水銀の理
――――血 血 血 血が欲しい
ギロチンに注ごう 飲み物を
ギロチンの渇きを癒すため
欲しいのは血 血 血――――
黄昏に染まる浜辺に、今日もまた少女の歌声が流れている。
いや、この場所において今日、という表現は正しくないのだろう。
ここは座、世界の外側にして頂、底に位置する場所。時間の概念など存在しない。
少女は一人、座の主として今日も歌い続けている。
少女の名はマルグリット=ブルイユ、マリィといった。
豊かな金糸、満たされた体、何よりも無垢な魂。
善悪を知らず、好悪を知らず、軽重を知らず。
血を求める忌み歌を謡うことしか知らぬ、ただそこにあるだけの存在だった。
それが変わったのは、主に三人の男性の愛によるものだろう。
一人は水銀。彼の愛は彼女を導いた。彼の用意した舞台に彼女は上げられた。
一人は黄金。彼の愛は彼女を破壊した。完結していた彼女の世界に穴が開いた。
一人は刹那。彼の愛は彼女を成長させた。他人に触れられる喜びを彼女は知った。
やがて訪れた終末、三人の男が争う中で少女は願った、全てを抱きしめたいと。
あらゆるモノがいずれ渇きを満たすことを許された、幸福な世界を作りたいと。
水銀も黄金も刹那も、皆が女神となった彼女を歓迎し、新世界へ還って行った。
座の主、神となった彼女は今日も世界を抱きしめている。
輪廻転生の理、人の子らの行く末を見守っている。
これはそんな中の、ある日のこと。
水銀の蛇の遺品を整理していた彼女が一冊の本を見付けたことから始まる。
「さて、今日こそはカリオストロの部屋を整理しないと……」
ある日、そういえば前に彼の部屋へ入ったのはいつだったかと思い至った私。しばらく考え込んで、重い腰を上げて障害に立ち向かうことを決めた。
そう、文字通りの障害だ。
レンを含めて、座に足を運んだ者達の足跡がこの場所にはいくつも残っている。心情的に捨てられないというのが一点、いずれ彼らの行く末がやって来る可能性もあるのが一点、そんな訳で残しておくことは残しておくのだが、そのままでは散逸してしまいかねない。故に折に触れて整理しているのだ。
とはいえレンやラインハルトさんの分はとても少ない。この座にいた期間が短いからだ。
その一方でカリオストロの分はとても多い。気が遠くなるほど長くこの座にいた旧神なのだから。加えてよく分からない怪しげなコレクションが多い。時間軸から切り離されたアレとかソレとか。
そのためカリオストロの分は物量的にも心情的にも後回しになってしまっていた。だがしかし、いつまでも放っておく訳にもいかない。思い立ったが吉日とばかりに自分を叱咤して、私は整理された魔窟と化しているその一室へと足を踏み入れた。
かちゃり、とノブをひねって中に入る。うん、今日はベタついていないようだ。
「あ……はぁ、やっぱり残ってるよ」
書棚に納められた見覚えのある一冊を見て、胸の内に暗いものが落ちる。その書の名は『カリオストロの女神ドキドキ観察日記』、カリオストロに対する印象が180度、いや540度ほど変わった一件の代物である。
……詳しいことは語るまい。正直言うと処分してしまいたい。けれど私はあらゆる人々の渇望を許容すると願った存在、カリオストロの渇望でも否定できないのだ。
正直カリオストロは例外でいいのではないかと思うこともあるのだが、特別扱いはできない。多分それすらも嬉しいと思われそうであるし。
つい、と視線を逸らしてみれば壁に埋め込まれた金庫の扉が、厳重に施錠されて存在を主張していた。コンソールを覗いて見るが、タッチパネルは時々刻々と変化を続けていてまともに入力することすら出来そうにない。
どれだけ開けられたくないのだろうか?
他にも女性用の衣装だったり、ポエム集だったりと用途の分からないものが山とある。私からするとどれもいらない物なのだが、多分カリオストロにとっては必要なものなのだろう。
分類はされているようだし、触れずに済むならばそれに越したことはない。何か邪念も感じることだし。
「……あれ。この本、前に来たときは無かったような?」
多分ここで作業をしていたのだろう、アンティークな机の上に革表紙の本が置かれていることにふと気付いて近寄ってみる。以前……数ヶ月前に訪れたときには、確か置かれていなかった、と思う。
そっと触れてみる。手触りの良い、立派な黒革……魔術書だろうか。いやカリオストロのことだから変な書物だろうか。或いは日記だったらどうしよう?
「まぁ、読んでみれば分かるよね」
私はそんなことを思いつつ席に着き、何かに背を押されるようにして表紙を捲ったのだった。
拝啓、親愛なる女神
あなたがこれを目にしているということは、既に私は永劫回帰から逃れているのだろう。終幕がどのようなものかは、実はスワスチカの開ききる前から予測が付いているのだよ。
私が回帰を止める選択をしたということはそれ即ち、私の望む終幕であったということ。多少の差異はあるにせよあなたが座に就き、あなたに抱きしめられて逝くことが出来たのだと思う。
あなたのことだ、黄昏の浜辺で歌を謡い、愛しい子らを見つめ、日々を送っているのだろう。もうアレや獣殿の姿を垣間見ることは出来ただろうか? それを見てあなたが微笑んでいることを切に願う。
いや、その時こそ幸せでなくともいずれは幸せへと辿り着ける、そんな第五天をあなたは作るのだったね。ならばこれは愚問か。
或いは座に他の神が訪れたりしているのだろうか? あなたに好意的な渇望の持ち主ばかりであればいいが、生憎とそうではないことを私達は身を以って知っている。獣殿を、アレを、そして何よりもあなたを失ってしまった時の慟哭は、回帰を司る私をして二度と味わいたくないと思わしめた。回帰出来ることを喜んだ数少ない経験でもあるが。
再発を防ぐために徹底して芽を潰してはおいたが、第二第三の波旬が現れない保障はない。他の神が生まれないようにしてしまえば簡単だが、それは恐らくあなたの願いに反するのだろう。故に幾つかの仕掛けを施しておいた。
この本もその一つ。私の死を以って発動する、私の残骸を糧として醸成される一つの世界、その観測装置だ。
喜怒哀楽、人々は生きて死ぬことを繰り返す。虚構の世界ではあるが、ただの一点を除けばかつての世界と何ら変わらない。まぁその一点こそが大事なのだが。
あなたはアレ……ツァラトゥストラの製法を知っていただろうか? アレは私の血から出来た聖遺物なのだが、故に高い純度の魂を以って君の鞘足り得た。
同じようにこの世界は全て、私の血から出来ている。言ってしまえば全ての物が聖遺物のようなものだ、世界の始まりから遠からずして目覚める者が現れるだろう。
流石に私や獣殿には及ばないだろうが、騎士クラスに到達する者はいるかもしれない。その中で気に入った者がいれば掬い上げてやると良い。もしもの際には爪牙となって働いてくれる。
と、いうよりも私の残骸を元にしている時点でそういう性質を帯びてしまうに違いない。私の知識と知恵と好みが反映されていながら女神のために働かないなど有り得ないのだから。
だが無理をして選ぶ必要はない。この世界はこのままに成り立っている。ただの本として、それこそかつて私があなたに語った数多の物語のように楽しんでもらえるならばそれでも良い。
いや、問題事があなたの身に降りかかっていないという証左なのだから、必要とされない方が私としても喜ばしい。
さて、長々と述べてしまったが、そろそろ物語に入るとしよう。
矮小なこの身にあなたの素晴らしさを表現しきることは不可能であるが故、この物語にあなたの代替はいない。即ち演者が最高とは言えない。
脚本も私の手ずから故にありきたり、至高とは言えぬ。
ただただ楽しんでもらいたいという気概が先行した、実に青臭い作品だ。
だが私の胸は高鳴っている、それこそあの黄昏の浜辺であなたを一目見たときのように。あなたを面白くさせられるだろうか、純情な少年の如き不安に苛まれている。1ページ1ページにあなたがどう表情を変えるのか、全く想像の付かない未知に私は恐れおののき、同時に期待に打ち震えている。
女神よ、これは恐怖劇にあらず、ただの物語。故に肩の力を抜いて楽しんでもらえれば、幸いだ――――
ドサ、と大きな音がして、私は手から本が滑り落ちたことに気が付いた。思わず取り落としてしまう、それ程に動揺しているらしい。
「え……誰、これ?」
言うまでもなく私は困惑していた。この本は予めあったのではなく、新たに生み出されたという。長いこと自分以外の存在がなかったこの場所に、カリオストロはどうやってこの本を生み出したのか?
いや、それはまだいい。カリオストロが卓越した腕の魔術師であることは知っている。常人には想像も付かないことだが、彼にとっては時限式の魔術を構築しておくことなど容易いのだろう。
だが、これは何だ? まるで好青年の如く私を慮っているように思われる、この書き手は誰だ? こんなのはカリオストロではない。たらり、と汗が頬を伝う。
私、マルグリットにとってカリオストロとは評価の最も難しい人物である。
一人だけで完結していた浜辺に怪しげな挙動とともに現れた他者。
度々訪れては話を聞かせてくれる旅人。
レンを生んでくれた恩人にして全ての悲劇の元凶。
残り香や足跡の温もりがどうのと言っていた変態。
つまり良くも悪くも規格外、彼が言う所のキチの極みなのだ、多分。
そもそもからして旧世界の神なのだから、やることなすこと規模が違った。
誰もいない筈なのに視線を感じたり、部屋のドアノブが水銀でベタベタしていたり、バレンタインの日に部屋の鍵穴からにゅるんと入り込んできた様を見たときには心臓が止まるかと思った程だ。それがなければチョコ位あげたというのに。
「本当になんて言うか、色々残念な人なんだよね……」
はぁ、と一つ溜め息をつく。どうしてカリオストロはこうも捻じ曲がっているのだろう。顔はレンと同じだというのに、どうして中身が致命的に終わっているのだろう?
ファーストコンタクトこそ変なものだったが、その後の触れ合いは決して悪くなかったと思う。歌を謡うことしか知らない私に外の世界の話を聞かせてくれるお兄さん、そういう存在だった筈だ。いやまぁ私が歩いた後の足跡が何故か消失していたり、空気が妙に無味無臭になっていたりしたことは何度もあったけれども。
別に嫌いではないのだ――変態だが。
感謝も感じているのだ――変人だが。
情愛も抱いているのだ――コズミック変質者だが。
とにかく変な人なのがカリオストロの筈なのだ。何か裏があるのかも、そう思ってためつすがめつしてみるが、本自体におかしな部分は見当たらない。
「あれ、そういえばカリオストロは何をしているんだろう……?」
ふと気が付いた。レンやカスミが新世界でどう生きているかはよく眺めている。ラインハルトさん達も同様に。だがカリオストロを目にしたことはなかった気がする。
私以外の全ての存在は新世界で生を受けている筈。輪廻転生を繰り返し、先へ先へと進んでいくのだ。
だがカリオストロの望み、渇望は私が彼の首を切り落としたことで満たされてしまっている。ならば彼に更なる生への望みはなく、そのために新世界に存在しないのではないか。
慌てて座から世界を覗き込んで探してみるけれど、どこにもカリオストロの残滓は感じられない。レンの傍にも、カスミの傍にも、どこにもいない。
或いは確か、カリオストロは別世界から来たという話を聞いた気がする。話の全てを把握していないのでなんとも言えないが、或いは私の流出世界には属していない存在なのか?
今でも鮮明に思い出せる。下半身を失い、なおも回帰への渇望を残していた彼を抱きしめたときの、カリオストロの恍惚とした表情を。私に恋をしたと語ったときと同じ、ただ私だけを見つめる眼差しを。それは死を迎えてもなお不変だった。
では本当にカリオストロは消えてしまった……?
「……いやいや、ないよ、うん」
自分でもないわ、と思う。だってあのカリオストロである。殊勝に消え去ることなど有り得ないと断言できる。
では一体何を企んでいるのか? 分からない。あのラインハルトさんをして予測不能と言わしめた存在なのだ、カリオストロは。私では及びもつかない。
唯一の手がかりはこの本のみ。彼の作ったコレを読むことで、何かが動き出すのだろう。彼の作った舞台に上がるというのは、あの頃を思い出して何とも言えない気分だけれど。
「とにかく、読んでみよう」
そういえばカリオストロの前の脚本は恐怖劇、グランギニョルだった……或いはまた酷いことをしているかも知れない。そのことに思い至った私は慌ててページを捲るのだった。