瀬流彦゜   作:ガビアル

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四話

 あれは何だったのか。

 意図は判らないでもない。瀬流彦はそう思いながらも考えあぐねていた。

 記憶を見せる前に本人が言っていたのだ、戯れと八つ当たりであると。そして後に、言い加えるなら自らのプライドだとも。

 

「じじぃはこう踏んだんだ。お前という存在を私に付ければ重しになると。私自身の持つ自尊心からして大きな動きは出来まいと」

 

 当然面白くない。なまじ当たっているからこそ面白くない。関わればこうなるのだと見せつける事で、瀬流彦が自分から監視役などというものは辞退するように仕向けようとしたのだ、と。

 そして腕を組み、偉そうにひとつ鼻で笑い、言い放った。

 

「お前も多分舐めてかかっているのだろう、が、まあいい。あれを見て恐れの色が出ないのは若さ故の蛮勇という奴か、それともお前の持つ『読めん所』か。どちらにせよ形としても警告はしたわけだし、好きにすればいいさ」

 

 しかし瀬流彦の先輩であり、直接面倒を見て貰っている高畑・T・タカミチから言わせれば、それは本音ではないらしい。

 

「エヴァはそうそう判りやすい事は言わない。特にああいった時は絶対に内心を漏らすような事はしないよ。多分だけど、あれはエヴァ一流の曲がりくねった優しさみたいなものだろうな。勿論……ちょっと強引だったにしろ、警告の意味もあったのだろうけどね。記憶を見せるにしては戦闘の場面がやけに多かったと思わなかったかい? 僕らみたいな融通の利かないタイプは絡め手に弱い。戦術を知る事、知識そのものが身を守るのに重要になってくるんだ、正当な魔法使いでないだけに尚更、ね」

 

 とも言う。そういう見方もあるのかと瀬流彦は感心した。

 

 折々、高畑のスケジュールに合わせて「別荘」内でトレーニングをしている。

 故郷でも鈍らない程度には体を動かしていたし、剣の使い方を身体に染み付ける程度には馴染ませていた。が、かつての……セルピコと呼ばれ、平時であっても常に死が近くに潜んでいる世界、あの時の感覚までは取り戻す事が出来ない。それは魔法を傍らに学びながらも平和な国に育った瀬流彦とすれば当たり前とも言えるものだっただろう。それで十分だと思っていた。

 だが、その意識はエヴァンジェリンの記憶を見せつけられる事であっけなく崩され、嫌が応にもかつてを思い出してしまっていた。思い出したと言うと語弊があるのかもしれない。

 あまりに現実的で生々しい血と鉄の臭い、散る火花、硝煙の臭い。

 セルピコにとっては慣れた世界、瀬流彦にとっては慣れぬ世界。

 何の情緒も感慨もなく、気付いたら感覚が切り替わっていた。

 身体の基礎はすでに出来ている、以前と似たような動きも出来るだろう。ただこれまで身体に染みつかせていた守りばかりの型ではない、新たな動きを加え、反復練習により身体に染みつかせる。腱を斬り、急所を突くための最小限の動き。これまでの瀬流彦には必要の無かったもの。護衛をするだけだった身にも必要の無かったもの。

 あの過酷な旅路の中で状況に合わせ、剣の振るい方もまた変わった。人ならともかく、それ以外のモノたちは頭を貫かれた程度で死んでくれるとは限らない。といってあの剣士のように巨剣を振るう膂力は持ち合わせていない。魔女から賜ったシルフェの剣がなければ早々に戦線離脱をしていた事だろう。

 今はシルフェの剣の代わりに魔法というものがある、あの時、渦に取り込まれようとした時、最後まで共にいてくれた精霊達、彼等もまた共にいてくれる。

 ただそれを以てしても、こちらの世界の魔法……特に魔法世界のでたらめな戦闘にはなかなかついて行けそうもなかった。

 瀬流彦は剣を振る腕を止め、空を見上げため息を吐く。

 

「戦いを前提としているなんて……らしくないですねェホント」

 

 ぼうっと思考をさまよわせ、何となく心当たりとおぼしきものに思い至った。

 あらためて思い出してみれば自分は未だ16歳。血気に逸るのも道理かもしれない。

 誰が見ているというわけでもないものの、何となく恥ずかしさに似たものを感じ、頬を掻いた。

 

 記憶を見させてもらった事については、魔法に縛られ学園長に言う事はできない。どのみち言うつもりもなかったのでその事は伏せたのだが。

 エヴァンジェリンが瀬流彦が監視役として付くことを認めた旨を報告すると、学園長は柔和に微笑み、そうかそうかとゆっくり茶をすすった。

(悪い人ではなさそうですが……何を考えているか判ったもんじゃないですね)

 

「で、文句は言っておらんかったかの?」

「……不満そうではありました」

「ふむ、まあご苦労じゃった。ところで」

 

『魔法を解くなら頷きなさい』

 

 瀬流彦の脳裏に学園長の念話が響く。

 

「あー、いや、結構ですので」

 

 首を振ると学園長は顎髭をゆっくり撫で、拗ねたように口を尖らせて言った。

 

「なんじゃい、だとすると隠し事か。ええのう若いもん同士で……」

「さすがに若いもん同士というにはちょっと」

「……そうじゃった、そうじゃった。考えてみればとんでもない婆さんじゃったわい」

 

 と、本人に聞かれたら命は無いような事を言い、呵々と笑う。

 

   ◇

 

 闇の福音の監視役……と言ってもその実体は、二日に一度訪れ、茶飲み話をする程度である。

 さらに言えば、その茶を淹れるのは決まって瀬流彦であったりもした。お茶うけのお菓子などを用意する事もまた。

 高畑も日本に居る間は決まって夕刻にここを訪れ「別荘」でみっちり鍛錬をしていく。

 この数ヶ月というもの、エヴァンジェリンもまた緩やかに変化している事に瀬流彦は気付いていた。

 皮肉やからかうような物言いが増え、日頃の学校生活への愚痴も多くなる。それは会った頃の、物憂げでどこか常に気力が無いような感じとは違い、どちらかというとエヴァンジェリンの記憶の中で見た彼女、その姿に近いものだった。少なくとも表向きにはそう見える。

(立ち直りかけている?)

 不思議に思った。

 ……存外、あれは己を見直し立て直すための一連の儀式だったのかもしれない。ふとそんな考えが脳裏に浮かんだ、自分や高畑は本当の意味でついで……あるいはきっかけに過ぎなかったのではないかと。

 当の吸血鬼様はN社が満を持して発売した最新のゲーム機で何やら遊んでいる。64ビットらしい。3Dが凄いらしい。コントローラーにかじり付いて熱中している姿は見た目通りの年齢にしか思えない。

 瀬流彦は軽くため息を落とし、蒸らしたお茶の葉が撹拌されるようゆっくりお湯をティーポットに落とした。長い年月を生き抜いた吸血鬼の心中を推し量るのはとても難しいようだ。

 気付いていたのはエヴァンジェリンの変化だけではない。

 高畑もまた、あれ以来どこか様子がおかしかった。

 エヴァンジェリンと話す時だけ、どこか後ろめたいような、含みがあるような、微妙なものがあるのだ。特にナギ・スプリングフィールドの事に関しては妙な遠慮がある。そんな印象を持っていた。

 あるいは……高畑もまた見せられた記憶の中で何か思う事でもあったのかもしれない。

 高畑・T・タカミチ、先輩であるとはいえ、彼もまだ成長途中の若者である事は間違いなかったのだから。

 

 知れば知るほど、厄介だと思う。

 闇の福音という名前、その存在が内包している政治的な問題は根深く、そして執拗だった。

 賞金はすでに取り下げられているものの、その知名度は魔法世界トップクラスと言ってもよく、もし討伐さえ成功したならばその者の名声は莫大なものとなる。さらに犯人の判らない犯罪、あるいは政治的に隠されてしまった犯罪、そういった類の──罪のなすりつけのようなものも始終行われており、未だに恨むものは後を絶たない。

 言ってみれば概念的な「悪」の象徴として祭り上げられており、エヴァンジェリンが時折思い出したように自らを「悪」だと言うのもそんなところを含めて言っているのかもしれない。偽悪的、あるいはそんなモノさえ飲み干してみせるという気概であるのかもしれないが。

 深度の深い情報と言えど、完全に情報を隠すという事は不可能だ。散発的にだが、エヴァンジェリンを標的とした襲撃はあった。中には背後に組織めいたものが見える襲撃者もまた居たりする。

 闇の福音を擁するという事はそんな厄介事も抱え込むという事であり、一部の魔法先生が苦虫を噛みつぶし、危惧してしまうのもまた無理のない事だっただろう。そのリスクは何ら関係のない一般生徒にまで飛び火する可能性だってあったのだから。

 ナギ・スプリングフィールド、英雄が健在の頃は良かった。闇の福音すら超える勇名であり、魔法社会の中では絶対的な正義と同一視されていると言ってもよい。「マギステル・マギ」とはそういう存在なのだ。周囲の魔法先生もまた一致団結の心構えで協力する事もできた。

 しかしその存在はもう無い。高畑・T・タカミチがその背中を追いかけるように今現在破竹の勢いで名を上げているが、大戦の英雄のようにはいかない。

 三年間。

 麻帆良の長である近衛近右衛門は、失われたナギ・スプリングフィールドの名声の代わりに策を用い、謀を以て闇の福音を擁する状態を維持してきた。高畑・T・タカミチの成長を待った。麻帆良よりさらに新しい魔法界の拠点とも言えるアメリカのジョンソン魔法学校とも関わりを深め、味方にしていった。その虚実定かならない動きが西の者たちにとって「近衛近右衛門、信ずるに足らず」などと言う印象になってしまったのは片手落ちだったのかもしれないが、あまりに不安定な状況下、責めるのもまた酷だったかもしれない。

 秋口にもさしかかった頃、高畑から提出された瀬流彦の魔法生徒としての定期報告書を読み、学園長は独りごちた。

 

「本当に助かったわい……あの手はさすがにのう」

 

 次善の策はあった、だがそれは学園長を主、エヴァンジェリンを従とした仮契約の締結。表向きだけでも良い。自ら手綱を握る形にしておけば、さらにあと数年は時間が稼げると踏んでいた。

 しかしそれは、学園長が学生を従者としてしまうなどの教育者としての倫理的な問題もあったし、何より当のエヴァンジェリンの意に沿う事ではなかっただろう。何とか丸め込むための話も用意はしてあったものの、問題点は多かった。

 そんな折に、瓢箪から駒が飛び出すような形で瀬流彦という存在が明るみに出てきたのである。

 魔法学校などで育っていない分、彼は必要以上に闇の福音という名前を恐れない。さらに言えば彼の性格によるものか、エヴァンジェリンもまた毒気を抜かれてしまっているようだった。

 目論見通り、瀬流彦は魔法使いとしては異端であり特殊でもあった。いやそうでなくてはなるまい。学園長は校舎に巡らせた結界に弾かれうろうろしていた風の妖精を思い出す。

 

「よい具合にまとまったようじゃが……そうじゃの、あと一手が必要か」

 

 普通の魔法を扱えるだけの生徒であるなら、別の手段を用いるつもりだった。しかし数ヶ月間瀬流彦を高畑に任せ、上がってくる報告を読むともう一つの決断をするには十分な要素を持っていた。

 戦闘者であっても戦士ではない。知性は高くても研究者ではない。魔法を使えても魔法使いではない。掴み所が無く、どこか計りきれないところがある。そんな前置きがある報告書。

 高畑は高畑の計りで人を計るしかない。少年のうちより過酷な経験をしたからか、その視野は同世代よりずばぬけて広い。それだけにまた、どこかドライに自分も含めて「無理なものは無理」と規定してしまうところがある。それだけに初の教え子とも言うべき瀬流彦に対してもどこか一歩を引いた視点で見ているようだった。

 

「……じゃがそれだけではいかんのだがのう」

 

 本来なら図書館島の地下に居る彼の方が相性は良いのだろう。古くから伝わる知識の伝授という意味でもある意味エヴァンジェリンより遙かに適している。

 だがあえて、高畑に瀬流彦を付けたその意味。自分とはまるでタイプの違う者を教えるという経験を通し、高畑にはもう一枚、麻帆良所属の魔法使いとしてではなく、人間としての成長をしてほしい。そんな思いもあった。無論、目論見は一様ではないが。

 学園長にとっては、高畑・T・タカミチもまた教え導く生徒である事は変わらない。

 

   ◇

 

 ある日瀬流彦は学園長に呼び出され、とんでも無い話を聞かされた。

 翌週、エヴァンジェリン──闇の福音の首を狙い、襲って来る魔法使いが来るというのだ。それは召喚の魔法を得意としており、下手をすると一般生徒にまで被害が出かねない、それほど無秩序な攻撃を仕掛けてくるものらしい。

 普段、警備にも当たっている魔法先生達は本国への出向により数を少なくしており、間隙を突かれた形で襲って来る……

 

「という予定じゃ」

 

 学園長は飄々とした様子で言った。

 瀬流彦はこめかみに指を当て、ぐりぐりと押す。

 突然呼び出されたと思えば、どういう意図があってそんな事を言うのか。

 無言でため息を吐く瀬流彦をちらりと眺めやり、学園長は茶を一口含み続けた。

 

「そして当日、警備の魔法先生達は応戦するものの一般人への被害を防ぐ事に手一杯で、受け持っている一画を突破される。弱体化しておる闇の福音では抗し得ず、タカミチ君も間に合わん。そこを瀬流彦君、君が派手に蹴散らすというわけじゃ」

 

 何となく読めてきたものの、瀬流彦は呆れたようにもう一つため息を漏らし言った。

 

「なんですかそれは……」

「何、箔付けじゃよ箔付け。闇の福音の抑えを任されるほどの者、学生ではあるが何かの『理由』があると思わせるためじゃ。この際、邪推されればされるほどよろしい」

「マクダウェルさんが呆れてましたよ、学園長は策を弄しすぎると」

 

 学園長はフォフォフォと愉快げに笑った。

 

「何の何の、今はまだ策を用いねばならん時期じゃよ、やっと伸びてきた新芽も摘まれかねんからのう。大戦からそう時間も経っとらん、本国の殺伐さはこちらとは比べものにもなるまいて」

「本国ですか……というと、もしかして」

 

 瀬流彦は頬を掻いた。

 

「うむ、察したようじゃな。この事を少々寝かせ、メガロメセンブリアで噂にさせるには程良い期間じゃ。冬休みになったらちょっとした旅行などどうかの? 行き先は君のお父さんの故郷じゃ。名目も立つ」

「……一介の生徒を悪巧みの舞台に乗せる時はせめて、役者に配役をばらさないものです」

「何、おぬしなら大丈夫じゃろ。組織の長なんてもんは人を見るのが仕事のようなものだからの、報告書にもあるが本当に高校生とは思えんよ。さらにもう一つの意味にも気付いておるのではないか? ちなみに言えばもう一枚裏もある。こう言えば概ね見当は付くじゃろうな」

 

 何の事やら、と瀬流彦はとぼけて見せる。

 ……とはいえ薄々察しはついていた。いや、直感的に思いついた事だったのかもしれない。

 校舎を出、待ちくたびれた使い魔を肩に乗せる。

 

「権力争いですか」

 

 脈絡もなくぽつりと出した言葉に肩に乗っている妖精が不思議そうな顔を向ける。

 恐らくその召喚を得意とする魔法使いとやらは、捕まれば背後に居る誰かの名前を吐く。そしてそれを裏付けるだけの証拠は既に用意されているはず。出された名前は、数ヶ月前に闇の福音を引き合いに出し、政敵排除を目論んだという議員の名前なのだろう。

 学園長とメガロメセンブリアの議員の一派は結びつきがあり、今回の舞台は両者によって整えられたものなのだろうとも。さらにその先にも思考は回りそうにもなったが、これは止めた。タチの悪い事ばかり浮かんできそうになったのだ。ヴァンディミオンでの日々はそんな策謀をそれこそ日常茶飯事のように──

 

『ピコリン顔が暗いよ!』

 

 空気を読まないプーカはどこからか拾ってきたドングリを瀬流彦の鼻の穴に刺した。

 ふんが、と声にならない瀬流彦のあまりの間抜け面に大声で笑い転げる。

(何ともまあ……)

 ふん、と思いのほか奥まで行ってしまったドングリを鼻息で押し出しながら瀬流彦は脱力した。

 

 舞台の上で役者は演ずる。

 それはどちらかというと深刻な色合いをしているものの、本質は喜劇だったのだろう。

 瀬流彦が意外に思ったのは、召喚された悪魔が思ったよりも強力だったこと。

 もっともそれは標的である彼女の実力を考慮しての事だったのかもしれないし、あるいは麻帆良とその同盟者、その関わりもまた緊張感あるものだったという可能性もある。

 どのみち舞台上に上げられた役者でしかない瀬流彦には伺い知れない事だった。

 そして──

 

「仕込みの襲撃……とは、本ッ当ーに、舐められたものだな私も!」

 

 どの時点から気付いたのかは判らない、あるいは薄々奇妙なものを感じ取り、瀬流彦が駆けつけた事で確信に変わったのかもしれない。

 エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルは少々……安易な表現をするならば、キレ気味であった。

 

「瀬流彦!」

 

 ギロリと漫画的な効果音が見えてしまうほどの迫力で吸血鬼は睨んだ。

 睨まれた瀬流彦は冷や汗を一筋流すと、あっけなく白旗を上げる。

 

「……学園長です」

 

(骨は拾います。どうか安らかに)

 祈る神はいないものの、せめてもと学園長のいる方向に向かって拝み、それを隙と見て襲って来る悪魔の攻撃を躱し、至近からの一撃で始末した。

 翌日、珍しく学園長が休んでいたのは言うまでもない。さらに翌日にはいつもどおりの姿を見せており、何かあったのかもまた謎のままだった。

 

   ◇

 

 もしかしたらこちらにはこちらの宗教があり、礼式があるのかもしれない。

 そんな事を思いながら、瀬流彦は一つの墓の前に日本でよくあるように手を合わせ拝んでいた。

 ウィル・フェネグリーク。名前しか記憶にない父の墓。メガメロセンブリアの郊外にある公共墓地、13年前の大戦の折散った者達と共に葬られていた。

 瀬流彦の心情は複雑なものがある。

 かつての自分の父は父とは到底思えなかった。今生の父は物心つく前に亡くなった。

 父との縁が薄い。

 少し寂しい思いもあるが、同時に安心する自分もいる。もし父が生きていたとしたら今の自分は全く違うものになっていたのだろうか。

 黙祷を終え、高畑との待ち合わせ場所に行く。彼は彼で祈りを捧げる者達が多いようだった。合流場所に指定された休憩所には誰の姿も見えない。

 ベンチに腰を下ろす。場の空気を読んだのか、静かにしている妖精の頭を撫でた。

 

 麻帆良にも雪が一度ちらつくことがあった。

 冬が訪れ、年末年始の忙しさと冬休みの計画に高校生達は沸き立つ。そんな中、瀬流彦は高畑と共に長期の休みの一日目から空の旅を経てウェールズへ、翌日には丁度ゲートポートが開く時期に当たっていたらしく、魔法世界の地を踏んでいた。

 訪れる名目は、亡くなった父の故郷を訪れるため。内実は、いつかも言っていた本国の政治家、麻帆良側と協力体制にある議員への面通しの為だった。

 名目とはいえ、おろそかにするわけでもない。最初の1日は墓に花を供え、故郷であるメガロメセンブリア内にある鄙びた村を巡る。母に聞いた通り係累はもう無く、かつて父と母が住んでいたらしい家には別の住人が住んでいた。村の年寄りに父の話を聞く事ができたものの、やはり瀬流彦に実感は湧かない。

(寂しい……のかもしれないですねこれは)

 わだかまるような諦念のような、不思議な感覚を抱き、村を後にした。

 

 取り扱う情報の性質からも公には出来ない事だったのだろう。

 若い身ながら元老員の議員であるクルト・ゲーデルに招かれたのはひっそりとした裏路地のパブだった。

 高畑・T・タカミチとクルト・ゲーデル、2人は旧知の仲であるらしく、瀬流彦もまた高畑から軽い説明くらいは受けている。

 紹介される形で瀬流彦も挨拶し、2、3の当たり障りの無い問答の後、クルト・ゲーデルは突然にやりと、極悪とも言ってもよい笑みを浮かべ言った。

 

「君はタカミチとは違い、腹芸にもなかなか長けているようだ。どうかな、共にこのメガロメセンブリアを、いやゆくゆくはメセンブリーナ連合を我がモノにする、そんな夢を追ってみないか?」

 

 まさか本気で言ってるわけではないだろう。瀬流彦が高畑の顔を見れば「また始まった……」とでも言いたげに呆れた様子を見せている。どうもこれは悪癖とでも言うべきものらしい。

 のらりくらりと躱していると飽きたのか「才覚を眠らせるのは罪だよ君」とつまらなさそうに呟き、エールをあおる。

 しばしの歓談の後、話は学園長とこのクルト・ゲーデルの一派が共謀した麻帆良への襲撃についての事となった。

 

「……ではタカミチの奴は知らされては」

「ああ、そうだよ悪いかクルト」

 

 軽く酔いでも回ったのか旧知の友が居るからなのか、高畑は普段は見せない、どこか子供っぽい不満げな顔をする。

 

「いいや、お前は大根役者だしな、学園長が知らせなかったのも当然だろう」

「むう……」

 

 高畑は言い返せない様子で、焼き付けられたソーセージにフォークを立て誤魔化すように食べ始めた。

 クルト・ゲーデルはそんな様子をどこか愉快そうに見ていたが、ふと瀬流彦に視線を戻した。

 

「そういえば──」

 

 何気ない仕草。

 瞬時に溢れた殺意の気。

 凄まじい速さで気を纏ったフォークが瀬流彦の首筋目がけて突き出された。

 

「……物騒な冗談です」

 

 クルト・ゲーデルの手にあるフォークは瀬流彦の首に触れるか触れないかの所で止まっていた。それをゆっくり離し、何事も無かったかのようににこやかな笑みを浮かべる。

 

「いや、すまないね。あの折は私の予想より遙かに学園側の被害が小さかった。近衛学園長が何か手を入れたのかとも思ったが、うん。なるほど」

 

 そんな事を言いながら興味深げな目で瀬流彦を見た。

 

「これでもね、京都神鳴流を囓っているんだ。寸止めしたとはいえ相応の力を込めた一撃。しかし、微動だにしないとはどういう事かな、まさか硬直していたなんて事はないだろう。いや、硬直と言えど微かに動きはあるものだ。殺意は本物に感じたはず、感じられねば僕の立つ瀬が無い。剣士の看板を下ろさざるを得ないというものだよ。それに君の目は観察者の目だった……ならば奥の手があるのだろう。あの状態からでも抜け出せる一手が」

「悪趣味過ぎるぞクルト」

 

 ごん、という重いものがぶつかるような音と共に言葉は不意に途切れた。

 

「……ツッコミに居合い拳って大丈夫ですか?」

「ああ、こいつは丈夫だからね」

「大丈夫じゃない、舌噛んだだろうが……」

 

 おお、と瀬流彦は驚きを口にする。加減はしてあるとはいえ、高畑の居合い拳がアッパー気味に顎を打ったはずなのにピンピンしていた。

 再びエールを飲み「しみる」と顔をしかめ、おもむろに瀬流彦を見て口を開いた。

 

「麻帆良という組織、近衛学園長という長にとって、タカミチが太刀とするなら、さしずめ君は懐刀だな」

 

 訝しげな顔になる高畑に、クルト・ゲーデルは目を向け「お前の苦手な話さ」と小さく笑う。

 

「少なくとも議員である私はそう判断し、扱う。この際年齢や学生である事などは関係ない。懐刀は抜かない事に意味がある、懐中にある切り札、そう思わせる事が役割というものだ」

 

 だが、と瀬流彦を見てにやりと笑った。

 

「だが、切り札が常に懐にあるとは限らない。刀によっては思わぬところで振るわれる事もまたある。なるほど面白い。近衛学園長はこれまでタカミチという大太刀、そして頭の堅い取り巻き、敵味方定かならない者達しか持ち得なかった。君はさぞかし便利に使われる事になるのではないかな」

 

 見定めはこれで終いさ、後は普通に飲もうか。などと腹の底の読めない若手議員はぬけぬけと言い、クックックと、それはそれは悪役のように笑うのだった。

 

   ◇

 

 瀬流彦が魔法世界での滞在を終え、旧世界に戻った後、日程に余裕があったので、丸1日ほどウェールズで観光に費やす事となった。

 高畑は古い友人と会って来るらしく、瀬流彦とは別行動をとっている。本来、高校生をただ1人で単独行動させるというのは引率役としては失格なのだろうが、瀬流彦の年齢には見合わぬ落ち着いた様子、英語もかなり話す事が出来、自衛のためなら十分すぎるほどの直接的な力もある。心配はないと踏んだのだろう。

 

『駄目だったよ、わとそんくん、ぱたりんの後追ってったけど街道の途中で足跡が途切れてしまっているね』

「何でも呼び名にりん付ければ良いってもんでもないんですよ」

『じゃあタカティミー』

「……ノーコメントで」

 

 妖精にはイングランドとウェールズの違いなどはどうでも良い事なのだろう。

(ベーカー街はロンドンなんですけどね)

 有名すぎる探偵の格好に衣装を変えた使い魔を見てぼんやりと思った。

 現在居る場所はカーディフ、ウェールズの首都である。

 別行動をとった高畑を好奇心で妖精が追っていったようだが、小さな村が見えたあたりで見失ってしまったらしい。

 何かありそうだな、などと小さな疑問が浮かびながらも、瀬流彦は観光案内所で貰ったパンフレットを開き、まずは有名所へと向かう。

 

「……これがカーディフ城ですか。さすがに昔の形は留めてないようですが、名残はかなり残ってますね」

 

 懐かしむだろうかとも思い、写真を撮る。

 エヴァンジェリンの記憶の中、旅の最中にちらりと出てきたカーディフ中心部にある古城。砦の姿はあまり変わっていないようだった。イングランド王ウィリアム一世の長子、弟により目を潰されたノルマンディー公が死ぬまで幽閉された砦……とガイドブックにはある。

 分厚く荒々しいその様相は、冬の風が吹きすさぶ事もあり、どこか寒々しいものを感じた。

 なにより、その戦いを前提とした作りの砦は否応もなく昔を思い出してしまう。そんな自分に対し、どこかおかしみのようなものさえも……

 ふっと力を抜くように息を吐く。気温は日本と同じくらいだというのに、雨が多いせいかどこか湿気をはらみ、身を切るような寒さは感じない。

 19世紀に建てられたというゴシック様式の建物も外から見て回る。安いチケットで入場したので、中までは見ることが出来ないのだった。こんな時期というのに観光客はそう少ないわけではなく、石造りの城門を子供連れの親などもちらほら通っていた。

 

「さて、そろそろ行きますか」

『え、もう?』

 

 プーカが意外そうな声を上げ、瀬流彦の肩に座る。

 

「有名所くらいは抑えておきたいんですよ。次は国立博物館です」

 

 こういうのが好きな者には怒られてしまう。そんな見方をしている。

 我ながらどうかとも思いながら観光を続けた。一階は博物館、二階は美術館になっておりどちらも良質の展示品が並んでいる。瀬流彦は良し悪しがわかるほどの美的センスを持ち合わせていない。どこに何があるか、頭に目録を作りながら見て回ったようなものだった。

 その後も有名所をちょこちょこと回った、麻帆良では時折感覚の鋭い人もいるようで、プーカがいると違和感を感じる人もいたのだが、ここに来てからはまったくそんな事はない。本当に誰にも気付かれない。普段とは変わらないように見せながら、この妖精もちょっとばかり寂しい様子だった。

 

 ウェールズから日本への直通便は無い。ロンドンを経由して日本へ。

 長い旅を終え、麻帆良に着いた。ひとまず荷物だけ置き、旅の埃をはたく間もなく帰着の報告へ行く。

 二人が学園長室に入ると、学園長はエヴァンジェリン相手に将棋をしているようだった。休みの間は家にでも篭もっているかと思っていたので、瀬流彦は少々意外に思う。

 

「なに、色々と企んでくれた学園長に少しばかり意趣返しをな。んむ、これで詰みだ。じじぃ、確か限定醸造の古酒を持っていただろう、アレで良いぞ」

「なっ……何でそれも知っておるんじゃ? あれは勘弁してくれんかのう、年間30本しか造られん珍しいものなんじゃ」

「ほほう、私にそれを言うという事はさらに隠しているものがありそうだな」

 

 やいのやいのと言い合い、最後には学園長が折れた。悲しげな表情になり何やらサラサラと紙に書いてエヴァンジェリンに渡す。

 さて、と気分を切り替えるように一言呟き、二人に向き合う。

 ねぎらいの言葉をかけ、高畑より報告書を受け取る。うむ、と頷いた学園長は瀬流彦に言った。

 

「さて瀬流彦君、長旅ご苦労じゃった。そしてこれはお願いなんじゃが……このごうつくばりの吸血鬼を家に送り届けてはくれんかの、冬期休暇で暇なのは判るが、わしの秘蔵のコレクションがこれ以上減らされるのは勘弁願いたいのじゃよ」

「うむ、昨日は良い魔法具をぶんどってやった。東洋のものはなかなか手に入りにくいから良い収穫だ。しかしじじぃ、碁もちょっとアレだったが将棋は輪をかけて弱いな」

 

 エヴァンジェリンはニヤニヤと笑いながらいたぶるように言う。

 学園長は参ったようにため息を吐き、自らの肩を揉んだ。

 

「じじぃ、じじぃと言うなら労ってほしいもんじゃわ」

「なぁに、私の事をババァ呼ばわりするじじぃには丁度よいだろう?」

 

 学園長はいつかの言葉を思い出し、思わず瀬流彦に誰何の目を向けた。

 無論、瀬流彦はそれを馬鹿正直にエヴァンジェリンに伝えた覚えはない。違う、違うと顔の前で手を振る。

 

「ほう、やはりそんな事を言っていたか」

 

 空気が冷えた。

 ぎぎと首から音がしそうなくらいにぎこちなく学園長は幼い吸血鬼に向き直る。

 ──余程命が要らぬとみえる。

 そんな言葉が伝わってきそうな存在がそこにあった。

 蛇に睨まれた蛙のごとき、学園長はそんな思いを抱いた。大きな額から汗が流れる。

 

「ふん、まあいい。事実だしな」

 

 圧迫感は数秒で消え去った。ニヤリと笑って見せる。冗談だったらしい。

 

「いやはや、何とも老体には応える威圧じゃわい」

「女に年齢の話というものは常にタブーさ、じじぃになってようやく学べたな」

 

 エヴァンジェリンはそんな軽口を叩き、傲然とした口ぶりとは反して、丁寧に将棋の駒を木箱にしまう。

 

「さて瀬流彦、行くぞ。駅前の酒屋にこれを預けてあるらしい。お前は荷物持ちだ」

 

 先程学園長が何やら書いた紙をぴらぴらと振り、学園長室をさっさと出て行く。瀬流彦は一つ頬を掻き、小さくため息を漏らした。学園長に挨拶し横暴な吸血鬼の後を追う。

 エヴァンジェリンはのんびり歩いているようだった、廊下ですぐに追いつく。

 冬休みで生徒の姿は無い、廊下に漂う静かな空気を壊すのが忍びないかのように、しばらく無言で歩いていた。

 日が傾くのも早い。時間は午後三時を少し回ったほどだったが、既に夕焼けの茜色に廊下は彩られている。

 ふ、と何気ない様子でエヴァンジェリンが言った。

 

「妙に感じたか?」

「……僕にもエヴァンジェリンさんにも言えない事なんてのは結構あるんじゃないでしょうか」

「だろうな、タカミチが修行に来た時にでも口を割らせてみるか……」

 

 にぃと笑い口の端を上げる。満月が近づき尖った犬歯が見えた。

(また物騒な事を……)

 と瀬流彦は思い、どこか魔法世界で会ったクルト・ゲーデルと被るものを覚えた。ひねくれ具合……比べるものでもないのだろうが、いい勝負かもしれない。

 ふと窓の外を見ると輝くものが舞っていた。

 

「雪ですか」

 

 積もりそうな雪ではない。多分風に吹かれてきたものだろう。エヴァンジェリンも外に目をやり、やれやれと呟く。

 

「暑いよりはマシだが、今の身には寒さもちょっと厳しいな。じじぃの秘蔵酒、生原酒だけに冷やが一番とも思うが……人肌程度に燗をして飲むとしようか。あては白身魚の煮付けがいいな、薄味でさっと煮付けたものを頼む」

「……えーと、一応地球半周する旅から帰ったばかりなんですが」

 

 ロンドンから東京までの直通便でも半日乗りっぱなしなのだ。動くのとはまた違う疲れがあった。だが、この小さな暴君はそんな事はまったく斟酌する必要はないと考えているようで。

 

「文句は一人前になってから言え」

「……はあ」

 

 条件反射で従ってしまうのはどういう事か。

 瀬流彦は人生に対して深淵な思いを抱かずにはいられなかった。

 

   ◇

 

 紆余曲折の日々だったと言わざるを得ない。

 あの時、鬼に襲われていた吸血鬼をつい助けたりしなければ、こんな風にはなっていなかったのだろう。

 もしかしたら魔法を使える事さえ忘れ、何でもないただの一般人として生きる道もあったのかもしれない。

 瀬流彦は何となくそんな事を思い、それはない、とも考え直した。

 精霊との親和性が高いゆえか、あるいはかつての記憶のためか。あまりに力を振るう事への忌避感が薄い。無論それは好戦的などとは程遠いものだったが、必要になれば躊躇する事なく使える力は使う。使ってしまえる。はたしてそれは一般的と言って良い感覚なのかどうか。

 もしあの時エヴァンジェリンを助けるために力を振るわなかったとしても、魔法関連に関わる事は時間の問題だったのではないか、そんな風にも思ってしまうのだった。

 

 高校生活はやはりクラスメイトとは微妙な距離感を抱いたまま終わった。勿論ある程度までは親しくなった者もいる、ただやはり彼等に言わせれば瀬流彦というクラスメイトはどこか「深く付き合いにくい」相手だった。

 知識は幅広く、スポーツの成績も良い。困った時に相談すればまず良い知恵を出してくれる。頼めば何かと気軽に動いてもくれる。

 そのくせ、何かに対する執着も見せず、弱音や本音というものを表に出さない。見た目もまた、どこかぽやぽやとした坊ちゃん然としていながら、根本的な部分で雰囲気が違ったりする。

 掴み所が無い、とはこの事だろう。

 クラスの中に浮いてもいない、ただ溶け込めない。結局卒業するまでそんな調子だった。

 

 早春、桜はまだ蕾も小さいが、木々は色づき、若い葉が凄まじいエネルギーで一生懸命に伸びている。

 瀬流彦は卒業証書を収めた筒でぽん、ぽんと肩を叩いた。

 季節柄、使い魔はまたぞろ「良い気分」になっているのか、空でふわふわと踊っている。

 ぽんと、意味もなく筒で頭を打ち、学生寮に向かった。

 寮内に据え付けの電話で母に連絡をする。つつがなく卒業できた事。形式的なものかもしれないが、報告はしておかねば……と思ったのだ。

 母は卒業式に出席したがった。止めたのは瀬流彦である。さすがに距離がありすぎるし、魔法関連と関わっている事は言ってあるとしても、エヴァンジェリン──闇の福音との関わり。それに麻帆良とメガロメセンブリアの駆け引きのゲーム、その盤面に上げられた形になっている現状は知らせていない。そんな事で心配してほしくなかったという気持ちがあった。

 進路は麻帆良国際大学教育学部である。

 エスカレーター式とはさすがに言うことはできないが、おそらく他の受験生と比べれば大学に上がるのは楽をしたのかもしれない。ネットで情報を漁っているとそんな事を思わないでもない。

 教育学部に入ったのはそんな強い動機ではなかった。強いて言うならば、高校時のクラスメイト達、小さな事にも奔走し、狭い世界ながら何かに希望を燃やし、熱中する。間近で見続けていたそんな姿が、ひどく眩しく映ったからかもしれない。

 おぼろげながらも、将来というものは見えてきている。

 それだけでもかつての瀬流彦からすれば大幅な進歩と言えるだろう。安穏と将来の事など考えている事なんて出来ない、どこかそんな感覚を引きずったままであったのだから。

 麻帆良とメガロメセンブリアの関係については、現在は安定している。それには瀬流彦も一役買ったものだったが、何よりも高畑・T・タカミチの存在が大きくなっていた。

 魔法世界より帰り少々経った頃、何かがあったらしい。瀬流彦は何も聞かされなかったし、聞くような雰囲気でもなかったのだが……一ヶ月ほど学園長と高畑が暗い顔をしていたのを覚えている。元より並外れた努力家であった高畑がさらに鬼気迫る勢いで自己鍛錬を始めたのはその時からだったかもしれない。

 勿論厳しく鍛えれば良いというわけではない。体を壊し、本末転倒になってしまう例などざらにある。実際、途中で何度か再起不能になりかけた。それでもなお立ち上がり、一回りも二回りも大きくなっていったのは、周囲の助けもさることながら、本人の決して諦めない根気があったのだろう。

 正直、その一個人としての楽しみすら捨て去ってしまっているような高畑の変容には、瀬流彦も、またエヴァンジェリンも首を傾げざるをえない。

 ただ成果は出た。

 

「ようやく無音拳と呼んでも良い、そんな技ができるようになってきたよ」

 

 少し含羞のこもった笑みでそんな事をこぼしたのはいつの事だったろうか。

 ここ一年の間で、魔法社会の中でも高畑は急速に名前を上げていた。魔法使い達で構成されているNGO団体「悠久の風」の中でも実力は一つ抜きんでた存在と見られている。大学卒業のための必要単位分はどうにかして取ったらしく、瀬流彦が大学に進学すると同時に高畑は卒業する形になるようだ。その後は麻帆良で教職に就く事が内々に決まっているとのこと。

 火種として燻っている形の闇の福音の件についても、時折どこから嗅ぎつけたのか名を上げようなどという者が麻帆良の警備をくぐり抜けてきた事もあるが、頻繁では無い。ある程度落ち着いたと見て良いようだ。

 国内での西の勢力との関係はあまり良いものではなかったが、それこそ終息させるには時間が必要となるのだろう。急激に終息させては歪みもまた大きい、それに西側にはかつての魔法世界の大戦に「巻き込まれた」という意識もまた強く、学園長は時間をかけ、緩やかな形で互いの矛を収めさせる腹づもりのようだった。

 

 ひっくるめて見れば段々状況は落ち着いてきていると言っても良い。

 名目上、瀬流彦が監視役となっている真祖の吸血鬼、エヴァンジェリンもまたこの頃はすっかり調子を取り戻してきたようだった。少なくとも、周囲にそう思わせる程には調子を取り戻してきていると言えるだろう。この頃は登校地獄の呪いをどうにかするために研究にも取りかかっている。ナギ・スプリングフィールドの喪失感から立ち直ると、今度はがんじがらめに縛られている現状にあらためて不満を感じてきたものらしい。

 ちなみに、その事、解呪の研究を始めた事については高畑も瀬流彦も知っている。学園長も知っているかもしれない。エヴァンジェリンは隠そうともしなかった。

 

「無理矢理解く方法ならある、だがやらん。それをじじぃも知っているからな、何も言わんさ」

 

 とのことらしい。

 何かの図式をノートに書き終え、エヴァンジェリンは自分の肩を叩いた。

 

「手頃な方法、そうだな……ナギの血がカップ一杯もあれば簡単なのだが、そうもいかんか……」

「……手頃なんですかそれ?」

 

 定期訪問日だった。従者めいた事が板についてしまっている瀬流彦は紅茶を淹れ、頃合いを見計らって出す、カップを差し出しながらつい口も出てしまった。

 エヴァンジェリンはペンをくるりと回し、空いている手で紅茶を受け取り、一口含んだ。うむ、と小さく呟きながら言う。

 

「半ば魔法生物である私は吸血した際、対象者の魔力と混じった状態になる。呪いの精霊への命令権を持つものと認識されれば解くのは簡単だ。まあ私にしか出来ない芸当だろうが」

 

 どこか遠い目をした。右手に持ったペンを無意識の癖のように指の間でくるくる回す。

 

「……ま、望むべくもない、正面から切り崩すさ」

 

 どこか空虚なものを漂わせ、次に、そんな自分に気付き、誤魔化すように小憎らしい笑みを浮かべる。

 

 瀬流彦は早春の空気に大きく息を吐き出した。

 なべて世は事も無し、頭を空っぽにするとまず浮かんできた言葉。こんな時にも神に関する詩句の一節が浮いてくるとはどういう事だろう。

 ただ、その感慨はごく一部の人間以外は共感し得ない感慨だったかもしれない。かつて集会の時に紹介された麻帆良で同期の魔法生徒などは目を剥いて「どこがだ!」などと怒鳴り返してきそうでもある。

 何とも言えないものを感じて頬を掻いた。詩句の前部分を浮かべ、空を見上げ、小さく呟いた。

 

「神は空に知ろしめし」

 

 神とは何なのか。

 あれほど神の手先と自負するものたちとも触れ、あれほど世に有るべからざるものたちとも触れ、一度は転生者の末路である巨大な渦、地獄とも呼ばれるものにも触れた。

 それすら神の一端。海面にある小さなうねり。

(あの小さな魔女さんなら答えを持ち得ていたのでしょうか)

 そんな事も思う。

 持ち得ないだろう。

 同時にそうも思う。

 

「私は」

 

 と言いかけ、かつての自分の自称に戻っている事に気付く。苦笑いを浮かべた。

 瀬流彦はセルピコであってそうではない。当たり前のことを忘れそうになっていて、またそれに違和感も感じなかった。

 

「本当にふらふらしてますね」

 

 それで良いのだろう、同時にそんな声も自らの内から聞こえた。




三話はちょっとばかり書き直そうとも悩みましたが、思い直しました。
自分で読みたいものを形にしているだけというのが一番の動機でもあったので、やはりそのままで行きます。

ちなみに4部構成です、特に章分けするほどの量でもないと思ったのでやりませんが、1部4話構成で全16話を予定しています、30万字までに収めたいとは思ってますが判りません。
この四話で導入部が終わりました。
次回より原作に関わってきます。

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