これが土屋家の日常   作:らじさ

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第10話

食事の後は、由美子のリクエストでシティホテルのラウンジでお茶をすることにした。

落ち着いた雰囲気はさすがに一流ホテルだ。

「由美ちゃん、慣れているね。さすが大人だね」

「ふふふ、昔から家族でくることが多かったの。母がここのフルーツオムレットが好きなので」

 

由美子はふと思いついたように「今日はピアノの方お休みなのかしら」と言った。

ラウンジの真ん中にグランドピアノがおいてあり、いつもはBGMとしてピアノの生演奏が流れているのだという。

「ピアノを見たら久しぶりにちょっと弾きたくなっちゃった。ちょっと失礼していいかしら?」

由美子はそういうと店員に何か話しかけピアノの前に座った。一度目をつぶると手を鍵盤の上に滑らせた。

 

「ポロンポロン」と感傷的な旋律が流れてくる。

 

「ショパンのノクターンだね」少女が得意げに答える。

「・・・・・お前がクラッシックを知っているとは意外だ」

「ふふふ、康太。あまりボクを馬鹿にしてもらっちゃ困るなぁ。女の子はショパンが好きなんだよ

・・・・・という記事を雑誌で読んだからCDを買ってきて聞いたんだけど、クラシックってあまり面白くないね」

「・・・・・理由もオチも実にお前らしい」

「・・・・・これは、ちょっと」青年の顔が引き締まった。

「どうしたの、陽太君。由美ちゃんあまり上手くないの?」

「いや、逆だ。上手すぎる。ちょっとピアノを習ってたっていうレベルじゃない」

 

やがて曲調が一変して嵐を思わせるような曲になった。

「ふむふむ」

「・・・・・わかるのか愛子」

「ショパンじゃないということだけはわかる」

「・・・・・お前の基準はショパンかそうじゃないかしかないのか」

 

青年の顔がさらに引き締まった。

「どうしたの、陽太君」

「冗談じゃない・・・」

「え?」

「これはラフマニノフのピアノ協奏曲第3番カデンツアだ。長い間演奏不可能と言われてきた難曲だ」

「ふむ、なるほどラフマニノフか」

「・・・・・知っているのか、愛子?」

「いや、全然。名前が難しいから多分難しい曲なんだろうなあくらいはわかったけど」

「・・・・・うむ、実にシンプルな回答だ。単細胞という言葉はお前のためにあるに違いない」

「わかりやすく言えば、そんじょそこらの奴に弾ける曲じゃないということだ」

 

やがて彼女がピアノを弾き終わると、いつのまにかピアノに聞き惚れていたラウンジの客たちが一斉に拍手をした。

由美子はやや恥ずかしそうに礼をするとテーブルへ戻ってきた。

 

「ごめんなさいね。久しぶりにピアノを見たもんだから嬉しくて」

「すごいなぁ由美ちゃん。ショパンのノクターンが弾けるなんて」

「・・・・・お前はショパンと言いたいだけだろう」

「ううん、久しぶりだとやっぱり指が全然動かなくて」

「そんなことはないです。僕はカデンツアを生で聞いたのは、初めてです。というより由美子さん。

どれだけピアノやってたんですか?ラフマニノフなんてちょっとカジッたくらいじゃ弾ける曲じゃありませんよ」

 

すると由美子は恥ずかしそうに言った。

「ピアノは小さい頃から、有名な先生についてやっていたんです。これでも高校2年の時には、

全日本コンクールで2位にもなったことがあるんですよ」

「ええ、由美ちゃんすごい」愛子も水泳をやっていて全国大会寸前だったのだから、全日本で二位の凄さというのがわかるのだろう。

 

「ありえない」

「え?あれじゃ2位に入れないってことなの、陽太君?とても上手いように聞こえたんだけど」

「違うんだ愛ちゃん。全日本コンクールって言っても所詮は学生のコンクールだろう?

今日の演奏を聞いた限り、由美子さんが1位になれないはずがないんだ」

「陽太さん、随分くわしいんですね」

「ピアノは好きなんです」

「実をいうとね。コンクールの時にわざと数カ所間違って弾いたの」

そういうと由美子は、いたずらが見つかった子供のように舌をペロっと出してみせた。

 

「ええ、どうして?」

「両親やピアノの先生が、どうしても音大に行けってうるさくて。でも私は音大に行く気は全然なかったので、

下手に1位なんか取ったら断りきれなくなると思ったからちょっとだけ。

4位くらいだろうと思っていたんだけど2位になっちゃった。お蔭で説得に手間取っちゃったけど」

由美子はいたずらが成功した子供のように笑った。

 

「もったいないなあ。ボクだったら絶対に音大に行くのに」

「うーん、ピアノは好きだけど、もっと好きで小さい頃からの夢があったから」

「あれだけのピアノを捨ててまで、叶えたい夢ってなんですか?」

「わたしね・・・・・・」

そういうと由美子は、恥ずかしそうに頬を染めてうつむいた。

 

「小さな頃からケーキ屋さんになりたかったの」

 

「ケーキ屋になるためにピアニストの夢を捨てたんですか?」

「ううん、別に捨てたわけじゃないの。私はピアノを弾くことが好きなだけで、それは大観衆の前で弾くのも、家で一人で弾くのも違いはないの。

だけど、ケーキ屋さんは自分が作ったケーキを食べたお客さんが喜んでくれるでしょ。

その顔を見たり、想像したりするのが大好きなの。だからケーキ屋さんになりたかったの。

両親やピアノの先生は音大に行けってとてもうるさかったけど、私は絶対にケーキ屋さんになりたかった。だから音大は受けずに小妻女子大の栄養学科に入ってケーキ作りの勉強をしているの。

今のバイトも将来、自分のお店を持った時の勉強のつもりでやっているんです」

 

「すごいですね。そこまで考えているなんて」と陽太は感心したように言った。

「あら、陽太さんは違うの?いい大学入っているのに」と由美子は言った。

「いや、僕は単に勉強ができたから入っただけです。別に将来何したいとかじゃないです。

うちの兄は高校を中退してまで自分の好きな道に進んで今やっと陽の目を見ようとしています。

でも、僕にはまだ何もないんです」

由美子は、子供をいとおしむような目で青年を見つめていった。

「それじゃ、まだ見つかってないだけですよ。絶対に見つかります」

 

言い聞かすようにもう一度言った。

 

「絶対に見つかります」

 

 

「・・・・・・見つかりますから」


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