午後二時三十分。
懐夢は霊華が<
「まさか慧音先生が<
「私も甘かったわ。慧音だけは<
「でもよかった……霊夢が死ななくて……」
霊夢は頷いた。
「ほんとにね。今度からは貴方と出かける事にするわ」
そう思った直後、霊夢は先程の霊華を思い出した。霊華は弓で光の矢を放ち、更にスペルカードを具現化させ、自分よりも強力な夢想封印を放ち、しかもたったの一撃で慧音を<
力を使った後、霊華は突然悲鳴を上げて嘔吐し、その場に倒れて気絶した。あの時何が起きたのかいまだによくわからないが、霊華に寄れば、何かを思い出しかけていたらしい。霊華は知っての通りの記憶喪失……かつての自分がどんな人物だったかすら忘れてしまっている。そんな霊華が何かを思い出しかけるのは非常に重要な事なのだが、あの様子から察するに、霊華は見たくないものを見た可能性がある。
もしあの時霊華がかつての自分の記憶の片鱗を思い出していたというのであれば、霊華は出てきた記憶にパニックになってしまい、そのまま気を失ったという事になる。
失われた記憶が凄惨なものだったのか、見たくないものだったのかどうかはわからないが、もしそうなのであれば、きっとそれは、霊華にとって良くない記憶だ。霊華のためを思うのであれば、記憶を取り戻させない方がいいのかもしれない。
「そういえば、霊華さんは何で気絶したんだっけ」
霊夢は再度、懐夢に霊華の身に起きた事を説明した。
説明を聞き終えて、懐夢は眉を寄せる。
「記憶を取り戻したと思ったら、パニックになって、気絶したの」
「そうなのよ。ひょっとしたら、霊華の記憶は、あまりいいものじゃないのかもしれないわ」
「それじゃあ……霊華さんは記憶を取り戻さない方がいいっていうの」
「多分。いや、私はそっちの方がいいと思うな。記憶を取り戻して、霊華は苦しむ事になるかもしれないから」
懐夢は何も言わずに布団で安らかに寝息を立てる霊華を見つめた。
「霊華さんって、本当に何者だったんだろう。師匠は霊華さんを知ってるみたいだったよね」
「えぇ。だから何としてでも紫には霊華の事を聞かなければならないわ」
懐夢は「そう」と言って、霊華の隣で眠る慧音に目を向けた。
「慧音先生、何で霊夢を……」
霊夢は頭を片手で抱えた。
「慧音だってひどい目に遭ったわ。街の人を、知ってる人を、愛する学童を沢山失って、しかもそれに関する記憶を全部消さなきゃいけなかった。膨大な心への負荷に耐え切れずに<
「だからって、霊夢を襲っていい理由にはならないよ」
懐夢は霊夢へ顔を向ける。
「そもそも、なんで<
「え?」
「だってそうでしょう。リグルの時も、早苗さんの時も、慧音先生の時も、<
言われてみればそうだ。<
「確かにそうね……なんであいつらは私を狙う……」
霊夢はあっと言った。そういえば、<
「<黒服>……」
「<黒服>?」
「えぇ。<
霊夢は眉を寄せ、顔を顰める。
「あいつは、私を、博麗の巫女を排除するために、<
「そんな!」
霊夢は歯を食い縛る。
「それだけじゃないわ。あいつは皆を、皆を<
懐夢の顔が少し蒼褪める。
「あれだけの被害を出しておきながら、まだ一端でしかないなんて」
「えぇ。今は街が崩壊する程度で収まってはいるけれど、多分、次はもっとひどい被害を出すような事になるはず」
そう言って、霊夢は懐夢に目を向けた。
今後もきっと、自分は<
「ねぇ懐夢」
「なぁに」
「貴方は、本当にこのままでいいの」
懐夢が首を傾げる。
「なにが」
霊夢は懐夢から視線を逸らした。
「これから、<
もう一度、懐夢へ視線を向ける。
「貴方は、こんなに危険な戦いを、続けるつもりでいるの」
懐夢は表情を変えず、藍色の瞳で霊夢の赤茶色の瞳を見つめていたが、やがて何も言わずに膝立ちのまま霊夢に近付き、静かに霊夢の手を取った。
「忘れたの。ぼくは<博麗の守り人>、博麗の巫女を守るために、命を使う存在。今日、少し離れてしまってはいたけれど、もう霊夢のところから離れない。霊夢と一緒にいて、霊夢をずっと守り続ける。それがぼくの使命だから」
懐夢は透き通った声で、小さく言った。
「だから、ぼくは霊夢と一緒にいる。霊夢と一緒に戦って、霊夢と一緒にこの異変を終わらせる。だってぼく……」
そう言ってから、懐夢は霊夢の身体に抱き付いた。
「また平和になった幻想郷で、霊夢と一緒に暮らしたいから」
霊夢はきょとんとした後に、心の中に愛おしさが溢れてくるのを感じ取った。
そうだ、懐夢はこんなに自分を好きでいてくれている。多分、離そうとしたところで離れてはくれないだろうし、戦うなと言ったところで、戦いをやめたりしないだろう。
きっと懐夢は、最期の時まで一緒にいてくれるつもりでいる。そんな懐夢を、守りながら戦うと言ったばかりだったのを、霊夢は思い出した。
「そうだったわね……私も貴方を守りながら戦うって言ったばかりだったわね」
霊夢は、懐夢の身体をぎゅっと抱きしめた。
「この異変は、絶対に終わらせましょう。そしてまた、平和になった幻想郷で、一緒に暮らしましょう、懐夢」
懐夢は何も言わずに頷いた。
霊夢は数回、懐夢の髪の毛を撫で上げた後に懐夢の身体を離し、台所の方へ目を向けた。
「そうだ、ちょっと軽食でも用意するかな。二人が目を覚ました時には、お腹空かせてると思うし」
「手伝おうか?」
「いいえ、私だけで十分よ。貴方は二人の事を見てて頂戴」
懐夢はわかったと言い、目線を布団に横たわる二人に向け、霊夢は立ち上がり寝室を出て、台所へ向かった。しかし、台所に着いたところで、霊夢は思わず唖然としてしまった。誰もいなかったはずの台所に、怨敵である<黒服>が、姿を現していたからだ。
「く、<黒服>!」
<黒服>はゆっくりと微笑みを含んだ顔を上げ、霊夢の顔を見つめた。
「お久しぶりですね、霊夢。その後はどうでしたか」
霊夢は咄嗟に札を構えた。
「すっごくいいタイミングでやってきたわ、お前。よくも幻想郷を散々壊し尽くしてくれたわね。それで、私の知人や友人を次々と<
<黒服>はこくりと首を傾げる。
「おや、貴方はまだ、わたしが<
<黒服>は再び顔に微笑みを浮かべる。
「仕方がありませんね。わたし自らがお教えしましょう、霊夢」
と思いきや、<黒服>はきょとんとしたような顔になった。
「といいますか、そろそろ、貴方を真実に導く兆候が出てくるはずなのですが」
「何を言ってるのかしら。わかるように説明しないと」
言いかけたその時、
ずっと眠り続けていた、
「ぐぅ……ぐぁああああああッ」
心臓をぐっと力強く掴まれ、そのまま握り潰されそうになっているような感覚と、胸の中に無数の異形の生物が出現して、胸を食い破るべく噛み付いているような、並大抵の人間ならば発狂するであろう痛みに、霊夢は、その場に前のめりになって倒れた。
目の前に銀色、金色、白金色の光が乱れ狂うように強い光を放っている。おかげで、目の前に何があるのかすらわからない有様だ。
耳が聞こえない。頭の中に何億もの蝉がいて、一斉に鳴いているような耳鳴りで、音を聞き取る事が出来ない。そして、心臓には掴まれてそのまま握り潰されそうになっているような、胸には無数の生物に噛み付かれているような、気が狂う痛みが走り続けている。しかもあまりに強い痛みのせいで全く呼吸が出来ず、息を吸っても、吸っても、苦しい。
「あ、あ、ああ、ぎゃうぁああああああ、ぐぁああ」
激しい耳鳴りで音が聞こえないと思っていると、頭の中に声が聞こえてきた。
「あぁ、やはり、もう貴方はそこまで……わたしの目に、狂いはなかった……」
痛みに縛られて、狂いかかっている意識の中に聞こえてきたのは、<黒服>の声だった。
咄嗟に、霊夢は喉から搾り出すように声を出した。
「なにを゛した、わ、たしにぃ゛、なにを、しだぁ゛っ」
また、<黒服>の声が耳鳴りに混ざって聞こえてきた。
「真実を知る時が来ました、霊夢。もし貴方が真実を知る事を求めているのであれば、明日、連れて来れるだけの仲間を連れて、無縁塚にいらっしゃい。そこで貴方達は真実を知る事になるでしょうから」
「むえ、むえん゛……づ……が」
「そうよ。無縁塚……そこでまたお会いしましょう、霊夢。貴方は全てを知るのだから……」
その言葉の直後に、<黒服>の声は途絶えた。
「まちな゛さい、まぢな、ざ、い゛、ま゛でぇ……」
<黒服>を求めて、真実を求めて、霊夢は手を伸ばしたが、何も掴む事なく床へと落ちた。やがて、痛みは徐々にその強さを弱くしていき、あるタイミングでふっと消えてなくなった。同時に、気が狂いそうになるような痛みの鎖に縛り付けられていた意識と身体が解放されたショックのせいなのか、霊夢の意識は一気に弱くなり、やがて闇の中へと転がり落ちた。
*
次に目を覚ますと、まず見慣れた寝室の天井が瞳に入った。もう夜になっているのか、行燈の薄らとした灯りでぼんやりと明るくなっている。
「あれ……」
何故寝室にいるのかと思って、むくりと起き上がった直後、隣から声が聞こえてきて、霊夢は目を向けた。そこには、先程まで寝ていたはずの霊華と慧音、目尻に涙を浮かばせた懐夢の姿があり、懐夢は霊夢が上半身を起こすや否、霊夢の胸に飛び付き、わんわんと大きな声を出して泣いた。
懐夢の身体を抱き締めて、その背中と頭を撫でてやると、慧音が腕組みをして、声をかけてきた。
「気が付いたようだな、霊夢」
「えぇなんとか。私、どうしちゃったんだっけ」
「台所で悲鳴が聞こえてきて、向かってみたところ、顔から脂汗を流して、気を失っているお前がいたと懐夢が言っていた」
霊夢は「あぁ」と言って、しがみ付く懐夢の髪の毛を撫でた。
あの後、気を失って、懐夢によってここに運び込まれたらしい。それなら、懐夢のこの反応も頷ける。
「そっか……私、また倒れたのか……」
慧音が頷く。
「そうだ。私達が目を覚ますや否、布団を霊夢に譲ってやってくれと言い出したものだから、そりゃもう驚かされたものだ」
霊華が困ったような表情を浮かべる。
「まさか霊夢まで気絶しちゃうなんて。今日はよく人が気を失う日だわ」
直後、慧音が霊夢に声をかける。
「それとだ、霊夢」
「なによ」
慧音はいきなり霊夢に頭を下げた。
「すまなかった。私は<
霊夢は目を見開いた。
「あんた、覚えてるんだ」
「あぁ。私は決して<
霊夢は思わず、<
「あんたは気にしなくていいのよ。私を襲ったのは、<
「しかし、私は突然現れた<
「もう起きてしまった事を悔いたって仕方がない。私達がやらなきゃいけないのは、この異変を終わらせて、<
慧音が顔を上げて、霊華が目を見開く。
「それは本当なの、霊夢」
霊夢は頷いた。
「明日、無縁塚に行くわ。八俣遠呂智を討伐した時みたいに、戦える人をたくさん集めていく。きっと、明日が<
「何がわかったっていうんだ、霊夢」
霊夢は慧音と霊華に話した。
「私が気を失う前に、<黒服>がいたのよ。あいつは私に、真実を知りたければ明日、戦える人を沢山集めて無縁塚に来いって言ってた。あいつこそがこの異変の犯人、これまで死んでいった人々の仇そのものよ」
「つまり、そいつを倒す事が出来れば、この異変は終わる……」
「そういう事よ。だから慧音、明日よろしく」
慧音がきょとんとする。
「よろしくって……」
「あんたも、連れの妹紅にも来てもらうつもりよ。あんただって、この異変を一刻も早く、確実に終わらせたいはず」
「そうだが……」
「なら、あんたも明日、私に同行して頂戴」
慧音は何やら納得できないような様子で、わかったと頷いた。
続けて、霊夢はずっと抱き付いたまま離れない懐夢に声をかけた。
「懐夢、明日、一緒に出てくれるよね」
懐夢は何も言わずに頷いた。
霊夢は小さく「ありがとう」と言って、懐夢の髪の毛をそっと撫でた。
その直後に、霊華が霊夢へ声をかける。
「私も、行きたい」
霊夢は霊華に目を向ける。
霊華は続ける。
「私、わかったの。私には戦える力があるって。だから明日の戦いに、私も――」
霊夢は目つきを鋭くして、霊華に言い返す。
「あんた、気を失う前に何を見たの」
霊華の言葉が止まる。
霊夢は言葉を詰まらせた霊華に尋問するように問いかける。
「何か記憶に関する事を思い出したような事を言ってたけれど、あの時のあんたを見る限りじゃ、ろくなものを思い出さなかったように思えるわ」
霊華は俯きながら、小さな声で言った。
「……沢山、死んでた」
霊夢が眉を寄せる。
「死んでたって、何が」
「妖怪と、人……それも夥しい数が……死んでる光景だった。そんな光景を、思い出したみたいだった。そしたら、怖くてたまらなくなって」
「そりゃ怖いわね……あんたそんなにメンタル強くないみたいだし……そりゃ気絶するわけだわ」
慧音が首を傾げる。
「どういう事だ。過去にそのような事が起きた事など、ないぞ。君は一体いつ頃の記憶を見ているというんだ」
「わからない……」
霊夢は日中懐夢と話し合った事を、霊華に話した。
「これは私の憶測でしかないけれど、あんたは多分、ろくでもない記憶を抱えているんだわ。そしてそれは、戦闘をする事によって思い出されてしまう」
霊華が再び目を見開く。
「ろくでもない、記憶……」
「そうよ。あんたは、記憶喪失のままでいた方がいい。だから、思い出してはいけない記憶を思い出すような行為は、やめた方がいいわ」
霊華が吃驚したような顔になる。
「つまり、戦うなって事?」
「平たく言えばそういう事よ。納得できないでしょうけれど、あんたは戦わなくていい」
「そんな!」
霊夢は眉を寄せた。
「私はすごく嫌な予感がするのよ。あんたの失われた記憶は、きっと今のあんたを壊す。あんたを、あんたでなくしてしまうような、そんな気がしてならないの。だからお願いよ霊華。あんたは、戦わないで」
霊華は納得できないような表情を顔に浮かべて、拳を握りしめた。
「だけど、だけど霊夢、私だって……!!」
「気持ちはすごく嬉しいわ。でも、あんたは戦っては駄目。明日は、神社で待ってて頂戴。明日この異変を終わらせて、これからのあんたの事を考えるからさ」
霊華はぎゅっと拳を握りしめて、更に唇をかみしめたが、やがてどちらも離して、霊夢に静かに言った。
「わかったわ……明日は待ってる……その代わり……」
「その代わり?」
「必ず帰って来て。必ず、異変を終わらせて帰って来てよ、霊夢」
霊夢は一瞬きょとんとした後に微笑み、頷いた。
「わかってるわ。必ず帰ってくる」
霊夢の宣言のような言葉の直後、慧音は立ち上がり、霊夢に言った。
「さてと、明日の準備のために、そろそろ私は帰るとしよう。霊夢、この寝間着借りて行くぞ」
霊夢は苦笑いする。
「そういえばあんた、素っ裸で私に救助されたんだっけ。いいわよ、寝間着の一着ぐらい貸してやるわ。その代わり、明日はちゃんと戦って頂戴よ」
慧音は「恩に着る」と言って寝室を出て、そそくさと神社から街の方へと飛んで行った。
いつもの三人に戻ったところで、霊夢が霊華に声をかける。
「あ、そうだ霊華、お風呂沸かしてくれないかしら。今日は何だかお風呂に入りたくてさ」
霊夢の言葉には霊華ではなく、懐夢が答えた。
「お風呂なら沸いてるよ。霊夢がそう言うと思って、沸かしておいたんだ」
霊夢はまたまたきょとんとして、「そう」と言った後に、懐夢を離した。不安そうな表情が顔に浮かんでいる。
「それじゃあ私、お風呂に入って来るわ。まぁ、もう流石に何も起きないとは思うけれど、何かあった時には守ってね、懐夢」
「わかった。もう何もない事を祈ってはいるけれど……」
霊夢は「うん」と言って立ち上がり、箪笥からタオルを数枚出して手に持ち、寝室を出て脱衣所に向かった。懐夢のおかげで風呂が既に沸いているおかげなのか、脱衣所はほんのりと温かく、薄らと湯気が立ち込めていた。
「明日、無縁塚で決着が付く……ううん、決着が付けられるように頑張るんだ」
ようやくこの忌々しい異変を終わらせられて、懐夢と霊華との平穏な日々を取り戻す事が出来る。そして、凛導を倒す変革を始められ、霊華の事も考えられる日々を始める事も出来る。明日は、命がけでやらなければ。
そう思って、霊夢は髪の毛を解き、上着とスカートを脱ぎ、さらしを外した――。
次回、ついに<黒服>との決着。
乞う御期待。