瀬流彦゜   作:ガビアル

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三話

 春の陽気は段々と暖かくなり、時にはもう暑いと言い換えられそうな季節となった。

 瀬流彦は相変わらず場違いな気がして少し居づらく、足早に女子中等部の校舎を出る。

 学園長に呼び出されて行ったのだが、思いもよらぬ事を依頼された。いや、取りまく環境を考えれば当然のことだったろうか。

 学校の裏門から出た所で、学校に張られている結界の効果範囲外になったのか、鼠を相手に遊んでいた使い魔が『ご用事済んだ?』と言いながら肩に飛びのってきた。

 

「プーカ、君は猫ですか……妖精にウイルスだの細菌は関係ないと思いますが、帰ったらちゃんと手を洗ってくださいね」

『にゃー』

 

 猫の真似をする使い魔を何となく指でつつきながら、瀬流彦は先程交わされた学園長室での会話を思い出していた。

 

「エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルの監視役……ですか?」

「うむ、あくまで表向きじゃがの」

 

 もとより高畑・T・タカミチがその任にあたっている……という形を外に示していたらしい。

 闇の福音という魔法世界においてはトップクラスの知名度を誇るエヴァンジェリン。彼女が麻帆良の地に封印されているという情報は魔法使い達の中でも情報深度は深く設定され、知っているのは他組織においては、メガロメセンブリアの元老員議員とそれぞれの組織のトップくらいのものだと言う。

 そして高畑がここのところNGO団体「悠久の風」に所属し、海外や魔法世界で活躍するにつれ、麻帆良の闇の福音に監視役不在という事実を政敵を蹴落とすために利用しようという動きが元老員議員の中であるらしい。当然ながらそんな動きに頭を痛めている議員もいるらしく、大事にならぬ前に麻帆良に対応を要請してきたという。

 

「まあ、こんな事は割と日常茶飯事じゃがのう」

 

 フォフォと学園長は笑ってみせ……ようとして失敗したようだった。ため息を吐き、瀬流彦に真面目な目を向ける。

 

「一介の生徒である君を巻き込んでしまって申し訳なくも思うのじゃが……他に人が居なくての。次善の策もある事はあるが、今の落ち込んでいる彼女にはちと酷になる。曲げて頼まれてはくれんか?」

 

(相変わらず政治の世界は迂遠ですねえ……)

 そんな感想を抱きながらも瀬流彦は承諾する。

 

「うむ、すぐにと言うわけではないが、いずれは高畑君と共に本国の方にも面を通しておいて貰う事になるやもしれん。その心構えはしておいて欲しい」

 

 学園長はすまなさそうに言って頭を下げた。

 

 ここの所、連日のように高畑はエヴァンジェリンの「別荘」を使用していた。

 守らねばならない者があり、亡くなってしまったものとの約束があり、手を伸ばせば助かる者たちがいる。

 その為にも高畑は誰よりも強さを求めていた。

 ダイオラマ魔法球を用いれば、長い時を生きる吸血鬼ではない高畑は当然ながら周囲より早く年を取る。大学に在籍しているものの、同い年の生徒達は皆一回りも二回りも若く見えた。

 寂しさを覚えなかったわけではない。ただ、遙かに遠く見える背中。自分の憧れた英雄に一歩でも追いつくため、ただひたすらに走り続けていた。

 それでも──

 

「まいったな」

 

 瀬流彦から学園長の言伝てを聞き、高畑は苦笑した。

 ナギ・スプリングフィールドが行方不明になる以前までは、封じた本人が不在だろうと監視役が居なかろうとメガロメセンブリアは一切手出しをしてこなかったのだ。

 

「というわけでエヴァンジェリンさん、今日から監視役となりましたので、よろしくお願いします」

「……堂々と言う奴がいるか、そういうのは監視対象には黙っておくのが普通だろう」

 

 エヴァンジェリンも瀬流彦のそのとぼけっぷりには流石に呆れた様子である。

 

 高畑は煙草に火をつけ「別荘」の中ゆえか霞む海平線をぼんやりと眺め、ぽつりと呟いた。

 

「やっぱり僕ではなかなかナギさんのようにはいかないね」

 

 耳ざとくそれを聞きつけたエヴァンジェリンがにやりと笑った。

 

「ほうタカミチ、お前がそんな気持ちだったとはついぞ知らなかったぞ」

「ん……え、いや、意味が違うよ、ナギさんの代わりにエヴァと居るってわけじゃなくてね、あ、いやどう言えばいいか……」

 

 エヴァンジェリンは高畑の腕をぺしりと叩いた。

 

「判ってるさ。からかい甲斐のない奴だ。真面目すぎる」

 

 気怠げにため息を吐いた。

 髪を鬱陶しそうにかき上げると何か思いついたように、ふむ、と一言呟いた。

 塔の、舞台のようになっている部分より一段高い場所にテーブルや椅子などが設えてある休憩所のような場所があり、そこに高畑と、先程からの一連の流れが判らずぽかんとしている瀬流彦を招き、椅子に腰掛けさせた。

 不思議そうな顔をする2人をよそに、エヴァンジェリンがぱちんと指を鳴らすと、魔法陣が床に浮かび、魔法の縄めいたもので拘束される。

 

「エヴァ……! 何をするっ」

 

 と驚く高畑、万年閉じているような目を開け状況を冷静に把握しようとしている瀬流彦。

 2人を前に、小さな吸血鬼は、それはもう世紀の大悪人であるかのようにくつくつと笑った。

 

「これは戯れであり、八つ当たりだ。監視役というなら知っておくがよい」

 

 そう言って視線を媒介とし、自らの記憶の中に2人を引きずり込んだ。

 

   ◇

 

 それは始まりの記憶。

 

 エヴァンジェリンは幸せに育った。

 無論、それは偽りの幸せ。厳しい現実を大人達に隠されていただけ。

 ただそれでもなお、幼い子供から見ればそれは幸せだった。

 父はエヴァンジェリンが物心つくか、つかないか、そんな頃には政争に敗れ、海の向こうの国に追放されていた。

 かねてより立場に危険を感じていた父は腹心とも言える領主マクダウェル家に、数年前より出産後の容態が思わしくないという名目をもって妻と子を預けている。

 大人達の間では熾烈な争い、それも親類が骨肉相噛むような争いがあり国は乱れていたが、幼いエヴァンジェリンはそんな事を知るよしもなく、何不自由ない暮らしの中ですくすくと成長していった。

 マクダウェル家の者達はその当時珍しく、後世において人格者と呼ばれるような者が多かった。驕り高ぶらず、貴族の名誉を大事にし、領地と領民を大切にした。そして共に預けられていた母は、五男三女を産んだにも関わらず、なお元気であり、趣味の刺繍や裁縫などをしながら穏やかな日々を送っていた。

 

 やがて骨肉相噛むような熾烈な戦いが終わると、エヴァンジェリンの父が実権を握り王となった。

 病気療養とされていたが、あまりに長く預けられていたので、世間には忘れられ死んでいるがごとき扱いを受けていた母にもまた、王妃となり、名誉を取り戻すよう王となった父は望んだ。しかし、母は権力よりも今の穏やかな生活が気に入っていたようだ。それに、重責を担い、国そのものと言っても良い立場になった夫が1人の人間で居られる場所でありたいとも望んだ。その優しさに触れてか、王となった父は静かに涙を流し、折々マクダウェル家を訪れるようになった。

 

「お前を日の当たる場所に連れていけぬのが残念だ。が、いずれは良い縁を探してきてやるとしような、この父が引き受けるのだ。楽しみに待っているがよい我が小さな姫よ」

 

 そんな演技がかった様子で、抱き上げられたエヴァンジェリンは言葉をかけられた。それを見た母もまた「ふふ、調子が戻ってきましたわねヘリフォード随一の伊達男さん」と楽しげに笑う。雰囲気の柔らかくなった両親に感化されてか、まだ幼いと言えるエヴァンジェリンも、明るい笑い声を上げた。

 

 時折、母の元に良家の子女や息子と思わしき子供達が遊びにくる事があった。遊猟や避暑のためという名目である。

 王の息子や娘達、エヴァンジェリンの兄姉達だった。活発ではしっこく、元気で人なつこい。そんな子供であったエヴァンジェリンは家族からは、遠い南の国に嫁いでいった叔母の名前を取った幼名、その愛称としてキティ(子猫)と呼ばれ、可愛がられていた。彼女のお気に入りは長兄である。生真面目でいつもしかめ面しい顔をしているが、その実情に厚く、優しい。脈絡もない、幼稚なエヴァンジェリンの話を根気強く聞いて、真面目に答えてくれたものだった。後世の戯曲家には無頼放蕩の人物にされてしまったが。

 

 穏やかだった生活は、エヴァンジェリンが10歳になった誕生日に脆くも崩れ去った。

 

 何時からだったのだろう。素顔もろくに見えない、フードを被った魔法使いがマクダウェル家を出入りするようになっていたのは。気付かなかった。誰も気付く事ができなかった。

 誕生日の朝、起きたら人ではなくなっていた。

 魔、そのものになっていたエヴァンジェリンはそれを頭で理解するより先に、魂で理解していた。

 戻れない、もう人の身には戻れないのだと。

 ふらりと歩き出す。城に人影はなかった。当たり前だ。自らをこうするために捧げられてしまったのだから。それもまた、当然のように理解できていた。

 虚脱した心に真っ黒な水が注がれる。

 憎悪。

 あいつだ。

 あいつがこれをした。

 憎悪。

 あの魔法使いが、こうなるまで気付けなかったあいつが私を城を母様をこうした。

 憎悪。

 エヴァンジェリンは真っ黒に心も魂も塗りつぶされていくのを感じた。

 魔法使いは一室で書を読んでいた。何ほどの事もなかったかのように。

 それは歩くエヴァンジェリンを見て、驚きの声をあげた、もしかしたら予想の外の事だったのかもしれない。

 憎悪を体現するような笑みを浮かべ襲いかかった。

 魔法使いは強かった。幾度も幾度も消し飛ばされ、焼かれ、貫かれ、潰された。だが、憎悪の炎だけは消えなかった。

 やがてその魔法使いの胸を貫き、引き裂き、自らの血と肉と魔法使いの屍の上で、世界一幼い不死者はただ1人慟哭した。

 

 城に住んでいた者の屍は残っておらず、埋葬すらできなかった。

 一晩泣き続け、麻痺した心のまま、エヴァンジェリンは血まみれの服を着替え、何か情報でもあるかと、魔法使いの持っていた何か難しい事が書いてある羊皮紙を手に取り、雑嚢に無造作に入れ、城の外にふらふらと歩き出した。

 時節は冬。

 城も森も雪に埋もれている。

 旅は楽だった。

 人でなくなったその身には寒さなど何ほどの事もない。また、生存の本能ゆえか飢えた狼さえも襲ってくる事はなかった。

 辛かったのは太陽、そして川。血への餓え。

 太陽に当たれば文字通り焼け、この世のものとは思えぬ苦痛を味わった。悔しさから我慢しつづけた時などは完全に燃えかすとなり、灰となり、復活には7日7晩もかかった。

 そして流れ水を吸血鬼は渡れないという俗信の通り、まず泳ぐ事はおろか、橋の上を渡ることさえ難しかった。海を渡る事などとうてい出来ず、限られた範囲を幽鬼のようにあてもなく夜をふらつく日々が続いた。

 凡そ人ではなくなってしまっても、世間知らずの少女である事に変わりはなく、人の悪意にはそれまであまり触れた事もなかった彼女はその当初「これが洗礼だ」とでも言うかのように、人々の悪意をその身に受けた。

 当時集落を離れ、1人で旅をする事そのものがとても珍しい。人は故郷の集落からせいぜい行って隣の集落程度。生涯、生まれた場所より5、6リーグほどですら離れる事が少ない時代。そんな時代に幼い少女が1人で、しかも旅装束でもなく歩いていればどうなるか。馬車から逃げ出し、あてもなく歩く売られた娘とでも思われていたのだろう。騙され、売られた。

 やっと騙された事に気付いたのは枷を嵌められ、足の腱を切ろうと男がナイフを足に当てた時。

 吸血鬼としての力の使い方など何一つ知らなかった。ただ、力で枷を外し、乱暴に殴りつけただけ。男は倒れたが、武器を持ったその仲間達が襲ってきた。2,3人は倒したものの、一時の興奮が去った身は傷を負えば痛く、すぐに塞がるものの、それは徐々にエヴァンジェリンの戦意を削いで行く。既に男達は相手を何かの化け物にしか思っておらず、槍を数本突き立てたまま、渓谷に落とした。

 似たような事は何度でもあった、悪意の水を被るたびに心を冷やしていき、エヴァンジェリンはいつしか「またか」という諦念しか感じなくなってきた。

 憎悪でなく人を殺める事になったのはいつの頃だったろうか。

 生き血をすする事に抵抗がなくなったのと同じ頃だったかもしれない。

 相次ぐ戦争によって人の心もまた荒みきっていた。町から外れた街道を歩いていれば野盗に襲われる事などもそう少なくはない。痛みにも慣れ、自分の人外の膂力もやっと使えるようになってきた頃には、そんな連中を逆に襲い、金目のものを巻き上げ路銀とするような事もしていた。

 傭兵崩れなど、ある程度の組織になっているものの中には女子供を拐かし、筆舌に尽くし難い事をする連中もまた少なくはない。いや、当たり前ですらあった。自分に重ねたか、昔好きだったおとぎ話の騎士でも思い出したのか、そこは本人にも定かではなく、あるいはただの感傷であったのかもしれない。そんな光景を目にした時は野盗を皆殺しにした時すらあった。

 

 在り方を変えてしまったエヴァンジェリンにとって、食事や水を取らなくても行動に差し支えはない。ただ、習慣的なものなのか、飢えの苦しみは感じる。それに何より寂しかった。人の中で暮らしたいという欲求は日に日に高まる。

 諸問題を解決するために修道女を装うようになった。この頃の女子修道院というものは、貴族の娘、それも嫁ぎ先がない者や私生児などが言わば口減らしや醜聞が表に出ないように放り込まれる、そんな側面もあった。当然のことながらそういう場所は風紀も乱れ、掴ませる金次第では様々な融通を効かせてくれる。

 百年ほど前に作られたものらしい荘厳な聖堂で、金さえあれば神さえ売り渡す背教の修道院長に、神を呪った吸血鬼は修道名を与えられた。アタナシア。聖人アタナシウスより取られた名前。意味は不死、不滅。院長はエヴァンジェリンが吸血鬼であることなど知らない。どこかの訳有りの少女であるとしか思っていないはず。

 神とは諧謔もまた嗜むものか。あまりに皮肉の効いた名前にエヴァンジェリンはたまらず笑いがこみあげた。

 5年も放浪した頃には世故にも慣れ、余裕も出来てきた。

 ある時、辻占いの者達が大勢たむろっているような場所で一冊の本を見つけた。分厚い装丁に装飾された文字に見覚えがあり、目が離せない。持ち主は恐らくそれをどこからか盗んだものだったのだろう、価値も判らずペニー銀貨一枚で譲ってくれた。ねぐらにしている廃屋でそれを紐解けば、見覚えがあるはずだった。自らを吸血鬼にした魔法使い、あれの持っていた羊皮紙に書かれた文字とひどく似ている。それは古ラテン語で書かれており、その時のエヴァンジェリンにはまったく未知の暗号だった。段々使い勝手も判ってきた魔の眷属である自分の身体、蝙蝠などに変身、分化できる能力を生かし、あるいは修道女の装いと視線を通じた暗示で修道院に入り込み、蔵書を片っ端から読みあさり、それを読み解く。

 魔法、そう言われるものだった。

 エヴァンジェリンが手に入れたそれは教本とするにはいささか難しすぎたが、しばらくの間、むさぼるように読み解いた。知識欲もあったが、それよりも自らを不死者に変えた魔法について知りたかった。

 放浪し7年も経った頃、父である王が病で倒れたという噂が市井を飛びかった。回復の見込みはなく、後継を巡り再び骨肉の争いが起こるのではないかと皆不安に怯えている。遠征より凱旋した時、表に出てこなかったのはそのせいなのだろうか。

 いてもたってもいられなかった。

 国で一番大きな教会、戴冠式も行われる荘厳で冷たい教会、その奥まった一室に王は静かに横たわっていた。

 蝙蝠と身を変え、王の枕元に忍び込み 独学で覚えた眠りの霧の魔法を限定的にかけ、付き添いの者を眠らせる。

 父は痩せていた。闊達で豪放な笑みを浮かべていた顔も、今は影もない。手を握った。あれほど大きく暖かだった手は冷え、かすかに震えていた。

 しばらくそのままで居ると、束の間の眠りから覚めたのか、わずかに父の目が開いた。朦朧としているようで、その焦点は結ばれていない。

 

「お……お、おおキティや……そんなに泣きはらして……どうしたのかね」

 

 しゃがれた声で途切れ途切れで言った。

 

「お……父……さま」

「可愛い顔が……ぼろぼろではないか。悪い夢でも……見たのかな」

 

 父はゆっくりと震える手を動かし、エヴァンジェリンの髪を撫でた。

 

「さ……この父が撫でてやろう。我が手にかかれば……悪しき夢魔など疾く疾く退散してしまうわい」

「父様……」

 

 再び眠りについたのか、ゆっくり目を閉じる父の手に縋り、エヴァンジェリンは静かに涙を流していた。

 

 時は過ぎ、そんな彼女の係累もまた年老い、1人1人と減ってゆく。

 人の命の短い時代だった。エヴァンジェリンが生まれ、半世紀も過ぎた頃には彼女の最後の係累も政争に敗れ、静かに消えて行った。

 さらに6年もすると、長きにわたって続けられていた戦争がエヴァンジェリンの故国の敗北に終わり、引き上げてきた者達の不満もまたあったのだろう、今度は内乱の気運が高まっていた。またこの頃にはさすがに「長年にわたり姿を変えぬ童姿の魔女がいる」という噂も広がり、本格的な追っ手はまだないものの、人里には住みにくくもなっていた。

 太陽はさすがに克服できなかったが、流れ水の上を船で運ばれる程度ならば何とかなるようにはなっている。独学で覚えた魔法もまた数を増やし、船に密航し大陸に渡る事はそう難しい事でもなかった。

 大陸に渡った後はまた拠点を定めず、転々とする生活をした。

 エヴァンジェリンにとってその時点の唯一の目的は不死化の魔法の解明であったが、これは遅々として進まない。

 あの折に回収してきた羊皮紙には断片的な情報が書きつらねてあったにすぎず、それでも独自の魔法の雛形のようなものの参考にはなったのだが、肝心の魔法の把握には到らなかった。

 

 時代は後にルネサンスとも呼ばれる時期に入っていた。

 古き叡智を掘り起こし、再構成し、あるいは新たな観点からの発見をし……

 そんな流れに伴い、ちらほらと占星術や魔術に関するものもまた掘り起こされる事があり、それを目当てにエヴァンジェリンもまた地中海の北岸、ある都市に身を潜め、知識を蒐集し、魔法の研鑽を積んでいた。

 魔法使い達や古くから伝わる秘術を扱うものたち、そんな世から隠れ住んでいる者達と会ったりもした。無論自らの特殊性は理解しており、何度も会うような事はなかったが。

 何かの折に聞かされ、もっとも最初は世迷い言とも思っていた。もう一つの異世界があるなどと。魔法の知識を深めれば深めるほどそれがどれほど有り得ないかと理解する。むしろ何も知らない無知なままの方が、北のおとぎ話に出てくるティル・ナ・ノグなどを信じられるのではないだろうか。ただ、複数の書に断片的ながら同じ事を記述しているものがある。

 幾多の魔法の書を読み解いたエヴァンジェリンはそんな情報を頼りにある場所を割り出していた。興味本位といえば興味本位なのだろう。

 彼女の叔母がかつて嫁いだ先の国、その境あたりにその山はあった。

 ビュガラッシュ、地元の民からはそんな名前で呼ばれている。ふもとには集落もあるが、100人にも満たない小さな村。切りたった殺風景な岩だらけの山であり、進んで行くと地元の人間でさえ方向を見失うという。そんな場所に一年ほど居を構えた。己を偽るという特性から程遠いエヴァンジェリンは、あまり得意ではなかったものの、この頃には幻術魔法もそれなりに上手くなっており、本物の魔法使いなどを除き、そうそう正体を知られる事もなく、ただ人の間に紛れて生きるだけならば難しくもなくなっていた。

 山を歩き、調査を続けるうちに、魔法により認識が狂わされている事を理解した。それに恐らくは方位も。掴んでしまえば後は紐解くのみ。魔法により人の目から隠された場所は山の小さな盆地にあった。巨大で年月を経た大岩が中心に置かれ、要の役割をしている。

 

「異界への門……これが」

 

 どうやらそれは一定周期で起動し、異界へと繋がるようだった。世界を生物として捉えればそれは呼吸のようなものかもしれない。数週間待っているとどうやらその周期が来たようだった。面白い、とエヴァンジェリンは躊躇いもなく踏み込んだ。

 

 殺風景な光景が広がっていた。

 転送された場所は魔法陣こそ刻まれているものの、余分な装飾など何もない大理石の台の上だった。かなりの高台に設置されており、四方は切り立った崖になっている。

 集落が遠くに見え、まずは情報を集めるべし、とエヴァンジェリンはその身を蝙蝠に変え、異界の夜闇に紛れ飛び去った。

 

 この世界の者達はつながっているはずのもう一つの世界の事をほとんど知らないようだった。それはエヴァンジェリンが後にしてきた世界でも同じ事、互いが互いをおとぎ話のようなものだとしか思っていない。世界に対する疑問を深めながら各地を回った。

 この時代、栄えていたのは最も古い都であるウェスペルタティア王都、オスティアだった。

 人、物資、知識、様々なものが行き交う都市。彼女はそこでまたさらに興味の赴くまま、かつての世界では決して知る事も考えつく事もできなかったであろう魔法の理論に驚き、またそれまでほとんど見る事もなかった数々の魔法具にも惹かれ、自ら製作するほどにまでなった。古い魔道書にあったドール契約というものを試してみたのもこの頃である。元々趣味だった人形作り、それが高じて人形繰りの技もまた得意としていたのだ。最初にドール契約を結ぶ人形は小さく単純な仕組みのものにした。実験的な意味もあったが、何よりその人形は作ったものの中では一番古く、人とは同じ時を過ごせない自分と長きにわたり一緒に居た人形だったのだ。

 そして初めての従者が出来た。前に居た世界において、アラビアより入って来て物議を醸し出し、言ってみれば当世の流行でもあった概念上の数字のゼロ。始まりの意味を込めてそう名付けた。

 

 この世界には亜人も多く、魔族や竜種なんて存在まで居る。長命種もまた多く、中にはアルビレオという本を媒介として存在しているかのような、不思議な男もいた。エヴァンジェリンのどこを気に入ったのか、時折ふらりと現れては妙に絡んでくる「他人の人生の蒐集を趣味にしている」などと公言している趣味の悪い男だった。

 魔法を使う者も決して珍しいものでなく、ここではあまり己を偽らずとも暮らす事ができた。それゆえに気が緩んでいたのだろうか、あるいはエヴァンジェリンの知らぬ魔法具でも知らぬうちに使われていたものか。

 真祖の吸血鬼という事が知れ渡ってしまった。

 不死の秘技は存在だけはまことしやかに伝わっていたものの、その具体的な方法についてはこの世界にも存在しなかった。

 また、吸血鬼という存在そのものが、かつて不死の技を求める権力者達が研究し、暴走させ、いわば「吸血鬼もどき」を大量に作り出し大規模な被害が出た事もあり、忌避されていたのだ。

 知識の無いものからはそんなもの達と一緒くたに捉えられ忌避され、知識のある権力者達や研究者は、不死の秘技の一端を知ろうとエヴァンジェリンに賞金をかけ、追い求めた。

 長い、長い戦いが始まった。

 それまでに手を汚さなかったわけではない、戦乱のまっただ中に生を受け、荒んだ人々の間を生きてきたのだ。だが、かつてここまでの凄まじい敵意に襲われた事はなかった。

 隠蔽を重ねて誰にも知られぬように動いても、この世界の賞金稼ぎ、追補の者達は恐ろしく追跡能力に優れていた。

 そして、エヴァンジェリンはこれまであまり力を持った者との戦闘というものをしたことがなかった。吸血鬼の能力を用い、初歩的な魔法を使えば十分対処できる事態にしか襲われる事もなかったのだ。

 苦戦した。

 僥倖があるとするなら、それは追っ手が真祖の吸血鬼の不死性を甘く見ている事の一点のみ。

 幾度も灼かれ、切り刻まれ、氷付けにされた。

 不死の魔法使い(マガ・ノスフェラトゥ)などという捻りもない二つ名が知れ渡ったのはこの時だった。自らも死に続けながら屍を作りつづけ、実戦の中、本来研究者的であったはずの彼女は戦いの力を身につけていった。

 闇の魔法(マギア・エレベア)もこの時期に形になった。自らの存在の特性、そして自らをこのような存在にした魔法使いの残した不死の秘技の一端、そこから作り出した固有技法。手っ取り早く強さを得るには良い魔法だった。

 人形繰りの技も絡め手から来る追っ手には有効だった。ただの力のごり押しではどうにもできない、そんな敵もまた多かったのだ。人形が段々性格が荒く、物騒になっていくのはやはり戦闘に使い過ぎ、血を浴び過ぎたせいだったのだろう。

 賞金稼ぎや追補のものを倒す度に賞金は跳ね上がった、怨嗟による襲撃もまた増え、1カ所に留まる事などできなくなっていた。

 ある時など、エヴァンジェリンを殺すためだけに潜伏していた村ごと焼き払われた事もあった。とりたてて守るつもりもなかったが、巻き込む気は毛頭なかった人々。身を焼く炎の中、久しく感じた憎悪に身を委ね、それを行った魔法使いに報復した。

 

 時代が変わり、権力者も交代すればいつかは忘れられ、追われる日もなくなる。エヴァンジェリンはそんな淡い期待をしたこともあった。叶う事はなかったが。賞金額は上がり続け、また不死に執着する者達は後を絶たなかった。

 女ゆえに命までは取らず逃がした賞金首、それに戯れに話した闇の魔法の事でも広まったのか、いつしか闇の福音(ダーク・エヴァンジェル)などとも呼ばれるようになっていた。最早こちらの亜人や長命種の居る世界にすら居場所はないと実感し、物憂げなため息を一つ漏らすと、かつて背を向けた世界。生まれ育った世界に戻る事にした。

 

 時は16世紀、半世紀ほど前に、ある異端審問官が書いた論文「魔女への鉄槌」の普及をきっかけとした魔女狩りの風潮が広まっていた。

 魔女であり吸血鬼でもあるエヴァンジェリンには生きにくい時代。

 とはいえ身を隠す術は十分に心得ている。まず見つからないはずだった。相手が一般人のみならば。

 この期に及んで、とも言うべきか……やはり油断ではあったのだろう。世界を越えてなお追ってきた魔法使いがいたのだ。異端審問官になりすまして。

 既にして賞金稼ぎ達や闇の福音の首を狙うものたちには知れ渡っていた弱点、エヴァンジェリンの唯一のこだわり、女子供に甘い事を見透かされ、町一つの子供達を人質に取られた。

 甘い自分に自嘲の笑みを浮かべ、魔法使いが備えて用意してきたのだろう束縛の魔法をその身に受ける。魔法使いの目は怨嗟がとぐろを巻いていた。

 魔法使いは優秀だった。エヴァンジェリンは魔力を封じられ、ただ不死で力が強いだけの少女にされ、当時急速に発達を遂げていたあらゆる拷問にかけられた。怨嗟をたたえた目は少女の苦しむ様子を見ては復讐の愉悦に酔い知れ、執拗に嬲り回した。

 その魔法使いもようやく飽きたか、あるいは異端審問という形を取っているだけにそれ以上の時間を取る事ができなかったのか。半年ほどで火計に処された。

 十字架に打ち付けられたエヴァンジェリンの足元に火を放ったのは、皮肉にも魔法使いが人質として取っていた子供たち。特殊な魔法薬を振りかけられていたのだろう、通常では有り得ぬほどに燃え立った炎の中、乾いた笑いを漏らした。

 エヴァンジェリンは灰にされ、聖水を染みこませた土と混ぜ合わされ、川に流された。

 10日も過ぎた満月の夜、再び肉体が再生し、復活した。煌々と照らす大きな月を仰ぎ見て嘆息を漏らす。前もって隠しておいた荷物を取り、従者の人形を連れ、当てもなく南に行く事にした。魔法使いは、あれで吸血鬼を滅ぼしたと思ったのだろう。その後姿を見せることはなかった……が、元の世界に戻って闇の福音を滅したとも言う事もなかったらしい。南の大陸に着くまでに熱心な賞金稼ぎが追ってきたのだった。掴まえて情報を聞き出してみれば、エヴァンジェリンを追っているうちに見つけ出された世界間の「門」それの研究が始まっているのだとか。なぜか、通り抜けられる者と通れない者が居るらしいが……すでに小規模ながらこちらの人々との交流も始まっているらしい。

 エヴァンジェリンはこれからの面倒事が増えそうな予感に深く息を吐いたが、同時にこちらの世界ではもう生きられぬ者達、旅の合間に出会った土地の神や精霊を信仰する者、村に1人はいた呪術者たちに逃げ場が出来たという事でもある。

 

「それはそれでよしとすべきか」

 

 多少は気分が良くなり、その賞金稼ぎは見逃した。闇の福音がこちらに来ている事、それが伝わればさらに多くの賞金稼ぎや怨嗟の色を纏う者達が追ってくる事だろう。

 だが良い。これから足を伸ばすのは暗黒大陸。

 近頃ではポルトガルが、長らく伝説の類だと思われていたプレスタージョンの国と外交を持ったのだと伝え聞いている。

 幾度も消滅したゆえか、この頃には太陽も克服しており、地中海を南下しアレクサンドロス由来の都市からさらに南に行ってみるのもまたよかろう、と思っていたのだった。

 暗黒大陸などと仰々しい名前で言われていたが、行ってみれば良い場所だった。

 エヴァンジェリンの故郷と違い、川沿いは年中暖かく湿潤だ。ほとんど人の手の入っていない原生林が生を強く主張している。

 遙か南に下るとこれまでに見た事のないような荒い、激流と言ってもよい川にぶつかった。ほう、と感心し川沿いにのんびり下ってみると、段々と川幅は広くなり突如切れた。

 広い滝だった。1マイルほどもありそうな幅に大小様々な滝が見える。その光景を見て最初唖然とし、次にほくそ笑んだ。

 

「よい場所だ。美しく、心地良く、守りやすい。ひとつ住み処を作ってみるか」

 

 これまでエヴァンジェリンは転々と旅をしてきた。倉庫代わりに小型のダイオラマ魔法球を使っているものの、本格的な拠点を設けた事はない。よい機会なのだろう。もう逃げ回ることにも飽きてきたし、世界を隔てた事で賞金稼ぎの数もかつてよりずっと減った。魔法使いの一端として拠点を作ってみるのもまた一興かと思ったのだ。

 本来有り得ない工法も魔法次第では何とでもなる。そして何かを作る事にかけてエヴァンジェリンは一流とも言える存在だった。

 後にレーベンスシュルト城と命名される拠点はそうして出来ていった。

 

 時が経ち新大陸へ人を運ぶ奴隷狩りがこんな内陸にまで近づいてくるようになると、エヴァンジェリンはこの拠点の周囲に隠匿の魔法をかけ、自らは南洋に居を移した。

 そんな辺鄙な場所に居を移すと流石に暇を持て余してくる。どこから嗅ぎつけたのか時折襲いにくる賞金稼ぎ共が唯一の慰み……というのもまたもの悲しく思い、北にある島国、日本に行ってみる事にしたのだった。

 存在だけは知っていたが、未だ踏んだ事のない地だった。他の国との外交の糸が乏しく、情報が少ないのだ。言語もまた広く外に伝わっているようなものではなく、難しい。当時英国の租借地となり、貿易の中心となっていた香港にまず渡り、言葉を理解する者を探し習得するのにもかなりの時間を要した。

 

 日本は活気に満ちていた。数十年ほど前に長年続いた政権が交代し、外の文化を取り込み、激しい変容の最中だった。

 エヴァンジェリンが気に入ったのは古い存在を否定しない、否定しないままに激しい変化を受け入れるその人々の在り方だったのかもしれない。彼女もまた既に古い存在になっていたのだから。そしてさらに気に入ったのは京の都だった。華やかで美しく優しい、そのくせあまりに内向的で、一皮剥けば長い歴史だけあって魑魅魍魎、怨嗟や悪霊が渦巻いている。そんな両面性が自然とあるべきようにある。

 そして京都神鳴流──

 

「魔力を抑えておいて正解だったな」

 

 魔力封じの指輪を見ながら独白する。

 戦えば負ける気はさらさらない、しかし楽に勝てるとも言えなかった。何せこちらは魔で相手はそれを退けるものだ。相性が悪い。

 気を用いる剣術、島国にこれほどの退魔組織があった事にも驚いたが、京の都の歴史を思えばそう不思議でもないのかもしれない。そしてその京の都のお家芸とも言える呪術、独自の発達を遂げていたその術に惹かれぬでもなかったが、下手に関与して敵を増やしても面白くない、それについては渋々諦める事にするのだった。

 魔力を抑えているということは幻術も使えないという事である。

 エヴァンジェリンの容姿はひどく目立っていた。御雇い外国人の子供とでも思われていたのだろう、宿などは十分な金を払えば、触らぬ神に祟り無しといった具合で理由も聞かず泊めてくれたが、その宿からでも話が漏れていたのかもしれない。金の臭いを嗅ぎつけたのか、はたまた珍しい異人の子でも売って一稼ぎしようとでも思ったのか、ごろつきにはよく絡まれた。勿論吸血鬼としての力はそのままに残っている。自分の手を振るう気もせず、適当に躱していたのだが、ある時人数を連れてきた事があり囲まれてしまったのだ。面倒に思いながらも、痛い目に合わせておくかと一歩を踏み出した時だった。

 

「にしゃらあ、何やっとる?」

 

 声がかかったと思うと、ぽんと人が飛んだ。

 エヴァンジェリンも、囲んでいる男達もまた驚き見れば、がっしりはしているものの小柄な男が居た。

 一瞬遅れ、仲間が投げられた事に気付き、気色ばんだ男達が殴りかかると、するりと懐に入りまた人が飛ぶ。

 次々と投げ飛ばされ、ごろつき共は恐慌に陥ったのか、事もあろうかその場にまだ立ちすくんでいると見える異人の少女を人質に取らんと後ろに回り込み、首に手を回した。

 

「む、こう……か?」

 

 エヴァンジェリンはその手を掴み、小柄な男の真似をして投げ飛ばしてみる。

 男が吹っ飛び、民家の納屋の上に落ちた。ごろつき達も、小柄な男も呆気にとられ、静寂が広がる。

 

「……こりゃたまげたわ、力任せたぁなんちゅうおなごか」

 

 まず先に気を取り直し呆れた声を出したのは、その小柄な男だった。

 呆れてはいるが恐れはない、その表情が気に入り、自らもおどけてみせた。

 

「くく、なに、京の都のあやかしさ。血を吸い、人を襲う鬼よ」

「鬼の子か! かはは、そりゃ良い、また一つ土産話が出来たわ」

 

 剛力、そして人では有り得ぬ牙を見、ごろつき共はおののき、逃げていった。というのに、この小柄な男は相も変わらず恐れの色を出さない。心底楽しんでいるようだ。

 その男はマサヨシと名乗った。偽名だろう? と聞けば「鬼に本名など教えてたまるかい」とまた笑う。

 既に齢40を数え、妻子がありながらも合気柔術を広めるために全国行脚しているのだと言う。

 エヴァンジェリンは京以外を巡る良い機会だとばかりに、しばらくその行脚を共にした。ふらりと離れて名所を見、土産の地酒を片手にふらりと合流。

 

「取っ憑かれた気分じゃのォ」

 

 そんな剽げた事を言いながらも男は酒を受け取り、代わりに幾つかの技を教える。

 不思議な旅がしばし続いた。

 力を超える理。気でも魔力でもない、純然たる技。この男は吸血鬼の膂力さえ受け流し、捌いてみせる。エヴァンジェリンにとってその理は衝撃ですらあった。

 やがて日光街道を抜けさらに北へ行くとその男の家があった。古い平屋であり、里の中の高台に位置している。

 

「けえったぞ、元気にしとったか」

「あ、とうさま、お帰りなさい」

 

 そう言ってぱたぱたと出てきたのは、10歳を過ぎたか過ぎないかに見える少女だった。癖のない黒髪を長く伸ばし、どこかぼうっとした目をしている。

 

「娘の茶々じゃ、こっちゃ鬼っ娘のえばんぜり……相変わらず言いにくい名前じゃのォ」

 

 エヴァンジェリンは中途半端な紹介をする男に一発ゲンコツを入れた。

 この茶々という娘もまた親に似てというべきか、非常に変わり者だった。

 家は寂しく、娘が1人だけ、里から世話をしに来る女中と老爺が居るのみだった。

 少々腑に落ちないところもあり男から話を聞いてみれば、茶々は若死にした親戚の娘らしい。なかなかの資産家であり、困った事に本家の中からも付け入ろうとする者があり、自分の養子にし、このような形にしているのだとか。

 またもう一つ、あまり人に知られたくない事情もあった。

 人の見えぬものが見え、人が見るものが見えない。

 少女の感じる世界は常人のものとはかけ離れていたのだ。

 

「おれらの祖父様が陰陽の術って奴をやっとったからの、その血かもしれんなぁ」

 

 陰陽師の名門、土御門家。安倍晴明の流れを組むその家とも関わりがあったのだと言う。

 ただ、その事を差し置いても変わり者だったと言える。

 このような山奥にあって、趣味は礼法に茶の湯。どうやらがさつな育ての親を反面教師にしていたらしい。お手伝いに来る老爺に書物を読んでもらい、独学で習い覚えていたようだった。

 事情があるとはいえ、やはり寂しかったらしい。茶々は懸命にエヴァンジェリンを引き留めようとする。

 誰にも忌まれた吸血鬼を引き留めようとは……そんな妙なおかしみを感じ、しばしの間逗留した。従者の人形ゼロを携帯している「倉庫」から出し、茶々に紹介しておく。魔力が供給されていないので動く事はできないが、喋る程度はできるのだ。物騒な目的に使い、血を浴びすぎて乱暴な性格になってしまった人形を、茶々はなぜかとても気に入ったようだった。始終側に置き、何故か酒など飲ませている。一体どの世界にあんな物騒な人形を抱き枕に寝る娘がいるというのか。エヴァンジェリンは呆れた。

 人形の名前の由来、ゼロという名前がただの数字を意味するものだと知った時など「それは寂しいです。私の名をあげましょう」とニコニコして言った。

 

「……だそうだゼロ。お前茶々の名前でも貰うか?」

「ケケ、ゴ主人ガ良イナライインジャネーカ?」

 

 変わり者も度が過ぎると驚きより呆れになってしまうらしい。やれやれと嘆息し茶々の淹れた茶を飲んだ。

 この家の一応の家主、地元では小天狗などと呼ばれてもいる男はしばらく実家、本家の方に戻るらしい。ならば、とエヴァンジェリンは話相手として人形を置いて、気儘に旅の足を伸ばしていた。

 やがて時が過ぎ、日本と北の大国との戦争が始まると、金髪に白い肌という判りやすい見た目をしているエヴァンジェリンはさすがに気軽に出歩くわけにもいかずにふて腐れていた。

 暴漢に絡まれる程度ならともかく、農村部では子供が馬の糞などを投げつけてくる。半ば遊び感覚なのだろうが、さすがに勘弁願いたいところだったのだ。

 そんな折、変わり者の茶々にも縁談が舞い込んできた。ふと気付いて見なおしてみればエヴァンジェリンからすれば須臾の間であっても、茶々は少女から大人の女性になりかけていた。未だに感じてしまう羨望と寂しさを感じながら、また一つ所に留まりすぎたな、とも感じている。

 かねてから作っておいた簡易的な魔法具を茶々に渡した。

 

「お前はこの世ならざるものとの境界線に少しだけ足を踏み入れている。それだけによからぬモノもまた招きやすい。それはこの地の土地神である老木の枝から作ったお守りだ。身につけていれば土地との縁が切れる事はなく、この地に居る限りはなまじの魔のモノは寄せ付けんだろう。もっておけ」

 

 行くの? と茶々は寂しそうな顔をする、しかし内心で判っていたのだろう。この吸血鬼がいつまでも留まる事はないと。

 エヴァンジェリンはその夜のうちには日本を去っていた。

 雲海の上で魔力の封印を解きながら真祖の吸血鬼は密かに笑う、過ごしやすい国だった。振り落ちる満月の明かりの中、次はどこの国に行こうかと悩んだ。拠点に引きこもっている生活が長すぎたようだった。それはそれで悪くはないが刺激が足りない。

 

「そういえば……」

 

 北極、南極なんてものがあるらしい。

 エヴァンジェリンもかつては地球が丸いというだけで驚いたものだったが、特にこの所数世紀の発見の連続には驚くものがあった。

 

「世界が狭くなった気さえするな」

 

 ぽつりと呟き、満開の星空を見上げた。

 

 激動の時代だった。

 戦争に次ぐ戦争。日本と北の大国との戦争もまた関係していたのだろう、地中海の火種から端を発した戦争は世界を巻き込んだ大戦に姿を変えた。

 そんな世情を嫌い、また、自らの首を狙ってくる賞金稼ぎ達もこの所減っているので様子を見る事も兼ね、エヴァンジェリンは再びもう一つの世界に行き、最初の従者であり、最近名前を新たにしたチャチャゼロを伴い放浪していた。

 ここ100年余の間に両世界間の交流は深まり、魔法世界と旧世界という呼び名も出来ていた。恐らくは旧世界からの移民が増えたゆえだろう。

 また、かつてエヴァンジェリンが見つけ出した『門』は不安定なものだったようで、既に姿を消していた。ウェールズにある巨大なゲートを密かにくぐり、言わば密入国した形で魔法世界に来ている。かつて通ったか細いゲートとは違い、随分整備された立派なものだった。

 魔法世界において、エヴァンジェリンの悪名は留まる事を知らず、罪状には明らかになすりつけられたようなものもあり、ほとんど魔の王扱いされていた。

 

「賞金額も膨らみに膨らんだものだな、まったく妙な事になっている」

「ケケケ、ゴ主人、魔王扱イハ嫌カ?」

「過大評価だが悪くない。それだけの数は殺してきたしな、巻き込んだ者も考えれば正当な評価かもしれん。いささか話が膨らみすぎではあるが」

 

 賞金首の張り紙を丸めて捨てた。

 幻術で大人の姿を取り、魔法世界を巡った。数百年前から見れば変化は大きく、一番は北のメセンブリーナ連合と南のヘラス帝国、そんな両陣営に分かれて対立していた事だろう。かつてエヴァンジェリンがこの地に居た時は、メガロメセンブリアなどという都市はなく、地図に記された町があったのみだった。訪れた事はなかったものの、恐らくエヴァンジェリンが来る以前より、知る人ぞ知るような形だったのか、あるいは迷い込んだだけなのか、旧世界人達はこちらで根を張っていたということなのだろう。

 古い時代からあるものとして、失われ行くものには同情にも似た感情を抱き、各地を放浪しながら、そんな古い知識、廃れ行く技術などを集め倉庫代わりの魔法球に保管していた。

 

 やがて魔法世界においても戦争が始まった。対立していた北と南が本格的に戦いを始めたのだ。

 どこに行っても戦ばかり、よくも飽きないものだとエヴァンジェリンは嘆息し、つまらぬ小競り合いに巻き込まれないよう遠く離れた場所に拠点を作り、静かに息を潜めていた。

 戦渦のかからぬ場所に居たとしてもまったく情報が入らないわけではない。紅き翼(アラルブラ)とかいう大戦の英雄達の噂も耳にした。さらっと古馴染みのアルビレオ・イマが入っていた事には少々驚いたが、相変わらずさほどの興味は湧かなかった。

 しばらく後にさすがにエヴァンジェリンも顔色を変える情報が飛び込んだ。

 王都オスティアの崩落。

 

「何が起こった……」

 

 かつてはそこに居を構え、様々な知識を得た地だ。最も古き空中の都市。戦争には関わらない、と自らで決めていたものの、流石にその時ばかりは虚しさを覚える。自らを守り、行動の自由を束縛されぬためには誰よりも強くある必要があった。しかしその蓄えた力を自らの事のみに使っていて良いものなのか。そんな考えが湧いてきてしまい、振り払う。だが力に対する寂しさはその後も付きまとった。

 戦争が終わり、ひとまず世界が落ち着きを取り戻した頃を見計らい再び旅に出た。

 だが、エヴァンジェリンは戦争というものをある意味舐めてかかっていたのだろう。広範囲に渡った大戦により魔法はより戦闘向けに形を変え、魔法具の作成やエヴァンジェリンの使用しているドール契約などの技術は廃れ、消え去り始めていた。

 彼女からすればひどく久しぶりな感がある。賞金稼ぎ達のグループに襲われた。どうやら一つ所に留まっていた事で特定されてしまったようだった。

 賞金稼ぎ達は強かった。

 使う魔法がさほど強いわけでもない、ただ使い方が上手い。そして連携が凄まじく巧妙だった。

 自らが追い詰められる程でなかったものの、チャチャゼロが損傷を受けた。エヴァンジェリンもしばらく本格的な戦闘などしていなかったせいか腑抜けていたのかもしれない、その事に気を取られ、しまったと思った時には敵方の魔法が既に放たれ──

 

「雷の斧(ディオス・テュコス)」

 

 中級魔法のクセに馬鹿げた威力の雷がそれをまとめて術者もろとも薙ぎ払った。

 何事かと見れば赤毛の若者が居た。妙に存在感が強い。エヴァンジェリンは新手の賞金稼ぎでも来たのかと一瞬身構えたが、様子を見るとどうも助けに入ったもののようだった。

 それ自体は珍しいものではない。よく居るのだ、女と見ると助けに入る者が。尤も、助けた後で名前を告げれば大抵及び腰になり去ってゆく。

 ともあれ、助けられた事は事実だった。どこか小面憎い、自慢げな笑みを浮かべている男に声をかけようとした時だった。

 

「……ただで、やられるかァ!」

 

 襲撃してきた賞金稼ぎ共の1人が跳ね起き、魔力を手に集め、地面を叩いた。

 

「む、捕縛結界か」

 

 予め罠を張っておいたらしい、しかしそれだけでは終わらなかった。

 

「下は吸血鬼の大苦手……流れる川だァ、一緒に……落ちろやッ」

 

 エヴァンジェリンの足元が急速にひび割れ、崩れ落ちた。落下しながらちらりと見れば確かに下方にはかなりの勢いで流れる川がある。共に落ちている賞金稼ぎの男がにやりと笑った。

 抜け出すのは簡単だった。捕縛魔法は強力ではあるが、それを力任せに破る手段は存在する。川に落ちても既に流れ水は克服している以上問題はない。

 エヴァンジェリンは表情を変えぬままに、さてどうしようかと少し首をひねる。

 次の瞬間、がくりと落下が止まった。

 腕を掴み、引き留めていたのは赤毛の男だった。そして失礼にも言ったのだ「危なかったなー、ガキ」などと。

 

 エヴァンジェリンは不服だった。

 この男、全く自分を恐れない。緊張すらしない。あげくには本当に子供扱いし、時にはひどくからかったりもする。

 闇の福音であり、600年近くを生きた不死者であり、狩れば一生遊んで暮らせるほどの賞金首であることを知ってなお、全く扱いが変わらなかった。

 

「なんなのだ、お前は。本当に……」

 

 それは嵐のごとくエヴァンジェリンの心をかき乱した。それを不思議と心地良いと感じてさえいた。戸惑ってもいたのかもしれない。

 不思議な男だった。

 言葉は乱暴、がさつで適当、大雑把でいたずら者。ただ、底抜けに明るく、真っ直ぐで、陰湿さが無い。

 男は人助けを旨にしているようだった。

 大戦により治安は悪化し、盗賊は横行、小規模な戦いはあちこちで続いており、戦争の爪跡は深い。そんな中で男は飽きる事無く一々関わり、お節介に、そしてお人好しに人々を救っていた。

 この男が動くと意気消沈していた人々も活力を取り戻し、やがては笑いを取り戻す。

 不思議な男だった。

 エヴァンジェリンはその訳のわからなさに惹かれ、行を共にしていた。

 ある時、いつもの調子で男が助けた子供、その破れてしまっていた服を不器用に繕おうとしていて、あまりの出来の悪さに見るに見かね、つい手を出してしまった。

 妙に感心した様子の男につい良い気になってしまい、いつしかエヴァンジェリンもまた男のやることに手を貸すようになっていた。チャチャゼロに「ゴ主人ガネエ」などと呆れられる。ナギ・スプリングフィールドという男に惹かれゆく己を認めないわけにはいかなかった。

 ただ、エヴァンジェリンはこれまで本当の意味で男を好きになった事などない。当然だっただろう。10歳の身でこのような身体になり、敵意と殺意の渦の中を這い回ってきた。穏やかに暮らすためには己を偽るか、人々から遠ざかるしかない。長い生の中では己の素性を知った上でさらに平然としている男に会った事はないでもないが、そこまではっきりと惹かれるものを感じるのは初めての事だった。あるいはかつては、よくある物語の中の吸血鬼のような退廃的な振る舞いを真似てみたこともあれど、何が楽しいのかさっぱり判らない。暇つぶし程度にしか感じていなかった。

 だからこそ、惹かれてもどうアプローチすれば良いのかなどはまるで知らず、読み解いた幾多の本の知識を当てにせざるを得ず、さらには長年生きてきた矜持がその知識を当てにすることさえ拒絶させ……

 

「おい貴様、私のモノにならんか」

 

 などと愚にもつかない言葉を吐いてしまったりもした。言って後に恥ずかしくなり、その夜は幕舎で赤面する。これではまるで初心のねんねという言葉のままではないかと自嘲の笑みを浮かべながらも、どこかそれを楽しんでいる自分さえ居るのだった。本当に困ったものだ、とエヴァンジェリンは自嘲の笑みを浮かべながら、どこか嬉しそうだった。

 

 エヴァンジェリンがナギ・スプリングフィールドという風変わりに男に付きまとい半年ほども経った頃。

 この頃になるとさすがに男の事も判ってきた。彼の仲間達とも合流し話を聞き出す、なぜ結びつかなかったのか自分でも不思議な程だった。

 紅き翼のサウザンドマスター、大戦の英雄。

 

「なるほど、この私が欲しいと思うわけだ」

 

 呟いたそんな言葉を旧知であるアルビレオに聞かれ、その後はことあるごとにからかわれる事となった。

 筋肉ダルマとしか思えぬジャック・ラカンとも合流した後は一段と騒がしい。青山詠春は神鳴流剣士であり、魔のモノにとってはあまり好ましい存在ではないはずだったが、日本の話に乗っているうちにいつしか打ち解けていった。

 悪くない。こんなのも悪くない。

 エヴァンジェリンはそうも思うようになっていた。

 ナギ・スプリングフィールドと行を共にするうちに、何時しか旧世界に、大陸を渡り海を越え、再び日本の地を踏む事となった。

 麻帆良の地は日本における魔法使いの本拠地とも言える。明治の時代にはまだ小さな町だったが、それは今は巨大な都市となっているようだった。

 さすがに麻帆良の地に悪名高いエヴァンジェリンが入る事は難しい。ナギとはしばし離れる事となるだろう。

 ここ数ヶ月、練りに練って細部まで完全再現の、もはやオリジナルスペルと言っても差し支えないほどの幻術を用い、自らが大人になればこのようになるだろう姿に化ける。

 前日に「驚かせてやる」とも言っておいた。約束の場所に赴き、歌劇じみた口調で誤魔化しながらも本音を混ぜる。ナギの血肉、心全てを我がモノとしたかった。

 その芝居じみた台詞もまた面白いと思ったのか、当意即妙、ナギもまたそれに合わせ、ノリの良い事を言う。

 演技のままに襲いかかり、捕縛の魔法を手に溜め解放しようとしながらも、エヴァンジェリンはナギが「美貌」と言ってくれた事のみが頭を占めていた。時間をかけて幻術を練った甲斐がある。

 そんな興奮も長く続かなかった。

 落とし穴にはまり、泣きたい気持ちになる。というか泣いた。いろいろ悲しゅうて泣いてしまった。

 これはない。本当にない。有り得ない。

 恐らくそれはエヴァンジェリンが「驚かせてやる」などと言った事で「よし俺も」などと対抗意識でも湧いたものだったのだろう。

 幻術が解け、慌てるエヴァンジェリンに登校地獄というふざけた魔法をかけ……

 光に生きてみろなどと言い残し、去っていったのだった。

 小さな吸血鬼を麻帆良の一生徒として残し。

 

   ◇

 

 高畑と瀬流彦は言葉を失っていた。

 場面場面しか見ていないものの、600年にもわたる記憶である。

 その魔法から解放された後も時間の感覚が混乱し、二人して頭を振っていた。

 やっと落ち着きを取り戻してからも高畑は高畑で何やらショックでも受けているらしく、口の中で「また王家……姫様とか……ナギさん妙なフェロモン出ているんじゃないのか」などと実はかなり際どい事言ってないかと、瀬流彦が思わず首を傾げるような事を呟いていた。

 瀬流彦は瀬流彦で、どこか懐かしい気分にも浸っている。

(歴史で知ってはいましたが……血と鉄の時代はどこか似通ってきてしまうものですね、人の営みなどどこでも同じという事でしょうか。あの世界、懐かしいと思うには酷いものでしたがそれでも……)

 そんな瀬流彦をどこか観察するような目で見ながらエヴァンジェリンは口を開いた。

 

「どうだ、600年の記憶は重かろう。少しは私が恐ろしくなったか」

 

 一拍の間の後、瀬流彦は鼻頭を掻き言った。

 

「いやその、大変申し上げにくいのですが、最後に持っていかれてしまってどうも……」

 

 エヴァンジェリンはナギの馬鹿と繰り返しながら床をゴスゴスと小突いた。

 しかし、と高畑はどこか困惑した様子で口を開いた。

 

「良かったのかい、僕らなんかに記憶を見せてしまって」

 

 エヴァンジェリンはため息を一つ落とす。

 

「たわけ、ナギに見られるならともかく、お前らのような小僧っ子に見られても恥ずかしいようなものではないわ。それにじじぃならまだしも、お前らでは私の記憶にある魔法の深奥などまず理解できんだろう。いささかの痛痒も感じぬさ」

 

 とはいえ、とエヴァンジェリンはニヤリと笑みを見せた。

 

「外に漏れれば話は別だ。研究好きの魔法使いなら垂涎ものの知識も含まれていたからな。口外どころか記憶を見られる事すら出来ぬように魔法で縛っておいた。悪く思うな」

 

 いつの間に……と高畑は冷や汗を流す。

 

「しかし、解せん」

 

 エヴァンジェリンは行儀悪くテーブルの上に座り足を組む。頬杖を付き瀬流彦を見下ろした。

 

「幾多の戦争、血に濡れた記憶だ。腐った死体の臭い、脈打つ臓物、文字通り人が人を喰らい合う事さえあった。そんなモノを見せられれば、今の時代、平和に生きているものには精神への攻撃とさえ言えるだろう。タカミチは場慣れしているから理解できるが……瀬流彦、貴様はなぜそう平然としていられる?」

「……あー、やだなァ、ほら表に出にくいだけです、怖くて震えてますよ」

 

 瀬流彦はぷるぷると手を振るわせて見せるが、あまりにわざとらしかった。

 

「突っ込む気力も失せるわ、やめろ、まったく」

 

 エヴァンジェリンはため息を吐いた。

 ここで重荷に感じる素振りでもあれば、記憶を消すこともできた。学園長には監視役としては不適切とでも言って突っ返す事だって出来ただろう。

 

「……私の事情に学生を巻き込ませようてか、まったくあのじじぃは本当に喰えん」

 

 ぶすっとして口の中で呟いた。

 しばしの沈黙を破り、瀬流彦は気になっていた事があったので率直に聞いてみた。

 

「ところで、サウザンドマスターはその後どうしたんです?」

 

 空気が凍った。

 やがて口を開いたのは高畑だった。

 

「ナギさんは……彼は三年前を境に行方をくらませているんだ。その後は……」

 

 言いかけた高畑を手で止め、エヴァンジェリンは言った。

 

「あの馬鹿はな、卒業の時には来るなどと言っていてが結局来なかった。大方忘れていたのだろう、それは構わん、そんな奴だったしな」

 

 そう言って虚脱感を滲ませため息を吐く。高畑を見て言った。

 

「タカミチ、私の前とはいえ言葉を濁すな。奴は死んだのだろう。じじぃからも聞いたさ」

 

 その言葉に高畑は応えず、俯いて視線を逸らす。

 

「……ふん、まったくな……ナギの馬鹿め」

 

 ぽつりと呟く。2人に背を向け、舞台上に静かに歩き、空を見上げたかと思うと飛び立った。

 

 瀬流彦は思う。

 記憶消去の魔法は勘弁願いたいが、背を向ける前に一瞬だけ見たあの泣き顔だけは忘れておきたいものだと。


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