台 詞 で 創 作 1 0 0 の お 題   作:まかみつきと

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楽陽ベースで、張家の過去もからめて。


||60|| 泣いて花実は咲くものだ。(張家母子)

 

 お疲れさん、と労う声に頭を下げて厨房を出ると、外はとうに日が暮れていた。

 いつものことで、適度に疲れた身体をほぐしほぐし歩く。

 遠い灯火と薄ぼんやりとした月明かりのなか、あてがわれた堂室へ向かう途中で、ふと中院(なかにわ)の隅に人影を見つけた。

 こんな時間に学生が中院にいることは少ないから、珍しいと首を傾げる。

 その視線に気づいたのか、すらりと立つ(にれ)の根元に座り込んだ影が、こちらを向いて二、三度またたいた。

「母ちゃん」

「なんだ、楽俊かい」

 呆れたような声音に、息子は困ったふうで笑った。

「こんなところでお月見かい。まあ、そんな薄着で。毛皮じゃないんだから、もうすこし着たらどうだい」

 顔を合わせた早々に世話を焼かれて、楽俊が苦笑う。

「そんなに寒くねえって。母ちゃん、仕事は終わったのか?」

 いまね、と頷いて、息子の横に腰を下ろした。

 そんなふうにしても、人の姿をしていると自分よりだいぶ大きい。ねずみの姿ならば小さいくらいの背丈だから、頭のひとつも撫でてやれるのだけれども。

 そう思って、しみじみと横顔を眺めた。

 最近こうやって人の姿をとることが多いのは、大学を卒業したあとのことを考えてのことだろう。

 獣形をとると、楽俊は段違いに小さい。どうかすると十を出るかどうかの子供と間違えられるくらいだ。獣形がどうこう言うまえに、それでは仕事にならない。いまのうちに人の姿に慣れていないとあとあと差し障るとは、本人もわかっているだろう。

 大きくなった、と思うのは、なにも背丈のことだけではない。

 あまり人の美醜に頓着するたちではないが、雁へ来て、この子はいい顔になったと思う。

 もともと素直で頭がいいと近所でも評判だった。半獣でなかったら、きっとどんなえらい官にだってなれるだろうにと言われたことも、再三ではない。無理を言って入れてもらった上庠では、教師までがその才覚を惜しがった。

 あの巧で、正式に学んでもいない半獣が選士に推されるということがどれくらい破格なことか、他の国の者にはわかるまい。

 まじまじと見られてこそばゆいのか、楽俊はすこしきまりわるげに眉を上げた。

「なんだ?」

「いや、たいしたことじゃないけどね」

 軽く笑って、おまえ、と見上げる。

 見上げるほど視線が違うことに、今更気づく。

「なにか悩んでるんじゃないのかい」

 黒い目が見開かれて、それからあーあとくったくなく笑った。

「なんだ、母ちゃんにはお見通しか」

「あたりまえさ。何年母親やってると思ってるんだい」

 そいつは失礼、と軽口を叩いた息子は、笑みを口の端に残したまま月を見上げた。

「先のことな。まだ……ちっと迷ってるんだ」

 その顔に、大きな感情は見えない。だがそれは表に出さないだけのことだと、自分にはわかっている。

 穏やかだが芯の強いこの息子には、昔から頑固なところがあった。

 けしてわがままや無理を言うような性格ではないけれど、こうと一度決めたらそれをやりぬくだけの力を持っている。

 その楽俊が迷うという理由に、心当たりはひとつだけあった。

「あたしに、気がねしているんだろう」

 驚いて振りかえる息子に、馬鹿だねえと笑う。

「親に構うことなんかないさ。おまえの好きなようにすればいいんだよ」

「母ちゃん」

 その表情に戸惑いと謝意を見て、やはりと思った。

 楽俊、と呼ぶ声に、我知らず吐息が混じる。

 昔のことを思うと、不思議とそんなふうになるのだ。

「おまえの父親が、なんであんなにたくさんの書き付けを遺したと思うね?」

 虚をつかれた様子で見返すのをよけるように、欅の樹肌によりかかった。

 懐かしい光景。

 いまはもう失われた人の、懐かしい声。

「この子は半獣だ。今の王が半獣差別をなくさない限り、この子に先はないだろう。だけども、巧が駄目でも雁がある。奏もある。ここは半獣が生きるには辛い国かもしれないけれど、他にも国はあるんだ。半獣に田畑はやれんと言うのなら、智恵で立てばいい。なに、巧でなくたって働くところなんかいくらでもある。誰よりも知識を増やして、誰よりも学んで、そうすれば、きっとなにかの役に立つ。そのためになら、この子のためになら自分はどんなことだってする。自分の持っているものは全部渡してやろう」

 言って、少し微笑んだ。

「寡黙な人だったけども。まだ両手に乗るようなちいさなおまえを抱えてね、何度もそう言ってたんだよ」

 里木に祈り、授かった最初の子供が半獣。

 それでも、自分たちは落胆などしなかった。

 黒い大きな目に凝と見つめられるたびに、どれほど幸せな気持ちになれたか。

 温かく柔らかな毛並みを腕に抱くことが、無邪気な笑顔がどれほど嬉しかったか。

 こんな可愛い子はいないと、目尻を下げていた夫。

 自分が書面を広げる傍らで意味もわからず筆を持ってはしゃぐ子に、こいつは将来有望だなどと本気で言うから、あんたは親の欲目の見本のようだと笑った。

 もともとが役人で、さして身体の丈夫な人ではなかった。

 筆を持つ手を鍬にかえた無理がたたって、息子が五つになるやならずで逝ってしまったが、最初の約束だけは果たせたと書き上げた紙の束を見て満足そうに微笑んで。

 彼が今の息子を見たら、きっと目を細めて喜ぶだろう。

 息子の役に立ったと相好を崩し、ほらみろ、俺の言ったとおりこいつはたいした奴だと自慢げに笑うのだろう。

 たった数年を連れ添っただけだけれど、そんなふうに難なく想像できるくらい、近しかった人。

 あの人と祈って授かった子だから、こんなにも愛しいのかもしれない。

「子供なんて、二十を過ぎたら家を出るもんだ。家を出て、自分の力で先を拓いていくんだよ。巧ではそれはかなわなかったけれど、ここはもう巧じゃあない。あのまま暮らしていたらできなかったことでも、他でならできるじゃないか。あたしのことなんか気にしないで、自分の思ったとおりに生きてごらん。そのほうが、あたしや死んだあの人だって嬉しいよ」

 人は誰もそうやって生きていく。

 親は子を養い、成人した子供は家を出て自分の家を持ち、今度は親となって子を育てる。そうやって長い長いあいだ人は暮らしてきた。巧で半獣は成人の扱いを受けられないから婚姻も出来ないが、他の国の戸籍を貰えればそれも不可能ではない。

 けれど、と思う。

 多分、この子にそのつもりはないのだろう。

 いくつも、それこそ無限に開けた先のなかで、いちばん険しく厳しい道を行くつもりなのだ。だから、自分と夫のようなささやかながら平穏な生活で、夫婦揃って里木に祈ることも、授かった子を抱くこともあるまい。

 それでもいい。

 なにひとつ自由にならなかったあの国で、よくも己に恥じることなく曲がることなく、こんなにも気だてよく育ってくれた。

 他人なんて関係ないんだ、と夫は笑った。

 俺は、この子が可愛い。可愛くて可愛くてしかたない。それでいいじゃないか、と。

 田畑を耕すよりも身入りのいいはずの役人を辞めたのは、子供が半獣であったせいもあるのだろう。未熟な親だから、半人前の子供しか授からないんだと、囁く口は少なくない。

 天がそう思って半獣を与えるのなら、べつにそれでも構いやしない。

 未熟なら立派な親になれるよう努力すればいいのであって、それで子供を育て上げることが出来たなら、少しはましな人間になれたのかもしれないじゃないか。

 親と子が笑って暮らせれば、姿かたちなんてなんの関係もなかった。

 自分と息子と、見えない手で二人を支えてくれる亡き夫。

 どんなに貧しくても幸せな家族だったから、なにひとつ不満はない。

 苦労をかけてごめんなどと、謝ってもらう必要などどこにもないのだ。

「あたしはあたしのしたいようにやってきた。そのことは、これっぽっちも後悔なんかしてないよ。だから、おまえもおまえの望む道にお進み。そのかわり、諦めたり投げ出したりはできないんだよ? それをわかってて、それでもそっちを選ぶんなら、自分のできる限りやってみればいいじゃないか」

 あの日。

 きっとすべての歯車は廻り出したのだ。

 海の果てから迷いこんできたひとりの少女と出会った時、この子のさだめも決まってしまった。

 いや、半獣として生を受けたときから、天命は定まっていたのかもしれない。

 そしてその子を育てることが、自分と夫の決まりだったのだろう。

 天意とは、王をとりまくものとは、一介の民の知るようなものではないけれど。

「なに、おまえにならきっとできるさ。おまえは、あたしたちの自慢の息子だもの」

「母ちゃん……」

 かすかに顔を歪ませた楽俊の腕に手を伸ばして軽く叩いてやると、うつむいた頭がことんと肩にのった。

「……ありがとうな。おいら、父ちゃんと母ちゃんの子に生まれて、ほんとによかったと思ってるよ」

 小さな声とともにはたりと落ちた温かいものに、これがきっと別れの始まりなのだろうと微笑んだ。

 

 

初稿・2005.04.20

 




よもや、お母さんをメインで書く日が来るとは・笑
三人称で書くとどうしても名前がネックになるので苦肉の策としてお母さん視点でやってみました。
かえってよかったというのはナイショなのです・
そして張家の過去は捏造の嵐~!ハハハハ

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