東方双夢譚   作:クジュラ・レイ

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12 故郷の跡

 霊夢は慧音との相談を終えた後、懐夢に「一人で博麗神社に戻りなさい」という指示を下した。懐夢は突然の指示に驚き、それでは霊夢を守る事が出来ないじゃないかと反論したが、霊夢はこれから行く場所は懐夢に守られる必要のない場所であると説いた。それでも懐夢は納得しようとせず付いて来ようとするものだから、霊夢は「これから行く場所は完全な男子禁制の場所であり、男を嫌う女の人がいる場所で、もし懐夢が踏み入れようとしようものなら、もう行く事が出来なくなってしまう。自分にとってはかなり重要な場所だから踏み入れられなくなるのは困る」と真実に見せかけた嘘を懐夢に吹き込んだ。そこでようやく懐夢は納得してくれて、早めに戻って来てくれと霊夢と霊華に伝えて、博麗神社へと飛び立っていった。

 その後ろ姿を見て、霊夢は溜息を吐き、片手で顔を覆った。

 

「何言ってんだか、私ってば。もう懐夢に嘘は吐かないって決めてたのに、結局また嘘を吐いて……」

 

 落ち込む霊夢に、霊華が声をかける。

 

「霊夢、これから、男子禁制の場所に行くとか言ってたけれど」

 

 霊夢は霊華に掌を向けた。

 

「あれは嘘よ。見せかけ(ブラフ)だし、大袈裟(ハッタリ)だわ」

 

 霊夢は顔から手を離し、もう一度溜息を吐いた。

 

「あそこには、懐夢は連れていけないから、意地でもここで帰らせる必要があったのよ」

 

「そんな場所に、これから行くの」

 

「えぇ。もしかしたら、あんたの記憶にまつわる場所かもしれないからね」

 

 霊夢は霊華に顔を向けた。

 

「そういえば霊華、あんた空の飛び方わかる?」

 

「え、空を飛ぶ?」

 

「えぇ。私達の目の前に現れた時、あんたは空を駆けていたわ」

 

 霊華が驚愕したような顔になる。

 

「そ、空を飛んでた? わ、私が?」

 

「そうよ。だからあんたは空を飛べるんだろうけれど……その様子だと空の飛び方すらも覚えてないみたいね。今から行く場所には空を飛んでいく必要があるんだけど……」

 

「空を飛んで行かなきゃ着けない場所って、一体どこよ」

 

 霊夢は霊華の身体をじっと見つめた。霊華はきっと空を飛ぶ能力の使い方を忘れているだけであり、使うことそのものは不可能ではないはずだ。だから、ちょっと教えてしまえばすぐに飛べるようになるはず。

 

「話はついてからするわ。霊華、試しにジャンプして意識を空に向けてみなさい」

 

「え。なんで」

 

「いいから、ジャンプして意識を空に向けなさい」

 

 突然の指示に戸惑っているのか、霊華はいまいちよく理解できないような顔になったが、霊夢の指示通りの動きをした。直後、霊華の身体はふわりと浮きあがり、宙に舞い上がった。……憶測通りだった。やはり霊華には最初から空を飛べるだけの力が備わっていたのだ。これならば、霊華をあそこへ連れて行く事が出来る。そう思ったの束の間、霊華は宙で慌て犇めき始めた。

 

「きゃあ、きゃああ!? 私、と、飛んでる!?」

 

 霊華と同じように地面を蹴り上げて宙へ舞い上がり、霊華のいる高さと同じところまで行き、霊夢は霊華に話しかける。

 

「ほらやっぱり。あんたには空を飛ぶ力が最初から備わっていたんだわ」

 

 遠くにある地面を見ながら、霊華は焦る。

 

「な、なんで飛べてるの、どうやって飛んでるの、私」

 

「そんな事は気にしない。飛び方とかはやりながら教えるから、私に付いてきて」

 

 霊夢が前方向へ向けて飛び始めると、霊華は慌てて霊夢に指示を求めた。

 

「ちょっと、どこに行くのよ! どうすればそっちにいけるのよ!」

 

「私の隣に意識を向けなさい。そのうち思い通りの飛行が出来るようになって、気持ちよく飛べるようになるから」

 

 そう言って、霊華から離れてみると、霊華はゆっくりとこちらに向かって飛んできた。空を飛べることを忘れている霊華がゆっくり恐る恐る飛ぶ姿は、まるで自らの翼で飛べるようになったばかりの雛鳥を思わせる。そして自分は、飛び方を教えて、空へ我が子を導こうとしている親鳥だ。もし鳥達が言葉を発していたならば、今の自分のような事を、親鳥は雛鳥へ言っているに違いない。

 そんな事を考えていると、霊華は自分のすぐ隣へ並んできた。姿勢や表情が安定している事から、どうやら飛び方を掴んだらしい。

 

「あんた、もう飛び方を掴んだの」

 

 霊華の顔が見る見るうちに笑顔に変わった。

 

「そう……みたい。なんだか、すごく気持ちいい」

 

 霊夢は思わず驚いた。霊華は飛ぶ能力を元から持ち合わせているとはいえ、今回が初めての飛行だ。上手く飛べるようになるにはそれなりに時間がかかるのではないかと思っていたが、まさかこんな数秒程度で空を掴むとは思ってもみなかった。そしてこの習得速度は、五ヶ月かかる修行を一ヶ月で終わらせた懐夢の事を思い出させた。きっと、今抱いている気持ちはその時の霊紗と紫が抱いていたであろう気持ちとほとんど同じものであるに違いない。

 ……もう、霊華を連れて大蛇里跡まで行く事が出来る。

 

「ねぇ、これからどこへ行くの? 出来れば、もっと速度を上げて飛びたい」

 

「向かう方角はこっちよ。速度を出すってんなら、容赦ない速度で行くわよ」

 

「問題ないわ。寧ろ、それくらいで飛びたい。それで、目的地まで一気に行きたい!」

 

 まるで小さな子供のようにうきうきとしている霊華を見つめて、霊夢はこれから向かうところの事を考え、やるせなさが胸に湧いて出てくるのを感じた。今から向かうところが崩壊した村の跡だとは、霊華は夢にも思っておらず、どこか楽しい場所に行くと考えているに違いない。やはり大蛇里に霊華を連れていくのはやめようかと霊夢は一瞬考えたが、すぐに首を横に振った。もしかしたら、霊華を大蛇里に連れていく事で霊華の失われた記憶を取り戻す事が出来るかもしれないし、霊華自身、失われた記憶を取り戻す事を望んでいるはずだ。

 霊夢は深呼吸をした後、目的地に身体を向けて、霊華へ声をかけた。

 

「よし、わかったわ。そこまで一気にいくわよ」

 

 霊夢は空気の壁を蹴るような仕草をして一気に加速し、空気を切り裂いて目的地の方角目指して飛び始めた。

 

 

         *

 

 

 

 目的地に降り立つと、空を駆ける喜びと楽しさに心を踊らせているかのような明るい表情を浮かべていた霊華の顔は一気に唖然としたかのようなものへと変わった。

 

「え、なにここ……」

 

 霊夢は辺りを見回した。あちこちに激しい怒りと嫌悪の炎に焼き払われて爛れ崩れた家屋と、木材の欠片が散乱していて、人は勿論、妖怪や動物の気配すら感じない、虚無感を感じさせる光景が広がっている。そんなこの場所こそが、懐夢の故郷だった村、大蛇里の跡だ。幻想郷の季節は秋に変わったが、ここだけは春訪れた時となんら変わっておらず、崩れた家屋や木材が辺りに散乱しているだけで、まるでここだけ時が止まってしまっているかのようにも思える。

 

「ここは、大蛇里。あの子……懐夢の故郷だったところよ」

 

 霊華は驚いて、霊夢の方へ顔を向ける。

 

「ここが懐夢の故郷? こんなの、ただの廃墟じゃない……」

 

 霊夢は静かに頷いた。

 

「そうよ。今となってはただの廃墟。ついこの前まではちゃんとした村だったそうよ」

 

 直後、霊華は何かに気付いたような顔になって、霊夢の目の前に躍り出た。

 

「ねぇ、あの子のご両親は? あの子って、貴方と二人で暮らしてるのよね」

 

 霊夢は俯き、懐夢の両親と、懐夢がいかにして博麗神社にやって来たかを話した。

 霊夢が話しを終えると、霊華は口を覆って、悲しげな表情を浮かべた。

 

「そんな……両親も、故郷も、何もかも失って博麗神社(あなたのところ)に来たっていうの、あの子は」

 

「そうよ。私も最初は吃驚したわ。懐夢の両親の事も、故郷がこんな事になってる事も」

 

 霊華は恐る恐る霊夢に尋ねた。

 

「ねぇ……この事を、この村の惨状を、懐夢は見た事があるの」

 

 懐夢には大蛇里の跡に行って愈惟の日記を見つけてきた事を伝える事くらいしかしておらず、廃墟となったこの大蛇里に連れて来させた事はない。だから懐夢はこの村の惨状を知らないままだ。そしてそれはきっと、懐夢には教えてはならない事だろう。

 霊夢は首を横に振った。

 

「いいえ。あの子をここに連れてきた事はないわ。あんたはここに懐夢を連れて来たいの」

 

 霊華もまた、首を横に振り、黙り込んだ。しかし、すぐに霊華は口を開いて、霊夢に問うた。

 

「ねぇ霊夢。この村は、どうしてこんな事になってるの。貴方は、どうしてこの村がこんな事になったのかわかるの」

 

 霊夢はゆっくりと頷き、大蛇里が滅びた理由を、滅ぼした元凶の事を霊華に話した。

 霊華は驚愕したような顔になって、目を見開いた。

 

「忌む理由のないこの村を、忌んでいた集団が襲ったの」

 

 霊夢は辺りを見回しながら頷いた。

 

「そう。その集団は専らカルト武装集団って呼ばれて、幻想郷中から悪者扱いされてるみたいよ」

 

 しかし、実はそのカルト集団も、謎だらけの存在だ。この事件が発生してから半年以上経っているが、未だにこのカルト集団がどこの街、どこの村を拠点とした存在であるか、発覚していないのだ。普通ならば数カ月程度で正体がわかり、自警団や防衛隊などに捕まるはずだというのに、あの集団に至っては全くと言っていいほど詳細がわかっていない。だから捕まえようにも、どこにいるのか、そもそも何人の集団なのか、人間なのか、妖怪なのか、何もわからない。それどころか、見つける事すらも出来ない。

 もし見つける事が出来たなら、懐夢の両親及び村民達の仇を、異変解決という形で取ろうと考えていたが、見つけられないのでどうする事も出来なかった。

 

「その人達は今どこで」

 

「どこにもいないわ。どこにいるか、わからないのよ。だから、どうしてこの村を滅ぼしたのか、村民をみんな殺したのか、わからない」

 

 霊華はスカートを握りしめて、震えた。そしてそのまま、霊夢に問うた。

 

「それで……どうして私をここへ連れて来たの。懐夢に話せないような事を、話すため?」

 

 霊夢は首を横に振り、霊華の方へ身体を向けた。

 

「霊華。もしかしたらあんたは、ここの村民の一人かもしれないのよ」

 

 霊華は「え?」と言った。

 霊夢は続ける。

 

「あんたはさっき、藍色の目をしてる人を知っているって言ったわよね」

 

「えぇ。なんだか、藍色の目をした人の記憶が、ぼんやりとあるの」

 

「――私達が知る藍色の目の人は、懐夢と懐夢の母さんである百詠愈惟さんの二人だけなの。もしかしたらあんたの知る藍色の目の人っていうのは、このどちらかかもしれないのよ。そして懐夢が博麗神社に来るまでこの二人の事を知っていたのは、父親である矢久斗、大蛇里の村民だけ。でも懐夢は貴方の事を知らなかったから、懐夢ではなさそうね」

 

「つまり私が、記憶を失う前はここで暮らしてて、懐夢のおかあさんと知り合ってた可能性があるっていうの」

 

「そうよ。ねぇ、霊華。この村の光景を見て、何かを思い出さない? 家屋は焼け爛れてたりするけど、地形はそんなに変わっていないはずよ。何か、思い出せる事はない?」

 

 霊華は辺りを見回し、眉を寄せたが、すぐに首を横に振った。

 

「……駄目。何も思い出せない。酷い光景に胸が痛くなるだけ」

 

「本当に? 本当にそうなの」

 

 霊華はもう一度辺りを見回したが、やはり首を横に振った。

 

「何も、思い出せない。なんだか、この辺りにいるのはすごく辛い」

 

 霊夢は静かに溜息を吐いた。もし霊華が大蛇里出身だったのであれば、ここで様々な記憶を思い出すだろうと考えたのだが、どうやら自分の考えは外れていたようだ。――霊華は大蛇里出身の人間ではない。それに、霊華の言葉には霊夢も同意見だった。もしも自分が懐夢と出会っていなかったのであれば、このような場所に来ても何も感じなかっただろうが、共に生活している懐夢の故郷であると知ってからは、ここにいて、この破壊されてしまった光景を見るのがとても辛くなった。一刻も早く帰りたいところだが、そうはいかない。何故なら霊華を連れてくるほかに、目的があるのだから。

 

「私も辛いわ。早く帰りたい。でもね、ちょっと用事があるの」

 

 そう言って、霊夢は村のある場所に向かって歩き出した。その後を、霊華は慌てて追った。

 

「ちょっと、どこへ行くのよ! おいていかないで」

 

「おいていかないわよ」

 

 霊夢は霊華の歩く速度に歩調を合わせて、霊華を隣に並べて歩いた。何の匂いも風も感じない、まるで本当に時が止まってしまっているかのような廃村の中をしばらく歩き、とある場所に辿り着いたところで、霊夢は足を止めた。突然停止した霊夢に、霊華は声をかける。

 

「霊夢、どうしたの」

 

 霊夢は周囲の地面を見回した。確かこの辺りだったはずだ、愈惟の日記を見つけた場所は。あの時は箱の中に入っていて燃えずに済んだ日記帳の下を見つけたが、もしかしたら下と同じように上も箱に入って状態で落ちているかもしれない。そしてそれは、下のあったここから、あまり遠くない位置にあるはずだ。

 きょろきょろと周囲を見回す霊夢を不思議がり、霊華は首を傾げる。

 

「どうしたの、霊夢。さっきから、何を探してるの」

 

 霊夢は霊華に顔を向けた。

 

「霊華、箱を探してくれるかしら」

 

「箱?」

 

「そう。丁度、筆記帳が入りそうな大きさの箱。それがこの辺りに落ちているかもしれないの。それを、私と一緒に探してくれる」

 

「いいけれど、何で箱なの?」

 

「いいから、探して頂戴。無かったら無かったで、事情を話すから」

 

 霊華は納得できていないような顔をしながら頷き、辺りの地面を見回し始めた。同時に、霊夢も周囲を歩き回り、箱がないかどうか探し始めた。前に見つけた時、箱は煌びやかに光るもので見つけやすかったが、状の箱もきっと同じようなものであるはず。輝く箱であれば、すぐに見つける事が出来るはずだと思いながら霊夢は辺りを探し回ったが、一向にそれらしきものは見つからなかった。試しに近くにある崩れた廃屋の中に入り込んだり、木材を退かしたりしてみたが、煤や灰を被って咳き込むくらいの結果しか得られなかった。やはり下を見つけられたのは奇跡で、上は燃えてしまったのだろうか。そもそも考えてみれば、上もまた下と同じようにはこの中に入っているなどというのは浅はかな考えだ。本当にそうとは限らないし、もしかしたら箱に入っていたのは下だけで、上の方は他の本と纏められていたかもしれない。そうなれば今頃上は焼け爛れた家屋と一緒に煤にでもなっているだろう。

 

「やっぱり上も見つけようなんてのは、甘い考えだったのかしら」

 

 身体中に付着した煤と灰を払い除けて、溜息を吐いたその時、背後から声が聞こえてきた。

 

「霊夢、箱ってもしかしてこれの事?」

 

 霊夢は少し驚いて、ばっと振り返った。そこには煤と灰を少し被った霊華が立っており、その手に四角い固形物を持っている。

 

「あぁ霊華。どうかした――」

 

 その固形物を見るなり、霊夢は目を見開いた。霊華の手に持たれている固形物は、筆記帳が入りそうなくらいの大きさで、下の入っていたものと非常によく似ていた。

 

「ちょ、ちょっとそれ!」

 

 霊夢は霊華から固形物を取り上げて、じっと眺めた。確かに下の入っていたものと似た形をしている。そして蓋のようなものが付いている事から、箱である事に間違いはないようだ。固形物をまじまじと見つめる霊夢に霊華は不思議がり、首を傾げた。

 

「霊夢?」

 

 霊夢は霊華を無視し、固形物の蓋を開いた。中を覗いてみれば、そこには一冊の筆記帳が収められており、霊夢は目を丸くして筆記帳を取り出した。筆記帳の大きさは前に拾った愈惟の日記の下と同じ大きさで、紙の質もほとんど同じで、辞書か何かと間違えるくらいに分厚い。そして表紙の方に目を向けたところで、霊夢は「あっ」と声を出した。表紙には、『百詠愈惟』という散々見た名前が書かれている。これがおそらく、愈惟の日記の上だ。

 

「見つけた……!」

 

 霊華がもう一度呟くように言う。

 

「ねぇ霊夢、本当に、どうしたの」

 

 霊夢は霊華に顔を向けた。

 

「霊華、帰るわよ。もうここにいる必要はないわ」

 

 突然目的が終了したと主張し始めた霊夢に霊華は混乱した。

 

「えぇっ、帰るの。本当に、何のためにここに来たのよ」

 

 霊夢は霊華に筆記帳を見せて、少し険しい表情を顔に浮かべた。

 

「問題の物が手に入ったのよ。内容は帰りながら教えるわ。さ、飛ぶわよ」

 

 そう言った後に、霊夢が地面を蹴り上げて宙へ舞い上がると、霊華はその後を追うように慌てて宙へ舞い上がった。上空へ到達するや否、二人は村や街を超えた先にある博麗神社へ身体を向け、飛び始めた。その最中、霊夢はようやく懐夢やその母親、愈惟の秘密を解き明かす事が出来るかもしれないという事に心を躍らせて、飛ぶ速度を上げた。しかし、そんな霊夢にも、霊華はもう付いていけるようになっていた。

 

 

 

         *

 

 

 

 一方その頃博麗神社。

 懐夢は一人縁側に座り、秋の風を浴びながら空を眺めていた。霊夢は自分が博麗の守り人にであるにも関わらず、自分の事を連れてはいけないと言い、どこかに行ってしまった。霊夢は「男子禁制の場所へ行く」と言っていたが、懐夢は霊夢が本当にそのようなところへ向かっているとは思えなかった。今まで共に過ごしていてわかったが、霊夢は一度もそのようなところへ行った事がないし、魔理沙やアリスと行う茶会にも自分を連れて行ってくれたし、温泉にだって連れて行ってくれた。だから霊夢の行くところに「男子禁制」の場所があるとは思えない。きっと、霊夢は自分を連れて行ったら都合の悪い、「男子禁制」ではない場所に向かって行っている。そこはどこなのか、どういった場所なのかが、無性に気になって仕方がなかった。

 

「帰って来たら聞いてみようかな」

 

 多分教えてはくれないだろうが、もしかしたら教えてくれるかもしれない。そう考えながら、空を見上げて、穏やかに流れていく雲を見つめた。雲は魚の鱗のように、空に大きく広がっている。

 

「鱗雲だ」

 

 あの雲が出た翌日はかなり高い確率で天気が崩れ、雨になる。だから明日の寺子屋には傘を持っていった方が良さそうだ。同時に、霊夢と霊華には洗濯物を外に干さないようにと言っておかねば。

 

「明日は雨か」

 

「そうね。明日は花達が喜ぶ日になるわ」

 

 隣から聞こえてきた声に懐夢はぎょっと驚き、その場から離れて声の聞こえてきた方向へ目を向けた。いつの間にか自分のいた場所の隣に、見知らぬ女性が立っていて、こちらを不思議な笑みを浮かべた顔で見つめている。女性の容姿だが、白い長袖のシャツを着用し、その上から紅いチェック柄のベストを羽織り、首元に黄色いリボンを付け、裾の部分がレースになっている、ベストと同じ紅いチェック柄の長いスカートを履き、癖のある緑色の髪の毛で、紅い瞳をしている。歳は恐らく、十代後半から二十代あたりだろう。それに……胸が大きい。そして日に当たるのが嫌なのか、日傘と思われる傘を差している。

 

「だ、誰ですか」

 

 女性は笑んだ。

 

「なるほど、貴方が霊夢のところに住んでる子、ね」

 

 懐夢は目を細めた。女性は笑んでいるが、笑んでいるのは口元と頬だけで、目元が全くと言っていいほど笑んでいない。――腹に一物ある人の笑い方だ。このおねえさんは、何か企んでいる。身の危険を感じて背中にかけた刀に手を伸ばしたその時、おねえさんは首を横に振った。

 

「そんなものを取り出して、どうするつもりなのよ。別に貴方を食べようとしてるわけでもないのに」

 

 刀の柄に手を付けたまま、おねえさんに問う。

 

「貴方は、誰ですか。何しに来たんですか」

 

 おねえさんは表情を変えずに、縁側に座った。

 

「そんなものからは手を離して、隣に座ったら。そこで、話してあげるわ」

 

「本当に、話してくれるんですか」

 

「本当よ」

 

 どうも腑に落ちない。大丈夫なのかと問えば大丈夫だと返してくるが、相変わらず目元が笑っていないから、信用できない。だけど、どういう人物なのかは気になる。もし何かをしてくるようなのであれば、その場で刀を抜き、スペルカードを放ってやればいい。ひとまず手を刀から手を離し、ゆっくりとおねえさんに歩み寄り、その隣に座った。直後、懐夢は匂いを嗅ぎ取って思わず驚いた。おねえさんは、見た目や笑い方からは想像が付かないような、非常に穏やかで優しい匂いを放っている。これは、花の匂いだろうか。

 

「ほら、何もしないでしょう」

 

「これから何かするかもしれません」

 

「私は子供は傷つけない主義なの。寧ろ、子供は好きな方よ」

 

「本当ですか」

 

「もう、貴方は警戒心が強いんだか強くないんだか、わからない坊やね」

 

 懐夢は首を傾げる。

 

「どういう事ですか」

 

 おねえさんは手を軽く動かした。

 

「だって貴方は私の事を信頼してないような口ぶりをしてるくせに、こうして私の隣に座って話をしてる」

 

 懐夢は何も言わなかった。というか、このおねえさんはどうやら自分が女の子ではなく、男の子だとわかっているらしい。

 おねえさんはフッと鼻で笑い、懐夢へ目を向けた。

 

「まぁ、自己紹介もしないでいきなり現れたのは、失礼だったわね。私の名は風見幽香」

 

「……博麗懐夢です。霊夢と一緒に暮らしてます」

 

 幽香はまたフッと鼻で笑った。

 

「まぁ、貴方に会うのはこれが二回目なのだけれどね」

 

「どういう事ですか」

 

 幽香によると、幽香は自分が八俣遠呂智になった時に、戦いに来てくれていたらしい。霊夢を確認する事にあの時は精一杯だったのでわからなかったが、幽香もまた、自分の事を助けに来てくれていたようだ。

 

「見ず知らずのぼくを、助けに来てくれてたんですか」

 

「いいえ。私は強い人と戦い、苛めるのが好きでね。あの八俣遠呂智とかいう最強の蛇は、私から見れば格好の獲物だったのよ。その中に貴方がたまたまいただけ」

 

 懐夢は何も言わずに幽香の話を聞いていたが、幽香が悪人ではない事だけはわかっていた。幽香からは穏やかで優しい花の匂いがする。もしも本当の悪人だったのであれば、もっと悍ましい花の匂いがするはずだ。しかし、この花の匂いは一体何なのだろう。普通の人が、ここまで強い花の匂いを身体に付ける事なんて、あまりない事だ。

 

「ねぇ、幽香さん」

 

「何かしら」

 

 懐夢は幽香の瞳を見つめた。

 

「幽香さんから、すごくいい花の匂いがします」

 

「あら? そんな事までわかるの。随分と鼻のいい人間なのね、貴方は」

 

 懐夢は首を横に振る。

 

「ぼくは人間じゃなくて半妖です。半分が人間で半分が妖怪。だから、普通の人間じゃ嗅ぎ取れない匂いも嗅ぎ取れるんです」

 

「へぇ。道理で人間のそれとは違う気配を放ってると思ったわ」

 

 幽香はくすりと笑った。

 

「貴方の言う通りよ。私はこれでも花の妖怪でね。だから身体中から花の匂いがすると思うわ。というか、花の匂いしかしないんじゃないかしら」

 

「花の妖怪、ですか」

 

「えぇ。花を自在に咲かせたり、夏であれば向日葵の向きを変えたり、枯れた花を見つければ元通りの姿に戻してあげたり出来るわ。そんな私から、花以外の匂いがすると思う?」

 

「思いません」

 

 幽香は静かに懐夢に問うた。

 

「じゃあ貴方は、その匂いをもっと嗅ぎたいと思うかしら」

 

 懐夢はきょとんとする。

 

「え、それってどういう事ですか」

 

「こういう事よ」

 

 幽香はさっと懐夢の身体に手を伸ばして、そのまますっぽりと懐夢を抱き締めた。突然抱き締められた事に懐夢は驚きはしたが、慌てはしなかった。

 

「ゆ、幽香さん」

 

「どうかしら。私の匂いで鼻がいっぱいになるでしょう」

 

 幽香の胸に顔を埋めながら、懐夢は頷いた。

 

「幽香さんは、悪い人じゃないですね」

 

 幽香は「え?」と言ってきょとんとしたような顔になった。

 

「どうしてそう思うのかしら」

 

「幽香さんからは、悪い人の臭いがしません。もし幽香さんが本当に悪い人だったら、とても嗅いでいられないような匂いのはずです。でも、幽香さんからは優しい花の匂いがします。幽香さんは、いい人です」

 

 幽香はふっと笑って、懐夢の髪の毛をそっと撫でた。

 

「それで私の事を口説いてるつもりなの、坊や」

 

 懐夢は首を横に振った。

 

「そんなんじゃありません。ただ、幽香さんは悪い人じゃないって言いたいだけです」

 

「……馬鹿みたいに正直な子ね、坊やは」

 

 懐夢は顔を上げて、少し怒ったような顔をした。

 

「坊やじゃありません。ぼくはさっき、懐夢って名乗りました」

 

 幽香はフッと笑って、もう一度懐夢の髪の毛をそっと撫でた。

 

「そうだったわね。貴方の名前は懐夢だったわね。ところで貴方は、色んな人の匂いがわかるみたいだけど」

 

 幽香は懐夢と目を合わせた。

 

「貴方は、自分の匂いがどんなものなのか、わかるかしら」

 

 懐夢は目を丸くした。そういえば、母や霊夢、魔理沙や早苗、文や慧音といった様々な人の匂いを嗅いで、その人がどういう匂いの持ち主なのかを把握してきたが、自分自身の持つ匂いを嗅いで把握した事はまだない。

 

「……わかりません。ぼくからは、どんな匂いがしますか」

 

 幽香はすぅと息を吸い込んで、軽く上を向き、笑んだ。

 

「……不思議だわ。貴方からは、太陽(おひさま)にすごく近い匂いがする」

 

 懐夢は首を傾げた。

 

「太陽の匂い、ですか」

 

「えぇ。暖かくて、安らげる匂い。それが貴方の匂いだわ。道理で、何だか抱き心地がいいわけだわ」

 

 上を向いたままぼーっとし始めた幽香に、懐夢は声をかけた。

 

「あの、幽香さんはどうしてここに来たんですか。ずっと聞きそびれていたんですけど」

 

 幽香は顔を懐夢と合わせた。

 

「霊夢に会いに来たのよ。こう見えて私は霊夢の友達でね。いや、友達というよりも、実力をぶつけられる相手ってところかしら」

 

「どういう事ですか」

 

 幽香は霊夢との関係を話し始めた。幽香が霊夢と出会ったのは異変の時で、幽香は全力で霊夢に勝負を仕掛けたそうなのだが、博麗の巫女である霊夢の力の前では歯が立たず、倒されたそうだ。それ以来幽香は強い力を持つ霊夢を気に入り、こうやって博麗神社に来ては霊夢とスペルカードルールによる弾幕ごっこを繰り広げて、楽しんでいるらしい。今日も、霊夢と弾幕ごっこをするためにやってきたそうだ。

 

「でも残念だわ。霊夢がいないなんて、あまりないのだけれど」

 

「今はすごく大きな異変が起きてますから、色んな所に出かけてます」

 

 幽香は少し懐夢を抱き締める力を強くした。

 

「ねぇ懐夢、霊夢はすごく強いわけなんだけれど、そんな霊夢と暮らしてる貴方も相当強いんじゃないかしら」

 

「……強いとは言われますが、弾幕ごっこはしません。弾幕を作るのは苦手なんです。そもそもぼくは戦いを遊びにする事は出来ません」

 

「へぇ、それは何故かしら」

 

 懐夢は幽香から顔をそむけた。

 

「……力が大きすぎるからです。ぼくの力は大きすぎて、霊夢や魔理沙みたいに弾幕にする事が出来ないんです」

 

 その時、懐夢はある事に気付いて、幽香にもう一度顔を向けた。

 

「もしかして幽香さんは、ぼくと戦ってみたいとか、考えてるんですか」

 

 幽香は首を横に振った。

 

「いいえ。さっきも言ったでしょう、私は子供には手を出さないって。私と戦うのには、貴方は幼すぎるわ。

 貴方と戦い合うつもりは毛頭ないから、安心なさい」

 

 懐夢は何も言わずに幽香の話を聞いていたが、やがて幽香は何かを思い付いたような顔になった。

 

「でも、貴方が大きくなった時には、戦うっていうのもありになるかもねぇ」

 

 懐夢は一瞬ぎょっとしたが、すぐに首を横に振った。

 

「ぼくは幽香さんと戦いたくありません」

 

「それは何故?」

 

「こんなにいい匂いのする人を、傷付けるのは嫌だからです。……もし幽香さんが霊夢を狙ったなら、話は別になりますけれど」

 

 幽香は溜息を吐くように言った。

 

「そう。まぁ私も霊夢を殺すつもりはないから、ひょっとしたら貴方と戦う事はないのかもしれないわね」

 

「それが、一番いいです」

 

 幽香は懐夢をじっと見つめた後、呟いた。

 

「全く、甘っちょろくて優しい子ね。こんな子と住めて、霊夢はさぞ嬉しいでしょうね」

 

 懐夢は「え?」と言って顔を上げた。懐夢と瞳を合わせながら、幽香は笑んだ。

 

「気に入ったわ、懐夢。今度からは霊夢だけじゃなくて、貴方にも会いに来させてもらうわ」

 

「ぼくに会いに、ですか」

 

「そうよ。貴方を抱いた時の心地がいいのよ。それに、貴方だって私に抱かれるのが嫌じゃないでしょう」

 

 懐夢は顔を少し赤くした。

 

「そうですけれど……ぼくを抱き締めに来るんですか、幽香さんは」

 

 幽香は首を横に振った。

 

「別に毎回抱き締めようだなんて考えてないわよ。でも、時々抱き締めさせてもらいたいっていう思いはあるわね。……けれど、私ばかり楽しんでちゃ不公平だから」

 

 幽香は穏やかに微笑んだ。

 

「貴方は街の子供と比べて非常に穏やかな性格をしてるみたいだから、花の美しさとかもわかりそう。今度私の花畑に連れてってあげるわ。とても綺麗よ」

 

 花畑という言葉を聞いて、懐夢は母と共に花畑に行った時の事を思い出した。まだ小さかった時に、母に連れられて、森の中の開けた場所にある大きな花畑に行った事があるのだが、その花畑には数えきれないくらいの種類の花が咲き乱れていて、驚いてしまうくらいに綺麗だった。しかも、何種類もの花が一斉に匂いを放っているものだから、いい匂いを好きなだけ楽しむ事が出来た。しかも、花畑は季節によって姿と匂いを変えるから、季節ごとに行っても飽きさせない。花畑は、懐夢が大蛇里にいた時の楽しみの一つだった。そして幽香の花畑だが、きっと、大蛇里にいた時に訪れていた花畑よりもいいところに違いない。

 

「ぜひ、行かせてください」

 

「よろしい」

 

 幽香は懐夢の髪の毛をそっと撫でた。

 

 

 

 

 

 

         *

 

 

 

 

 

 

 

 博麗神社の木の影。枯葉の散る林の中から、一人の少女が懐夢と幽香を見つめていた。

 

「……幽香さんか。懐夢を抱き締めてる」

 

「何でよ……何でこうも次から次へと、寄ってくるのよ……」

 

「懐夢のいいところを理解してるのは、霊夢と私だけ……ううん、きっと私の方が理解してる」

 

「だいたい、なんで、なんで霊夢が懐夢の事をあんなに大事にしてるのよ」

 

「霊夢がいるせいで、霊夢が近くにいるせいで、懐夢に近寄れない……!」

 

「霊夢がいなくなったと思えば、今度は魔理沙とか早苗とか文が来るし、寺子屋に行けば慧音先生がいるし」

 

「寺子屋から出ればチルノ達が纏わりつくし、どうしてこうも邪魔ばっかり!」

 

「おまけに幽香さんまで来るの!? なんでよ、なんでこうなるのよ!」

 

 

 

 

「……会いたい。話がしたいよ、懐夢」

 

 

 

 

 

――

 

 さぁ、贄が姿を現す頃だわ。最初の贄は……誰かしら。




黒花編、終了。次回からはついに『完結編』へ。
ここまで読んできてくれた方々に深く感謝いたします。ここまでで感想や評価がある方は、どうぞお気軽にお書きください。

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