ひどく聞き慣れた音楽に吃驚する形で目を開けると、最初に見えたのは
何だか頭が少しだけ重たい。何か、乗ってるような感覚だ。少し目を上に動かしてみて、見えたのは自分の腕だった。道理で重いわけだ――そう思って腕を動かした。
ゆっくりと身体を起こす。部屋の中は薄暗くて、カーテンは閉まっている。周りを見てみれば、沢山の教科書が棚の方に並ぶ茶色の勉強机に、黒色の車輪が付いた椅子、ぼくがいつもMMORPGをやるために、そして勉強の教材とかを調べる時のために使うパソコンと、プリンターが乗った白い机とか、クローゼットが見える。どれも見慣れたものだ、毎日使ってるんだもん。
耳元に大きな音が響く。振り返れば、ベッドの上に載ってるスマートフォンが音楽を大音量で鳴らしているのが見えた。大きな音にしないと起きれない事があるから、目覚ましは大音量のお気に入りの音楽にしてるんだけど、やっぱり寝起きに大きな音は頭に響いてくる。
耳を塞ぎたくなるような音を我慢しながら、ぼくはスマートフォンを手に取り、モニタを指でスライドし、音を止めた。大好きな音楽ではあるけれど、大きな音にするとうるさいだけだ。何とかならないのかな、コレ。
ベッドから降りて、窓を目指してカーテンを開くと、暗かった部屋と暗闇に慣れたぼくの目を白い光が突き刺してきて、思わず目を背けたけれど、すぐに慣れて窓の外へ目をやれた。いつもと変わらないマンションやら家やらが並んでいるのと、道路に車が走っているが見える。ぼくの部屋から見えるいつもと同じ光景。空はいつもと同じように蒼くて、白い雲がぷかぷかと漂っている。昨日の気象台の予報通りの、晴れだ。
ぼくはスマートフォンを動かして、モニタに映る時間を確認した。二千十九年十一月十七日金曜日、午前六時半……いつもと同じ時間だ。いつもと同じように起きて、朝ご飯を食べる時間。今日の朝ごはんは何かなと考えながら、窓から離れて、ぼくは自分の部屋を出た。下の階に行くための廊下を降りて、リビングに足を踏み入れたぼくを出迎えてくれたのは、黒くて長い髪の毛と、ぼくと同じ藍色の瞳で、水色のエプロンを身に着けた、女の人だった。そう、ぼくのおかあさんである
「あぁ懐夢。おはよう」
「おはよう、おかあさん」
ぼくが挨拶を返すと、おかあさんはいきなり首を傾げた。
「あれ懐夢、今日は随分としゃっきりしてるわね」
「え?」
「だっていつもの懐夢だったら、起きてきてもすごく眠そうに……あっ」
おかあさんはカレンダーの方を見て、何かに気付いたような顔になって、すぐに笑った。
「もしかして、今日は霊夢の誕生日だから、しゃっきりしてるのかしら?」
言われて、ぼくもおかあさんと同じような顔になった。
そうだ、今日は霊夢……お姉ちゃんの誕生日だった。それで昨日、お姉ちゃんへのプレゼントをこっそり買って、色々準備してたんだっけな。
「多分そうかもしれない。今日は起きた時もなんだかすっきりしてた気がする」
「それをいつもに出来ないのかしら?」
「多分できないかも」
おかあさんは苦笑いした。
「まぁいいわ。ほら、早く朝ご飯食べちゃいなさい。学校に遅刻するわよ」
はぁいと答えて、ダイニングの椅子に座る。目の前のテーブルにはサラダが盛りつけられた皿と、こんがりと焼けた食パンが乗っている皿と、ぼく専用のカップが置かれている。近くにはぼくが気に入っている味のドレッシングと、バターが入っている容器、牛乳パックもある。ちょっと豪華かなと期待してはみたけれど、結局いつも通りの朝ごはんだった。
「いただきまーす」
ドレッシングを手に取って蓋を開け、ささっとサラダにかけて素早く閉める。ぼくは野菜がそんなに好きじゃない方なんだけれど、このドレッシング……擦り胡麻ドレッシングをかければそんな事はなくなる。このドレッシングをかけた生野菜は何でも美味しく感じられるから、どんな野菜でも食べれちゃう。これを発明した人は多分天才か、ぼくと同じで野菜が苦手な人だろう、きっと。
味が付いたサラダを食べ始めると、おかあさんの声が耳に届いてきた。
「そういえばあまり聞いてなかったけれど、最近そっちの学校はどんな様子?」
口の中の野菜を全部呑み込んでから、答える。
「剣道の授業で一番強いすぐはちゃんのところにまたラブレターが来たよ。今月に入ってもう三通目」
「あらら、すぐはちゃんも大変ねぇ。力の強い女の子は男の子にモテる傾向があるからね。すぐはちゃんのお兄ちゃんの方はどんな?」
「かずとくんならゲームすると強いよ。それにテストの成績も高いから、解き方とかたまに教えてくれる」
「そういうけど、懐夢だって勉強が出来てるじゃない。いつもテストの点数高いし、宿題だって忘れた事ない」
おかあさんが顎に手を添える。
「だけど、懐夢っていつ勉強してるの? 見に行くとだいたい
実のところ、勉強はおかあさんとおとうさん、お姉ちゃんが寝静まった後にやってる。おかあさんやおとうさん達に気付かれないように電気を消して、十時頃までゲームをした後に、十二時頃まで宿題や勉強をしている。そういう時間まで起きて、勉強してから寝ると、すっごくよく頭の中に入ってくるから、なかなかやめられない。ぼくが成績いいなんて言われるのはその勉強法のおかげなんだけど、その反面……朝起きるとすごく眠いんだ。……全部家族には内緒にしなきゃいけない事だから言えないんだけれどね。
「ちゃんとやってる事は確かだよ。そうじゃなかったら、テストの成績なんてよくないよ」
「そうよね。ちゃんと勉強してる事だけは確かみたいだし」
正直ぼくにとって、勉強はまるでパズルのゲームをやっているような感覚だ。パズルは解き方がわかるから楽しいけれど、解き方がわからなくなってしまったら、つまらなくなってしまう。勉強もパズルと一緒で、わかるから楽しいんであり、わからなくなってしまったらつまらなくなるだろう。現にそういうふうなマイナスのスパイラルに陥る人が多いらしく、勉強が出来ない人は大体そういうふうになっていると、ネットで調べたら出てきた事がある。
わからないというスパイラルにはまってしまった人の様子はまるで、蟻地獄にはまってしまって、ウスバカゲロウの幼虫の口の中へ落ちそうになっている蟻みたいだと、ぼくは思う。まぁぼくのクラスにはそういう人はきわめて少ないから、別にいいんだけれどさ。
「そういえば、懐夢の学校はいいところだよね。みんな仲良くしてるし、苛めもないし、教師も馬鹿じゃない」
「前はこんな事ってあまりなかったんだっけ」
「そうだよ。おかあさんが子供の時なんか、とても人間のやる事とは思えないような苛めとか、自分の事しか考えてない単細胞生物みたいな先生とかがいて、ひどかったんだよ。ここ最近は学校も念入りなメス入れが入って、そういう事もなくなったから、懐夢が羨ましい限りだわ」
その時、足に何かが当たったような違和感を感じた。何かと思ってテーブルの下を覗き込んでみれば、そこには二匹の猫が鳴きながらすり寄って来ていた。
「あぁ、「かつら」に「あるか」。おはよう」
かつらとあるか。それぞれ茶色、黒と茶色と白の雌猫で、ぼくが生まれた次の年に飼い始めた二匹だ。おかあさんによると、ペットがいると姉弟は喧嘩しないからって理由で、飼ったらしい。
かつらもあるかも、ぼくとお姉ちゃんによく懐いていて、リビングに行くと寄って来るんだけれど……なんだかお腹を空かせているような気がする。
「あぁしまった。かつらとあるかのご飯を用意するのを忘れていたわ。待っててね、今用意するから」
そう言って、おかあさんはキッチンの棚に仕舞われている猫缶と、あるか用とかつら用のお皿を出して、猫缶を皿の上に開けた。猫缶の匂いに気付いたのか、二匹はおかあさんの方を向いて歩き出し、テーブルの下から出て、おかあさんの足もとにすり寄った。おかあさんは足にすり寄る二匹をうまくよけながらリビングまで来て、そっと二つの皿を床に置いた。
「ほら、お食べなさい」
二匹はにゃあと鳴いてから、皿の中に顔を突っ込んで、中の餌を食べ始めた。がつがつと音と立てる二匹の猫を、しゃがんで見つめながら、おかあさんは呟いた。
「この二人には助けられっぱなしだわ。この二人がいてくれたおかげで、霊夢と懐夢は今まで一回も喧嘩した事がないじゃない」
確かに、ぼくとお姉ちゃんは喧嘩した事がない。まぁそれが、ぼくが生まれた時にはお姉ちゃんが既に今のぼくより上の学年だったのが一番の理由なんだろうけれど、やっぱりかつらとあるかがいてくれたからというのもあるとは思う。ぼくとお姉ちゃんでこの二匹を可愛がるし、相手は生き物だから、取り合いにもならない。いや、取り合ってはいけないものだ。よくものを取り合って喧嘩するって言われる「姉弟」であるぼく達だけど、この二匹のおかげでぼく達は喧嘩する姉弟にはならなかった。
「でも、元からお姉ちゃんは優しい人じゃない」
「そうだけれど、一気に優しくなったのは一昨年の事だったわね……あの時は本当に……」
おかあさんが言いかけたところで、ぼくは食パンを食べ切り、カップの中の牛乳を全部飲んで一言言い放った。
「ごちそうさまでした」
ぱんと手を合わせて、食器を重ねて手に持ち、キッチンのシンクに置いた。もう時刻は六時五十分を指しているから、早く歯を磨いて顔を洗って、学校行かないと。
ぼくはシンクから離れるとリビングを出て、洗面所に向かった。洗面台の自分用の歯ブラシを手に取り、歯磨き粉を付けて素早く歯を磨き、コップに水を注いでうがいする。歯ブラシを綺麗に洗ってから元の場所へ戻し、ばしゃばしゃと音を立てながら顔を洗い、タオルで水にぬれた顔をふくと、さっぱりして眠気が完全に消えた。
そのままタオルを戻して階段を再び上り、自分の部屋に戻ってきたところで、ぼくはパジャマを脱いで床に畳み、箪笥から白い長ズボンと青い生地に白い模様の入ったTシャツ、黒色のパーカーを取り出して、身に纏った。これで、準備は完了。大事な道具の入ったランドセルを担いで、リビングに戻った。テレビの上の方に表示されている時間を見てみると、七時十分になっていた。もう行かないと。
「そろそろ行かないと」
呟いて、リビングから出ようとしたその時、おかあさんが呼び止めてきた。
「懐夢、今日の夕飯は外で食べるから、友達と遊ぶ約束はしてこないでね」
「はぁーい。行ってきまーす」
ぼくはリビングを出て、玄関で靴を履き、家を出た。
今日もまた、一日が始まる。
家から離れるとすぐに道路に差し掛かる。そこをずっと進んで行けば、およそ十五分くらいで小学校に辿り着く。
ちなみに今ぼくが通う小学校は、おかあさんによると合併校らしく、昔はここから離れたところにも小学校が三つほどあったんだって。でも、ぼくが生まれた年くらいに少子化が深刻になって、今ある小学校に一つにまとまる事になったらしい。
その代わり、新しく出来る小学校は最新の技術を沢山使っていて、昔は黒板とかホワイトボードとかだったのが、今はプロジェクタによる映像だし、教科書もタブレット端末のデータの一つになった。このおかげでランドセルの中身はタブレットとタッチペン、少しの筆記用具だけで済んでて、とても軽い。昔は教科書を沢山ランドセルに入れて学校に通ってたそうだけど、こういう暮らしをしているとそんなものは信じられなくなる。
そんな事を考えて、近所の人達に挨拶をしながら歩いていると、道を行く車の数が増えてきた。小学校の周りは人の通りが多いから、車とかも沢山通る。でも信号があるおかげでよっぽどのことがない限りは事故が起きない。道行く車のナンバーをちらちらと見ながら歩道を歩き続けていると、目の前に信号が立ち塞がり、大きな校舎が奥に見えた。あそこが、ぼくの通う小学校だ。
もうみんなが揃ってる時間だろう。早く行かないと――そう思って、ぼくは青になった信号を走り抜け、小学校の中へと急いだ。
*
すっかり忘れていた。今日は授業が五限で学校が終わる日――早く家に帰って来られる日だった。スマートフォンのモニタを確認してみればまだ時間は午後三時。普通なら友達と遊びに行ってる時間だけれど、今日はそうはいかない。だってお姉ちゃんの誕生日祝いをしなきゃいけないし、そのために外食に行かないといけないんだから。
みんなや先生と別れて学校を出て、来た道を戻り、家の前までやってきた。今おかあさんは働きに出てるから、鍵は自分で開けないと。そう思って家のドアに近付き、開いているかどうか確認しようとの押し込んだその時、ドアはすんなりと開いた。
あれ……誰か来てるのかな。でもこんな時間に帰ってくる人なんていたっけかな。
(もしかして、泥棒!?)
そんな事を想いながら玄関に入り込み、並んでいる靴を見たところで、ぼくははっとした。――お姉ちゃんの靴がある。お姉ちゃんが、帰って来てるんだ。
「ただいまー」
「おかえりー」
玄関先に立って試しに声をかけてみると、聞き慣れた声で返事が返ってきた。
やっぱり、お姉ちゃんがいる。でもその前にランドセルを置いてこないと。
靴を脱いで玄関に上がり、階段を上って自分の部屋に入り、机の上にランドセルを置いて、もう一度階段を下りて、リビングに入ったところで、ソファにその人は腰を掛けていた。
「おかえり、懐夢」
「ただいま、お姉ちゃん」
ぼくと同じ長い黒髪で、赤いリボンをいつも頭に着けているのが特徴で、高校二年生で、今日で十八歳になるぼくのお姉ちゃん、
だけど変だな。お姉ちゃんはいつも五時過ぎに帰って来るはずで、こんなに早く帰って来る事なんかないのに。
「どうしたのお姉ちゃん。今日は随分と早いみたいだけど」
ぼくはお姉ちゃんの隣に並んで、ソファに座る。
「今日は期末テストだったのよ。だからいつもよりも早く帰って来れたんだ。昨日と今日でテストは終わったから、これでようやく遊べるわ」
安堵の溜息が混ざったような声で、お姉ちゃんは言う。あぁそうか、だからお姉ちゃん、あんなに夜遅くまで起きて勉強をしてたのか。
お姉ちゃんはぼくと違ってあまりゲームをしたりしないから、遅くまで起きてる理由なんてだいたい勉強をしている、だ。ぼく達は姉弟揃って同じ事をしてるわけだけれど、決定的に違うのは、お姉ちゃんは夜遅くまで起きていても昼間に眠そうにしたりしないというところだ。
「テストだったんだ。どんな感じだった?」
「まぁよく出来た方だと思うわ。どうなるかはわからないけれどね」
お姉ちゃんの言葉を聞いたその時、ふと、朝起きたばかりの時に来る眠気が、急に襲い掛かってきた。意識が薄くなって、身体が少しふらつき、瞼がすごく重くなる。
お姉ちゃんは少し吃驚したような顔をして、ぼくに声をかける。
「どうしたの懐夢」
「おっかしいな……なんだか急に眠くなってきて」
「あぁ……懐夢も夜中まで勉強してるもんね。せっかく早く帰って来たんだから、少し寝るといいわ」
ふと、お姉ちゃんの足元に目をやる。そういえば、お姉ちゃんの膝枕ってすごく暖かくて、気持ちいいんだっけ……。
「ねえ、お姉ちゃん」
「なぁに?」
「膝枕、してくれないかな。駄目なら、ベッドで寝てくるけれど……」
お姉ちゃんは笑んで、膝の前から腕を退けた。
「いいわよ。母さん達と出かけるまで、一緒にいましょう」
「ありがと」
そう言って、ぼくはお姉ちゃんの膝……正確には太ももに頭を乗せる形でソファに横になった。
やっぱりこれだ。お姉ちゃんの膝枕――どんな枕よりも、気持ちよくて、暖かくて、安心出来るもの。
軽く深呼吸をして、仰向けになると、おでこの辺りにお姉ちゃんが手を乗せてきて、撫でてくれた。
「貴方は頑張りすぎなのよ、懐夢。毎日毎日遅くまで起きて勉強してちゃ、身体が持たなくなるわよ」
「大丈夫だよ。こんなのは無理の内には入らないから」
「ううん、十分無理の内よ。貴方の身体は私よりも丈夫じゃないし、まだ貴方は十歳でしかないんだから、そんな夜遅くまで起きてちゃ駄目よ」
「もうぼくだって十歳なのに」
「
お姉ちゃんの顔に不安そうな表情が浮かび上がる。
「ほんとに……貴方は身の程知らずの無茶ばかりして……」
たまに、お姉ちゃんはこういう顔をする。一昨年まで、お姉ちゃんはこんな顔をする事も、ぼくにこんなに優しくする事もなかった。
お姉ちゃんがこうなったのは、一昨年……お姉ちゃんが中学校を卒業する年で、ぼくがまだ八歳だった時だ。
お姉ちゃんが受験を終わらせて、合格発表で名前があった事を確認出来た事のお祝いで、ぼくとお姉ちゃんは三月のある日に、少し遠出をして、海の近くにある水族館に行った。
その日は少し風が強かったけれど、水族館っていう建物の中だから、大して気にはならなかった。ぼくは大好きなお姉ちゃんと一緒に行けるのが嬉しかったけれど、お姉ちゃんはあまり乗り気じゃなかったみたい。それでも、ぼくからすれば、受験勉強に縛られてずっと家の中にいたお姉ちゃんが、やっと外に出られて気持ちよさそうにしているように見えた。お姉ちゃんと一緒に、いろんな魚や、海の動物を見て回り、イルカショーを見終わって、おとうさんとおかあさんへのお土産を買って、帰ろうと思って外に出た時、風はもっと強くなっていて、ぼく達は吃驚した。ぼくのスマートフォンには、暴風警報が発令されている事を告げるメールが来ていた。
帰りの電車に影響が出るかもしれない――そう言って、お姉ちゃんがぼくの手を引いて、駅に向かおうとしたその時だった。ごごごごご……っていう何かが軋むような音が聞こえてきた。
水族館の近くには、大きな港があって、キリンっていう通称が付けられている大きなガントリークレーンが、四機設置されていた。そのうちの一機が、ぼく達のいる位置目掛けて倒れてきていたのが、物音を聞いたぼくの目に映った。多分、この暴風で圧されて、レールから脱線したんだろう――大きな赤い鉄の塊が襲い掛かってくる光景にすぐさまお姉ちゃんも気付いたんだけど、その前にぼくはお姉ちゃんの手を引いて、死に物狂いで赤い鉄のキリンから走った。それでも、逃げ切れるような気がしなくて、ついに赤い鉄のキリンが大きな音を立てて地面に倒れ込んだ瞬間だった。
「お姉ちゃんを守らなきゃ。ぼくが、お姉ちゃんを守らなきゃ」
ぼくは咄嗟にそう思って、お姉ちゃんの手を思い切り引いて、自分の身体でお姉ちゃんの頭を抱え込んで、飛び込んだ。その何秒あとだろうか、頭に大きな痛みが走ったのと同じタイミングで、ぼくはその後の事を覚えてない。
次に目を覚ました時には病院のベッドの上で寝てて、近くにお姉ちゃんがいたけれど、お姉ちゃんはぼくが目を覚ましてそうそう大きな声で泣いて、ぼくを抱き締めた。その時は何だかよくわからなかったけれど、その後におとうさんとおかあさんが来て、二人揃って喜んで、泣いた後にぼくに色々話してくれた。
あの赤い鉄のキリンが倒れて、お姉ちゃんを守って倒れた時に、砕け飛んだアスファルトの欠片がぼくの頭を直撃していたらしく、お姉ちゃんがぼくの身体から離れた時には、ぼくは頭を血まみれにして倒れてたらしい。その後、お姉ちゃんは死に物狂いで救急車を呼んで、ぼくを病院に運んでくれたそうだ。それからぼくには治療が施されたそうなんだけど、ぼくは非常に運がよかったらしく、血は沢山出しちゃったけれど、ちょっと深い切り傷と脳震盪だけで済んでいたらしい。それは、何度ぼくの身体にCTスキャンしても変わらなくて、お医者さんも吃驚したそうだ。
それでも、ぼくの意識が戻るまで三日ほどかかったから、まだ何かあるかもしれないという事で、三週間近く入院する事になった。あの赤いキリンが倒れた時には、ポケットの中にゲーム機とスマートフォンを入れていたのだけれど、二つともぼくみたいに無事だったらしく、後々おかあさんを通じて手渡された。ゲーム機とスマートフォンが無事だったのは嬉しかったけれど、何より、お姉ちゃんが怪我一つしてなかったっていうのがすごく嬉しくて、お姉ちゃんについ口走ってしまった。そしたら、お姉ちゃんは大泣きしちゃって、それから入院中のぼくの面倒をよく見てくれるようになった。
その時からだ。お姉ちゃんがぼくに優しくしてくれたり、こうやって膝枕とかしてくれるようになったのは。
「でも、あの時はお姉ちゃんが無事でよかったよ、本当に」
「本当よね。あの時懐夢が助けてくれなかったら、私は今頃ここにはいなかったかもしれないし、貴方がこんなに優しい子だったって気付けなかった。
でもね、懐夢」
「え?」
「私ね、たまにすごく怖い夢を見るんだ」
怖い夢? 怖い夢ならぼくもたまに見るけれど……お姉ちゃんの場合は違うみたい。
「たとえば、どんな、夢?」
「……何もないところを、懐夢と一緒に手を繋いで歩いてるの。でも、途中で懐夢は手を解いて、走って行ってしまうの。追いかけるけれど、どんなに早く走っても懐夢には追いつけないの。
それで、ずっと遠くまで懐夢は走って行っちゃって、私に振り向いて、こう言うの。「お姉ちゃん、さようなら」って……それで、懐夢は消えるんだ」
思わず目を見開く。
「私、すごく怖いんだ。これが、いつか本当になっちゃうんじゃないかって。あの時は助かったけれど、今度は懐夢が……本当に……死んじゃうんじゃないかって……」
すごく怖そうにして、今にも泣き出しそうなお姉ちゃんのほっぺに、ぼくは手を伸ばした。
お姉ちゃんはきょとん、として言葉を止めた。
「大丈夫だよお姉ちゃん。ぼくはお姉ちゃんと一緒にいる。もう、どこにもいかないし、死なない。ずぅっと、お姉ちゃんの傍にいる」
「本……当に?」
「うん。だから安心してお姉ちゃん。お姉ちゃんが怖い夢を見なくなるまで、ずっと一緒にいるよ、ぼく」
お姉ちゃんは泣きそうな顔のまま微笑んで、ぼくの肩を抱き上げて、そのままぼくを抱き締めた。
「ありがとう懐夢。……大好きよ。貴方が私の弟で、本当によかった」
「ぼくもお姉ちゃんが、ぼくのお姉ちゃんで、本当によかったよ。
大好きだよ、お姉ちゃん」
ぼくはお姉ちゃんの温もりと匂いに包まれて、ゆっくりと眠りに就いた。
おとうさんとおかあさん、お姉ちゃんとぼくの四人で夕ご飯を食べに出かけるまでの間だけ……。