それからのことにあまり面白い話はないので、大まかな流れだけ話しておこうと思う。
翌年、何の支障もなくインターカレッジは開催された。私の成績はともかくとして、キョータローが個人優勝を修めたのは特筆に値するだろう。昨年の結果は偶然でも何でもなく、彼の実力が本物であることを証明してみせる形となった。
その後すぐ私と彼のもとにはいくつかのチームからオファーが舞い込み、私たちは卒業後そのままプロ雀士になった。キョータローは北関東の地方都市に本拠地を構えるチームに入った。テルがいるところだ。そして私は……
「………以上でインタビューは終了となります。大星プロ、本日はありがとうございました」
「ありがとうございました」
仕事とはいえ知り合いがこうも他人行儀な喋り方をしているとむず痒くなってくる。机上に置かれたICレコーダーを取り上げて側面のボタンを強く押し込むと、彼女は背もたれに大きく寄りかかって天を仰いだ。その先にあるのは青空でも太陽でもなく、煌々と光る会議室の蛍光灯くらいのものだ。
「ふぅ。お疲れ様、淡」
「でもゆみ先輩が来るなんて知らなかったよ。ビックリしちゃった」
「淡の特集を組むと聞いて、インタビュアーをやらせてもらえるよう編集長に頼んだんだ。久々に後輩と会うのも悪くないと思ってね」
実際、ゆみ先輩と会うのは私の卒業式以来のことだった。プロになって三年目を迎えれば新人と呼ばれることも格段に減り、そんなタイミングで大手紙が私を記事にしようというのは先日ようやく獲得できた初タイトルがやはり影響しているのだろう。ともかく――それこそ高校や大学とはワケの違う――プロ麻雀の層の厚さを嫌というほど実感させられた二年間だったし、プロ雀士という職業の忙しさを思い知った二年間でもあった。
「聞けば今日も大変だったそうじゃないか」
「そーなんだよ!GMがインタビューのことすっかり忘れてたらしくてさー。せっかくの芦原だったのに、温泉すら入れないうちに新幹線に放り込まれちゃって」
今日の予定は数週間前から入っていたのだが、手違いにより午前中に地方での対局を割り当てられてしまった。お陰で私は碌に休む暇すら与えられないまま東京へとんぼ返りするハメになったのだ。
「あーあ、なんでわざわざ行ったり来たりしなきゃならないんだろ。全部東京でやればいいのにさ」
「こればかりは政治的な理由が絡むからなぁ。町興しのために全国各地に試合会場を設け、そこで対局を行う……実際今のシステムになってからチームもファンも増えた。業界が賑やかになるのは良いことさ」
「移動だけでクタクタだよ………」
「だが、経費で旅行気分を味わえるのは悪くないだろう?」
「それは否定しないけど」
今回はその旅行気分すら味わえなかったわけではあるが、本来は仕事の途中であって空き時間に自由行動を許してもらっているだけなので文句は言えない。サラリーマン程ではないにしても、完全に自由というわけにもいかないのである。
ゆみ先輩が手土産に持ってきた源氏パイをお茶請けに取材前に給湯室で入れてきたコーヒーを啜る。最近ブラックを飲めるようになったのだと自慢すると、ゆみ先輩は苦笑いした。
「ところで、宮永は一緒に帰ってきたんじゃないのか」
「ゆっくり帰ってくるって言ってた。キョータローがゲストで金沢の雀荘にいるから途中で合流するんだってさ」
「ほう」
「同じチームでもサキはカップルで温泉デート、片や私は会議室で夜までお仕事。世の中不公平だよねぇ……とほほ」
「須賀か………そういえば、今度彼らが結婚するという噂があるだろう。あれは本当なのか?」
「………えっ?」
「淡、お菓子落としたぞ」
これから社に戻って編集の仕事だと言って、しばらくして先輩は会議室を出ていった。「ちゃんと帰ってるの?」と聞くと先輩はバツの悪そうな顔をして、わかっているよと小さく答えた。あの調子ではモモの雷が落ちるのも時間の問題だろう。この前会った時だって彼女は不満を漏らしていたのだから。
それにしても、まさかサキが――
「お邪魔しまーす!」
その時、会議室を出ていったゆみ先輩と入れ替わりで茶髪の少女が部屋に入ってきた。今年高校を卒業したばかりの新人で、まだあどけなさが残る快活な子だ。もっとも快活というか、どちらかと言えば暑苦しいというか。私に懐いてくれているのは嬉しい限りだ。
「取材ってもう終わったんですか?」
「ついさっきね」
「ホントですか!?お疲れ様です!あっ、そうだ!大星先輩に見せたいものがあって………ほらこれ、つしまえんのタダ券ですよ!しかも二枚!監督が『貰ってきたけど要らないからお前にやる』って。今週末あたり一緒に行きましょうよ!」
「完全に子供扱いされてるなー」
「ん?何か?」
「ううん、なんでもない。でも私ってマイちゃんと歳離れてるし、行っても楽しくないでしょ?高校の友達でも誘って行ってきなよ」
「そんなの全然気にしませんよ!それにたった六歳差ですよ?だからほら、ねっ?」
「うーん………やっぱ私は遠慮しとこうかな」
「えー」
「ごめん、声かけてくれてありがと。他の人とか誘ってみて」
「………はい」
「お疲れ様。また明日ね」
そう彼女に告げて、私も会議室を出た。
「ちぇーっ………大星先輩のいけず」
二十代も後半に差し掛かり、すこやんを笑っていたあの頃の自分を呪いたくなる三月、昨晩からの猛吹雪も止んで一面が銀世界と化した朝。慣れない雪道の上をざくざくと歩いて正面玄関に入り、受付のお姉さんとの長い問答を終えてやっとの思いで病室に辿り着く。
「サキ!」
「あれ、淡ちゃん?どうしてここに………」
「ちょうど松本で昼前からイベントが入ってて。かっ飛ばしてきた!」
フナQの運転だけどね。病衣の上から肩に毛布を掛けたサキは別に何か具合が悪くて入院しているわけではなく、むしろその理由は病気とは全く以て対極にあった。
キョータローから出産の知らせを貰ったのは一昨日の夕方頃だったろうか。一方で部外者の面会が出来るのは出産後二日目から。一昼夜悶々とした気持ちを押さえつけていたが、結局居ても立ってもいられなくなった私は無理を言って朝早くから車を出してもらったのだ。
不意に目線をよく見ると、その張本人はその長い躯体を折り曲げてベッドに寄りかかっていた。呑気に眠りこける男を爪先で小突いてやりたい気持ちに駆られたが、ここ数日の彼の苦労を想像してやめた。
「京ちゃんったら、心配でここ何日も寝れなかったんだって。産まれたら産まれたで大騒ぎだし……別に京ちゃんが産むわけじゃないのにね」
「キョータローはお子様だから」
「そういうところも可愛いんだけど」
「サキはこんな時までお惚気ですかー。でも残念だけど、今はキョータローなんかより赤ちゃんのほうが断然興味あるな」
「………見たい?」
「うん!!」
横に寝かされていた小さな赤子をサキの細い手が抱きかかえる。この手が普段、魔獣の如く卓上を意のままに操っているなどと誰が想像できようか――まるで大事な宝物を見せる子供のように、その顔は得意げで幸せそうだった。
「この子が……」
「触ってみる?」
「う、うん。大丈夫なのかな」
「先生からも言われてるから大丈夫だよ。ほーら、あわいおねえちゃんですよー」
「………!」
吹けば飛んでしまいそうな儚い命だ。私は指を恐る恐る彼女に差し出した。そんな私を見て、彼女はにっこりと笑みを浮かべたのだ。
いや、それは私の都合の良い思い込みかもしれない。産まれたばかりの赤ちゃんはほとんど視力を持たないらしいし、ましてや私を認識して微笑みかけるなんてありえないのだから…………なんてことは今だからこそ言えることで、当時の私といえば只々言葉を失っていた。どちらにしても、私が彼女の虜になるには十分だった。
「ぁ……」
「可愛いでしょ?」
「す、すごい…………」
「ふふっ」
「名前はなんていうの?」
「それはまだ秘密。お七夜だってしてないもん」
「そんなの建前だけじゃないの。ねっ?」
「わがままだなぁ………でもいいよ。おじいちゃんにもまだ言ってないけど、淡ちゃんには教えてあげる」
「――メイ。その子は
「キョータロー……」
「いい名前だろ。なぁ、淡」
「ちょっと京ちゃん、いいところ持って行かないでよ」
キョータローが床に座り込んだまま微笑む。サキと同じ、幸せそうな顔だ。
ヨロヨロと起き上がったかと思うと、彼は今度は腰に手を当ててかがみ込んだ。変な所で寝るからだよ、そうサキが笑う。その時、病室の扉がけたたましく開いた。
「おーっす咲ちゃん!元気か?」
「病院なんですからもっと静かにしてください」
「あれ、お前らまで来たのか」
「久先輩とまこちゃんも後で来るぞ」
「ごめんなさい。私はもっと落ち着いてから伺った方が良いかと思ったんですが、ゆーきがどうしてもすぐに行きたいからと聞かなくて」
「大丈夫。私もみんなが来てくれて嬉しいから」
「なんだ京太郎、そんなボサボサの格好してだらしない」
「仕方ねーだろ!営業先から飛んできてから二日もそのままなんだから」
サキの胸元から小さな泣き声が聞こえてくる。彼女は大慌てでメイをあやすと、夫に厳しい目線を向けた。
「ちょっとお父さん、静かにしてよね」
「す、すまん」
「あの京太郎が『お父さん』って………ぷぷっ、笑えるな」
「窓から放り投げるぞこのチンチクリンが」
天使のようだった。彼女が笑えば皆が笑い、彼女が泣けば皆が泣く――いや、どっちにしても笑ってるか。間違いなく、神に誓って、彼女は祝福されて産まれてきたのだ。
「そうだ。おい、優希」
投げつけられたモノをユーキが器用に掴んで持ち上げる。クルクルと回されるたび、金属製のオイルライターは窓から差し込む朝日を受けて白く輝いた。
「もし欲しかったらやるよ」
「京太郎、お前禁煙するのか」
「俺はもっと長生きしなきゃならねえと思ってさ。この子のためにも」
父が娘をその大きな腕で抱く。メイはまたぐずり始めた。
「………気持ち悪い」
「テルー大丈夫?」
「うん、なんとか………うっぷ」
「ちょっ!」
テルがジェットコースターに乗りたいというので隣に座ってみると、意外にも私のほうが楽しんでしまい当の本人はこの有様である。さすが一足先に三十路に突入しただけのことはあるな………そう考えているうち、自分も十二月には三十代であることを思い出してしまった。そう、もう三十歳だ。遊園地に来るなんてどれくらいぶりかな、ふとそんなことを思う。
もっともこうしてアラサーのお守りをするためにわざわざ遊園地まで来たわけではなく、本来の役目は三人のサポートである。もとい勝手に着いてきただけともいうけど。
「ねえねえ、おとーさん、おかーさん」
「ん?どうしたんだ?」
「ふたりとも、なんでずっとおててつないでるの?」
「ふっふっふ………教えてやろうか。それはな、母さんがすぐに迷子になるからだよ」
「もうっ、お父さんったら」
「おかーさん……」
「ははっ、三歳児に憐れみの目で見られてら」
「……………ふんっ」
「いてっ」
「ラブラブだねー」
「だね」
「つい最近生まれたばっかりだと思ってた親友の娘が気がつけばこんなに成長して。一方私なんて行かず後家、小鍛冶さんルートまっしぐら………世の中残酷ですなぁ」
「しょっちゅうそういう話してるけど、淡は結婚したいの?」
テルの問いに背筋が凍る。そもそもこの話に深い意味なんてない。女でアラサーで雀士といえばモテないネタだから私も同じようなことをしているだけで、自虐ネタみたいなものだ。
私が結婚?それってどういうコト?そもそも私は結婚したいのか?一瞬考えるがいまいちパッとしない。私が結婚しているイメージが全く沸かないからだ。よくわかんないけど、別に特別そういった願望があるわけではない気がする。
「そっか…………私はちょっと興味あるかもしれない」
「テルーが!?」
テルこそ『結婚』というワードから一番縁遠いタイプの人種だと思っていただけに意外だった。結婚はおろか、休日に他人と会うことすら稀だという彼女がそんなことを言い出すとは。まぁ、これを間近で見てたら無理もないか。
「おとーさん!これ!」
「バイキングか………うーん、明にはちょっと早すぎるかもな」
「えー」
「明がもっと大きくなったらまた来ようね」
「母さんみたいに怖がりじゃなければの話だけど」
「一言多いってば」
見守るように並んで歩く二人の前方をメイが一人でぐいぐい進んでゆく。少し前まで首も座っていなかった彼女もいつの間にか掴まり立ちするようになり、ベビーカーを自分で押し始め、気がつけばそのベビーカーすらなくなっていた。そんな牧歌的な光景をみるうち、今日が、明日が、これからの一日々々が何事もなく平和に過ぎゆくのだろうと、私は根拠もなくそんな考えに浸った。
キョータローが私から離れていくのを感じたくなかった。キョータローがサキのものになるのが嫌だった。花嫁姿のサキの横で笑うキョータローを、胸が張り裂けそうになりながら眺めていた。大学三年の夏――キョータローのアパートの手前で引き返した夜から、私の心にはしこりが残り続けていた。
でも、メイがそれを変えた。あの微笑みを見た瞬間、暗闇にいた私の五年半など全て馬鹿馬鹿しく思えてしまったのだ。もはや私の願いは彼の隣にいることではなかった。ただ彼と彼女と、そしてあの子を遠くから見守るだけで幸せだった。
「もしもし、大星ですけど」
「…………事故?」
あの日までは。