「あーあ、結局三位か……惜しかったのになぁ」
「ま、やっぱり勝負は時の運ってことだ」
「そうだけどさー」
「それに一位も二位も強豪校の二年生だっていうしな。あいつはまだ一年生だし、十分健闘したほうだろ」
その後も大会は恙無く進んでいき、満を持して迎えた決勝戦。僅差のトップでオーラスに入ったものの、跳満ツモの親被りを受けてメイは三位まで沈められた。手の届くところまで近づいた優勝をこうも既の所で逃してしまうと、やはり悔しいという気持ちが収まらない。
十五分後の閉会式のために多くの人が会場のホールへ移動する中でも、私たちは人通りの少なくなったロビーにいた。切符に記された発車時刻を考えれば間もなくここを離れなければならないからだ。ここで別れたら次にキョータローに会えるのはいつになるだろうか。すぐ後には年末年始が控えており、あるいはシーズンオフになれば多少余裕もできるだろう。でもその時に私はここへ戻ってくるとは限らないし、実際今回の来訪だって三年ぶりのものだった。だから残された彼との時間を少しでも楽しみたかったのだ。かつて見慣れていた彼の姿形、これから再び久しく離れるであろう彼との交わりを。
テルは私たちから少し離れた席に、こちらへ背を向けるようにして座っていた。きっとまた小説でも読んでいるに違いない。
「ねえ、今度の麻雀部の同窓会の話。キョータローは行くの?」
「春先くらいのやつか。あれの会場って確か………」
「新宿じゃなかったっけ」
「なら行かねえ」
キョータローの東京嫌いは過去からの忌避とかそういう域を超えて、もはや彼自身がそういうものだと決めつけているように思える。ピーマンを絶対に食べまいと意地になって親に反抗する子供とか、「どうせスマホは難しくて無理だから」とガラケーを使い続ける老人とか、そういった類だ。
だがキョータローは致命的なまでに押しに弱い。昔から押し問答になってこちらが負けたことなんて殆どないし、強く頼み込めば大抵のことは引き受けてくれた。そういう性分だった。
「えー、なんでよ。来ればいいのに」
「仕事だってまだ分からないし、そもそも明を残して俺だけ東京なんか行けんだろ」
「有休取ればいいじゃん。それにメイだってもう高校生だよ」
「しかしなぁ。もしこれが男ならほっときゃいいのかもしれんが」
「いっそメイも連れてくれば?泊まるところがないならウチに来ればいいし」
「無茶言うなって」
「それにモモだってゆみ先輩だって洋榎先輩だって、これを逃したらいつ会えるかわからないよ」
「うぐっ…………確かに、そりゃそうだけど」
「だからキョータローもおいでよ。ね?」
「……………わかったよ。考えとく」
「ほんと!?」
そして今回もその通りになった。
東京に帰って待っているのは普段と同じ日常でしかない。朝起きて、各地を飛び回り、麻雀を打って、そして疲れ果てて一人泥のように眠る。このたった三日間の安息が終われば明日からはまたその繰り返しだ。この終わらない日常が私を何も変わらない人生の海から上がれないようにしていて、もがくことも出来ないまま毎日を過ごすしかなかった。
でも今度は違う。希望がある。一日々々を耐え抜いていれば必ずまたキョータローに会える日が来る。それが分かっているだけで、明日を生き抜く希望になる――そんな気がする。旧友をダシに使ってしまい若干気が引けなくもないが、こうして彼と再会の約束を取り付けられたことに比べれば些細な問題だった。それに彼女たちだってキョータローが来ればもっと楽しめるに決まっている。
だが、そんな気分をぶち壊しにしたのもまたキョータローの言葉だった。
「そういえば昼ごろ、竹井先輩と会う寸前に途中まで何か言いかけてなかったか。南パツがどうとか」
「あぁ、あれね。メイとサキのオカルトのことでちょっと気になることがあって」
「オカルト?」
「南一局にあった謎の大明槓、あれってラスの子に和了らせてりゅーもんぶちを削ろうとしたんでしょ」
「満貫手が一気に三倍満に化けたアレか。まさか、偶然だろ」
「偶然じゃないって。そもそもメイは理由もなくカンなんてしないはずだし、あれはドラを乗せるためだったとしか思えない」
「んなアホな話があるかっての。第一、明にはドラが乗るかなんて分からねえだろ」
「だからあれがサキのオカルトなんだって。キョータローだって聞いてるんじゃないの?」
「それは………」
キョータローが目線を脇に逸らす。
少なくとも一昨日の時点では「暗刻が出来るときは牌が見えない」とメイは語っていたが、あれではまるで王牌まで見透かしていたかのようだ。たった一度の副露――それも二向聴からオタ風の大明槓。それだけで試合の流れを変えてみせた。もし本当にサキのオカルトが彼女の中に顕れつつあるというのであれば、確かにこれらに説明をつけることはできるかもしれない。最盛期のサキが同じように、人間とは思えない離れ業を何度もやってのけるところを私だって何度も見てきたのだから。
だが何かがおかしい。まだ裏に全く別の何かが隠れているような、そんな違和感が………
「――淡、時間」
「………え?」
「そろそろ出ないと」
テルはいつの間にか席を立って私のすぐ横にまでやって来ていた。ごく事務的に事実だけを告げる声に振り向くと、しかし彼女の表情からはどこか苛立ちのようなものを感じた。僅かに赤みがかった、しかし奈落のごとく暗い瞳に貫かれるような感覚の中で、私は呆気にとられながら同意する他になかったのだ。
慌ただしく乗り込んだ特急の座席に腰を下ろし、息も気分もようやく落ち着いてきた頃になっても、私たちの間には何とも形容し難い気まずい雰囲気が漂っていた。会話らしい会話といえば切符の座席はどこだとかどんな弁当を買うかとか、そういうことを駅で二つか三つ交わしたくらいに過ぎない。
窓の外には初めのうちこそ煌々と輝く夜景が広がっていたが、それも次第にまばらになり、今では景色とも呼べない何かが車窓を埋め尽くしている。時折駆け抜けていく小さな灯りを目で追いながら、なんとなくテルのことを考えていた。テルは一体何をどのくらい知っているのだろうか。
一昨日の夕方、テルがキョータローを呼び止めて墓地で交わした密談。私はてっきり彼女もメイの異変について察知していて、それに関する話をしていたのだと思っていた。
「だから、あれがサキのオカルトなんだって。キョータローだって聞いてるんじゃないの?」
「それは………」
キョータローが逸した目線の先にはテルがいた。まあ、ここまでは大方の予想通りと言っていいだろう。
問題はそれに対するテルの捉え方である。少なくともこの三日間に彼女がメイに向ける眼は明らかにおかしかった。まるで怯えているかのような、それ自体を遠ざけるような眼。何か不吉なものを感じさせる眼。少なくとも可愛い姪っ子を見つめるものじゃない。
それに私の悩みの種はこれだけではなかった。むしろそれ以上に昨日キョータローが漏らした『例のこと』が気になって仕方なくて、詳しく聞いておけば良かったと後悔している。もっとも、キョータローが数十キロ北西の彼方に消え去ってしまった今となっては後の祭りだ。かといって彼女自身に尋ねるほどの度胸もない。
時刻は午後八時半を少し回り、列車が山梨県境に差し掛かった頃のことである。日曜の夜にしては乗客の姿は疎らで、このグリーン車も私とその隣に座るテルのたった二人きり。普段の私たちであればそれをいいことに、他に迷惑がかからないからと少々騒がしいくらいには雑談に花を咲かせていただろう。それを今日はただ押し黙って夕食の駅弁に箸を伸ばすのだ。結局、テルに話しかける決心がようやくついたのは味もよく分からないうちに鶏めしを全部平らげた段になってからだった。
「ねえテル、ちょっといいかな」
「何?」
「さっきの話、聞いてたんでしょ」
「うん」
「やっぱりメイのことは元から知ってたんだね」
「うん」
「一昨日の夕方、お墓参りの帰りにキョータローを呼び止めてたのもそれ?」
「うん」
「どこまで話したの」
「だいたい」
「……ねえ、ちゃんと聞いてる?」
私が僅かに語調を強めてそう問うと、生返事を続けていたテルは小さく溜息を吐いた。しつこく聞きすぎて鬱陶しく思われてしまったかと肩が窄む。
「淡はそんなに明のことが気になるんだ」
「気になるに決まってるじゃん。何かが起こってからじゃ遅いんだから」
「『何か』なんてないよ。オカルトの遺伝は確かに珍しいかも知れないけど、別におかしいことじゃない」
「それは知ってる。でも…………」
「淡」
その後に続く言葉を遮るようにテルは私の名前を呼んだ。そして手元の文庫本に落とした目線を少しも動かすことなく、確かにそう言い放ったのだ。
「これ以上、この話に関わろうとしないで」
沈黙。
「……え?」
「淡が明の問題に触れる必要はない」
「ちょ、ちょっと待ってよ!えーっと、その…………どうして?」
「これは宮永家の問題だから。これは私と京ちゃんが一緒に解決することで、あなたには関係ない」
「………つまり、テルは私にこう言いたいの?『お前は部外者だから首を突っ込むな』って」
「乱暴な言い方をすればそういうことになる」
「私たち、今までずっと一緒だったのに……そんなのって………そんなのってないよ!」
「………ごめんなさい。そうだとしてもやっぱりあなたは所詮他人でしかない。よそに家の中を引っ掻き回されるのは迷惑なの」
例えるなら積木の城が子供の手によって容易く壊されるように、あるいは鉄骨の塔が支持を失って瓦礫の山と化すかのように――私の積み上げてきた過去が音を立てて崩れ落ちていた。
私の半生は宮永家と共にあったと言っても過言ではない。テルとは高校のときからの仲だし、キョータローは大学で四年間を共にした親友だ。プロとして契約したチームでは高校時代から因縁の相手だったサキと仲間になり、八年間も一緒に戦った。サキがこの世を去ってからも私はずっとキョータローやメイの隣に寄り添い、彼らとかけがえのない関係を築いてきた。そのはずだったのだ。
宮永照は私が作り上げたモノを否定した。他の何者でもない、宮永家の人間である彼女自身が。
もう、どうにでもなれ。
「ふーん、そうなんだ………それにしては、カイさんもアイさんも蚊帳の外みたいな口ぶりだったけどね。二人だって家族なのに」
「違う。お父さんとお母さんには心配をかけたくないだけ」
「だいたいさぁ。偉そうに言うけど、そもそもテルって本当にメイの家族なの?遠く離れた東京に住んで、一年に何回か会うだけ。伯母さんと姪っ子なんて家族っていうより親戚でしょ」
「そんなことない。私は明のことを家族だと思ってるし、明だってきっとそう思ってくれてる」
「そもそもキョータローに抱かれたくらいで勘違いしちゃってバッカみたい。結局アイツが欲しいサキで、別にテルを愛してるわけじゃない」
「……違う。彼だっていつも私のことをちゃんと……」
「メイのお母さんもこの世にたった一人、サキしかいないもの。そのサキだって………かわいそうなメイ」
「違う」
「テルだって本当はわかってるんでしょ?だから今更になって結婚なんてしたがってるんだ。出来るわけもないのに必死にあの子の代わりになろうとしてさ。健気だね、テルは」
「違う!」
「でもテルがどんなに頑張ったところでキョータローにとっての家族はメイだけだし、メイにとっての家族はキョータローだけ。それが二人にとっての『宮永家』だよ。残念だけど」
「違うって言ってるでしょ!!」
何が違うものか。キョータローは静かに暮らしたかったんだ。他者を彼の世界から排斥して、娘と二人だけの世界に閉じこもりたかったんだ。彼らにしてみれば、私たちはあくまで勝手なエゴでそこにズカズカと踏み込んでいった『他者』に過ぎない。そのエゴに私たちはそれが彼のためになると勝手に理由付けをして、勝手に信じ込んでいた。
文庫本はとっくにテルの手を離れて床へと落ちていた。でも何も怖くない。たとえ彼女の顔が見たことのない形相へと変わり、声色は強張り、爪が食い込み血が出るほどにその右手を握りしめていたとしても。
「仮にそうだったとして、だからどうしたっていうの。私が家族を、宮永家を守るんだ」
「………」
「淡、お願いだから私の家族を壊さないで」
「そんなことしないよ。私だってみんなが大好きだもん」
「淡が?……ふふっ、あはははははは!」
テルが笑っている。それも、こんなふうに高笑いをするところなんて見たことがあっただろうか。普通であればその奇妙な光景に対して相応のことを思ったのだろうが、今の私にはそんな余裕はどこにもない。ただ、理解できない相手への苛立ちだけがそこにはあった。
「冗談言わないでよ……あなたが好きなのは私たちじゃない。京ちゃんでしょ」
「………!」
「彼にいい格好をしたいから明の面倒も甲斐甲斐しく見てる。彼が聞いたらきっと幻滅するね」
「ちがっ、私はそんなつもりじゃ――」
「都合が悪くなると『違う』としか言えなくなる。さっきまでの私と今の淡、何も変わらないよ」
その顔は悪趣味な笑みを浮かべていた。
これはテルじゃない。別の誰かだ。そう確信しているのに、論う彼女の声や彼女の顔、彼女の背格好ら全ての情報は目の前の女性が他でもない宮永照その人であることを如実に示している。
「ずっと横恋慕ばかり引き摺ってないで大人になればよかったのに……馬鹿な娘」
「…………」
「確かに私は咲にはなれないけど、あなただって咲にはなれない。それは絶対的な事実なんだよ」
「……そんなこと知ってる。別にサキにもサキの代わりにもなるつもりなんてないもの」
「私は大星淡だから」
そんなこと昔から分かっちゃいた。だのに今まで認められなかった、私は確かに馬鹿だった。
ああそうだ。私は宮永――須賀京太郎という男のことが好きだ。アイツのことを男として見てるし、私のことを女として見てもらいたい。でも宮永咲の代替品として扱われるなんて絶対に嫌で、『大星淡』として彼に愛してもらいたい。私はそんな馬鹿でわがままな女なのだ。そしてテルは私とは違った。私が須賀京太郎という男に執着しているのに対して、彼女は宮永という家に執着していた。だから自分がサキになって、既に壊れてしまったものを直そうとしてるんだ。そんなこと、もう絶対にできっこないのに。
懐から出したティッシュペーパーを黙ってテルに渡すと、彼女は右手に滲んだ血を丁寧に拭き取った。血。宮永家の血。何故彼女をこれほどまでに駆り立てるのだろうか。
列車が見慣れた駅へ入っていったのはそれから更に一時間以上が経った後のことだった。キャリーケースを持ってプラットホームに降り立った瞬間、束の間の平穏から氾濫する人の群れへと帰ってきたのを感じる。これぞ東京、これぞ彼の嫌いな街だ。
改札を出て、たった一つの会話を交わす。
「じゃあね。また明日」
「おやすみ」
しばらくして振り向くと、彼女は既に都会の人波に紛れていた。