東方双夢譚   作:クジュラ・レイ

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2 別れ

「お……かあ……さん……?」

 

 女性を見つめながら、懐夢は呟いた。そんな馬鹿な。懐夢の母さんが生きているわけがない。懐夢の母さんは、騙された天志廼の人達の手によって殺されてしまったんだ。そうだって、懐夢が教えてくれたんだから。

 

「か……いむ……?」

 

 懐夢の声に反応したかのように、女性は懐夢を唖然としたような表情で見つめながら、その名前を呼んだ。女性はベッドから降りようとして、床に足を下ろした。しかしその瞬間に女性は転んで、床に倒れ込んだ。「あっ」と言って女性に近付こうとしたその時に、懐夢が私の隣を通り抜けて、女性に駆け寄った。

 

「懐夢……? 貴方なの……?」

 

 同じ色の目をしている子供の頬に手を当てて、静かに撫でまわす。懐夢は同じ目の色をしている女性の手に自らの手を当てて、静かに目を閉じる。匂いを嗅いでいるんだ。懐夢は匂いでその人が誰なのか、どんな人なのかを感じ取る事が出来るから。そうして、懐夢は目を開いた。

 

「この匂い……おかあさんの匂い……!」

 

 女性の顔がぱあっと明るくなり、瞳から大粒の涙が零れだす。

 

「懐夢……貴方なのね懐夢!!」

 

「おかあさん……おかあさんッ!!」

 

 お互いの存在を認識し合ったところで、懐夢と女性は抱き締め合った。

 懐夢がおかあさんって呼んだって事は……あの人が……百詠愈惟さん……?

 懐夢は愈惟さんに抱き締められて、その胸に顔を埋めながら、くぐもった声で叫んだ。

 

「おかあさん……おかあさんだ……おかあさん!!」

 

 懐夢の身体をきつく抱きしめながら、愈惟さんは大きな声で懐夢を呼ぶ。

 

「懐夢、貴方、生きてたのね、懐夢!!」

 

 生きていた。懐夢も、愈惟さんも、生きていた。でもどうして。懐夢は八俣遠呂智が器にするために蘇生したけれど、愈惟さんはそうじゃなかった。なのに、どうして愈惟さんが生きているの。こんなの、あり得る話なの。

 呆然としながら、親子の事を見ていると、永琳が私に声をかけてきた。

 

「まさかあれが懐夢の母親だったなんてね」

 

「なんで……何で生きているのよ……」

 

「本人からある程度、聞かせてもらったわ」

 

 永琳は私に、愈惟さんの事情を話してくれた。

 愈惟さんは懐夢と矢久斗さんと一緒に行商していて、天志廼の民に襲われた時に、懐夢と離ればなれになり、矢久斗さんを殺された。そこで愈惟さんも死にそうになったそうなのだけれど、そこで愈惟さんの中で何かが目を覚ましたらしく、ものすごい力が湧いてきて、愈惟さんはその場にいた天志廼の民を全滅させて、一人だけ助かったらしい。けれど、愈惟さんは大蛇里が滅亡していた事を既に聞かされていて、大蛇里に戻る事なく下山、その最中に懐夢の事を探したそうだけど、見つける事が出来なくて、結局そのまま近隣の村まで行ったらしい。

 

 そこで、生きたそうだ。自殺しようにも、何故か出来なかったらしい。大した目標も、生きる希望も持たず、抜け殻みたいになりながら、生きたそうだ。

 

 しかし、しばらくすると愈惟さんは持ち前の刀と、いつの間にか手に入れていた霊力を使って、悪事を働く妖怪を退治する仕事を始めて、村で有名になった後で、街へ移住して空き家を借り、そこで暮らしながら妖怪退治を続けていたそう。そしていつの日か、妖怪退治屋として名を馳せるようになったらしい。

 

 けれど、子供と夫を失ったせいで愈惟さんの心はぼろぼろで、ご飯もろくに喉を通らず、どんどん痩せて行って、迷いの竹林に赴いたところで妹紅に見つけられ、ここに運び込まれたそうだ。

 

「そんな感じで、生きていたの……」

 

「本人がそう言っていたのよ。でもよかったわ。私達の知る懐夢があの人の求めていた懐夢であって。これであの子が一緒にいてあげれば、どんどん回復していって、いつの日か元の愈惟さんに戻る事でしょう」

 

 そう聞いた途端に、私の中で大きな穴が開いて、冷たい風が流れ込んできたような感覚が起きた。

 あの子が、愈惟さんと一緒にいてあげる? それじゃあ懐夢はどうなってしまうの?

 思った時に、愈惟さんが懐夢の事を掴みながら、言った。

 

「離さないから……もう絶対に離さないからね、懐夢……ッ!!」

 

 離さない? 懐夢が涙声でそれに答える。

 

「離れない……もうおかあさんのところから、離れない!! もう誰のところにも、行かない!!」

 

 離れない……?

 行かない……?

 駄目だよそんなの。それじゃあ、私はどうなるの。

 私、懐夢と一緒に居たいよ。だけど、きっとそれじゃあ愈惟さんにとって迷惑になる。愈惟さんは懐夢と、ようやく会えた息子と一緒に居たいんであって、私と一緒に居たいわけじゃない。

 

 懐夢もきっと同じだ。懐夢は今、ううん、もう私よりも愈惟さんのところに居たいって思ってるんだ。そうじゃなきゃ、あんな事言わないもの。もし私の事が含まれてるなら、あんな事は言わないに決まってる。でもあんな事を言ってるって事は……懐夢は愈惟さんのところに居たいって本気で思ってるんだ。

 

 そうだよね。まさか会えるなんて思ってなかったおかあさんだもんね。死んじゃったって思ってた、おかあさんだもん。一緒に居たいって思うよね。あとから引き取った私よりも。

 

 でも嫌だよ。私、懐夢と一緒に居たいよ。また懐夢と暮らしたいよ。せっかく幻想郷に平和が戻ったんだもん。一緒に暮らして、一緒にご飯を食べて、一緒に寝て、一緒に……。

 嫌だよ、嫌だ。

 懐夢を取らないで。

 懐夢を奪わないで。懐夢を……。

 

「懐夢……生きててくれて、本当にありがとう……ずっとずっと……探してた……」

 

「うん、ぼくも……ずっとずっと、おかあさんに逢いたいって思ってた……」

 

 その言葉を聞いた瞬間に、私は今まで自分がしていた事の重大さに気付いた。

 

 違う。奪わないでじゃない。私が愈惟さんから、懐夢を奪っていたんだ。懐夢を、博麗神社っていうところに閉じ込めて、お姉ちゃんって呼ばせて、帰るべき場所から遠ざけていたんだ。愈惟さんが必死に懐夢を探してる中で、私は博麗神社に懐夢を隠して、奪って、自分に都合のいい形を保っていただけだったんだ。

 

 でも、とうとう愈惟さんと懐夢は巡り会った。数ヶ月の時を経て、ようやく巡り会ったんだ。時が来たんだ。懐夢が愈惟さんのところへ、帰るべき場所へ、博麗じゃなく、元の百詠に戻る時が、来たんだ。

 

 懐夢は愈惟さんのところに帰らなきゃいけない。そして懐夢もまた帰りたがっている。ここで二人を引き裂いてしまったら、二人を苦しめる事になってしまう。この二人はずっと互いを求めながら、苦しみ悶えながら、ここまで生きていたのだから。そんな二人を更に苦しめるような事なんて、やっていいはずがない。

 

 それにきっと、懐夢は愈惟さんのところに帰って、百詠に戻った方が幸せだ。私と一緒に居たら<博麗の守り人>を続けなきゃいけなくて、危ないもの。それは今回の異変でよくわかった。やっぱり懐夢に<博麗の守り人>をさせるのは、この上なく危ない事だったんだわ。そんな事を続けさせるよりも、愈惟さんのところに帰って穏やかに暮らした方が懐夢のためだろうし、何より幸せだろう。博麗として戦うのは、異変に立ち向かうのは私一人だけでいいんだ。

 

「そっか……じゃあ懐夢は……」

 

「えぇ。愈惟のところにいた方がいいと思うわ。彼もきっとそれを渇望していたでしょうし」

 

 永琳が言い切る前に、私は永琳から、鈴仙から、そして百詠の親子から離れて、診療所を出た。まさか帰る時には私一人だけになってしまうなんて、思いもよらなかったわ。

 

 永琳のところに運ばれてきた妖怪退治屋が、まさか懐夢の母さんである愈惟さんだったなんて、誰が予想できたと思う。まさかこんな事になるなんて思っても見なかったけれど、きっとこれでよかったんだわ。懐夢は、愈惟さんのところに戻る事が出来た。

 

 父さんは失ってしまったみたいだけれど、母さんはこうして生きていたんだから、それだけでもとても良い事よ。きっと、懐夢は幸せになれる。<博麗の守り人>からも外れて、異変の解決に向かう事もなくなって、ずっと会いたかった母さんと暮らせるんだから、幸せだわ。

 

「じゃあね、懐夢。どうか幸せになって頂戴」

 

 そう言って、私は診療所の扉の向こうにいる懐夢に手を振り、すれ違う兎妖怪達となんとなく挨拶をしながら、永遠亭を出て、迷いの竹林から空へと舞い上がって、博麗神社に帰った。

 

 博麗神社に帰ってくると、時間は八時になっていた。懐夢が来てから、霊華が住み始めてからそうじゃなくなった、私の起床時間。あの二人が来てからこんなに早く起きていたんだな、私は。

 

 そんな事を考えながら歩いていると、私は改めてこの神社がこんなに広かった事を悟った。今までは少し窮屈だったのかもしれない。私だけじゃなく懐夢や霊華が住んでいたのだから。

 

 そりゃ三人で暮らせば、少し広めに作られているこの神社も狭く感じるわけだわ。だけど、博麗神社は今、一番最初の状態に戻った。私一人だけが暮らしている状態……所謂初期化。今、台所、洗面所、脱衣所、風呂場、酒蔵、書庫。どこを探しても、私以外の人の姿はない。

 

「すっかり広くなっちゃったわね。そう思わない? 懐夢」

 

 今に来たところで腰に手を添え、隣を見たら、誰もいなかった。しまった、私一人だけじゃないの。博麗神社から懐夢と霊華はいなくなって、私一人になったのに、まだ懐夢や霊華がそこにいるような気になっているんだわ。いけない、いけない……。

 

「私……一人か……」

 

 居間から縁側に出て、座り込んだ。やっぱり静かだわ。私一人しか物音を立てるようなものはないのだから。どこを探しても、私以外の人はいない。こんなに広い神社に、今、いや、これから私は一人で住み、一人で暮らしていく。ご飯だって誰かの分を作る必要がないし、お風呂だって誰かの分まで沸かす必要ないし、寝る時だって誰かの分の布団を敷く必要ないし、洗濯だって誰かの分の服を洗う必要ない。色んな手間が省かれて、簡単になっている。こんなに良い事はないわ、うん。

 

「こんなに簡単になったんだから。いい事尽くしじゃないの」

 

 私は下を向いて、そっと思考を巡らせた。そういえば、愈惟さんは全く逆の事になったのよね。今までは自分一人だけでよかったのに、これからは懐夢の事を考えなくちゃいけなくなって、何から何まで懐夢の事で頭を埋めなきゃいけなくなって……でも、そっちの方が愈惟さんにとってはいいんでしょうね。

 

 だって死んだと思っていた息子にまた逢えて、また一緒に暮らす事が出来るようになったんだから。こんなに嬉しい事が、他にあるのだろうか。そしてそんな愈惟さんと、大好きなおかあさんと一緒に暮らせて、愛されて、懐夢はさぞかし幸せでしょう。そうだ、懐夢は幸せ、懐夢は、懐夢は……懐夢。

 

 霊夢。

 

 お姉ちゃん。

 

 頭の中で、懐夢と呟く度に、懐夢と一緒に暮らしていた時の事が浮かび上がり、懐夢の呼ぶ声が聞こえてくる。何度消そうとして、消えない。願っても消えてくれない。

 

 いきなり神社に現れて、惹かれて、一緒に暮らしてみたい思えた懐夢。

 実は八俣遠呂智を身体に宿していて、八俣遠呂智を復活させる原因を作ってしまった懐夢。

 愈惟さんから習った知識で、様々な事をやってのける懐夢。

 いつも身の程知らずの無茶をして、危険を顧みない懐夢。

 こんな私に懐いてくれて、私を愛してくれて、私の家族になってくれて、私をお姉ちゃんって呼んでくれるようになった懐夢。

 

 どんなに忘れようとしても、帰ってその思い出が溢れ出てきて止まらない。一緒に涙が出てきて、目の前がぐちゃぐちゃになる。袖で顔を覆っても、全然思い出も涙も止まらない。

 嫌だ。懐夢と一緒に居たい。

 懐夢と一緒に暮らしたい。

 懐夢と一緒に出掛けたい。

 懐夢と一緒に料理がしたい。

 懐夢と一緒に異変に立ち向かいたい。

 懐夢と一緒に寝たい。

 

 これからも、ずっとずっと、懐夢と一緒に居たい。

 叶わないってわかっていても、飲み込めない。

 

「懐夢……懐夢ぅぅ……」

 

 涙が溢れ出して止まらない。袖が濡れて、びしょにびしょになっても、まだ止まらない。

 どうしてこんな事になっちゃったんだろう。どうして今更になって愈惟さんが出て来たんだろう。どうして、私と懐夢でいる事が続かなくなってしまったんだろう。

 

「懐夢、やだよ、懐夢ぅぅぅ……」

 

「おい、霊夢!?」

 

 心の中で何度も叫んでいたら、私じゃない声が聞こえてきた。こんな時に誰が来たんだろう。そう思いながら顔を上げてみたら、いきなり見慣れた顔が見えてきた。黒い帽子に金色の髪の毛と瞳……魔理沙だわ。

 

「魔理沙……?」

 

 魔理沙は何やら焦ったような顔をしていて、冷や汗を掻きながら私に声をかけてきた。

 

「どうしたんだよ霊夢。そんなになるまで泣いてて……」

 

 魔理沙は私の事をきょとんとしたように見つめていたけれど、魔理沙に見られていても尚私の涙は止まる事はなかった。いや、泣いてるところを見られてるとか、そんなのどうでもいい!

 

「魔理沙……魔理沙ぁぁッ」

 

 私は魔理沙の身体に抱き付いて、吃驚している魔理沙をそっちのけて泣いた。

 途中、魔理沙の焦りと戸惑いが混ざり合ったような声が聞こえて来たけれど、私は構わずに泣き続けた。

 

 

 

          *

 

 

 

 泣き止み、落ち着いたところで、魔理沙は霊夢に何が起きたのか、懐夢はどこに行ったのかと尋ねた。霊夢がその問いかけに答えると、魔理沙はさぞかし驚いたような顔をして、霊夢に言った。

 

「か、懐夢の母さんが生きてた!?」

 

「えぇ。永遠亭に、妹紅が運び込んでいたのよ。愈惟さんは私達が見てないところで、街の妖怪退治屋として名を馳せていたみたいなの。どうやって天志廼の人達から生き延びたのかはわからないけれど、とにかく愈惟さんは生きてて……懐夢と再び巡り会ったのよ」

 

 魔理沙が納得したような顔になる。

 

「そ、そうだったのか……それで、懐夢はどうしたんだ? 母さんと会えたのは、すごく嬉しい事だろ?」

 

 霊夢は頷き、体育座りになった。

 

「泣いて喜んでいたわ。母さんの胸に飛び込んで、抱き締められて、大声で泣いて……今まで見た事が無いくらいに喜んでいたわあの子」

 

 霊夢は目を閉じて、そのまま顔を両膝に付けた。同時に、あの時の懐夢と愈惟の事が目の奥に浮かび上がり、胸元が締め付けられるような感覚が走り出す。

 

「……入っていけなかったわ。ううん、入れなかったのよ。あんなに幸せそうにしてる二人の間、入っちゃいけないって、流石の私でも分かったわ。だから、何も言わないで、永遠亭に置いてきた」

 

 魔理沙が驚いたように縁側から立ち上がる。

 

「そりゃないだろ! だってあいつは、お前の家族なんだろ!? お前の弟じゃないか! なのになんで」

 

 霊夢は怒鳴るように言った。

 

「懐夢と家族だったのはあの子の親がいなかったからなのよ! でも、あの子の親は生きてた。父親は死んだけど母親はああやって生きてた! だから、あの子の事は返さなくちゃいけないのよ、母さんの元に。私は今まであの子の家族になっていたけれど、はっきり言えば、あの子の親からあの子を奪って暮らしてただけなのよ!」

 

 霊夢は身を縮めた。

 

「だから、あの子を帰す時が来ただけなのよ。元居た場所に、博麗から百詠に帰す時が、きたのよ。それに私が首を突っ込んでいい隙間なんてない……親を取り戻したあの子は、もう私のところにいる必要なんかないのよ……」

 

 魔理沙は拳を握りつつ、黙り込んだ。霊夢もまた黙り込み、重い沈黙が周囲を覆ったが、それを魔理沙が打ち破るように言った。

 

「それを、お前は懐夢に言ったのか。お前は博麗から百詠に戻れって……言ったのか」

 

「言ってない。言えるくらいの隙間すらなかったんだから」

 

 魔理沙は再び黙ろうとしたが、すぐに何かを思い付いたような顔をして、口角を上げて、霊夢に言った。

 

「そうか! 懐夢には言ってないんだな」

 

 随分調子のよくなった魔理沙の言葉を聞いて、霊夢は顔を上げたが、もうそこに魔理沙の姿はなかった。試しの上空の方へ目を向けてみれば、そこに箒に跨って空へ飛び上がる魔理沙の姿があったが、その姿は瞬く間に街の方角へ飛び去ってしまった。

 

 急な思い付きで行動する事のある魔理沙だから、また何かを思い付いて飛んで行ったのだろうけれど、追いかける気にはならなかった。もう、何もする気が起きなかった。泣こうと思っても、涙が出てこなかった。霊夢はただ、平和になった幻想郷の空を流れて行く秋の雲をただ眺めていた。

 

 

 

 

          *

 

 

 

 

 その夕方、霊夢は消える気配を見せない喪失感に襲われながら街へ買い出しに出かけた。

 この喪失感を消すために、いっその事食材を大量に買って作り、やけ食いをするか、または未成年なのに酒を買って、やけ酒をするかと思ったが、どれも乗り気にならなかった。懐夢がいなくなったのに、まだ懐夢が近くにいるような気が離れず、霊夢にそのような好意を行う事を許さなかった。結局、いつもどおりの料理を作って、いつも通りの食事をする事にして、霊夢は復興して活気を取り戻した街の中をぶらぶらと歩いた。

 

 しばらく歩くと、魚屋が見えてきた。そうだ、懐夢と初めて街を歩いた時に立ち寄った魚屋だ。<黒獣(マモノ)>の襲撃によってあれだけの被害が出たというのに、魚屋の前は大いに活気に満ちており、店主の小母さんが大手を振って魚の宣伝を行っていた。

 

 この際食べる物は何でもいいと思って、魚屋に近付いてみたところ、とぼとぼと歩く霊夢に魚屋の小母さんが気付き、声をかけた。

 

「博麗さん! 博麗さんじゃないかい!!」

 

 霊夢は小母さんに近付き、小さく頭を下げた。

 

「ご無沙汰、してます」

 

「あぁ。博麗さん、近頃中々うちには寄らなかったし、何より色んな事があって博麗さんも私達も大変だったからね。今日は何を買っていくんだい?」

 

 霊夢は小母さんに言われるまま、店頭に並ぶ魚を見回した。鰆、(ヒラメ)(カレイ)、鯛、虹鱒、岩魚など、川魚から海魚まで幅広くそろっている。いつもならば大きめの魚である鰆や鮃などを頼むところだが、これからは一人……そんな大きな魚を食べる必要などない。

 

「岩魚を一匹ください」

 

「えっ、岩魚一匹でいいのかい? それで、博麗さん達二人分足りるのかい」

 

 霊夢は首を横に振った。

 

「ちょっとあの子とは離れまして……ですから、私一人分だけでいいんです」

 

「そうかい。あんなよく出来た良い子と離れちゃうなんて、なんだか寂しいねぇ」

 

 霊夢は俯いた。喪失感と一緒に寂しさが突き上げてくる。

 帰っても自分一人だけだ。料理をする時も、ご飯を食べる時も、寝る時も、一人だけだ。そう考えると、帰って料理をし、食事をするのが嫌と感じてきた。そもそも、あんなに広い博麗神社に帰りたくない。だけど帰らないわけにはいかないから、帰らないといけないけれど、料理をするのは、何だか嫌だ。

 霊夢は財布を買い物袋から取出し、中身を確認した。小銭が二千円分入っていた。これならば外食をする事も可能で、何も帰って料理を作る必要はない。

 霊夢は財布を買い物袋に仕舞い込むと、せっせといい魚を探している小母さんに声をかけた。

 

「小母さんごめん。私、今日は魚いいや」

 

 小母さんは吃驚したように霊夢に顔を向けた。

 

「え、いいのかい?」

 

「うん。いいの。だからごめん。その魚は他のお客さんに出して頂戴」

 

 霊夢はそう言って、魚屋から離れ、再び街の中へと戻った。周囲を確認してみれば、定食屋、蕎麦・饂飩(うどん)店、居酒屋、喫茶店など、外食できそうなところは結構あった。いつもはあまり寄ろうと考えなかったから、これほどの店があったとは気付けなかった。

 

「この際だから……定食屋にでも行くか」

 

 霊夢はそう言って、人混みの中を縫うように歩き、夕飯時を迎えて盛り上がっている定食屋の中へと入り込んで行った。

 

 

 

              *

 

 

 

 食事を終えて、霊夢は博麗神社への帰り道を歩いていた。

 先程、定食屋で夕飯を終えた。丁度、牛肉を薄切りにした手頃な定食があったので、それを頼んでみたところ、割と盛りのいいご飯と、様々な具材が所狭しと煮込まれている豚汁が一緒についてきて、霊夢は少し驚いた。

 

 それらを食べてみたところ、そこら辺の下手な店の料理よりも遥かに美味しく感じられ、よい店に入る事が出来たと思えながら腹を満たす事が出来た。しかし、満たされたのは本当に腹だけで、霊夢の胸は全くと言っていいほど満たされなかった。多分、胸を満たす事が出来ていたなら、帰り道も気分がよかっただろうが、そんな事は一切ない。

 見上げれば無数の星が輝く夜空が広がっていたが、霊夢の心の中はまるで霧や雲が立ち込めているかのようにどんよりとしていた。

 そして、気分が沈み込んでいるせいなのか、そうじゃないのか、まるで冬になったかのように、空気が異常に冷たく感じられた。

 

「寒いな……早く帰ろう」

 

 どうせ、後は風呂に入って寝るだけだ。もう何も面倒な事はない。

 そう思いながら霊夢は博麗神社の境内まで戻り、神社の中に入って、居間に買い物袋を放り投げて、風呂場に直行。風呂竈の中で燃える火に薪を投げ入れ、そそくさと風呂を沸かして、脱衣所で服を脱ぎ、湯に浸かった。

 風呂を終えて脱衣所で服を着て、居間へ戻ろうとした時に霊夢は火の後始末が必要な事に気付いて風呂場に戻り、竈の中の火に水をかけ、完全に消してから、神社の中の全ての明りを消して寝室に向かった。

 そこで寝間着に着替えて、布団を敷こうと押入れを開いたその時に、霊夢は気付いた。いつもの使っている布団の隣に、懐夢が今朝まで使っていた布団がある。

 

「懐夢の布団……」

 

 鼻を近付けてみれば、自分と同じ洗髪剤と、懐夢だけが持っていた匂いが混ざり合った香りがしてきた。そういえば、懐夢はよく匂いを嗅ぐ子だったが、懐夢自身の匂いと言うのをあまり深く嗅いだ事はない。これは……布団を干した時によくする、お日様の匂いに近い。近頃布団を干した事はなかったから、これが懐夢の持つ匂いだ。

 

「懐夢……お日様みたいな匂い……」

 

 顔を埋めてみると、やはり懐夢の匂いが鼻の中いっぱいに流れ込んできた。この匂いは懐夢の匂い……そうだ、懐夢を抱き締めている時と同じ匂いだ。たかが布団の匂いなのに、何だか懐夢が近くにいるような気がして、霊夢は思わず布団を抱えた。

 

「……これからはこれで寝ようかな……」

 

 霊夢は自分の布団を出さずに、懐夢が使っていた布団を取り出して、床に敷いた。大きさは自分が使っている物と同じであるため、問題なく使える。自分の布団との違いは、懐夢の匂いがある事だ。

 霊夢は布団を敷くと、その中に身体をすべり込ませた。「あぁ、懐夢はこんな匂いだったのか」。霊夢はそう思いながら、懐夢の匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。

 

 けれど、この匂いだっていつかは消えてしまうだろう。そして懐夢の匂いは文字通り懐夢だけが持つ匂い……本人以外持ちえない。だから、この匂いが消えたなら、ここに懐夢がいた痕跡はすべて消えてしまう。

 

 そう考えていると、心細さと寂しさが胸の底から突き上げるように溢れてきて、また涙が出そうになった。霊夢は寝間着の袖で目元をぬぐい、枕に頭を乗せた。

 

「……もう駄目なのかな……また一緒にいたいよ……また……お姉ちゃんって呼ばれたいよ……懐夢……」

 

 日中散々泣いたせいか、ぐっと疲れが来て瞼が重くなり、霊夢は目を閉じた。

 そして、たった一人の寝室から、深い眠りの中へと転がり落ちて行った。

 

 


































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