これは、いつぞやにも書いた事なのだけれど、──
微かな吐息の音が聴こえる。
自分ではない他人の音を聴くのは、昔から嫌いではなく、寧ろ好んでいる音でもあった。
母親の心臓音、兄弟達の寝息、友人達の呼吸音。
そういう音を聴くのが昔から好きだった。
そうして、誰かの呼吸に自分の呼吸を合わせて、ゆっくりと眠っていくのが好きだった。
誰かに合わせて、自分をその存在感の裏に回すというか。
何とはなしに同調して安心しようとしている、というか。
端的に言えば、誰かに合わせて、誰かが居るという安心感が欲しい、と言えば良いのだろうか。
他人の眠っている時の呼吸は、本当に私を、何とも言えない睡眠へと微睡ませてくれる。
まぁ、流石にこんな因縁増し増しで大盛りな状況で、深く眠ることなんて出来ないのだけれど。
頬杖をついて、勇儀の呼吸、鼓動をゆっくりと聴く。
目蓋を閉じて音だけの世界に浸りながら……勿論、背中では妹紅の寝ていないであろう、わざと落ち着かせているかのような息遣いも聴きながら、ただ只管に自身を深く沈めて同化させていく。
一定のリズム、一定のバランスで成り立つ、その波とも言える流れが、私をゆっくりと微睡みに誘ってくる。
半分寝て半分起き続けるなんて、人間だった頃には出来なかったことだけど……それでもこの自前の揺り籠は、非常に私を落ち着かせてくれる。
ただ、それは、やっぱり、夢の中。
▼▼▼▼▼▼
「────……ん……」
声とも言い難い音を聴いて、ゆっくりと瞼を開ける。
相も変わらず部屋は暗い。体感的には夜明けまで後一時間前後といった所か。
ま、それも竹藪が邪魔するのだから、周囲が明るくなるのはもっと後になるだろう。
少しの間ぼやけていた視界も、数回まばたきをすればピントが合い、真っ暗な中に鬼の顔が浮かび上がって見える。
────そして、ゆっくりと瞼の隙間から赤い瞳が見えてくる。
「────おはよう」
自分でも驚くぐらい、変な声が出た。
いや、驚くということはしないけれど、変な声というのが、何と言うべきか、まさしく母親が子に呼び掛けるような、悪く言えば艶めかしい声色になってしまった。
落ち着ききった声というか、揺蕩うような声というか……私には似付かわしくない、優しさにまみれきった声というか。
我ながらとても似合わない声の調子だな、なんて思っていると、声に反応して勇儀の顔がゆっくりとこっちヘ向いた。
彼女もこの暗闇は、さして問題のない範囲なのだろう。私の顔にピントが合うと驚いたような表情をして────それから気の抜けたような顔をして、私から視線を外してまた天井を向いた。
「……なんだい……気持ち悪い声を出して」
「うるさいな。自分でもそう思ってるよ」
「そうか、ふふ……」
そう言い返して、ようやく勇儀は笑った。
……幻想郷が出来る前、妖怪の山で共に過ごしてた時によく見た、邪気の抜けた笑い方だった。
それから、少し身体を動かそうとして傷が痛んだのか、顔をしかめてもう一度深く息を吐いた。
「やれやれ……負けちゃったか」
「……ほぼ同時に気絶したと思うけど?」
「全身から血が吹き出てる奴と、全身光で焼き焦げた奴が同時に倒れて……それで先に立ち上がったのが勝者だろう?」
「……勇儀は今、どんな調子? 完全回復した状態を100として、今の状態は」
「あ〜……50って所かな。内部があちこちやられている」
「んじゃあ私の負けかなぁ。総合的に見ても40って所だから」
「勝ちを譲るなよ。怒るぞ?」
「……勇儀は私に対して、そういう脅迫しちゃ駄目でしょ」
「ははっ、自業自得だろうに」
「……」
まぁ、そう言われてしまうと、私としては何も言えない。
というか、何か言えば悪化の一途になる、というか。
私が黙ったのを感じてか、勇儀が深く溜め息を吐く。
「やれやれ、本当に調子が狂う。昔はもっと捻くれていたろうに」
「……まぁ、私も色々あったからね」
例えば、『彼』とか、妹紅とか、彩目とか、フランとか。
ようやく元の自分……まぁ、私であって私でないんだけど、そういうのにようやく出逢えた途端、世界観が変わったというか、何と言うか……。
以前の私が誰かに与えた不快感が、今になってようやく、一部理解が出来るようになった、というのは、皮肉にも程があるとは、思う。
「その、部屋の外にいる奴もか?」
「……そうだね。彼女は……当時を知る一人、って感じかな」
結界を張っているから、内部の会話は妹紅には聴こえていない。
妹紅は多分、それに気付いているとは思うけれど、何か行動を起こそうという気配もない。
「当時っていうと?」
「私と勇儀が始めて逢った時の、鬼退治」
「へぇ、まだそんな奴が上にも居たんだね……まぁ、山には多く居るだろうけど」
……その妖怪の山も、非常にゆっくりと世代交代は進んでいるけれどね。
柊も行ったし、気付けば知り合いの妖怪が死んでいた、というのも何回かあった。
……その年月を一つも感じさせない知り合いが、この屋敷には三人も居るんだけどさ。というか、その一人がその弟子なんだけどさ。
「彼女も、まぁ、私にとっては、負の遺産、って所かな……簡単に言えば、トラウマの一つ」
「……」
「幻想郷に帰ってきてから、何度か顔を合わせてはいるけれど……」
彼女と相対するのは、少し心に来るものがある。
近くに居ると分かっただけでも、上手く息が吸えなくなるような気がする。
そして、そんな事が起きたりはしない────そう思わないと、話せもしないのが今の私。
そうして、ただ、少しずつ、会話は増えていると、そう思いたい。
「……そうか」
「私は、弱い生き物さ……どうしても、真正面から向き合えない」
勇儀はまだ良い。言い方は悪いけれど、彼女なりのやり方で、力で何とか解決が出来る……あくまでそれも、表面上での解決という形になってしまうけれど。
ただ、妹紅はどうしようもない。憎まれる理由はあるし、それだけの負い目が、私の中に蓄積され続けてしまっている。
互いに歩み寄らない理由を言葉にしないという話は以前したけども、それでも、彼女に対する行動はどうしても萎縮したものになってしまう。
私が殺した相手なんて、恨まれていた方が気が楽なのに。
それと一緒に、親愛の情まで感知してしまうものだから……本当に、発狂したくなる。
殺してくれれば良いのに、それを娘と姫と、相手が許さない。
受け入れたくても心と身体が拒否してしまう。許さないでくれと。
ビキッ、と、右手の人差し指の爪が割れた。
私の能力が発動した為に驚きはしなかったけれど、右手を上げて見てみれば、常に生成され続けている魔力が爪に圧縮され続けていたらしい。
……多分、私の
ただ、私の肉体の意思としては、爪を伸ばす意識がなかったものだから、相剋しあって爪が崩壊したらしく、爪の根元と共に肉が割れ、裂け目からは開放された魔力と血が流れ続けている。
「……起きたてには随分と過激な匂いを嗅がせてくれるじゃないか」
「まぁ……本当に調子が狂ってるからね」
妖力50%、トラウマ2連続、そりゃあもう、肉体と精神に大ダメージのオンパレードだ。
これでいつもと同じ活動を十全に出来るとかいう奴の方がおかしいと思うがね、私は。
そんな会話と思考をしている内に、肉体の回復はまるで問題ないと言うかのように爪を修復していく。
割れた部分から魔力が放出されたからか、他の指に溜まっていた魔力がゆっくりと抜けていく。人差し指が割れた瞬間には膨張しきって真紫になっていた右手の指も、どれもが通常の色へと戻りつつある。
……まぁ、床に垂れた血は妖術で風化させるしかない。
喧嘩してた二人がいる部屋から血の匂いをさせちゃあ、どんな奴でもお察しものだろう。
外に居る妹紅は……
椅子から足を伸ばして垂れた血痕に触れようとする────届かない。
仕方がないので椅子から飛び降り、着地と同時に血痕を踏み締め、そのまま風化させる。
多少畳に跡は残るだろうけれど、まぁ、匂いは残らないようにするし、ぱっと見で気付かれなければ良し。
数秒も経たない内に脚を退けてみれば、ホラ、もうない。
……こんな風に、何でもかんでも風化できれば良いのに。
それから手を軽く振れば、完治した傷から皮膚を濡らしていた血が全て一瞬に蒸発する。
傷自体はもう無いから、後はこの蒸気を圧縮して、手の内に取り込む。
これで証拠隠滅完了。
良し、と、誰に言うでもなく呟き、再度椅子に飛び乗る。
視線を勇儀に戻してみれば、いつの間にか彼女の顔はこちらを向いていた。
「……なぁ、詩菜」
「……何?」
「お前、自分は好きか?」
「嫌いだよ、こんな奴」
「……そうか。変わってないな」
そう言う勇儀は、今まで見たことがない程に、悲しそうな、憐れむような顔を私に向けた。
……確かに、彼女達にとって私のような存在は、決して理解できる存在じゃないんだろう。
「でも……昔とは違って気付いたんだよ」
「……何を?」
時代を一巡して、『彼』と出逢って、妹紅と遭って、ようやく気付いたこと。
「私は私が嫌いだけど、それは多分、嫌いの裏返しにもなり得るんだって」
────そうじゃなきゃ、多分、私はここまで生きてこれない。
私は『私』のために死力を尽くせないし、抗うことが専売特許だなんて言えない。
私じゃない『私』が好きなのか、それとも私が嫌いな私が好きなのか……まぁ、そこまでハッキリ決めちゃったら、本当に自我が崩壊しそうな気もするけど。
「……一人で勝手に納得してないで、もっと分かりやすく言ってくれよ」
不機嫌そうに勇儀はこちらを睨んでくる。
それが、裏返しになっちゃうんだってのに。
「嘘をつく自分に嘘をついてるんだよ。多分ね」
「……はぁ?」
今度こそ怒ったような顔をする勇儀にヒラヒラと手を振って、椅子から降りる。
「まぁ、分からなくても仕方ないよ。私だって完全に分かったつもりもないし」
「自分のことなのに分からなくてどうする。一番ハッキリさせなくちゃいけない所だろ」
「いいの。鬼みたいに正直に生きるのは私にゃ辛すぎるよ。私はぼんやりしてるのが一番さ」
それこそ雲のようにね。
そう言い切って、部屋の外へと向かう。
「おい、詩菜」
廊下へ出る襖に手を掛けた所で、勇儀の声に、動きを止める。
振り返ってみれば、天井を向きながら悩むように眉間にシワを寄せている。
「何さ?」
「……あー、いや」
色々と考えながら腕を組もうとしたのか、布団の内部でモゾモゾと動く様子があった。
が、結局そこまでの体力も回復していなかったのか。大きな溜息と共に力を抜いていく。
そうしてゆっくりと、こちらへと顔を倒した。
困ったような、開き直ったような、そんな顔。
「また会えるかい?」
……勇儀のそんな顔は、初めて見るし、ちょっと似合わなすぎるかなぁ……。
「……ちょうどさ? 家の改築を考えてたんだよ」
「……へぇ?」
「いつでも良いからさ。増築してくれない?」
「任せときな。また遊びに行ってやる」
「……あんまり騒ぎを起こすんじゃないよ?」
「
「……あぁ、否定は出来ないかなぁ……」
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互いに軽く別れの言葉を言い合い、襖を開いて外に出る。
後ろ手に襖を閉めて庭を見れば、竹の隙間からチラホラと雪が振り始めている。
縁側から少し乗り出して見た小さな雲空は、だんだんと明るくなる夜明け頃の色をしていた。
……黎明、彼は誰時、という奴かしらね。
「……物事の全てに、夜明けが来る事が決まっていれば良いのにね」
すぐ隣で、ずっと座っていた妹紅に、何となくそう呟く。
顔は……あんまり見たくない。
────そんな事を思いながら話し掛けてしまった天罰でも当たったらしい。
「……さぁてね。
────少なくとも、私の命に夜明けはもう来ないよ」
その、ずっと、夜にさせてしまったのは、私が原因だと、心臓に刃を突き刺されたようで。
「……そうね」
私は、もう、そう言うしかなかった。
だって……どんな意味で言ったつもりじゃなくても、どっちにしても、彼女の言う通りで。
夜明けどころか、ずっと真夜中のまま止まっているのは……本当なのだから。
そうさせてしまった理由の一つを、私は担ってしまっているのだから。
根本的に……私の罪なのだから。
一気に声のトーンが落ちたのに気付いたのか、ずっと座っていた妹紅が慌てて立ち上がる。
「あ、いや、そういうつもりで言った訳じゃなくて、さ?」
「いいよ……どっちの意味でも分かってるつもりだから……」
ああ。
ここで、あと一言。
妹紅の隣を通り過ぎて、動かない彼女へ振り返って、
私から彼女へ手を差し伸べて、『戻ろう?』の一言が言えたら、
どんなに
クソが。
──そんな簡単に仲直りさせる訳がないでしょう?