キョータローの運転で走ること三十分。ある家の軒先に立った老人は、こちらに気付くと大きく手を振ってきた。
「お義父さん、お待たせしてすいません」
「いやいや、このくらい訳ないさ。淡さんは久しぶりだなあ。最後に会ったのはいつだったっけ」
「カイさん、私が前に来た時は入院してたよね。ってことは五年ぶりくらいじゃないかな」
あの時はどうして入院なんてしていたんだったっけ。確か尿管結石とか何とかと聞いた覚えがあるが、記憶が定かではない。
「そんなに経つのか。歳を取ると時間感覚が分からなくなるってのは本当だなぁ」
「お父さん、体調は大丈夫なの?あんまり良くないって聞いてたけど」
「肺の話か? ちょっと前まではだいぶ悪かったけど、吸うのを止めたらさっぱりだ」
「もっと早く禁煙すれば良かったのに」
そんなことを言われる本人以上にばつの悪そうな男がいる。
「お義母さんは昨日行かれたんですよね」
「愛はどうも最近また忙しいらしくてな。今朝早くに松本空港まで送っていったから、今頃モスクワ行きの機内だろう。みんなと行けなくて残念がっていたよ」
「…………」
「……さ、そろそろ行こうか」
「……お父さん」
「……何だ?」
「ここにお母さんがいるんだよね」
娘が問いかける。もう何度も繰り返してきたことだろうに、何を今更疑問に思うことがあるのだろうか。
「ああ、そうだよ」
「……私、もう覚えてないよ。お母さんの顔」
「………仕方ないさ」
父は答えた。
お坊さんがお経を上げるのを正座し続けて待った後、足の痺れも取れないうちに私たちはお寺の横にある墓場へと向かった。誰かが頻繁に掃除をしているのだろうか、他のそれと比べて明らかに綺麗なままに整えられている。しかし構わずキョータローが軍手を両手に嵌めて雑草抜きを始めるのを見て他の人たちもそれに続く。バケツいっぱいの水に雑巾を漬けると、容赦のない冷たさが右手を刺した。
「ねぇキョータロー、なんでこんなことするのかな」
「こんなことって?」
「お墓の掃除」
「俺は、墓を綺麗にするってのは入ってる人を綺麗にするようなものだと思ってる。アイツだって綺麗な方が嬉しいだろうさ」
「『嬉しい』とか『悲しい』とか、そういうのって生きてるから感じるんじゃないの」
「んなこと言ったってなあ…………で、なんだ。掃除はイヤか?」
「そういうことじゃないけどさ。私たちがこうしてあの子のことを想っても、一方通行になっちゃってるみたいで虚しくて」
「なんか難しいこと考えてんのな」
少なくとも私がここに来た理由は彼女を弔うことであって、これ以上哲学的な内容について議論するつもりはない。
御影石を擦りながら辺りを見渡すと、隣の墓はあちらこちらから生えてきたままの枯れ草が伸び、苔や水垢にまみれていた。水鉢には得体のしれない虫の卵やら汚れやらが浮いている。程度の差こそあれど、そういった放置された形相のものはちらほらと見当たった。しばらくして入り口の方から一人の老婆がやってくると、ある墓の前で止まった。
ようやく一段落つき、線香を上げて手を合わせる。五人と一人の寂しい十三回忌だ。
テルがそう切り出したのは、一通りの事を終えてそろそろ帰ろうかという雰囲気になった頃だった。
「京ちゃん、折り入って話したいことがあるんだけど」
「構いませんよ。帰ってからでいいですか」
「……………」
「ええと………わかりました。淡、明とお義父さんを連れて先に帰ってくれないか」
「テルとキョータローはどうするの?」
「駅まで歩いて電車で帰るから大丈夫。京ちゃんもそれでいい?」
「別に俺は何でも。これ、車の鍵な」
「私はここにいちゃダメな話なの?」
「淡、お願い」
「………なーんてね。淡ちゃんもう大人だから、そーゆーの弁えてますよ」
分かってはいたが、聞かずにはいられなかった。
「ほら、帰りにお寿司でも買って帰ろ? キョータローのおごりだよ」
「お給料日前に散財して困るのは私なんだけどな……ま、今日くらいいっか」
「淡さん」
「ん?どーしたの、メイ」
メイは私のことを少し避けているような気がする。麻雀の相談ならテルの方が的確なアドバイスが出来るし、それ以外のことならキョータローに話せばよい。私は親類でもなければそこまで頻繁に会うわけでもないのだから、彼女にとっては対応に困る部分もあるのだろう。私にとっては親友たちの娘であり、生まれた瞬間からその成長を見守ってきた自分の娘同然の存在でもある。だからそんな現状を物寂しく覚えていたのだけど……
ともかく、メイが自分から私に話しかけてくるというのはちょっと珍しいことだった。
「あの、ちょっと聞きたいことがあるんですけど」
「あはは、そんな前置きいいよ。何でも言ってごらん?」
「お父さんとお姉ちゃん、やっぱり私のことですか」
「………ま、そりゃそうなるか」
狭い山道の向こうから対向車がやって来た。車体を路傍に寄せて相手が通り過ぎるのを待ちながらバックミラーを覗くと、カイさんの皺が増えた顔はいつの間にか静かな寝息を立てていた。
十二年前――メイが母親を失った直後にはキョータローもずいぶん参った様子で、私とテルは残されたメイを何かと気にかけていた。まだ小学生にもならないメイを助手席に乗せて大阪まで遊びに行ったのは、つい昨日のことにすら感じられる思い出である。
しかし今私の横に座る少女は幼稚園児ではなく、もう高校一年生なのだ。私が初めて会った時の『彼女』と同じ歳になっていた。
「私も全然わからないけど、きっと大した事じゃないと思うよ。お金関係の話か、メイの進学がどーとかこーとかって話じゃないかな?キョータローはその辺いつも適当で全然考えてないからさ。テルが結構そういうこと気にしてて、実はメイが高校に上がる時だってキョータローと――」
嘘だ。テルがそんなことのためにわざわざ墓地なんかで立ち話をしようとするだろうか。やましい話でもなければ、あの二人には落ち着いて話す機会くらい幾らでもあるはずだ。
余程聞かれたくないことでもあるのか。
「お前が咲を見殺しにしたんだ!!!!」
「違うんです、照さん!俺は……ならどうすれば良かったっていうんですか!」
「そんなこと知らない!お前が殺した!!お前が咲をッ!お前がッ!お前がぁぁぁぁぁああああッ!!」
「テル、やめて!!落ち着いてほら……キョータロー、大丈夫?」
「照さん……俺だって………俺は…………」
「…………きょうた、ろう」
――嫌な記憶が思い起こされる。あの日も私たちは皆黒い服を着ていた。
口から出任せを吐いたところで私の気は休まらない。でもそんな事をありのままメイに言えるはずもなく、
「だから放っといて大丈夫だよ」
「……そうだよね。最近の京ちゃん、疲れてるみたいだったから心配で……」
「――ッ!!!!」
「メイ………今、なんて言ったの」
車が急に止まっても身体は進み続ける。そんな当たり前の物理法則に従って前のめりになった私たちを、ピンと張ったシートベルトが受け止めた。慌ててサイドミラーを覗き込むと、ずっと追い抜きたそうに後ろを走っていたバイクは間一髪で止まってくれたようだった。
「ふぅ、びっくりした……淡さん?」
「ううん………なんでもない。ごめんね」
クラクションと怒号が聞こえてくる。窓を開けて謝罪してから、私は再びキョータローの愛車を走らせた。
「カイさん大丈夫?起こしちゃったかな」
「…………」
「寝てるみたいですね」
私の知る上で彼を――宮永京太郎のことを『京ちゃん』と呼ぶ人物は四人いる。後部座席でバックレストにもたれ掛かる宮永界、マスターズ出場で今は日本にいない宮永愛、今頃本人と秘密の談合を交わしている最中であろう宮永照。
そして、彼の妻である宮永咲。
気のせいだとは思えなかった。
一瞬だけ見せた口調はメイ自身のものとは到底考えられない。それこそ、まるで彼女のような…………
今年の夏、私はあのインターハイを解説者として眺めていた。
「さあインターハイ決勝戦もいよいよ大将戦!この長き戦いにピリオドを打つ、選ばれし四人の選手たちをご紹介しましょう!!」
「まずは南大阪代表、姫松高校からは三年生――」
まるでプロレス中継のような威勢の良い声がすぐ隣から聞こえてくる。例年ならここ十年近くコンビを組んできたアナウンサー(32)がここには座っているのだが、あろうことか先月彼女は産休に入ってしまった。アイツ、普段から飄々としてるのに気がついたら一丁前に……いや、こんなこと考えるだけでも見苦しい気がしてきた。
そして代打としてやってきたのがこいつ。一緒に仕事をするには暑苦しすぎるけど、話してみれば結構楽しい男だ。
「……そして長野県代表。二年ぶりの出場を果たした名門、清澄高校から登場――期待の超大型新人、宮永明選手だーッ!」
「昨年度インターミドル個人戦第三位!日本で最も強い女子中学生の一人です!!」
「ねぇ、やっぱりもうちょっと静かにできない?」
「あははは、ご冗談を」
「別に冗談じゃないんだけど」
「ところで大星プロ。宮永選手とはお知り合いだとお聞きしましたが本当ですか?」
(こういうのって言っても大丈夫なのかな?…………まあいっか)
「はい。ご両親と古い付き合いで、彼女とも小さい頃から打ってますけど……」
「相当強いですよ」
メイは昔から麻雀が強かった。サキとキョータローの娘だし、当然といえば当然だ。
しかしここ数日のメイは明らかに普段の打ち筋からかけ離れていた。彼女の十八番であるはずのチャンタ手が殆どない上、どう考えても不可解な打牌が増えているのだ。その理由を見定めることは解説席に座る私の目的の一つでもあった。
南四局
晩成 | 136000 |
清澄 | 89200 |
姫松 | 73900 |
白糸台 | 100900 |
北家:宮永(清澄) 11巡目
ドラ:{北}
{③③③⑤⑥⑥⑦⑨⑨⑨北北北} ツモ:{②}
「宮永、ここでようやく二筒を引き入れて混一ドラ3の聴牌。ダマでも跳満確定、高目が出れば倍満!残り六巡で間に合うか……あれ?」
→打:{北}
「北落とし!?これはどういった意味でしょうか」
混一色ドラ3も清一色も六翻。一見ただの損に見えるが、私は既に{北}が一枚場に切れていることに気づいた。
清澄が優勝するためにはトリプル条件、それも一着への直撃が必要だ。現状の手を三倍満に届かせるには立直を打つしか選択肢はないが、そうすれば筒子染めが見え透いている以上晩成からの出和了りは不可能に等しいだろう。二着の白糸台と四着の姫松はそれでも押してくるだろうけど、そっちから取ったところで役満でも二着にしかならない。
しかし、一度手繰り寄せた光明を自分の手で塞ぐのは中々難しい。裏が一枚でも乗れば優勝………手を崩せば次の聴牌さえ危ういのだ。出来るとしたら、それは――
「あるんでしょう。望み薄の賭けなんかじゃない、絶対的に信頼できる何かが」
『何か』は、確かにあった。
二十五年前の夏のことだ。部室でアイスを食べながら涼んでいる私の前に、どさりと音を立てて大量の資料が積み上がった。DVDのケースが三つと気が遠くなるような分厚い紙の束がやはり三つ。目を点にした私に対して菫先輩は、
「なにこれ?」
「対戦相手が出場した県予選決勝の録画と牌譜だ。淡のために大将戦だけ抜き出してある」
「えー、ここまでのインハイ全部観てたから大丈夫でしょ」
「まあそう言うな。明日の決勝に向けての準備だよ。淡を信じていないわけじゃないが、念には念を入れなくちゃな」
「センパイが観ればいいじゃないですか。あとで教えてくださいよ」
「自分で観ないと意味ないだろッ!」
結局彼女と肩を並べながら続けざまに二本のビデオに目を通すことになった。奈良県予選に東東京予選、映像を観ては牌譜を読んで検討することを続け――最後に先輩がリモコンを操作してトラックを三本目へ移す。
(へぇ……この子なんだ)
「ねぇテルー。長野の宮永サキって、テルの妹?」
「……………………うん。妹だよ」
「スミレー、あの金髪の子って誰?」
「西家の龍門渕か?やっぱり気になるか」
「あれは天江衣、昨年度のインハイ最多得点選手だ。圧倒的な支配力で他家を寄せ付けない………化物級の打ち手だよ」
「なら、その化物を抑えて全国に来たっていうこの子は魔王かな?」
「照の妹だし、あながち間違いじゃないかもしれん」
「でもテルは妹じゃないって言ってたよ」
一応形だけでも否定しないわけにはいかない。
「どう考えてもあんなの嘘に決まってる。過去に何があったかは確かだが……まあ、そこは家庭の問題というやつだ。私たちが首を突っ込んでいい話じゃないさ」
「先輩は大人なんだね」
菫先輩は苦労人だった。尭深と亦野先輩はそうでもないにしても、私やテルが先輩にどれだけ迷惑を掛けていたかを痛感したのは彼女が引退した後だった。それでも出場選手としての練習や調整は勿論のこと、虎姫やその他の麻雀部員、顧問との板挟みに苦悩している一面があることを私は少しだけ知っていた。彼女が自分自身を守るために身につけたのが割り切るということであり、大人のように振る舞うということだったのではないだろうか。もっとも、そこで知らぬ存ぜぬには徹せないのが菫先輩の優しいところなのだけれど。
閑話休題、その頃には画面に映るサキの手牌は着々と筒子一色に染まっていっていた。ラス親鶴賀は国士一向聴、南家風越はスッタン{⑦}待ち……そして西家の龍門渕がメンタンピンの聴牌。オーラスにして一触即発の場面だ。
「淡、そろそろだぞ」
「うわっ、りゅーもんぶちが掴まされた」
「……ねぇ、菫先輩」
「どうした?」
「この子、一筒を切るとき何を考えてたのかな」
「うーむ……清澄と鶴賀の河は筒子が一枚も切れてない。当然警戒はしただろうがなにせ6万点差のトップだからなぁ。自分が三面張を和了りきればその時点で龍門渕の優勝は決定。役満は無いと踏んで押したんじゃないか」
「そーゆーことじゃなくてさ……いや、やっぱなんでもない」
「は?お前何を言って……」
『もいっこカン!』
(きたっ!)
風花雪月という役がある。あるいは二索槍槓、あるいは一筒撈月というような役もある。『古役』と呼ばれるそれらは廃れて現代に姿を認めることはできないが、私はそこに込められたストーリーが好きだ。
森林限界を超えた高い山の上。そこに咲く花は強く、そしてきっと――
『ツモ』
『清一対々三暗刻三槓子、赤1……』
北家:宮永(清澄) 16巡目
ドラ:{北188}
{⑤⑥⑥⑥} {裏②②裏} {裏③③裏} {横⑨⑨⑨⑨} 嶺上ツモ:{[⑤]}
「嶺上開花」
「き、決まったーッ!全国高校生麻雀大会ここに終結!!のべ3438校の頂点に立ったのは………」
「長野県代表、清澄高校だぁぁぁ!!!」
「しかし宮永選手、オーラスで派手に魅せてくれました」
「奇しくも宮永選手のお母様は嶺上開花の使い手として名声を馳せた故・宮永咲プロ。まるで母親の意志を継ぐのだと言わんばかりの闘牌です!」
「いやはや大星プロ、この大将戦を終えてどのように………あれ、大星プロ?」
「………五筒開花、か」
登場人物
・宮永界
宮永照、宮永咲の父。
・宮永愛
宮永照、宮永咲の母。
シニアプロとしてプロ麻雀界に復帰しており、色々と忙しいらしい。
用語解説
・五筒開花
古役(古い中国麻雀に由来する役)の一つ。五筒の図柄を花弁に見立て、嶺上開花での和了牌が五筒であった場合に満貫としたもの。(Wikipediaより)