口の周りにマスクの代わりに布を巻いていた。
理由は単純、あまりに臭すぎるから。
腐敗臭がものすごい。
人の死体の山の目の前にいるから当然だろう。
「へこたれないでくれよ、ただでさえ人手不足なんだから」
蓮が台車を運びながら心愛にしゃべりかける。
その台車には名も知らない人の死体が入れられていた。
「だってぇ、もう5時間はぶっ続けだよ?今迄に行ったミッションなんて比べ物にならないしぃ」
「割り当てられたのは病室だぞ?太郎と比べてみろ、あいつは受付とその周辺だからな?」
「う…、それはぁ」
壊滅的被害を受けたアルツェでは死体の処理に追われていた。
どこも逃げるには時間が足りず、病人はほとんどが下敷きになってしまった。
被害がなかった部屋もあったのに運が悪いとしか言いようがない。
「助かったのは、博人さん、イゼさん、凪さんの3人。奇跡だよな」
「蓮ー、私の分もぉ頑張って」
「興味なしか」
ため息をつくと蓮は仕事に戻る。
ただ、嬉々のことはいつまでも気がかりであった。
狭い部屋の一室。
2人、ラグフィートと明季の2トップが静かに話している。
急いで用意した部屋だからか、明かりはままならず物が積みあがっている。
即席で用意されたと思われるホワイトボードには3枚のA4サイズの紙とところどころに文字が書かれている。
明季は不意に宙で手を握る。
嫌な音がその手からした。
その手を広げてみると中からカナブンの潰れた死骸が姿を現す。
「…明季、それではルックスが良くてもモテないぞ」
「虫は苦手なんです。明かりを求めて飛ばれると背筋が凍りつきます」
「そんな奴が手で虫を握り潰すわけないだろう。もっといい嘘をつけ」
「これでもカメムシは殺せませんよ」
「臭くなかったら?」
「いけます」
今そんな話をしていたわけではないのだが思わず頭を抱えてため息をつく。
こいつの母親は娘にどんな教育をしたのだろう。
蚊はいい、ハエもまだ強い女性として許容範囲に入れよう。
だがカナブンて…。
甲虫を握り潰すのはどうかしている。
明季はにぎり潰した際に飛び出た体液をそこらの紙でふき取る。
「司令、話を戻したいのですが」
「…ああ、そうだったな」
「明後日というのはいくらなんでも早すぎませんか?」
目上の人間に向かって珍しく怪訝な顔をする明季。
もともと命令に口を出すことも滅多にしないのだが今回は話が違う。
「急ぎたい気持ちはわかります。今すぐにでも殺されるかもしれないという危険は孕んでいますが…」
「勿論それなりの特別待遇はとる。1日あれば体力も回復するだろう」
「体力の問題ではありません。今回の作戦は今までとはあらゆることが違います。時間をいただきたいのですが」
明季が改めてホワイトボードに目を通す。
内容は砕いていってしまえば正影の救出作戦。
明季といえども救出をしてこいなんて経験回数は多くない。
そして知らない施設への進入。
道を知るか知らないかで時間は大幅に変わってくる。
そして一番抵抗を覚えたのが相手が人だということ。
どうして正影の存在を知られたのかは分からないがロスと分かっているのならある意味納得はいく。
だが実力行使で奪い合うのは少しばかり予想外だった。
だが、ばれれば起きる可能性はあると予想はできていた。
ラグフィートがどういうわけか手放そうとしなかったから。
だが早すぎる。
「あいつにあまり時間を与えたくない。癪な話だが頭だけはいいからな」
「…これから行く場所はアルツェでもない、非公式の場所なんですよね?それを理解したうえでもこの日程で行きますか?」
「決定事項だ」
明季はそれを聞くと頷いた。
少し間があったことからそれでもまだ何か言いたげだったようだが意味がないことを理解したのだろう。
歩いて部屋を出ていく。
扉を開けると焦げ臭いにおいは勿論のこと、人の声の他に雨の音がした。
気づけるはずだったが2人はその時はじめて気づいた。
雨が降っているにもかかわらずどこかから腐敗臭もした。
人の声が煩わしくするよりはずっとましだと思った明季だったが腐敗臭があってはやはり煩いほうがましだろう。
人の死を間際に感じるより、生を感じたいというのは当たり前のことである。
明季は濡れるのもお構いなしに、部屋を出て歩きでその場を離れる。
こんな時に降らなくてもいいだろうといいたくなるくらいに雨脚は強い。
明季はすぐにびしょ濡れになった。
扉を閉めるそのわずかな時間の間でもラグフィートですらそれは認知できた。
このまま恭二に内容を伝えようかと思っていたが、濡れたままでは部下に対してとはいえ失礼がある。
雨によって濡れた服が体に張り付き女性らしい体つきが露わになっている。
途中、幾人かが明季を見てしばらく止まっていたがお構いなし。
それに関しては羞恥心のかけらもないようだった。
自室に向かって歩みを進める。
嫌な雨だと思った。
自分の考えを変えなければならくなった原因だから。
まるで他を巻き込むのはよくないとでも諭すかのような。
いつもならそんな考えには思い至らなかっただろうが、美姫の件で人の命に少しばかり敏感になっている。
「明季さん?」
不意に声をかけられ足を止める。
後ろには美嘉が傘を差しながら立っていた。
いや、不意にというのは少し語弊がある。
「話があるのならば部屋を出た時に声をかけてほしかったわ。すでにずぶ濡れよ」
「…気づいていたのなら声かけてほしかったです」
「本当に?」
「…分かりません」
いります?と遠慮がちに明季に傘を差しだす。
すでに濡れた状態ではあったがないよりはましだろう。
美嘉から傘を受け取るとそれをさした。
明季に汚いものを上げられないといわんばかりに綺麗な傘である。
新品同様といっても過言ではないだろう。
「で、何の用かしら?」
「もうわかっているのでは?」
「貴女の口から直接聞きたい」
「………………ま―――」
「あなたには関係ないわ」
美嘉が口を開きかけたところで明季はそれを遮った。
それはないでしょと言わんばかりに不満げな顔を浮かべる美嘉。
「ごめんなさいね、意地悪をしたくなったの」
「私は何も言い返せないですよ、立場的に」
「正影と関わり始めてからかしら?いろいろ変わったのよ、特に口調かしら」
「そういえば…その…」
「わかってる。もともと女性らしい口調はほとんど使わなかったんだけど、恋ってやつかしらね?」
「正影さんのことが好きなんですか?」
「恭二には否定されてしまったけど」
静かに笑う明季。
以前はこんな笑いでも美嘉は見たことがなかった。
初めて見たときは不気味極まりなかったが今ではそれも普通に思えた。
「で、話は戻るけど今回の作戦は貴女たちには関係ない」
「…嬉々も、ですか?」
「当然。むしろ避けるべきだ」
口調がいつの間にか強くなっていた。
明季はそれに気づいていないが美嘉はそれに思わず縮こまりたくなる。
傘に打ち付ける雨が強くなったような気がした。
「でも、嬉々の気持ちもくみ取ってもらえませんか?」
「…悪いけど私は人の気持ちを理解するのが苦手なの」
「でもいつも…」
「考えと気持ちは違うわ。全然わからないってわけじゃないから今の嬉々くらいならわかるけど。でも作戦のリーダーとして私は不安要素はできる限り取り除く必要がある」
「明季さんも嬉々が何をしでかすかわからないと?」
「嬉々は正影を兄妹以上の存在だと思っている。それこそ恋愛感情も持ち合わせてるんじゃ?って思うくらいに。愛っていう不確定要素があるの」
「それと嬉々を行かせたくないと、どんな関係が?」
明季の目線が空を仰いだ。
今は雨雲が空を支配していて青空なんて見当たらない。
「初めてプロディターが出現して都市が壊滅した時のことは覚えてる?」
「…鮮明ではありませんが」
「その時人はただ逃げ惑った。対抗する手段がなかったから仕方ないと思う。その時私はおかしな光景を目にしたの。その場にとどまり何かにすがっている人をね」
「………」
「私も記憶は鮮明じゃない。でも人が人のためにそこにとどまっていたのを覚えてる。助けられるわけがないのにとどまるの。私にはそれが理解できない、理解できないものを作戦に加えるわけにはいかない」
「それが美姫さんでも…ですか?」
明季の足が止まった。
言ってからしまったと思った美嘉だったがすでに遅い。
少しばかり感情に任せて口走ってしまった。
しかし、明季は美嘉に顔を向けることなくただ俯いた。
「すみません」
「感心しないな、死人を話し合いに出すのは。…でも、おそらく見捨てるだろうな。美姫でも。残っていても共倒れだ」
足を再び進める。
雨脚が強い中、明季の歩行速度は速くなっていた。
それ以降はなにをいっていいのかもわからず美嘉、明季ともにただ黙っていた。
美嘉は他に明季を動かす言葉が見つからず。
明季は何かを思いつめながら。
やがて明季の足取りが止まった。
一つの建物を目の前にしており、そこで明季は傘をたたむ。
相変わらずの雨脚だったが明季は雨の中建物に入る前から傘をたたんでいたため再び明季に雨が打ち付ける。
「じゃ、私はここで」
ありがと、と付け加えると傘の取っ手の部分を差し出す。
それを受け取る美嘉。
明季は扉を開けるとどういうわけか止まった。
「…?」
明季に傘をさそうか迷い始めた時、
「美嘉、1ついいかしら?」
―――――――――――――――――――――――――――――――
ベッドの上。
いつもなら隣にもう1つベッドがあって最も安心できる対象が存在しているはずだ。
だが、隣にはその存在はおろかベッドすらない。
「パパ…」
外では気丈にふるまっていたが、いざ1人となるとすっかり憔悴してしまった穂香。
腕時計に目を向ける。
17:52と表示されていた。
思えば1人になるのはこれが初めてだったかもしれない。
記憶があるころからレアや義兄弟がいた。
1人も欠けなかったわけではない。
正影が来る前にも1人死んでいる。
それでも1人にはならなかった。
嬉々同様、穂香も黙って待つのは嫌だった。
真理奈の力はすでに失ってしまったが正影とのつながりは絶たれていない。
ハンドガンを創り出して掌の上で回す。
嬉々がいつだが見せてくれた銃の図鑑的な物の中でも目に留まったものだ。
どれが作りたいと意識できるわけではない。
ただ酷似していたのだ。
名前は………
「ベレッタ96……」
後には英語が続いていたが穂香は正直覚える気になれなかった。
「BS、SE、A…」
やっぱり思い出そうにも思い出せそうにない。
考えることをやめ弾倉を取り出す。
本来限界があるはずの弾倉の数だがどういうわけかなくならない。
それ以上に今でも意識すれば現れる銃が未だにありえないとしか言いようがない。
部品を渡されても作ることはできない。
パーツの名前も知らない。
銃について知っているのはその名前(うる覚え)、引き金を引けば弾が発射されることくらい。
力はある、正影を助けるための力は。
でも自分でも正影に何かあったら…何をしでかすかわからない。
呼ばれなくても仕方ないだろう。
レアの時、あれだけ憔悴した自分を知っているが故に諦めがついた。
もしその経験がなければ駄々をこねてでも行こうとしただろう。
銃を消して天井を見る。
寝ようか考え始めたその時
「穂香ちゃんいる?」
扉のノック同時に美嘉の声がした。
「開いてるよ」
返事をすると美嘉が入ってきた。
穂香はこの時外が雨だったことに初めて気づいた。
美嘉は傘を2つもっていた。
2つとも濡れているところから誰かが使ったようだが穂香が知る由はない。
「どこか行ってたの?」
「ちょっとね」
2人がいるにはちょっと狭い部屋だった。
美嘉は穂香の隣の部屋に今は在住している。
ただ、美嘉は他に4,5人の人と一緒に部屋を共有しており部屋も広い。
穂香が1人なのはロスが
ちょっとした特別扱いである。
「それで、どうしたの?」
「えーっと…その前に1つ」
「?」
「穂香ちゃんは、正影さんを助けたい?」
「……………」
穂香は黙ったまま俯いてしまった。
予想していた返事が来なかったからか、美嘉は出鼻をくじかれたかのようにたじろいだ。
「私、足手まといになるかもしれないから」
「…穂香ちゃんは十分な力を持ってるわよ。足手まといなんて―――」
「私にとってパパは親以上の存在なの。想いはそこらへんの恋人たち以上」
慌てて、パパに恋愛感情を持ってるわけじゃないよ。と付け加える。
「もし、パパに何かあったらどうなるのかわかんない」
「………」
「大事なのはパパだけじゃないもん。美嘉さんや嬉々さんだって大事。みんなを危険な目には遭わせたくないよ」
「…穂香ちゃん!」
美嘉は突然抱き着くと穂香に頬ずりをする。
突然に事に困惑した穂香だが嫌な気はしなかった。
10秒ほど美嘉は黙ったまま頬ずりを繰り返した。
「そんなに難しいことなんて考えなくていいの!」
「えっ?」
「穂香ちゃんはまだ子供なんだから、難しいことは大人に任せてどうしたいか考えるの!まだわがまま言ってもいい年なんだから」
「でも…」
「何か不手際が起きたら大人が何とかするから。責任は全部取ってくれる。それくらいしてもらわなきゃ私たちと釣り合わないわよ。こっちは命懸けてるんだから」
「責任の問題じゃないよ。私のせいで誰かに―――」
「穂香ちゃん」
穂香の肩を優しく抱いた。
「頼ってよ。私を、嬉々を、蓮を、他の人を。穂香ちゃんよりは私たちは大人よ?昔がどうだったかは私は知らないけど今は穂香ちゃんは子供。子供らしくわがまま言ってよ」
「………」
「ほら」
「…………………………………………………………けたい」
「ん?」
「パパを助けたい。助けに行きたい!」
「よく言えました」
大きな声で確かに主張した。
押し込んでいた本音を一気に出したかのように。
美嘉は笑顔でそれに応えた。
「それじゃあ、本音を言ってくれた穂香ちゃんに私から1つプレゼント」
「?」
「正影さんを助けに行くためのチケットよ」
少し時間は経つ。
穂香と会話を終え、部屋を出た美嘉。
(やべー…、マジで鼻血出るかと思った!)
自分を落ち着かせるかのように(まさにその通り)呼吸を整える。
図らずも穂香にたくさん触れられたため感情はかなり舞い上がっていた。
勿論元気づけるためにやったことなのだが今考えたらスゲー触ってる。
嬉々や正影に止められてたからその反動もあるのだろう。
(でも惜しいことしたかな…、もう少し触ってればよかったぁぁぁ!)
壁にもたれかかり頭を打ち付ける。
加減はしているのでそこまで音は大きくない。
(穂香ちゃんマジ天使だわぁ…。ああああああ!)
美嘉の変態加減に磨きがかかった瞬間であった。