「…………ん?」
夢うつつで座席に寄りかかっていた俺は車内アナウンスに目を覚ました。どれだけぐっすり眠りこけていたとしても、この声が耳に入るだけで一瞬で起きることができるのだから不思議なものだ。これがいわゆるパブロフの犬というやつだろうか。知らんけど。
「……そろそろ連絡しとくか」
> あと20分くらいで帰る
> おっけー。こっちはごはんの準備にもう少しかかるかも
> 腹減った………飲みに誘われたけど、我ながらよく断れたもんだ
> お祝いなんだから当たり前でしょ! ちゃんと寄り道しないで帰ってきてよね
> 分かってるって
俺の名前は須賀京太郎――いや、今は宮永京太郎か。上京したり結婚したり転職したりと色々あったが、今では故郷の清澄で人並みの生活に落ち着いている。
車内に人影はまばらであるが、これでも時間帯が早いせいか普段より多く感じる。努めて仕事を早く終わらせた俺は携帯電話を片手に取りつつ、真っ暗の車窓に点々と浮かぶ人明かりをぼんやりと眺めていた。
元々読書なんていう柄ではなかったが、あいつの影響で読むようになって随分経つ。しばらく活字に耽っているうち、短い列車は不釣り合いに長いプラットホームへ速度を落としながら入っていき、ついに動きを止めた。ポケットの定期入れを探りながら立ち上がる乗客も他には居ない。無人の駅舎を出て近くの駐輪場に停めた原付を北へ走らせると、そう経たないうちにとある一軒家が見えてくる。小さいながらも立派な俺の城である。
「ただいま」
「おかえりなさーい。お疲れ様、ご飯までちょっと待っててね」
「なら先に風呂に入っちまおうかなぁ。もう入れるのか?」
「随分前に沸かし始めたから大丈夫だと思うよ」
「そうか。ありがとう」
リビングから玄関に通じる廊下の向こうからこちらに覗いていた彼女は、そう言うと再びキッチンへ戻っていった。そういうことならば一刻も早く湯船に浸からない手はない。長野の冬は、東京など比べ物にならないほどに冷えるのだから。
「ふぅ……食った食った」
「どうだった?」
「ぐうの音も出ないくらいの大満足だ! あの酒もずっと気になってた奴でさ。どうして知ってたんだ?」
「検索履歴に何回も出てたから。飲みたいのかなって思ってネットで注文したの」
「おいおい、まさかパソコンを勝手に覗いたのか!? ………ま、美味かったし良しとするか」
「えへへ」
彼女はエプロンを椅子に掛けると、ソファに腰掛ける俺の隣にぽっかり空いた座面へ収まった。もっとも俺が観ているバラエティ番組には目もくれず、今晩のご馳走をSNSにアップしようとあれこれスタンプを貼り付けているが。
「しかし、あんなご馳走作ってて大丈夫だったのかよ。そっちだって忙しいだろうし、今度の日曜に大会あるって言ってなかったっけ」
「あーあれ?大丈夫大丈夫、いつも通り打ってればいいって言われたもん」
こいつの言う『大丈夫』ほど信頼できない言葉もないんだが、口に出したところで災い以外に呼び込むものはない。
「そういえば、お姉ちゃんから電話かかってたよ」
「照さんから?」
宮永照――プロ麻雀界最強クラスの雀士で、同時に俺の義理の姉に当たる。こいつ然り照さん然り、宮永家にはきっと麻雀民族の血でも流れているのだろうが、代わりに普通のところでどこか抜けている。彼女が掛けてくる電話が吉報だった試しはなく、怪しい勧誘がかかってきたとかパソコンが壊れたとか、とにかく大抵の場合ロクな用事ではないのだ。
ただしこの時期となれば話は別で、その用件には大方予想がついた。
「それでなんだって?」
「明日の昼過ぎくらいにそっちに着くけど、持っていくお土産は何が良いかって」
「お土産?そりゃいつものアレに決まってるだろ」
言わずもがな、アレとは『東京ばな奈』のことである。
「うん、私もそう伝えたんだけどさ。そしたらお姉ちゃん、たまには別のものも食べたくないかって執拗に」
「どうせ照さんが自分で食べたいだけだろうさ………って、もうこんな時間か」
リビングの壁に掛けられた時計に目をやると、短針は既にその頂上を過ぎていた。もう少しこの和やかな雰囲気に浸り続けていたかったが、それを我慢した俺は布団にくるまる決心をした。
「そろそろ寝ないとな。明日は朝早いんだろう?」
「早いっていうか、いつも通りの時間だよ」
「知らん。俺は明日休みだし」
「ずるーい!」
「ズルいもクソもないだろ。ただでさえ有休溜まってるんだから」
「私も明日はずっと寝ていたいなぁ」
「おいおい、お前は休んじゃダメだろ」
「なんでよー! 私だってたまにはズル休みしても――――」
「そりゃ――――」
「――――?」
「――――!」
結局俺たちが眠りについたのは、それから一時間ほど経った後の事だった。
「おはよう!もう起きたんだ?」
「あぁ、おはよう……」
「ごめん、私忙しいから朝ご飯は自分でなんとかしてね!」
「そんくらい自分で何とかするさ」
俺が休日――世間的には平日だが――の割には比較的早い時間帯に目を覚ますと、既に着替えを終えた彼女があちらこちらへ騒がしく走り回っていた。起きたばかりの胃袋は朝飯を消化するにはもう少しウォーミングアップの時間が欲しいと訴えかけているし、かといって手伝うようなこともない。何もしないのもむず痒い俺がやはり働かない頭でいくらか考えた結果、たまには玄関で見送りでもしようかと思い立った。
「ヤバいヤバい、あと五分でバスが出ちゃう! ……そんなところで何やってるの?」
「いやさ、朝日があったかいなぁと」
「そ、そっか……とにかく、私はもう行かないといけないから」
「早めに帰ってこいよ? 照さんとお前が揃ったら出掛けるからな」
「わかってるってば」
「道草も食うなよ」
「食べないよ!」
「それでいい。行ってらっしゃい」
「
「行ってきます、お父さん」
登場人物
・宮永京太郎
41歳。
現在は長野県内の電機メーカーで設計開発の職に就いている。旧姓須賀。
・宮永明
15歳(高校一年生)。宮永京太郎の娘。
父親と二人で暮らしている。