Angel Beats! AFTER BAD END STORY   作:純鶏

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今回は音無の過去のエピソードとなります。
EP09を読むとより分かる内容となっていますので、
またさらっと読み返してみるのも良いと思います。

あと、前書きに少しだけ主要キャラの心情面が描かれてあります。↓
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

人生はいつだって過酷なもの
 誰もこの世界に来たくて来ているわけじゃない
  それでも彼は言った
   “生きることは素晴らしいんだ”と
      
だからこそ、私は―――

死後の世界を包む優しい旋律。
美しく奏でられる音色が、無くした記憶を紐解く……

私の人生は、決して不幸なんかじゃなかった。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

ピアノを奏でる美しい音色に誘われて、音楽室へと向かった。
音楽室のピアノを弾き終えた彼女は、涙を流しながら僕を抱いてくれた。
その涙は何に対する涙なのか分からなかったけど、涙を流す彼女を突き放すことはなかった。

“あなたはずっと……”

自然と涙が流れる。
ようやく僕は彼女に出会えた。
彼女に会うために僕はこの世界で生きてきたんだ。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

『本当は分かってんだろ?』

昔の“本物の自分”はそう言った。

「ああ、分かってるよ」

今の“偽りの自分”はそう言った。

――自分が本当に救うべきだったのは
――自分が本当に命を費やすべきだったのは
――自分が本当に心臓を捧げるべきだったのは

自分にしか出来ない本当の後悔。
自分だからこそ出来た本当の未練。

誰かを救いたい想いに嘘はない。
誰かのために命を費やしたい気持ちは偽りじゃない。

――それでも、本当に救いたかったのは
――それでも、本当に命を費やしたかったのは

そうか。初音にドナーを提供すべきだったのは、音無結弦。
そう、自分自身だったんだ。



EP25 ― core of powerless mind

 《2005年12月23日16時20分頃:初音の病室の前の廊下》

 

 

 病院の中、初音の病室の前で扉を開けられずに立ち尽くしてしまう。

 悩まず、思いっきり病室の中へと入ったら良いのだが、初音にクリスマスのことを告げないといけないと思うと、気が重くて扉を開けられない。

 でも、言わないと。ここで帰るわけにもいかない。今日も初音はオレが会いに来てくれるのを待っているのだから。

 

 

 オレは早朝からのバイトを終え、先ほどまで初音の担当医である古河先生に会っていた。

 会っていた理由は、初音の外出許可をもらうためだ。

 

 だけど、初音の外出許可が出るわけはなかった。

 こんな真冬の夜に街中に出るなんて、初音の身体に障るからだ。

 

 

 

   ×    ×    ×    ×

 

 

 

 頭を下げ、担当医の古河先生に必死に頼む。

 

 

「お願いします先生! 初音はクリスマスの日に街の大通りに出られることを楽しみにしているんです。少しだけでもいいんです。初音のために、どうか外出を許してくれませんか!」

 

「結弦くん、初音ちゃんを外出させてあげたい気持ちは分からないでもないよ。初音ちゃんも楽しみにしているし、君が初音ちゃんとの約束を守ってあげたい気持ちも分かる。でもね、そんなことをしては初音ちゃんにもしもがあった時どうするんだい? 初音ちゃんの容体は正直言って悪くなっている一方だ。最悪、病気が悪化したり、別の病気にかかったりして大変なことになるかもしれないんだよ?」

 

「でも、でも……オレは」

 

「結弦くん。初音ちゃんのことを本当に思うなら、どっちを選んだ方が良いか。君なら分かるよね?」

 

「………………」

 

 

 古河先生はオレの肩に手を置いて優しく問いかけるも、威圧的な言葉のかけ方に何も言えなくなる。

 

 

「……はい、わかりました」

 

「うん、偉いね。結弦くん。初音ちゃんのことを思ったら、やっぱりそれが一番だ。初音ちゃんの容体が良くなったら、外出は出来るようになるからね。それまでの辛抱だよ。元気になってから、初音ちゃんのためにたくさんしてあげればいい」

 

「…………はい。ありがとう、ございます」

 

 

 そう、答えるしかなかった。

 納得したわけでもない。諦めたわけでもない。それでも、今はその言葉しか浮かばなかった。それ以外に、この先生に対する言葉が見つからなかった。

 

 

 

   ×    ×    ×    ×

 

 

 

 さっきの古河先生との会話を思い出すと、オレが初音にしてあげるべきことは一緒に病院の外へ行くことじゃない。病院の中でクリスマスを祝って、プレゼントをあげるべきなんじゃないか。初音の身体のことを思って、そうしてあげるべきなんじゃないかって。そう思い始めていた。

 

 結局、初音には言わないといけない。クリスマスに外出することは出来ないって。初音の身体のことを考えたら、外出はせずに病院の中にいるのが一番なんだって。初音の期待を壊す言葉を、この扉を開けて言ってあげないといけないんだ。

 そうだ。だから……

 

 

「ちょっと、ごめんなさい」

 

「へっ?」

 

 

 声がする方へ振り向くと、そこには年上っぽい女性と車イスに座った同年代くらいの女の子がいた。年上の女性の人は少し申し訳なさそうな表情でこちらを見ている。

 どうやら、オレが病室の前で立ち尽くしていたせいで廊下を通ることが出来なかったようだ。

 

 

「あ、すみません!」

 

「いいのよ。こちらこそごめんなさいね」

 

 

 車イスが通れるように場所をどいてあげると、年上の女性の人は軽く会釈して車イスを押していく。その間、車イスに座っている女の子に目が釘付けになってしまう。

 桃色の髪にやや幼い顔つきをした女の子。初めて見るけど、最近入院してきた子なのだろうか。容姿だけで見るならアイドルとかガールズバンドとか歌手とか。テレビに出ていてもおかしくないくらい可愛い。

 

 しかし、気になるのは目しか動いていないことだ。体がピクリとも動かず、女の子はオレの前を横切るまでずっとオレの顔を目で見ていた。もしかしたら、体や脊髄に障害を持った子なのだろうか。車イスに座っているあたりはそう考えられるけれど。

 

 

 桃色の髪の少女を見送ったところで、病室の中から初音の声がした。聞く限りでは、初音が辛そうに咳をしているようだ。少し心配になって、病室の扉を開ける。

 

 病室の中には、マスクをつけている初音がベッドの上で咳が出るのを抑えようと口に手を当てていた。

 

 

「初音、大丈夫か?」

 

「ごほっ……あ、お兄ちゃん。来てくれたんだね……ごほ、ごほっ」

 

 

 マスクを着用している初音は咳込みながら嬉しそうにオレを見ている。今まで少女マンガ雑誌を読んでいたのか、ベッドのそばにその雑誌が落ちてあった。

 

 

「ああ。それより、また咳が出るのか」

 

「うん……朝から。でも大丈夫だよ。たまに出るだけだから」

 

「そうなのか? 大丈夫ならいいけど、ひどくなったらナースさんか誰かに言えよ。咳がひどくなったら大変だからな」

 

「うん、分かった。そうだね、クリスマスまでには治るようにしないといけないもんね」

 

「あ、ああ……そうだな」

 

 

 つい、咄嗟に返答をしてしまった。クリスマスの話題が出たから、そこで切り出せると良かったんだが。初音にクリスマスのことを言う覚悟が足りていなかったからか、上手く話を切り出すことが出来なかった。

 初音のそばまで行くと、カバンを下ろしてはベッドのそばに落ちてあった少女マンガ雑誌を拾って、初音に渡す。

 

 

「ありがとうお兄ちゃん。さっき咳が出た時につい落としちゃったの」

 

「そうか。そういや、最近は雑誌買ってなかったか。また今度買ってきてあげるな」

 

「うん。ありがとうねお兄ちゃん!」

 

 

 嬉しそうに屈託のない笑顔を向ける初音に、よりいっそう気が重くなる。

 よく見れば、少女マンガ雑誌にもクリスマス特集とかクリスマスに関連したワードが表紙に書かれている。当然、内容もクリスマスに関連したことが書かれていることが想像出来てしまう。

 

 初音は少女マンガ雑誌を見開き、さっきまで読んでいたページを探しているのか、絵の中身を見ながらページを何回もめくっている。

 これを買ったのは先月だから、ある程度は読んでいるんだよな。いや、ほぼ全部読んでいるはずだ。きっと初音はマンガ雑誌を読みながらクリスマスに対して期待を膨らませているに違いない。そう思うと、どうしてもクリスマスのことを口に出すことが出来なくなる。

 

 

(ダメだ! 初音にちゃんと言ってやらないと、余計に傷つけちまう。もう、覚悟を決めるしかない!)

 

 

 ベッドのそばにあるイスに座りながら、クリスマスのことを言う覚悟を決め、自分の心の準備を整える。

 物静かな空気を壊すように、口を開いて話を切り出す。

 

 

「初音、クリスマスのことなんだが……」

 

「うん? クリスマスがどうしたの?」

 

 

 純真無垢な表情でいる初音の様子に、心臓が締め付けられそうになる。

 未だかつてここまで心苦しいことがあっただろうか。初音を喜ばしたい一心でクリスマスに向けて色々と頑張ってきた自分が、初音が悲しむことを言わないといけない。楽しみにしていたクリスマスの約束を裏切る言葉を伝えないといけない。自分に対しても初音に対しても残酷な言葉を、自分の中から紡ぎ出して初音に言わないといけないことに、かつてない辛さを感じる。

 

 それでも、初音のことを思うなら言わないといけない。初音のためにも、意を決して言うことにする。

 

 

「……実はな、さっき古河先生に会って来たんだが、クリスマスの日に外に出るのはダメだって。外出許可が出なかったんだ」

 

「えっ……?」

 

 

 呆然とした表情でオレを見つめる初音。そんな初音に対して、顔を合わせられるわけもなく、目を逸らすように地面を見てうつむく。

 

 

「そう……なんだ。でも、ダメでもお兄ちゃん連れてってくれるんだよね? 前、こっそり内緒で病院から連れ出してくれるって言ってたから、街の大通りには連れてってくれるんだよね?」

 

「そ、それは……」

 

 

 確かにそう言った。以前、初音が街の大通りのイルミネーションの話をした時、もし外出許可が無理でも連れ出してやるとオレは言ってしまった。

 だけど、あの時と今では少し状況が変わってしまった。あの時はたとえ外出許可が出なくても、ちょっとくらい外に出ても初音の身体に支障はないと思っていた。

 

 しかし、あれから初音の容体は悪くなる一方。咳までしている初音を外へ出して、身体に負担をかけるのは危険だ。もしものことを考えたら、こっそり外へ連れ出すなんて行為が出来るわけもなかった。

 

 

「ごめん、それも無理だ。もし初音の身体に何かあったらと思うと、外に連れてってやることは出来ないんだ」

 

「それじゃあ、クリスマスは……どこも行けないってこと?」

 

「……そういう、ことになる」

 

「…………そっか」

 

 

 初音の心のこもっていない声が小さく聞こえる。さっきまでとは違った元気のない言葉が、よりいっそう自分の心を締め上げていく。

 

 

「でもな。外には出られないけど、ちゃんと病室でクリスマスパーティはするぞ。それにクリスマスプレゼントもちゃんと用意してやる。たくさんお祝いするし、兄ちゃんもずっと初音のそばにいるからな……だから……」

 

「………………」

 

 

 言い訳をするように、必死に取り繕うように、外に行けない代わりに自分が初音にしてやれることを言葉にしていく。顔を上げて、初音に言い聞かせるように、初音を元気づけようとした。

 でも、初音は黙ったまま。気を落としたようにベッドの布団を見つめて、うつむいていた。

 

 

「……だから、クリスマスは……すまない。外に出してやるって約束は無理だ。けどな、ちゃんと祝うから。盛大に兄ちゃんが祝ってやるから、クリスマスプレゼントもたくさん用意してやるから、だから初音……」

 

「うん、いいよ。ありがとうね……お兄ちゃん」

 

 

 オレの言葉に、初音は優しく答えた。悲しそうに微笑んでみせた。今まで聞いた中で、一番弱々しい“ありがとう”だった。

 

 いつもこの言葉を聞いただけで、オレは嬉しい気持ちになれた。初音が喜んでいるのだと、実感出来た。

 

 なのに、今日は違う。今日の今に限っては、初音の“ありがとう”が、まるで自分の心に穴を空ける。銃弾のような何かが心臓を貫いたかのように、心がとても痛い。

 初音を悲しませたことで、何とも言えない気持ち悪さと痛みが自分の中で満たされていく。

 

 

「でもね、気にしなくてもいいよ。クリスマスにお祝いもいいから。もう……何もしなくても、いいから」

 

「そんな、だって」

 

「いいから。もう、もういいの……」

 

 

 初音はそう言うと、目に涙を溜め、ぎゅっと布団を掴んでは涙が流れそうになるのを必死に堪えていた。

 しかし、目に溢れる涙は瞳から零れてしまい、布団の上へと落ちる。涙が落ちていく度に、初音は苦しそうに顔をゆがめていった。

 

 

「初音! すまない、兄ちゃんも本当はおまえを外に連れて行ってやりたいんだ。でもな、もし身体に障ったら、それこそ大変なことになっちまう。病院の中にいるのが一番なんだ。だから、今年は無理でも、来年こそは行こう。ドナーも見つかって、身体も良くなって、そんで元気になったらいっぱい外に出よう。今年行けなかった分を、来年にたくさん行けばいい。行きたいとこ、いっぱい行こう。だから今年は、オレと一緒に病院でクリスマスを」

 

「もういいの……お兄ちゃん。無理にクリスマスパーティをしなくてもいいから。もう、何もかもいいから」

 

「なんでだよ、初音! 外に行けなくても、病院の中でだってクリスマスを祝うのは楽しいだろ? 去年みたいにクリスマスパーティだってしてやるし、プレゼントだってたくさん買ってやる。おまえのために兄ちゃんが何でもしてやるから。だから初音、機嫌直してくれよ」

 

「いいんだよお兄ちゃん。どうせ……私は――――」

 

 

 初音は目に溜めた涙を腕でこするように、パジャマの裾で涙を拭う。涙を堪えている様子はなく、とある言葉を初音は力無く発した。その言葉は、一番言ってはいけない言葉だった。

 

 

「今、なんて…………」

 

「……どうせ、死んじゃうんだから」

 

「初音!? 何を言ってるんだ、そんなこと言うなよ! 死ぬなんて……そんなわけないだろ!! 今はただ少し良くないだけで、ちゃんと病院にいれば治るさ。それに、いつかおまえに合うドナーだって見つかる。きっと大丈夫。大丈夫だから!」

 

「大丈夫、って何? 何が大丈夫なの? 全然、病気も良くならないし、ドナーだって見つからないよ。それなのに、何で大丈夫って言うの?」

 

「そ、それは……」

 

 

 言えなかった。言えるわけがない。理由なんてない。

 初音をただ励ますために言った言葉だ。“大丈夫”という言葉に、何の保証も根拠もない。自分の言った言葉がどれだけ中身の無いものだったかを思い知らされる。

 

 

「もしかしたら私、来年には死んじゃってるかもしれないんだよ? 来年って、あと1年もあるんだよ。あと1年なんてそんなの長い、とっても長過ぎるよ。来年も私が生きててクリスマスを祝えるなんて……そんなの思えないもん!」

 

「でも、でもな初音! そんなの、諦めてたら治らない。死ぬかもしれないって諦めてたって、良くはならないんだ。だから、根気よく待てばいつか良くなるかもしれないだろ?」

 

「無理だよそんなの。病気が悪くなってるのに、良くなるなんて……今まで良くなったことなんてなかったのに、治るなんて思えない。もう、死んじゃうの。私は死んじゃうんだよ!」

 

 

 今までにないくらい大きな声で言う初音。悲観的になっている初音の手をオレは優しく握った。

 小さい手。細い指。やや白い肌。生きているという温もりを感じる。そんな病弱な初音の手は震えていた。

 

 初音が死んでしまったら、この手は動かなくなる。真っ白い肌のまま、大きくなることも、温もりを感じることも、何もかもが失ってしまう。それだけは嫌だ。初音が死んでしまうことだけは嫌だ。

 初音の手の温もりを感じながら、オレは懇願するように両手で初音の手を握った。

 

 

「そんなことない。死なない、おまえは死なないから! 大丈夫だ、きっと大丈夫だから! だから諦めるなよ、諦めないでくれよ! そんなこと、言わないでくれっ!!」

 

「じゃあお兄ちゃん……どうしたらいいの? 私、怖い……死にたくない。いやだよ……死にたくないよ……」

 

「初音……」

 

 

 初音の切実な想いを含んだ言葉に、何も返すことができない。

 初音の質問に対して自分がどう答えてあげるといいのか、初音の想いに対して自分がどう応えてあげるといいのか。

 分からない。思い浮かばない。何も出来ない。ただ、この場で何も出来ずに堪えるしかできない。

 

 

「なんで? なんで私、治らないの? 私、いっぱい我慢したよ。いっぱい良い子にしてたよ? なのに、なんで? なんで私ばっかり……」

 

「それは……初音が悪いんじゃない。初音は生まれつき身体が弱かったんだ。だから、仕方なかったんだ」

 

「じゃあ、こんな身体に産まれたのはなんで? 誰のせいなの? 全部、ママが悪いの? ママのせいで私はずっと病院にいないといけないの?」

 

「違う、母さんは悪くない。母さんは必死に初音を産んでくれたんだ。母さんが頑張ったから、命をかけてまで産んでくれたから、初音は生きているんじゃないか。産んでくれた母さんを悪く言っちゃダメだ!」

 

「ママじゃないなら誰が悪いの? やっぱり私が悪いの?」

 

「なんでそうなるんだよ!? 初音は何も悪くないだろ?」

 

「だってママが死んだの、私のせいなんだよね? 私を産まなきゃ、死ななかったんだよね? なら、私が悪いんだ。ママが死んじゃったのも、こんな身体になっちゃったのも、全部私が悪いんだ! それなら私、ママから産まれて来なきゃ良かった!!」

 

 

 死んでまで初音を産んでくれた母さんに対して一番言ってはいけない言葉。初音の言った言葉は、子どもを殺すか自分を殺すかで、子どもの命の方を選択した母さんに対しては、絶対に口にしてはいけない言葉だ。そんな言葉を初音は口にしてしまった。

 初音は本気でそう思っているわけじゃない。悲観的になっている初音は、思いがけず勢いで言ってしまったのだろう。きっとそうだと信じたい。

 

 だけど、自分の中にある母さんを想う心が、初音を許すことが出来なかった。母さんを知っている自分だからこそ、初音の発言に許せない気持ちが芽生え始めて行く。母さんの命を費やしてまで娘の命を守った行為が無駄だったと言われたみたいで、怒りのような黒い感情の昂りが抑えられず、ふつふつと湧き上がってきてしまう。

 

 

「初音っ!! おまえっ!?」

 

「そうでしょ? 産んだところで、私はもう死んじゃうんだから! 私なんか産まずに、ママが生きてれば良かったんだ」

 

「そんなことない! 母さんだって、そんなことは望んでない! それにオレは初音が産まれてきて本当に良かったと思ってる!」

 

「じゃあお兄ちゃん、私と代わってよ! 私は産まれて良かったと思えない。生きてて良かったなんて思えないよ。やりたいこともないって、学校も行きたくないって、生きる価値なんか持てないって、お兄ちゃん言ってたよね? それならお兄ちゃんが私と代わってよ。お兄ちゃんが私の代わりに死んじゃえばいいんだ!」

 

「は、はつ、ね…………」

 

 

 ショックだった。初音のために尽くしてきたオレに対して“死んじゃえばいい”なんて言葉を初音から浴びせられるとは予想だにしていなかっただけに、頭が真っ白になる。

 ふつふつと湧き上がる黒い感情は、自分の心を支配していく。自分の中の何か、膨らんでいたものは、今にも弾けて爆発してしまいそうになる。

 

 言ってはいけないと、口に出してはいけないと、頭にも心にも思っていることだったはずなのに、堪えきれずに漏れ出していく。膨張していく勢いが止まらない黒い感情が、漏れると同時に自分の頭を真っ白ではなく真っ黒にさせた。

 心の奥底で感じていた想い。自分の中の本当の気持ちが、吐き出されていく。

 

 

「なんで、だよ……誰のせい、で……誰のせいで、オレがこんな目にあってると思ってるんだっ!!」

 

 

 初音の手を握ったまま、手に込める力を強くする。正直、握る力が強すぎて痛いのかもしれない。

 でも、そんな心配をしてられるほど、自分に余裕はない。もう、止まらないものが漏れ出してしまったのだから。

 

 

「おまえがこんなんでなかったら、もっと学校も行けた。バイトなんかせず、友達とも遊べた。勉強も部活も友達も夢も、たくさんやりたいことがいっぱいやれたんだ! おまえのそばにいてやるって母さんと約束したから、ずっとそばにいるのに……なんでそんなこと、言われなきゃならないんだよ!!」

 

「ぇ……!?」

 

「……オレだって、一緒なんだよ! 今を生きてて良かったなんて、思えないんだよ……! くそっ……」

 

 

 言ってしまった。心の奥底では思っていても、そんなことは言ってはいけないことだと理解していた。言ってはダメだと誓った。言うつもりは全くなかった。

 でも、堪えきれなかった。初音を邪魔に思う心が、自分を支配して最悪の言葉を吐き出させた。もう取り返しはつかない。言い直すことも取り繕うことも、何も出来ない。

 

 自分の言葉は、オレの本心として初音の心に鋭く突き刺さったのだろう。困惑と絶望の淵に立たされたように、顔が引きつったまま、初音はじわじわっと再び涙を目に溜める。初音は震えながら、掴まれているオレの手を強く薙ぎ払った。

 

 

「う、ううっ……うわあああぁぁっ!! もう、いい! もう、お兄ちゃんなんか見たくない。出てって、この部屋から出てってよ! もう一人でいい。お兄ちゃんは私なんかほっとけばいい。私はもう死ぬんだから、お兄ちゃんは好きにすればいいじゃない! もうここから出てってよっ!!」

 

「……っ!! ああ、そうする……今日は帰るよ」

 

 

 そう言ってオレはカバンを持って病室から立ち去った。

 泣きじゃくる初音を無視して、病室の扉を閉める。閉めた後も初音の泣き声が聞こえたが、無視して歩く。

 今の状態では初音に何も出来ない。ただ、その場から立ち去るように駆け足で歩いて行くしかなかった。

 

 やってしまった。やってはいけないことをやってしまった。一番最悪なことを、取り返しのつかないことをしてしまった。

 そんな自分から目を逸らすように歩く。足を進ませながら、自分が何をしているのか、自分自身何がしたいのか分からなくなる。

 

 

(なに、を……何をやってんだオレは!!)

 

 

 自分を責めても、責め続けても、後悔だけは消えずに心の中でざわつく。最後の別れ際の初音の表情が頭から離れず、脳裏に焼き付いてくる。

 なんて後味の悪さだろう。気持ち悪いくらい、罪悪感が押し寄せて来る。これ以上にないってくらいの苦しみに自分が占領されそうになる。

 

 

 その後、どのようにしてこの病院から家に帰ったのかなんて記憶にない。

 逃げるように、ただ逃げるように。罪の意識に駆られながら、足を運ばせた。

 

 

 

   ×    ×    ×    ×

 

 

 

 《2005年12月24日19時25分頃:初音の病室の前の廊下》

 

 

 病院の面会時間が終わり、誰もいなくなったところで初音の病室の扉を開けた。

 ゆっくりと入って来るオレを、初音は硬直しながら目を見入っている。

 

 

「えっ……!? おにい、ちゃん!?」

 

「びっくりしたか? って、そりゃそうだよな。まさか来るなんて思ってなかっただろ?」

 

「うん。だって……もう来てくれないと思ってたから」

 

 

 初音は昨日のことを思い出してか、ばつが悪そうな様子でそう言った。

 そりゃあ昨日のことがあったら、こうやって面向かって話すことさえ難しい。オレも正直、あれだけのことがあって初音と会うことには気まずさを感じている。

 

 だけど、こうして初音に会いに来た。むしろ、昨日のことがあったからこそ、ここに来た。初音を想う気持ちが嘘ではないからこそ、決心したんだ。

 

 

「そんなわけないだろ? あんな別れ方をしたまま、オレが初音を見捨てるわけない」

 

「でも、私……」

 

「それに、約束したからな。クリスマス、一緒に出るって。だから、今日来たんだ」

 

「え? でも、無理だって……」

 

「やっぱり初音との約束は守りたいって思ってさ。だから、今日は一緒に病院から抜け出して、外に行こうぜ。ほら、上着のジャンバーも着てさ」

 

「う、うん……」

 

 

 病室の棚の中にしまってあるジャンバーを取り出しては、初音に着させる。初音は戸惑いながらも、少し嬉しそうな表情を浮かべていた。

 

 

「準備は大丈夫か? ある程度は歩くから、トイレに行かなくてもいいか?」

 

「さっき行ったから大丈夫だよ」

 

「そうか。それじゃあ、行こうか」

 

 

 初音を背中でおぶると、病室の扉を開けては廊下を見回す。

 今のところ誰もいないみたいだ。このまま病院から出よう。

 

 

 昨日はあの後、自分の部屋で嫌悪感に苛まされた。

 自分に対して、許せない気持ちでいっぱいになった。

 

 その中で、自分が初音のためにしてやれることを考えた。

 本当に初音に今必要な事、自分が初音にしてあげるべきことは何なのか。それを深く考えた。

 考えた結果、初音のためにクリスマスの約束を守ること。初音と一緒に街の大通りへ行くことが一番であると考えた。

 

 死ぬと悲観的になった初音に対して、一緒に外に出ることで元気づけられるかもしれない。

 もしかしたら、奇跡が起こって、病気が良くなるかもしれない。幸運が芽生えて、ドナーだって見つかるかもしれない。

 

 だから、初音に会いに来た。だから今、街の大通りへと向かうために、こっそりと病院を抜け出すんだ。

 

 

 初音の軽い体重、初音の体温、初音の息を感じながら、初音を背負ったまま病院の中を歩いて行った。

 ゆっくりと、静かに。雪の降っている病院の外。街の大通りを目指して。

 

 

 

   ×    ×    ×    ×

 

 

 

 《2005年12月24日19時50分頃:街中の大通りに繋がる歩道》

 

 

 雪が降っている外は、所々に少し雪が積もっていた。

 だけど今日はクリスマス前夜。人通りが多いからか積もった雪は踏まれてある。雪は積もることなく、ただゆっくりと降っているだけであった。

 

 

「お兄ちゃん、どうして来てくれたの?」

 

 

 初音は少し不思議そうにそう口にした。

 初音の問いかけは、どうして私のために来てくれたのか。きっとそういう意味なのだろう。

 

 

「それは……」

 

 

 “なんで?”自分に問いかける。

 ただ、そうしてあげたい。初音のためにしてあげたいから。

 

 “どうして?”自分に問いかける。

 初音のことが大切だから。初音のそばにいると決めたから。

 

 “なぜ、そう決めた?”自分に問いかける。

 それは、約束したから。オレが今を生きる理由だから。

 

 

「母さんと約束したからな。初音を守ってみせるって。ずっと初音のそばにいるって。最後の最後まで、初音の兄ちゃんとして大切するって。母さんにも自分自身にも、そう誓ったんだ」

 

「そう、なんだ……」

 

「それに、初音にはいっぱい喜んでもらいたいなって。せっかく楽しみにしてたクリスマスなんだ。それを台無しにしたくないだろ? 今は辛いけど、生きていたら楽しいことも嬉しいこともあるって。世界には綺麗なものも美味しいものもあるって。辛くても、生きていれば素晴らしいことがいっぱいあるって。初音にそう想って欲しいからさ」

 

「……ごめんね、お兄ちゃん。私のために……」

 

 

 初音の言葉はいつもの“ありがとう”ではなく“ごめんね”だった。

 初音の少し震えている小さな声が、オレに対して気に病んでいるように感じられた。

 

 

「初音、謝らなくていいんだよ。だってオレはおまえのお兄ちゃんだからな。おまえが喜ぶことならいっぱいしてやる。今も、これからも。お兄ちゃんがずっと初音のそばにいてやるからな」

 

「うん……ありがとう」

 

「ほら、あそこを曲がったら街の大通りだ! あともう少しだからな」

 

 

 歩道を歩きながら、大通りへと向かって行く。

 雪は降っているけど、吹雪いていたり、邪魔になるほどたくさん降っているわけじゃない。

 思っていたほど悪天候にならなくて本当に良かった。

 

 歩くにつれ、イルミネーションの明かりや人が賑わう声が段々と大きくなっていく。

 オレンジ色に輝くイルミネーションの明かりが、空から落ちていく雪を照らす。その度に雪の影が地面を泳いで彷徨っている。そんな光景がなんとも神秘的で、これからオレ達を見たことのない世界へと誘っているように感じられた。

 

 

「うわぁ……!」

 

 

 街の大通りに着くと、真ん中の道路は歩行者が歩けるようになっていて、辺りの街路樹にはたくさんのイルミネーションが付けられていた。オレンジ色の光を放ちながら、店も様々なイルミネーションやクリスマスの飾りが付けられている。

 そんな街の中で、大通りの中心にある大きな樹は、青色と白色を主に様々な色のイルミネーションが綺麗に光り輝いていた。街行く人々はみんな、大きく綺麗なイルミネーションを見ようと大きな樹のある方へと向かって歩いて行く。オレ達もまたそれらに混ざるように、道路の真ん中を歩きながら綺麗な景色を眺めていた。

 

 

「すげぇ……! おい、見えてるか。すごいぞ!」

 

「うん……すごく綺麗……」

 

「だな、すごく綺麗だ。オレも見られて良かったよ……おまえのおかげだな」

 

 

 ここまで綺麗なものだとは思っていなかっただけに、つい自分の心が躍ってしまう。夜の空と雪景色も相まってか、大通りのイルミネーションがいっそう綺麗に見える。

 

 

「ううん……おにいちゃんのおかげだよ。こんなのが見られるなんて、私とっても幸せ」

 

「ああ、兄ちゃんも初音と一緒にこんな綺麗なものが見られるなんてな。本当に幸せだ」

 

 

 本当に来て良かった。初音も喜んでくれているみたいだし、初音と一緒にいるというだけで幸福感に満たされていく。

 それに、初音と一緒にどこかへ出かける日が来るなんてな。いつか、こんな幸せな日々が未来にはあるのかもしれない。幸福な人生をオレも初音も送れるようになるかもしれない。病気も治って、元気になって、またこうして2人で過ごすことができるかもしれない。

 そんな期待感が膨らんでいく。これからもっともっと楽しいことが待っていると思うと、よりいっそう期待感で胸が膨らんでいっぱいになる。

 

 

「さぁて、これから楽しい時間が続くぞ~。まずはプレゼントだ。何でも買ってやる。兄ちゃんこの日のために、実はすげー貯金貯めてきたんだぜ? だから、どんな高いものでも買ってやれる。ほら、何が欲しい?」

 

 

 初音に語り掛けるように問いかけてみるが、初音は黙ったままでいる。

 悩んでいるのだろうか。それとも、気をつかっているのだろうか。

 

 ……いや、きっと前者だろう。そういや初音は街の大通りなんかほとんど行ったことがない。行ったのだってだいぶ小さかった時だろうから、何のお店があるのか知らないはず。

 それに、欲しいものって言われても、初音はいまいちお店にどういったものがあるのかを知らない。だから、案外どこか店の中へと入って、色々と見て回った方が良いのかもしれないな。

 

 

「まず、店に入ろうか。宝石店でも良いぜ? あ、普通にデパートが良いか?」

 

「おにいちゃん………」

 

「うん?」

 

「……ありがとうね」

 

「あっ……」

 

 

 弱々しくも、初音の心のこもった“ありがとう”という言葉だった。初音の口から一番聞きたかった言葉。そんな感謝の言葉は、オレの心を暖かくさせる。

 本当に……本当に今日は来て良かった。

 

 

「ああ。買い物の後にもな、良いこと待ってるんだぞ~? 今度は夕飯だ。よく分からないけど、雑誌に載っていた良い店予約してあるんだ。コースで決まったものが出て来るんだぞ。コース料理だぞ~、すごいだろ? オレだって初めてだ」

 

 

 オレは喋り続けた。ただただ、初音を背負って歩いていく。

 初音の手、初音の身体が心なしか少し冷たくなってきている気がする。それに初音の息も、さっきより弱々しくも感じられる。もしかしたら、外を歩いて少し冷えてきたのかもしれない。

 

 

「少し冷えてきたか? とりあえず、今はどこかお店の中に入るか。ずっと外だと寒いもんな。そういやこの近くに初音の気に入りそうな店があったな。そこに入るか」

 

 

 初音は何も答えない。

 初音を背負いながら、ただひたすら喋るのを止めずに歩く。

 

 

「たしか、女の子っぽいものがたくさん売ってるお店だ。きっと可愛らしいものとか綺麗なものとかたくさんあるぞ~。心配しなくても、今日はたくさん買ってやれるからな。好きなもの、いっぱいプレゼントしてやる」

 

 

 初音は何も喋らない。

 口を止めることなく、初音を背負ってひたすら歩いて行く。

 

 

「そうだ。初音もそろそろ新しい服も欲しいよな。後で服屋さんも行くか。去年よりまた大きくなったもんな。病気が治ったら、外出用の服も着る機会が増えるだろうし、何着か買っておこう。きっと街中だったら可愛らしい服もいっぱいあるぞ。テレビに出ているような子が着ているようなオシャレ服もあるかもしれない。初音は可愛いからきっと似合うぞ~」

 

 

 初音は何も言わない。

 口も足も止めず、初音をおんぶしたまま歩くのをやめない。

 

 

「そうと決まったら、色々とお店まわっていかないとな。今日はいっぱい買い物して、いっぱい美味しいもの食べて、いっぱい楽しもうな。いっぱい、いっぱい……やりたいこと、楽しいこと、色んなことしような。だから……」

 

 

 周りの人達は足を止めている。顔を見上げながら、大きな樹のイルミネーションの輝きに見惚れている。

 オレも足を止める。地面を見るように顔をうつむいて、目を閉じる。

 

 

「だから……初音。何か答えてくれよ。何か返事してくれよ……何か、何か言ってくれ……初音っ……」

 

 

 街行く人混みの中、噛みしめながら、来た道を戻るように歩き始める。

 ただ歩いて行く。ただ歩いて行くしか、出来なかった。

 

 街の中のイルミネーションの明かりは、そんなオレ達を照らすように、光輝いている。

 こんなに綺麗なのに、こんなに輝いているのに……

 

 

 

 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

 あれから2カ月後に初音は死んだ。

 

 病院に帰った後、初音の病気は悪化。意識不明にまで陥り、集中治療室へと入るようになった。

 その後も、初音は意識を取り戻すことはなく、再び目を覚ますことはなかった。

 

 

「残念ですが……もう、手遅れです」

 

 

 医者の先生は、オレと親戚の前でそう言った。

 いつか初音が目を覚ますことを信じてはいたが、それは叶うことなく息を引き取った。

 

 

 葬式はあっという間だった。親戚の家でひっそりとやったものだから、余計に葬式がこじんまりとした内容に感じられた。

 初音を悲しむ人も少ない。初音の死に、心を痛める人も少ない。

 それにここには、母さんも父さんもいない。初音にとっての家族はオレしかいなかった。

 

 

「この度はお世話になりました」

 

 

 初音が死んでからはしばらく親戚の家に住んでいたが、今後もずっと一緒に暮らすことは考えられなかった。親戚とは言っても、家族ではない。このまま親戚を頼ったまま生きていくことは、出来なかった。

 

 自分の住んでいる場所へと向かう。誰もいない、いつも過ごした、あの空間。

 でも今はそこにすら帰る気が起こらなかった。

 

 ただ、街を歩いて行く。ぶらぶらと、途方もなく、ただただ、歩いて行く。

 もう雪はなく、少しずつ季節は移ろいでいようとしていた。まだ冬だけど、しばらくしたら暖かくなる。きっと、景色は春へと変化していくのだろう。

 

 

(……初音)

 

 

 初音の顔が浮かぶ。笑った顔、嬉しそうな顔、オレに向けてくれた表情一つ一つが今でも忘れられない。

 

 そうか。オレは、ちゃんと生き甲斐をもって生きていたんだ。

 生きる意味は、すぐそばにあったんだ。

 オレはあいつに“ありがとう”と、そう言ってもらえるだけで生きていられたんだ。

 あいつに感謝されるだけで、生きた気がしていた……幸せだったんだ。

 

 それなのに、とても大切な存在だったのに、何もしてやれなかった。

 ずっとあいつは病院で、ただ一人でマンガ雑誌を読んで、オレと会話して。

 それだけで、たったそれだけの人生で、あいつは幸せだったのだろうか。

 幸せな人生であったと、言えるのだろうか。

 

 

(……初音っ!)

 

 

 クリスマスの日。

 初音は“ごめんね”と言っていた。

 あの言葉の意味は、今でも分からない。

 けれど、あの言葉を言わせたのは他ならない自分自身。

 

 クリスマスの日。

 初音は“ありがとう”と言っていた。

 あの言葉の意味は、オレに対する感謝の言葉。

 最後の最後に、初音が紡ぎ出した、精一杯の想いを込めた言葉。

 

 初音の気持ち。初音の真意を知ることは決してない。

 けれどあの時口にした言葉には、初音の想いの全てが物語っている。

 

 全てを物語っているからこそ、後悔する。

 全てに後悔しているからこそ、絶望する。

 全てに絶望しているからこそ、懇願する。

 

 

(初音、オレは……)

 

 

 初音は知った。兄の幸せを奪ったのは自分だと。

 初音は知った。兄の人生を縛ったのは母親だと。

 初音は知った。兄の未来には自分は不必要だと。

 

 だから、謝罪の言葉を口にした。

 あの時の謝罪の言葉は、そういう意味だったんだ。

 

 

 それでも初音は、幸せだと感じた。

 それでも初音は、嬉しかったんだ。

 それでも初音は、感謝したかった。

 

 だから、感謝の言葉を口にした。

 あの時の感謝の言葉は、そういう意味だったんだ。

 

 

(オレは……初音のために、何をしてやれば……)

 

 

 初音は幸せだと言った。

 幸せを感じたまま、そのまま眠りについた。

 決して恵まれない人生であっても、何もできなかった人生であっても。

 初音は、幸せな人生だったと、そう想って死んでいった。

 

 

(本当は、何かしてやれたんじゃないのか? オレが初音にしてやるべきことがあったんじゃないのか?)

 

 

 だけど、初音は死を怖がっていた。

 死ぬのを恐れていた。

 生きたいって、そう思っていたんだ。

 

 

(救いたかったのは、他の誰でもない。初音だったんじゃないのか?)

 

 

 自分の人生を初音のせいにした。

 初音がいたから、自分の未来も人生も何もかもが出来ないなんていう言い訳をした。

 

 でも、初音がいなくても、きっとオレは変わらなかった。

 初音のせいで自分の人生に意味を持てなかったんじゃない。

 オレは自分の人生に意味を持てない理由を、初音に押し付けただけだ。

 

 本当に死ぬべきだったのは、初音なんかじゃなく、オレだったんじゃないのか?

 初音のために、オレが代わりに死ぬべきだったんじゃないのか?

 

 

(自分の命を費やしてでも守りたかったのは……初音。そうか、初音だったんじゃないか!)

 

 

 オレは、初音を救えたんじゃないのか。

 そうだ、救うべきだったんだ。

 初音の命を守るべきだったんだ。

 

 

(そうだ、オレがドナーを提供すべきだった)

 

 

 オレが初音に心臓を渡すべきだったんだ。

 

 

 

「オレの一番の後悔は、初音に自分の心臓をドナーとして提供できなかったことだったんだ!!」

 

『そう、それがオマエの……俺の一番の心残りだったんだ』

 

「えっ?」

 

 

 オレは目を開けると、いつの間にか暗闇の中にいた。目の前にはやや前髪の長いオレンジ色の髪色をした青年がいた。

 

 

「あんた、誰だ?」

 

『忘れたのか? オマエの心に、核心に空いた穴を埋めた俺の存在を』

 

「?」

 

『そうか、いいや覚えているわけがないよな。核心である心臓を失ったオマエは、今になってやっと思い出したんだからな』

 

 

 この青年が何を言っているのか分からない。

 けど、既視感のような親近感のような、この青年には何かを感じずにはいられない。

 

 

「で、誰なんだよ?」

 

『気付かないか? 現在の偽りの自分。過去の本当の自分。どちらが“音無”という人間か。そんな問いかけとか押し問答とかは不要だぜ? あくまでオマエは俺でオレはあんたでしかない。ただの自分自身さ』

 

「お……れ?」

 

 

 今になって気付く。やつれて、髪が長いせいで分からなかったが、目の前にいるのは高校時代の自分。初音が死ぬ前の頃の、自分自身だ。

 

 

『思い出したはずだ。自分の過去を、自分の本心を、自分に問いかけた言葉を、自分が抱いた本心を、何もかも全てをな。自分という存在を思い出して、自分の人生のルーツに気付けたんだろ?』

 

「そう、か」

 

 

 たしかに、全部思い出した。自分がどのような人生を送って、どのような後悔を抱いていて、どのような最後を迎えたのか。自分の人生の全てを思い出した。

 

 

『“妹の存在が邪魔だった”“妹を殺したのは自分だ”“本当は初音を救いたかったけれど何もしてやれなかった”そんな本心を抱えた自分を押し殺して、自分には生きる意味があると、自分の命を誰かに費やせるならと、初音で果たせなかった想いを医者になることで達成しようと。そう自分を偽って今の自分が出来た。それが……オマエだ!』

 

「オレが……?」

 

『自分を押し殺して生きて来たオマエは、心に穴が空いてしまった。いいや、初音を失くしてしまったことで空いてしまった穴を、本当の自分の気持ちを押し込んで埋めた。その過程で生まれたのが俺だ』

 

「じゃあ、あんたはオレ自身が生み出したもう一人の自分ってことなのか?」

 

『そうだな。それでオマエは死んだ後、ドナーで心臓を提供し、押し込めた本当の自分を失った。つまり今になってやっと、心臓に残っていた記憶が呼び起されたってわけだ』

 

 

 つまり、自分の心臓が身体に戻ったことで、本当の生前の記憶を思い出すことが出来たということらしい。

 なんとなく話の流れは掴めてはきたのだが、どうしても腑に落ちないことがある。

 

 

「心臓に残った記憶? 心臓に記憶が残るわけないじゃないか」

 

『いや、それはそうかもはしれないけどさ……現に思い出しただろ? それに、現に今ままでいなかったもう一人の自分の人格である俺が出て来たじゃないか。それが証明にはならないか?』

 

「もう一人の自分とか言われても、二重人格じゃあるまいし。それに、記憶にしたって人格にしたって、残るのは頭にある脳じゃないか。そうだよ、ナツキだって……結局はオレの脳から発せられているだけの声。単なる自分じゃないか」

 

『なんかだいぶ勘違いしているみたいだな。仕方ない、頭の固い自分に説明してやるか』

 

 

 いかにも馬鹿にしているように、目の前の自分は首をすくめては両手を上げている。

 正直、自分にこんな態度を取られると、自分が自分で馬鹿にしているようにしか思えないなこれ。

 

 

『じゃあ、まず心ってなんだと思う? いや、そうじゃないな。むしろ心ってどこにあると思う?』

 

「心? えっと、脳じゃないのか?」

 

『答えはNOだ! 脳だけにNOだぜ!』

 

「…………」

 

 

 やばい、一気に聞く気が失せてきたな。

 真面目に答える方がアホらしく感じてきた。

 

 

『人は心を指す時、頭ではなく胸を指す。ハートは心とも言うし、心臓とも言う。何故か分かるか?』

 

「いや……まったく」

 

『それは、心臓は人間の核心だからさ。人間の一番大切な核である部分。そして、心の核でもある部分だ。心が痛む時に胸が痛くなるのは、心の核が心臓にあるからだ。心の核を備わった臓器、それこそが心臓なんだよ』

 

「そんな……」

 

『心に刻んだ記憶ってのは、脳ではなく心臓が覚えているもんだ。ほら魂に刻んだ記憶は、決して忘れないとか言うだろ? 心臓もそんな感じだ』

 

「は、はぁ……」

 

 

 つまり、心臓であり、心でもある部分には記憶を刻むことが出来るってことか。ちょっと信じられない話ではあるけど、まぁ、分からない話でもない。

 でも、話を聞いてて少し疑問も出てきた。

 

 

「でもそれだと、この世界で心臓を失くしたオレは、心が無いことになってしまわないか?」

 

『それはそうだが、あくまで心の核が心臓にあるって話だ。全部まるっきり心が0になるわけじゃない』

 

「そう……なのか?」

 

『たしかに、心臓がなかったら心がだいぶ欠けていたと思う。でもそれ以前に、心臓がなかったら生きてすらいないだろ?』

 

「まぁ、それもそうか」

 

『この世界で心臓が無いまま生きていたのも、心を失うことがなかったのも、立華かなでの中に心臓があったから。ちゃんと心臓の役割を立華かなでが代わりに担っていてくれたからじゃないか』

 

「な、なるほど……」

 

 

 言われてみればそうだ。心臓がないままこの世界で生きていけるわけがない。生きていられたのも、立華の中に自分の心臓があったからとしか理由が思いつかない。

 

 

『だけど、心臓がないオマエは直井に催眠術で記憶を取り戻してもらっても、全ての記憶を思い出すことは出来なかった。それに、妹のことに対してもオマエが簡単に割り切れたのは、偽ってきた自分の記憶しかなかったからだ。そうじゃなかったら、自分が報われてたなんてこと、死んでも言えないだろ?』

 

「……本当だな。今は自分が報われていた人生なんて、到底思えないよ」

 

 

 以前、自分はそんなことを言ったことがあった。

 あの時は、自分の人生は報われていた。自分は報われた心を持ってこの世界に紛れ込んだイレギュラーな存在とばかり思っていた。

 けれど、自分の過去を思い出したら、そんなことを思っていた自分が恥ずかしいし、死んだ初音に対しても申し訳が立たない気持ちになる。

 

 

『そして、心臓を失ったオマエはこの世界でまた取り戻せた。それで記憶を全部取り戻した。しかし、その心臓はオマエだけのものじゃない。立華かなでの心臓でもあった。だから、ナツキという曖昧な存在が生まれたんだよ』

 

「曖昧? ナツキが?」

 

『曖昧さ。自分の素性を詳しく知らないかつ、おまえっぽくない人格。はっきり言って、他人だ。自分という人格はあくまで自分以外のものではないのだからな。でも、オマエと一緒な音無であると言う。多分だが、立華とオマエの人格が混合してしまったような、きっとそんな曖昧な人格なんだよ』

 

「そう、なのか……?」

 

 

 正直分からないが、確かに自分っぽくない部分は多い。目の前のもう一人の自分が言うことは、あながち間違ってはいないのかもしれないな。

 

 

『ま、でも良かったよ。今はもうそのナツキがいてくれるからな。俺はもう必要ない』

 

「ん? どういうことだ?」

 

『心臓は失われた。立華の心臓になった。そうなったら、俺自身は立華自身に上書きされてしまって、もう欠片ほどしかこの人格は存在してないってわけさ。つまり、こうやって自分の中の深層心理に入ってもらわない限りは、喋られないってわけだよ』

 

「え、ここって深層心理なのか?」

 

『ある意味“夢の中”のようなものかな。夢なんてものは誰かに見せられているわけじゃなく、自分自身で見てるもんだろ? 自分の中にある心境や記憶や想いが自分の中で具現化している。ここはそんな世界だ』

 

 

 そう言われるとなんだか納得は出来た。

 しかし、ここが夢の中で、夢の中の自分にここは夢の世界であると言われてしまうと、なんだか現実味に欠けてしまう。色々とわけが分からなくなりそうだから、あまり深く考えないでおこう。

 

 

『ま、それでも今回で最後だな。今後は俺と一生会うことはないだろう。そもそも会おうと思って会えるわけじゃないからな」

 

「そんな、せっかく会えたんだ。なんだか少し寂しいじゃないか」

 

『オマエにはナツキがいるだろ? それで十分じゃないか。それに、俺のことはもう忘れるべきなんだ。いいや、絶対に忘れる時がくる。それが今なのかもう少し後なのかは分からないけどさ』

 

「そんな、忘れるなんて……なんでそんなことが言えるんだよ?」

 

『人は一人じゃ生きていけない。でも、一人であるからこそ生きていけることもある。今のオマエにとって、俺という存在は足枷になるんだ。だから、俺はおまえの――――』

 

 

 もう一人の自分が話している途中で、急に水に入ったような音が聞こえて掻き消される。

 段々と沈んでいくような、まるで水中に落ちていくような、そんな感覚が何故か感じる。

 

 

「むぐっ!?」

 

『名残惜しいかもしれないが、どうやらここで俺とはお別れみたいだ。じゃあな、音無結弦! 幸運を祈ってる!」

 

 

 段々と沈んでいき、もう一人の自分が遠くなっていく。自分が引っ張られている感覚だ。

 何も見えなくなるにつれ、自分の意識も朦朧としていく。

 

 限りなく、闇の中へと落ちて行く中で、暖かい何かに包まれるような、何かに抱擁されている感覚だけが心を支配していくようだった。

 

 

 

   ×    ×    ×    ×

 

 

 

 目を開けると、そこは地面だった。

 何故かオレは水びだしで、体と胸が痛い。

 

 なんだろう? 胸に穴が空いたかのように、鋭い痛みが残っている。

 

 

「ゆ……づる、くん……」

 

 

 ぼんやりと、誰かの声が聞こえた。

 その声の主をオレは知っていた。

 

 

「……し、おり? もしかして、史織なのか!?」

 

 

 顔を上げ、周りを見る。木で作られたような塀のようなものがある。良く見渡してみると、周りは木に囲まれていて、大きい池まである。

 しかし、誰もいない。人がいる気配がない。足元に影があるだけだ。

 

 

(……? 影?)

 

 

 振り返るように、倒れた状態で足元をよく見ると……そこには影があった。

 いいや、“影”がいた。

 

 

「ま、さか……嘘だろ!?」

 

 

 そのまさかだ。

 足下にいる影。その影は決して、“日影”ではなく“影”と呼ばれていた存在。

 

 ああ、嘘であってほしい。

 きっと思い過ごしかもしれない。

 そんなわけがない。ありえないんだ!

 

 でも、その影の正体。これが、史織だと。

 朝霧史織は“影”になってしまったのだと。

 オレは直感で感じた。感じてしまった。

 

 夢から覚めた自分を持ち受けていたものは、夢であって欲しいと願いたくなるような残酷な現実であった。




25話:core of powerless mind  ー  “無力な心の中の核心”


今回も長文の読了、お疲れさまです。
今回の物語は、音無の過去の真実編と言ったところでしょうか。
どういう経緯があって、どのような後悔を抱いてこの世界に来たのか。
音無という人間の一面に触れられたんじゃないかなと思います。

ただ今回のお話に関して言えば、
作者的にだいぶメンタルを削った内容でした。
(設定的にも物語の流れ的にも内容の質的にも)

それとEP09も音無の過去の心情面が描かれています。
これをを読むと、母親との約束や妹を疎ましく思っていた音無の本心が分かります。
是非、簡単にでも読み返してもらえると嬉しいです。

ちなみに、今回はピンク髪のあの子も出てきましたね。
音無とは同じ世代枠の1人なので、
病院というのもあり、実は生前で会ったことがある感じで登場させました。
(内容的には、ほんのちょっぴりですが)

初音に関しては、きっとこんな感じだったのかなと思います。
だいぶ内容と会話を練ったので、作るのに一番手間取りましたね。
だけど、作者的には一番凝ったお話になったと思ってます。
たまに涙腺に攻撃を受けながら、感情の赴くまま書いていたのは事実です。

そして、もう一人の音無。ナツキの存在。心臓と記憶。
だいぶ勢いで書いた感はありましたが、
正直言って中盤まで長かったので、後半は勢いだけで良いのかなと。

そして次回は、遂にvol.2の最終話。
影となった朝霧はどうなるのか。
音無はなぜ池にいたのか。
次のお話に乞うご期待です。

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