ZMB48~少女たちは、ゾンビの徘徊する船上で戦い続ける~ 作:ドラ麦茶
人は、命の危険を感じた時――例えば、車に跳ね飛ばされてから地面に叩きつけられるまでの間など――危険を乗り切るために、生き残るために、普段ではありえないほど脳がフル回転し、その結果、まるでスロー再生のような状態に見えるという。
今のあたしの状態が、まさにそれだった。
渡っていた橋が崩れ、空中に放り出されたあたし。下は、底が見えないほどの大穴。あの中に落ちたら最後、あたしはきっと、雨の日の砂利道に落とした肉まんをトラックが轢いて行ってそこへ野良猫がゲロを吐いていったみたいにぐちゃぐちゃになるだろう。そんな訳のわからない表現が咄嗟に思い浮かぶほど、今のあたしは冷静だった。周りはまさにスローモーション。今ならきっと、飛んでくるピストルの弾すらかわせるだろう。
あたしは一瞬で状況を確認する。半分だけ崩壊した橋。美咲がいる側は無事だ。手を伸ばせば、まだ手すりに届く。落下スピードは遅い。これなら、十分手すりを掴めるだろう。あたしは手を伸ばす。
でも。
遅い。あたしの手は、まるで何百キロもの重りをつけられてるみたいに重く、全然思い通りに動かない。ゆっくりと、ゆっくりと、カメよりも遅く前に出て行く。
――そうか。今のスローモーション状態は、あくまでもそう見えているだけだ。決して、あたし自身が早く動けるようになったわけじゃない。脳の活性化に体がついて行けない。まあ、それはしょうがない。脳がフル回転してるだけでもありがたいのだ。
あたしは、ゆっくりと落下しながら、ゆっくりと手を伸ばし、ゆっくりと手すりを掴む。
そして、手を伸ばしきったところで。
がしっ、っと、手すりを掴んだ。よっしゃ! これでイケる!
と、思ったけれど。
しっかりと掴んだはずの手すりは、するりとあたしの手を抜けた。
橋は、さらに遠ざかる。あたしは、落下し続ける。周りを見ても、もう、掴めそうなものはない。
あれ? ということは、まさか、これで終わり? まさか、このスピードのまま五階まで落ちていくの? 何時間かかるんだよ。陽が暮れるぞ。いや、もう暮れてるか。夜が明けるぞ。それよりも、地面に叩きつけられたとき、すごく痛いんじゃないだろうか。その痛みが、こんなゆっくりと流れていくのだろうか? べしゃ、っと、あたしの身体が潰れていくその過程が、こんなゆっくりと流れていくのだろうか? そんなの地獄だぞ? イヤだ。そんな死に方、絶対イヤだ。死ぬならせめて一瞬で。痛くないのがいい。だれだよ、こんな能力をあたしに授けたのは。神様か? ああ、神様。もうこの能力はいいです。だから、普通のスピードに戻してください。
そう祈った瞬間。
スローモーションは終わった。これで、一瞬で死ぬことができるだろう。うん。良かった良かった。
…………。
いいわけあるかぁ! いやだぁ! あたし、まだ死にたくないよぉ! 落ちたくないよぉ! 必死に手を伸ばす。
その手を。
がしっ、と、誰かが掴んだ。
誰か――美咲しかいない。
美咲の格闘用グローブを付けた右手が、しっかりと、あたしの右手を掴んでいた。
その瞬間、あたしの落下は止まる。崩れた橋の半分だけが、穴の中に吸い込まれていった。
「先輩! 大丈夫ですか!?」と、美咲。ああ! 美咲ちゃん! 今この瞬間ほど、あなたを愛おしいと思ったことはないわ!
「すぐに引き上げますからね」
美咲は、グイッとあたしの腕を引く。美咲は空手をやってるから力はあるし、あたしは女の子にしては長身だけど、アイドルだから一応軽量だ。楽に引き上げられるだろう。
でも次の瞬間、半分残った橋が、ガクンと傾いた。
まずい。こっち側も崩れる。
幸い傾きはほんのわずかで、角度にすれば一〇度くらいだろう。でも、そんなわずかな傾きでも、今のあたしたちには致命的だ。
ズルズルと、美咲の足が滑る。
ダメだ。このままだと、あたしだけでなく。美咲まで落ちてしまう。
あたしは、なんとか橋の手すりを掴もうと反対の手を伸ばす。しかし。
また、橋が少し傾いた。さらに滑る美咲。
「ダメだわ! 美咲! 手を放しなさい! このままじゃ、あなたまで落ちちゃう!」
だけど、あたしの命令にも、美咲は。
「そんなこと、できるわけないじゃないですか」
ニッコリと笑う。
そして美咲は、ロープを取り出した。瑞姫を捕まえ、縛るために用意したヤツだ。それを、そばにある橋の手すりに、左手一本で器用に巻きつける。そして、反対側を、自分の左手に巻きつけた。お? いいぞ。これで滑るのは止められる。
そう思った瞬間、美咲が。
今までに聞いたことないような大きな声で、痛々しい叫び声をあげた。
どうしたんだ美咲? ただ手すりにロープを巻きつけただけだ。それだけで、あの美咲が、あんな悲鳴を上げるなんて……?
と、美咲の左腕を見ると。
肘の部分が、赤黒く、大きく腫れていた。
え? あれって、骨が折れてるんじゃないか? いつ、あんなケガをしたんだ?
――そうか。下の階でノートンと戦った時だ。
あの時美咲は、ノートンのパンチを左腕で受け止めた。「ガードしたから平気」と言っていたけれど、あのノートンの岩のような拳を受け止めて、平気でいられるはずがない。骨折して当然。複雑骨折や粉砕骨折など、もっと酷い折れ方をしていてもおかしくない。あんな腕で、自分の体重とあたしの体重を支えるなんて、絶対に無理だ!
「美咲。手を放しなさい。あんた、その腕、折れてるんでしょ!?」
「……大丈夫ですよ……骨折なんて……空手の稽古をしていれば……しょっちゅうですから……もう……慣れました」苦痛に歪む顔に精いっぱいの笑顔を浮かべる美咲。
「骨折に慣れるなんてことがあるわけないでしょう! いいから放しなさい!」
「バカなこと言わないでください……放したら……若葉先輩が……落ちちゃうじゃないですか……」
「大丈夫よ。あたしを誰だと思ってるのよ? アイドル・ヴァルキリーズランキング4位の、遠野若葉だよ? 美咲の力なんか借りなくったって、大丈夫なんだから。だから、放しなさい。自分でなんとかなるから」
「へへ……そんなこと言ったって、ダメですよーだ。騙されません。絶対に、放しませんからね」舌を出す美咲。
橋が、さらに大きく傾いた。
美咲が、また悲鳴を上げる。
骨折の痛みは並大抵じゃない。普通の人には到底耐えられないほどの激痛だ。
それでも美咲は、決してあたしの手を放そうとしない。
このままでは、美咲の左腕にかかる負担はどんどん大きくなる。骨折の具合が酷くなれば、それだけ完治が難しくなる。いや、そんな問題ではない。今ならまだ、あたしを掴む右手を放せば、美咲は上にあがることができるだろう。美咲には、まだ助かるチャンスがあるのだ。
「いいから手を放しなさい! 美咲!!」叫ぶ。
しかし。
「イヤです」
頑として聞かない美咲。普段あたしの言うことを聞かないことなんてないクセに、こんな時だけ、あなたは!
橋が、さらに大きく傾いた。
もう、立っていられないほどの角度。ほとんど宙吊りの状態。すでに美咲を支えるのは、左手に絡めたロープのみ。あたしと美咲の二人分の体重を、美咲の骨折した左腕が支えている。
だが美咲は、もう悲鳴をあげなかった。もちろん、痛みが無くなったわけではない。歯を食いしばり、悲鳴をあげないように――それはきっと、あたしに余計な心配をかけさせないためにだろう――、耐えている。その姿が返って痛々しい。
「いいのよ、美咲。あたしなんか、放っておいて」あたしは、静かに、諭すように、ゆっくりとした口調で言う。「あたしはもう二十五歳。アイドルとしての適齢期は、とっくに過ぎている。もう、やりたいことはやりつくした感じだし。でも、あなたは違う。あなたにはまだ、未来がある。アイドルとしてやりたいことが、まだまだたくさんあるでしょう? だから、生きなさい。アイドル・ヴァルキリーズの桜美咲として、これからも生きなさい! だから、その手を放しなさい!! 美咲!!」
本当に、心の底からそう思い。
あたしは言った。
あなたの将来のためになるのなら、あたしは、喜んで犠牲になろう。
ヴァルキリーズに入ってわずか二年で、あなたは7位にランクインし、称号を獲得した。これは、燈やエリですらなしえなかった、ヴァルキリーズ始まって以来の快挙だ。
あなたは間違いなく、この先のアイドル・ヴァルキリーズを支えていくメンバーになるだろう。いや、もうすでにヴァルキリーズは、あなたに支えられている。
今のアイドル・ヴァルキリーズに必要なのは、あたしではない。美咲のような若い力だ。
だから――。
「あなたは生きなさい! アイドル・ヴァルキリーズの為に!!」
叫んだ。
手を、振りほどこうとする。
しかし。
しっかりと握られた手は、決して、弛まなかった。
「美咲!」
あたしの訴えに、美咲は。
「……若葉先輩……あたしって……一期生のメンバーで言えば……誰に似てると思いますか……」
……はぁ? と、思わず声を上げそうになる。美咲が一期生の誰に似てる? こんな時に、何言い出すんだ?
美咲は続ける。「例えば、遥ちゃんって、普段は先輩メンバーに遠慮しておとなしいですけど、ああ見えて、あたしたち三期生の中じゃ、リーダー的存在なんです。将来、チーフみたいな、立派なキャプテンになると思うんです」
それは、あたしも思った。今回のゾンビ騒動で、遥は意外なリーダーシップを発揮していた。その姿は、まるで由香里のようだった。
「でも、そんなこと、今はどうでもいいでしょう!?」叫ぶあたし。「早く、その手を放しなさい!」
でも、美咲は無視して続ける。「エリ先輩や燈先輩は、キャプテンってタイプじゃないですよね。あの二人は、深雪先輩や亜夕美先輩みたいな、みんなの前に立つ、エースと、そのライバルのタイプです。この先、あの二人がブリュンヒルデ争いをすると思うんですよね」
「だから、そんなこと、今はどうでもいいでしょう!」
「あたしって、絶対、どっちのタイプでもないですよね?」
「――――」
言葉に詰まる。
美咲のタイプ?
確かにそれは、どちらでもないと言わざるを得ない。美咲が由香里みたいなリーダーシップを発揮するなんて想像もできないし、だからと言って深雪みたいにみんなの前に立って歌って踊ってトークをするのか? と訊かれると、それも違うと思う。
「やっぱり、若葉先輩もそう思いますよね?」自嘲気味に笑う美咲。
「いや……そんなことはないよ! うん。これから頑張れば、美咲だって、きっと――」
「いいんですよ、それは」美咲は、きっぱりと言った。
「ダメだよ! 諦めちゃ! 美咲だって、頑張ればブリュンヒルデになれるって! もしかしたら、キャプテンにだって――」
「違うんです」美咲は、晴れやかな顔で言った。「あたしの目標は、そもそもブリュンヒルデでも、キャプテンでもないんですから」
「目標――?」
「はい。あたしの目標は――目標としている人は、深雪先輩でも、亜夕美先輩でも、由香里先輩でもなく――若葉先輩ですから」
――――。
美咲目標が……あたし……?
確かにあたしは、キャプテンの器でも、エースの器でもないけれど。
「……あんた、何言ってんの? あたしなんか目指してもしょうがないでしょう? あたしなんて、ヴァルキリーズにいてもいなくても、どっちでもいい存在なんだから」
「何バカなこと言ってるんですか。そんな人が、ランキングで4位になれるわけないじゃないですか」
「それは……ほら! あたしって、一期生だし。デビューしたころは、周りのみんなはまだ子供で、一番年上のあたしは、一人だけ大人っぽかったから、目立ってたんだよ。ただそれだけ。今はもう、過去の栄光だけでランキングにしがみついている存在だよ……」
そう。
本当に、そう思う。
あたしはもう、アイドル・ヴァルキリーズでは、何の役にも立っていない。
この船の中でもそうだ。
みんなをまとめることができなかった。それをしたのは由香里や遥だ。みんなの先頭に立って戦うこともできなかった。それをしたのは深雪や亜夕美だ。仲間を救うこともできなかった。それをしたのはエリや祭だ。敵を倒すこともできなかった。それをしたのは燈だ。
あたしは、ヴァルキリーズの中では何の役にも立たない。それが分かっていてもなお、仲間を失うのがイヤで、一人で芸能活動をしていく自信が無くて、怖くて、二十五歳を超えても、見苦しくアイドルグループにしがみついているだけだ。
「いい加減にしてくださいよ……」美咲の声が、いつもと違う、低い声になる。「いくら若葉先輩でも、あたし、許しませんよ。あたしの尊敬する……あたしの大好きな先輩のことを悪く言うなんて、あたしは絶対、許しません!」
……なんだよ、その謎かけみたいなの。自分のことを自分で悪く言って、何がいけないんだ?
美咲が叫んだ。「若葉先輩の、どこが役に立ってないんですか!! チーフがみんなをまとめられるのは、若葉先輩がフォローしてるからじゃないですか! 深雪先輩や亜夕美先輩がみんなの先頭に立って戦ったり、ステージで歌ったりできるのも、若葉先輩がフォローしてるからじゃないですか! 後輩メンバーが先輩メンバーと仲良くできるのも、若葉先輩が積極的に話しかけて来てくれるからじゃないですか! あたしがヴァルキリーズでこんなに活躍できるのも、若葉先輩がいろいろと教えてくれるからじゃないですか! こんな何のとりえもないあたしがこんなに目立って、ランキングで同期の娘や先輩たちよりも上位に行って、普通ならイジメられてもおかしくないのに、そんなことが全然ないのは、全部、若葉先輩のおかげなんですよ!! 若葉先輩がいるから、メンバー同士が競い合う、ランキングシステムなんて理不尽なものがあるこのグループでも、みんな、仲良くしていられるんです! それは全部、若葉先輩のおかげなんです!! 誰よりも仲間を大切にする、若葉先輩がいるからなんです!!」
――――。
あたしのおかげで、みんなが仲良くしていられる――?
そんなことをしているつもりはなかったけれど。
確かにあたしは、仲間を大事に思っている。メンバーの中で、誰よりも。何のとりえもないあたしが、唯一誇れるとしたら、それくらいだろう。時にはケンカもすることもあるけれど、次の日には忘れて、また仲良くする。後輩にも積極的に話しかける。最年長のあたしから話しかければ、みんなも話しやすくなるだろうと思うから。
そんな当たり前のことを、あたしはやって来ただけだ。
「当たり前のことを当たり前のようにやり続けてきたところが、若葉先輩のスゴイところなんですよ。あたしが目標としている、若葉先輩なんですよ! あたしがなりたい、理想のアイドルなんですよ!!」
美咲が、あたしのようになりたい――?
そんな風に思っていてくれていたなんて、今、初めて知った。
こんなあたしを目指してくれている娘がいたなんて、今、初めて知った。
あたしが、みんなを仲良くさせているなんて、今、初めて知った。
――――。
でも、だったら尚更――。
「だったら尚更、あなたは生きなさい! 美咲!!」あたしも、美咲に負けじと、叫ぶ。「あなたは生きて、アイドル・ヴァルキリーズの、二代目の遠野若葉になりなさい! あたしみたいになりたいなら、あなたは生きなさい! さあ! 手を放して!!」
「それじゃあ、意味が無いじゃないですか……」
「はあ? 何が!?」
「先輩、少し誤解してます。あたしは、若葉先輩になりたいんじゃないんです。若葉先輩を超えたいんですよ。目標にしているって言うのは、そういうことです。アイドル・ヴァルキリーズのランキングで、若葉先輩の上に行きたいんです。だから、若葉先輩には生きていてもらわなけりゃ困るんですよ!」
「そ……そんなの別に、どうだっていいでしょ!? あたしがいなくたって、あたしのランクを超えれば、あたしを超えたことになるでしょうが!? それに、あたしがいなくなれば、それだけでランクが一つ上がるんだよ!?」
「……若葉先輩って……本当に学習能力が無いんですね……」
はぁ? 学習能力が無い? 否定はできないけど、何だって今、そんなことを言うんだ?
「……忘れたんですか? ひと月前でしたっけ? チーフから言われたじゃないですか?」
由香里に? ひと月前? 何を言われたっけ?
「忘れたんだったら、あたしがもう一度言ってあげますよ。『自分が抜けるからランキングが上がって良かったね? そんなんであたしが喜ぶと思ってるの!? 席譲られて、平気な顔してテレビに出て歌うと思ってんの!? バカにするんじゃないよ!!』」
――――。
それは。
ひと月前のお披露目公演の日。
週刊誌にあたしのスキャンダル記事が載り、あたしが活動辞退を決意した日。由香里が感情を乱して言った言葉だった。
「誰かがいなくなって、順位が上がって、それで喜ぶ人なんて、アイドル・ヴァルキリーズの中には一人もいないんですよ! 実力で上に行かなきゃ……実力で、若葉先輩を超えなきゃ、意味が無いんですよ!!」
……美咲……あなたは……。
「それに、もし、今の立場が逆だったとして……落ちそうなのがあたしで、上で支えているのが若葉先輩だった場合、先輩はあたしのことを、放しますか?」
それは……絶対に放さないだろうけど……。
「ですよね。若葉先輩は、絶対あたしを放しません。もちろん、あたしだけじゃない。他の誰であっても、絶対に、手を放しません。誰よりも仲間を大切にする若葉さんが、仲間を見捨てるわけないんですよ」
「でも……だからって、このままじゃ、二人とも落ちて、死んじゃうでしょうが!? あたしを超えたいなら、その手を放しなさい! 生きて、これから頑張って、そして、アイドル・ヴァルキリーズを、今以上に大きくしなさい!! あたしがいなくったって、それで、あたしを超えたことになるから!!」
「分かってないですねぇ、若葉先輩は」
「分かってない!? 何が!?」
「あたしが手を放したら、その時点で、あたしはもう、絶対に若葉先輩には勝てないってことなんですよ。若葉先輩は、絶対に仲間を見捨てない人だから。もし、あたしがここで若葉先輩を見捨てたら、もうそれで負けなんですよ。たとえこの先、あたしが人気者になっても、たとえこの先、あたしがブリュンヒルデになっても、たとえこの先、アイドル・ヴァルキリーズが今以上に大きくなったとしても、あたしがここで若葉先輩を放したら、もう絶対に、若葉先輩を超えられないってことなんですよ!! だからあたしは……あたしはぁ!!」
いつの間にか。
美咲は、目にいっぱいの涙を溜め。
「絶対、絶対、絶対、絶対!! 若葉先輩を放しません!!」
泣きながら、あたしの手を決して離さず、叫んだ。
…………。
……バカ美咲が……。
この、大バカの、ぼんくらの、石頭の、マヌケの、うつけの、愚か者の、無能の、能天気の、ぐずの、ノータリン、たわけの……。
「先輩、ちょっと多すぎです。さすがに傷つきます」
うるさい! 心を読むな! とにかく! このバカ美咲が!!
これで、あたしは落ちられなくなったじゃないか!
どうにかして、この状況から、二人一緒に助からなきゃいけなくなったじゃないか!
あたしが死んで美咲が助かった方がはるかに簡単なのに、なんでわざわざそんなめんどくさいことをやらなくちゃいけないんだよ! まったく!! それに! あたしはもともと、ヴァルキリーズを辞めるつもりだったんだよ! みんなを護れなかったから、責任を取って、辞めるつもりだったんだ! なのに! あんな事を言われたら、辞めるに辞められないじゃないか!!
ええい! 嘆いても仕方がない! やるしかない!
素早く状況を確認する。橋の傾きはすでに垂直に近い。もとより美咲のあの腕では登れないだろう。あたしが上るしかない。
「美咲、よく聞いてね」
「はい」
「今からあたしが、美咲の身体をつたって、上にあがるわ。いいわね?」
「本当ですか? そんなこと言って、あたしが手を放した瞬間、一人だけ落ちるんじゃないでしょうね?」
「安心して。そんなことはしないわ。だって、あたしが落ちたら、どうせあんたは、後を追うでしょ?」
「……まあ、そうですね」
「だから、あたしは絶対に落ちない。必ず上にあがって、美咲を引き上げるから」
「わっかりましたー! 任せてください!」
「……ホントに分かってる? あたし、美咲の身体をつたって上に行くのよ? あんたの左手、折れてるのよ? ものすごく痛いのよ? あんたが泣こうが叫ぼうが、あたし、絶対やめないわよ?」
「大丈夫ですよ。こんなの、いつもの若葉先輩のげんこつに比べたら、全然なんともないですから!」
「言うわね……まあいいわ。じゃあ美咲、根性見せなさい!!」
「はい!!」
あたしは、左手を上げ、美咲の手首を掴んだ。
美咲が、少しためらいながら、右手を放す。
あたしはその右手をさらに上げ、美咲の二の腕を掴んだ。
反動で体が揺れる。その揺れは、ダイレクトに美咲の左手を痛めつける。美咲の顔が苦痛に歪む。しかし、決して、悲鳴をあげない。弱音を吐かない。
あたしは左手を上げ、美咲の首を掴んだ。右手も上げる。ちょうど、美咲に抱きつくような恰好。
美咲と目が合う。
美咲は、恥ずかしそうにはにかむと。
目を閉じ、唇を突き出した。
やめろ。気色悪い。そんなことしてる場合じゃないだろ。突き落すぞ。
……と、いつものあたしなら言うところだけど。
――――。
あたしは、ゆっくりと顔を近づけ。
美咲の唇に、そっと、自分の唇を重ねた――。
それは、摘みたての潤んだイチゴのような感触。
唇を放すと。
そこに、目を真ん丸にして驚いている美咲がいる。
「せ……せんぱい……ダメです……アイドル・ヴァルキリーズは……恋愛禁止です……それは……鉄の掟です」
「あら? 美咲、知らないの? メンバー同士の恋愛は、禁止されてないのよ?」
「それは……そうですけど……」
「それに、禁止されてるのは恋愛だけ。キスやエッチは、別に禁止されてないし」あたしは、イタズラっぽく言った。
「な……なんですかそれ!? 恋愛感情が無いのにキスしたんですか!? あたしをもてあそんだんですか!? 先輩!! ヒドイです! ヒドすぎます!!」
「その元気があれば、大丈夫だね! じゃあ、行くよ!!」
あたしは、勢いをつけ。
左手で、美咲の左ひじを掴んだ。
さすがに。
美咲の顔が苦痛に歪む。わずかに悲鳴が上がる。
「美咲!? 大丈夫!?」
「ダメですぅ。もう一回若葉先輩のキスが無いと、あたし、我慢できそうにありません」また目を閉じ、唇を突き出す美咲。
……しょうがないヤツだな。あたしは、顔を近づけると。
右の拳を握り、美咲の頭に振り下ろした。
「……あ。今のゲンコツの痛みで、腕の痛みはなくなりました」
よし。じゃあ、行くよ。
あたしはさらに勢いをつけ、美咲の左手首を掴み。
そして、さらにその上――橋の手すりを掴んだ!
よし! もうこれで大丈夫だ! あとは、美咲の身体を引き上げれば――。
そう思った瞬間。
がくん! と、また、大きく橋が傾いた。
もう、とっくに限界の角度だった。これ以上は傾きようがないはずだった。
それなのに、橋はなおも傾いていく。
そして――。
あたしはまた、宙に投げ出された。
え? 何で?
橋の手すりは掴んでいる。決して、放したりはしていない。
それなのに、まるで無重力空間に放り出されたような浮遊感。
空が遠ざかる。建物が遠ざかる。
でも、橋は遠ざからない。
それはつまり。
橋が……折れたのか……。
あたしたちは、橋と一緒に、落下しているのか……。
ここまで来たのに……。
あと少しで、美咲を、助けられたのに!!
くそ……。
くそおおおぉぉぉ!!
せめて! せめて美咲だけでも!!
あたしは、美咲を抱いた。
美咲もあたしに抱きつく。
あたしは、美咲を護るように、強く、強く、抱きしめた。
ああ、神様! どうか、この娘だけは! 美咲だけは! 助けてください!! どうか神様! ううん! 神様でも! 悪魔でも! ゾンビでも! 何だっていい! どうか! どうか美咲だけは! 美咲だけは!! 助けて!!
あたしの、祈りとともに。
あたしと美咲は、底知れぬ漆黒の穴の中に、吸い込まれるように、落ちて行った――。