再訪
―― 冬
ゆっくりと走る列車から窓の外を眺め、私はこれからのことを考えていた。
立川駅から特急に乗って二時間、そこから滅多に走らない在来線に揺られて更に二時間。車窓からは民家やビニールハウス、それからだだっ広いスーパーとホームセンターがちらほらと見える。それ以外何もない典型的な田舎だけれども、最近では東京の方こそ度が過ぎた都会なのではないかと思うようになってきた。
「あっ、あそこの橋が開通してる。ずっと工事中だったのに」
「あの山の左側に架かってる橋のこと? 一昨年の夏くらいにはもう出来てたよ」
「そっかー……ま、何年も来てないしそういうこともあるよね」
「どうして淡はしばらく来てなかったの?」
「んー、特に来る理由もなかったからかな」
人生の中で十年という時間が占める割合は小さくない。例えば友達と大喧嘩をしたとすれば、その時は怒り昂ぶって「この事は一生忘れない!」と思うことすらあるだろう。だが実際には数ヶ月か一年もすればその記憶は薄れていき、じきに思い出すことも不可能になる。もちろん中にはその時間を以てしても忘れがたい出来事はあるわけだが、そうだとしても気持ちを落ち着かせるには十二分である。十年とは私からすれば今までに生きたうちの25%くらいを占めるわけで、それに余りあるほどの長さを持っている。
あの子も大きくなったし、私はもうここに来なくたって大丈夫だろう。そう思っていたのだ。
「ということは今年はあるんだね」
「うん。久々に顔が見たくなっちゃって」
「ふふっ、何それ」
『次は 清澄 清澄 お出口は―――』
「ほら、そろそろ降りよっ。お土産忘れないでね?」
「………大丈夫」
「その間は絶対忘れてたよねテルー……」
降り立った無人駅は背後に雄大な木曽山脈を抱えていた。彼の家までは車ならせいぜい十分くらいだけど、歩けば一時間はかかる距離だ。ただでさえ起伏の多い山里の道である上、それを進む足腰も年々衰えていくのを嫌でも実感している。それでも私はこの風景をとても気に入っていて、タクシーなんか捕まえて早々と通り過ぎるにはあまりにもったいないと感じてしまう。まあ、肝心のタクシーが殆どいないのでどうしようもないという事情もあるのだが。
それにしても長野の冬は寒い。一般に気温は高度が100m上がるごとに0.6℃降下すると言われている。標高700mほどの清澄であれば東京より4℃くらいは低い計算になるのだが、とてもそういう範疇にはないレベルで寒く感じるのだ。とはいえ周囲の人気の無さが体感に拍車を掛けているのは確かであろうから、実際の気温はそこまで低くはなっていないんじゃないだろうか。
もっとも、そんな不毛な論理を展開したところでこの寒さが薄らぐわけではない。歩いているうちに温まってくるのを願う方がよほど建設的だ。
「うぅ、今年はいつもより冷えるね……」
「まったく、東京育ちはこれだから」
「テルは寒くないの?」
「全然大丈夫。それにこの辺りは雪もあまり降らないし。北信に行くとこの時期でも――」
したり顔で語るテルの顔は赤らんで白い息を吐き、よく見ればカタカタと小さく震えている。やっぱテルだって寒いんじゃん。
目的地に着く頃には何だかんだコートの下は汗ばむほどに温まったが、それでも伊那谷に沿って吹く北風に晒された顔は痛いくらいに悴んでいた。山脈に挟まれた平野を田畑が埋め尽くす中にぽつんとできた、わずか十数戸の小さな新興住宅地。もう何度も訪れた場所ではあるが、念の為『宮永』という表札が掲げられているのを確認してからインターフォンを鳴らす。
ぴんぽーん。
「………」
「出ないね」
「いないのかな?」
「連絡してあるし、そんなことはないと思うけど……」
「うーん……?」
もう一度鳴らす。無反応。
数分待ってから再度鳴らす。やはり無反応。
「……」
「……」
「……」
「…………あーもう!」
痺れを切らしてボタンを連打するが、その度にインターフォンは同じチャイムの音を小さく響かせるだけである。壊れてるんじゃないの、これ。
「ちょっと淡、やめなよ」
「いーじゃん別に! アイツが出ないのが悪いんだから」
「………はぁ」
「早く開けろぉぉぉぉ!!!!」
「はーい! お待たせしました!」
扉を開けて出てきた男は顔こそ明るく装っているものの、声色には隠しきれない苛つきが浮かんでいた。でもこっちだって待たされたしおあいこの筈だ。いや、三対七くらいでコイツの方が悪いよね。
「――って、あぁ」
「京ちゃん、久しぶり」
「照さん! お久しぶりです………げっ、淡までいやがる」
「この淡ちゃんが来てやってるのに『げっ』とはなんだ! キョータローのくせに!」
「アラフォーが自分のこと『淡ちゃん』なんて言ってんじゃねーよ」
私、大星淡と宮永京太郎にとって、それは三年ぶりの再会だった。
久し振りにやって来たこの家の様子は殆ど変わっていない。私たちが今座っている食卓と椅子はここ最近で新調したらしく、テレビなどの配置も多少動かされていたが、総じて以前見た通り小奇麗に整頓されているようだ。
彼女がマメな性格で本当によかった。学生時代のキョータローは部室こそ率先して綺麗にしていたが、自分の部屋については結構適当な気立てだったはずだ。
「鳴らしたらすぐに出てきてよー」
「仕方ないだろ。寝てたんだ」
「怠慢」
「たまの休日なんだから別にいいじゃねーか……おっ、こりゃ美味い。淡も食ってみろよ」
『バターサンド』を一口齧ったキョータローが話を逸らすように声を上げる。元々は東京ばな奈を所望されていたらしいが、結局テルはデパ地下で一時間近く悩んだ挙句にこちらをお土産として選んだのだった。だが一方の当人はと言えばそれに何か相槌を打つこともなく、いかにも妬ましそうにキョータローの顔をまじまじと見つめていた。
「俺の顔にゴミでも付いてますか?」
「そういうわけじゃないんだけど……京ちゃんは本当に老けないなって」
「あー、そりゃどうも。特に何かやってるわけじゃないんですけどね」
「テルだって全然若いじゃん」
自分で言うのは憚られるが、私だってまだ色んな人から三十代前半くらいには間違えられる。いやいや、社交辞令じゃなくてマジで……たぶん。不老不死が三大プロ麻雀界ミステリーの一つであるというのはそこそこ有名な噂だ。
「不老不死ってのは流石に冗談にしても、実年齢より随分若く見える人はかなりいるな」
「小鍛治さんとか明らかにおかしくない?ひょっとして和了るたびに若さとか吸い取って――むぐっ」
「淡、そのくらいにしておいたほうが良いよ」
「……!」
「というか淡、お前お菓子食べすぎ。あいつの分が無くなるだろうが」
「ちぇーっ」
十五個入が二箱もあるんだから少しくらい良いじゃないかとは思ったけど、私もいい年の大人だしここは素直に引くことにしよう。私に釘を刺すキョータローの目を盗んでテルが五個目をくすねた瞬間を見逃すことはなかったけど。
その後も話題は絶えることもなくコロコロと変わり、昨日あったという昇進祝いの話やテルが優勝した話など最近の出来事を遷っていく。しかし最終的には私が結婚できないという話に落ち着くのが、この面子で集まった時のお決まりだった。
「私が悪いんじゃないもん! そもそも私に見合わない――」
「本当に難儀なやつだな、淡は」
「もう42歳だっけ? 人生諦めが肝心だよ、淡」
「まだ41だよ! 世間じゃ晩婚化がなんとかって言われてるしまだまだ………あれ、でもそういえば来週誕生日だったような」
「アラフォーはアラフォーでも、とっくに四十路に入ってる方だものなぁ」
「キョータローだって同い年じゃん」
「ああ、そういやそうだったか?」
「むぅ」
年齢の話になるとどうしても二人には負ける。キョータローは別にいい。男だし既婚だし、子供もいるし。しかしテルは私と同じ行かず後家仲間にもかかわらず焦る素振りの一つもなく、とうに諦めているか元から興味がない様子なのだ。それが良いんだか悪いんだかはともかくとして、この余裕そうな態度に接すると何ともやるせない気持ちになってしまう。
「あーもうむしゃくしゃするなー! 麻雀でも打てば発散できるのになー!」
「そんな事言ったって三麻しか出来ないじゃねーか」
「えー? 別に私はそれでもいいよ」
「俺は気が乗ら――「ねぇねぇテルー、麻雀したいんだけどさー」――人の話を遮るなって」
「ねっ、一緒にサンマやろうよ」
「…………」
「テル?」
「……えっ? ああ、ごめん………ええっと、私も京ちゃんに賛成かな」
「がーん、麻雀出来ないじゃん」
「残念だったな」
「ぐぬぬ、もう一人いれば……メイはまだ帰ってこないの?」
「そろそろだと思うんだが」
首を横にひねるキョータローの仕草に釣られるまま、私とテルの目線が部屋の壁に掛けられた時計へ向けられた。彼の趣味なのかはたまた彼女の趣味なのか、やけに前衛的で読み取りづらいそれはどうやら昼過ぎくらいを指しているらしい。
その刹那、そんな私たちの会話をまるで待ちかねていたかのように、遠くで何者かが扉を開ける音がした。つまり――
「ただいまー!」
彼女が帰ってきた。
彼女が靴を脱ぐ音が聞こえる。立ち上がって式台を踏みしめる音が聞こえる。一歩二歩と、確かに彼女が近づいてくる音が聞こえる。廊下とリビングを隔てるドアノブが捻られるのを目の当たりにして――何故か身をこわばらせる私の心音が聞こえる。なぜだろうと思考を巡らすも、扉が開かれるまでにその理由が見つかることはなかった。
「うぅ、寒かった……」
「おーよしよしメイ、元気?」
大丈夫、ちゃんと会話できてるっぽい。
「明、久しぶりだね」
「いらっしゃい、照お姉ちゃん」
「淡さんも来てたんですね。それなら教えてくれればよかったのに」
「あははー、ごめんごめん」
「淡、毎回言ってるけど来る時は連絡してくれよ。色々と用意があるんだからさ」
「別に気にしなくていいのに」
「そういう問題じゃないんだがなぁ……」
「それお土産? 私の分もあるの?」
「もちろん」
そう言って放り投げられた鞄とコートが二次曲線を描きながら危なげもなく無事ソファに着地する。メイは私たちの囲む食卓へ腰を下ろしてから、箱に入った小さな包装の一つに細い腕を伸ばした。
「結局違うの買ってきたんだね……あ、美味しい」
「でしょ?」
「なんで照さんが威張るんですか」
「私が選んだから」
「さてと、メイも帰ってきたし半荘打ちますか!」
「却下」
「お父さんだって迎えに行かないといけないのに、そんな時間ないよ」
「なんでよ!面子集まったのに!」
「三麻が嫌だとは言ったけど、別に四麻なら良いなんてこれっぽっちも言ってないぞ」
「がっくし」
「あはは……あっ、そうだ! ねえねえお姉ちゃん」
「なに?」
「先月の雀聖戦おめでとう! ネットで対局見てたけどすごかったね」
「う、うん。ありがと」
「特に準決勝のオーラスなんて……」
矢継ぎ早、目を輝かせて語るセーラー服の少女にテルは完全に気圧されていたが、それでも何処か嬉しげだ。こういう快活で外交的な性格は父親に似たのだろう。だが一方で少しオタクっぽい気質やその外見は母親そのものだ。
「メイってさ。やっぱりキョータローと並ぶと本当にサキそっくりだね」
「どういうことですか?」
「昔はこうやってサキがキョータローの隣に座ってたなーって思い出しちゃって」
「……淡、お前何言ってんだ?」
「えっ?」
「咲にそっくりって――――」
そう言いかけて彼の動きはぴたりと止まった。まるで、歯車が壊れてしまった機械仕掛けのように。
「京ちゃん大丈夫?」
「………すみません、目が霞んで。明、目薬ってどこだっけ?」
「目薬なら洗面台の鏡の裏に入ってるよ」
「そうだったそうだった。いやー、最近物覚えが悪くて困ったもんだ」
「しっかりしてよね、お父さん」
「わかってるよ。ちょっと取ってくる」
キョータローが席を立って廊下へと消えていくと、やがて奥からはガサガサという音と共に「あれ、どっちの鏡だったっけ?」などという声が聞こえてきて、メイは大層呆れたような顔をした。
「まったくもう……それで、何の話でしたっけ」
「えーっと、メイがサキに似てるよねって」
「そうなんですかね。いまいちピンとこないけど」
間もなくいい加減出発しようかという方向に話は纏まり、壁のハンガーに掛けてあった上着に袖を通す。普段カジュアルに済ませてしまう私は黒のスーツなんて滅多に着ないし、それこそ今日くらいのものだろう。
玄関から外に出ると、太陽は多少傾いただけで未だ天高くにあった。最近は随分昼が短くなってきたとはいえ日が沈んでしまうまでにはまだ余裕があるはずだ。ようやく出てきたキョータローの右手には車の鍵が握られていた。
登場人物
・大星淡
41歳。立川ブルーセーラーズ所属のプロ雀士。
趣味はゲーセン通い。
・宮永照
43歳。立川ブルーセーラーズ所属のプロ雀士。
宮永京太郎の義理の姉。
趣味はドライブ。
・宮永咲
宮永京太郎の妻で、宮永明の母。