台 詞 で 創 作 1 0 0 の お 題   作:まかみつきと

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戻れない場所、消せない記憶。


||26|| 取り戻せないぐらい奪って。 (陽子)

 消えない記憶がある。

 

 消せない思い出がある。

 

 それは、永遠の枷。

 

 

 虚海を臨む岸壁から、陽子はその黒い海を見つめた。

 

 強い風が前髪を巻き上げ、頬を叩く。

 他を受け入れぬその冷たさに、ここで初めて目覚めたときの感覚が甦った。

 

 身に迫る潮騒。

 すべてを飲み込もうとうねる波。

  

 それは恐怖と、言い知れない孤独。

 

 ああ、と嘆息した。

「ここから、始まったんだな・・・」

 この海から続く光景には、憎悪と血の臭いがまとわりついている。

 獣の咆哮。

 肉を断つ手応え。

 身を(さいな)む痛みと飢餓。

 それまでの自分には、なにひとつ覚えのないことばかり。

 

 あの日々を思えば、こうして生きていることは奇跡のようだ。

 自分を助けてくれた幾人もの顔を思い浮かべれば感謝の思いはつきないが、それでも、この海の彼方を見ると胸が締めつけられるように痛い。

 

 家族がいる。友人がいる。慣れ親しんだ景色がある。

 もう手の届かないものはあまりに多く、襲いかかる寂寥感に手足が引きちぎられるようだった。

 人から神に生まれ変わるというのなら、なぜあのときにこの記憶を消してくれなかったのだろう。

 どうにもならない想いなら、すべて奪ってくれればよかった。

 これほどまでに後ろ髪を引かれるものが、道を誤らせない保障はどこにもないのに。

 

 潮騒は、耳に響き、心に()みる。

 深く強く胸をえぐり、辛い傷ばかりを残す。

 忘れるな、忘れるなと繰り返す。

 二度と手に入らないものを求める感情は(くら)く、焦燥に似た苦さがこみ上げた。

 

 帰れないと言われ、戻らないと決めた。

 その決心を揺さぶる波音は、遠い昔に母の(はら)の内で聞いた音に似るという。

 この世界では誰も聞かない音を、陽子は記憶の底で知っている。

 だから、こんなにも魅かれるのだろうか。

 いい思い出など何一つないのに、この黒い海は陽子を呼ぶ。

 

 繋がっているのに(かえ)れない、月影の向こうの故国へと。

 

 いつのまにか頬を伝っていたものを、袖で乱暴に拭う。

 なにを思っても、もうあともどりはできない。

 自分にできるのは懐かしむことだけで、いまはそれすらも許されないけれど。

 いつか、こんなことがあったと笑って思い出せる日がくれば、それでいい。

 

 

 わたしは、ここにいます。

 この海に抱かれた世界で、精一杯生きてみます。

 だから、今は忘れて。

 もう泣かないで。

 傷が癒えた頃に思い出して、懐かしんでくれれば、それでいいから。

 

 虚海の果てに暮らす愛しい人たちを思って、陽子は目を閉じた。

 

 

初稿・2005.01.27

 




登極前の巧国で。
SSSですね。
このメモにも「シリアス?ウラ?」とか
悩んだ形跡が・笑


初稿段階では、700文字程度でした。
でもハーメルンさんは1000文字が下限なので書き足しました。
……そういうハナシが何本かあって、わりとつらいですw

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