翌日。
永琳が診察道具と薬箱を持って寺子屋へやって来た。
何故かというと、慧音が実際に永遠亭へ行って永琳を訪れ、事情を話したところ、永琳が「症状だけ言われても直接診なければ病名が分からないし、本当に病気してるなら診察無しで薬を与える事は出来ない。更に、それがこれまで発症した事ない病気によるものならば診なければ危ない」と言い出したからだ。
慧音はそれを聞いて頷いた。確かに薬をもらったとしても、その薬がその病気に効果を示さないものだったら薬をもらった意味がないし、それに彼女らの症状はまだ発生した事のない病気によるものである可能性もあるので、診せないでおくのは危険だろう。
慧音は永琳に従う事にし、本日、健康診断を開く事にした。
予定表にも書かれていなかった急な健康診断に学童達は戸惑っていたが、永琳の指示と診察により健康診断は円滑に進み、午前の学童達の診察は瞬く間に終わった。誰一人として、異常や病気を抱えている者は居なかった。
その診断結果を見て、永琳は軽く驚いた。
「へぇ~ッ、この街の子供達は健康的ね。風邪ひきさんとか、腰痛持ちとかいるんじゃないかと思ってたけど、誰も病気してないし腰痛も肩こりもしてない」
慧音は苦笑いした。
「そりゃそうだ。学童達は健康こそ売りみたいなものだからな。それに、子供で腰痛持ちや肩こり持ちはいないと思うぞ」
永琳は軽く首を傾げた。
「そうかしら? 私のところの輝夜は肩が凝りまくって酷いって言ってるんだけど」
「それはゲームという玩具で遊び過ぎてるのが原因なのでは」
永琳もまた苦笑いした。
「わかる? 妹紅と殺し合わない日は朝の四時近くまでやってるのよ」
「寝ないでやってるのか!」
「寝る暇も惜しいって言ってやってるみたいだからね。全く、『この惑星を侵略者から守るゲーム』のどこが面白いんだか。しかもずっと同じ姿勢でやってるから、肩が凝って当然よ」
直後、慧音が肩を軽く回した。
「そういえば、輝夜じゃないけど私も近頃肩の凝りを感じるな」
永琳は慧音の身体を舐めるように見て、答えた。
「ふむ……貴方の場合は職業柄、長時間の筆記によるものとその胸によるものね。ずっと同じ姿勢をして字を書いてるし、しかも胸が結構大きくて重いから、無駄に肩が凝るのよ」
慧音は思わず笑った。
「妹紅にも言われたよそれ。やはりこの胸が原因の一つなのか」
「まぁ胸が大きい体になってしまったからには、肩こりは逃れられない運命だから受け入れるべきね。たまに肩を誰かに揉んでもらうといいわ」
「そうするよ」
慧音が答えたその時、部屋の戸が開いて中に誰かが入って来た。
誰かと思ってその方を見てみたところ、それは大妖精を連れたチルノ、ルーミアを連れたミスティア、リグルを連れた懐夢だった。
慧音は立ち上がって六人の元へ駆けつけ、声をかけた。
「お前達、大丈夫か?」
チルノが焦りながら慧音に視線を向けた。
「先生どうしよう! 大ちゃん、昨日より酷くなってる!」
慧音はチルノと顔を合わせ、驚いたような表情を浮かべた。
「なんだと……!?」
続けて、懐夢とミスティアも焦ったように言った。
何でも、ミスティアがルーミアの元へ駆けつけた時、ルーミアは闇を大きくしたり小さくしたり、消したり出したりを繰り返していて、ここに来るまで何度もそれを繰り返したらしく、リグルに至っては発する言葉のほとんど片言で、ここに来るとき真っ直ぐ空を飛ぶ事もできなかったらしい。そしてここに入る時も、ふらふらとした足取りで今にも倒れてしまいそうだったそうだ。
それを聞いた永琳は険しい表情を浮かべ、少し下を向いて呟いた。
「能力の制御が不安定となり、まともに喋る事も飛ぶ事も出来ない……」
永琳は顔を上げた。
「危ないわ。すぐに診ましょう」
永琳は問題の三人に指示を与え、一列に並ばせると大妖精、リグル、ルーミアの順に霊夢の時と同じやり方をしてその身体を診た。
しかし、最初の大妖精の時点で永琳は驚いたような表情を浮かべて、手を止めた。
「嘘……?」
手を止めた永琳を見て、慧音は不思議そうに呟いた。
「どうした永琳。何か問題でもあったのか?」
永琳は答えず、もう一度大妖精の身体へ手を当てて目を閉じた。
その数秒後、永琳は目を開いたが、やはり同じような表情をした。
「……何故……?」
不可解なものに出くわしたような表情をする永琳に、懐夢が声をかけた。
「永琳先生、どうしたんですか?」
永琳はそれにすら答えず、大妖精を退けるとルーミア、リグルの身体にも同じ方法を施した。しかし、そのすぐまた後に同じような表情を浮かべて、首を何度も傾げた。
そのうち、チルノが永琳に痺れを切らしたように言った。
「永琳先生、どうなの? 大ちゃんとルーミアとリグル、どうなの?」
永琳はチルノ、懐夢、ミスティアをぐるっと見回した後、口を開いた。
「ねぇ貴方達、この子達がここに来るとき、本当にうまく飛べなかったりしたの? 能力が不安定だったりしたの?」
三人は顔を見合わせた後永琳の方を向き、頷いた。
永琳はもう一度聞き返した。
「本当に?」
三人はもう一度頷いた。
永琳は視線を問題の三人に戻し、顎に手を添えて何かを考えたような仕草をし、やがてその仕草をやめると懐から三本の鉛筆と三枚の紙を取り出して、ぽぁーっとしている三人に指示を下した。
「三人とも、ちょっと席に着いてくれる?」
三人は何も言わず、自分の席に着いた。
その後永琳は懐から三枚の紙と鉛筆を懐から取り出し、三人へ差し出した。
その紙には、名前を記入するための少し細長い欄と、自由に記入していい大きな欄が描かれていた。
直後、永琳は黒板の傍に置いてあるチョークを手に取り、黒板に『千年幻想郷』、『レプリカの恋』、『華鳥風月』という三つの言葉を描き、三人に指示を下した。
「三人とも、上の記入欄に自分の名前を書いて、下の大きな記入欄にここに書いた言葉を書き写してごらんなさい。書き終わったら、私に差し出して」
三人は何も言わず、何の仕草も返さないまま鉛筆を手に取り、黒板に書かれた言葉を書写し始めた。
三人を除く一同が不安そうに見つめる中、三人は黙々と書写を続け、そのうち大妖精が永琳に紙を差し出した。
「できました……」
永琳は紙を受け取り、その中身を諳んじたが、そこで目を丸くした。
大妖精の渡して来た紙は、名前の記入欄に指示した言葉が、その下の記入欄の株に名前が書かれており、書かれていた言葉も『れプりかのこイ』、『せんえげそうきぉ』、『かチョううげツ』と、漢字が一切書かれていないうえに脱字や誤字が頻繁に見られ、しかも平仮名と片仮名が混ざっているという支離滅裂な状態だった。
「な……何これ……」
永琳が呟いた直後、ルーミアとリグルも用紙を永琳に差し出してきた。二人共、書写が終わったらしい。
永琳はひとまず大妖精の用紙から目を離して、ルーミアとリグルの用紙を受け取り、同じように諳んじた。
そこで、また永琳はまた目を丸くした。
ルーミアの回答は、名前の記入欄、自由記入欄問わず文字が書かれており、文字そのものも何度か目を凝らす事でようやく読めてくるような汚いものになっていた。永琳はその中で感じらしき文字を探してみたが、一文字も漢字で書かれておらず、全て平仮名だった。
続けてリグルの回答も見たが、文字が限界まで崩れていて、文字として読む事が出来なかった。もはや、何が書いてあるのか、何を書こうとしていたのか全く分からなかった。
永琳は三人に声をかけた。
「貴方達、ちゃんと書写をしたの?」
三人は首を傾げた。どうやら永琳の言う事が理解できないらしい。
(私の言う事すらわからなくなってる……?)
永琳は顎に手を添えて考えた。
いま彼女らに起きているのは、重度の精神と記憶の障害だ。精神と記憶が酷く混乱してしまっているから、漢字を思い出せず、平仮名と肩中の区別がつかなくなったり、人の言う事が理解できないのだ。
けれど、これは基本的に脳に強い衝撃を受けたりした人間が起こすもので、妖怪がこれまで起こしたという記録は無い。つまり彼女らは、幻想郷の妖怪達の中で初めてこのような状態になったという事だ。
(……でも……)
実のところ、先程の診断の際彼女達から返ってきた波動は健康を示すパターンの波動だった。即ち、彼女達の身体にも脳にも、なんら異常は見られないという事だ。
永琳は自分の診断を疑った。
そのような事はあり得ないはずだ。こんな、精神と記憶の障害を起こしている彼女らが健康であるはずがない。普通ならば、脳が必ず異常を示す波動を返すはずだ。だのに何故か、彼女達の脳は健康を示す波動を返してきた。
こんなこと、あるわけがない。
「……どうした永琳」
考え込む永琳に慧音が声をかけた。
それに続いて、ミスティアも永琳に声をかけた。
「どうなんですか先生。三人は、大丈夫なんですか?」
永琳は顎から手を離し、ゆっくりと慧音達の元へ歩いた。
そして、慧音達の目の前まで来ると、今さっき三人から受け取った用紙を慧音へ差し出した。
「……これを見て頂戴。あそこの言葉をあの三人が書写したものよ」
慧音は三つの用紙に書かれているものを諳んじて、驚きの表情を浮かべた。
周りの学童達も背伸びをして慧音の見ている用紙の中身を見たが、すぐに慧音と同じような表情を浮かべ、そのうち懐夢が言った。
「何て書いてあるの、これ……」
永琳は黒板を指差した。
「だから、あそこに書いてある三つの言葉よ。『レプリカの恋』、『千年幻想郷』、『華鳥風月』の三つ」
チルノが顔を顰める。
「読めないよこれ」
ミスティアが困ったような表情を浮かべる。
「まるで暗号か何かみたい。全然読めないよ」
慧音は険しい表情を浮かべて、永琳と目を合わせた。
「永琳、これはどういう事だ。彼女達がどうなっているのか、わかったのか?」
永琳は頷いた。
「彼女達は重度の精神障害と記憶障害を起こしてる。だから、文字を書こうとしてこんなふうになった。でもね……」
永琳が口籠ると、慧音は尋ねた。
「でも?」
永琳は口を開いた。
「彼女達の身体は健康の波動を返して来たわ。彼女達の身体に、異常はない」
慧音と三人の学童達は驚きの声を上げた。
「こんな文字を書くような状態なのに、異常無しなのか!?」
慧音に続いてチルノが尋ねる。
「先生、ちゃんとやったの!?」
永琳は頭を軽く掻いた。
「ちゃんとやったし、私だって信じられない。でも彼女達の身体や
懐夢は不安そうな表情を浮かべた。
「って事は……リグル達に出してくれるお薬は……」
永琳は懐夢を見た。
「ないわよ。健康な身体に処方しなければならない薬なんて無いもの」
チルノが噛み付くように怒鳴る。
「そんな! それじゃあ、大ちゃん達は治らないんですか!」
永琳は少し顰め面をした。
「いいえ、治すわ。治すための方法を、これから探してみるのよ」
慧音がきょとんした表情を浮かべる。
「何? 彼女達は健康ではないのか?」
永琳は少し呆れたような顔をして慧音を見た。
「こんな調子の子供達が健康に見えるの? 貴方は」
慧音は首を振った。
「いや……とても健康そうには見えん」
「そうでしょう。波動が健康を返しても、異常は確実にある。だから、これから調べるのよ。これが何によるものなのか……」
「私も手伝おう。歴史の資料を漁ってみて、過去にこんな奇病が発生していたかどうか、探してみる」
永琳は「頼むわ」と言い、もう一度慧音に言った。
「それとこの子達だけど、しばらくは外に出さず絶対安静にしておいて頂戴。街の人間達に狩られる、または良からぬ事をされる可能性があるから」
慧音は「わかった」と言って頷くと懐夢、チルノ、ミスティアに指示を下した。
「お前達、あの三人を家へ連れ帰ってやってくれ」
三人は頷き、やって来た時と同じメンバーを組むと部屋を出て行き、やがて寺子屋を出て行った。慧音と永琳の二人が残されて重い沈黙が部屋を覆ったが、そのうち慧音が閉じていた口を再度開いた。
「なぁ永琳」
永琳は慧音の顔を見た。
「何かしら」
慧音は永琳と目を合わせた。
「……お前、気付いていたか?」
「何に?」
慧音は小さく言った。
「その様子だと、気付いていないようだな」
永琳は顰め面をした。
「だから、何に?」
慧音は顔を険しくして話した。
慧音はあの問題の三人が来てからずっと、三人から奇妙な魔力の流れを感じていたらしい。
それを聞いた永琳は、思わず首を傾げた。
「奇妙な魔力の流れ……ですって?」
「あぁ。それもこれまで感じた事のないタイプのものだ。弱くて感じ取りにくかったが、確かに感じ取れた」
「それは、彼女達妖怪の持つ魔力なんじゃないの?」
慧音は首を横に振る。
「いや、明らかにそれとはパターンが違っていた。間違いなく彼女達のものではない魔力だったよ」
「何よそれ……普通妖怪って、妖怪の魔力しか持ってないんじゃなかったかしら」
慧音は頷く。
「そうだよ。でも、彼女達からはそれ以外の魔力が感じ取れたんだよ」
「そんな事あり得るの?」
「ないよ。妖怪から別なものの魔力を感じる事など基本的にはあり得ない。でも、感じ取ったのは事実だ」
永琳は顎に手を添えた。
「貴方は嘘を吐かない人だから、嘘ではなさそうね……だとすると、どうしてそんな事になってしまってるのかしら」
「わからん。だが、もしかしてこれなんじゃないか?」
永琳は不思議そうな顔をして慧音を見た。
「これって?」
「大妖精、リグル、ルーミアがおかしい理由だよ。もしかして三人の症状は、この異様な魔力と関係があるんじゃないかな。まぁ、こじ付けかもしれないけどさ」
永琳は顎に手を添えた。
「……なるほど。精神と記憶の障害が起こり、身体から妖怪のものとは異なる魔力が出るようになる病か……これで本当にあってるかどうかわからないけれど、これをヒントに探してみた方が良さそうね」
「そうだな。よし、そうと決まれば検索開始だ」
*
午後六時三十分 博麗神社
夕飯時、懐夢は今日起きた事を全て霊夢に話した。
茶碗を手に持ち、白飯を口に運びながら霊夢は尋ねた。
「リグル達の具合がもっと悪くなってるですって?」
それに、味噌汁を啜りながら懐夢が答える。
「そうなんだ。昨日は、漢字が書けなくなったりしたり言葉がおかしい程度だったのに、今日になってみたら漢字が書けないだけじゃなくて、平仮名と片仮名が混ざってたり、字が模様みたいになってた。
しかも、言葉もあまりわかってないみたいだった」
霊夢は不思議そうな表情を浮かべる。
「それ、決定的に悪化してるけど……永琳は何て? 健康診断に来て、リグル達の事診たんでしょ?」
懐夢は小さく言った。
「異常無しって……」
霊夢は目を丸くした。
「異常無し? どういう事よ。リグル達、そんなふうになってるのに」
懐夢は少し顰め面をした。
「永琳先生も戸惑ってた。どうしてこんなふうになってるのに異常じゃないんだって」
そう言われて、霊夢は自分の胸痛の事を思い出した。
時折来る胸が食い破られるような激しい痛みがどうしてなのか、何によるものなのか気になり、その事を永琳に話して診断を受けてみたところ、どういう事なのか異常無しと返された。その時は永琳が手を抜いたのではないかと思い、もう一度診断してみろと言って再度診断を受けてみたが、やはり異常無しと返された。
そして今回、リグル達もまた様子がおかしいにもかかわらず、永琳に異常無しと宣告された。
(……何故?)
永琳は近頃診断で手を抜くようになったのだろうか。だが、懐夢によればリグル達を診た時永琳も戸惑っていたそうなので、これは違うだろう。
ならば、永琳の診断を掻い潜っていて発見されない新たな奇病がここ幻想郷で発生しているとでも言うのだろうか。自分のこれも、リグル達の様子がおかしいのも、それによるものなのだというのだろうか。
しかし、もしそうなのだとすれば、紫達大賢者が慌てて動き出しているはずなのだが、そんな様子は見られない。きっとこれも違うだろう。
(……じゃあ、何なの?)
他にもいろいろ考えてみたが、どれも曖昧ではっきりとしなかった。
多分、これ以上考えても答えを見つけ出す事などできないだろう。
霊夢は考えるのをやめると、懐夢に尋ねた。
「……その後永琳はなんて言ったの?」
「これが何なのか調べてみるって。リグル達は絶対安静にしてないとダメだって」
霊夢は納得したような表情を浮かべる。
「でしょうね。流石にそんな状態の子を動かすのは危険だわ……」
懐夢は味噌汁をもう一度啜ると、不安そうな表情を浮かべ、それを見て霊夢は思わず苦笑いした。
「大丈夫よ心配しなくたって。あの永琳が調べてくれるんだから、すぐに対処法が見つかるわよ」
懐夢は表情を変えずに言った。
「そうなのかな……」
「そうよ。貴方が心配しなくても、そのうち何とかなるわ」
霊夢は茶碗を手に持った。
「ところで懐夢、しばらくは寺子屋を休んだ方がいいんじゃないの?」
懐夢は目を丸くした。
「なんでわかったの?」
霊夢は思わずきょとんとした。
「え?」
懐夢によると、寺子屋は今日から五日ほど休みになるらしい。なんでも、リグル達の症状が新たな感染症によるものかもしれないので、これ以上の感染がないようにするためなのだという。
「なるほど……とりあえずは新しい感染症っていう扱いになってるのね」
懐夢は不安そうな表情を浮かべる。
「もしかして……僕にも
霊夢は苦笑いした。
「大丈夫よ。もし貴方も感染してたなら、とっくに症状が出て動けなくなってるから」
懐夢は「そうだよね」と小さく言うと、茶碗を持って白飯を口に運んだ。
霊夢は懐夢に聞こえないほどの小さい声を出した。
「……それにしても、近頃妙な事が起こりまくってるわねぇ……」
冬の時は魔法の森に全身に炎を纏い、こちらを殺しにかかって来た狼が、春の時は大蛇里跡に三つの首を持つ竜が、近頃ではリグルの住む森に七つの首を持つ竜が現れて荒らし回り、そして今は、伝染病と思われる奇病が流行ろうとしている。どれも、普段の幻想郷では起こりえない異変だ。
だが、幻想郷全体を包み込む紅い霧や春が来ず終わらない冬、終わらない夜、いくつもの神が移り住んできたなどといった、過去に解決してきた異変と比べればまだまだ小さい方で、大規模で危険な異変とは言い難い。
(もしかして……)
これらは全て予兆であって、後々これまで発生してきた異変と同等またはそれらよりも大規模で危険な異変が起きてしまったりするのではないのだろうか。
「……考えすぎか。でも用心する必要はあるかも」
霊夢が呟くと、懐夢はそれに反応したような仕草を見せた。
「え、なに?」
霊夢はハッと我に返り、首を横に振った。
「なんでもないわ。さ、食べましょう」
懐夢は霊夢に首を傾げたが、すぐに戻して、目の前のおかずに手を伸ばした。
*
一方その頃、リグルの住む森。
リグルは寺子屋で永琳の診断を受け、懐夢に連れられて返ってきた後、自宅のベッドで寝ようとしていたが、頭がぼーっとする上に酷い喉の渇きと空腹感に襲われて眠れずにいた。
リグルはベッドに寝転んで、自分はどうしてしまったのだろうと何回か考えようとしたが、考えてはまとまらずすぐに消えてしまって、『考える事』そのものができなかった。
リグルは物事を大して考えられない事に怯え、思わず呟いた。
「わたし……ほんとに……どう……なて……」
喉の渇きと空腹感が強くなってきた。三時間くらい飲み食いしていないのだから、当然と言えば当然なのだが、いつもの喉の渇きと空腹感とは違って、それ以外の事に無心になってしまうほど激しい物だった。
……今すぐにこの喉を潤して空腹を満たしたい。
リグルは立ち上がり、ふらつきながら家を出て、水を飲もうと水瓶の方へ歩いたが、すぐに立ち止まった。水瓶の近くから人の気配と話し声が聞こえる。
「だれ……?」
リグルは茂みに身を隠すと、そこから気配のする方向を見た。
そこには、数人の大人と、十数人の子供達の姿があった。何かを話しているようだが、頭がぼーっとしてしまっているせいか上手く聞き取れない。
その時、リグルは違和感を感じた。
目の前で喋って動いている人間達が、とても美味そうに見えるのだ。
「あれ……」
今までこんな事はなかったのに、今は物凄く目の前の人間達が美味そうに見える。
頭がぼーっとしていて、物事がうまく考えられないのに、これだけは考えられる。
あれらを食べれば、この飢えを、空腹感を癒せるかもしれない……。
あれらの血を啜れば、この渇いた喉を潤せるかもしれない……。
考えれば考えるほど、目の前の人間達が美味そうに見えてきて、すぐに限界が来た。
自分は人間を食べる妖怪ではないけれど、もうそんなのどうだってかまわない。
……もう、我慢できない。
「おいしそう……ころしたい……たべたい……」
リグルは頬の肉を思い切りあげて、茂みを飛び出した。