早朝の寮室は、一部の例外を除いて静かなものである。この時間帯に起きている者は大抵、アリーナや各自の修練所など別の場所に移動しているので、騒音とは無縁と言っても過言では無い。
その一部の例外である織斑一夏の寮室も、今はまだ珍しく静かであり、なんの警戒心も無く眠りこけている部屋の主の控えめな寝息位しか聴こえてこない。
「呼ばれなくても飛び出てジャジャジャ~ンっと…」
その静寂を維持したまま音も無く扉が開かれ、のそりと熊の着ぐるみが入室してきた。入ってきた熊は周囲を軽く見回した後、静かに扉を閉め、忍び足で部屋の主…織斑一夏に近づき、その顔を覗き込んだ。
スヤスヤと眠る高校男子を暫くジーッと見つめ続けた熊だったが、おもむろに右手を頬に当てた。だがどういう訳かすぐに手を離しまた頬に手を当て、また離し、また着け、暫く何度かそれを繰り返しす熊の着ぐるみ。最終的に軽く手を当てるのはやめ、思いっきり力を籠めてグリグリと押し込み始めた。そして、着ぐるみの頭部の横っ面が派手に凹んだあたりで、何やらボソボソと喋り始めた。
「……こちらバンビーノ、目的地に到着した。隠し部屋、どうぞ…」
『こちら隠し部屋のオランジュ、確認した。速やかに任務を遂行せよ』
「了解」
熊…バンビーノは耳に装着した通信機に着ぐるみ越しで触れ、その様子をモニターで隠し部屋から見ているオランジュとの交信を始めた。彼自身の耳が丁度熊の頬の部分にあるので、かなり強引に手を当てた結果、熊の頭部はなんとも不気味な形になっているが、当の本人はあまり気にしていないようだ。
『それと、その新型通信機は触らなくても起動するって、さっきも言ったろうが。折角ISの通信技術を応用して造った奴なんだから、ちゃんと使え』
『ビジュアルが結構キモいことになってんぞ…』
「おっといけねぇ、いつものインカム型の癖でつい…」
『いや、クマの頭を変形させた時点で思い出せよ…』
オランジュとセイスに言われ、頬っぺたを抓る様にして形を戻す熊バンビ。無駄に伸縮性の高い強化アーマーは、それだけで元通りになった。
『とにかく、早く用事済ませて帰ってこい。そろそろ、早朝組の生徒達が起床する』
「了解、りょー解。バンビーノ、これより行動を開始しまーす」
それを最後に通信は一端切れ、部屋に再度沈黙が訪れる。そしてバンビーノは未だ眠り続ける一夏の方に向き直り、ニヤリと凶悪な笑みを浮かべた。しかし着ぐるみのせいで顔は見えず、熊が無表情で一夏を見つめ続けていると言う、ある意味ホラーな光景になっていた…
「ぐふふ…よもや、無自覚にも美少女達の花園で毎日のようにヒャッフーしてるから妬ましくてしょうがなかった、お前のツラを直に眺める日が来るとは思わなかったぜ……」
バンビーノはセイス達の報告と、『IS少女ファンクラブ』の会合でこの男の話を聞く度に、類友達と共に怒りと嫉妬の炎を盛大に燃やしていた。同時に彼らは誓った…もしも自分達の内の誰かがIS学園に赴くようなことになった際、あの無自覚リア充に対して絶対に天誅(八つ当たり)を下してやると。
そして、同志たちとその決意を固めてから半年…セイス達の支援という大義名分の元に、とうとうその機会がバンビーノの元に訪れたのだ。
「お前のハーレムライフを羨むこと早半年、この時を待っていた!! 年貢の納め時だ、俺達の思い、遠慮せずに受け取れぇ!!」
そう言って彼はどこからともなく、何かを取り出した。そして、それを大袈裟な口調と共に振り上げ、一夏の顔面に向かって勢いよく叩き付ける…ように思われたが、ギリギリで寸止めし、一夏が目覚めないように音も立てず、それを彼の枕元にそっと置いた。
―――鬼畜及びロリコンを対象とした内容の、超ハードでコアなエロ本を…
「ふははははは、貴様を起こしに来た篠ノ之氏かデュノア嬢辺りに見られ、殴られた後に軽蔑されてしまうが良いいいいぃぃぃ!!」
もしもノーマルな知人に見られ、尚且つその性癖を隠し通したいと思っていた場合、瞬時に自殺を検討し兼ねないレベルの内容である。そんな色々な意味で危ない代物を、さも一夏が寝る直前まで読んでいたかのように置いたバンビーノはその光景を改めて見やり、腕を組みながら満足そうに頷いた。
「あー、スッキリした!! さて、帰ろ…」
着ぐるみの中で満足そうな笑みを浮かべ、バンビーノは踵を返して扉へと向かった。来たとき同様、彼は音を一切立てずにドアノブへと手をやり…
『緊急事態発生、緊急事態発生!!』
『やべぇ!! バンビーノ、すぐに隠れろ!!』
「……は…?」
いきなり聴こえてきたのは、なにやら切羽詰まった様子のセイスとオランジュの声。突然のことにバンビーノは、ドアノブを掴んだ状態のまま動きを止めてしまった。
「何だよ、急にどうした?」
『『いいから早くしろ、死にたいのか!?』』
「わ、分かったよ。何なんだよ、いったい…」
二人の通信機越しでも分かる位に切羽詰まった様子に思わず怯み、バンビーノは困惑しながらも即座に一夏のベッドの下へと潜り込んでその身を隠す。そして彼が息を殺すのとほぼ同時に、一夏の部屋の鍵がこじ開けられる音が響く。そして自分の時と同じようにして扉が開かれ、ソイツは音も無くそっと忍び込んできた。
(げッ、あれは…!?)
新たに部屋に忍び込んできた侵入者は、くしくも自分と似たような姿をしていた。ただ現在の彼が着ているガチの着ぐるみと違い、向こうはあくまで着ぐるみをイメージしたパジャマのようだ。黒猫をベースとしたそれを身に纏った銀髪赤目の眼帯少女は、素人には殆ど察知できない程に気配を殺し、一夏の眠るベッドの方へゆっくり近づいて来た。
結果的に侵入者の姿を正面から捉える事になったバンビーノは、背筋が凍るような思いをした。自分の隠れている方向へと近づいて来てるというのもあるが、それ以上に侵入者の正体の方に問題があった。
(ラウラ・ボーデヴィッヒ…!!)
バンビーノに続いて部屋に忍び込んできたのは、ワンサマラヴァーズの中で最も戦闘能力が高いとされる、現役軍人のラウラであった。どうやらファンクラブの中でも有名になっている、一夏に対する朝這いを敢行しに来たらしい…
(うわぁ、マジでどうしよう、……って、このまま隠れてやり過ごすしか無ぇか…)
相手は本職な上に、IS所持者…生身同士の白兵戦ならともかく、手持ちの武器が熊の着ぐるみしか無いこの状況では、絶対に会いたくなかった相手である。ブラックラビッ党の仲間なら諸手を上げて喜んだかもしれないが、生憎バンビーノはセカン党なので命の危機しか感じない。なので現状、彼はひたすら気配を消すことに専念するしか無かった。
『まったく、何がリハビリだよ。そんなこったろうとは思ったけどさぁ…』
通信機から、こっちに呆れた様子を感じさせるセイスの声が聴こえてくる。それを耳にして、バンビーノは彼が設置した監視カメラの方へと向き直り、キリリとした表情で(熊で見えないが…)口を開いた。
「そうは言ってもなセイス、男には譲れない時があるんだよ…!!」
『オランジュ、熊の皮を被った馬鹿がモニターに映りこんだ挙句、薄っぺらい世迷い事を並べてんぞ』
「……最近、俺に対して容赦無さ過ぎじゃね…?」
---ゴソゴソ…
「おい、なんか頭上の方からゴソゴソって音がするんだけど…?」
『ラウラがベッドインしてる』
「あ、そう…」
『ん? 思ったより反応が薄いな、別にどうでも良いのか?』
「確かにラウラも可愛いが、俺ってセカン党だし。それに幾ら俺でも、この状況じゃ流石に自重するっての……ていうか、逆にオランジュはさっきから静かだな。お前って、シャルロッ党兼ブラックラビッ党じゃなかったか…?」
基本的に見境が無いオランジュだが、当初はシャルロットを特に推しまくっていた。しかし、潜入任務を開始してからはラウラも推し始め、今ではすっかり両政党の色に染まり切っている。暗黙の了解で所属の掛け持ちは禁止されているが、この二党だけは互いの党を掛け持ちすることを例外と定めており、彼に裏切り者の称号は付くことはなかった。まぁ、シャルロットとラウラがルームメイトな上に仲が良く、二人が共に行動すると十中八九可愛い光景が見れるので、あの二人をセットで考えてる奴が少なくないと言う面もあるのだろうけど…
『オランジュなら、さっきからファンクラブ用の商品(えいぞう)を加工中(へんしゅうちゅう)だ。最近金欠らしいから、目を血走らせて尋常じゃない集中力を発揮してるやがる…』
「商品って、今も絶賛記録中の俺の状況か!? 人様の窮地を飯のタネにするとは良い度胸だなあの野郎ッ!!」
『自業自得な面もあると思うがな……って、なんじゃこりゃ!?』
そんな感じで半ばアホなやり取りをしていた二人だったが、唐突にセイスが叫び声を上げたことにより中断する羽目になった。怪訝な表情を浮かべるバンビーノだったが、心なしか頭上の方が五月蠅くなってきたような…
「セイス、今度はどうした…?」
『ふ、布団が尋常じゃない位に膨らんで……って、なんてこった…!?』
「どう言うこっちゃ…ん? なんか誰かの笑い声が聴こえるような…」
---パァン!!
「うおッ、何だ…!?」
『バンビーノ、今から俺もすぐに向かう!! それまで絶対に死ぬんじゃねぇぞ!?』
「は? お前、何を言って…」
事態についていけず困惑するバンビーノだったが、セイスはそれを最後に通信を切った。
ラウラでも一夏でも無い笑い声、謎の破裂音、そして異様に焦燥感を感じさせたセイスの言葉。訳の分からないことばかりで混乱しそうになったが、彼は取り敢えず耳を澄ましてみることにした。すると…
―――あちゃあ、一夏君ったら気絶しちゃってるわ…
―――他人事のように言うな、貴様のせいだろ!!
―――しょうがないわね…ラウラちゃん、念のために一夏君を医務室に連れて行ってちょうだい
―――なんで私が…
―――だったら私の代わりに、この部屋の惨状をどうにかしてくれる?
―――む…
―――それに、ちょっと御詫びも兼ねてるのよ?
―――なに…?
―――今の時間帯なら、誰にも会わないんじゃない?……ラウラちゃんだけで、一夏君を運んでも…
―――よぉし、私に任せておけ!! 行くぞ一夏!!
バンビーノが耳にした笑い声と同じ声に半ば言いくるめられるようにして、ラウラは一夏を抱えるようにしながら速やかに部屋を出て行った。後に残ったのは、謎の破裂音…ベッドの仕込まれた悪戯バルーンのせいで散らかった室内と、そのベッドの下に隠れているバンビーノ、そして……
「さぁて時間も無いし、急いで片付けないとね~♪」
その声を聴いて、バンビーノはラウラの時とは比べ物にならない程に戦慄した。背筋はまるで凍ったかのように冷たくなり、冷や汗が滝のように流れて止まらない。今の騒ぎが起きるまで、自分が全く気配を感じる事が出来なかったこともそうだが、その人物が何者なのか気付いてしまったのだ。
フォレスト一派の中でも指折りの実力を持つセイスが天敵と称し、更にはスコールの腹心であるオータムをIS戦で制した女。この学園で、織斑千冬の次に遭遇してはならない存在……
―――ズガンッ!!
「へ…?」
そんな時、急にバンビーノ視界を、白い何かが遮った。それは鋭い円錐状の形をしており、逆さ向きで彼の鼻先数センチに頭上のベッドから生えるようにして現れていた……ていうか、どう見てもコレは…
―――ISの…ミステリアス・レイディのランスの矛先である……
「ふ、ふふ…」
「ッ!?」
「ふふふ……あはははははははははははははははははははは…!!」
本格的に命の危機を感じ始めたバンビーノに追い打ちをかけるようにして、頭上から聴こえてきた不気味な笑い声が彼に更なる恐怖を与えた。あまりの事に石の様に固まるしかないバンビーノだったが、現実は無情である。笑い声が途切れると同時に、目の前に突き立てられたランスがズボッと引き抜かれ、塞がれていた視界が開けた。そして、それに合わせるようにしてベッドの上から覗き込むように、水色の髪をした赤目の女の顔が笑顔を浮かべながらヒョッコリと現れる。
バンビーノの前に現れた彼女は、可愛らしさと美しさを良い感じに両立させた、普通に美人さんと言っても差支えの無い容姿を誇っていた。普段の彼なら間違いなくナンパをしただろうが、生憎と彼は彼女の所属先と実力、更にセイスの体験談を知ってるので絶対にそれはしない。それはさておき、この目の前の彼女の殺気が心なしか初対面とは思えない程に強い気がするのだが、気のせいだろうか…?
「ふふふふふふ…まさか、こんなに早くまた会えると思わなかったわ……」
「え…?」
派遣されてから今日まで特に事件は無く、セイス達共々ずっと隠し部屋に籠っていた。それに加え、彼女と実際に会うのはこれが初めて筈である。
しかし狼狽える彼を余所に、彼女は…更識楯無は体勢をそのままに扇子を取り出して、彼に良く見えるように広げてみせた。いつもはそこに何かしらの四文字熟語が書かれているのだが、今日はただ一言…
―――『ブッコロス』
「よくも…よくも先日はあんなものを……」
「え…?」
「あんなものを見せるから、朝起きたら、布団が……ぐすッ…!!」
「えぇ…?」
ここで漸くバンビーノは今の自分の姿を思い出し、彼女が何を考えているのかに気付いた……そして、それが正しいことは、彼にとって最悪の形で証明された…
「17歳の乙女に、あんな恥ずかしい思いさせるなんて、あなた本当に何考えてるのよ!? 今すぐこの場でその腐りきった根性叩き直してあげるから覚悟なさい、″セイス君″!!」
「ええええええぇぇぇぇぇ!? ちょ待っ、俺は違ッ…!?」
―――悲鳴を上げるバンビーノに一切耳を貸さず、楯無はランスのニ撃目を躊躇なく放った…
・お察しの通り、楯無は熊姿のバンビーノをセイスと勘違いしてます…
・なので、エンドレスナイトメアの怨みの矛先が全部彼に…
・オランジュ、出撃する間際のセイスに殴られ、漸く作業を中断。仕事開始