リビングに戻ると、葉月ちゃんがめいっぱい背伸びをしてテーブルを拭いていた。
「ほぇ? バカなお兄ちゃん忘れ物ですか?」
「葉月ちゃん、今日はお兄ちゃん泊めてもらうことになったんだよ」
「ほんとですか! すっごく嬉しいですっ! じゃあ葉月と一緒に寝るですっ!」
全身から冷たい汗が出た。
「葉月、アキはお父さんの部屋で寝るからね。邪魔しちゃダメよ」
「む~……つまんないですぅ……」
葉月ちゃんは不満げに口を尖らせて言う。
でも一応美波の言うことは聞くようだ。
そういえばお父さんは泊まりで仕事なんだっけ。
だから今夜は部屋が空いているということか。
でも僕なんかがお父さんの部屋を借りちゃっていいのかな。
それによく考えたら着替えとか何の準備も無いぞ?
……まぁ、服はこのままでもいいか。一晩だけだし。
美波と葉月ちゃんは残っている片付けを終わらせるそうだ。
でも二人が片付けをしているのに僕が何もしないのは心苦しい。
やっぱり何か手伝いたい。
「美波、やっぱり僕に何か手伝わせてよ」
「ありがと。もう終わるからウチと葉月で大丈夫よ。アキはお風呂に入ってゆっくりしてて」
「え? そんなの一日くらい入らなくても────」
「ダメ。汚いじゃない」
「……はい」
「それじゃ葉月がお背中流すですっ!」
「ダメよ葉月。一緒にお風呂に入ったりしたらバカがうつっちゃうわよ?」
「ほぇ? バカってうつっちゃうですか?」
「そうよ。だから一緒に入っちゃダメよ」
「む~……はいですぅ……」
僕のバカは感染症か何かみたいだ。
なんだか泣きたくなってきた。
すっかり元どおりの美波じゃないか……。
まぁ背中を流してもらったりしたら理性がどうかなっちゃいそうだからいいんだけどね。
それじゃとりあえずお風呂に入らせてもらおうかな。
☆
お風呂は僕の家と同じくらいの広さだった。
それにしても他の家でお風呂に入るのなんて初めてだ。
雄二の家のお風呂にだって入ったことは無いし。
それじゃまずは髪を――――ん? これは……。
シャンプーのボトルに黒い字で何か書いてある。
mi na mi ……。
あぁ、『minami』って書いてあるのか。
筆記体だから分からなかった。
なるほど。つまりこれは美波専用のシャンプーというわけだな。
前に触らせてもらった美波の髪はとっても綺麗だった。
あの綺麗な髪はこのシャンプーで手入れしているということか。
……ふむ。使ってみる……か?
僕はこのシャンプーで髪がサラサラになった自分を想像してみた。
………………?
おかしいよ?
どうして自分で想像した姿がセーラー服着てるのさ……。
あんまり女装ばっかりさせられてるから感覚がおかしくなってきたのかな……。
はぁ……僕は石鹸でいいや。
ため息混じりに髪を洗っていると、扉の向こうから美波の声が聞こえてきた。
『アキ、お父さんのパジャマだけど多分サイズ合うからこれ使って』
「うん。ありがとう」
『それとね、さっき葉月に言ったことなんだけどね、ああでも言わないと聞かない子だからなのよ。ごめんね』
「大丈夫だよ。慣れてるし」
『……ありがとアキっ』
この声と共に扉の向こうから美波の気配は消えた。
美波の雰囲気……ちょっと変わったな。
意地を張らなくなったって言うのかな。
何だかくすぐったいような感じがする……。
僕は体も洗い終え、湯船に浸かった。
ふ~……いいお湯だ。
……
さっきの美波……。
本当に僕のことを思ってくれているんだな……。
それなのに僕はまだ心を決められない。
男らしくないな……僕は……。
でも、僕のどこがいいんだろう?
いいところなんて全然見当たらない。
美波はいつも不在の両親に代わって家事全般はもちろん、妹の面倒も見ている。
そんな中で学校の勉強に加えて、日本語の勉強までやっている。
それに対して僕は勉強嫌いだし家事も得意ではない。できることと言えば料理くらいだ。
こんな僕が美波に何をしてあげられる?
むしろ僕は気付かないうちにまた美波を傷付けてしまうんじゃないのか?
僕はもう美波を傷付けたくない……。
僕は……どうしたらいいんだ……。
浸かりながら僕は考え続けた。
でもいくら考えてもまとまらず、同じ問答を何度も自分自身に繰り返していた。
そうしているうちに、急に目眩のような感覚に襲われた。
一瞬、頭を使い過ぎたのかと思った。
でもそれは違っていて、長湯が過ぎただけだった。
僕の体は茹でダコ状態だ。
こんなところで溺れるわけにはいかない。上がろう……。
浴室を出ると、籠に中に畳まれた緑色の服が入っているのが見えた。
これが用意してくれたパジャマだな。
そのパジャマに袖を通しながら思った。
僕は思っていることがすぐ顔や口に出てしまう。
今ここで悩んでいたら美波や葉月ちゃんに余計な心配をかけてしまうだろう。
考えるのは明日、家に帰ってからだ。
バスタオルを頭に乗せ、僕はリビングへ向かった。