霊夢が瘴気の竜に襲われようとしたその時、瘴気の竜は突然どこかに吹っ飛ばされる形で姿を消した。
あまりに突然の事で、何が起きたのか理解できずに霊夢は辺りを見回し、その中で上空を見て、驚いた。そこには六枚の鷲のそれのような形をした巨大な白銀ぼ翼を羽ばたかせ、首筋から半透明の空色の羽衣のようなものを何枚も生やし、まるで人の髪の毛のような性質で蒼色が少し混ざった白色の鬣を生やした白金色の巨大な狼が空を駆けていたのだ。その姿を見て、霊夢は思わず呟いた。
「……神……獣……?」
今自分の上空を駆けている巨大な狼は、早苗が見せてくれた絵本に登場する神獣の姿によく似ている。もしかして、早苗と仲が良くて、今早苗が探している神獣とは、今空を駆けている翼の生えた巨大な狼ではないだろうか。
(いや、でも……)
早苗が言う神獣は、翼の数は二枚で、羽衣の数も同じく二枚で、人の髪の毛のような蒼色が少し混ざった白色の鬣を生やしていなかった気がする。早苗の言う神獣と今上空を駆けている神獣と思われる巨大な狼は、明らかに差があり過ぎている。あの狼は、きっと早苗の言う神獣とは違う存在なのだろう。
……だとすれば、あれは何なのだろう。
動物の姿をしている新手の神だろうか。
狼の形をしている新種の妖怪だろうか。
どうして、自分の事を助けてくれたのだろうか。
考えていたその時、白狼は自分の目の前の上空に静止した。そしてその大きな翼を羽ばたかせて宙に浮きながらゆっくりと方向転換し、身体をこちらの方へ向けて、目を合わせてきた。
(ッ!!)
白狼と目が合わさったその時霊夢は思わずびくりと反応を示して、今にも襲い掛かってくるのではないかと思って警戒したが、すぐにきょとんとして警戒を解いた。白狼が今にもこちらに襲いかかろうとしているような、『狩りの表情』をしていなかったからだ。そればかりか、自分が全く身動きが取れず隙だらけになっていても、狼は全く襲いかかろうとせず、こちらと目を合わせながらただ翼を羽ばたかせて宙に浮かんでいるだけだ。
(何よ……襲わないの……?)
霊夢が思ったその時、巨大な白狼は上を向いて、大きな声を出して咆哮した。その音はまるで指笛のように甲高く、ものすごく大きかったが、耳をふさぎたくなるような事はなかった。
巨大な白狼は咆哮をやめると背中より生える六枚の翼を思い切り広げ、目の前を思い切り仰いだ。
「!?」
翼を持つ者は目の前を仰ぐ事によって前方へ微弱な風を吹かせる事が出来るが、この白狼のはその翼の大きさとその数によるものなのか、暴風となって霊夢へ向かってきた。そしてその暴風が霊夢の元へ到達すると、霊夢は目を覆ったが、その時風を感じ取って、ある事に気付いた。
(あれ……これってさっき吹いてきた風と同じ……?)
今狼が吹かせた風は、先程街を覆っていた瘴気を吹き飛ばした風によく似ている。いや、ほとんど同じだ。
(あの時の風の正体は……まさか、あいつ!?)
心の中で呟いたその直後、霊夢は身体に違和感を感じた。
……身体の痛みが消えて行っている。まるで、身体中の怪我が瞬時に治っていっているような感覚だ。霊夢はどういう事かと思い、自分の身体を見て驚いた。傷が、本当に瞬く間に消えて行っているのだ。あたかも、誰かが回復術をこっちにかけて、身体を回復させてくれているような……。
(どういう事……? 私達以外に術者が?)
霊夢はもう一度辺りを見回して、自分に術をかけている者が居るかどうか探した。しかしどこを見てもそんな物の姿は見えないし、気配すらも感じなかった。いったいどういう事なのだろうかと思い、ふと上空を見ようと首を動かしたその時、霊夢の中に一筋の光が走った。
(まさか!)
霊夢は上空を飛ぶ巨大な白狼を見た。
この回復術のようなものは、先程と同じように暴風の後に来た。最初は誰かが自分達にかけてくれているのだと思ったが、その人物は見当たらないし気配も感じない。更に自分以外の仲間は全て気を失っていて、今行動できているのは自分とあの白狼だけだ。そして、自分はこれほど高度な回復術はまだ取得できてないし、第一術も発動させていない。この状況から導かれる結論は、ただ一つだ。
(術者は……あいつ!?)
あの白狼だ。あの白狼が、この術を使って自分達の怪我を治したに違いない。というか、それ以外に考えられない。
……だが、だとすればそれは何故だろうか。どうして、あの白狼は自分達を助けようとするのだろうか。というか、あれは一体何なのだろうか。何のためにここに現れ、何の為にあの瘴気の竜を吹っ飛ばし、何のために自分達に向けて回復術をかけてくれたというのだろうか。どんなに考えても答えは出なかったが、空に浮く白狼の視線の先を見て、霊夢はある事に気付いた。
あの白狼、自分の事を見ていないでずっと自分の背後の方に視線を向けている。あれがそこを見ているという事は、自分の背後の方に何かがあるという事なのだろう。
「何が……」
思わず振り返って、霊夢は目を少し見開いた。そこでは瘴気の竜に攻撃されて地面へ落とされたと思われる早苗が倒れていた。だがあの白狼の放つ術に治されたのか、傷はなくなっている。
「早苗……? なんで……?」
霊夢はもう一度白狼の方を見て、驚いた。
……あの白狼、微笑んでいる。それも早苗の事を見て、だ。自分を見ている時はあんな顔をする事はなかったというのに、早苗を見て微笑んでいる。
白狼の顔を見ていると、霊夢の頭の中を何かが過った。それは、この前早苗が話してくれた神獣の話だ。早苗によれば、神獣は早苗と初めて会った時は事故から早苗を助け、顔を合わせて、早苗が安全である事を確認すると微笑んだらしい。
そしてあの白狼もまた、気絶しているものの傷が治っている早苗の姿を見てその顔に微笑みを浮かべている。
(いや? 待てよ……)
霊夢は咄嗟にあの時瘴気を吹き飛ばした暴風の事を思い出した。
あの暴風と、今あの白狼が吹かせた暴風はほぼ同じものだった。恐らくあの暴風もあの白狼が起こした物だったのだろう。
だが、問題点はそこではなく、あの暴風が起きたタイミングだ。あの暴風が起きる直前、瘴気に侵された早苗が限界を迎え、地面に倒れた。突然早苗が倒れた事に自分達がその事に焦ったその時に指笛のような甲高い音と、あの暴風が来た。まるで、早苗が倒れたのを見計らったかのように。
そして今、自分達に襲いかかる瘴気の竜を攻撃して吹っ飛ばし、自分達に回復術をかけてくれ、早苗の怪我が治った事を確認して微笑んだ。
「あんたまさか……早苗の言ってる神獣だっていうの……?」
ここまで来てしまえば間違いない。あの白狼は……早苗の言う神獣だ!
霊夢は身体に力を入れて立ち上がろうとした。回復術をかけられたおかげなのか、先程の鈍い痛みが嘘のように消えていて、すんなりと起き上がって立つ事が出来、霊夢は早苗に駆け寄り、その身体を揺さぶって声をかけた。
「早苗! 起きなさい早苗!!」
早苗は反応を示さない。
霊夢は上空を飛ぶ神獣と地に倒れる早苗を交互に見ながら早苗に大きな声を出して呼びかけた。
「早苗! ほら神獣! あんたの求めてる神獣があんたを助けに来たわよ!!」
早苗は一向に目を覚まそうとしなかった。よほど深く気を失ってしまっているようだ。
「早苗! 早苗ってば!!」
再度声をかけたその時、耳に指笛のように甲高い音が届いた。それは、神獣の声だった。
神獣の声を聞いて、霊夢がその方を見た次の瞬間、神獣はその大きな六枚の翼を羽ばたかせ、身体を北の方へ向けて、飛び立っていってしまった。
「あ! こら待ちなさい神獣!!」
思わず声をかけたその時、今の神獣の声とは打って変わって小さな声が聞こえてきた。その方を見てみれば、そこには顔を顰めた早苗の姿があった。早苗は口をわずかに開けて、声を出している。
「早苗!」
霊夢がもう一度声をかけると、早苗はゆっくりと瞼を開け、目を動かして霊夢を視界へ入れた。
「……霊夢……さん……」
霊夢は顰め面をした。
「馬ッ鹿……何でもっと早く目を覚まさないのよ……!」
「へ……?」
「あんたが気を失ってる間に」
霊夢が言おうとしたその時、どこからかまた声が聞こえてきた。
「霊夢―――!!」
霊夢は言葉を区切り、その方向を見た。そこには、魔理沙、咲夜、妖夢、にとりの姿があり、四人はこちらに向かって走ってきていた。
「皆……」
四人が霊夢の元へ到着するとほぼ同時に早苗も身体を起こして、霊夢を見つめた。
そのうち、魔理沙が二人へ尋ねた。
「霊夢に早苗、無事だったんだな」
霊夢は頷いた。
「なんとかね。でも早苗は今起きたばかりのところよ」
魔理沙は「そうか」と呟き、続けて咲夜が言った。
「それにしても、一体何が起きたというの?」
妖夢が続く。
「本当だよ。目を覚ましたらあの竜によって負わされた傷が全て治って無くなっていたぞ」
にとりが霊夢に尋ねる。
「霊夢、治癒術使えるよね? 霊夢が私達に術をかけてくれたの?」
霊夢は首を横に振った。
「違うわ……あんた達が来る前に去っていった奴が私達に回復術をかけてくれたのよ」
魔理沙が目を少し見開いて霊夢に尋ねる。
「誰だそれは? 霊夢の危機ってんだから、紫か? それとも他の大賢者達か?」
霊夢は魔理沙の問いかけには答えず、早苗の方へ顔を向けた。
「早苗、聞いても飛び出すんじゃないわよ」
早苗は首を傾げた。
「……何なんですか? どうして私を指名するんですか」
霊夢はゆっくりと目を閉じ、しばらく黙った後目を開き、やがて口も開いた。
「私達を助けてくれたのは……あんたのいう神獣よ」
早苗は目を見開き、顔に驚いたような表情を浮かべた。
「な……神獣様が私達を助けに!? っていうか、この場に神獣様が来てたんですか!?」
霊夢は頷いた。
「というよりも、上空に。そして私達を助けるために来たっていうけど、正確には
早苗は少し俯いた。
「私を……助けに……?」
魔理沙が顔を顰める。
「って事は早苗が優先で私達はついでかよ!」
霊夢が額に手を伸ばし、人差し指と中指を立てて当てた。
「そのようよ。私の事も見ていたような気がするけど、早苗最優先だった事は間違いなかったみたい」
三人が話を進める中、黙ってそれを聞いていた咲夜と妖夢とにとりが口を開いた。
「神獣……神獣って?」
「神獣とはなんだ?」
「しんじゅう? どんな漢字書くの? 神に獣?」
霊夢は手を戻して三人の方を見た。
「そういえばあんた達は何も知らなかったわね。神獣ってのは神に獣って書いて……」
霊夢が説明を始めようとしたその時、それまで説明を聞こうとしていた妖夢が背後からの物音に気付き、素早く振り返った。そこは広間で、傷だらけになり、瘴気を身体から漏らしながらゆらゆらと歩いている瘴気の竜の姿があった。
瘴気の竜の出現には他の者達もすぐに気付き、いつでも交戦できるように素早く立ち上がり、身構えたが、同時に驚き、咲夜が言った。
「あいつ、いつの間にあんなダメージを?」
霊夢が答える。
「神獣がやったのよ。早苗を助けた時に神獣が……」
霊夢は途中で瘴気の竜の身体に異変が起きている事に気付き、言葉を止めた。
……よく見ないと気付かないが、瘴気の竜から溢れ出る瘴気に混ざって、蒼白い色の霧のようなオーラが出ている。
(あれって……)
リグルが蟲の竜になり、瀕死状態に陥った時と同じだ。あの竜もまた、死に際に蒼白い色のオーラを出していた。そしてこの竜も今、あの時と同じように蒼白い色のオーラを身体から出している。―――蟲の竜といいあの瘴気の竜といい、あれは一体何なのだろうか。
「考えてる場合じゃないか」
霊夢は首を横に振った。直後、魔理沙が話しかけてきた。
「どうなったかはよくわからないけど、どうやらあいつを倒すチャンスみたいだな! 霊夢、どうする!?」
霊夢は魔理沙に言われるまま瘴気の竜の身体を再度確認した。瘴気の竜の身体は神獣に余程強力な攻撃を仕掛けられたのか、傷だらけで、身を守るための甲殻は全てはがされ、翡翠色の鬣が露出し、露出した皮膚から瘴気を噴出させているが、その勢いは先程と比べてかなり小さくなっている。それに息も荒々しい、足取りもふらついている。恐らくもう攻撃する力も残っていないのだろう。
魔理沙の言うとおり、今こそあいつを倒し、この異変を終わらせるチャンスだ。
霊夢は考えをまとめると、一同に声をかけた。
「皆! 見ればわかると思うけど、あいつはもう完全に弱ってる。魔理沙の言うとおり、今があいつを仕留めるチャンスよ!」
妖夢が答える。
「それはわかっている! だがどう攻撃する? やはりスペルカードか?」
霊夢はフッと笑い、もう一度皆に声をかけた。
「それ以外に何があるのよ。
さぁ、甲殻を砕いた時みたいに一斉に最大出力のスペルカードをぶつけて、あいつを仕留めるわよ!」
指示を下した霊夢と指示を受けた一同は一斉に上空へ飛び上がり、散らばると瘴気の竜を砕いた時のように高出力のスペルカードを発動させる構えを取った。そして対して動けない瘴気の竜に向かい、一斉にスペルカードを発動させた。
「神霊「夢想封印」!!」
「魔砲「ファイナルスパーク」!!」
「秘法「九字刺し」!!」
「幻世「ザ・ワールド」!!」
「断霊剣「成仏得脱斬」!!」
「水符「河童の幻想大瀑布」!!」
七色に輝く先程よりも巨大な光弾、先程よりも極太のレーザー光線、鋭い光と雷撃、先程よりもその数を増した無数のナイフ、二本の刀より繰り出された巨大な剣撃、怒涛のような洪水がそれぞれ霊夢、魔理沙、早苗、咲夜、妖夢、にとりのスペルカードの発動によって一斉に放たれ、そしてそれらは一目散に弱った瘴気の竜の元へ向かい、瘴気の竜を呑み込むと、大爆発を引き起こした。
爆炎の中から瘴気の竜の断末魔と思われる声が聞こえてきたのを霊夢が感じ取ったその時。瘴気の竜を呑み込んだ爆炎の中から黒い何かが飛び出し、霊夢の元へ高速で向かってきた。刹那、それが何なのかを確認してみたところ、瘴気の竜がその口より放っていた濃縮された瘴気弾だった。
「!!」
霊夢は咄嗟に迫り来た瘴気弾を回避しようと動いた。しかし、その速度を瘴気弾は上回り、瘴気弾は霊夢の身体に突っ込み、破裂。瘴気を撒き散らして霊夢の身体を包み込んだ。
「かっ……」
胸部に瘴気弾の直撃を受け、肺を圧迫された霊夢は息を思い切り吐き出し、吸った。その際、瘴気の竜がその身体より発する超高濃度の瘴気を諸に吸い込み、肺の中に入れてしまった。
「あッ……」
先程まではにとりの開発したマスクを付けていたから呼吸をしても大丈夫だった。しかし今は違う。今の状態で、素の状態であのような超高濃度の瘴気など吸ってしまったら一溜りもない。……それを、今吸い込んでしまった。
肺の中に瘴気が侵入し広まった次の瞬間霊夢の身体に異変が起きた。
「うぐッ……!?」
身体から一気に力が抜け、霊夢は垂直に落下し地面に激突した。
他の者達は霊夢に瘴気弾が直撃したところで異変に気付き、地面へ落ちた霊夢を見て顔を青褪めさせ、一斉に叫んだ。
「霊夢!!」
一同は一斉に降下し着地、倒れた霊夢に駆け寄った。霊夢の顔は先程の早苗と同じくらい蒼褪めており、目を閉じ、胸を抑えながら苦しそうに呼吸をしていた。もはや意識があるかどうかも怪しいように見える。
そんな霊夢を見て、魔理沙が声をかけた。
「霊夢大丈夫か、しっかりしろ!!」
霊夢は答えられなかった。腹の奥から吐き気が、胸から胸焼けと息苦しさと咳が突き上げて来ていてまともに息を吸う事も吐く事も出来ず、声も出せない。手足は痺れて全く動かず、瞼に精一杯力を込めて開けば目の前はぐらぐらと揺れていて尚且つ歪んで見えて物の形などを正確にとらえる事が出来ず、頭の中で何種類、何万匹もの蝉が一斉に鳴いているような激しい耳鳴りがして、何の音も聞き取る事が出来なかった。やがて、目の前で銀色と金色と白金色の光がちかちかと光っているようなものが見えてきて、冷や汗が噴き出してきた。
「れ……いむ……っかり……し……」
耳に声が聞こえてきたが、耳鳴りのせいでそれが誰の声なのかわからなかった。
そればかりか、徐々に吐き気と息苦しさが強くなり、耳鳴りがどんどん大きくなっていく。
霊夢は必死に目を動かし、自分の事を見ていると思われる仲間達を見た。視界に映ったそれの形が酷く歪み、銀色、金色、白金色の輝いているのを見た途端、蝉の鳴き声のような耳鳴りはその激しさを増し、霊夢は闇の中へと転がり落ちた。
*
次に目を覚ますと、霊夢は真っ白で何もない部屋に座っていた。
壁も床も、全部真っ白なとてつもなく広い部屋だ。
いや、部屋というよりも空間だろうか。『色が白い空間』といえばいいのかもしれない。何故なら、壁が見えないのだ。
普通、どんなに床と壁の色を同じにしても境界線がわかるものだが、ここにはそれがない。更に光も影も見えない。これらが、ここが『部屋』ではなく『空間』であると霊夢に教えてくるのだ。
「どこ……ここ……」
立ち上がってみたところ、霊夢は違和感を感じた。今自分は両足の間に尻を落として座る座り方、『とんび座り』をしていたのだが、その状態から立ち上がると大抵服同士が擦れ、布の擦れる音が耳に届いてくる。しかし今立ち上がってみたところ、その音すらも聞こえてこなかった。どういう事なのかと自分の身体を見てみたところ、服を一枚も着ていない裸体になっていた。
霊夢は辺りを見回した。しかしどんなに見回しても何もないし、誰もいないし、気配すらも感じない。更に音を聞こうとしても風の音すらも聞こえない。
どうやら自分はこの空間に一人だけの状態でいるらしい。……いや、『自分以外の物質』がこの空間には存在していないと言った方がいいのかもしれない。
「私……一人……だけ……?」
―――自分は今、独りである。
それがわかった途端、霊夢は強い孤独感を感じた。いや、突然襲われたと言った方が正確かもしれない。
何もない空間に自分だけが存在しているという孤独感と寂しさ、辺りを染める白がまるで獲物の兎に巻き付き絞め殺そうとする大蛇のようになって身体と心に巻き付き、締め付けられているような感覚が容赦なく襲いかかってくる。身体はガタガタと震え、胸の鼓動も非常に大きくなっていて、もう心臓が喉元までせり上がってそこで脈打っているような錯覚すら感じる。いつだったか、前にもこんな恐怖と悲しさと寂しさに襲われた事があるが、その大きさは今の方が何倍も大きい。
「やだ……いや……いやぁぁ……」
誰か、誰かいないの
霊夢は裸の自らの身体を抱き締め、死の物狂いになって辺りを見回した。瞳から流れ出る大粒の涙のせいで目の前がぼやけて見えるが、それでもなお霊夢は辺りを見回し、誰かいないか、探した。
だがそこには白い空間が広がっているだけで何もない。誰も……いない。
「だれか……だれか……いやぁ……やだぁ……」
思わず泣き出しそうになったその時、ふと背後から足音が聞こえてきたのを感じた。何もないこの空間に閉じ込められてから初めて感じ取った音だったせいか、霊夢はすぐさまその音が聞こえてきた自らの背後を振り返った。
そこには、白と紅を基調とした巫女装束を身に纏い、長く艶々とした黒髪を大きなリボンで縛ってポニーテールにした20代半ばと思われる女性が一人立っていた。
その女性の姿を見て、霊夢は思わず目を見開いた。それは、
「お……かあ……さん……?」
あの時出て行ったまま帰って来なかった先代の博麗の巫女の、霊夢の母だった。
「おかあさん……!」
「母はとっくに死んでいる。だから今自分の目の前にいるのはまやかしだ」。
普段の自分ならこう考え、あの母に攻撃を仕掛けたりした事だろう。
だが今はそんな事を考えたりする余裕などない。いや、そんな事はどうだっていい。
この寂しさを消したい。
おかあさんに会いたい。
おかあさんに抱き付いて思い切り泣きたい。
もうあのおかあさんが本物であるかどうかなど、どうだっていい。
「おかあさん……おかあさんッ!! !」
霊夢は走り出し、母の元に辿り着くとその胸に飛び込み、抱き付くと、思い切り声を上げて泣いた。
母は霊夢がこうして胸に飛び込んで抱き付いて泣くと、背中に手を回して、撫でてくれる。しかし霊夢が抱き着いて泣こうとも、母の手は動かなかった。だが霊夢はそれを気にせず、泣き続けた。
寂しさ、悲しさ、怖さがだんだん和らいでいった。
その時だった。
突然、霊夢は床に倒れた。あまりに突然の事に霊夢は唖然として、状況を整理できず、しばらく動けなかった。そしてようやく動けるようになると、再度母の方を向いた。だが、そこにはゆっくり上に登りながらぼんやりと消えていく黒い光の球が数個あるだけで、母の姿などなかった。そこで霊夢は何故いきなり自分が倒れたのかを理解した。母が……消えたのだ。あの、黒い光の球になって。
それがわかった途端、霊夢は一心不乱になって、母だった黒い光の球へ手を伸ばし、掴み取ろうとした。
「いや……いやだ……きえないで……きえないでおかあさん」
しかし黒い光の球は霊夢の手をすり抜け、やがて消えた。
また、空間の中にいるのは霊夢だけとなった。
霊夢は両腕で頭を抱えて、その場に蹲った。
「いや……やだ……いやぁ……だれか……だれかぁ……」
心の中の、和らいでいた寂しさ、悲しさ、怖さがすぐに元の大きさに戻り、そればかりか更にその大きさを増した。
ぱんぱんに溜まった水が袋を破って外に出るように、心という袋が中に溜め込んだ寂しさ、悲しさ、怖さという泥水に内側から破られてしまいそうだった。
気が、狂いそうだ。
「……霊夢……」
その時、今度は声が聞こえてきた。
それは、とても聞きなれた声だった。毎日何度も聞いている……声だ。
霊夢は頭から腕を離すと、ゆっくりと声の聞こえてきた方を向いた。
そこには、懐夢の姿があった。
懐夢はその顔ににっこりと笑みを浮かべて、こちらを見ていた。
「……懐……夢……?」
霊夢は立ち上がると、何も考えず、一心不乱になって走り、やがて懐夢の元へ着くと懐夢の身体を思い切り抱き締めた。そしてその髪の毛に顔を埋め、思い切り声を上げて泣いた。
そうしていると、背中を何かが擦ってくれているのを感じた。それは間違いなく、懐夢の手だった。懐夢の手が自分の背中をゆっくり優しく撫でてくれているのだ。まるで、よしよしと言っているかのように。
背中を撫でられていると、寂しさ、悲しさ、怖さが小さくなり、安心感が心に広まるのを霊夢は感じた。やがて、霊夢は呟いた。
「……ずっと……一緒よ…………絶対……一緒……」
自分の胸の中で、懐夢が頷くのを霊夢は感じた。
その時だった。
どこからか音がした。ぴきぴきという、まるで硝子に皹が入るような音だった。
霊夢は何かと思い、顔を上げて辺りを見回した。
「なに……?」
霊夢が呟いた瞬間、がしゃんと辺りの空間の白がガラスのように割れて、辺りは一気に白から黒へと変わった。霊夢はあまりに突然の事に唖然としたが、身体に違和感を感じた。見てみれば、先程まで抱いていた懐夢の姿が無い。消えて、無くなっているのだ。
霊夢は戸惑い、辺りを見回した。
「懐夢……懐夢ッ!!」
どこを見ても懐夢の姿はなかった。
また一人に戻った。
空間内に自分以外の物質が無い状態に、戻ってしまった。
そうだと分かった途端、霊夢は脱力し、一番最初の時と同じようにとんび座りをした。
「あ……あぁ……」
黒い空間を見ると、消えそうになっていた例の感情が一気に元に戻り、更に先程よりも孤独感が大きくなり、鼓動は更にその大きさと速さを増した。
「お……かあ……さん……かい……む……」
霊夢は顔を両手で掴み、思った。
だれか
だれかそばにいて
だれかわたしのそばにいて
わたしをおいていかないで
わたしをおいてきえないで
だれかたすけて
だれかわたしをたすけて
わたしを
「ひとりにしないで――――――――――――――ッ!!」