ゆっくりと、襖を開く。
音を出来る限り立てず、
内部は私の寝ていた部屋とは違い、薄くではあるが差していた陽の光も、この部屋にはほとんど入ってこない。
非常に薄暗い部屋。それでも見えないほどではないというのが、何とも言えない。
一応は医院ということなのか、室内に置かれている机やベッドなど、共通の物が多く置かれていた。
床は畳、収納棚も兼ねた簡易的なベッド、私が使っていたのと同じ柄も絵も何もない真っ白なシーツと布団。
私の時と違う所といえば、未だに患者が寝続けている所と、点滴を受けている所ぐらいか。
「……」
近付いて椅子を動かして跳んで座っても、一切の反応がない。
それこそ、昔あった宴会の後の時のように、近くで物音を立てればいくら泥酔していても反応していた筈の勇儀が────呼吸は一つも乱れず、鼓動音に変化もない。
サラサラとした金髪はゆるく三つ編みに結ばれてベッドの端へと流されている。
寝返りを打っていないのか、布団やシーツにはほとんどシワが寄っていない────まぁ、うつ伏せになったら角が刺さるから、あまり彼女が寝返りをうつような場面を見たことがないけれど。
そういう所は、鬼らしいといえば、らしいのかもしれない。
口は綺麗に閉じているけど、その下の首から病衣に隠れている胸元まで、全て包帯に覆われている。
恐らくその下も巻かれているのだろう。呼吸音と共に聴こえる衣擦れは二重に重なって聴こえるから。
良く良く聴けば、その更に下の、傷の音すらもよく聴こえてしまう。
ま、その傷は全て私がやったことなのだから、心配する身分ではないのだけれども。
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ジクジクと、傷が癒える音がする。
肉と肉が繋がる音。失った部分を埋めるように、隙間へと入り込み増殖する細胞の音。
亀裂を血で埋め立て、筋が引き伸ばされては千切れ、そしてまたこびりつき、くっついていく。
こんな音は再生している当人でも滅多に聴けないだろうし、よっぽど耳の良い妖怪か、そういう能力でも持った人物でもない限り、聴き取れることは出来ないだろう音を、ただ無心に、彼女の肉体から聴き続ける。
静かに耳を澄ませて全ての衝撃を感知しようとしてしまえば、例え自分の音であろうと精神衛生上あまりよろしくのない音が簡単に聴こえてしまうものだから、こういう性分を持った私達は辛いものだ……まぁ、私は割と嫌いではないけど。
と言うか、実質私の身の内からも聴こえている音ではある。
彼女の内臓の音とは違って、私は”なずき”の回復する音な訳だけど。
果たしてこの寝ている鬼にも、そんな音が聴こえているのだろうか、なんて意味もないことをつらつらと考えている内に、どんどんと時間が過ぎていく。
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ふらふらと、椅子から垂れた脚を揺らす。
その音に合わせて、ぎぃぎぃと椅子の関節が軋む音が鳴る。
それは、まぁ、私ぐらいしか感知できないだろうとは思うけれど。
身長が低いせいで、鈴仙がキチンと座れていた椅子すら私にとっては高い椅子となっている。
まぁ、志鳴徒になれば鈴仙よりも身長は高くなるのだから、変化してしまえばそんな謎のコンプレックスも感じないのだろうけれど。
目の前で眠る彼女は、まだ起きない。
身体的コンプレックスで言えば、彼女の肉体もまぁまぁ、私としては何とも言えない気分にさせてくれる点が幾つかある。女性的な肉体という意味で。
それもまぁ、志鳴徒からしてみればどうということのない視点ではあるのだけれど、それはそれでまぁ、別の視点という問題点も出てくる訳であって──いや、それはそれで無い、か?
視点を戻して──とは言え、羨ましがった所で手に入るモノでもない……いや、《遍在》なら出来るのかな?
まぁ、それでも結局、それだけの存在力、旅路が必要か。
いつぞやの、人間と妖怪の、三人の愛憎譚で得られた年数じゃあ、まだまだ足らない。
ああそう。そういえばあの時逢った妖怪も、勇儀の事を知っていたんだった。
……彼女の事を、コイツは知っているかね……? まぁ、知らないと思うけど。
人間と妖怪、同時に手助けしたのは、いつ以来かね。
まぁ、八雲の式神として神社を守ったり、吸血鬼とその人間の従者を、って考えたら、結構最近にもあったのかも知れないけれど。
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ふと彼女の顔から視線を動かしてみれば、四隅にぽつんと置かれた籠が目に入る。
その上の壁には、いつも彼女が着ている、何処かで見たことのある白い服が掛けられている。
……となると、あの籠の一番上にある青と赤の模様がある布地は、彼女のあのスカートか。
昔から、妖怪達はハイセンス過ぎると思う。
種族内からの個別化、あるいは妖怪そのものの特徴を引き出す為の服装なのか。しかしオシャレが目的であるならば、妖怪としての恐怖を引き出す小道具どころか、特徴を消し去ってしまう諸刃の剣。
まぁ、喧嘩別れする前からほぼ変わっていない辺り、妖怪としても、彼女個人の意見としても、全てを上手く引き出す、彼女らしさを確立してくれる服なのだろうとは、思う。
昔と同じ服じゃなくても、彼女だと間違いなく気付く自信はあるけども、それでも彼女を彼女たらしめる────悪い言い方をすれば、『星熊勇儀』だという箔を付ける服なのだろう。
とは言え……あの絶妙に半透明な服は到底着たくないけれども。
何だあの破廉恥なの。見えないスリルとか、セクシーさとか、理解ができぬ。そんなのより恥ずかしくないのだろうか。恥ずかしくないんだろうなぁ……鬼だし……。
まぁ、大昔に彼女のそれとなく言ったこともあったけれど、馬耳東風とばかりに、聴こうとすらしなかったのだから、やはり多分、着ている事、着る事に意味があるのだろう。多分。
もっと、こう、私みたいにこう、着物の、こう、奥ゆかしさをだな……。
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ここ、永遠亭の空気は非常に変わっている。
厳かという訳でもなく、澄み切ったという訳でもなく、どちらかと言えば、ただ極端に静謐と言うべきなのか、止まっているかのような、不思議な雰囲気だ。
別に物理的に空気の流れ方が違うとか、そういう意味でもなく、ともかく、空気の流れ方が非常に特徴的な場所だ。
空気が動かず淀んでいるのか、それとも淀んでいるにも関わらず常に新鮮と言うべきなのか……
まぁ、何はともあれ、回復するにはこれ以上なく落ち着ける空間なのは確かだと思う。
鈴仙の言葉通りなら、私は三週間も意識不明だったらしい。
それなら、目の前で昏々と眠り続けている彼女は、もしかしなくとも私以上に意識不明状態が続いているのだろうと思う。
ま、薄っすらと残っている記憶通りなら、全身全てが焼け爛れていた筈だから……ぱっと見て傷がないように見えるぐらい、回復はしているのだろうと思うけれど。
さて、いつ目覚めるのかな。彼女は。
彼女の呼吸は、非常に落ち着いている。ともすれば一瞬、呼吸が止まっているかのように錯覚する程に。
それほどまでにゆっくりと胸が上下しているのだから、紛らわしいことこの上ない。
全くと言って良い程に起きる気配がなく、とても深く眠って、回復に身を費やしているのが分かる。
彼女が目覚めないなら、私は………………まぁ、誰かが止めるまで、私は待つつもりだけど。
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気付けば陽の光も入らなくなり、部屋は廊下にある点在していた、あの小さな蝋燭の火によって、何とか内部が見える状態だ。
夜目が効かない人間なら、多分熟睡できるだろうぐらいには真っ暗で、妖怪にとってもまぁ、咄嗟には動けない程度の暗さ、といった所か。
……まぁ、驚く所は多分、その蝋燭の火であろう光が、いつ付けられたのか。全く動かなかった私ですらも分からなかった、っていう所。
誰かが付けて回った気配どころか、私には点灯し始めた瞬間すら分からなかった。
月のオーバーテクノロジーを使ったか、それとも輝夜が能力で何かしたか……いや、後者はないか。ぐーたらな姫様だし、そんな労力を割くことはないだろう。多分。
そんな暗さになってしまっても、まだ彼女の顔が分かる自分の視力を、嘆くべきか、それとも喜ぶべきか。
彼女が例え狸寝入りだとしても、この暗さで薄目を開けてしまえば、私の視力はそれを一目で看破してしまう。
この無駄なスペックの高さと言ったら、もうちょい違う所で発揮していただきたい所だ。まぁ、どう足掻いても『私』な訳だけれども。
……ま、狸寝入りにしては、あまりにも堂に入りすぎているか。鬼のやることじゃあない。
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体内時計が、遂に夕食をせがみ始める時間帯となった。
だからと言って、別に我慢すれば空腹はどうでもよいので気にしない。
正確に言えば、気にしなければ良いのだから気にしない、というのが正しい認識の仕方だと思う。
空腹は空腹だと気にしてしまうから空腹なのであって、お腹が空いたと思わなければそれは空腹ではない。例え事実、空腹だとしても。
あるのだから空く、というのが道理であるのならば、なければ空かない、というのも道理であろう。であろ?
そうやって私は自分を騙しながら生きてきた。肉を貪るようになっても。
そして、人間であった時も……何も変わっちゃいない部分もある。
生前からこの癖は未だに直らない。いや、直す気もない。
……まぁ、楽しければ空腹も忘れてしまうのは、人間であっても同じでしょう? という言い訳はさせていただきたい、
こんな自分の騙し方ぐらいは、鬼も許してはくれないだろうかと問い掛けてみても、未だ彼女は夢の中。
……妖怪の山時代の彼女は、暴飲暴食を体現するかのように酒と食事をかっ喰らっていたけど、点滴を受けている彼女は長時間寝ていても空腹を感じないのだろうか。
永琳なら……あっさりとそういう薬剤を作って使ってそうな気もする。
私なら兎も角、注射器の針すら通さそうな皮膚と筋肉を持つ鬼に、どうそんな薬を注入するのか、という問題もありそうな気もするけど……。
……そう考えると、あの点滴よく挿せたな……髪の毛すら彩目の刃物で何とか切れるってぐらいだったのに。
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日が沈んで何時間経っただろう。
まぁ、そんな事は外を見なくても考えなくても、何となく感覚で分かってしまうもので、おおよそ、夜の十時頃という所か。
ふと衝撃を探ってみれば私が昼に探った頃よりも明らかに、永遠亭全体から感じられる
衣擦れと呼吸音だけが聴こえる所は多分誰かが寝ている所なのだろう。三箇所ぐらいから聴こえるから、多分住民全員寝ているのではないだろうか。
……こんな不安定な奴を──っていうか、喧嘩した両者を同じ病院で療養させるのか、っていう話にもなるんだけど──野放しにして良いのかね。
そもそも、こんな簡単に不法侵入を許して良いのかとも思う。
目の前の鬼とも因縁はあるけど、それよりも酷かった縁のある奴が、フツーに部屋の前で陣取っているのは、問題あるんじゃないの?
それも、確か彼女ここに住んでる訳じゃないし、輝夜とも殺し合っているとか言う話じゃなかったかなぁ……。
はぁ……。
「………………そこ、冷えない?」
「────別に」
「……そう……」
妖術で炎を使うと聴いた事があるから、もしかすると大丈夫なのかもしれないけど……昔の人間の時の彼女しか知らないからねぇ……。
雪が積もるような気温で、まぁ、多分彼女が腰を下ろしている位置は冷暖房の結界の内側だろうけれど……それでも、廊下の地べたに座るのは、色々とアレなんじゃないかな。
これじゃあ『前門の虎、後門の狼』ならぬ、『前門の鬼、後門の无』だ。
いやぁ、嫌になっちゃうねぇ……。
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日付を超える感覚があった。
未だに目の前の鬼は起きず、部屋の外の彼女は動く気配がない。
共に喋りだすこともなく、数時間が経った。
……監視のつもりか何かは知らないけれど、出来れば鬼の彼女とは二人で話したいところなんだけど……それはまぁ、外に居る彼女もそうなんだけれどね?
……そういえば確かに、妹紅と逢ってから勇儀とも出逢って、古くからの知り合いといえば、同時期に知り合ったとも言える二人になるのかな。
喧嘩別れになったのも共通点、か……喧嘩するまでに期間が長い奴と、喧嘩した後の期間が長い奴、それぞれ居る訳なんだけど。
さて、陽も落ちて日付も変わって、眠る彼女は起きる気配もなし。
暗いままじゃあ、鬼も起きることはないんじゃないかと思う。まぁ……陽の光もなさそうな地底に住んでたんじゃあ、その感覚も既に麻痺してるのかもしれないけれど。
今日の所は出直す、か、それとも、外の彼女と話すとする、か。
うぅ〜ん、どちらにしろ、難易度は高いねぇ……。
まぁ……今回は予定通りと致しましょう。
椅子を飛び降りて、椅子の位置をずらし、そしてまた飛び乗る。
勿論
椅子を机に近付けたことで、ようやく肘を机に付くことができた。
別に待つ間、少しは楽な姿勢をとっても良かろう。
待つのは慣れてる。
追い掛けるのは慣れてないけど………………待つのは、慣れてる。