やってみれば難しいキャラです、書かれないわけでした。
ともあれ楽しんでいただければ幸いです。
ご意見ご感想お待ちしています。
聖都に雪が降る。
神の坐します都、思い出の中では常に白い雪の中に埋もれていた。
神のために。ただ神のために。
思えば自らの命もあの時神に召し上げられようとしていたところだったのかもしれない。
寸前で救われた。
当時の自分にとって呪いの言葉でしかなかった「貴族」のご令嬢。
まさか雪に埋もれた浮浪児、自らが足蹴にしたソレが自分の異母兄だったとは思いもよらなかった事だろう。もっとも、そんな事は自分もまた後から知った事だったが。
あの小さな暴君、その無茶ぶりもまた懐かしく思う。
「……先生、瀬流彦(せるひこ)先生、急にぼうっとしてどうかしたですか」
「ああ、ちょっと睡眠不足が祟っただけです。新田先生には内緒にしておきますから早いところ運ぶとしましょう。綾瀬さんはバッグなど持ち物をお願いします」
「はいです」
瀬流彦は束の間の現実逃避を諦め、酒の臭いのする生徒達を抱えてバスに運び込むのだった。誰もこんな稚拙な……いや意表をついた手段でもって攪乱してくるとは思わないだろう。その一点についてはとても見事だったのかもしれない。これもまた不可抗力……だろうか。とはいえ、こんな事でせっかくの修学旅行が中止されてしまうのはさすがに可哀想だった。
新田先生は先の方で源先生と一緒にいるはず。しかし、修学旅行初日にしてこの騒ぎ……しかもその前のカエル騒動といい予想外の悪戯とも言える妨害工作、頭痛を感じざるを得ないものだった。
「前途多難ですねえ……」
くしゃりと自分の茶色の髪をかき混ぜ、瀬流彦はため息を吐いた。
かつての自分が今の自分を見たら信じられない気持ちになるだろう。まさか自分が教師などという人を導くような事をしているとは思いもよらなかったに違いない。
そして今は……笑えるのだ。作り笑いではなく。あの雪に埋もれた聖都がひどく遠いものに思える。
自分が変わった理由は何だったのだろうか。色々思いつく。
存外、麻帆良の空気に当てられた、そんな単純な事かもしれなかった。
◇
1995年春。
例年より少し早く開花した桜の下を瀬流彦は歩いていた。
まだ早朝と言って良い時間であり、すれ違う人も朝早くの散歩か、ジョギングをしている人、あるいは部活の朝練だろうか、ジャージ姿の中学生達が掛け声をあげながら集団で走っていく。
『ピコリン、ピコリンちんたら歩いてないで早く行こうよ、ハリーハリー!』
そんな声が頭の中に直接届いた。瀬流彦は数年前に助けたこの喧しい妖精を胸ポケットからつまみ上げる。
「プーカ、あなたはフェアリーでしょう?」
『そーだけどー?』
使い魔契約なんてものを交わしている、念話も可能だが、今は周囲に誰も居ないので普通に語りかけていた。つまみあげているといっても、瀬流彦が主だからこそ見えるというだけで、一般人にはまず見えない存在だった。今の自分はさぞかし電波を受信してしまった怪しい人間に見られるのだろうな、とふと思う。
「妖精なら自然霊の一種なわけですし、こうした綺麗な花の咲き誇る中で何か感じ入るとかそういう心はないんですか?」
『あるよ、ある! ふわふわしてわくわくして、皆咲いてるから私も咲く! って感じ。だからほらピコリン、動こう! 動こう!』
蝶のようにも見える羽根をぱたぱたと忙しなく動かし、プーカは空中でステップを踏んだ。人間ではありえない色、白い小さな肢体が跳ねる。若草色の長い髪とドレスがふわふわ舞った。
満開の桜の中だからこその陽気に影響されているらしい。
春ってやつですねえ……などと思いながら、静かにこの桜の美しさを楽しむのは無理だと諦めた。人が来る気配を感じ、そろそろ危ないかとプーカを制服の内側のポケットに招き入れる。一般人以外にも感じ取られにくい妖精ではあるが、念のためだ。
麻帆良国際大付属高等学校。瀬流彦はつい先日から通い始めたばかりの一年生である。
実家、熊野の田舎から出てきた時は、駅から降りた際の麻帆良学園、その異様な広さにとてつもなく、そう言葉を無くして驚いたものだった。
都会は凄い。その一言である。
様々な人が集まるという所を見ればきっとこれほど多種多様な人間が一カ所に集中した場所もないのでは、と思ってしまう。
母の薦めるがままに来た学校だったが……きっとここなら進みたいどんな道にも進む事ができるだろう。
父と母がそうであったように「魔法使い」なんて道でさえも。
ざあ、と吹いた風が桜の花びらを舞わせ、瀬流彦の髪を揺らした。
◇
人と付き合うのは苦手だった。
今に始まった事ではない。
今生が始まる前、あの雪の都では少ない食べ物を巡って始終子供達は争っていた。最後には徒党を組んだ方が勝つ。そんな大原則を教えられたのもその時期である。ただ、自分はその徒党に入って行く事はできなかった。母の「貴族」であれという言葉に縛られていたから。
ヴァンディミオン家に仕えるようになってからもそれは変わらない。他人は自分を「如才ない」と言ってくれるが、礼儀の付き合い以上に人と言葉を交わした事が果たしてあっただろうか。自らの弱い部分をさらけ出し、背中を支え合うような関係の人が居ただろうか。
孤独だった。それは物心ついた時からそうであり、だからこそ同じ臭いをかぎ取ったのかもしれない。あのお嬢様は。
そしてそれを今になっても引きずっている自分には呆れる他ない。
瀬流彦はクラスではいつしか空気のような存在となっている。
小学校からそうだった。周囲に違和感なく溶け込んでしまえるが、根本的に同級生とはズレている。
あんな血生臭い記憶があるのでは当たり前かもしれないが、言い訳にもならない。
(まったく、母さんにも申し訳が立たないですねこれは)
授業を真面目に受けている風を装いながら小さく嘆息した。息子になかなか友達ができない事を心配していたのだ。
瀬流彦は今の母にはとても複雑な思いがある。かつての……自分が生まれ直す前の母にあんな末路を辿らせてしまった自分、その罪悪感は未だに残り燻っている。今の自分の母親は幸せになって貰いたかった。
今生の母とて、その人生は穏やかなものとは言えない。
高校を出て町で働いている時、悪い魔法使いとやらに攫われてしまったらしい。魔法世界というところに連れていかれ、そこで連合に所属していた父に助けられそのまま結婚したのだとか。
その父も先の大戦で亡くなり、物心つかない子供を抱いて故郷たる熊野の山村に帰ったのだ。幸い遺族に対する補償もあったため、お金には困らなかったが、若くしてどこかにふらりと行方をくらませ、帰ったら子供連れで夫は死没。そんな女性に田舎の閉鎖的なコミュニティはあまり良い目を向けてくれない。幼い瀬流彦もそれは常々感じ取っていた。
夜、子供に聞こえないよう、声を殺して泣く母を目にした事も一度や二度ではない。
思えば魔法を教えてなんて願うようになったのも、母の寂しさをちょっとでも慰めようと子供ながらに考えた事ではなかっただろうか。
「私もあの人からすればあまり出来の良い生徒ではなかったのだけど……」
そうはにかみながらも母は父に教わったという魔法についての知識を瀬流彦に教えた。今や遺品とも言える魔法の基礎についての教本があったのもまた幸いだったのだろう。
瀬流彦は物覚えの良い生徒ではあったが、魔法使いとして見ればそれは必ずしも出来が良いとは言えないものだった。ひどく偏っているのだ。
基本の基本、杖の先に火を灯す事さえ半年を要したと言うのに、風を起こす事はただの一度の失敗もなかった。
数年が経ち、もう基礎の教本では覚える事も無くなってしまった頃だった。
記憶が混乱した。
その時期の、瀬流彦の主観からした時間の経過はとても言い表せない。
引き延ばされたかと思えば凝縮する。雪の中で埋もれている自分を思い出したかと思えば、杖を振って頑張って炎を出そうとしている自分と重なったり、今の自分の手より遙かに大きい手で剣を研ぎ、油を塗り……我に返り自分の小さな手を見て違和感を覚える。そんな事が数年続いた。
ある日突然記憶が蘇った、そういうものならばまだ良かったかもしれない。どこからどこまでがかつての自分の記憶かはっきり判るのだから。
段々、段々とすり込まれるような記憶、毎日毎日少しづつ自分が自分でない人間になっていく感覚。
頭の中で整理がついてしまえば、結局瀬流彦は瀬流彦でしかない。かつての自分に飲まれるような事はなかったわけだが……いや、かつての自分と思えるようになった事こそがもしかしたら一番大きな変化だったのかもしれない。
一見、ちょっと前に流行ったらしいミサンガのようにも見える、手首に巻いた組み紐を撫でる。
母が時間をかけて作ったもので、魔力を抑え、魔法を使えないようにする効果がある魔法具だった。
瀬流彦がこの学校に来る際にもらったものだ。
「これで魔法は使えなくなるけど、魔法使いにも感知されにくくなるからね。彼等を十分に見て知った上で関わりを持ちたくないなら、卒業するまでつけたままでいること。いいわね? あの世界に関わろうと、どんな道を選ぼうと母さんは文句言わないから、自分の好きな事をやりなさい」
そう言って送り出してくれた母は少々子供に甘すぎるかもしれない。ただ、瀬流彦からすれば……かつての自分からすれば、罪の意識を覚えてしまうくらい良い母親だった。
この学校、麻帆良学園の裏の事情もまた教えてくれた。そちらの世界に関係のある人は当然知っているような知識程度とは自分でも言っていたのだが。
かつては自らも攫われた事があるという経験からきているのかもしれない。魔法関係に関与するなら慎重に……との事だった。
幸い、使い魔契約を交わしているフェアリーのプーカは風妖精だけに隠れようとすれば非常に隠密性が高く、滅多に気付かれるものではない。また本来ならこういう半分が魔力の塊のような存在にとって、主人からの魔力供給が限りなく細くなった状態はよろしくないはずなのだが、この地では居るだけで大気から魔力を得られるようで、その点でも一つほっとしていた。
瀬流彦の方から首を突っ込んだりするのでなければ、そうそう接点も生まれる事もなく──
一般生徒として学問に精を出すこと一年が過ぎた。
都会での生活にも慣れ、パソコンなども扱うようになり、せっかくだからかつての世界には無かったこの便利な機器たち、その専門の方にでも向かうべきかと朧げに考え始めた頃の事だった。プーカが夜の散歩中、ひどく慌てた念話をよこしてきたのは。
◇
かつて、闇の福音とも不死の魔法使いとも、禍音の使徒とも童姿の闇の魔王とも、胃もたれしそうな程重厚な名前で呼ばれていた吸血鬼が居た。
あらゆる障害を退け、600年を生き、魔法世界の者にとっては夜更かしする子供を寝かしつける脅し文句としては一番ポピュラーな存在、それほどに広く知れ渡り、恐怖されている。
そんな恐怖の代名詞たる彼女は不思議な虚脱状態にあった。
ナギ・スプリングフィールドという恒星。その焼け付くような眩しい光に誘われこの地まで来た。
600年の時を経てもあれほどの眩しい存在には出会った事が無かった。
だからこそ……だからこそ、酷く裏切られた気持ちになった。
口で言う程彼女は登校地獄なんてふざけた魔法により縛られている事を負担に思っているわけではない。今まで過ごした時を思えばわずか数年。須臾の間と言っても良いだろう。
確かに学校生活は楽しめた。人としてのわずかな3年。順当に高校にでも進み、興味のある分野が見つかれば……そう例えばこのところ日進月歩を遂げている医学など面白そうかもしれない、自らが不死なだけに。大学にでも進み、彼の言った通り光に生きる道もあるいはあったのかもしれない。
だが、登校地獄なんてふざけた魔法。何より、魔法が壊れているのか卒業が出来ず、その呪いにより同級生からは忘れ去られた時、愕然とした。一年、また一年と一向にナギが現れない事に不満は募り、苛立ちは増す。
この地に来て、五年も経った頃だろか。
ナギ・スプリングフィールドが死んだ。そんな噂が流れた。学園長に聞きに行けば、何やら隠し事もありそうだったが、迂遠な言い方でナギの死亡を告げられた。
そんな可能性も考えなかったわけではない。人の死など嫌というほど見てきた。どんな英雄だって死は避けられない。
自分を置いて先に逝ってしまう、そんな事になったらどれほど自分は荒れ狂うだろうかと思った事もある。
不思議と何も感じなかった。
ただ、虚無感は一層深くなり、夜空の星を見上げ、小さく息を吐いた。またかと思った。
その夜流した一筋の涙。それが彼女の憧れた光、それへの鎮魂の儀式だった。
それからさらに3年が経っていた。
投稿地獄なんてふざけた呪いを解こうとする気力もなく、この地の魔法先生や生徒には恐れ、疎まれながらも惰性で警備の仕事などは受け持っていた。
最初の同級生達は卒業と共に、この壊れた呪いにより自分の事をすっかり忘れてしまっている。思い出す様子はないようだ。彼等の卒業後の活躍、例えば手芸で賞をとっただの、進学した先の学校の部活動でオリンピックの強化選手に選ばれただの、ティーンズ向けの小説を書き、学生ながらデビューを飾った事だの……そんな事をふと目にする度にかすかに唇が綻ぶ。
今を生きる者達が輝くのはやはり美しい。そう思ってしまうのは死者の在り方なのだろう。そうふと考えついてしまい、妙なおかしみも湧く。
そう……忘れていた。彼等と共に過ごすうちに忘れてしまっていた。自分は極めつけの死者であった。
孤独だった。多数の人の暮らす地の中、騒がしい級友に囲まれ、他愛もない事を毎日聞きながらなお、エヴァンジェリンは孤独だった。
存在するのがいささか面倒になってきていたのかもしれない。
連絡を受け、指定の場所に着き、誰かが召還した在来の鬼どもを駆逐していた時の事だった。
「ガハ……ガハハ、掴まえたぞ西洋の小さな鬼よ、その細い腕を、細い足をちぎりとり、喰ろうてくれようか」
迂闊だったのだろう。本来ならばまず有り得ないミス。
倒し損ねた大鬼に足を掴まれ、振り回され、森の中の木に叩きつけられた。腐っても鬼の力だ。巨木と言ってもいい木がめきめきと音を立てへし折れた。この木も数百年生きたのだろうに、くだらぬ戦いに巻き込まれて難儀な事だ。エヴァンジェリンの頭をふとそんな場違いな思いがよぎる。
どうという事もない。封印され弱っている今でもこんな単純力バカを何とかするだけならやり方なぞ幾らでもある。ただ……
「……億劫だな」
気力が湧かなかった。立ち上がるのも面倒になっていた。このままばらばらにされ、噛み千切られ、鬼の胃袋にでも入ってしまえばあるいは死んだものと見なされて呪いが解けるんじゃないか? ふと、そんな馬鹿馬鹿しい思考も浮かんでくる。
「血吸いの鬼は確か串刺しが習わしだったかのう」
大鬼が折れた枝、子供の腕ほどもあるそれを持ち上げ、仰向けに倒れたままのエヴァンジェリンに狙いを付ける。勢いを付けるように大きく振りかぶった。
──風が吹いた。
物理的な風ではない。精霊魔法による、魔法的な概念が通り抜けた後、風が巻き起こる……そんな独特な現象。
杭のような枝を振りかぶった鬼の腕がその勢いのまま後ろに放物線を描いて落ちた。
信じられぬ様子で鬼は首を回し、落ちた腕を見ようとし、首がずれた。
「が……が……ぷぼ」
声にならぬ声を出し、鬼の首が落ち、体がゆっくり傾いで、後ろに倒れ込む。
どうやらエヴァンジェリンは助かったようだった。それもどうでも良かったのだが。一連の戦闘に驚いてか虫なども鳴き止んでいる。その妙に静謐な空間に小さくため息を吐いた。
仰向けでぼうとしているエヴァンジェリンの様子を確かめにか、人が小走りに近寄ってくる気配がした。この疎まれている我が身を助けるとはとんだ物好きも居たものだ。タカミチなら判らないでもないが、奴は今海外に行っているはず。そう思い少しの好奇心から、その人影を見ようと首を回す。
糸目の少年だった。あまり目が細くて眠っているようにも見えてしまう。どこか日本人離れした容姿の中肉中背の少年。感じる魔力は並より上だがそれほどでもない。多分事情を知らない新参の魔法生徒なのだろう。
そう判断したエヴァンジェリンは次の瞬間にはその少年への興味を失っていた。だが……
「け、怪我はありませんか?」
どこか慌てた様子……まるで親しいものが傷つけられたかのような慌てた口調でそう聞いてきた。
しかし、この身が怪我だと?
「くく……」
思わず笑ってしまい、少年を憮然とさせてしまう。
「格好良い登場でもしたかったのか坊や」
少年もそんな台詞を投げかけられるとは思っていなかったのだろう。憮然とした顔が唖然となった。
気を取り直すように、魔法の発動体なのだろう。飾り気の無い黒壇の短杖でとんとんと肩を叩く。
「……いえ、そのですね。麻帆良は魔法使いが大勢居るはずなのに何で応援が駆けつけないのかな……と。気を揉みながら隠れて見ていたのですが」
ふむ、とエヴァンジェリンは口の中で呟く。あまり魔法使いの顔を覚えているわけではないが、こんな特徴的な新参魔法生徒は居ただろうか? いや、つまりはモグリ。麻帆良に通いながらも魔法使いであることは隠していたのだろう。苦笑が一つ湧いて出た。
「ならば残念だったな、私を助けなければ見つからなかったものを」
複数の魔力持ちの人間が近づく感じがする。今になって麻帆良の魔法使い達が駆けつける様だった。この少年の魔力反応でも感知したのだろう。
少年は妙に疲れたため息を吐くと、誰に言っているのか一言、困ったものですと呟いた。
◇
麻帆良学園本校女子中等部校舎、麻帆良学園の最奥にある建物の中を瀬流彦は歩いていた。
周りは明らかに魔法使いらしい教師や生徒で囲まれている。最初に杖を預けてしまったのが良かったのだろう、極端に酷い扱いは受けず、拘束もされていない。
瀬流彦からすれば夕飯でも食べに行こうと思っていたら、プーカが突然慌てて知らせてきたのである。でかくて強くて凄いやつらと、少女が戦ってるなどと。これまでも、麻帆良の侵入者を排除している魔法使いの事は2、3度見かけた事がある。多分それだと思うがどうも聞いてみる限り1人で対応しているものらしい。
「単騎ですか……」
何となく思い出してしまう。あの黒い剣士、鉄塊としか言い様のない大剣でもって1人化け物達を蹴散らす姿。
場所は大体判る、男子寮から少し外れた郊外、森の中のようだった。
父の形見の杖。黒壇のシンプルなものだが、それを持って駆けつけ、様子を伺った、小柄な影が鬼と戦っている。
魔法使いのようだが、木に叩きつけられ、ダメージを負っているのか動かない。
まさか、と思った。この学園はかなり魔法使いの数が多い。確認できただけでも相当数になる。1人では動いていないはず。きっとあれは油断させるための囮ではないか、そんな事も一瞬頭に浮かんだ。
だが、鬼が折れた枝、枝と言ってもそれは杭のように太く、折れ口は鋭く、いかにも武器になりそうだ。それを持ち上げ……
瀬流彦は目を剥いた。考える前に動いていた。
魔力を抑えている紐を引きちぎり、杖に魔力を通す。精霊に働きかけるには一言で良かった。
「風よ(ウェンテ)」
──言い訳をするなら……あの姿。ハニーブロンドの軽いウェーブの入った髪。小柄な身体。いかにも貴族然とした昂然とした顔。
かつて従者として付き従ったファルネーゼ様の幼少の頃が被ってしまったのは否定できなかった。
当然ながら、まったく違う感じの人ではあったのだが。
衝動で動いてしまうなどとは……まったく自分にも困ったものだった。
「さて、麻帆良国際大付属高等学校2年B組、早川瀬流彦君。夜分まで引き留めてすまんが、少々聞かせてもらってもらいたいのじゃが、良いかのう?」
ぬらりひょんなどとあだ名もつけられたりしている麻帆良の名物学園長に聞かれ、瀬流彦は返事の代わりに頷いた。気の抜けるような念話を丁度交わしていたのだ。
『プーカ、あまり遠くまで出歩いちゃ駄目ですよ』
『はいはいーっと、ぬらりひょんが本当にぬらりひょんだったのか後で教えてね』
妖精にとってこの建物はちょっと近づきにくいらしい。もしかしたら結界か何か、守りのために敷いているのかもしれなかった。
「ふむ、では聞かせて貰いたいのじゃが、君が魔法使いである事は判ったが、何故隠しておったのかの?」
「はあ、いえ。これと言った理由でもないのですが、田舎出なもので十分に状況を見てから、とは思っておりました」
瀬流彦はとぼけた様子で鼻を掻いた。
「確かに魔法関係に触れる縁があるような出身地でもないのう、魔法の事についてはご両……いや、お母君から教わったのもので良いのかの? お父君は亡くなられておるようじゃの、こちらも魔法関係者であるなら、詳細を教えてもらいたいのじゃが」
「ええと、はい。そうです魔法は母に教わりました。父については物心ついてない時に居なくなってしまったので、母から聞いた事になりますが。ウィル・フェネグリークといって連合所属の魔法使いであったそうです。先の大戦で亡くなったらしく、父の係累も居なかったとかで、母は幼い僕を連れて故郷に戻ったという事のようですね」
学園長は少し驚いたように目を開いた。
「ほ、随分素直に喋ってくれるの、隠しておったのじゃからもう少し警戒されておるものだと思っておったよ」
「いえ、ですからこれと言った理由でもないんです。自分の先行き、魔法に関係したものを含めて考えたほうが良いのかどうか迷っていただけなので。あ、それと寮の僕の部屋の机、上から2番目の引き出しに母に持たされた麻帆良への紹介状が入ってます。封印は解いてないので、身の証となると思います」
学園長が目配せすると魔法先生らしき黒人の男性が頷き、その場を後にした。確認のためだろう。
だが、ここまでの会話でそう怪しい部分はないし、瀬流彦もまた不自然な緊張などはしていない。連合所属の父というところで一瞬メガロメセンブリアの手の者かという思考が学園長の脳裏をよぎったが、それこそバカ正直に話したりはしないだろう。
「……ふん、迷っていたなら徹底して迷うべきだったな。何も知らぬまま巻き込まれたのと違い、お前は目を塞ぎ耳を塞ぐ事ができたのだ。放っておけば良かったものを」
エヴァンジェリンが窓の外を見ながらそう言った。
鬼に倒されかけ、助けられたものの言葉ではない。それに何よりそれは偉大な魔法使い(マギステル・マギ)を目指す魔法先生、生徒の理想とはかけ離れていた。必然目が厳しくなり、学園長室の空気が少し緊張する。
そんな空気の意味が判らず、瀬流彦は不思議そうに首をひねり言った。
「目の前で女の子が殺されかけて、何とかできそうな手段があったら普通動くでしょう」
部屋の空気が固まった。それこそびしりと音が鳴ったかのように。
かろうじて動いた魔法先生の1人が「闇の福音だぞそいつは……」と親切にも瀬流彦に言う。
「闇の福音……」
噛みしめるように瀬流彦は呟き、少し眉を顰めうつむいた。
その姿をちらりと目の端で捉え、エヴァンジェリンはそれ見た事かと皮肉気に笑う。
「すいません、どうやら知識が無いようで……闇の福音って何でしょう」
瀬流彦は頭を掻き言った。部屋の緊張した空気が雲散霧消する。力が抜け、エヴァンジェリンは皮肉気な笑いのまま窓に額をぶつけた。魔法先生の誰かが、肩をすくめてやれやれだなあとぼやいていた。
身元の証明をし、魔法の能力的な軽い検査を終え、瀬流彦は魔法生徒として登録される事になった。
麻帆良の魔法関係の組織図、規約書、連絡網などの書類を貰い退室する。
どうやら瀬流彦が思っていた以上にここの組織は「優しい」らしい。規約を読めば判るが、魔法の使用に際しては厳重な注意事項があるものの、所属している魔法使いが麻帆良のために働くという義務は課せられていないようで、あくまで力を持った存在を管理しておくという側面が強いもののようだった。もちろんそれは平時の話なのだろうが。
先の襲撃のような際には普段から警備も兼任している魔法先生、魔法生徒がそれに当たるようで、戦力としては大概の事はそれで十分らしい。場合によっては戦闘向きの魔法使いに臨時警備を依頼する、という事もあるようだ。その場合には臨時報酬がでるようで、計算式もまた細かく載っている。
ふむふむと読みながら校舎を出る。一緒にもらった紙袋にしまい、時計を見ればさすがに遅い時間だった。満点の星空が晴れ渡っている事を感じさせる。月が柔らかい光を落としていた。
まだ終電が行ってしまう時間ではないものの、何となく足早に駅に向かって歩き出した。普段来慣れない女子中の校舎という事もある。少々の恥ずかしさというものもまた感じているのだった。
その瀬流彦の後ろをエヴァンジェリンもまた何となく歩いていた。
少しの興味が湧いている。ああは言ったものの、この少年が自分に駆け寄った時の慌てた様子は何だったのか。そう、目の前で危ないから助けたというのも嘘ではないだろう。だが、全てを話しているわけでもない。その謎解きもまた暇つぶし程度にはなるだろうか。
それに、助けられた形にはなったがあれを貸しと思われるのも少々業腹でもある。
ふむ、と少し考えた。
歩く。
歩く。
……判断力もどうやら落ちているようだった。それもどうこうする気になれず、まあ、どうでもよい事かと瀬流彦に声をかけ、止まらせた。
「借りを作るのも貸しだと思われるのも性に合わん。何か望みがあるなら言え」
瀬流彦は悩んだ。ぶしつけに呼び止められ、いきなりその台詞である。闇の福音について学園長から話は聞いていた。600年ものの生きる伝説、闇の福音、ダークエヴァンジェルとも、不死の魔法使いと書いてマガ・ノスフェラトゥとも人形使いと書いてドール・マスターとも呼ばれる存在。名前の仰々しさに負けないくらいに数々の伝説、悪行を残し600万ドルの賞金首、最強と言っても良い魔法使い。ただ、今は封印されているらしく、そう威圧感も感じられない。実際には凄まじい力量でもあるのだろう。
そんな存在からすれば瀬流彦のようなぽっと出の若輩魔法使いに助けられたというのもまた面白くないのかもしれない。いや、助けたというのもまたおこがましいか、鬼にやられそうだった状況も狙ったものだった可能性がある。
(そして望みは? と来ましたか……)
特にないというのもこの場合、力量を疑っている事になって失礼になってしまうのだろうか?
瀬流彦が悩んでいると、エヴァンジェリンはかすかに身震いした。
「おい、忘れていたが……若い男の異常性欲を私で満たそうというのはさすがに無しだ」
がくりと肩の力が抜ける。
「それは有り得ないです……」
「むう……それはそれで失礼な話だな」
緊張感がどこかに行ってしまうと、それこそ健康な若い男の胃袋がぐうと音を立てた。
そういえば、夕食を食べに行こうとしていたのだった、と瀬流彦は腹をさする。ぴんと一つ思いついた。
「じゃあ夕食を」
「ふむ……? 構わんがそんなもので良いのか?」
「作りますので是非食べてってください」
こけた。
精々坊やの食べた事のない高級店に連れて行き肝を冷やさせてやろう、などと考え歩きだそうとした拍子だったのだ。
「普通逆だろう、何を考えているんだお前は」
「……ここ1年ほど料理していなかったもので腕が落ちてないか心配なんです」
元々瀬流彦は料理が嫌いではない。ただそれはどちらかというと趣味に近いものがある。人に出す料理なら作りもするが、自分1人の賄いであるなら割とどうでも良く、外食で済ませてしまっていたのだった。
「あ……」
「今度は何だ」
「いえ、寮の設備が微妙だったのを思い出しまして」
そう、寮そのものが昔作られたものだというのもあるが、男子寮では自炊する事を考えられていない。湯沸かしが精々の電気コンロと流し台ぐらいでしかないのだ。
さて、どうしようかとゆっくり歩きながら顎に手を当て悩んでいると、エヴァンジェリンが大きくため息を吐いた。
「……もういい、うちに来い。一軒家だから設備はある。しばらく自炊などしていなかったから材料などは無いが。道すがら買って行け。支払いは持つ、プライドが許さん」
そう言い、駅とは別の方向に歩き出した。
後ろから付いてくる飄々とした少年の事を考え、エヴァンジェリンは思う。それにしても変わった奴だ、と。自分にいつの間にかついて回った悪行、風評、賞金の事など聞いてもまるで態度が変わらない。よほどの馬鹿か、あるいは肝でも据わっているのか……そんな大悪人の住み処に招かれたというのに躊躇もしない。
(あるいはとてつもない場数、それも修羅場でもくぐり抜けてきたか?)
後ろから小さく響く明らかに訓練したものらしい一定の足音。突拍子もない妄想が浮かんだのはそんなものが気に留まってしまったからだろう。
学園長は食わせものだ。あの学園長室、嘘や偽りをつけない「場」が形成されている。無論知っている者ならばレジストもできようが……つまり、あの少年に学園長が確認した経歴にも嘘は無いのだろう。正真正銘16歳のひよっこのはずだ。武道でも囓っているだけだろう。
「くく……私もやきが回ったものだ」
小さな声で自嘲した。
春の夜道を小さな吸血鬼に導かれながら、瀬流彦はそんな小さな声も聞いていた。何かは判らないがこういう時に「何か?」などと声を掛けるほど無謀ではない。
2人は無言で歩いた。
にんにくが苦手なのを言い忘れたエヴァンジェリンが悶絶する事になる2時間ほど前の事である。
それが瀬流彦とエヴァンジェリン2人の小さく奇妙な友誼の始まりだった。