その日の夕暮時、霊夢は懐夢を連れて街へ戻ってきた。久々の懐夢との買い物で、霊夢はいつもの街を歩いているだけで気分が楽しくなってくるのを感じていた。
街行く人々は昼時よりも多かった。その大半が買い物袋を肩から下げたり、手に持っていたりしたので、夕飯のための買い物客がほとんどである事が簡単に把握できた。
行き交う人々の隙間から建物の方を見てみれば、昼間にはなかった屋台がずらりと出ていて、そこで商人達が頻りに声を掛け合いながら野菜と肉を中華鍋で炒めたり、肉を串に刺したものを七輪の上に数本並べて焼いたり、油で肉や野菜を揚げたりしている。
中には懐夢くらいの少年が屋台の厨房に立って鶏肉を焼いているものもあって、霊夢はそれを立ち止まって注視した。狐色に焼けた皮とその内側にある肉から脂が滴っている光景と、それらから煙と一緒に漂ってくる香ばしい匂いを嗅ぐだけで、お腹が鳴ってしまいそうだった。
霊夢は歩みを再開して、呟いた。
「流石夕方の街ね。いろんなところからいい匂いがしてくる」
霊夢は懐夢へ視線を向けた。懐夢は腹部を抑え、顔を少し赤くしていた。
「懐夢?」
懐夢はぎこちなく問うた。
「聞こえた?」
霊夢は首を傾げた。
「え? 何が?」
懐夢は小さく言った。
「屋台からする色んな匂い嗅いでたら、お腹鳴っちゃった」
霊夢は思わず吹き出した。懐夢は人間と妖怪の間に生まれた所謂『半妖』であり、嗅覚が自分よりも優れている。だから、自分よりもいい匂いを沢山嗅ぎ取ってしまって、お腹を鳴らしてしまったのだ。
「よしよし、さっさと買い物を済ませてご飯にしましょう。丁度私も同じような感じだしね」
苦笑いして言った直後、霊夢は懐夢の背中を見てはっとした。懐夢はただの買い物だというのに背中に太刀を背負っていた。あれだけの刀だから、相当な重さにであるはず。疲れないのだろうか。
刀が気になって、霊夢は懐夢にもう一度話しかけた。
「懐夢、背中のそれ、下ろして来なかったのね」
懐夢は頷いた。
「だってぼくは霊夢を守るのが役目だもん。いつ戦いになっても対応できるようにしておかなきゃいけないよ」
霊夢は困り顔になった。
前まではそうではなかったけど、今の幻想郷はいつ異変が起きて街が危機を迎え、戦闘になるかわからない緊張状態が続いている有様だ。だから懐夢のように武器を常備しているのはいいことだと言えるのだが、霊夢はそれが悲しかった。
武器を常備しているのがいい事というのは、今の幻想郷は武器を常備していなければ危険きわまりないという状況におかれているという事を意味する。異変が起きていなくとも、常に異変に晒されているようなものだ。――この幻想郷のどこを探しても安息の地はないのだ。
霊夢は軽く溜息を吐いた後、空を眺めた。すっかり夏の色から秋の色へ変化した夕日に染まる空だった。
「それは結構だけど……こうなってしまったのも心苦しい事ね。八俣遠呂智の異変が終わってようやく元の平和が訪れたと思ったのに、またこれだもの」
霊夢は懐夢をもう一度見つめた。
「貴方が刀を下ろして歩ける日が、早く来るといいわね」
懐夢は首を横に振った。
「多分ないと思う。自分と守るべき相手の身を守る武器はどんな時でも持っておかなければならないって、紫師匠に教わったんだ」
霊夢は頭を軽くくしゃっと掻いた。やれやれ、紫はそんな事を教えてしまったのかと思った。まぁ自分を異変や危険から守るために育てたのだから当然と言えば当然なのかもしれないが、どこか腑に落ちなかった。
「そう。それじゃあ早く買い物を済ませて帰りましょう。早く貴方が背中から刀を下ろせるように」
懐夢はどこか不安そうな表情を浮かべた。
「霊夢は、嫌なの?」
霊夢は首を傾げて、懐夢を見直した。
「なにが?」
「ぼくがこうして刀を持ってるの、霊夢は嫌なの?」
霊夢は顰め面をした。
「そういう話は帰ってからにしましょう。今は買い物に来てるんだから。ほら、隣に来なさい」
霊夢が表情を和らげて手招きすると、懐夢は頷いて歩みを速めて霊夢の隣に並び、ほとんど同じ歩調で歩いた。
しばらく歩いていると、肉屋に辿り着いた。様々な種類の食肉が売られている、いつもの店だ。鼻を利かせれば薄らと肉の匂いがしてくる。
商品棚をじっと眺めている霊夢を横目で見ながら、懐夢は口を開いた。
「霊夢、今日は何のお肉を買うの? 鹿肉?」
霊夢は商品棚に目を向けたまま小さく呟いた。
「牛肉」
懐夢は目を丸くした。牛肉といえばお祝い事やお祭りの時、大宴会の時のような基本的に特別な時しか食べる事が出来ないくらいに高価なものだ。まぁそれは八俣遠呂智の異変が始まる前の話で、八俣遠呂智を倒して幻想郷の危機を救い、報酬金と生活費といったお金をたんまりともらった今となっては牛肉を買う事は難しい事ではないし、手を延ばす事の出来ないものでもない。
しかし霊夢には八俣遠呂智の異変の前の節約癖が根強く残っているらしく、どんなにお金に余裕があろうと、財布に入りきらないほどの金があろうとも高価なものには手を伸ばそうとしない。結果として、自分や霊夢が牛肉を口にする事はほとんどなかったのだ。
その名前が節約癖のある霊夢の口から蛙のように飛び出したものだから、懐夢は思わず驚いてしまった。
「牛肉!? え、なんでまた!?」
霊夢は顔に微笑みを浮かべて、懐夢を横目で見た。
「今日は私にとって特別な日なのよ」
懐夢は首を傾げた。
「え、何かあったっけ?」
霊夢はふふんと言って、懐夢から目を逸らし、前を向きなおした。
「帰ってご飯食べてお風呂に入り、寝る前になったら教えてあげるわ」
霊夢はそう言って、肉屋の中へ入って行った。懐夢もまた、その後を追うように肉屋の中へ入り込んだ。
*
霊夢と懐夢は肉屋から出た後、街の出口へ向かっていた。
野菜などは既に冷蔵庫の中に保管されていたから、八百屋に寄る必要がなかったのだ。
「買い物はこれで終わりだよね霊夢?」
懐夢がそう声をかけると、霊夢は首を横に振った。
「まだよ。一軒だけ寄りたいところがあるの」
「どこなの?」
霊夢はふふんと笑んだ。
「それは着いてのお楽しみよ」
懐夢は機嫌がよさそうな霊夢を横目に見ながら、霊夢の行きたい場所を頭の中で考え、歩き続けた。
しばらく歩いていると、霊夢はある店の前で立ち止まった。どこの前に止まったのだろうと思って目を向けてみると、そこは茶屋だった。そう、いつもお茶や茶菓子を買っているおなじみの茶屋だ。
「ここ、お茶屋さんだよね」
懐夢が呟くと、霊夢は頷いた。
「そうよ。今回はここ寄っておしまい」
「お茶でもなくなったの?」
「はずれ。さ、中に入りましょう」
そう言ってから、霊夢は手を差し伸ばしてきた。懐夢はきょとんとして霊夢を見たが、霊夢の微笑みの浮かんだ穏やかな表情を見るなり、霊夢の考えている事がわかった気がした。これは多分、「手を繋ぎましょう」という意思表示だ。
懐夢は自分の手を軽く見つめた後、にっこりと顔に笑みを浮かべて霊夢の手を取った。そしてそのままぎゅっと握りしめると、霊夢の優しい温もりと柔らかな感触が手を包み込むのを感じられた。
懐夢は霊夢の手を軽く見てから、霊夢の顔を見た。霊夢の顔には嬉しそうな微笑みが浮かべられている。どうやら考えていた事は当たっていたようだ。
大蛇里にいた時は母や父とこんなふうに手を繋いで歩いていたが、霊夢と手を繋いで歩くのは初めてだ。そう考えた時、懐夢は胸の中に照れくささと嬉しさ、新鮮さが混ざり合った不思議な気持ちが湧いてくるのを感じた。
直後、霊夢が声をかけてきた。
「さ、入るわよ懐夢」
懐夢が元気良く頷くと、霊夢は懐夢の手を引いたまま茶屋の中へ入り込んだ。
茶屋の中に入ると、まず最初に店のあちこちからする茶のいい匂いと菓子の甘い匂いが鼻を突いた。周囲には茶を買いに来たと思われる客達が、茶の入った袋を手に取って眺めたり、良い匂いのする茶菓子を手に取ったりしていて、その中に紛れるように店員が商品棚に品物を並べたり、並びを整えたりしている。
霊夢は手を繋いでいる懐夢の顔を見た。懐夢は辺りをそわそわしながら見ていたが、やがて視線をある一点で固定した。懐夢の目線の先にあるものを確認して、霊夢はやはりなと思って苦笑いした。懐夢の目を止めさせたのは、他でもない団子だった。串に四粒刺さっていて、その上に漉し餡が乗せられている、素直で飾り気のない形のものだ。
懐夢が餡子の団子に目線を向けたまま動かなくなっているのを見ただけで、懐夢が団子を食べたがっている事を霊夢は把握できた。きっと修行中、あぁいうものを食べれないでいたのだろう。
かと思いきや、懐夢は目線を団子に向けたまま声をかけてきた。
「ねぇ霊夢、何を買うの? お茶? お茶菓子?」
霊夢は答えず、店員に声をかけた。
「すみません、漉し餡団子を四本ください」
懐夢は驚いたような顔になった。
「えぇっ?」
霊夢は懐夢と顔を合わせた。
「ほんと、貴方はわかりやすいわね。お団子、食べたいんでしょう?」
「なんでわかったの?」
「顔と見てる場所で丸わかりよ。顔なんか、お団子が食べたいって、声を出さないで叫んでたわ」
懐夢は手で自分の顔を触ってから、顔を少し紅くした。
「ほんとに? ほんとにそんな顔してたの?」
「えぇ。まぁ、貴方がそんな顔をしなくても、これを買うつもりだったんだけどね」
懐夢はまた吃驚したような顔になった。
「お団子を買うつもりで、ここに来たの?」
「そうよ。ここのお団子は美味しいからね。貴方も好きでしょう?」
懐夢は頷いた。
「うん、大好きだよ」
「そうでしょ。だから、ここに寄ったのよ」
そう言うと、先程まで商品棚に商品を乗せる作業を行っていた店員が、霊夢の言った漉し餡の乗った団子が入った入れ物を持ってきた。
「こちらですね。四本で三百円になります」
霊夢は懐から財布を取出し、小銭入れを開いて中から百円玉を三枚取り出して店員に手渡し、店員の持っていた漉し餡団子を受け取り、買い物袋の中へゆっくりと入れた。かと思いきや、懐夢がそっと買い物袋の中を覗き込んだものだから、霊夢は苦笑いしてしまった。
「ご飯の後に、一緒に食べましょう」
懐夢は顔を上げ、頷いてからにっこりと笑んだ。その後、霊夢は懐夢と手を繋いだまま、店の外へ出て、やがて街を出た。
そして博麗神社に帰ってくると、台所へ向かい、買い物袋をテーブルの上に乗せて、霊夢は溜息を吐いた。直後、懐夢が買い物袋を見つめる霊夢へ声をかけた。
「おかあさんの料理を作るんだっけ?」
霊夢は頷いた。
「そうよ。レシピならメモに取ってあるから大丈夫。蒸し鍋を用意して頂戴」
懐夢は「はい」と言って蒸し料理用の鍋を棚から取出し、ガスコンロの上に置いた。
それに続いて霊夢は冷蔵庫の中に保管しておいた玉葱、葱、大根、人参といった野菜、豆腐を取り出して一旦テーブルの上に置くと、流し台に置いておいた俎板を手に取って調理台へ移した。
続けて、霊夢は調味料などを置いている棚へ手を伸ばし、蒸し料理に使う酒と味醂の入った小瓶、砂糖と香辛料が混ぜられている味噌の入った容器を取り出して、懐夢の用意してくれた鍋の横に置いた。
それを隣で見ていた懐夢が声をかけてきた。
「前作った時は玉葱を使ったよね?」
霊夢は頷いた。
「そうよ。前みたいに玉葱を切ってくれるかしら」
懐夢は「はーい」と言って調理台へ向かった。
その後ろ姿を見て、霊夢は以前の事を思い出した。以前、懐夢にこうやって玉葱を切るのを任せたのだが、その時の懐夢ときたら切ってる最中に目の痛みに悲鳴を上げて、切り終わった時には目を真っ赤に腫れさせていた。
しかし、今回は大丈夫だ。何故ならば、玉葱は冷蔵庫で冷やしてから切ると、目が痛くならないのだ。これを教えてくれたのは冷蔵庫を所有している霖之助で、その時は半信半疑だったが、やってみたら本当に目が痛くならなかったから驚いた。
しばらくすると、とん、とんという包丁が俎板にぶつかると音と、さく、さくっという玉葱が切られる音が聞こえてきた。懐夢は順調に玉葱を調理できているようだ。
かと思いきや、懐夢が首を傾げた。
「あれ、霊夢、この玉葱変だよ?」
霊夢はきょとんとした。
「え? 何が?」
懐夢は手を止めて振り向いた。目は赤くなっていない。
「この玉葱、切っても目が痛くならないんだもん」
霊夢は苦笑いしてから、懐夢の隣に並んだ。
「そうでしょう。その玉葱には目が痛くならないやり方を施しておいたからね。切りやすいでしょ」
懐夢は驚いたような顔になった。
「えぇっ、そんな方法あったの」
霊夢は頷いた。
「玉葱を一、二時間くらい冷蔵庫で冷やしておいたのよ。そうすれば目が痛くならないの。霖之助さんが教えてくれたんだけど、私も当初は
懐夢は「へぇー」と言った後、包丁を手早く進めて、あっという間に玉葱を刻んだ。
それを見て、霊夢はうんうんと二回頷いた後、テーブルの方に戻った。
「よし、出来たみたいね。それじゃあ、それをこっちに頂戴」
懐夢は頷いて、テーブルの上に俎板を置いた。
霊夢は俎板の上の玉葱を予め用意しておいた大皿の上に移し替えると、懐夢に味噌汁の具材にしようと用意した葱、人参、大根、豆腐を一口サイズに切ってくれと頼んだ。
懐夢は霊夢からの指示を承り、もう一度俎板を手に取って調理台へ置き、テーブルに戻って大根、人参、葱といった野菜類を抱えて調理台へ戻り、包丁を手に取り、とんとんという音を立てながら野菜類を切り始めた。
一方霊夢は鍋の中にメモに記されていた量の酒と味醂を入れると、買い物袋から牛肉を取り出し、包みを外して肉を鍋の中へ入れて、その上に懐夢の切った玉葱を散りばめ、調理味噌をメモに書かれていた適量垂らし、鍋をコンロ台の上に乗せ、火を付けた。あとは二十分蒸せば完成だ。
「これで、よし」
霊夢が呟くと、懐夢が味噌汁鍋を持って近寄ってきた。
「野菜切って水張っておいたよ」
霊夢は懐夢の手に持たれている味噌汁鍋の中を確認した。
人参、大根、葱と言った野菜の数々が鍋の中に沈んでいるのが見えた。張られている水も丁度いい量だ。
「ありがとう。それじゃあそれ、コンロ台の上に置いて頂戴」
懐夢は「わかった」と言って、コンロ台の上に味噌汁鍋を置き、霊夢と同じように火を付けた。
やがて水が煮えてくると、霊夢は棚から味噌の入った容器を取出し、用意しておいたお玉で適量掬い、味噌汁鍋の中に溶かして蓋をした。
これで、味噌汁と蒸し料理の調理は完了だ。
「さてと、あとは待つだけね」
霊夢は呟いて、隣に並んでいる懐夢を見た。懐夢はじっと鍋を見ていたが、視線を感じたのか、霊夢の方へ目を向けた。
「なぁに、霊夢」
霊夢は懐夢の声に一瞬だけきょとんとしてしまったが、すぐに首を横に振って苦笑いした。
「何でもないわ。ただ、貴方がこうして隣に立っているのも、料理をするのも、一緒にご飯を食べるのも一月ぶりなものだから」
霊夢は目線を正面へ向けて、胸の前で手を組んだ。
「一月ぶりなはずなのよ。そのはずなのに、一年ぶりくらいに、貴方に会ったような気がしてならないのよ」
懐夢はじっと霊夢を見ていた。霊夢の目は、目の前の壁ではなく、遥か遠くを見ているように見えた。
霊夢は続けた。
「そのくらいに、貴方がいない時間は長く感じられた。貴方がいない間は、藍と橙が補佐っていう形で傍にいてくれたけど、寂しく思わない時はなかったわ。……貴方は修行してたから、そんな事はなかったと思うけど」
懐夢は思わず、霊夢をまじまじと見つめた。直後に、日中に霊夢が言った言葉を思い出した。
――人前じゃあんまり言えないけど、私も貴方がない間、寂しかったのよ。
神社のどこを探しても貴方がいなくて、どんなに時間が経っても貴方が帰って来ないのが、
たまらなく寂しかったわ。しかも連絡も取れなかったから、貴方が死んじゃったんじゃない
かって思う時もあったのよ。貴方がいない間、寂しくて、不安で仕方がなかったわ――
自分が修行のために霊紗師匠と紫師匠のところにいた時、修行のない夜などには寂しさを感じる時があった。そういう時のために自分の髪型を霊夢や母と同じような形にして、気を晴らしていた。しかし、それでも寂しさが薄れなくて駄目な時だってあった。
そういう時は、それを察した紫師匠が撫でてくれたり、膝枕をしてくれたりして、構ってくれた。そういったもののおかげで、霊夢のいない寂しさをどうにか薄くする事が出来ていた。ずっと、修行に励む事が出来ていた。
しかし、霊夢にはそういうものがなかったのだ。霊夢は自分がいない寂しさを、一緒にいる藍と橙にも、他の誰にも、ほとんど打ち明けずに、誰にも頼ったり、甘えたりせずに、じっとただ我慢して、自分が帰ってくる日をこの神社で待っていたのだ。
そうわかると、懐夢は胸の中がひんやりとして、目の奥が熱く、鼻の奥がつんとしてくるのを感じた。
本当に、霊夢に悪い事をしてしまったと思った。修行をしている間、自分は霊夢に連絡をすることを拒んでいたが、もしそんな事をせずに、ちゃんと連絡をしていたら、霊夢の寂しさを少しくらい和らげる事だって出来ただろう。だが自分はそんな事を考えず、ただ霊夢の力になりたいと考えて修行に打ち込み続けてしまった。結果として、霊夢に長い間寂しい思いをさせてしまった。
「だからね、貴方がこうして隣にいるが、嬉し」
言いかけたその時、霊夢は少し重い何かが身体に寄りかかってきたような感じを覚えて、それがある方向を見た。いつの間にか、懐夢が自分の身体に抱き付いてきた。
霊夢は少し驚いて、懐夢に声をかけた。
「懐夢?」
懐夢はぎゅっと霊夢の身体を抱き締めて、くぐもった声で言った。
「ごめんなさい。本当に、ごめんなさい」
霊夢は「え?」と言った。
懐夢は続けた。
「ぼく、強くなるためなら神社からいきなりいなくなっても大丈夫だって思ってた。一月くらい神社を開けたって平気だって思ってた。
強くなって帰ってくれば、霊夢が吃驚して、すごく喜んでくれると思ってた」
懐夢は霊夢の服を掴んで握りしめた。
「でも、その間の事なんか全然考えてなかった。ぼくがいない事で霊夢がすごく寂しい思いをしてたなんて、全然思ってなかった」
懐夢は霊夢を抱く力を強くした。
「霊夢、ごめんなさい。勝手にいなくなったりして、本当にごめんなさい。
これからは、ずっと霊夢の傍にいるから。ずっと、霊夢の隣にいるから。もう、霊夢に寂しい思いなんかさせないから」
霊夢はじっと抱き付く懐夢を見て軽く溜息を吐いてから、懐夢の身体に手を回した。
「何よ、日中謝ったばかりじゃないの」
「もう一回謝りたくなったんだもん」
「そう」
霊夢は懐夢の頭をゆっくり、優しく撫でた。
「その約束、しっかり守って頂戴ね。私も、なるべく貴方の傍にいるようにするから」
そのまま、霊夢は小さく呟いた。
「……大好きよ、懐夢」
懐夢は霊夢の胸の中で頷いた。
「ぼくも大好きだよ、霊夢」
懐夢が言った後、二人はしばらく沈黙したが、やがて霊夢が懐夢の身体を離した。
「さてと、湿っぽい話はそろそろ終わりにしましょう。これからのご飯が美味しくなくなっちゃうわ。
一月ぶりの、一緒にご飯なんだから」
懐夢はうんと頷き、にっこりと笑んだ。
*
その頃、博麗神社の中庭に、人が一人立っていた。それは、霊夢の補佐を務めるために博麗神社に駐在していて、懐夢が帰ってきた事により紫の元へ戻っていたはずの、藍だった。
藍は、聴力を強化する術をかけて、霊夢と懐夢の声を聞いていた。
霊夢と懐夢の話は、実に穏やかで聞き心地のよい会話だったし、霊夢の声も実に優しくて穏やかなものだった。自分や橙と話す時に出すものとは、全く違っていた。きっと、懐夢がいる事によって出せるようなものなのだろう。
あの声を聞くと、懐夢と話している時だけ、霊夢が自分の知る霊夢と全く違う存在になっているような気がしてきて仕方がなかった。
(……それほどまでに大事か。
その時、藍は懐の中で何かが動くのを感じて、懐の中に手を入れて、動いている何かを取り出した。
藍の懐の中で動いていたものは、黒い紙で出来ていてで
この札は、近頃紫が開発した連絡用の札だ。書かれている文字は全て術式で、これに特殊な印と相手の名前を付け足す事によって、同じ札を持つ者と声の連絡が取れるものだ。
意味不明な文字がびっしり書かれているだけのように見えるが、その意味不明な文字の中に、一つだけ紫という大きな文字が出現している。――紫からの連絡だ。
藍は人差し指を札に乗せて、そのまま紫から教わった印を書いた。藍が指でなぞったところが碧色に光り、藍は耳元に札を近付けた。
「はい紫様、私ですが」
札から紫の声が聞こえてきた。
「藍、そっちはどんな調子?」
藍は博麗神社をちらと見た。
「何も変わりはありません。強いて言えば霊夢が懐夢が帰ってきた事により穏やかになっているような気がするくらいです」
「そう。それならいいのよ。早く帰還してきなさい」
藍は眉を寄せた。
「紫様、霊夢に疑問を抱かないのですか?」
「なにが?」
「霊夢が、懐夢とあぁ仲良くして、穏やかにやっているというのは……」
「えぇいいのよ。あれでいいのよ。だから貴方に霊夢の様子を見に行かせたんじゃないの。
それが確認できたならさっさと帰ってきなさい。せっかくのご飯が冷めてしまうわよ」
藍は「
すっかり日の暮れた幻想郷の空を、冷たくなった風を浴びながら駆けていると、藍は頭の中に紫の言っていた話と紫の役割の事が浮かび上がってくるの感じて、考え始めた。
紫は大賢者として特別な役割を課せられている。それは、幻想郷を覆う大結界、『博麗大結界』の管理とその責任者、管理者、守護者である幻想郷最強の存在、『博麗の巫女』の選別、視察、観察を行うというものだ。
ある時、街、村問わず『博麗の巫女』にふさわしき素養を持つ娘を選び出して、現『博麗の巫女』の元に預けさせて養育、教育させる。『博麗の巫女』は子育てにあまり悪印象を持たない傾向にあるうえに、大賢者達の支援があるので、喜んで子を育てる。
そして年月を経過させ、交代にふさわしき時が来たら、育てられた子に『博麗の力』を継承させる。その後を観察、視察しながら、十分なところまで教育し続けるというのが、紫の役割だ。いわば、紫は『博麗の巫女』の『監督』なのだ。
しかし、『博麗の巫女』を選び出し、共に育て、監督するうえで、絶対にやってはならない事がある。
それは、『博麗の巫女の血を残させない事』。即ち、『博麗の巫女』に子を作らせない事だ。
博麗の巫女が持つ力というのものは非常に強大なものだ。そして、その力を持つ者が娘を産んだ場合、非常に高い確率で『力』を継承した娘が生まれてくる。もしこの博麗の力を受け継いで生まれ来た娘が成長していく過程で更なる力を得て博麗の力を進化させた場合、大賢者達の制御から外れて手に負えない存在となる可能性が出てくる。そしてその力が何らかの過程で暴走し、『暴力』へと変わった場合、何もかもを滅ぼす『災厄』そのものへと変化してしまう。そうなってしまえば、もう手遅れだ。
博麗の力、及びそれを扱う『博麗の巫女』というのは、幻想郷の全てを維持し、管理するための
だが、幻想郷を脅かす存在だって、生まれ来た
それを防ぐが為に、博麗の巫女は外界からほぼ完全に隔離された博麗神社という
まさに、透明で不可視の鳥籠の中に閉じ込められた鳥のような存在。それこそが、『博麗の巫女』の姿だ。
(そうでなければならないのだ。だが……)
博麗懐夢。霊夢と養子関係という深い関係を作ってしまった懐夢。
彼は様々な
きっと、懐夢は博麗の巫女がどのような存在であるのか知らないのだろう。懐夢の目には、霊夢が
いや、もしかしたら霊夢と出会った時から、懐夢の目には
そして懐夢は、霊夢に多大な影響を及ぼして、霊夢を、『博麗の巫女の規範から大きく外れた博麗の巫女』にしてしまっているのだ。
以前の霊夢は、他の者達に対して大して興味を示さず、無感情のように接し、感情を露わにせず、人間、妖怪、半妖、神問わず、隔てなく接する博麗の巫女の規範に沿う形の巫女だった。
しかし今の霊夢ときたらその真逆だ。懐夢という少年を大事に思い、感情を露わにして過ごし、かつて異変を起こした者達と友達関係を作って楽しく過ごして、今なんか懐夢が帰ってきた事に歓喜して懐夢を抱き締めていた。明らかに、博麗の巫女の規範から外れてしまっている。
これは、幻想郷の大賢者達からすれば顔が蒼くなるくらいの非常事態だ。どうにかして解決しなければならない出来事のはずだ。……にもかかわらず、大賢者達は何も言わず、ただ霊夢の観察を続けて、普通に過ごしているだけだ。
気になって紫に尋ねてみたが、紫は「大丈夫。あれでいいのよ」といって観察を続けるだけだった。
(そもそも……)
博麗の巫女の規範というのは、規範が作られる前にとある博麗の巫女が博麗の力を暴力にし、大賢者達や幻想郷を脅かす存在と化したという、紫曰く『惨劇』が原因で作り出されたものだという話だ。規範を作り、博麗の巫女をその規範に当てはまる形にする事によって、その惨劇が再発する事を完全に防止する。それが、惨劇を経験した大賢者達が弾き出した答えであり、惨劇を起こさず、幻想郷を護っていく唯一の手段だったのだ。
――その規範から、霊夢は外れている。なのに、紫は霊夢に何も言わないし止めようともしない。そればかりか、他の大賢者達すらも何も言わない。
(博麗の巫女を規範に沿う形にさせるのが、惨劇を起こさせない手段……)
霊夢にそれをさせないというのは、一体何故だ。
もう一度惨劇というものが繰り返されてもいいと言うのか。
博麗の巫女を規範に沿わせないのは、惨劇を招く事になるのではないのか。
「紫様……貴方は」
藍は空を見上げて口を開いた。
「もう一度、『災いの巫女』を生み出す罪を犯そうというのでしょうか」