瀬流彦゜   作:ガビアル

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五話

 街灯に照らされた木の葉がどこか気怠げに舞い落ちている。そよかぜに揺られ、右に左にふらふらとしながらゆっくりと。

 秋も深まり、紅く、あるいは黄にも染まった枯れ葉が目立つようになった。北からの冷たい風が吹き抜け、地面に落ちかけた葉を巻き上げ運んで行く。服を突き抜けるような寒風に瀬流彦は一つ体を震わせた。

 

「とと……さすがに涼しくなってきましたね」

 

 独りごち、日も暮れ、とっぷりと暗くなった商店街を歩く。

 返答はない。使い魔の妖精は気紛れだ。今頃はどこか興味と好奇心のままに遊んでいるのだろう。

 商店街とはいえ、時間が時間、それに急にきた寒気もあり、人影は少ない。

 瀬流彦は慣れた足取りで小さな文房具屋の裏路地に入り、さらに数度ほど建物の間にできた小さな交差路を決まった順序で曲がる。突き当たりの壁に指を押しつけ何事か呟くと、ただの汚い壁だったそこが木製の扉に変わる。

 扉を開けると、きい、とわずかに軋む音がした。

 軽快なジャズが漏れる。

 

「ほう、いらっしゃい」

 

 初老の、上品な口髭を蓄えたマスターが声をかけてくれた。

 既にカウンター席に陣取っていた高畑・T・タカミチがグラスを持ち上げ、挨拶の代わりとする。

 一般人は迷ってしまい、たどり着く事の出来ないバー「a-down a-down」ネーミングはマスターの趣味らしい。悲劇の姫君の絵もまた店内に飾られている。魔法関係者のよく集まる場所で、マスターは引退した元麻帆良所属の魔法使いでもあった。内部には結界も張られ、多少派手な事があってもびくともしない。勿論声が漏れる心配などはなく、魔法関係の事を話すにもまったく遠慮がいらなかった。

 アールデコ調の装飾で統一された店内は古めかしく、どこか新しい。マスターの趣味によるものか、その日はグレン・ミラーの真珠の首飾が店内に流れている、瀬流彦には知るよしもなかったが。

 高畑の隣に座り、とりあえず「同じモノを」と芸のないオーダーをした。

 

「ボウモアのストレート、よろしいかな?」

「……水割りでお願いします」

 

 瀬流彦はへたれた。高畑がグラスを揺らし言う。

 

「ストレートが美味しいよ、きつかったらチェイサーで割ればいい」

「あなたと一緒にしないで下さい。最初から割ってしまう事になるので野暮です、誰もが鉄壁の肝臓持ちと思わないでくださいよ」

 

 ぼやき、次いでチーズの盛り合わせでもお願いしますとマスターに頼む。

 出された水割りを手に、お互いの無事を祝い、グラスを合わせる。涼やかな音がした。

 

 瀬流彦も既に大学の最後の年を迎えている。法的にも堂々と飲酒ができる年頃になっており、高畑よりこのバーを紹介してもらってもいた。

 ここの所お互い忙しく、なかなか会う機会もなかったのだが……仕事が一段落したらしい高畑に誘われ、久しぶりに杯を交わす事となったのだ。

 瀬流彦が近況を聞くに魔法世界を転々としていたらしい。一応教師でもあるはずなのだが、時には学園長お手製の身代わり符を頼る事もあり……教師としては問題有りであるかもしれない。それだけ必要とされている人材とも言えるのだが。

 かつての大戦時、紅き翼(アラルブラ)とも敵対していた組織、完全なる世界(コズモエンテレケイア)という組織がある。秘密結社と言ってもよいのかもしれない、魔法世界の権力中枢と密接な関わりを持ち、また旧世界の組織にすら影響力があった。紋章は翼のあるウロボロス、この頃には瀬流彦もまた麻帆良の外で活動する事が多くなり、聞きかじった事のある名だ。

 そんな組織との対決もようやく一段落ついたらしい。

 聞いてみれば麻帆良とは盟友関係であるクルト・ゲーデル元老員議員が計り、中心となって構築した大がかりな包囲網、その一翼を担ってきたのだとか。

 

「退路を用意して追い込むのは戦術の基本だけど、そんな事百も承知の相手を意のままに動かすというのは……癪だけどやはり凄いなクルトは。僕には真似の出来ない事だ」

「その退路に待ち受けて殲滅戦をこなす高畑さんも大概ですけどね」

 

 追い立てられた方からすれば、少人数の弱兵と思いきや、とんだ修羅の出迎えだったというわけだ。

 分厚い包囲網に包まれ、隘路で本来の戦力を発揮できないところに絨毯爆撃のように降り注ぐ高畑の攻撃、たやすく阿鼻叫喚の光景が想像できてしまい、瀬流彦は嘆息を隠せなかった。なぜ対軍最終兵器の様な存在が平和な日本で教師をやっているのか。

 

「はは、師匠にはまだまだ及ばないよ、ナギさんにもね」

 

 笑い、琥珀の液体を一口含む。大きな仕事を終えたせいか、近頃にしては珍しいくらいに肩の力が抜け饒舌だった。

 瀬流彦もまた麻帆良での時事などを話す。

 例えば葉加瀬聡美という学生が最近噂となっている。元より天才児として有名ではあったが、とうとう人型ロボットの開発にまで乗り出したらしいのだ。

 

「おお、人型というと……ええと機動兵器とか?」

 

 高畑もどうやら麻帆良に毒されていたらしい、学生時代に染められたのだろう。日本文化の浸透力に瀬流彦は苦笑する。どちらかというと等身大のアンドロイドに近いのだと言うと、高畑は自らの額をぴしゃりと叩く。

 

「少年のロマンは達成ならずか、いやそれでも凄い事だな。エヴァは変わらないかい?」

「ええ、まー相変わらずです。面白い程起伏のない生活ペースというか、多分僕らとは時間の尺度も、感じ方も違うんでしょう。もしかしたらナギさんの事で落ち込んでいたというのがとてつもない程の異常事態だったのかもしれません」

 

 高畑は無言で肩をすくめた。女心は計り難いとでも言うように。

 あ、と瀬流彦は声を出す。関連して思い出した事があった。

 

「そういえば、超鈴音(チャオ・リンシェン)という名前に聞き覚えはないですか?」

「チャオ? いや、中国系の人かい?」

「さあ、ただエヴァンジェリンさんが唐突にその名を知っているかと聞いてきた事があったんですよ、漢字では超えるの超に鈴の音と書くようですね、知らないならいいって言ってましたけど……なんだったんでしょう、一応調べてみましたけど麻帆良の学生ではないようでしたし」

 

 高畑はグラスをまた傾けた。空になっている事に気付いたらしい、マスターに声をかけ、次はロックでと指二本を掲げて見せる。丸く削られた氷がグラスに入り、その上を滑らかに琥珀の液体が滑る。そんな様子を眺めながら「そこまでこだわる程の事かい?」と不思議そうに言った。

 

「いや、まあ、その時のエヴァンジェリンさんの顔がですね、こう……とても面白いものを見つけたというような笑みだったので」

 

 瀬流彦は思い出す、あのいかにも悪巧みをしているかのような、よい暇つぶしを見つけた時のような笑みを。

 高畑もまた何か思い巡らせたのか、舐めるようにウイスキーを飲み、苦笑しながら言った。

 

「なるほどそれは大変危険だね」

「ええ、危険です」

 

 何が危険なのかを曖昧にしたまま、二人の意見は一致した。もちろんそれも冗談ではあったが。

 

   ◇

 

 月日は巡る。

 大学を卒業した瀬流彦は、新任教師として麻帆良女子中等部の社会を教える事になっている。

 瀬流彦だけではなく、この女子中等部には教職にありつつ魔法使いである人の割合が多い。おそらく地理的なものもあるのだろう。空からの鳥瞰写真を見るとよくわかる。学園都市全体の最奥に位置し、魔法的な要所である図書館島と世界樹にも近い。川を堀に見立てるなら、それはもはや城の造りにも似ていて、表の顔である学園都市とは違う一側面、その司令部としての役割を果たしているようだった。

 社会の教科担任とはいえ何しろ麻帆良の学生数は多い、教師もまた多く、瀬流彦は二年のAからCの3クラスの受け持ちとなった。そして研修も兼ねているのかもしれないが、三年F組の副担任としても担当する事となっている。

 

『んーフフー、どうよどうよピコリン、初めての先生サマの気分はわわー』

 

 一足早く春の陽気に当てられて頭の中も容姿もお花畑状態になっている使い魔がふわふわと漂いながら言う。瀬流彦はまるで綿毛のようだ、と思い、軽い苦笑を浮かべる。

(相半ば……ですか)

 思い描いた通りに進み、自らが教え導く立場になった事を喜ぶ気持ち、同時に自分のような存在がそんな立場に居てよいものかと、自らにそんな資格があるものかと思ってしまう気持ち。

 頬を掻く。自分が人を、それも子供を導けるような人間なのだろうかと自身に問いかける。同時にその懐疑は多かれ少なかれ教師なら誰でも持ってしまうものなのだろうともまた思っていた。そう判断できるだけ自分は少々冷めているのだろうかと思わないでもない。

 

 小さな真祖の吸血鬼、エヴァンジェリンの監視の任は瀬流彦が教職に就く時期に合わせ解除されていた。

 魔法使い達にとっての本国──メガロメセンブリアの方で現在麻帆良と同盟関係にあるクルト・ゲーデルが中心となりまとめた一派が力を増している。政情も落ち着きを見せはじめ、闇の福音という存在の政治的な価値もまた下がり、一頃に比べて身辺は落ち着きを見せていた。その意味から言っても監視という名目そのものもまた不必要にはなっていたのだ。

 もちろん瀬流彦とエヴァンジェリンの交流が途絶えたわけでもなく、暇が出来た時など、ふらりとご機嫌伺いに行く程度の付き合いはあるのだが。

 今現在、エヴァンジェリンの興味はもっぱら新たな従者である茶々丸に注がれているようだった。

 噂になっていた人型ロボット、否、ガイノイド。麻帆良大学工学部の生んだ科学の粋、それがなぜかマクダウェル家に居るようになっていた。

 瀬流彦もまた、初めて見た時はそれはもう驚いた。玄関前で深々と頭を下げられ「いらっしゃいませ」と挨拶されたのだ。人形だとばかり思っていたそれが滑らかに動き、喋った時の驚きをどう表現してよいものか。数秒、面白い顔のまま固まってしまっていた。普段あまり表情を変えない瀬流彦の、滅多に見れない間抜け面を見て、エヴァンジェリンは終始ご満悦だったものだ。

 

「今は色々学んでいる最中だ、あいつ自身が言うに状況判断というものは私が思っているより複雑らしくてな。ああおい、タカミチにはこの事は言うなよ、あいつも後で驚かせる」

「……はあ」

 

 瀬流彦は生返事を返しながら紹介された茶々丸を見る。

 身長は今の自分と同じくらいだろうか、耳にあたる部分からはセンサーのようなものが突き出ている。髪はエメラルドグリーンとも呼ぶべき淡い色、感情の表れない目もまた同じ色合いをしていた。家主の趣味なのか、妙に凝ったデザインの給仕服を着込み、やや堅い動きながらも正確な動作で緑茶をいれ、運んで来てくれる。

 

「どうぞ、粗茶です」

「ああ、これはどうも」

 

 本当に機械なのか不思議な程の滑らかさで茶碗を置く。コトリとも音を立てない。

 ただその動作とは別の部分でエヴァンジェリンは不満があったらしく、粗茶ですが、の使い方について細かく指導をしていたが。

 一口飲むと、味もまた申し分無かった。もっとも瀬流彦は緑茶にあまり造詣が深くない、間違いなく美味しいとしか表現できないものだったが。

 感心した様子を見たものか、エヴァンジェリンは自慢げに片方の眉を上げ、笑みを浮かべた。

 

「どうだ?」

「ええ、とても美味しいです」

 

 恐れ入りますと、立ったまま待機している茶々丸が頭を下げる。

 ただエヴァンジェリンの質問はそうではなかったようだ。やや不満げに瀬流彦を見やる。

 

「……そっちじゃない。明らかに有り得んだろう?」

 

 そう言ってお茶をすすった。うむ、よい。と口の中で呟き、静かに頷く。

 

「超鈴音ですか」

 

 瀬流彦がその名を口にすると、エヴァンジェリンは、にいと口の端を上げて見せた。

 その口からかつてふと出た名前。瀬流彦は去年軽く調べた事があったが、該当する人物は浮かび上がらなかった。勿論、魔法関係者とはいえ生徒の身なので権限があまり無かったという部分もある。

 名前が表に出始めたのは年を越してからだった。

 麻帆良大学工学部、そして天才として知られていた葉加瀬聡美により発表されたガイノイド。発表時の製作協力に小さく超鈴音の名前が載った。そしてそれをきっかけとするかのように、次から次へと名前が出てくるようになってきたのだ。

 例えば最近買い取られた旧型の路面電車、一体どうやって買い付けたものか、その所有者でもある。さすがにあちらこちらに頻発し始めた名前を怪しみ、麻帆良の魔法使い達が本腰を入れて調べ始めた頃には既に、表には出ない形ではあるが、様々な場所、企業のあちらこちら、学園内の多方面に株主として相談役として深く根を張っていた。

 無論、それだけでは問題とはされない。麻帆良の魔法関係者が問題としたのは彼女が既に魔法について知っており、魔法と科学についての研究論文を非公式とはいえ提出してきたことだった。

 本人の言によれば、魔法を知ったのは過去たまたま知った事らしい、麻帆良に来たのも偶然というわけではないそうだ。そして彼女は才能だけではなく用心深さの持ち合わせも有った、研究により自らに危害が及ばないよう、対策として麻帆良内で様々な繋がりを持ち、何かがあると麻帆良の運営そのものに影響が出かねない状況を作り上げたところで、名前を表に出すことにした……という事のようだった。

 才能の宝庫である麻帆良においてもひときわ輝く才能の持ち主であることは間違いがない。しかし瀬流彦はまたその説明に対して違和感を感じないでもない。一応の辻褄は通っている。通っているがやはりどうもすっきりしない部分をも感じる。

 思い返し、微妙な顔を浮かべている瀬流彦を面白げに見やり、エヴァンジェリンは言った。

 

「あいつは面白いぞ、何かがある。望みのたぐいかもしれん、それも渇の付く奴だ。いずれにせよ最近ではほとんど見る事のなくなった珍しい目をしていた、古臭いと言ってもいい」

「……やっぱり去年頃には既に接触してましたか」

 

 瀬流彦が小さくため息を吐いて言うと、合わせたわけでもあるまいがエヴァンジェリンは小鳥が鳴くように小さく笑う。

 

「じじぃにも伝えておけ、超鈴音が関係し作られたガイノイドは、絡繰茶々丸という名を与えられ、この私の従者になったとな」

 

 意味するところは明白、超鈴音の伸ばした手をエヴァンジェリンが掴んだという事だろう。これでますます麻帆良側は超鈴音に手を出すどころか口出しもしにくくなる。誰しもが藪を突いて蛇を出したくないものだ。

(本当に一筋縄ではいかない人揃いです)

 若干ぬるくなってしまったお茶を頂きつつ、瀬流彦はそんな事を頭の中でぼやいた。もっとも、胃を痛ませているのは学園長と少々真面目に過ぎる一部の魔法使いでもあろうが。

 

   ◇

 

 教職というものは常に言い訳の効かない仕事なのだろう。

 もちろん言い訳の聞く仕事などというものは無い、それでもなお。教師という職は人の一生を左右しかねないものなのだ。覚える事は多く、学んだ方がよい事はそれ以上に多い。

 新年度が始まり、瀬流彦が本格的に教師の職に就いてからというもの、とても気の休まらない日々が続いていた。

 正式に麻帆良所属の魔法使いとして認可されたという部分もまた忙しさに拍車をかけている。学生であった時も魔法使いとしてはかなり便利に使い回されていた瀬流彦だったが、それでもやはり権限が違う、出来る事も活動範囲も大違いであり、本人の意志はさておき、さらに使い倒される事になるのは当然の流れだったのだろう。業界の人手不足は深刻だった。

 瀬流彦は高畑・T・タカミチとは違い、直接的な武力が必要ではない場所で用いられる事が多い。

 例えばアメリカのジョンソン魔法学校との交換留学の契約更新の際にも同行し、交渉の材料とされる、などという事もある。

 たかが交換留学とも言えない。表向き以外の用件もまた含まれていた。学校という名前ではあるものの、麻帆良やジョンソン魔法学校というものは魔法使い達の拠点という側面もまた強い、それぞれ独自の技術もあれば、スポンサーとなっている関連企業同士が競争関係なんて事もままある、明日の敵とは言わないまでも、それなりに緊張感のある付き合いではあった。

 特に今回の件に関して甘く見られる事は損失となる。麻帆良の質も落ちた、と思われればジョンソン魔法学校もまた立場を考え直しかねないのだ。

 瀬流彦の役割は有り体に言ってしまえばイメージ戦略の一材料だったのだろう。学園長を「老獪である」と分かりやすく人に見せるための手駒である。

 瀬流彦は持ち前の内面を読ませない表情を取り繕いつつ、内心ではため息を吐いていた。

(多分演出家としてはあの人も関わってますねェ……)

 なんでも、噂があるらしい。魔法世界でまことしやかに流れている噂だ。

 少し前にメガロメセンブリアで政変が起こった。按察官(アエディリス)の公金横領が明るみに出た事、さらにはそれと繋がりのあった法務官(プラエトル)の失脚、関係していた議員の数も多く、ほとんどがその議席から去ることとなった。その影に麻帆良の近衛学園長、その長い手が関係しているという噂だ。さてその長い手は誰ぞ、と。

 関わっていないかといえばそうとも言えない。大分前の事だが、魔法世界に出向した時、瀬流彦はちょっとした使い走りのような事をした覚えはある。魔法世界においても隠密生の高い使い魔が妙な話を聞き込み、それをちょっとばかり親交のある議員に伝えた事もまたあった。しかし、そこまで噂になるようなものでもない。

 誰がどんな意図で噂を流しているのか判ろうというものだ。

 そんな噂をジョンソン魔法学校の校長もまた聞いた事があるらしい。ふと耳に挟んだ話として雑談のように言っていたが、目は瀬流彦を向いている。

 もしかしたらエヴァンジェリン・A・K・マクダウェル、闇の福音の監視役にいつの間にか高畑とともに加わっていたもう一人の名前も併せて思い出したかもしれない。

 表向きは新人ゆえに諸事経験を積ませたく、という建前で交渉役の明石教授に同行していた瀬流彦だったが、交渉の場であっても物怖じせず、年齢に見合わず落ち着いている、何よりも「読めない」ところが多分にある。こちらの校長を困惑させるには十分だっただろう。そして「この若いのはもしや噂の……」とでもちらりとでもよぎってしまえば近衛学園長の思う壺というものだったかもしれない。幾度も婉曲な言葉で探りを入れていた。

 しかし、正体を掴もうとしても瀬流彦の持って生まれた性格からか、茫洋として掴み所がない。そして人は判らない相手を強く思うものだ。無論その虚像は虚と知れても問題はない。そんな人材が居るという事、それを示す事そのものがまた交渉時のカードの一枚という事なのだろう。やがてこちらの校長は何か自分で答えを出したらしく、肩をすくめ大きな笑みを浮かべた。

 

「なるほど、よく理解しました。麻帆良には良い次代が育っている。もちろん私たちの組織にも良い若者が育っております、後で案内をさせましょう。しかし古い革袋に新しい葡萄酒を入れるなとも言いますが、私たちの世界ではそうでもなさそうですな、これからも良き友人でありたいものです」

 

 そう言い、明石教授に握手を求める。さて、と前置きをすると細部についても話し合おうと、秘書に書類を出すよう指示をした。

 

「面倒臭い事をさせられてるねえ」

 

 明石教授はひとしきり苦笑を漏らすとそう小さく呟き、瀬流彦は無言でため息を吐いた。

 

   ◇

 

(案外慣れてしまうもんです)

 校舎の屋上でぼんやり夕焼けに染まった雲を眺めながら瀬流彦はそんな意味もない事を思っていた。

 ちょっとした小テスト用の問題を作っていて、作り込んでいたらいつの間にか真っ暗になっていたなんて事も、また休日に生徒が起こした騒ぎで対策に翻弄され、丸々休みが潰れる事にも。

 そして麻帆良の魔法使いとしての仕事。先輩であり師でもある高畑とは逆、あまり表には出ず、どちらかというと暗躍という言葉がふさわしいのかもしれない。情報収集をする事もあれば、いわばはったり、ペテンのたぐいを用いる際の手先として動く事も多い。

 そんな、親に知られたら泣かれてしまうような二重生活にもまた慣れてしまった。

(さりげに道を誤ったかもしれません……)

 腕を組み、ふとそんな思いを抱く。教職は良いとして、魔法使いとしての自分の在り方には大いに疑問の余地がある。

 

「いや、学園長の打った手で実際揉め事は少なくなってるわけですが……」

 

 ぼやき、何となく釈然としないものをため息と共に吐き出した。

 エヴァンジェリンは策を弄しすぎるとも言ったが、瀬流彦は学園長を策士だとは思っていない。策士というより、人を用いる政治家という感がある。人間に対する洞察力がずばぬけており、どの人間をどこに行かせ、どう配置しておけば結果として上手く回るのか。そのあたりが恐らく学園長の真骨頂なのだろう。たまに荒唐無稽な事をやる事もあり、どこでどう関与してくるのか判らない部分もままあったが。

 魔法先生なんて呼ばれる身ともなり、ある程度知ったからこそ理解できる事がある。

 瀬流彦が生徒だった頃、麻帆良、いや魔法界は思ったよりずっと揺れていた。下手を打てば麻帆良そのものが接収される危険性すらあった。少なくともその案件はメガロメセンブリアの議会の場に上るところだったらしい。

 何せ一級どころではない霊地を抱え、蔵書には魔法世界が大戦の最中失われてしまった魔法も大量に眠っている、少なくともそう見なされている。封じられたとはいえ魔法世界とのゲートも眠っており、さらには闇の福音という判りやすい弱点まで持っているのだ。狙われないわけがない。

 そんな情勢の中で難しい舵取りを迫られた学園長は急場の対策に細かい様々な策も用いたものだが、基本的にそれは時間稼ぎだったのだろう。クルト・ゲーデルとの同盟関係しかり、メルディアナ、そしてジョンソンとの紐帯を強めたことの方が本命のようだった。学園長の構想には根本のところで人と人の繋がりがある。あえて確とした結果を狙って無さそうなのは、学園長の独特の色合いと言ったところだろうか。

 湿り気を含む風を受け、ただ何となくというように瀬流彦は呟きを漏らした。

 

「あちらの英雄、ナギ・スプリングフィールドに子が居たようです。それもどうやら大人の事情から早くにこちらに来るみたいですね」

 

 魔法使い達にとっては重要な情報を何でもないかのように言う。

 

「ちょっと小耳に挟んだので学園長に確認してみたところ、この時間、こんな場所でぼやいてみるのも良いだろうとか言ってました。まったく妙な指示だと思いません?」

「……まったくだ。その情報は私も別ルートで掴んだが、考えてみれば出所が怪しいな。じじぃはまた私を使うつもりか」

 

 返事は瀬流彦の位置からは見えない場所から発せられた。

 屋上に設置されているコンテナの陰、日差しでも避けながらサボっていたのかもしれない。風に吹かれた長い金色の髪が物陰からふわりと舞った。

 

「公的に闇の福音さんに頼むと色々揉めますからね。多分、使われるだけの代価は用意してるとも思いますが」

「奴の血筋というだけでも私にはメリットが大きい、襲うだけの筋はすでに通っているな。多分やることは瀬流彦、お前が当事者ともなったあれの再現だ。今度の私は当て馬ではなく踏み台なのだろう」

「英雄の息子が肩書きだけではない、という箔付けですか。まだ小さいはずなのに何とも苦労な事です」

 

 瀬流彦のため息に、一拍の間を置き、面白げに抑揚のついた声が返ってくる。

 

「くく、だから良いんだろう。私は女子供を殺さん、それは知れ渡っている事だけに後で企みが知れ渡ったとしても丸く収める自信があるのだろうさ、だが……」

 

 ゆったりとした動きでエヴァンジェリンは瀬流彦の視界に姿を見せた。

 妖しい微笑を浮かべたまま瀬流彦の立っている方の出入り口に歩き、すれ違いざまぼそりと囁く。

 小柄な後ろ姿を見送りながら、瀬流彦は頬を掻いた。

 

「舞台には演出が必要……ですか」

 

 厄介な事をしそうですねェ、と独りごちる。

 瀬流彦にはエヴァンジェリンに伝えていないナギ・スプリングフィールドの息子、ネギの情報がもう一つある。

 ネギが幼少時、故郷が襲撃を受け、ほとんどの村人が犠牲になってしまった事。

 時期はかつて瀬流彦がまだ高校生であった頃、高畑と共に魔法世界に行った少し後の事だったらしい。当時瀬流彦に知らされる事はなかったのだが、その時期に前後し、高畑の様子が一段と厳しいものとなったのはそれが原因だったのかもしれない。

 もちろん、その事件はすでに揉み消されていたが、一つの村が襲撃され、無くなるという事件は完全に揉み消せるというものではないのだろう。瀬流彦も各地に出向くようになり、とりわけ情報収集などにもあたったりしていると、自然とそんな情報は耳に入ってきていた。

 その事を伝えればエヴァンジェリンもそう思い切った真似はしないだろう。基本的に情の人だと瀬流彦は考えている。

 

「……とはいえ考えてても仕方無いですか」

 

 瀬流彦は直接ネギ・スプリングフィールドと会ったわけでもないのだ。今はまだ情報でしか知らない。

 生い立ちを考えれば魔物、あるいは吸血鬼にさえ憎悪をあらわにするかもしれないし、それとは分けて考えるかもしれない。あるいは少年の潔癖さでもって博愛という綺麗なものを貫くかもしれないのだ。

 さらに考えるなら、学園長はお互い前情報の無いニュートラルな状態で2人を引き合わせたい、そんな目論見もあるかもしれない。

 いずれにせよ何かを決めるのは早計であり、ふと頭の中によぎった案でしかなかったのだろう。

 細く息を漏らし空を仰ぐ。風景を赤く染めていた夕日も沈み、薄闇のどこかしっとりとした風が吹いている。部活動で残っていた生徒もそろそろ帰る頃だろう。

 瀬流彦は肩をすくめ、来年度あたりは顧問を持たされるかもしれない、などと考えつつ屋上を後にした。

 

   ◇

 

 監視役の任は解かれているものの、それなりにエヴァンジェリンと瀬流彦は親交がある。足しげく通っているわけでもないが、当然、従者と言える茶々丸との親交もまたあった。

 彼女、そう彼女と呼びたくもなる。姿形が人間にひどく似ているといったところもあり、逆にただのロボットとして扱うには抵抗すらあった。そんな茶々丸は日々進化している。

 瀬流彦が行く度に違った面を見る事ができる。それはさながら赤子が大きくなる過程を見ているような気分であったかもしれない。

 学園長に直接かけあったらしい。超鈴音や葉加瀬聡美の2人と共に中学に入学し、人間関係の中で経験を重ねるとそれはもう機械と呼ぶにはふさわしからぬ挙動すら見せるようになっている。ある日、瀬流彦は通りがかりに、ケーキ屋でショーケースの中をじっと見詰めている茶々丸を見かけた事があった。

 

「マスターはガトーショコラが良いと言われていましたが、それに美味しそうだと思うものがあればそれも含めて買ってこいとも言われました。私はこのストロベリーショートケーキの出来が良いと思うのですが……聞いたところ、今日の『444』一番の売りはフルーツタルトだと言うのです」

 

 どうしたらいいのでしょうか、と言う。

 主の命令を遵守するなら最初の命令通りに茶々丸が美味しそうだと判断したショートケーキを買えば良い。だが、ガイノイドたる茶々丸に味覚は理解し難い。専門家であるケーキ屋の店員の意見を求めたところ、自分の判断と食い違いが起こり、そこでいわば「迷った」ようなのだ。おろおろしている。

(専門家じゃないのでよく判りませんが、随分ロボットという印象からかけ離れてきてますね)

 瀬流彦は感心する。クラスの中での受けもなかなかのものらしい。クラスに入る事について少々心配していたものの、麻帆良という土地柄か、はたまた日頃から色々破天荒な事に慣らされているせいか、すんなり馴染めてもいるようだ。ガイノイド、茶々丸の発表そのものは限られた中でしか行われていなかったのでクラスメイトには全く予備知識がないはずだったが、それでも普通に受け入れ順応しているあたり、柔軟だなと苦笑せざるを得ない。

 そんな柔軟性から程遠いはずの教師が麻帆良には居た。鬼の新田とも言われる、自分にも他人にも、学生にも教師にも厳しい人だ。魔法関係とは程遠いものの、教師の見本とも言える人である。

 意外な事に茶々丸という、いくら麻帆良とはいえ異常とも言える生徒に、もっとも理解を示したのがこの新田先生だった。何でも元教え子が組み上げたAIが茶々丸の基礎部分にあるそうで、意外な人間関係の繋がりがあったものらしい。

 

 夏の終わり頃、瀬流彦は茶々丸を伴い麻帆良大工学部を訪れていた。バランサーを制御しているプログラム、その調整部分に不備があったのだとか。茶々丸が自己申告した事だったのだが、当然ながら主のエヴァンジェリンも、たまたま居合わせていた瀬流彦にも判る事ではない。こうした事はままある事らしく、その度に麻帆良大工学部の一室にある研究室にエヴァンジェリンが運んでいたらしい。やはりそれなりに重量がある茶々丸なので、丁度男の手がある、とばかりに運ばされたのだった。

 

「ごちゃごちゃしているけど、ゆっくりしていくといいヨ」

 

 瀬流彦は教科担当なのでもちろん教えた事はある。目立たないわけがないのになぜか埋没している生徒、そんな印象があった。

 超鈴音と間近で接するのはこれが初めての事かもしれない、相手が相手だ。瀬流彦が魔法使い側であることもまた知られていると考えるのが妥当なのだろう。

 麻帆良大工学部に借りている研究室はそれはもう片付かない様子だった。雑然とした部屋の向こうではもう一人の天才児、葉加瀬がエヴァンジェリンの見守る中、茶々丸にコードを取り付け何やらキーボードを凄まじい勢いで叩いている。

(一応探りでも入れておくのが仕事熱心な魔法使いというものですかね)

 などと思いつつも、瀬流彦はあまりその少女を疑う気にもなれない、葉加瀬聡美と難しい話に夢中になり、挟まれたエヴァンジェリンが目を白黒させている光景はどこか微笑ましい。麻帆良の魔法使い達の態度が固いのは、自らの管理網を見事にすり抜けられた感もあり、超鈴音に対しては「負けた」気になってしまっているのだろう、と思っていた事もあり、どこか同情的なものもあったのかもしれない。

 瀬流彦は肩の力を抜き、誰にも気付かれぬよう苦笑を浮かべる。教師であるべきか魔法使いであるべきか、魔法世界のしきたりの中などでは育っていない自分なのだ、最初から決まっていた。

 雑多なものが積まれている研究室を見学でもする気分でのんびりと見る。

 作業台の上には何か固定してあるプレートのようなもの、この時代にあっても手書きがやはり落ち着くのか、よく解らない数式を書き殴ったメモも大量に散乱している。振り返って壁際の棚にはさらに雑然とモノが積まれていた。ケーブル類はケーブル類、あるいは金属部分のものは材質などにより整理されているようだが、多分この整理の仕方は部屋の住民にしか判らないに違いない。

 棚の中段、何かのサンプルをとったものか、ガラス瓶に入れられた土や砂、石などが並んでいる場所に目を移す。

 

「ええいッ! いい加減私にも理解できる言葉で喋らんか! どこの未来人で宇宙人だというんだ貴様らはッ」

 

 とうとう最近の科学にはとんと疎い闇の魔王様が爆発してしまったようだった。超鈴音が「だから火星人ヨ」などとふざけてもいる。瀬流彦はやれやれと頬を掻き、年甲斐もなく癇癪を破裂させてしまったエヴァンジェリンをなだめようと向き直る。

 もう少し瀬流彦が興味深く眺めていれば、あるいは気付いたかもしれない。

 偏った目、あまりに無造作に付けたとしか思えない口と鼻、あまりに奇妙な形のその石は、雑多なサンプルの中に混ざり、静かに、ただ静かに眠っていた。

 

   ◇

 

 どこか湿り気を含んだ夜の闇に舞う白い肢体がある。

 昼間あれほど騒がしかった学校もひっそりと静まりかえり、こればかりはいつの世、いつの時代でもなかなか変わらないものだ、とエヴァンジェリンは密かな感慨を抱く。人の世はどれほど進歩し、果てない宇宙にあってさえも人は闇を闇のまま克服できない。必ず光を当て侵略し征服する事しかできない。そんなとりとめのない思いが浮かび、くすりと笑う。

 

「光に生きろという言葉が私にとってどういう意味合いを持つものか、などと……あいつは考えていなかったのだろうな」

 

 エヴァンジェリンは屋上のフェンスに身をもたせかけ、過去を思い出すように目を瞑ると、はにかむような笑みを浮かべた。

 

 唐突に空間が揺らぐ。音もなく、何かしらの前兆もなく。

 一瞬の後、変わった服を着た小柄な影、超鈴音がそこに居た。

 

「少し遅れたカ?」

「いや、時間通りだ」

 

 短いやりとりを交わし、エヴァンジェリンは身をもたげる。超鈴音は月明かりに照らされたその姿を見て、たはは、と困ったかのように額に手を当てた。

 

「その姿はとてもとても青少年には見せられないネ、露出が高いにも程があるヨ」

「なに、久しぶりに良い夜だったからな、開放的な気分になっただけだ」

 

 うそぶくと、どんな魔法か、エヴァンジェリンが纏っていた黒いローブが変化し、体に巻き付き、ドレスのような形に変化する。

 

「それで、どうだった?」

「ンー、解る事解らない事、半々と言ったところヨ、ひとまずラボで説明するネ」

 

 そう言い、屋上の掃除用具などが入った倉庫の壁に手を当てると、絵の具が溶け出すかのように壁が滲み始め、数秒後にはぽっかりと空いた穴があった。

 

「……しかしわざわざこんな場所に作らんでも良いだろうに」

「木を隠すなら森ネ、それに、麻帆良大工学部は十分な監視システムを備えてる……と思ている、人がシステムに頼り切りの場所は逆に脆いヨ」

 

 そう言い、躊躇いもなくその先の見えない穴に入り込んだ。エヴァンジェリンも続いて入ると、またゆっくりと滲むように元の壁に戻る。

 むろん倉庫の中、というわけではない。いかなる技術によるものだろうか、二人は二十メートル四方程の白い壁の空間に居た。超鈴音がラボと言ったように、何に使うものか判らない機械が所狭しと並び、中央の作業台には何かを作りかけたものか、コードのはみ出た部品が無造作に置かれていた。

 超鈴音は作業台の上に乗っていたものを片付けると、懐から出した厳重に封じられた箱を開き、中からガラス瓶に入ったちぐはぐな人面を持つ奇妙な石を出した。エヴァンジェリンが小さく呻き、眉をひそめる。

 

「やはりな、歪みを感じる。この世界に来てずっと感じてきた違和感だ、だが違う。これは根本的なものではない」

「魔法使いの感覚で言うと?」

「強いて言えば……そうだ、毛細血管と言えば良いのかもしれん、大元より送られている微細な血、それがこの世界にとり歪みとなっている」

「なるほど……」

 

 超鈴音は真剣な表情になり考え込んだ。エヴァンジェリンもまたふむ、と小さく呟くと、独白するかのような調子で言う。

 

「なまじの人間の研究素材には分を過ぎた物には違いない。それは明らかに魔、あるいは……私の一番嫌いな存在か。いずれにせよ事象の根幹に関わるものだろう」

「それは私を焚き付けてるネ」

 

 超鈴音は不自然なほど明るく微笑み、エヴァンジェリンもまた、くく、と口の端を持ち上げ笑みを見せた。

 

   ◇

 

 麻帆良女子中等部の職員会議は揉めていた。十才という子供、ネギ・スプリングフィールドを教師として迎える事を学園長が明らかにした為だ。もっとも十才と知っているのは魔法関係者だけだろう。労働基準法の絡みもあり、戸籍としては十三と誤魔化されていたりもするのだが。

 ここでも意外な事に、受け入れに対して柔軟な姿勢であったのは新田先生だった。学校の色合いというものもあり、教育に多様性を持たせるのはそう悪い事ではない、という考えらしい。ただし、教師に必要十分な能力を持ち、十分なサポート体制を用意した上で、生徒にも、また若年の教師にも心身の負担を掛けない事が前提条件、とも言っていたのだが。

 後日、不思議に思った瀬流彦が、学園長に呼ばれた際、何となく、というように会話の端にのせた事がある。

 

「しかし新田先生は意外でしたね、てっきりネギ君の受け入れには否定的になると思っていました」

 

 すると学園長は長い髭をしごき呵々と笑う。

 

「厳しいからといって頭が堅いとは限らんという事よ。昔はそうでもなかったようでの、自分でも頑迷過ぎたと笑っておったわ……じゃがまあ、考えてみい瀬流彦君、あの二年の学年主任をやり果せておるのじゃぞ?」

「はあ……なるほど言われてみれば」

 

 たまたまなのか、あるいは学園長の迂遠な手回しか、麻帆良の中でも特に「濃い」生徒が集まっているのが現中等部二年の面々なのだ。あまりに個性的な者が多いゆえに1クラスにまとめてしまってもいるのだが、あれだけ揃うのはたとえ誰かの意図があったとしても奇跡の確率だった事だろう。

 あるいは、と瀬流彦は考える。来年度はエヴァンジェリンを含むあのクラスがまとまったままでいる最後の一年。ネギ・スプリングフィールドという将来を嘱目されている子供に是非引き合わせてやりたいとも思ったのではないだろうか。

(となると、たとえネギ君が何歳だろうとこちらに来る事にはなったのでしょうねェ)

 英雄の息子も楽ではない、と瀬流彦は肩をすくめる。

 

 新年を迎え、厳しさを増していた寒さもほんの少しばかり和らいできた頃。瀬流彦は日本より遠く離れた地、四つの帝国の首都でもあった地、イスタンブールに出張していた。

 マルマラ海と黒海に挟まれたこの地は緯度で言えば青森やニューヨークと変わらないが、比較的暖かくもある。高い場所から見下ろせば、一際目立つ塔、所狭しと立てられた建物、赤煉瓦の屋根のものから石造りの角張ったものまであり。その向こうにボスポラス海峡を行き交う船もまた見える事だろう。

 海辺から吹く風にどこか気持ち良さそうに妖精のプーカが羽根を震わせている。季節感を表しているのか、白づくめ、どこか兎を連想させる白いドレスを揺らせ、こればかりは変わらない若草色の髪をなびかせながら、瀬流彦の頭の上をたゆたうように飛んでいた。

 

『ピコリーン、トールコアイス食べよぉー』

 

 妙に間延びした声で使い魔の妖精が声をかけてきた。歩いていた瀬流彦も足を止め、ふむ、と手を顎に当ててコートのポケットから手帳を取り出し、予定を確認する。

 

「一仕事を終えてからにしましょう、この時期です、屋台はありませんし店を探すのも手間ですよ」

『ううあ、けちー、アーイスあたーっく』

 

 間延びした声と裏腹に、突如として背中に妖精が飛び込んできた。氷を背中に落とされたかのような感覚に思わず硬直し、口の端をひくひくと震わせる。

 

「プ、プーカ、さん……なかなかもって、寒いのですが」

 

 風の妖精の体温、体温などというものがあればだが、それはもちろん気温と同じなのだ。いい気になって背筋を冷やしてくるこの使い魔にどうお仕置きしてやろうかと悩みながら、瀬流彦はぶるりと一つ体を震わせた。

 金角湾の北岸に位置する塔、観光名所でもあり、展望も楽しめるその塔には誰にも知られぬ地下階がある。特殊な認証用の魔法具であるカードを持っていなければ通れない場所だ。広さはもしかしたらイスタンブールの地下街と言って良い程に広大かもしれない。

 イスタンブール魔法協会。極一部の人間、魔法使いとも呼ばれる者達にはそう呼ばれていた。

 ここに瀬流彦が派遣されたのは三通りの理由がある。

 表向きの理由である一つめは社会の教科担当である事もあり、日本の教科書においてあまり力を入れられていない中東の歴史、その研修だったりもする。そしてあまり表向きではない二つめは、この地の魔法協会において盛んな占星術の研修であり、全く表向きではない三つめはネギ・スプリングフィールドという子の情報に関連した仕事だった。

 イスタンブール魔法協会は他の魔法使い達の拠点、麻帆良のような場所とは役割そのものが違う。シルクロードの終着点であり、同時に西と東を結びつける十字路とも呼ばれ、交易の拠点であった地は、また魔法使い達にとっても重要な場所でもあった。

 メガロメセンブリアとの直通ゲートポートを抱え、最近ではインターネットを模し、作られたまほネットの中枢設備も設置されている。情報の集積地であると共に、魔法界の物流の拠点。世界の大小様々な魔法使い達の組織が集い、あるいは支部を設置し、時には中世のギルド的なもの、秘密結社めいた組織が作られる事さえある。

 もちろん麻帆良もまた支所を設置し、情報収集に向いた人材が出向している。本来、誰かが横から首を突っ込む必要もなかったのだが、今回については瀬流彦の特性が必要となった為に呼ばれる事となったのだった。

 すでに麻帆良とメルディアナ魔法学校の間では話が纏まっており、本国への報告はネギ・スプリングフィールドが麻帆良へ移った後にする予定となっている。知る人ぞ知る英雄の遺児だが「いつの間にか」麻帆良に移っていたという形にしたいという事なのだろう。かつての襲撃事件の記憶も新しい責任者達から見れば、用心深いとも言えぬ当然の配慮だったかもしれない。今回の瀬流彦の仕事もまた、その情報操作の一環であり、ネギ・スプリングフィールドを気に留めている者が居た場合、正しい情報が得られないようにするという目的があった。

 

『精霊さん達にー噂を聞けばいいんだねー?」

「ええ、ネギ、あるいはスプリングフィールドの名前が出てきたら報告して下さい、面白おかしい事を吹き込んでもいいですよ」

『らじゃー』

 

 地下階の一画、麻帆良の出している支所の片隅で姿も存在感も薄くしてゆく使い魔を見送り、瀬流彦は瀬流彦で長椅子に座り目を閉じ、ただ一言「風よ(ウェンテ)」と唱えた。その言葉はただの呼びかけに過ぎない。常に傍に居てくれる隣人達。風の精霊に呼びかけ、力を借りる合図。意志を沈ませ風に流し、没我の淵に留まり、精霊達に尋ねた。とはいえ精霊というものは確たる事を教える事はできない「赤毛の少年」「ネギ」「スプリングフィールド」「英雄の息子」「最近」そんなイメージや言葉を伝えると、それが伝わるごとに波紋のようなものが広がり、ゆっくりと、ゆっくりと絞り込まれてゆく。やがて切り抜かれた一場面とまるで合っていない音が共に瀬流彦に伝えられ、内心で苦笑する。それともこれか? とでも言うように次々と場面は変わっていった。

 やがて瀬流彦が一通りの情報収集を終え、静かに頭を持ち上げると、妙に心配そうにしている鼻髭、を蓄えた支所長と目が合った。一つ頬を掻き、口を開く。

 

「あのー、何時間くらい経ちました?」

「……三時間といった所ですが、大丈夫ですか? あまりにじっと動かないので、どうしたものかと思っていましたよ」

「これはとんだご心配を。前もって言っておけば良かったですね」

 

 瀬流彦は誤魔化すように髪を掻く。この魔法……魔法と言って良いものかも判らない。一級の霊地は精霊もまた濃い、その精霊溜まりのような場所は同時に膨大な記憶を留めている事があり、特に風の精霊と仲の良い瀬流彦は限定的ながら「教えてもらう」事が出来るようになっていた。それを見たエヴァンジェリンなどは、恐らく太古で遠見、あるいは巫女の予見や予言という形で人が知らず知らずのうちに用いてきたものだろうとも言っていたものだったが。

(無防備になってしまうのが残念なところです)

 おまけに言えば時間感覚も失せてしまう。瀬流彦は凝り固まってしまった肩を揉みほぐし、何があったのか妙に上機嫌な感情を伝えてくる使い魔が戻ってくるのを待った。

 イスタンブール魔法協会内でネギ・スプリングフィールドの話題あるいは写真などをを持ち出したものは総数十四名。多いのか少ないのかはともかくとし、支所長が持ち出してきた登録者名簿と照合し、人物を特定する。

 

「それでは後の事をお任せします」

「ええ、任せておいてください、後はこちらの腕の見せ所です、これだけ人を特定されて攪乱工作の一つも出来ないようじゃスパイ失格です」

「……ダブル・オー・セブンと呼んだ方が?」

「残念ながら赴任以来ワルサーを抜いた事もないのですけどね」

 

 支所長は髭を捻り、一つ格好付けるように言うと、からからと笑った。

 

 二泊の滞在の後、ごった返す空港のロビーで搭乗予定の便を待ちながら、ぼうっとした表情で紙コップのコーヒーを啜る瀬流彦の姿があった。この場に見える人はまず居ないだろう風妖精が頭の上に胡座を組み、どこか主に似た様子でぼうっとしている。

 

『あとは弐集院先生のお仕事って?』

「……気が緩んでました」

 

 ぼんやりと考えていた事が使い魔に伝わってしまったらしい。瀬流彦は苦笑を浮かべ、コーヒーを煽って空にする。二泊三日の滞在でそこまで歴史だの占星術だのを調べる事など出来ようはずがない。本や役立ちそうな資料を片言のトルコ語で買い回り、宿に戻っては読む日々だったのだ。痛切に睡眠不足を感じていた。一応研修旅行の体を取り繕っているので報告書は上げないといけない。

(キョフテでも手土産にまた別荘でも使わせて貰いに行きますか……)

 店で食べたトルコ風ハンバーグの味を思い出しながらそんな事を思う、必要なミックス香辛料のキョフテバハルはしっかり購入済みだ。

 

「帰る頃には丁度、噂の彼とぶつかるかもしれませんね」

 

 何とも無しにそう言い、瀬流彦は思い返した。写真でならば見た事がある。純朴そうで、いかにも少年らしい真っ直ぐな瞳。あの過去があり、この目をできるならばきっとそれは環境が良かったのだろう。何となくかつて共に旅をした、とにかく生きる事に貪欲な少年を思い出す。併せて、荷物持ちをさせるつもりで荷物を盗まれてしまった事を思い出してしまい、苦笑を漏らした。

 静かだと思って確認してみれば、使い魔の妖精はすっかり眠りこけていた。瀬流彦は苦笑を深め、冬眠ですか、と小さく呟く。猫のように丸まり寝ている妖精をコートの内ポケットに入れると、空港内にアナウンスが響きわたる、待っていた便が若干の遅れを伴い出発するようだった。




久しぶりのこちらの投稿です、ちょっと詰まっていた所があって筆が止まってましたが、チラ裏で別のものを書いていたら何となく書けてしまいました。ちょっと文が軽めになったかもしれませんが、そこはご容赦。
お待たせしまして、というのも自意識過剰な気もしますが、待って頂けていた方にはありがとうございます。
前話の後書きで触れた事ですが少々撤回、全件表示すると後書きが見えなくなる事に最近気付きました、後書きは消しません。
ではいずれまた。

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