「あなた、そんなことしてたのね…」

 

 

 雪ノ下に、可哀想なものを見たような目で見られた。

 

 

 「まぁ、あなたと私では程度が違うけど、好きで一人でいる、という部分には少なからず共感があるわ。ちょっと癪だけど」

 

 

 そう言って、雪ノ下は自嘲気味に微笑んだ。どこか仄暗い、けれども穏やかな笑みだった。

 その瞬間、俺は少しだけ、雪ノ下を理解できたような気がした。

 

 

 

 

          *

 

 

 

 

 

  ――2010年10月某日、東京・とある施設――

 

 

 「そうか、それで君はあの時、逃げなかったんだな」

 

 

 平塚のその言葉に、少年―――比企谷八幡は、微かに頷いた。

 平塚の仕事は、言っては悪いが、このいかにも社会不適合者の少年の事情聴取だった。

 普段だったら、これは呪捜部の仕事だ。だが、現在呪捜部は、二カ月前に起こった例の事件の捜査で、てんてこ舞いしており、手の空いてるものがいなかった。

 そこで目を着けられたのが、平塚だった。祓魔官の女隊長。その肩書にある信頼と、女性であるから話しやすいだろうという偏見で、平塚はこの施設へと足を運んだのだ。

 

 そして、目の前にした少年の姿に、平塚は愕然とした。

 

 

 「……他に、何か言いたいことはあるか?」

 「……。……」

 

 

 平塚の言葉に、比企谷は無言で首を横に振った。

 その成りに反し、比企谷は思いのほか素直に、こちらがする質問に応えてくれた。それこそ、病室に入った瞬間、まるでゾンビのような目で睨まれたのが、ウソであるかのように。

 だが、平塚は、少年のその素直な態度の裏側にある物。その答えを、それとなく感じていた。

 

 おそらく、少年は早く出て行ってほしいのだろう。平塚だけではない。隣に居る担当の陰陽医にも。もっと言えば、ヒトという枠に収まる、すべての人間に、だ。

 

 比企谷は、完全に自分の殻に籠ってしまっている。当然だ。僅か、数カ月前に、少年は未曽有の霊災に巻き込まれているのだから。

 しかし、どうにも平塚は少年のことが気になった。

 パタリ、と。平塚はメモ帳を閉じる。

 平塚のその仕草に、少年は安堵の息を吐く。聴取が終わったことを悟ったらしい。

 だが、そんな比企谷の思いとは裏腹に、平塚は再度、椅子に深く座り直す。

 平塚は、まが差したのだ。

 

 

 「どうかね、調子は」

 

 

 それは何に対する問いだろうか。平塚のその言葉に、比企谷はぎょっと、顔を歪める。

 だが、平塚の優しい顔を見て、比企谷はすぐに何かを悟り、ふいっと顔を反らし、

 

 

 「…別に」

 

 

 と、そうたった一言口にした。

 それは、見方によっては、怒っているようにも、ふて腐れているようにも見える。

 子供ならではのその仕草。しかし、平塚は少年のその態度に深く息を吐いた。

 

 

 「…そう、邪険にしなくてもいいだろう。少し、世間話でもしようと言っているんだ」

 「…それも、仕事ですか?」

 

 

 比企谷は、疑わしげな眼で平塚を見る。その目を真正面から見つめ返し、平塚は頭を振る。

 

 

 「そんなことはない。私は、ただ純粋に君と話したいと思っただけだ」

 「…仕事じゃないんなら、帰ってくれませんか」

 「はは、手厳しいな、君は」

 

 

 比企谷の無礼な態度にも、平塚は笑って受け流した。

 そんな大人の対応を見せる平塚に、しかし、比企谷は小さく舌打ちした。

 

 

 「…で?」

 「ん?」

 「で、その世間話とやらは、いつ始まるんですか?」

 

 

 この対応には、さしもの平塚も驚いた。平塚どころか、自分に関わる人間すべてを鬱陶しいと思い。ヒトの姿を見た瞬間、それがたとえ初対面の人間だろうと、睨みつけ。あろうことか、好意的な人間の言葉に舌打ちした、このいかにも社会不適合者な少年は、どうやら平塚の話を聞く気であるようだ。

 平塚は、ふうっと、息を吐く。思わず、ポケットから煙草を取り出そうとし、近くにいた陰陽医の冷たい視線に気づく。そういえばここが病院であることを平塚は思いだし、また煙草をポケットにしまった。

 その一連の動作を、比企谷は変わらず無感情な顔で見ていた。

 

 

 「すまない。どうも私は、これがないと落ち着かなくてな」

 「…はぁ、まぁ俺は気にしないからいいんですけど。親父だってやってましたから」

 

 

 比企谷は、さして気にもしない様子で言う。

 静かで覇気もない、ひっそりとした声。それはまるで、触れることを拒む影のようだと、平塚は思う。だから、ひどく冷たく感じた。

 

 

 「…調子は、どうかね」

 

 

 その冷たさを振り切るように、平塚は再度、その質問をぶつけた。

 

 

 「…別に」

 

 

 それに対し、比企谷の言葉も、そのまま、さっきと全く同じ物だった。

 これでは話にならない。平塚は、呆れたように苦笑する。けれど、比企谷の言葉は、そこで終わりではなかった。光のない窓に目を向け、比企谷はぽつりと言葉を続けた。

 

 

 「だけど、ここは、ずっと変わらないまま…です。毎日毎日、何人もの陰陽医が俺を診に来ては、そのドアの封を解いて、また戻る。人に会う回数で言えば、むしろこれまでで一番多いかもしれない。けど、俺は結局、何も変わらない。所詮、ぼっちはどこまで行ってもぼっちのままだってことです。あんなことがあったのに、俺は何も変わってなんかいない」

 

 

 比企谷の言葉に、平塚は脳裏にあの惨劇の映像が浮かぶ。

 祝日の昼間。大型ショッピングモールで起こった事件。あれだけの大惨事にもかかわらず、二カ月たった今ではもう、ニュースにすらならない過去の出来事。

 だが、この少年の中ではまだ終わってないのだ。比企谷の中では、二カ月前の事件は、未だに昨日の事の様に思い起こされているのだろう。

 不意に、窓を向いていた比企谷の視線がこちらを向く。その顔は、どこか穏やかな顔だった。それはもしかしたら、平塚が初めて見た少年本来の表情だったのかもしれない。

 

 

 「祓魔官さん。知ってましたか? この部屋に来る人間は、みんな同じ顔をしているです。こんな姿の俺を哀れんで、同情的な顔をするやつか。あるいは、俺のこの姿を怖がって、怯えた顔をするやつか…」

 

 

 比企谷の瞳が、平塚を捕らえる。その腐った魚のような目で、彼が何を訴えているのか、平塚にはまったく分からなかった。

 

 

 「祓魔官さん。あなたは、前者でした」

 

 

 比企谷は平塚を真っ直ぐに見る。それは、平塚に目をそらすことを許さないような不思議な感覚を覚えさせられる。そんな目だった。

 比企谷の言葉に、平塚は腕を組んで考える。だがやがて、ふむと難しそうな顔で頷くと、比企谷のその目に応えるように視線を合わせた。

 

 

 「……よく見ている。君は人の心理を読み取ることには長けているな」

 

 

 平塚のその言葉があまりに意外だったのか、比企谷はきょとんとした顔で瞬きする。

 だがやがて、何を思ったのか、いや、自分の言った事を思い直したのだろう。比企谷は恥ずかしさから、平塚から顔をそらし、ぽつりと呟いた。

 

 

 「…俺が同じ立場だったら、そう考えるだろうという勝手な想像でしかありません。それに、ここじゃあ、そういうことしかやることありませんから」

 

 

 比企谷のどこか達観したような物言いに、平塚はふっと息を吐く。

 確かに、比企谷はよく物事を見ている。おそらく、長年のぼっちの生活が彼をそうさせたのだろうと、平塚は思う。だが、彼のその物の見方には決定的に足りてないものがあった。

 

 

 「あぁ、君がそう言うのなら、そうなのだろうな。けれど、君のその方法で、確かに人の心理を読めている。だが―――」

 

 

 平塚は、比企谷の頬に手を添える。その瞬間、平塚の顔を見た比企谷のの目は、まるで親を見失た幼子の様に、平塚は感じた。

 

 

 「君は人の感情を理解していないな」

 

 

 比企谷は息を詰まらせる。声も、言葉も、ため息だって出てこない。核心を突かれた、と比企谷はどきりと心臓を高ならさせた。

 

 

 「…俺が、人の感情を理解していない? はっ、何を根拠に言ってるんですか」

 「別に根拠がないわけではない。私は、ここに来る前に君の情報は一通り、頭に入れてきている。その情報をもとに、今日見た君自身と合わせて、私は言っている」

 

 

 平塚は言葉を続ける。

 

 

 「君は極論すぎるんだ。白か黒か、君の中ではそれしかない。けれど、感情という物は決して、白黒で分けられるものではない。人の感情はグレーでしか語れないんだ」

 「けど…」

 

 

 比企谷の言葉を、平塚はすっと指を立てて制する。そして彼の目を見つめ、ゆっくりと言葉を継ぐ。

 

 

 「君がどうしてそうなってしまったのか、私には分かる。原因は至極簡単なことだ。君は、人の感情を理解する以前に、まず、自分の感情を理解していない。きっと、君は決断の早い人間なんだろう。そして、同時に諦めの早い人間でもある。割り切ることに長けているからこそ、君は白と黒の二つの答えしか知らないんだ」

 

 

 「だから…」と、平塚は続ける。

 

 

 「君は今、大いに戸惑っているのだろう?」

 

 

 それは問いかけなどではない。比企谷の心の中にあるその思いを、確信しているからこその、言葉だった。

 その言葉に、比企谷は驚きで、目を見開いた。

 

 

 「どうして…?」

 

 

 心を見透かされたようなその言葉に、比企谷は震える声で、そう言葉にする。

 その姿に、平塚はやはり、と確信した。

 

 今、比企谷八幡は白でも黒でもない。グレーであることを。心の中で、深い迷いの渦に陥っているということを。

 

 

 「比企谷君。君は迷うということを悪いことだと思うか?」

 「……当然です。あのとき、俺が迷ったから…あいつは…」

 

 

 俯き、震えながら、タオルケットを握る比企谷の手に力が入る。彼の終わらない後悔。その一端を、平塚は垣間見る。

 その健気なまでに痛々しい姿に、平塚の手は、自然と彼の握りこぶしに添えられた。タオルケットを握る比企谷の力が弱まる。比企谷の目が、再び平塚に向けられた。その目をしっかりと受け止め、平塚は思いを、言葉にする。

 

 

 「私はそうは思わんな」

 

 

 と。平塚の言葉に、比企谷は「え」と声を漏らす。

 それは、ここ二カ月の彼の後悔すべてを完全に否定する言葉だった。平塚は真っ直ぐ自分を見つめる比企谷の目を見て、コクリと頷く。

 なんてことはない。もっと言えば、何の意味もないその行動。

 だが、比企谷は、その無意味な行為に、どうしようもない安心感を覚えてしまった。

 

 

 「そもそも、若さとは、迷うものなんだ。私だって迷う。なんといっても、私もまだまだ若いからな」

 

 

 平塚は、どこか鬼気迫る勢いで、そう口にする。どことなく、若いの部分が強調されていたように感じた。触れてはいけない事なのだろうと、比企谷は悟った。

 だが、すぐに平塚は比企谷を見つめる。そして真剣な口調で、平塚は言葉を続けた。

 

 

 「……だが、迷いとは、いつか振り切らなければいけないことだ。答えがわからないなら、もっと考える。計算しかできないなら計算しつくす。そして、全部の答えを出して消去法で一つずつ潰していけばいい。結果、残ったものが正しい答えだ」

 

 

 なんという暴論だ、と比企谷は思う。理屈や計算で迷いを断ち切れるのなら、それはもう人ではない。ロボットだ。そんなこと、不可能に決まっている。

 破綻している。比企谷は、その論ですらない結論に驚嘆した。

 だが、平塚もそれは分かっていた。分かっているからこそ、それを口にしたのだ。

 理屈や計算で迷いを、感情をコントロールできる人間などロボットと一緒。

 

 そして、それは今、平塚の目の前にいた。

 

 

 「……私が情報で知る君は、その方法でしか人の心理を計れないはずだ。だがな、比企谷君。計算というものは必ずしも答えが出る物ではないんだ。割り切れない答えだってある。君に不足しているのは、その割り切れない答えを読み解く力だ。計算できずに残った答え。それが、人の感情というものなのだよ」

 

 

 語る口調は荒々しかったが、声は優しかった。

 だから、平塚の言葉を否定する言葉が出てこない。結局、比企谷は、平塚のその優しい否定の言葉を、受け入れることしかできなかった。

 

 

 「君は、確か中学生だったな。高校はどうするんだ?」

 「……さぁ、一応勉強はしてるんですけどね。下手すりゃ、受験までにここを出れないかもしれませんし。最悪、浪人ってことになると思います」

 「そうだな。だが、君は知っているはずだ。ここからすぐに出れる方法を。そして、君と同じ年の者達と、受験できる方法をな」

 

 

 真剣な口ぶりだった。

 その言葉で、比企谷は悟った。この祓魔官は、自分の『迷い』を知っていると。

 

 

 「君は迷っているのだろう。その『後遺症』を背負って、生きるのかどうかを」

 「……」

 

 

 比企谷の目が、どうしようかと宙を泳ぐ。その、人からは腐った目と評される眼(まなこ)には、焦りの感情が浮かぶ。強がって入るが、もともと比企谷は人見知りの激しい人間だ。コミニケーションが下手で、友達も居ない。だから、年上の、しかも美人な平塚の核心を突く、その優しい言葉に、戸惑いを感じてしまっているのだ。

 平塚は、そんな比企谷の頬に添える手で、ゆっくりと、彼の視線を自分の方へと誘導させた。比企谷は、逃げ道を奪われた。

 

 

 「……私はな、比企谷君。祓魔官(こんな)仕事をしているから、君みたいな人間を、これまで何人も見てきた。その誰もが、つらい現実を前に、目を反らしてばかり。いや、それが人間として当然の弱さなんだと思う。だから、それが悪いとは、私は言わない。だがな―――。」

 

 

 そして、平塚は優しい笑みを浮かべる。それはまるで、親が子供を優しく諭すような、あるいは、子供を慰めるような、そんな穏やかな顔だった。

 

 

 「だがな、比企谷君。それでも、前を向けることが、人の強さだと思うんだ」

 

 

 何かが、比企谷の中でバラバラに崩れ落ちた。

 前向きなんて言葉は、自分には似合わない。負けることに関しては自分が最強。それが、比企谷八幡と言う人間だ。だが、この一瞬、その瞬間だけ、比企谷八幡は思ってしまったのだ。

 

 

 「祓魔官。そろそろ…」

 

 

 そのとき、陰陽医から声がかかる。情景反射的に、平塚は腕時計を覗きこんだ。時計の長針は、最初この部屋に入ったときから一周してしまっていた。いつのまにか、長い時間ここにいたようだ。

 

 

 「……以上で、君への聴取は終わりだ。長く時間を取らせてしまい、すまなかったな」

 

 

 最後にそう締め括り、平塚は席を立つ。だが、不意にその手を何者かが引く。

 いや、何者かではない。袖を引いたのは比企谷だ。平塚は、突然のその出来事に、目を丸くする。それは最初、ここに来た時に見た比企谷からは、考えられないその行動であった。その行動に、平塚は不覚にも驚嘆したのだ。

 無理やり振りほどこうとは思わない。けれど、平塚の腕を掴む彼の手には、絶対に離さないという強い意志を感じた。その思いを無下にするなど、優しすぎる平塚にはできなかった。

 

 

 「……祓魔官さん。一つだけ、教えてもらってもいいですか」

 

 

 そして、平塚は振り返った。

 

 

 

 

          *

 

 

 

 

 ――2012年4月某日 東京・陰陽塾――

 

 いつものように部室では雪ノ下が窓際で本を読んでいた。

 その向かい側。教室の中央では、俺も本を読む。ここ最近、部室での俺たちの過ごし方はだいたいこんな感じだった。

 俺はちらりと雪ノ下を見る。陰陽塾の白い女子用の塾服を着た雪ノ下は、彼女自身の名前や艶やかな黒髪と見事にマッチして、いつもながら嫌味なほど画になっていた。

 不意に、雪ノ下が顔を上げた。雪ノ下と目が合う。

 雪ノ下は無言で携帯を取り出した。

 

 

 「……って、おい。ちょっと待て」

 「なにかしら?」

 

 

 雪ノ下は、心底不思議そうに小首をかしげる。

 その無駄に可愛らしいしぐさに、だが俺は嫌な汗を背中に感じた。

 

 

 「お前、今、なにしようとした?」

 「もちろん通報しようとしたのよ。不審者が、私を視姦していたのだから当然のことでしょう?」

 

 

 そう言って、雪ノ下は微笑んだ。普通の男子なら、見惚れてしまいそうな笑顔だ。だが、俺には分かる。その目は一切笑ってなかった。

 

 

 「おいこら、そこまで俺に犯罪の汚名を着せたいのか?」

 「むしろ、これまで通報されなかったことが不思議だわ。だって、あなた、これまでもそんな腐った目で女子を見ていたのでしょ? 気持ち悪い」

 「ふざけんな。この目はもともとだ。謝れよ! 俺の両親に」

 「……なんとも悲しい倒置法を使われたような気がするわ。けど、そうね。確かにあなたの御両親に罪はないわ。それにきっと、つらいのはご両親でしょうから」

 「……もういい、俺が悪かった。いや、俺の顔が悪かった。もう、お前のことは一生見ないから」

 「あら、それは心が休まりそうね。とても素敵な提案だわ」

 

 

 そう言って、雪ノ下はくすっと笑った。

 けれど、それはさっきまでの笑みとはどこか違うように思えた。これは俺の勝手な願望だが、少しは雪ノ下も俺に心を開いてくれているのかもしれない。そう思うと、雪ノ下の舌刀も、あながち悪くないように思えてくるから不思議だ。

 俺は、読んでいた本へと視線を戻す。不思議と、さっきまではつまらないと思っていた内容が面白く感じる。俺は、少しずつ変わっていく彼女との関係に笑みを浮かべた。

 

 

 「……気持ち悪い笑みを浮かべないでくれないかしら。夢に出てきそうでおぞましいわ」

 

 

 ……訂正しよう。やはり雪ノ下とは、一生仲良くはなれないだろう。

 俺の心の中の、『絶対に許さないリスト』に彼女の名前が追加された瞬間だった。

 俺は、再びつまらなくなった本を擲つように栞を挟み、カバンにしまう。今話題の一作ではあったが、どうにも虚偽の情報に踊らされたようだ。

 暇つぶしを失った俺は、手持無沙汰に窓の外を見る。

 その過程で俺の視線は、彼女へと向いた。

 

 雪ノ下雪乃は品行公正な美少女だ。彼女のその凛とした佇まいは、まるで一つの完成された宝石のように美しく、ゆえにきっと誰もが憧れる。けれど、性格は致命的に悪く、瑕(きず)なんて可愛いものでは決してない。

 けれど、その瑕(きず)にはそれなりの理由がある。雪ノ下雪乃は持つ者であるがゆえに、苦悩を抱えている。

 きっとそれを隠して、協調して騙し騙し、自分と周りを誤魔化しながらうまくやることは難しくないはずだ。けれど、雪ノ下は決してそれをしない。

 自らに決して嘘をつかない。

 その姿勢だけは評価しないでもない。

 だって、それは俺と同じだから。

 

 ―――なら。

 ―――なら、俺と彼女は…。

 

 

 「……あ、あの、比企谷くん。い、いくら私が美少女でも、それだけ見つめられるのは、ちょっと…は、恥ずかしいのだけど…」

 

 

 不意の雪ノ下のその言葉に、俺ははっとした。

 思考が目の前にあるものを認知する。

 いつの間にか俺は、じっと彼女を見つめてしまっていたようだ。雪ノ下は怒っているのか、顔を真っ赤にしてもじもじと体をよじっている。

 俺は慌てて彼女から視線を外した。

 

 

 「…悪い」

 

 

 いろいろと、言い訳を考えようと思考を巡らすも、結局出てきたのは、不器用なその一言だけだった。なんて、なんてみじめな言葉だ。俺はそんな言葉しか出てこなかった自分にうんざりする。

 雪ノ下は、俺のその言葉に最初、困惑の表情を浮かべ、次に何かを堪える様な表情で顔を反らし、やがて諦めたように息を吐いた。

 

 

 「……そう。次からは気をつけて」

 

 

 雪ノ下にしては優しい許しの言葉に、俺は安堵する。それと同時に、俺はたった今行った、自分の思考に嫌悪感を抱いた。

 

 俺は、なんて勘違いをしているんだ。

 

 俺と彼女は似ている。

 比企谷八幡はぼっちだ。そして、雪ノ下雪乃もぼっちだ。

 けれど、それは決してイコールではない。俺と彼女は似て非なるものだ。

 

 きっと俺達は、世界で一番近く―――。そして世界で一番、遠い存在―――。

 

 

 「……雪ノ下。俺とお前は、絶対に友達にはなれないな」

 

 

 唐突な俺の言葉に、しかし、雪ノ下は文庫本から顔を上げることなく応えた。

 

 

 「えぇ。癪だけど、あなたのその意見には同意せざるを得ないわね」

 

 

 ほら、雪ノ下ならそう応えると思っていた。

 そうだ、俺達の関係はこれでいい。

 結局、俺達はどこまでいってもぼっちだ。同じ部活に所属していても、そこにいるのは二人ではない。一人と一人だ。

 

 そう。だから、ここにいるのは一人と一人の、『二人のぼっち』だけなのだ。

 

 

 

 

 

          *

 

 

 

 

 

 ――2010年10月某日、東京・とある施設――

 

 

 「……比企谷くん。君は、本当にそれでいいんだな」

 

 

 平塚の言葉に呼応するように、比企谷は頷いた。

 これから、彼が辿ろうとしている道は、彼が想像している以上に困難なはずだ。それでも、彼はこの道を進むと決めたのだ。

 それを止めることは、ただの祓魔官でしかない平塚には到底できなかった。

 

 

 「……祓魔官さん。教えていただきありがとうございます。おかげで決心がつきました」

 

 

 それは比企谷八幡の決意。いや、執念とも言うべき盲目なまでの目的だった。

 

 

 「俺は、陰陽塾に行きます。そして、絶対に見つけてやる。あの霊災テロを起こした……犯人を」

 

 

 そして彼は雛鳥となる。やがて来るそのとき、獲物を刈るための爪を研ぐために。

 

 

 

 

 

 




 参考文庫
  ■やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。一巻
  ■やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。九巻
  ■東京レイヴンズ 二巻
  ■東京レイヴンズ 三巻
  ■東京レイヴンズ 九巻


 ゆきのんの呪術は、これだと決めていました。
 相手を縛る前に、心を折る甲種言霊。ゆきのん恐ろしい子。
 さて、次はガハマさん回です。そして、今回の話で悟ってくれた人もいるかもしれませんが、二年前の霊災。これは例のあれを意味しています。
 あ、もしかしたらこれでわかっちゃったかもしれませんね。それではまた次回。




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