友人か家族か、あるいは好きな選手が出場する試合の応援のために会場へ赴くというのはよくあることだ。野球やサッカーといったスポーツなら壁の一枚も隔てない空間に相手がいるわけで、少し離れたスタンドからとはいえ声援を送ったり野次を飛ばしたりということもできるだろう。
しかし麻雀の対局は防音対策の施された密室で行われる。観戦者がする『応援』といえば別室でカメラの映像を観ながらあーだこーだと言い合うくらいのもので、無論その声が彼に届くわけでもない。こんな暑い中外に出なくたって家から配信を見るのと何ら変わらないのだが、それでも私は九月の焼けたアスファルトを踏んだ。
あの一件以来、キョータローの麻雀に取り組む姿勢が大きく変わったことは傍から見ていてもすぐにわかった。暇さえあれば戦術書や何切るの問題集に読み耽り、悩ましい牌姿を見つければよくみんなに議論を持ちかけていた。あまりに簡単に感化される様子は頼りなくも思えたが、とにかくその事実を私は喜ばしいことと受け止めた。彼は変わらず部室の住人であり続けたのだ。
じきに彼は部活での対局だけでは足りないとぼやき、週に一度か二度フリー雀荘に通うようになった。それもオンレートの雀荘を選んで。
「フリーに行きたいのはわかるけど、別に賭ける必要なんてなくない?わざわざ八王子まで打ちに行かなくたってノーレートの雀荘なら駅前にもあるじゃん」
「そっちの方がお客さんも強いだろ。稼ぎたいんじゃなくて強くなりたいからやってんだ」
「なるほどねー。それで、どのくらい勝ってるの?」
「………聞くなよ」
以来、学食で彼の注文する昼食は見るからに貧相になった。健全化の煽りで今どきテンピンの店なんて殆ど見ないが、テンゴだって一日負ければ一万円くらいの負債はついても全くおかしい話じゃない。あの様子では相当生活に影響していたのではないかと思う。それでも懲りずに彼は麻雀へ打ち込み、着々と実力をつけていった。
そして、彼と出会って三度目の春を迎えた。
「淡、生きてるか?」
「……………………あれ」
「眠いのか?」
「ううん、全然」
「嘘言うなよ」
大学生というのは何故ああも飲み会が好きなのだろうか、この頃には大抵の週末をこのように屯して過ごすのが私たち三人の恒例行事になっていた。しかしその会場は概して大学近くの居酒屋であって、こうして彼の住処に来るのはあの日以来だ。当然男の部屋で酒盛りなどして大丈夫なのかという疑念はあったが、そんな度胸を一ミリも持ち合わせていないことは私もモモも百も承知のことだった。
彼が渡してきたグラスを飲み干すごとに段々と意識が明瞭になっていく。中に入っているのは茶色い液体だが、さっきまで彼が飲んでいたヤツとは違ってアルコールから立ち上る苦い香りはしない。気づけば私はモノの散乱した床に座り込み、座卓へもたれ掛かっていた。一人で住むには広いこの部屋も三人いれば手狭にすら感じる。うち二人は既に半ば寝そべっているようなものだから尚更だ。彼が持ってきたのだろうか、テーブルの上に置いてあったボトルから注ぎ足して、麦茶をもう一口飲む。
モモは手近にあったクッションに顔を埋めたまま眠っていた。彼が肩を揺さぶると何やらくぐもったうわ言を口走り、また寝息を立て始めた。
「ダメか。こりゃそろそろお開きだな」
「えー?私はもうちょっと飲みたい気分なんですけど」
「んなこと言われても仕方ないだろ。見ての通りモモは潰れちまった。だいたいお前だって、さっきまで船漕いでたじゃねーか」
「別に二人でもいーじゃん」
「それは………何というか、俺が困るんだよ」
「なんで?」
口ごもる彼の顔は赤くなっていた。へぇ、キョータローって案外ウブなところあるんだ。口角を上げわざとからかうように返す。らしくないなんてことわかっちゃいるけども。彼は悪態をつくと、立ち上がってどこかに電話を掛けた。
長らく麻雀漬けの青春を送ってきた私には男との面識がほとんどなかった。せいぜい共学だった小学校の時くらいだろうか。小学生なんて男も女もジャガイモみたいなもんだけど。それに共学だとしても、子供なんて大抵は男女分かれてグループを作るし、遊びだって別々にするものである。つまり私にとって須賀京太郎は初めて触れた男性に等しいのだ。私がある種の思い込み――少なくとも私は、つい最近までそれをあくまで『思い込み』であると自分に言い聞かせていた――をしていたのは私自身の性格に依る部分も当然あるだろうし、そういった経験の不足に依るところもあるだろう。
「誰に電話してたの?」
「加治木先輩だ。ちょうど出張先から帰ってきたところで、今から迎えに来るってさ」
「先輩も大変だなー」
「他人事みたいに言うけどなぁ。俺たちだってあと二年もすればあっという間に先輩と同じ立場だぜ」
「私はどこかのチームに契約してもらうし大丈夫」
「麻雀プロなら麻雀だけやってればいいってわけでもないだろ。サラリーマンだって麻雀プロだって、社会人らしい苦労は沢山あるだろうよ」
「キョータローこそどうするの?」
「俺か?俺は……………」
そこまで言って、キョータローは言葉を止めた。彼もプロになりたがっていることは既に知っていた。本人が直接そう言い張ったことはないが、ずっと見ていればそのくらい解る。どうして口から出す前にその浅はかさに気づけなかったのだろうか。
「………さあな。どうなるんだろうか、俺は」
「………その、ごめん。私そんなつもりじゃ」
「謝るなよ」
「私、キョータローは十分上手だと思うよ。だから――」
「…………何かが足りないんだ」
キョータローは確実に上手くなった。牌譜を見てもミスと言えるような打牌もなく、部内成績も上がった。男子の中では一番と言っても間違いではないだろう。三月の冬季都大会でも結構良いところまで行った。でも本当に強い選手との間には明らかな隔たりがあったし、彼自身もそれを自覚していたはずだ。
プロ麻雀界は強い雀士を求めている。上手いだけの人間なんていくらでもいるのだから。彼らは目をつけた子供に高校卒業はおろか在学中から話を持ちかけ、自分たちのチームで囲い込んでいる。そんな青田買い甚だしい中で大卒が――特に男子がプロになるには、飛び抜けた強さを持っていることをインカレで示さなければならないのだ。今の彼は贔屓目に見てもそのレベルには達していない。一昨年の東京予選敗退、そして去年の本戦一回戦負け……高校時代を焼き増ししたような実績に彼が焦燥感を抱いていることは想像に難くなかった。
そもそも『何か』って何なんだろう?オカルト?欲しがったって手に入るわけでもあるまいに、一体どうしようというのだ。
『凡人が戦える世界じゃないよ、プロは。それくらい分かってるつもりだ』
かつてそう漏らしたゆみ先輩の顔が脳裏に浮かぶ。あの言葉を彼はどう聞いていたのだろうか。
どうにかして声をかけなきゃと思ったけど、思いつかない。私っていつもそうだ。結局ビールの缶を冷蔵庫から出して、一つキョータローに渡した。
「ほら、もういっかい乾杯しよ?」
「……そうだな。乾杯」
「かんぱ〜い」
カツン。アルミのぶつかる安っぽい音が響いた。
他愛もない会話を交わすうち、つい先程までの張り詰めた空気が嘘であるかのように一瞬にして私たちの顔はほころんだ。しかし果たして彼は大して気にしていないのか、ヤケになっているのか、苛立ちを隠しているだけなのか。それは判らなかった。
流しに立って、モモが食い散らかしたつまみの皿を洗いながら彼は言う。
「ま、なるようになるだろ。プロになれれば万々歳。それがダメなら実業団、それがダメなら………」
「雀荘に入り浸ってるおっさんとか?」
「ははっ、それも良いかもな。どうにせよ麻雀は続けるつもりだから安心しろ」
「そんなこと私に言われたって知らないよ。キョータローの将来がどうなろうが関係ないし」
「冷てえなぁ……いつも思ってんだけどさ、俺ってもう少し親切に扱われても良い気がするんだ。お前もモモもすぐ面倒な仕事ばっかり押し付けてきて、俺のこと一体何だと思ってんだよ」
「んー………雑用係?」
「そういうとこだっての!お前らがそんな具合だからお陰で後輩まで真似し始めるし………はぁ」
「いいじゃん。みんなから慕われてる証拠だよ」
「俺はもっとこう、加治木先輩みたいな慕われ方がしたいんだよ」
「あははは、何それ」
「でも雰囲気はわかるだろ?加治木先輩ってやっぱり凛としてて、威厳があるというか、存在感があるというか――」
噂をすれば影。チャイムが鳴ったのを聞くと、キョータローは蛇口から流れる水を止めて玄関へと歩いていった。きっとゆみ先輩だ。時計に目を向けると、いつの間にか電話を掛けてからもう三十分が経っている。
普段であれば前後不覚になるほど飲んでしまうのだが、このために今日は意識して抑えた。結果的には少し寝てしまったが、まあ妥協点だろう。あとはそこでお腹を出して寝ている酔っぱらいを彼女に預ければ、ここには私と彼二人っきりだ………だからどうしようってわけでもないけど。今のところその先にまで進む決心はないが、如何にせよそれが楽しいものであることには違いない。
確かにキョータローは一見バカで軽薄で助平のように言われるが、実のところ紳士的で、仮にも見知った仲の女へそう安易に手を出してくるような男ではない。でも万に一つでも、彼に度胸があったらどうなるのだろう。私はそんなことすら考えていた。
「ん、どうしたんだよこんな時間に」
「夕飯食べそびれちゃって。これからどっかご飯行かない?」
「悪いけど今日はパス。客が来てるんだ」
「お客さん?………あっ、淡ちゃん!」
ひょいと顔を覗かせたサキが、こちらに手を振っているのに気づくまでは。
思わぬ人物の来訪によって予定が崩れた私はどうすることもできず、サキの様子に唖然としながらお酌に付き合っていた。
「ほらほら、淡ちゃんももっと飲もうよ!」
「いや、私はもうそろそろ………いや、いただきます」
「お腹すいた!おーいシェフ、我はタコスを所望するぞー!」
「咲、もうちょっと声のトーンを落としてくれ。あとタコスはない」
「えー、怠慢だよ怠慢!社会じゃそんなこと許されないからね」
「無茶言うなよ。そもそも材料がない」
「なら何でもいいからおつまみ!今日の試合も全然ダメだったし…………あーもうムカつくなぁ。麻雀向いてないかも、私」
サキがそんなこと言って、刺されても知らないよ。心の中でだけそう呟く。私だってついぞあなたには勝てなかったというのに、あなたが麻雀に向いていないというなら果たして誰が向いているというのか。あの頃の記者といえば私と話している時だって何かにつけて「宮永咲」だ。私が個人的にサキや清澄のことをライバル視していたのは確かだし、彼らや世間が私と彼女の劇的な対決を期待していたことも理解できる。でも当時の私は、そのことを聞かれるのが何故か不快だった。それが無いのは今の生活のいいところと言える。
麻雀は好きだ。でももし私がプロになるとすれば、またそんなことが延々と続くのだろうか…………ひょっとしたら、私では今の彼女のライバルにすらなれないかもしれない。そう思った。
再びインターホンが鳴り、彼は玄関へと消えていった。
「あっ、加治木さーん!お久しぶりでーす」
「お仕事大変だね〜、ゆみせんぱい」
「淡だけでなく宮永まで……これは一体どういう状況なんだ?」
「すみません。まさかこいつらがこんなに飲むなんて」
「そういうことを聞いているんじゃ――いや、何でもない。とにかくモモだけでも回収して帰らせてもらうよ」
部屋の隅で眠るモモにはいつの間にか毛布が掛けられていた。おそらく彼が出してきたのだろう。ゆみ先輩はしばらく身体を揺すったり頬を軽く叩いたりしていたが、どうやっても起きそうにないことを知ると呆れたように溜息をつき、
「困ったな。おぶっていくしかないか」
「手伝いましょうか?」
「大丈夫だよ。手荷物も大した量じゃないし一人でもなんとかなる」
「俺が下まで担いでいきますよ」
「では聞こう。私がそれを快く思うかな」
「あぁ、なるほど」
「そういうわけだ。須賀、迷惑を掛けて悪かった」
先輩が荷物を――じゃなかった、モモをおんぶしたままよろよろと歩いていくのをサキと肩を並べてボーッと眺めていた。ゆみ先輩って身長が高い印象だったけど、こうしてみると意外とそうでもないのかも。10cmも違わないモモを背負うと、後ろ姿の殆どは彼女に隠れてしまう。キョータローなら多少は様になるだろうか。
「………俺も頭を冷やしてくるか」
「あっ、ベランダで吸ったらまた大家さんに怒られちゃうよ」
「分かってるって」
テーブルの上にあった小さな紙箱とライターを乱暴に掴んだ彼が玄関を開けて去っていく。すりガラスの格子窓にシルエットが一瞬だけ浮かび上がり、すぐに消えていった。小走りの足音も遠ざかり、サキの何も言わずに柿の種をつまみ上げる、その指の動きを私の目が追った。
「ねぇねぇ。一つ聞きたいんだけど」
「ん、どうしたの?」
「えっとさ………サキとキョータローって付き合ってるのかな、って思って」
「どうしたの、淡ちゃん?なんでそんなこと」
「何でもない男の人と一緒に東京まで出てきて、しかも隣に住むなんて普通ありえないよ」
「あはは、そうかもね」
「で、どうなの?」
「付き合ってはない………のかな。でも、きっとそうなると思う」
『咲、九月の三週目の土日って空いてるか?』
『えー、そんな先のこと言われてもわかんないよ。少なくとも試合はないと思うけど』
『その週に大会があるんだ。よければ観に来てくれないか』
『インカレの話?』
『あぁ。それでさ、あの……もしも俺がベスト4に入ったら…俺と、その……つ、付き合ってほしい………とか、思ったり』
『……………京ちゃん、そういうことはせめて予選で勝ってから言いなよ』
「もし四位に入れなかったらどうするの?」
「んー……わかんない。そんな心配してないよ」
「じゃあ、サキは勝てると思ってるんだ。キョータローが」
「うん。今まで京ちゃんが約束を破ったことなんて一度もないから」
「…………サキはキョータローのこと、好き?」
「好きだよ」
「………………そっか」
ぬるくなったピーチカクテルを口に含む。こんなに苦かったっけ。
「どうせなら優勝って言っちゃえばいいのに、キョータローもかっこわるいね」
「十分じゃない?京ちゃんが決勝まで行けるだけでもスゴいことだもん」
「……バカだよね。なんで普通に言えないんだろう」
「おバカだよ。でも、そういうものだから」
「そういうものかな」
「うん」
それから四五ヶ月を私は宙ぶらりんにされながら生きていた。色彩の衰えた、実感のない日々が淡々と過ぎていくだけ。彼には以前と変わらず接していたつもりだったけれど、モモには何かあったのかと何度か聞かれた。
「ううん、何もない」
嘘は言っていない。少なくとも彼との間には。彼と私との間には何もなくて、彼女との間にはあった。
何もないから何も変わらない。例年と同じように今年もインカレは開催され、私はまたそこそこの地位に収まった。一昨年が三位、去年と今年は変わらず二位。どうせなら一位を取らせてくれればいいのに。彼が男子の部で着々とコマを進めていることや、後輩たちを連れて観戦席に座る私たちの隣にサキがいるのは、彼女たちが変わりつつあるからに過ぎない。
迎えた準決勝、オーラス。南家のキョータローは倍満ツモ条件、二着の北家から打点十分のリーチ。トップのラス親は降りることだけを考えている。
南家:須賀 十七順目
ドラ:{1}
{五六六七七八123赤5東東東} ツモ:{4}
『リーチ』
一瞬の迷いを見せることも残り四枚の壁牌を顧みることもなく、彼の奈落まで響くような低い声と共に{赤5}が捨て牌に並ぶ。私には意味がさっぱりわからなかった。何故あの場面で{東}を切らなかったのか――いや、その実北家のリーチは七対子の{東}単騎で、だからこの判断は結果的には正しい。それにこれは、彼が数年後振るうことになる武器の片鱗でもあった。
しかしそういった事実とは関係なしに、私は彼が{東}を切ると思っていた。友人に勝ってほしいという純粋な願いとは別に心のどこかで望むものがあって、それが現実になってほしいと思っていたのだ。その存在に気づき、あの時と同じ罪悪感と痛みが残った。
『……ツモ』
ファイナルドローで和了るとつくおまけ――彼が羅紗へ叩きつけた{1}へ全員の目が釘付けにされた。卓上の三人だけじゃない。私もモモも後輩たちも、ここにいる人たちはみんな。サキは一人俯き、少し汗ばんだ両手でスカートを握っていた。これで跳満、でもそれだけじゃダメだ。いや、そのままであってくれ。彼の指が王牌へと伸びるのを止めることは私にはできない。
歓喜の声を上げて抱きつく彼女に、私はなんと言っただろうか。