僕に続いて葉月ちゃんがお風呂に入るみたいだ。
「バカなお兄ちゃん、手を横に出してほしいです」
「ん、こう?」
言われた通りに手を横に出してみた。すると────
「葉月と交代ですっ!」
と言いながら、横に出した僕の手を元気よく叩いて行った。
その無邪気な葉月ちゃんの行動に、僕は思わず口元が緩んでしまった。
葉月ちゃんはいつも元気だな。
僕はソファに座って一息ついた。
ふぅ……ちょっと浸かり過ぎたかな。
のぼせちゃったみたいだ。
ソファでぼんやりと天井を眺めていると、そこへ美波が林檎を剥いて持ってきてくれた。
「パジャマのサイズぴったりみたいね」
「あ、うん。でもお父さんのパジャマ使っちゃって良かったの?」
「いいのよ。どうせウチが洗うんだし」
「そっか。それならいいか」
…………いいのか?
美波がいいって言うんだからいいのかな……。
それにしても本当に家事全般をやっているんだな。
僕は出された林檎を食べながら感心していた。
そこへ美波の口からご無体なお言葉が放たれた。
「それじゃアキ、少し勉強しましょ」
林檎が喉につかえた。
「げほっ! げほっ!」
「もう。何やってるのよ」
美波が呆れたように言いながら、むせ込む僕の背中を叩く。
そのおかげで林檎はすぐに喉を通過してくれたようだ。
大きな塊じゃなくて良かった……。
「うぅ……死ぬかと思った」
なんとか呼吸を再開した僕はソファから降り、土下座して美波に許しを請うた。
「……美波様。どうかご勘弁を」
「そんなことしてもダメよアキ。こういうのは毎日の積み重ねが大事なのよ」
「だ、だって今日はせっかく授業も補習も無いんだよ? こんな日くらい休もうよ!」
「そんなこと言って試召戦争で負けても知らないわよ?」
「うぐっ……わ、分かったよぅ……」
確かに試召戦争で負けたくはない。
でもこんなところで勉強なんて……。
う~……。
やっぱり勉強なんて嫌だっ! なんとかして遊ぶ方向に……。
ん? そうだっ!
「じゃ、じゃあ古典をやろうか」
「えっ? 古典? 数学にしようと思ったんだけど……」
「でも苦手科目も克服した方がいいんじゃないかな~?」
「うっ……そ、それは……」
よし。美波は動揺している。
これでやっぱりやめようって話しに持って行けば……。
「やっぱり美波も勉強なんて嫌だよねっ」
「いっ……いいのよ! ウチは古典は捨てて数学で勝負するんだから!」
あ。開き直った。
しまったな……そう来るとは思わなかった。作戦失敗か……。
「そ、それに数学ならウチも教えられるし!」
「へ? 美波が教えてくれるの? 僕に?」
「そうよ! 証明問題は無理だけど、他ならウチだって教えられるんだからね!」
真剣な目をして息巻く美波。どうやら本気のようだ。
美波がこんなに真剣になってるんだ。断るわけにもいかないだろう。
あんまり気が進まないけど……仕方ない。
数学なら古典よりはマシだ。今回は言うことを聞こう。
「分かったよ。じゃあ数学にしようか」
「うんっ! じゃあ決まりね」
美波から勉強を教えてもらうなんて今まで無かったな。
いつもは姫路さんか雄二に教えてもらってたし。
どんな教え方をしてくれるんだろう。
(……瑞希にばっかりいい格好させないんだから……)
「ん? なんか言った?」
「ううん! なんでもないわ! ウチ、勉強道具持ってくるわね!」
僕は美波の持ってきた問題集で勉強を始めた。
サイン? コサイン?
さっぱり分からない……。
「いい? まずcosの式を覚えるのよ。θの指定がある角を左下にして、斜辺からθの角を通って直角までCの字を描いてみて。その通った二つの辺がcosの式に使われるの。Cだからcosよ。これを覚えておいて。それで、斜辺が分母で残りの辺が分子になるの。sinは分子の所をさっきのCの字で通らなかった辺に置き換えるだけよ」
「えっと……Cを描いて……この二つの辺を使うから……」
姫路さんの教え方とは違うけどなんとか僕にも理解できる。
でもやっぱり難しいよ……。
「できたみたいね。じゃあ次の問題よ」
「ね、ねぇ美波、ちょっと休憩しない?」
「なに言ってるのよ。始めてからまだ10分も経ってないわよ? それでね、ここの式は────」
あぁ……気が遠くなってきた……。
……なんかいい匂いがするなぁ……。
天国からのお迎えかなぁ……。
でも僕が天国行けるわけないよなぁ……。
「ちょっとアキ! 聞いてるの!」
美波の大きな声に驚いて僕は現世に返った。
気付くと、美波の大きな吊り目が至近距離で僕を見つめていた。
「わわっ!! 美波!? ちょ、ちょっと……近いよ?」
「えっ? ……あ……そ、そうね」
や、やばい。不意打ちだったからすっごいドキドキする……。
「もう一回言うわよ? ここの式はね────」
美波はちょっとだけ離れると、再び計算式の説明を始めた。
その美波からいい匂いがしてくる。
そうか、さっきのいい匂いは美波の髪だったのか……。
あぁ……なんだろう……。また頭がぼーっとしてきた……。
「アキ! ちゃんと聞きなさい!」
「は、はいっ!」
うぅ……美波は厳しいなぁ……。
(……やっぱり瑞希みたいには行かないわね……)
ペンを握り直すと美波がそんなことを呟いた気がする。
でも僕にはそんなことを気にしている余裕は無かった。
結局、僕はこの後も叱られながら勉強することになった。