母親の詩菜が逃げ出した。
……まぁ、いつかこんなことをやらかすとは思っていた。
奴に『上司である紫殿を、大層怒らせるのでは?』と訊いたら、笑いながら『これぐらいで怒ってたら今頃私に愛想を尽かしてるよ。多分』とか言い切りやがった。
まぁ、迂闊にも納得してしまう理由だったが。
しかし本当に紫殿は怒りはしなかった。殆どが諦めに似たような感じだったようだが……。
この辺りに博麗大結界が張られ、《幻想郷》が出来た日。その時に詩菜は逃げ出した。
その日の次の夜、私が家主の居なくなった我が家で一人夕飯を食べていると、唐突にスキマが開き紫殿が訪れた。
まぁ、事前に母親殿から逃げ出すことは聴いていたし、紫殿がこの家に来るということは予想できていた。
「藍から聴いていたけど……詩菜は、やっぱり居ないのね」
「アイツは当分帰ってこないでしょう」
「やはり聴いていたのね……止めようとはしなかったのかしら?」
「簡単に止めることが出来るとでも?」
「……ふふ、それもそうね」
やはりアイツは誰に対しても厄介な存在なんだな、と再確認した所で、紫殿はスキマを開いて何処かへ行ってしまわれた。
いつものことではあるが、此方としてはいきなり出てくるのも、挨拶も無しに出ていくのも止めて欲しい。
本当、反応に困る。
さて、飯も頂いたし、食器を片付けてさっさと寝るとしよう。
と、食器を洗うために河童製の台所へと向かおうとした瞬間、
突如として、暴風が家に舞い込んできた。
「………………」
その暴風は何をするでもなく、ただしかめっ面というか、頬を膨らせたような怒った顔をしたままドカドカと音をたてて歩き、玄関からまっすぐ私の元へ。
そして居間へどっしりと擬音が付きそうな勢いで座り込んだ。
そんな彼女はまるで何処かの親父のようだなと、つい思ってしまった。膨れて起こっているのに可愛らしい顔なものだから、そう思うのは一瞬だったが。
まぁ、そんな暴風は射命丸文という天狗なのだが。
「……やっぱり出て行ったのね」
「ああ、確かにそうだぞ? というか扉を乱暴に閉めるな」
「ふん……」
どうやらこの様子を見る限り、詩菜はちゃんと文にも説明をしていたようだ。
その時の様子がどういうものだったかは想像するしか無いが、この怒りようを見るに奴も大変だったのではないかと思う。
まぁ……自業自得だが。
腕を組み胡座をかいて怒っている文を置いて、食器を台所で洗うことにする。
台所といえば、河童の作る物は良く原理が分からない。がしかし捻れば水が出る。それが便利なことだというのは確かだ。
その内こういう物がどんどん流行ってみんな怠惰になっていくのだと、そういえば詩菜が言っていたのを思い出す。
……とか言って、この家で最も早く慣れていったのは奴だったが。
数分後、食器洗浄から戻ってみると、文はちゃっかりお茶を自分で注いで飲んでいた。
まぁ……いつものことだ。
「で、何をしに来たんだ? 酒盛りか?」
「……そんな気分じゃないわね」
「だろうな」
どうやらお茶を飲んでいる間に怒りも冷めてきたらしい。八つ当たりされなくて良かったと思う反面、そんなことを彼女はしないかとも思う。
まぁ……ヒトのことは言えないが、アイツがいきなり居なくなったことを残念に思っている奴は少なくないだろう。
私は寂しく思うし、それは文も同じだろう。
……文を倒そうとして、結果的に詩菜対鬼と私達となってしまったあの事件から、私と詩菜は上手く歩み寄れていなかったが……それでも寂しいと思う。
旅をする理由も、『ここ』から出て行く理由も聴いたが……アイツは何がしたいのか分からない。理解出来ない。
まぁ、それも結局は『いつものこと』で済んでしまうんだがな。
夜も更けてきた。
会話は少なかったが私としては居心地が良く、片方はイライラとしているこの状況を、このままずっと続ける訳にもいかない。私は明日の早い時間から用事があるからな。
「私はそろそろ寝るが、文はどうする? まぁ、泊まるのか帰るのかは知らないが、戸締まりはちゃんとしてくれ」
「……アンタは冷静ね。母親が失踪したら慌てるものなんじゃないの?」
「慌てて……それでどうなるのか?」
というか、ヒトが慌てていたらそれを笑うような奴だぞ? アイツは。
どうせ母親殿なら、何事もなかったかのようにいきなり帰ってくる。
……帰ってこないなんて、ありえないし、許さないけどな。
とは言え、そんなことをそのまま言うのは恥ずかしすぎる。
「どうせ奴のことだ。いつの間にか私達を驚かしてくれるさ」
「……そうでしょうけどね」
「まぁ、兎に角おやすみ。施錠とかはいつも通りに頼む」
「……ハァ……おやすみなさい」
襖を後ろ手で締め、寝台に入る。
文がいる茶の間から、誰かが出ていく気配は、私が意識を落とすまで一切なかった。
▼▼▼▼▼▼
翌朝。
結局文は泊まっていったらしく、布団が部屋の隅に畳まれていた。
しかし姿が見えない所から、どうやら朝になってすぐにまた出掛けたみたいだ。
随分とせっかちなことだ……とは言え、陽も出てない時間に私も人のことは言えないが。
朝食をさっと終わらせ、人里に向かう。
人里に。ではなく、正確には慧音の家に。なのだが。
彼女は私の親友にして良き理解者でもある。同じ半妖という共通点のせいか、話が良く合うのだ。
その彼女と私は、人里を守る立場にある。
慧音と私は種族は違うが、共に半妖という存在で……まぁ、そういうことを嫌う人間というモノが良くいるのだ。
彼女は『根気強く話し合えば解ってくれる』と言っていたが、私はそんな根気強くない。どうしてもついカッとなってしまう。
だから慧音は人里の中に住んで耐えているのだが、私は耐えきれない為に『妖怪の山』の境界線上にある詩菜の家に住んでいる。
しばらく飛び続け、里が見える辺りで地に降りて歩き出し、ようやく人里に到着した。
門番に御苦労様と声を掛けて、集落の中に入っていく。
私が入った瞬間に嫌な顔をする輩も居ることには居るのだが、私も何だか最近慣れてきたのか真っ正面から言われたりしない限り、怒らないようになってきた。
日頃から人里で行動している慧音とは違い、彼らに私が居ることに慣れてくるまでは時間がかかる。それよりも早く私の方が慣れてしまいそうだ。
まぁ、別にそれはそれで良いことなのだと慧音は言いそうだが……。
「お邪魔する」
「彩目か。待っていたよ」
「よぅ、久しぶりだな。彩目」
「……まぁな」
私は母親殿、詩菜に秘密にしていることが一つある。
本人に言えば、とんでもない騒動を起こすだろう。
そして『彼女』に詩菜・志鳴徒のことを伝えれば、騒動は此処でも起きてしまうだろう。
彼女、『藤原妹紅』について。
「遂に『幻想郷』が出来たな」
「そうだな。人里も龍神様で大騒ぎになってたよ」
龍神様が御現れになって雨を降らしてくれた、とお祭り騒ぎになっていたそうだ。
結界が完成し、雨雲の隙間から龍の姿がチラリとみえたらしい。それだけで人間は歓喜している。
……何が嬉しいのかは兎も角として、人里はお祭り騒ぎだ。
そんな中、人間に近くて人間でない私達は普通に冷静だったと思う。
「ちょっと出掛けてくる」
「ああ、いってらっしゃい」
「夜には戻れよ妹紅」
「……」
そのまま妹紅は何も言わず、戸を開けて出ていっていった。
というか慧音、お前はいつから妹紅の保護者になったんだ?
戸が締まり、彼女の姿が見えなくなるまで私は背中を視線で追っていた。
彼女は未だに記憶が戻っていない。
あの時、私を見て《志鳴徒=詩菜》の方程式に気付いた彼女も、今では志鳴徒と共に私を見なければこの式にも気付かない。
「彩目……お前の母親の話は」
「言うな。あれは……本人達の問題だ。私らが干渉すべき事柄じゃない」
「……分かった」
妹紅が慧音と友人だということは、大分昔から知っていた。
それはつまり、妹紅と私が昔から知り合いだということでもある。
私が慧音に志鳴徒と妹紅の関係を喋った記憶は無いから、恐らく妹紅から『あの話』を聴いたのだろう。
そして、私は彼女の前で親の話などしたことがないし、する気もない。慧音も私がしようとしない限りしないと決めているそうだ。
向こうの……竹林の方にも、既にこの話は通じている。
妹紅が『師匠』と呼ぶ人物がまだ生きていて、憎む人物と『同一人物』であるということに、慧音も気付いている。
だが、私はその事実を彼女や母親殿に話したくはない。
妹紅・慧音との関係を壊したくないし、打たれ弱い部分がある母親殿に問題を提示したくない。
結局は結論の先延ばしになってしまう。困った。
「……」
「……ふぅ……」
「溜め息を出すと幸せが逃げるそうだぞ」
「本当か。それは参ったな」
「……だんだん詩菜に似てきたな」
……なんとなく、そんな気はしている。
▼▼▼▼▼▼
慧音は人里に住む人間を守る仕事だけではなく、人里の子供達の教育・教師もやっている。そういったこともあってか、平日になると彼女は忙しくなるのだとか。
かなり早朝に彼女の家を訪れたにも関わらず、慧音は忙しそうに荷物を抱えて寺子屋に行ってしまった。
日が見え始め、ようやく人々が起きるという時間であるにも関わらず、この家に居た者は全て出払ってしまった。
それについては私も度々疑問視しているが……まぁ、本人達は私に留守番を預けるつもりなのだろう。
けれども私は半妖で、一部の里の者から未だに恐れられている妖怪の山の住人なのだが……。
まぁ、留守番を任せられるとなると、必然的に私は暇になる。
勝手知ったるヒトの家。慧音の部屋で何かやってもいいが、特段やりたいこともない。
仕方がないので縁側に座り、ぼんやりと町並みを眺める。
予想外に人里のお祭り騒ぎはあっさり終結し、今ではいつも通りの日常を過ごしている。
いつも通りの日常だが、噂好きのお母様方は熱心に昨日の《龍神様》の御姿を議論している。
あれだけの人数が集まっているにも関わらず、ハッキリとした特徴を誰も言うことが出来ないのは、何かしらの能力かそれとも《名前のない本来の神》の姿だからか?
……まぁ、どうでもいいんだが、な。
そんなことを考えていると私の元に寺子屋の子供達が何故か集まってきた。
はて……寺子屋が終わる時間帯でもないが……と疑問を持つも、大体の理由はすぐに分かってしまう。
「どうしたんだお前ら? 寺子屋はどうした?」
「アヤメっ!! オイラ達をかくまってくれよ!」
「けーねせんせーが頭突きしてくるんだ!!」
「また何をやらかしたんだお前らは……?」
コイツら悪ガキどもは、私が人里に立ち寄ると何処からかその事実を聴いて必ず私の元へやって来る。
こういう奴に限って、何故か私は懐かれる。お陰で慧音には『寺子屋には出来れば寄らないでくれ』と懇願されてしまった。
「オイッ!! ぶしはくわねどたかようじって言うんだろ!?」
「だから早くオレらを隠してくれよ!!」
「意味合ってないだろ、それ……私は何も見てないから、居間で座って待っていろ」
「おっしゃあッ!! ありがとうな!!」
「アヤメっ! ありがとう!!」
うむ、何かをされたらちゃんと感謝の返事をする辺り、慧音の指導は行き届いているようだ。
さて……しばらく待っていれば、顔がひきつりつつ私の元にやって来る慧音の姿が見えてくる。
「……まぁ、彼等が授業を抜け出して何をするかと言ったら、彩目の元に行く事くらいしか思い付かないがな」
「ハハハ、まぁ良いだろう?」
「……そんな事を言うと思ったよ。ホラ、今日の分だ」
「ああ、すまない」
こういった悪ガキが私の元へ避難してくる度に、授業が止まってしまう。そうなると真面目な子の授業が進まなくなってしまう。
だからその悪ガキ達が私の元に来ると、
慧音は彼等が今日の授業で学ぶ分を私に渡し、
彼女は彼等を怒らない代わりに、悪ガキは私が教えることを真面目に学ぶ。
……というそういった方式になってしまった。
しかも何故か、悪ガキ達は私が教えた部分の成績がかなり良くなるという。
「はぁ……なぁ彩目。真剣に寺子屋で働かないか? キミなら絶対に良い先生になれるだろう?」
「いやいや。私には悪ガキどもの教育の方がピッタリだよ」
私は、私自身が教壇に立って教鞭を奮う姿がどうしても想像できない。
……それに、慧音以上に村人からの反感を買うだろうからな。
「むぅ……ま、何にせよあの子達を頼む」
「ああ、了解した」
……さて、と。
「おらー悪ガキどもー、慧音の頭突きと私の授業……どっちが良い?」
「「「アヤメの授業!!」」」
ま、それはそうだよな。
あの威力は、うん、おかしいと言うしかない。