台 詞 で 創 作 1 0 0 の お 題 作:まかみつきと
陽子との出会いをからめて。
棚からうっすらと
さして広くもない書庫にはぎっちりと本が詰まり、それはたしかにおおまかな分類はされているが、どこか雑多な感も否めない。
それがこの薄暗い
「おいでであったか」
やや低く掠れた声をかけられて振り返り、拱手する。
「お留守に失礼致しました、
「なに、主上が御許可なされたのであろ、構わぬよ」
灰にも見えるくすんだ白い髪と銀の目をした女は、鷹揚に笑いながら物音一つ立てずに書卓に腰を下ろした。
年の頃は三十半ばだが、実際はあの松伯と等しいほどに齢を重ねているという。
年寄りめいた言葉遣いは
遥か昔から金波宮の片隅の小さな書庫に居を得ているそうだが、滅多なことでは表には出てこないから、若い官には彼女を知らぬ者も多いらしい。
実際、わたしも遠甫から紹介されるまで知らなかったんだ、と陽子も笑っていた。王宮の主である彼女が知らないほど。それにあの予王が王宮から全ての女を追い出したときでさえ、その数に入っていなかったというから、れっきとした地仙でありながら、まるで飛仙のような存在である。
「めぼしい本でもあったか」
椅子を薦めながら微笑む白い影のような女に、楽俊は頷いた。
「こちらには、図書府にはない本がたくさんございますね」
素直な感想に、葉月がくつくつと笑う。
「半ばは妾の趣味で集めたようなものだ。表には出せぬものも多い」
なるほど、数百年をかけて積み上げられた蔵書は様々で、時には禁本もあるようだった。
背にした壁際の一角を、つと細い指が指す。
「それは国史であるよ。ただし、図書府に納められておるのとは別のものだがな」
細面の顔を見返した青年に、気配を感じさせない女が笑った。
「そういうものを書く者もおる、ということだな」
幽鬼のような書庫の主は、唇さえも色素が薄い。
「……あなたが?」
「是、とも言えるし、否とも」
銀の視線が、隙間なく並べられた書籍を眺めた。
親指の長さほどの厚さがあるものもあれば、幾枚か数えられそうなほど薄い本もある。
それが、この慶という国に積み重ねられてきた歴史。
「王に逆らって書いた者もある。死後悪し様に罵られた王を不憫に思い綴られた本もある。そういうものの、ここは墓場であるのだよ」
抑揚の少ない声を聞きながら、楽俊は粛然とした気持ちで暗い色の背表紙を見つめた。
「これは、国史であると同時に、王の生涯でもあるのですね」
ぽつりと落ちた言葉に葉月が青年を見返し、そして頷いた。
「さよう。そして」
なだらかな肩から、白い髪の束が流れ落ちる。
「いずれは景王赤子の書も入る」
黒い瞳を真っ向から受けとめた女が、笑うでもなく顎の下で手を組んだ。
「国とは、王とはそういうものなのだよ」
「そう、ですね」
合わせた視線を自分から外し、楽俊はうずたかく本の積まれた書卓を眺めた。
「王とはいずれ終わる者。それは
さすが、数百年を越えてきた者の言うことはふるっている。
苦笑が零れて、楽俊は肩から力を抜いた。
「そうかもしれませんね」
組んでいた指を解き、葉月が背もたれに身を預ける。
「王を長生きさせるには支える手が不可欠だ。だが、今の主上に関しては心配は要らぬ。そなたがその役を担えば良いと、
え、と怪訝そうな顔をする相手に、葉月はうっすらと笑った。
「惑うていた主上を救い、諭し慰めることのできたそなたなら、無理な話ではなかろうが」
「それは、たしかに巧国で陽子を拾ったのはおいらですが、そんな大仰な」
困惑して首を傾げたが、銀の双眸は意外なほど真剣だった。
「……そなたは、自分の価値というものをわかっておらぬ」
楽俊は、眉をしかめた葉月に首を振った。
「でも、おいらは当然の事をしただけですから」
言うに困って、用もなく膝に置いた書籍をなでつけたりする。
「誰だって、道に誰かが倒れてたら助け起こすし、怪我をして、熱があったら介抱するでしょう。おいらがしたのは、ただそれだけですよ」
「ただそれだけのことを、他の誰かが主上にしたか」
葉月の声は低く、どこか苛立って聞こえた。
「主上が巧を彷徨っている間、他に誰が主上を助けた? 捕縛され騙され売り飛ばされそうになって、同じ海客にまで裏切られた主上に、そなただけが手をさしのべたのではないか?」
「……巧は、海客は殺せという国です。衛士に突き出すか、気の毒に思っても関わらないようにするのは、仕方ない かもしれません」
異端に厳しい故国を思う楽俊に、そうだな、と肯定にはとても聞こえない声音が応える。
「まして、主上には手配がかかっていた。役所に届けなければ匿った者も同罪。そうと知っていて、そなたは主上を助けたのであろうが?」
楽俊はやや呆れて葉月を見た。
「……お詳しいですね。陽子に聞いたんですか」
「一度にではないがな。主上はこちらにもよくおいでになるゆえ、自然伺うことも多い」
薄くけぶるように汚れた玻璃をとおして、葉月は空の果てを見
「主上はそなたに恩義以上のものを感じておられる。そなたを友と呼び、誰よりも信を預けておられるが、同時にそなたに会った頃の自分を酷く恥じ、悔いてもおいでだ」
「それは陽子のせいじゃ……」
「わかっておる。あのとき主上の舐めた辛酸は、並大抵のものではない。そなたの親切すらも疑ってかかったのは無理からんことであったろう」
紡いだ口調が苦い。
「そんな自分を、それでも救い上げてくれた手がどれほど有り難いことか、そなたにはわかっておるか?」
「でも、おいらだって陽子にいろいろなものを貰っています。陽子がおいらに恩義を感じてくれるのはそりゃ嬉しいことだけれど、おいらだって」
いいさした先を首を振ってとどめ、女は楽俊を見た。
「そなたは主上の命を救い、病んだ心を救った。だから、主上はそなたに恩をかえそうと思っておられる。それは、そなたが思っているよりも、もっと大きいものなのではなかろうかな?」
そなたは、自分の価値を知らなすぎる。
葉月は繰り返した。
「行き倒れた、と主上はよく仰るが、そなた、その意味をわかっておるか」
「……葉月様?」
銀の眼差しは鋭く、それでいて酷く悲しげだった。
「あの日は雨だったそうな。細く幾重にも降り注いで、終わりないような」
楽俊が黙然と頷く。その脳裏に、一つの光景が浮かび上がった。
林を貫く街道に降りしきる、銀の糸をまいたような細い雨。
薄暗いその視界の中で、水溜りの中に倒れ伏した人影。
泥と血にまみれ、酷く痩せ衰えて憔悴していた少女。
よもやそれが慶国の王だなどと、誰が思っただろう。
「人や妖魔に追われ、
一月以上。
やるせないような言葉に、楽俊は声がなかった。
ずいぶん長い間、山を彷徨っていたと、陽子は言っていた。だが、あまりいいたげでもないことだし、詳しく聞いたことはなかったのだ。
折悪しく、あれは晩春のこと。
山野に食べられるような果実はなく、あったとしても陽子に見分けがつこうはずもない。
探そうにも休もうにも、妖魔の襲来はひっきりなしで、落ちつける暇などなかったろう。
「賓満のちからをもってしても、指一本動かせなかったという。あのとき、主上は行き倒れていたのではない。死にかけていたのだよ」
文官らしい細く整った両の指を、葉月は固く組み握った。
「主上は笑っておられた。あと半刻遅ければ、そなたは生きた自分ではなく、死んだ自分を見つけたであろうとな」
では、と楽俊は思った。
あのとき、陽子が身動きできなかったのは、怪我や熱のためではなかったのだ。
彼女は衰弱しきっていた。差し出した自分の手に、すがることすらできないほど。
それは、体力や気力が衰えていたのではない。命そのものが、消えかけていたのだ。
肩を揺らし、大きく息をつく。
震える手で、楽俊は顔を覆った。
天の采配。
まさに間一髪のところで、自分は間に合っていたのだ。
『楽俊に拾われなければ、私はあのとき死んでいただろうから』
折りあるごとに陽子はそう言って礼を言う。
たまたま通りかかっただけで、たいしたことしたわけじゃねえと答えるたびに、笑って首を振る。
それは、こういうことだったのか。
陽子は追われていた。人にも、妖魔にも。
あのまま放置しておいたら、いずれそのどちらかに殺されていただろう。
酷い怪我と昏睡になるほどの熱で、これは大変だと思ったものの、拾ったときはそこまで知らなかった。だから、何も考えずに連れて帰ったのだ。
役人が来て、彼女が海客だと知った。
妖魔を招き、剣をもって人を脅す罪人だと言われた。
それでも助けたのには自分なりの理由があったからだし、陽子の礼もそういう意味だと思っていた。妖魔と役人と双方から匿い、介抱してくれてありがとう、と。
そうではなかったのか。
背筋に冷水を浴びせられたようだった。
自分があの道を通ったのは、ただの偶然。
あの時、もしも外へ出ていなかったら。もしもほんのわずかでも時間が違っていたら。
陽子は間違いなく死んでいたのだ。
「主上は仰ったよ。そなたに会うたことは、自分にとってなによりの僥倖だったのだと。天意というものがあるのなら、まさにあれがそうであったと」
楽俊、と呼ぶ彼女の笑顔には、信頼と親愛の情が溢れている。
窮地を救い、人を信じることを思い出させてくれた友に対する、心からの感謝が。
だがそれは、自分や周囲が思ってるよりも、もっと深いものだったのかもしれない。
「よ、うこ……」
自分は、彼女の何を、どれくらいわかっていたのだろう。
ありがとう、と言われるたびに、礼なんかいらねえと笑ってきた。
それは真実自分がそう思っていたからだが、果してそれで良かったのだろうか。
陽子の言葉に込められた意味を、自分はちゃんと受け止めてきたのだろうか。
両手を握り締めて俯く青年を見ていた葉月が、微苦笑の溜息をついた。
「そこで自分の功績を鼻にかけない心根はたいしたものだが、あまり悩むな」
「葉月様……」
「主上の御心内は主上にしかわからぬ。それと同じに、そなたの心内もそなたにしかわからなかろう」
言って、顔を上げた青年に笑う。
「主上がそなたに恩義を感じるように、そなたも主上に感謝することがあるのであろ?それでよいのだよ。……ただ、そなたには、わかってほしくてな」
意図の飲めない楽俊が、首を傾げた。
「主上を助ける者はほかにもある。主上が信頼する官も幾人もおる。だがな、官として、臣として助け、信頼に足る者は多くとも、まこと主上をただ一個の人として親しみ、主上が腹心の友と呼べるのは、鈴でも祥瓊でもなくそなたなのだと、妾は思うのでな」
陽子、と誰臆することもなく呼んで。王でも海客でもなく一個人として自然体で彼女に接することができるのは、ただの少女だった陽子を知っている、彼一人だけ。
海客だからといって差別しなかった。
警戒し、信用しないときでも、見捨てなかった。
困っていれば助け、至らないところは教え叱って、苦しいときには支えて。
それを自然に行なえることがどれほど難しく、相手にとって嬉しいことか。
「人間は裏切る。己に余裕なくば他人に構うことなど出来ぬ。そんなことはあたりまえであろ。だからこそ、そなたの存在は、主上にとっていかな宝重よりも稀有なものなのだよ」
それぞれの道を歩みながら、声をかけあい、励ましあっていける相手であるから。
きっと、二人がどんな関係であっても。
「おいらは」
いいさした楽俊を、葉月が片手を挙げて押しとどめた。
「そんなたいそうなものではない、などというでないぞ。主上に失礼だ」
「葉月様」
「よいではないか。そなたの親切を相手がどう受け取るも、それは相手次第だ。だがたとえ過分と思っても、相手の好意をきちんと受けとめるのは、そなたの器量のうちだと思うがな」
顔をしかめた相手に構わず笑う。
「いまでも充分、主上はそなたに恩を受けたと思うておいでだ。このうえそなたが無用のいきさつを知ったとなれば、つまらぬことを耳に入れたと余計にすまなく思われるやも知れぬな。ならば黙っておるがいいさ。妾のした話など、聞いたことはないという顔をしておれ。それは嘘になるやもわからぬが、どうせつかねばならぬのなら役に立つ嘘をつくべきであろ。それが、そなたにとって大事な相手ならなおのことだ」
言外に含むものを感じて返答に窮する青年の背後で、軽快に扉が叩かれた。
「葉月、楽俊がこっちに……ああ、やっぱり書庫だったんだね。お茶にしない?」
弾むような足取りで飛びこんできた少女が、鮮やかな緋色の髪を背景に破顔する。その勢いを葉月がたしなめた。
「主上、扉を叩いた以上、返答あってからお入りなさいませ。突然開けたのでは中の者が驚きましょう。礼儀でございますよ」
「なんだ、やましい話でもしていたのか?」
「やましくはございませぬが、説教を少々」
「楽俊は、説教されるようなひととなりではないぞ」
口をちょっととがらせた主を見て、葉月が笑う。
「それは存じておりますが、機微はいかがかと思いましてな」
「キビ?」
きょとんとする少女に楽俊も苦笑した。
「なに、葉月様からこの書庫のお話しを伺っていたんだ」
そう?と首を傾げ、陽子が抱えていた書籍を葉月に手渡す。
「本を返すついでに誘いにきたんだ。たまには葉月も外に出ないか?」
「主上のお招きとあらば、喜んで」
「ありがとう。鈴と祥瓊が用意してくれているんだよ」
嬉しそうに笑って書庫を出る陽子の後ろに続きながら、葉月が楽俊に視線を転じた。
うっすらと笑む銀色に、楽俊も微かに笑い返して頷く。
知らなくてもよかった。
でも、知るべきだったと思う。
言う必要のないことだから、口にはしないけれど。
細い背中に、楽俊はそっと頭を下げた。
初稿・2005.02.03
【葉月・ようげつ】
口調が氾王と似てますが、こっちのは年寄り臭いだけです。ゴメンナサ・
勝手に書庫番作ってますけども、なにしろ楽俊に説教できる人がいなくて……。
ちなみに積翠台ではないです。
とにかくもう読みにくくてすみません。
なんだか筋が通ってないような気もするしなー。
えーと。
楽俊は、陽子を助けたことを指して「たいしたことはしていないのに」という趣旨のことを言ってますが、陽子からしてみりゃとんでもないですよね。
読者はそれをよく知ってますけど(笑)楽俊はどうなのかな、と思いまして。
あの「一ヶ月以上」という時間の本当の意味を、楽俊は知らないのではないかと。
午寮の街以前には、そんなこと話してないと思うんですが、それ以降でも果して陽子がその時期の話をしたかなーと思うんですよね。
楽俊とはぐれたあと「逆算すると」と宝珠の計算をしたところを見ると、楽俊に拾われてからはぐれるまでの間では、宝珠の効果を考える余裕はなかったんじゃ
ないか。妖魔に追われてぼろぼろになって、とは楽俊も言っていたけど「1ヶ月も飲まず食わずで、宝珠だけがたよりでね」と陽子が言うとは考えにくい。
金を持ってないのも役人に追われてるのも知ってたけど、あのとき陽子が死に かけていたことまでは、わかったかどうかで。
だからこそ陽子は楽俊を「命の恩人」というけど、楽俊は礼を言われるほどのことじゃない、と首を振るのが、なんかこう、「わかってんのかなぁ?」と・笑
「行き倒れてた」んじゃなくて「死にそうだった」んだよ、と誰かに言ってやって欲しかったんですよ。
ま、余計なお世話は百も承知なんですが……。
珍しく長くなりました。