目を覚ますと、部屋には昨晩まであった明の姿がどこにもなかった――当たり前か。卓上に置かれたデジタル時計は”12:18”という文字を鮮明に映し出し、カーテンの隙間の向こう高くからは日が差し込む。見れば数人の主婦が集まって井戸端会議に花を咲かせていた。
洗面台でテキトーに顔を洗って化粧もそこそこに済ませる。空腹で一刻も早くお腹に何かを入れてしまいたかったし、別に今日は気取る相手も居ないのだから。どこからか何かのモーターが動くような機械音が暫く鳴っていた。
「おはよー………」
「おはようさん。やっと起きたか、淡」
「何やってんの?」
「見りゃ分かんだろ。髭剃ってんだよ」
「へー、大変だね」
「そりゃ面倒ではあるけどな、慣れれば大変ってほどでもないさ」
確かにその右手には電気シェーバーが握られていて、ソファに座りながら膝に広げた新聞をもう片方の手でめくっていた。居間を見回して他の二人の影を探すが、そんなキョータローと私以外には動くものすら見つからない。
「みんなはどうしたの?」
「明は部活で朝早く出ていって、照さんもどこかに行く用事があるんだとさ。何の予定もない暇人は俺とお前だけってわけだ……っていうかお前、まだ着替えてなかったのか」
「えへへ、可愛いでしょ」
「知らねーっての。寝間着のまま部屋の外まで出歩くなよ」
「つれないなー」
そんなやり取りをしているうち、私たちが出会って本当に最初の頃の光景が何故か脳裏をよぎった。例え表面上は気易く接していても、いつからか私とキョータローの間には隔たりができていた。それはキョータローが作ったものだったのかもしれないし、私が作ったものだったのかもしれない。三年前からあるのかもしれないし、十二年前からあるのかもしれないし、二十一年前からあるのかもしれない。とにかくそれが私を守ってくれていた。
………いや、私は食事を摂りに来たのだった。それとなくおねだりするとキョータローはぶつくさ言いながらも台所に立ってくれて、私が着替えを済ませて戻ってくる頃にはハムエッグと食パンが食卓に並んでいた。こういう素っ気ないようで甘いところが彼の他人から好かれるところであり、私が彼を気に入っているところでもある。
そうして気分を良くした私は遅めの朝食――というかもう昼食だ――を口に運びながらこんなことを言って、
「ありがとね、キョータロー」
「へぇ。お前がわざわざお礼を言うだなんて珍しいな」
「なによ。人のこと傍若無人みたいに好き勝手言ってくれちゃってさ」
「実際合ってるだろ?」
「…………」
「…おい、何だよその顔」
止めときゃよかったと思った。
そういえば、と不意に口から言葉が飛び出した。昨日の昼にあれだけ話しておきながら結局麻雀を打っていないことに気付いたのだ。一度そう思うと身体がムズムズしてきて今すぐにでも一局打ちたいような気分になるのだが、それを見たキョータローが「いつも打ってるんだから休みくらい別にいいだろ」などと言って笑う。
第一私たちが普段しているのは仕事だ。私が勝つか負けるかにチームの成績が関わってくるのであり、極端な話をすれば今後の食い扶持にも影響を与える。この一打に生活が懸かっていると思えば生半可な気持ちで臨めるものではない。そんな気苦労をすべて忘れて、本当に肩の力を抜いて楽しめるような麻雀だってたまにはしたいのである。
「そこまで言うなら雀荘でも行ってくればいいじゃねえか」
「んー、どうしようかな。外出しようとは思ってるんだけど………キョータローはどこにも行かないの?」
「悪いが、俺は今日は一日グータラして過ごすって心に決めてるんだ。たとえお前がどこか連れて行ってほしいだなんて言ったって梃子でも動かないつもりだぜ」
「別にそんなこと言ってないけど」
「あ、そう」
そもそも長野にやって来たのは昨日の十三回忌のためであったが、東京には明日の夜帰る予定だから今日は一日中フリーということになる。庭に繋がる大きなガラス戸に目を向けると、外には雲ひとつない冬晴れの青空が広がっていた――最高のお出かけ日和だ。
「家?」
「明も大きくなって今の部屋じゃだいぶ手狭になってきたし、そろそろじゃないかって京ちゃんが」
「なるほど………ねねっ、サキはどんな家がいいの?」
「どうかなぁ。白い壁で、広い庭と大きな窓があって、モフモフの犬がいて……とか」
「なんかフツーじゃない?」
「確かにありきたりかもしれないけど、やっぱりそういうのって憧れるもん」
「私だったら忍者屋敷みたいにするよ!あっちこっちに隠し扉とか秘密の通路とか作っちゃうし」
「それはちょっと大変なんじゃないかな………」
やっぱりやめよう。別に休日だからといって有意義に過ごす必要はないし、それこそ普段の生活が抜けきっていない証拠だ。ここ最近はずっと試合続きだったし、どうせこんな時間まで寝てしまっていたのだ。こうなったら一日中惰眠を貪ったっていいじゃないか。
それに、たまにはキョータローとの親睦を深めるのも悪くないとも思った。
「ははっ、なんだよそれ」
「それとも私と一緒はイヤ?」
「まさか。嫌なわけないさ」
意外と素直なその態度に私は驚いた。こういう場合は大抵「うるさくて敵わん」だの「真っ平御免だ」だのと素っ気ない返しをしてくるのが普通だから、この返答には意表を突かれたのである。
「ま、そういうことなら久々にちょっと付き合えよ」
こんな状況はいつぶりだろうか。アルミ缶の縁に唇を付けながら私はしばらく記憶を辿ったが、少なくともすぐに思い出せる範疇にはなさそうだ。
キョータローと二人きりになる機会というのは頻繁にありそうで実は意外と少ない。大学生の頃の私といえば彼といるかモモといるか、あるいはその両方か三択であった。部活動の仲間やゼミなどで知り合った僅かな友人を除けば、それ以外の人とは話した記憶すらあまりないくらいだ。しかしそれも社会人になるまでのことだった。
もっともプロ雀士になってからもキョータローとの繋がりは残っていたし、会う機会も頻繁にあった。だがそれは同業者であったこと、そして何より私とサキがチームメイトであったことが大きい。それ以来私とキョータローの関係は常に誰かを接点にしたものだった。だから二人きりになる機会は少なかったのだ。
そして今――
「そしたらフナQがいきなり入ってきてさー、『ええからとっとと寝ろ!』って」
「そりゃお前、学生の修学旅行じゃねえんだから。いい年してそんなことしてたら怒鳴り込みに行きたくもなるだろ」
「だってしょうがなくない?瑞原さんがあんなこと言うんだもん」
「………瑞原プロ、やっぱりキツイな」
寝坊、ご飯、そしてお酒。絵に描いたような自堕落な休日である。スローペースで始めたとはいえ机の上には既に空き缶が五本以上転がり、今飲んでいるカクテルも三分の一ほどにまで減っていた。
ちなみに最近の瑞原プロはもっと落ち着いたキャラへシフトしていて、「このプロキツい」とか言われることも全然なくなっているのであしからず………たぶん。とまあ、そんな軽口を叩くくらいには二人とも酔いが回っていたのだった。
「それにしても、こうやって飲んでると大学生に戻ったみたいだね」
「もう二十年くらい前になるのか……懐かしいなぁ。近くのきったない居酒屋で安酒飲みまくって吐いたりしたよな」
「吐いたのはアンタだけでしょ?」
「しらばっくれるなよ。お前だって一回、酔い潰れて俺が背負ってる時にぶち撒けただろ」
「しーらない。覚えてないもん」
「調子のいい奴め」
「そういえば、あの居酒屋なんだけどね」
一年ほど前に所用で大学の近くに行った帰りのことだ。日も暮れた頃、駅へと向かっていた私は偶然にあの居酒屋がまだ残っていることを見つけた。思わず中に入ると、あの頃と変わらない――ただ二十年分だけ年を取った店主があの頃と変わらず麻雀中継を眺めている。テーブル席に座って雑談を交わす大学生やサラリーマンの顔があの頃の常連と一瞬だけ重なった。私たちがよく座っていたカウンター席を三人組の若者が埋めていた。
そんな話をして、私たちはより一層ノスタルジーに浸るのである。
「そうそう、モモが一番奥に座って、その次に私が入って。キョータローはしょっちゅう遅れてくるから一番手前だったよね」
「あの頃は年がら年中お前らとつるんでた気がするぜ」
「キョータローがサキと付き合うようになってからはそうでもなかったけど」
「………そうだったっけか」
彼は言葉を切らすと、机にティッシュを敷いて柿の種を幾らか出した。
「元気かな、モモのやつ。あいつとも遂に年賀状でやり取りするだけの仲になっちまった」
「キョータローは薄情だなー。去年会ったときは元気そうだったよ」
「お前とモモは東京に住んでるんだからすぐ会えるかもしれんが、俺はそうもいかんしなぁ」
「確かにそうだけど……むしろ、私はゆみ先輩の方が心配だよ。最近特に忙しいらしいし」
「モモがついてるなら大丈夫だろ」
「それもそっか。モモだしね」
一般論的には子供を産むと人は性格が変わるらしく、出産前は優しかった妻の豹変に驚くというのはよくある話だ。しかしモモは二児の母となった今でもゆみ先輩にぞっこんで、たまに会う私が惚気話を聞かされるほどである。今更不養生させるようなことはないだろう。
「子供か……メイのときはどうだったっけ。サキもやっぱり変わったの?」
「そりゃ変わったさ。ガキのころ母さんに叱られてたのと同じ構図っつーか、とにかく厳しい性格にはなった。明につきっきりだったから仕方ないんだけどな」
「アンタは全部テキトーだしね。ほら」
キョータローが座っていたソファ近くの床には男物のパジャマが脱ぎ捨ててあった。私がそれを指差すと、彼は少々恥ずかしそうに頬を掻いた。
彼は外向きの体裁はよく整えるくせに自分だけのことは大体適当に済ませてしまう男だ。他人にはきめ細やかに気を遣い、部室なんかの掃除や整理は気がつけばキョータローが済ませてしまっているほどだった。にもかかわらず家では洗濯だってロクにしないし、気がつくと何日もご飯すら食べていなかったりする。そういうところが放っておけない――と、思う人もいるんだろう。きっと。
「やっぱり不思議だよね。確かに子供の存在は大きいんだろうけど、性格まで変わるほどなのかな」
「俺には一生分からねえよ。出産できるわけじゃないし、咲以外の例を知らないし……でも人間なんて変わるもんだろ?俺から見れば淡だって変わったよ。若い頃は不遜の塊みたいな奴だったのに、今じゃ随分丸くなっちまいやがって」
「それは何十年も生活しながらちょっとずつ起こることであって『出産』なんていうたった一つのイベントとは話が違うでしょ?私だって、もし結婚して子供が出来てたらって考えるとなんだか怖いよ。自分が自分じゃなくなるみたい」
「ふーん……やっぱお前、なんか難しい事考えてんのな」
キョータローがビールに口を付けてグイッと天を仰ぐ。大きく出っ張った喉仏が上下に動き、飲み干された缶の山がまた一つ大きくなった。
「淡、お前なんで結婚しなかったんだ」
それを聞くのか。よりにもよってアンタが今、この場で。
恋人いない歴イコール年齢なわけで、したくてもできなかったわけで、そんなこんなで気がついたらこの年齢になってたわけで………そうやっていつも通り適当にお茶を濁す。
「なんでいたことすらないんだよ」
「いい人がいなかったからに決まってるじゃん」
「俺がプロにいた時だって色んな奴から言い寄られてただろ?好みのタイプだってよりどりみどりだったろうに」
「そーいうことじゃないんだよ」
「はあ?じゃあどういうことだよ」
「タイプとか、そんな問題じゃないもん………」
今まで生きてきて一体どれだけの人間と関わったのかなんて想像もつかない。老若男女様々な人がいた。馬が合うと思ったり、魅力的だと思ったりする人との出会いだって何度もあった。でも私はそれらを受け入れることができなくて、過去に縋ったままここまで来てしまったのだ。
生娘でもあるまいし、別に話してしまってもいいのだ。いっそあの時の自分の胸の内を全て本人に打ち明けて、笑い飛ばしてしまえればどれだけ気が楽になることかとも思う。でも私にはそれができなくて、かといってこれ以上踏み込むこともできない。そんな状況が何十年も続いていた。
だから、後悔してももう遅い。
「こういうこと聞いていいのかわからないけど」
「別に何言われようが怒ったりしないから安心しろよ」
「キョータローが再婚しないのって、サキのことが忘れられないから?サキに申し訳ないとでも思ってるの?」
「随分突っ込んだことを聞いてくるんだな」
少し決まりが悪そうに笑う。
「そんなつもりじゃなかったけど、実際はそう思い込みたかっただけでさ。プロだって実業団だって、咲から逃げたかったから辞めた。でも逃げられなかったんだ………結局俺は、自分が可愛いだけなのかもな」
「じゃあ、テルと寝るのも自分を慰めるためなの」
「………知ってたのか」
私は、私の口から発せられたその言葉に驚いた。
それに気付いた時の気持ちは複雑だった。怒りだけでもなく、悲壮だけでもなく、困惑だけでもなく、疑念だけでもなく、しかしそれを歓迎していなかったのは確かだ。とにかくその秘め事が、決してテルがキョータローを愛していることも、キョータローがテルを愛していることも示してはいないということは分かった。
彼は私から目線を外らし、ようやく聞こえるような声で小さく呟いた。
「最初は成り行きだったんだ。そのまま流されるように惰性で何年も続けてきた。でも俺、求婚されてさ」
「それ、いつの話」
「昨日の夕方だ。最初は冗談かと思ったんだが……余計分からなくなったよ。俺にとって照さんが一体何者なのか」
分からないのは私の方だ。頭は既にパンク寸前で、自分が何を考えているのかも何を言おうとしてるのかも整理がつかない。テルはキョータローが欲しい?だからそんな事をしたんだろうか。
ずるい。
「他のヒトに置き換えてみれば分かるんじゃないの」
「何が言いたいんだ」
「もしもテルじゃなくて私ならどうなの。宮永照じゃなくて、大星淡なら」
もしも私なら抱けるの?もしも私なら結婚できるの?いっそ本当に試してみようか。ほら、ここには誰もいないし邪魔をするものなんて何一つとしてない。きっとこの男は自分の寂しさを埋めたいだけで、女なんてどうでもいいんだ。ならいいじゃないか。テルだって私だって何も違わないんだから。
それともキョータローは、私のことが嫌いなんだろうか。
「――淡ッ!!」
「………私とできないならそれでいいんじゃない。テルはキョータローにとって特別な人ってことだし、結婚でもなんでもすればいいと思う」
「もしできるなら、やめておきなよ」
今まで生きてきて一体どれだけの人間と関わったのかなんて想像もつかない。老若男女様々な人がいた。馬が合うと思ったり、魅力的だと思ったりする人との出会いだって何度もあった。
「………酒、抜けちまったな。もう一本開けるか」
「私も飲む」
でも私はそれらを蹴って蹴って蹴りまくって生きてきた。後悔なんていうのは終わったことに使う言葉のはず。私はまだ生きてる。私の人生はまだ終わってないんだ。
だから、後悔なんてしてない。