東方双夢譚   作:クジュラ・レイ

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エピソード・早苗Ⅰ


6 守矢の巫女

 水桶をひっくり返したような暴風雨は一向に止む気配を見せなかった。

 こんな暴風雨が春に降るのは、珍しい。

 

「雨止まないね」

 

 懐夢が居間の窓から中庭を眺めながら呟く。

 じっと中庭を眺める懐夢に、霊夢は近付き、同じように中庭を眺めた。博麗神社の中庭は雨水で満たされ、池のようになっていた。ここは比較的高地にある神社だからいいものの、低地の人里の街では、水害が起きそうだ。

 その時、稲光が走り、中庭の水溜りが白く光った。懐夢は飛び上がり、霊夢の陰に隠れてしまった。

 

「あら以外だこと。貴方雷嫌いなのね」

 

 懐夢は霊夢の陰に隠れながら頷いた。体と瞳をぶるぶると揺らしていた。雷が怖いのに間違いはないようだ。しかしそんな懐夢をからかうかのごとく雲は何度も稲光を発生させ、水溜りを光らせた。

 ちょっと空の方を見てみれば、雲の中を稲妻が一瞬で駆け抜けているのが見えた。

 随分と強い入道雲だと霊夢は思ったが、その時ある事を思い出した。―――先程入道雲の中から見えた巨大な"何か"だ。

 "あれ"は、激しい気流と雨と雷が渦巻く入道雲の中を平然と飛んでいた。

 "あれ"は一体、何なのだろうか。今まで幻想郷で十七年も生きてきたが、入道雲の中を駆ける存在など見たも聞いた事もない。

 そもそもあの時は"あれ"との距離が開き過ぎていて、具体的な姿形は見えなかった。

見えたのは本当に大雑把な形だけだ。

 "あれ"がいたのは、この入道雲の中だ。もしかしたらまだ、この入道雲の中にいるかもしれない。入道雲のの中へ入ってみれば"あれ"と直接会う事が出来るだろう。けれど、そんなことは不可能だ。この雨風の中飛ぼうものならどこまで吹き飛ばされてしまうかわからないし、入道雲の中に入ってしまったらどんな目に遭ってしまうか安易に想像がつく。

 それに"あれ"がどんな習性を持っているかもわからない。目の前に出た途端、攻撃を仕掛けてくるかもわからないし、どれほどの攻撃力を持っているかもわからない。

 とりあえず、"あれ"に会いに行くのはやめよう。行ってみたら返り討ちにされたなど、以ての外だ。

 

「早く止んでくれないものかしらこの雨。これじゃあ迂闊に外にも出れないわ」

 

 霊夢が独り言を言ったその時、玄関の方から戸を叩く音が聞こえてきた。

 こんな暴風雷雨の中誰が来たのだと思いながら、霊夢と懐夢の二人は玄関に向かい、玄関まで来ると外から誰かが戸を叩いているのが見えた。

 

「誰かな……?」

 

「誰よ?」

 

 霊夢が玄関に近付き、戸を開けてみたところ、そこにいたのは翡翠色の長髪で、髪の毛に蛙と蛇の髪飾りを付け、白と青の服を身に纏った少女だった。少女は鞄を肩にかけ、手には傘を持っていた。

 霊夢は少女を見るなり驚いた。

 

「早苗!」

 

 この少女は東風谷早苗。

 この前外の世界から守矢神社ごと幻想郷の妖怪の山へやってきて、早速異変を起こした守矢神社の巫女だ。自ら起こした異変が霊夢によって解決されてからは、よく博麗神社に来るようになり、霊夢に色んな布教活動のやり方や信仰の稼ぎ方などを教えている。

 ちなみに、その守矢神社に祀られている神、八坂神奈子、洩矢諏訪子によれば、早苗は現人神だというらしく、麓の人里の町でも人気が高いようだ。

 そんな早苗がこんな暴風雷雨の中守矢神社から博麗神社へやって来た事に霊夢は驚いていて、懐夢は首を傾げていた。よく見れば早苗の衣服は少し濡れていた。

 

「こんにちは霊夢さん」

 

 早苗がにこっと笑むと、霊夢は目を細めて早苗を見た。

 

「何しに来たのよ。こんな暴風雷雨の中」

 

 早苗は苦笑した。

 霊夢に用があって博麗神社を目指していたそうなのだが、途中でこの暴風雷雨の中に入り込んでしまったらしい。まぁ傘を持っていたため、ほとんど濡れずに済んだそうなのだが。

 

「私に用件?」

 

 霊夢が首を傾げると、早苗は頷いた。

 

「えぇ。霊夢さんが見てくれるかどうかわかりませ……あら」

 

 早苗は霊夢に言いかけたが、途中で言葉を止めてしまった。早苗の目線の先を見てみたところ、そこに懐夢の姿があった。

 早苗は懐夢の姿を見るなり、霊夢に言った。

 

「霊夢さん、弟さんいたんですね」

 

「違う」

 

「ん? じゃあ従弟さん?」

 

「違う」

 

「じゃあ親戚の子ですか?」

 

「違うつってんでしょ」

 

 霊夢は魔理沙が初めて懐夢に会った時とほぼ同じ回答をした。懐夢はそれを見て思わず苦笑してしまったが、そんな懐夢を見て霊夢は早苗に懐夢の事を伝えた。弟でも従弟でも親戚でもない、住所を失い住むところに困っていた子を引き取っただけだと。

 

「へぇ~……名前はなんていうんですか?」

 

 早苗が懐夢の方を向きなおすと、懐夢は早苗に一礼した。

 

「初めまして。百詠懐夢と申します」

 

 早苗は懐夢を見て感心したように頷くと、同じように一礼した。

 

「懐夢くんですか。ご丁寧な挨拶ですね。私は東風谷早苗です。妖怪の山の山中にある守矢神社という神社の巫女をやっております。よろしくお願いいたしますね」

 

 早苗が一礼すると、懐夢はにこっと笑った。

 早苗も懐夢につられるようににこっと笑うと、霊夢がそれに割り込むように言った。

 

「とりあえず玄関で話すのもなんだから、居間に案内してあげるわ」

 

 霊夢は言うと懐夢と早苗を連れて居間へやってきて、早苗をテーブルの近くに座らせると、自分も座った。

 懐夢はというと雨に濡れた早苗の為に箪笥からタオルを取り出し、早苗に差し出してからテーブルの近くに座った。早苗は懐夢からタオルをもらうと、濡れた服と髪の毛を拭き始めた。

 そんな早苗を見ながら、霊夢は口を開いた。

 

「んで、早苗。何の用?」

 

 早苗は服と髪の毛を拭くのをやめて霊夢の方を見た。

 

「霊夢さんに見せたいものがあったんですよ」

 

 霊夢は首を傾げた。

 

「私に見せたいもの?」

 

「えぇ。でも霊夢さんの事だから、きっとつまらないって言って取り下げそうな気がしたので、見せるのをやめました」

 

 早苗が苦笑すると霊夢はムッとした。

 

「何よ。見せてみなきゃそんなのわからないじゃない。とりあえず何でもいいから見せなさい」

 

 早苗は頷いて肩にかけていた鞄を手に取り、開くと中から一冊の本を取り出し、霊夢に見せた。

 霊夢はそれを受け取り、首を傾げた。

 

「何これ?」

 

 本は薄かった。表紙の方を見てみれば、振り仮名付の大きな文字で「神獣」と書かれており、表紙のほぼ中央には首元から蒼い布のような物を、背中には真っ白で大きな翼を生やした白い毛並みの狼が空を駆けていると思われる絵が描かれていた。

薄さと絵柄と文字からしてどうやら、外の世界で作られた絵本のようだ。

 

「絵本? あんた私に絵本見せようって思ったの?」

 

 早苗は頷いた。

 

「はい。けれど霊夢さんは私よりも年上の人だからつまらないとしか思わないんじゃないかなぁって」

 

 霊夢は早苗に言われるなり、頷いて絵本を早苗の元へ返した。

 

「えぇ。こんなお伽話、読む気にもならないわ」

 

 早苗は苦笑して絵本を受け取った。

 

「でしょうね。ですから、これは懐夢くんに読んでもらいます」

 

 早苗はそう言って、懐夢の方を向いて絵本を手渡した。

 懐夢は絵本を受け取るなり、表紙を見て首を傾げた。

 

「早苗さん? これ何の本ですか?」

 

 早苗は懐夢の近くに添い、懐夢にこの本が何なのか、教えた。

 この本は早苗がまだ外の世界にいて、尚且つ懐夢よりも幼かった頃にはまって読んでいた絵本で、神獣と言われる存在を描いた絵本であるらしい。

 ちなみに早苗によればこの話は、かぐや姫や浦島太郎といったお伽話と同じように古典が原作となっているらしい(かぐや姫は竹取物語、浦島太郎は万葉集という古典が原作とされている)。

 ……まぁ今の懐夢に理解できるような話ではなかったが。

 懐夢はひとまず、表紙をめくり、絵本を読み始めた。

 

 昔々、あるところにそれはそれは大きな村がありました。そこには沢山の人々が住んでいました。

 その村を流れる川では魚が採れ、時折降る雨のおかげで畑の作物はよく育ち、人々は村で暮らしていくのに何一つ困る事はありませんでした。誰もが、村は平和であると思いました。そして多くの人々がこの平和が永遠に続いて行くのだと思っていました。

 しかしそんなある時事でした。時折降るはずの雨が降らない日が長い事、長い事続いたのです。

 雨が降らない事により川の水は減り、魚は逃げ、作物は育たなくなってしまいました。

 食べる物が無くなってしまった人々の生活は徐々に苦しくなっていきました。

 その中、食べ物を見つけようと山の中に入った若者が居ました。しかし、若者がどんなに探しても、山の中には大して食べ物になりそうなものはありませんでした。雨の影響が山にも出ていたのです。

 若者はがっかりして、村に帰ろうとしました。

 その途中、若者は山の斜面に出来た大きな、大きな岩の洞窟を見つけました。

 「ここになら食べ物があるかもしれない!」

 若者は洞窟の中に入りました。そして、洞窟の中にいたものを見つけるなり、若者は驚きました。

 そこには岩棚をすっぽり覆ってしまうほど巨大な翼を背中に生やし、首元から青白い透き通った布のようなものを生やし、全身を白銀に輝く針のような体毛で包んだ大きな、大きな狼が眠っているではありませんか。

 「な、なんだ……この大きな狼は……いや、狼じゃない……?」

 若者は呆気にとられました。今まで、一回も見た事のないような生き物が目の前に現れたのですから。

 若者は勇気を振り絞って、大きな獣に近付きました。すると、閉じていた獣の瞳が開き、蒼く鋭い目つきで若者を睨みつけてきました。

 若者は狼に睨みつけられると足を止めてしまいました。獣は頭を上げて若者の方を向き、両目で若者を見つめました。

 若者はおれはこの大きな獣に食べられる!と思いました。だって獣の姿は翼の生えた大きな狼。狼は凶暴な生き物。お腹が空いていれば人間ですら食べてしまう生き物なのですから。

 しかし、獣は若者を見つめたまま動きませんでした。若者がどんなに怯えていてもただ黙って見ているだけでした。

 すると、若者の耳に音が聞こえてきてきました。

 [お前はこの近くの村の者か]

 聞こえてきた音は、声でした。若者は声を聞くと誰かいるのかと、辺りを見まわしました。

 けれどもどこにも人の姿はありません。どんなに見渡しても、洞窟の中には若者と獣しかいません。

 [もう一度聞く。お前はこの近くの村の者か]

 若者の耳にもう一度声が飛んでくると、若者はたまげて獣の方を見ました。なんとこちらを見つめる獣の方から声が聞こえてくるではありませんか。

 「そ、そうです。おれは、この近くの村の者です」

 若者は獣の声に答えました。

 また、獣の方から声が聞こえてきました。

 [そうか。お前はこの辺りの村の者か]

 獣はゆっくり息を吸うと、若者の方を見直し、若者に尋ねてきました。

 [この辺りの地は乾ききり、湿り気が無くなっている。雨が降っていないのか]

 若者は獣がこの地を理解している事に驚きましたが、とりあえず、答えました。

 この辺りは雨が降らない日が何日も続いて、乾ききってしまっている。おかげで川は干上がり、作物もどんどん枯れ始めて、人々の暮らしも苦しくなっていっていると。

 若者の話をすべて聞くと、獣は立ち上がりました。若者はびっくりして慌てて外に出ました。

 獣もまた若者を追うように大きな足で地面を歩きながら洞窟の中から出てきました。

 そして獣は空を見上げて言いました。

 [この地は乾きすぎている。この地には雨が必要だ。わたしが雨を降らせよう]

 獣は一言言うとその大きな翼を羽ばたかせて飛び上がり、そのまま飛んで行ってしまいました。

 若者は呆気にとられてしまっていましたが、その後村へ帰り、村の人々に獣の事を話しました。

 けれども、誰も若者の話を信じてはくれませんでした。若者がどんなに獣の事を離そうとも、誰もその話を本当の話だとは思ってくれませんでした。

 しかしその夜、雨が大きな音を立てながら降り始めました。

 若者は外に出て空を見上げて驚きました。なんと、空を覆う雲の中をあの獣が大きな翼を羽ばたかせて飛んでいるではありませんか。

 若者は獣の姿を見つけると、村人達を呼んで空を見させました。村人達は空を駆ける獣の姿を見てたまげました。若者は話は本当だったのだと、初めて信じました。

 雨は今まで降らなかった分と言わんばかりに降り続け、乾ききった土に浸み込み、干上がりそうになっていた川を元に戻しました。

 雨が止む頃には川が元に戻った事により川に多くの魚達が戻ってきて、枯れそうになっていた作物が実っていました。

 人々は奇跡だと言って大喜びしました。そして、この雨はあの獣が降らせてくれたのだと悟りました。 人々は奇跡の雨を降らせてくれた獣を神様の獣、"神獣"と呼んで感謝して、お祭りをしました。

 その後、その村は元の豊かさを取り戻し、雨も元通り降るようになり、村の人々はいつまでも平和に暮らす事が出来ましたとさ。

                                  おしまい

 

 懐夢は絵本を一通り読み終えた。

 不思議な内容だと思った。

 そして神獣というものに興味を持った。背中に大きな翼を生やし、首元から蒼白く透き通った布のようなものを生やした巨大な狼など、見た事がない。この神獣というのは、何だったのだろうか。

 懐夢がじっと神獣の事を考えていると早苗が話しかけてきた。

 

「いかがでした?」

 

 懐夢は本から目を離して早苗を見た。

 

「面白かったです」

 

 早苗はにこっと笑った。

 

「でしょう」

 

 懐夢は目を絵本の方に戻し、数ページ捲って神獣が初めて出てきた場面のページを開いた。

 

「この神獣っていうの、すごいですね。その地の状況を把握して、雨を降らせたんですから」

 

 早苗は頷いて懐夢の持つ絵本を見た。

 

「神獣様は天気を操れるんです。だから、神獣様は雨を降らして人々を救ったんですよ。神獣様は……とても心優しい神様なんです」

 

 早苗が言うと、テーブルの向こう側にいる霊夢が溜息を吐いた。

 

「あんた、そんなお伽話を信じるなんて、ほんと夢想家(ロマンチスト)ね。あんたの言う神獣なんて、お伽話の中だけの存在でしょう。そんな気象を操るとかスペルカードじみた能力を持つ奴なんて、いるわけないわ。まぁ輝夜みたいな例外はいるけれどね」

 

 早苗はむっと言って霊夢の方を見た。

 

「いるんですよ! 神獣様は! 実在するんです!!」

 

 早苗は言い張ったが、霊夢は溜め息を吐き、早苗を見直した。

 

「その証拠は? あんた神獣とかいうのに会った事でもあるの?」

 

 早苗は頷いた。

 

「はい。私、神獣様に会った事あります」

 

 懐夢は首を傾げた。

 

「え? 早苗さんそれ本当ですか?」

 

 早苗は懐夢の方を向いて頷くと若干上を向いて語り始めた。

 

 ―――早苗がまだ六歳の頃だった。即ち今から十年前で、まだ外の世界にいた頃だ。

 ある夏、早苗の住む町に雨が降り続いた。

 道路も公園も降り続く雨で水浸しになったが、学校に行けぬほどではなかったので早苗達学童は傘を差して長靴を履いて登校していた。

 いつも通り一日の授業が終わり、下校していた時だった。

 早苗は水浸しになった通学路を傘を差しながら家を目指して歩いていた。

 車が水を撥ねながら行き交う大きな交差点の横断歩道に差し掛かったその時、大きな音が聞こえてきた。

 何かと思い、傘を退けて見てみたところ、車が道路を滑りながらこちらに向かって猛スピードで向かってきていた。―――雨水で滑り、スリップしたのだ。

 早苗は突っ込んでくる車を見た途端、凍り付いてしまったように動けなくなった。避けようとしても、体が動いてくれない。

 車は容赦なく早苗に接近し、そして、早苗にぶつかろうとした。

 その時、突如早苗は尻餅をついてぎゅっと目を瞑った。突然、上から強力な風が吹いてきたのだ。

 そして、ふっと目の前が暗くなった。その直後、激突音が聞こえてきたがそれは小さく、聞こえてきてすぐに消えた。

 まるで無風の中にでも入ったかのような静けさに、体を包まれているような気がした。そして、どこか暖かかった。

 目を開けると、そこには上から垂れ下がる、白銀に輝く動物の毛があった。首を動かしてあちこちを見回したが、どこを見ても白銀に輝く毛のカーテンしかなかった。

戸惑っていると、突然毛のカーテンが音を立てて動き出し、カーテンの外の景色が映り込んできた。

 まず見えてきたのは早苗にぶつかろうとした車だった。車は横転して、倒木のように道路に転がっていた。

 ドライバーは外に投げ出されており、車体の前方が何かに激突したように大きく歪んでいた。

 早苗は立ち上がって、目の前にあるものを見た。その途端、先程と同じように凍りついた。

 

 目の前にいたのは、この大きな交差点をすっぽり覆ってしまうほど巨大な翼を背中に生やし、首元から青白い透き通った布のようなものを生やし、白銀に輝く針のような体毛に身を包んだ蒼色の瞳の巨大な狼だった。

 

「……神……獣……?」

 

 それはまさしく、大好きな昔話の絵本の中に登場し、枯渇と干ばつに苦しむ人々に恵みを雨を齎して救ったとされる獣の神、「神獣」だった。

 神獣は、数歩下がると伏せ、頭を下げて、早苗の目の高さと同じくらいの高さまで自らの目線を下げ、じっと早苗の事を見ていた。

 早苗は神獣と目を合わせるなり、頬を抓った。これは夢ではないかと思ったからだ。

 しかし、どんなに頬を抓っても痛みしか来なかった。―――目が覚めるような事は、ちっともなかった。

 早苗はこれが夢でない事を確認すると、呆然とした。

 ……今自分の目の前にいるのは、本物の神獣だ。

 

「あ……あの……」

 

 小さく声を出したその時、早苗は神獣の顔に変化が起きた事に気付いた。

 神獣が、こちらを見て微笑んでいる。―――まるで、無事でよかったと言っているかのように。

 その猛々しい見た目に反する優しい微笑みを見た途端、早苗は言葉を止めて、ある事にようやく気付いた。

 ……自分はこの神獣に命を救ってもらったのだ。その事に関しては、礼を言わなければならない。

 早苗は微笑む神獣に向かって、頭を下げた。

 

「あの……助けてくれてありがとうございました」

 

 早苗がぎこちなく礼を言い、頭を上げると神獣は身体を起こし、ぐいっと頭を上げて空に向かって遠吠えした。それは、一般的な狼の遠吠えとは違い、指笛のような甲高い音だった。

神獣が空に向かって遠吠えし、その声が辺りに木霊した瞬間、空を覆っていた全ての雲が、煙に息を吹きかけたかのように一気に吹き飛んだ。

 空は、満天の快晴になった。

 早苗は呆然とした。

 

(―――神獣が、天気を、変えた……)

 

 神獣は遠吠えを終えると、再び視線を早苗の方に向け、また伏せようとした、

 その時、早苗の背後から男の声が聞こえてきた。振り返ってみれば警察の人がこちらに向かって走ってきているのが見えた。近くには数台のパトカーが来ている。

 神獣は警察の人がやってくるのを見ると、伏せようとするのをやめ、交差点をすっぽり覆ってしまうような翼を広げた。

 早苗がそれに気付いて神獣の方を向き直したその時、神獣は翼を羽ばたかせて空へ舞い上がった。神獣が羽ばたいた時には、台風のような突風が巻き起こり、早苗、車、人、街路樹、ビルに付けられている看板すらも吹き飛ばされそうになった。早苗はその時また目を瞑った。そして目を再び開いた時にはもう既に、神獣の姿はなかった。

 その後、早苗は警察の人に保護され、警察の人によって家に帰されたが、神獣に会った時から頭が麻痺してしまって、家に着くまでの記憶が全くと言っていいほどなかった。

 早苗は家に着いた事に気付くと、心配する母を押し退けて一気に本棚に向かい、大事にとっておいた大好きな神獣の昔話の絵本を開いた。そこには確かに、先程と同じ神獣の姿が描かれていた。―――間違いない。先程の神獣はこれだ。自分は間違いなく、この神獣と出会った。

 早苗はまるで夢でも見ているような気がして、懲りずにまた頬を抓った。

 しかしどんなに抓っても、夢が覚めるような事はなかった。

 神獣と会ったのは、間違いのない現実だった。

 早苗は神獣が実在するという確証を得たが、母親や友達に神獣の事を話そうとはしなかった。

 何故ならば早苗が神獣に会う前に母親や友達は何度も「神獣なんかいない」と言っていたからだ。

 ……言ったところで信じてもらえないのは、目に見えていた。

 そしてその数日後、早苗のそれを確信付かせる出来事があった。

 それは、テレビのニュース報道だ。早苗が神獣と会った翌日、この一件の事がテレビで報道されたのだ。

 事故現場にてアナウンサーが生中継しているといういつもの内容だった。

 生中継しているテレビ局のアナウンサーは事故の当事者の複数の人にインタビューをしたようで、インタビューをした内容を話した。

 少女にスリップした車がぶつかろうとしたその時、少女から暴風が起き、スリップした車が突然何かにぶつかったかのように跳ね飛ばされ、その後すぐに甲高い指笛のような音が聞こえ、空の雲が一気に吹き飛び、巨大な鳥が翼を羽ばたかせたかのような暴風が起きた。とアナウンサーは言った。

早苗はすぐに違和感を感じた。

 アナウンサーは確かにインタビューをしてあの時起きた事を話したが、「巨大な翼を生やした巨大な狼が現れた」とは言わなかった。

 これはつまり、誰も「神獣を見ていない」という事だ。

 早苗はおかしいと思った。あの時確かに、神獣が現れて自分を助けてくれ、雨を降らせていた雲を吹き飛ばしてくれた。そして[無事でよかった]と微笑んでくれた。

 だのに、誰もそれを見ていないと言う。

 あんなにしっかり見えていたのに、誰も見ていないって言う。

 早苗はしばらく考えた後、結論を出した。

 それは、「神獣は自分以外の人には見えない」だ。

 自分は以前、祖母の家にある神社に祀られている二人の神に会い、話をした事があり、その時周りの人々に不思議がられた事があった。そして神との話を終えて母の元に戻ってくると、母は独り言?と言ってきた。

 その時、自分は神様と話をしたと素直に言ったが、母は苦笑するだけで話をまともに聞いてくれなかった。

 早苗はその後様々な人に神の事を話したが誰一人としてそれを信じてはくれなかった。

 やがて早苗はこう思い込むようになった。

 「神様はわたしにだけ見えるんだ」と。

 それ以来早苗は神の事を他人に話すのをやめた。

 そして、今回の神獣の事も同じだと思った。

 神獣は道行く人々、駆け付けた警察には見えなかったのだ。

 自分にだけ見えたのだ。

 神獣は神と同じで自分にだけ見える存在なのだ。

 自分以外の人間には怪奇現象としか認識されない存在なのだ。

 ―――母と父がニュースを見て不思議がる中、早苗はただ黙ってそう思っていた。

 

 その後早苗が再び神獣を見たのは一年後の秋だった。早苗の住む町に台風のような嵐がやってきたのだ。流石にこの時は学校は休校になり、早苗は家の自分の部屋の机に向かい、自習をしていた。

 その最中、窓の外から甲高い指笛のような音が聞こえてきた。

 早苗はその音を聞くとびっくりして、窓から空を眺めた。

 ……まるで、雨雲が渦を巻いているような天気だった。

 早苗はじっと渦を巻く雨雲を見ていたが、その時、あるものが見えて驚いた。

 ―――神獣だ。渦巻く雨雲をものともせず神獣が空を駆けている。

 早苗は神獣の姿を見るなり、あの音の正体を確信した。あれは、神獣の鳴き声だ。

 神獣はまるで早苗に元気かと声をかけるかのように鳴き、家の近くを飛びまわっていた。

 早苗は近くにあった雨具を身に纏い、二階と一階を繋ぐ階段を駆け下り、玄関まで来ると長靴を履いて外に出た。

 強い風と雨が吹き付けてきたが、早苗は負けじと空を見上げた。そして、叫んだ。

 

「神獣様ー! わたしは元気ですー! 心配しなくたって大丈夫ですー!」

 

 神獣の見えぬ人間達に何と言われようとも、どんなふうに思われても構わない。ただこの声が神獣に届きますようにと、叫んだ。

 精一杯叫ぶと、神獣が指笛にも似た鳴き声を返してきた。

 早苗がそれを聞き取り空を再度見上げた時には、神獣は渦を巻いているような雨雲の中へ消えていった。

 早苗は神獣が飛び去って行ったのを確認すると、家の中に入ったが、その約一時間後に嵐は止み、まるで嵐が来ていたのが嘘のように空は晴れた。

 早苗は神獣が去った後に空が晴れたのを見てまた確信を得た。

 神獣が前自分の元に現れた時には嵐のような雨が降っていた。そして今回もまた嵐の日に神獣は自分の元にやってきた。

 きっと前と今日の嵐は神獣が起こしたものだ。気象を思いのままに操る事のできる力を持つ神獣だ、これは間違いない。

 神獣はきっと嵐を引き連れてこの町へやって来ているのだ。つまり、大きな嵐が来た日に外に出れば神獣見る事ができ、会う事ができるのだ。

 早苗はそれを掴むと嵐の日を待ち望むようになり、嵐の日の昼間、神獣の声が聞こえると外に出て、神獣に会った。

 その時、早苗は家の近くで会うと神獣が見えない人に変に思われると思って、家からほんの少し離れた場所にある自然公園に神獣に教えた。

 神獣は自然公園の存在を知ると、それ以降そこに着地するようになった。

 早苗と神獣は、そこで会うようになった。

 神獣は早苗が雨を嫌がると嵐を止めてくれた。

 神獣は早苗が身体を触らせてほしいと言うと、嫌な顔をせずにその毛を、翼を触らせてくれた。

 神獣は早苗が眠気を感じるとその身に寄り掛からせてくれ、昼寝させてくれた。

 神獣は早苗の話を楽しげに聞いてくれた。神獣は、自分の事は喋りはしなかったが、早苗はそれでも満足だった。

 神獣は早苗の愚痴も嫌な顔一つせずに聞き続けてくれた。

 

 早苗はそんな神獣を、いつの日かかけがえのない存在だと思うようになった。

 

(……いつまでも一緒にいようね。いつまでも、会いに来てね……)

 

 早苗は神獣に抱き付きながら、呟いた。

 

 

 

「以上です」

 

「え!?」

 

 懐夢は早苗の突然の話の中断に驚いた。

 あまりにいいところで、区切られてしまったような気がしたからだ。

 

「え、何でですか!? いいところなのに!」

 

 早苗は苦笑した。

 

「これ以上先は身内の話になるんです。そんな簡単に話す事のできる話じゃないんですよ」

 

 懐夢は早苗の話を聞いてしょんぼりとした。

 流石に、早苗の身内の話まで聞くつもりはない。そこまで、早苗に干渉してしまうつもりはない。

 

「……そうですよね……流石に早苗さんの家族の話を聞くわけにはいきません」

 

 でも、この話の続きは気になって仕方がなかった。

 その時、早苗が懐夢に話しかけた。

 

「そうですねぇ……懐夢くんがもしこの先、もっと私と仲良くなってくれたのであれば、話してあげない事もないですよ?」

 

 懐夢は目を輝かせて早苗を見た。

 

「本当!?」

 

「えぇ。本当ですよ」

 

 早苗は頷くと、霊夢の方を向いた。

 

「霊夢さんも、私と仲良くなってくれれば今の話の続きを聞かせてあげますよ?」

 

 早苗が笑いかけたが、霊夢はじっと顎に手を当てて何かを考え込んだまま動かず、答えずにいた。

 それを見た懐夢と早苗は首を傾げ、霊夢に再度声をかけた。

 

「霊夢さん?」

 

「霊夢?」

 

 霊夢は顔を上げた。

 

「ねぇ早苗。その神獣だけど、そいつ天気を操れるのよね?」

 

「は、はい」

 

「そいつ、嵐に乗るような感じであんたに会いに来てたのよね?」

 

「はい」

 

 早苗の言葉を聞いた途端、霊夢の中に鋭い衝撃のようなものが走った。

 そう、この入道雲と、あの時入道雲の中から見えた"あれ"だ。

 "あれ"は入道雲を従えているかのように飛んでいた。

 神獣は嵐、すなわち嵐を起こす入道雲を従えて飛ぶと言っていた。

 早苗の話す神獣の特徴と、"あれ"の特徴は似ていた。いや、合致していた。

 もし"あれ"が早苗の言う神獣なのだとしたら……。

 

 そう考えたその時、外からある音が飛び込んできた。

 ……まるで指笛のような、甲高い音だ。

 懐夢と霊夢はそれを聞いて、思わず辺りを見回してしまった。

 

「な、なに今の音?」

 

「指笛……? でもこの嵐の中で……?」

 

 霊夢と懐夢が指笛のような音を不思議がる中、早苗は中庭の方を見ながらすたっと立ち上がった。

 

「……神獣……様……?」

 

 それに気付いた懐夢は早苗の方を見た。

 

「早苗さん?」

 

 懐夢が声をかけた途端、早苗は身体を繋いでいた紐が切れたかのようにびゅんっと走り、戸を開けて外に出て、勢いよく空へ舞い上がった。

 そして、一目散に入道雲の中へと飛んで行ってしまった。

 

「馬鹿! 待ちなさい早苗!!」

 

 霊夢は慌てて境内に出て叫んだが、もう既に早苗の姿は見えなかった。

 

「早苗さん……雷雲の中に……行っちゃった……」

 

 懐夢は呆然として上空の入道雲を見て、霊夢に話しかけた。

 

「早苗さんって、あぁいう人なの……?」

 

 霊夢は何もせず答えた。

 

「……わからないわ。ただ、今の早苗、いつもの早苗じゃなかった気がする」

 

 霊夢と懐夢はただぼんやりと、荒れ狂う入道雲を見つめた。

 その直後、雨の音が変わりだした。どおおおおおおおおという音から、ばたばたばたばたばたという水ではなく何かの塊が降っているような音になった。

 霊夢は何事かと思い中庭を見た。中庭に、雨ではない何かが降ってきて、ばしゃばしゃと水が勢いよく跳ねている。

 

「な、何……?」

 

 懐夢が突然の事に戸惑っていると、足元に地面を跳ねた何かが転がって来た。

 懐夢はそれを手に取ってまじまじと見つめた。

 それは冷たい、氷の塊だった。

 懐夢は、霊夢に氷の塊を差し出した。

 

「霊夢、氷が降ってきてる……」

 

 霊夢は懐夢から氷の塊を受け取って見つめると上の入道雲を眺めた。

 

「これ……雹だわ。この入道雲、雹を降らせる雲だったのね……!」

 

「ひょう? ひょうって?」

 

 懐夢が霊夢の発した言葉に戸惑うと、霊夢は氷の塊を右手に持ち、左手で懐夢の手を掴んだ。

 

「それは後で説明するから、今は中に入りましょう。当たったら危ないわ」

 

 霊夢はそのまま懐夢を連れて居間に入り込み、戸を閉めた。

 その後すぐに窓から空を眺めて、突然聞こえてきた音と入道雲の中へ消えた早苗と神獣の話を思い出した。

 突然外から聞こえてきた音は、指笛に似た甲高い音だった。

 早苗によれば、話に出てきた神獣は指笛のような声で鳴くらしい。

 という事はあれが神獣の鳴き声だと言うのだろうか。

 そして早苗は、あの音を聞いた途端、神獣と呟いて、入道雲の中へ突っ込んで行った。この、雹を降らせる入道雲の中へと。

 もし早苗がこの入道雲の中にいると思われる神獣に会いに行ったのだとすれば、どうしてそこまでしたのだろうか。

 どうして神獣に会う為だけに、こんな降り頻る雹の中へ飛び込んでいったのだろうか。

 ……いまいちわからなかった。

 早苗は神獣と仲良くしていたという話だが、神獣の鳴き声を聞いた時の早苗の顔は普通ではなかった。

 一体、神獣と早苗の間に何があったというのだろうか。気になる。

 もしかしたら、早苗の話の続きに、それがあるのかもしれない。

 

「早苗と仲良くしてみる価値、あるかもしれない」

 

 霊夢は雹の降り頻る外を見ながら呟いた。

 




神獣とは。

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