影武者華琳様   作:柚子餅

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8.『拓実、荀彧を模倣するのこと』(※)

 

 公には出来ないが拓実が華琳の下で働くことが決まり、日付が変わっての翌日のこと。拓実の性別が判明して盛大な混乱に見舞われた桂花の部屋近くでは、またも混乱と表する光景があった。

 

「その格好は、本当どういうわけよ? ねぇ、もしかして、私を馬鹿にしているの? しているんでしょ? 華琳様より仰せつかった政務の合間を縫って、こうして時間を作っている私に対して、わざわざ喧嘩を売りに来ているのでしょう」

「そんなことあるわけないでしょ。馬鹿じゃないんだから、少しは自分の頭で考えなさいよ。まぁ、それが出来ないのだからこのような愚問を口にしているのでしょうけど。まったく華琳様の軍師が聞いて呆れるわ」

 

 言い合う猫耳フードと、猫耳フード。口やかましく上げられる二人の声は、どちらも頭に響くように甲高い。背の丈、髪色こそ僅かに違うが、着ている衣服はまったく同じものだ。

 

「何ですってぇ!? この私が華琳様より直々に賜った軍師の任に文句をつけるだなんて、どういう了見よ! 聞き捨てがならないわ!」

「はん、それならいまいち頭の回転が鈍い軍師様に言わせてもらうけれど、私に華琳様と同じ格好をして城内をうろつけとでも言うつもりなの? 軍師だというならば、有事以外は他の人間を真似させておいた方が正体の露見を防げる、そのぐらいのことは言われずとも推察してみせなさいよ」

「それぐらいわかっているわよっ。だからって、何で拓実が私の格好と演技をして、私の教えを受けに来るのよっ! おかしいでしょうがっ! ああっもう! こいつの演技、似ているのがわかってしまうから余計に腹が立つっ!」

 

 傍から見れば被っているフードもあって同一人物が罵り合っているようにしか見えない。地団駄を踏む桂花と、そんな彼女を鼻で笑っている拓実であった。

 

 

 拓実と桂花が和解した後、秋蘭から雇用条件の確認や城内外での注意事項の伝達を受けているうちに夕暮れになってしまった。みだりに出歩いて人目についてはいけないということで、その日は宛がわれた自室に(こも)り、桂花が持ってきてくれた軽食の点心を摘みつつも彼女に謁見の時の話を聞かせてやっていたのだ。

 そうして夜も更けてそろそろ就寝するかという頃になると、華琳自らが桂花に備蓄の報告をするようにと呼びにきた。どうやらそれは(ねや)への誘いでもあったらしく、拓実も一緒にと誘われたもののそれに関しては一切の固辞をした。これまでそういった経験がなかったし、華琳のサドっ気は気の弱い拓実を尻込みさせるに充分なものだったのだ。うっとりした顔の桂花が華琳の寝所に連れて行かれるのを見送った後、何ともいえない気持ちで床に就いたのである。

 

 明けての明朝。謁見の間に赴いた拓実は妙に艶々としている華琳より、午前のうちは桂花の部屋で文字を覚え、政務についてを学ぶようにと命を出される。

 更に、城内外においては朝晩問わずに桂花の演技をするようにと言い渡された。拓実が華琳の姿でうろついていては、それをいくら隠そうとしても『曹孟徳は二人いるのかもしれない』などという噂が立つのは避けられない。しかし増えるのが桂花であるならば噂になったところで困るのは桂花だけであり、それほどには重大なことにはならないとのことである。充分大事になるのではないかとは思ったが、代案も浮かばない拓実はおとなしく口をつぐむことにした。

 ちなみに、午後には春蘭指導による武術の稽古を言いつけられているが、そっちについてはどうしても悲惨な未来しか浮かんでこないので拓実は極力考えないようにしている。

 

 その二つの命令を受けた拓実は部屋へと戻り、早速、秋蘭が買ってきた桂花のサイズ違いの服に袖を通すことにした。

 着替え終えてから春蘭を物真似した時のように声帯模写をしてみると、かなりの手応えがあった。華琳と桂花の声質が然程に離れていなかったというのもあって、拓実本人が大丈夫だろうと思える出来である。

 さらには表情も素の拓実の目つきはどうやら桂花のそれと共通点が多いようである。いつもより口元の動きを大きくすると、桂花に似通ったものになった。最後に髪をほどいて少し手を加えてやれば、あっという間に金髪になっている桂花が出来上がる。

 顔立ちだけだとそれほどではないが、髪型と格好を揃え、表情の作り方を限りなく近づけていた結果、遠目なら見間違えるぐらいの完成度になっている。

 

 

 拓実が桂花の部屋へ訪れたところ、出迎えた桂花の顔は満面の笑顔だった。拓実がくるのを今か今かと待っていたのだろう、部屋には香を焚いて、机の上には茶の用意までされてあった。

 しかしその相手が華琳の姿ではなく自身を真似た拓実であると知るや、咲き誇る大輪の花のようだった笑顔は、花に群がる虫を唾棄するような不機嫌なものへ入れ替えられる。次いで「私が尊敬しているのは華琳様と、華琳様の姿をしている拓実様だけ。それ以外の拓実の姿であれば敬うつもりは欠片もないから」と拓実の目の前で宣言したのである。既にこの時、桂花の呼称からは『様』が取れていた。

 

 しかし、考えずともわかるが、桂花がそんな辛辣な言葉を浴びせた相手というのは、桂花に扮する拓実である。昨日の一件で思考傾向と性格を把握していた拓実は、持ち前の演技力で桂花本人であるかのような毒舌を返したのだ。もちろん、それに対して本家本元の桂花が黙っている筈もない。

 頭脳労働を主とする桂花と拓実は取っ組み合うことはなかったが、次第に言い合いは泥仕合になり、二人は冒頭のようなやり取りをすることになっていたのだった。

 

 

 

 

 流石に部屋の入り口で言い合いなどしては目立つから、桂花はとりあえず拓実の袖を引き、部屋の中に引きずり込んだ。何とか部屋の中へと拓実を押し込んだ桂花は、拓実の前でこれ見よがしにため息を吐いてみせる。

 

「はぁ……。男に真似されているというのに、違和感がまったくないってどういうことよ。華琳様もこんなお気持ちだったのかしら。だいたい、私の下に来るのなら秋蘭や春蘭の演技をして来るという選択肢もあったでしょうに。何が楽しくて自分の姿をした者に知識を授けてやらなければならないのよ」

「桂花が自分で春蘭や秋蘭の仮装をした状態を想像してみなさいよ。絶対的に色々なところが足りていないから」

 

 間髪も入れない拓実のその言葉に、桂花は目を剥いた。あの姉妹と比べて足りないものと言われ、真っ先に思い当たった己の胸元に手を当てる。

 

「は、はぁ!? それは私に、胸がないって言っているの!?」

「ふん。あんた自身がそう思うならそうなんでしょ。だいたい身長だって、力だって全然足りないじゃない。自身の戦力把握は戦の基本だし、目を背けたいことを認めるのは問題解決への第一歩となるもの。軍師であれば常日頃からそうしておくべきじゃないの?」

 

【挿絵表示】

 

「こ、こいつは、私の真似していることも許しがたいっていうのに、こんなにも好き放題言ってくれて! ……そうよ! 私の演技をしているというならば、何より汚らわしい男である自分のことはどう思っているのか聞いておきたいものね?」

 

 名案を思いついた、というようにニヤリと笑ってみせる桂花。だが、そんな問いをされた拓実はというと、きょとんとした顔で目の前の桂花を見ていた。

 

「そんなこと貴女自身が一番わかっていることだと思うのだけど、わざわざ私の口から聞きたいというのならまぁいいわ。言ってあげるわよ」

 

 拓実の口振りがおかしいことに気がついた桂花が首を傾げる。そんな桂花の様子に構うことなく、拓実は言葉を続けていく。

 

「内心では私――拓実は男なのだから死ねばいいと思うけど、そこは華琳様が言うから渋々我慢しているわ。ああ、華琳様の格好であれば話は別よ。あと今の格好でも汚らわしい男とは思えない容姿をしているから、流石に死ねとまでは思わないわね。でも、てっきり今日も華琳様のお姿で来てくれるものだと思っていたから楽しみにしていたのに、出てきたのは私の姿ででしょ? せっかく学を授けるという名目でお茶をしながらお話が出来ると思っていたのに、ほんとがっかりだわ」

 

 そこまで言われて、ようやく拓実が何を語っているのか気づいた桂花は顔を真っ赤にさせた。

 

「だ、誰が私の心情を推察して話せと言ったのよ! 馬鹿じゃないの!? 恥ずかしいから、今すぐやめなさいよ! 私は! あんたが男である事実を、私の演技をしている時はどう考えているかって訊いてるのよ!」

「何を言うかと思えば。そんなところは意識の外に決まってるじゃない」

「……はぁ? 意識の外ってどういう意味よ?」

 

 桂花には、拓実の言っている意味が理解できない。思わず胡乱げな目で拓実を見る。

 

「今の私は、拓実としての知識を持って桂花という役を演じているに過ぎないんだから拓実は拓実で、演技している私は私。その人物になりきって演技しているのだから別人であるという扱いなの。自分が男であるだなんていちいち考えているわけないでしょ。流石に拓実としての立場が危うくなりそうな時とか、拓実自身として我慢が利かなさそうな時は演技を中断してしまうけど、それ以外では極力なりきっているわよ」

「……こいつの『演技の才』、改めて聞くと本当にありえない。この目の前の女男を認めたくなんてないけど、華琳様が拓実を買っているのもわかる気がする」

 

 当然のように言ってのける拓実に、桂花は驚きを隠せない。才もそうだが、その磨いた技術もだ。この生きるのも難しい時代に、娯楽の一環である演劇をこうまで突き詰めようとするなど、理解が及ばない。芸人だってなりきろうなどとは考えないだろう。もっと人物の特徴を誇張したりして笑いを取ったりと、客が受ける方向に変えている。

 そういう意味で拓実は飛び抜けすぎていた。見方によっては、妖術、仙術の類と取られてもこれでは仕方がない。

 

「ところで、そろそろいい? 一刻も早く華琳様よりの命を果たして褒めていただきたいのだから、無駄な時間を使わせないでよ」

 

 不機嫌そうな顔を浮かべた拓実に、呆れた様子で見られていることに気づいた桂花は考えを中断する。

 

「わ、わかったわよ。私だってそれは同じですもの。早くあんたに一人前になってもらって、華琳様にその功績を褒めていただきたいもの。さて、それじゃあいったい何から……」

「文字の読み書きができないからそこからね。教材は秋蘭より預かってきているから、ほら。さっさと座って」

「なんですって? あんた、文字の読み書きも出来ないくせに、この荀文若に向かってあんな偉そうな口を利いていたわけ? 信じられない!」

「仕方がないじゃない! つい先日まで私、異国に居たんだから! 無知は罪ともいうけれど、それを学びに来ている人間に賢者が吐く言葉とは思えないわ!」

「ああ、もう! ああ言えばこう言う!」

 

 そうしてまた始まる言い争い、罵り合い。既に相当の時間を浪費しているというのに、二人は飽きずに言い合いを始めた。

 

 そんな言い合いを繰り返す中で、桂花は目の前の人物の株を加速度的に下げていた。もう少し下がれば、春蘭と並ぶ最安値を更新しそうである。

 弁が回ることは認める。その上で言葉の端々に知性を感じられ、相当の教育を受けていることもまた感じ取っていた。だが、それを打ち消して余りあるほどに口が悪い。加えて、桂花が返答をすぐさま返せずに言いよどんだ時の『してやったり』という表情といい、(かん)に障るものが多すぎた。

 ――こいつ、相当性格が悪いわ。しかも決して無能ではないから余計に性質が悪い。

 桂花がそのように思うまで時間はかからなかった。

 

 だがそう考えたのと同じくして、それが全て桂花自身に返ってくることにも気がついてしまった。拓実の演技の再現度は、華琳を真似ているのを見て知っている。完全とはいえないが、誰かと聞かれれば『華琳である』と答えざるを得ない程のものだ。ということは、この目の前でぎゃーぎゃーと小賢しく喚く拓実の姿は、そのまま周囲から見えている桂花の姿ということになってしまう。

 

 そう思ったら、拓実を口汚く罵り返してやろうという気はなくなっていた。急に言い返してこなくなった桂花のことを、拓実が「気味悪い」と言わんばかりの目で見てきたことには激昂しそうになったが、桂花は既のところで深呼吸し、気を取り直すことに成功する。

 華琳第一主義の桂花はそれ以外の人間などは有象無象だと思っているが、それでも桂花は少しばかり態度を改めることを決めた。少なくとも、今の桂花の演技をされたままでは、華琳の命を果たすまでに物凄く多くの時間をかけることになってしまう。

 それでなくとも、この拓実の姿が今の桂花であると突きつけられては流石に改善しなくてはなるまい。桂花から見てもあまりに歓迎できる人物像ではない。それどころか知らずに客観視させられ、危うくあの春蘭と同程度として並べてしまうところだったのである。

 本音を言えば、こんなのが自分であるとは断固として認めたくはなかったのだが、それも出来ない。『目を背けたいことを認めるのは問題解決への第一歩』、この言葉が桂花の逃げ道を塞いでいた。(しゃく)ではあったが、確かにもっともな言葉ではあった。

 

 

 

 

「年、季節、その下が月。次から人名で、続きが何をしたのか。そう、このくだりは前のところを指しているわけ。その後はそこを指した問題点ね。……何だ。思ったより読めるじゃない、あんた」

 

 拓実が解読した文章に解析を入れながら、思ったよりも仕事が少なくなりそうなことに桂花は笑みを浮かべる。

 てっきり、文字の読み方から意味、その全てを教えていかなければならないかと思って辟易していたが、拓実は間違いこそ多々あるものの提示した文章をある程度の文節に分けて読んで見せた。

 

「読むだけならね。崩した文字だとわからないけど、これはまだどんな字なのかわかるもの。こういった文にまったく触れてこなかったというわけではないけど、やっぱり書くのは時間がかかりそうだわ。ああ、意外だったけれど、あなたの教え方も悪くはなかったわよ」

 

 先ほどよりも言葉の角を落としながら、拓実は桂花に微笑んでみせた。

 

 桂花から退いた言い争いの後、桂花は挑発も侮蔑することもそれほどにはしなくなっていた。そして懇切丁寧に拓実に文字を教えてくれている。

 拓実はそこそこ桂花の人柄を把握していたつもりだったが、どうやら思い違いをしていたのではないかと考え直していた。口では華琳第一だと言いながらも、他者に対しても世話好きで優しい子なのだろうと、桂花への認識を改めたのである。自然と拓実が演じる桂花の人柄も、桂花の変化に引っ張られるように『素直にはなれないけど他者を放っておけない少女』といったものに変わっている。

 そうしてお互いがつっかかることがなくなると、出会い頭の罵り合いが嘘のように穏やかな会話をすることが出来た。変化した桂花の態度が、実は反省して改めていたものなどとは拓実は知る由もなかったが、桂花のその変化は両者にとっての益となっていた。

 

「ふん。ま、飲み込みが悪いわけでもなし。一月も続ければそこそこにはなるでしょ。それより拓実、旅をしていると言っていたけれど、出身はどこなのよ? 似た文字を使う文化であるのなら、そう離れたところでもないのでしょうけど」

「出身……ここから東にある、島国かしら」

「へぇ。東の島国というと、倭国と呼ばれている辺りかしら。大陸から向かって行った人間もいるらしいけど詳しくは知らないわね。ってことは、あんたって海を渡って大陸まで出てきたのね。珍しい」

「私はそんなつもり、全然なかったわよ。いつの間にかそうなっていただけ」

 

 若干拓実が言いにくそうにしたのを、桂花は敏感に感じ取った。桂花自身の演技をしているからこそ、その演技のぶれは大きく映る。

 

「……そ。ま、貴方も色々あるんでしょうから詳しくは聞いたりはしないけど、これからは東の国も馬鹿にできないわね。文字の読み書きはともかく、知識だけなら私塾を出た人間と大差ないんじゃない? 貴方みたいなのが出てくるなら、文官として登用しても使い道はありそうだわ」

 

 少し考える様子を見せた桂花だが、手元にある竹簡をくるくると丸めてまとめた。

 

「とりあえず、今日の分は終わりよ。続きは……そうね、二日後の午前が空いているから、それまでは書物を読んで勉強しておきなさい。秋蘭の持ってきたものは教本としては中々よく出来ているから、それでいいわ」

「そう、わかったわ。それより、これから春蘭と稽古があるのよね……。この姿で行ったら、絶対手加減なんてしないんでしょうね」

「はいはい。それはご愁傷様。ほら、さっさと行きなさいよ。私も暇じゃないの。溜まった政務を片付けなければならないんだから」

 

 部屋の中から追い出された拓実は、閉められた扉を眺めて深くため息をついた。

 

 

 

 

 

 とりあえず昼食を取るために食堂へ向かった拓実だったが、立場上あまり長居するわけにもいかないのでいくつか置いてあった果物を貰って、部屋に戻ることにした。

 華琳も使う食堂であるので、一応上層の者しか入れないようになっていると聞いたが、流石に知らない部下に話しかけられたりしたら上手く対応できる自信はない。

 

「華琳様に、何かしらの対策を考えていただかないと駄目ね……。食事を部屋に運んでもらうにしても、華琳様以外で私を知っているのは春蘭、秋蘭、桂花と皆忙しくてそんな雑事をしている暇などないでしょうし」

 

 女子であればこれでも持つかもしれないが、こんな格好と容姿をしていたって拓実は育ち盛りの男子である。果物だけでは流石に物足りない。

 おまけに思い返せば昨日はおにぎりを二つとお菓子代わりの点心しか食べていなかったし、今日はこれから春蘭との調練があるのだ。栄養はとっておくにこしたことはなかった。

 拓実がそんなことを考えながら両手に果物を抱えて自室への道を歩いていると、目の前を小さな女の子が横切った。手に溢れそうなほどの饅頭を抱えて、もぐもぐと咀嚼しながら歩いている。

 

「あっ、桂花だ」

「えっ?」

 

 思わず足を止めてしまった拓実に気づいたか、その少女は笑みを浮かべて歩み寄ってきた。桃色の髪を全て後ろへと流し、まとめ上げて二つに纏めた少女は、不思議そうな顔を浮かべる拓実に首を傾げるが、両手に抱えた果物を見て表情を一転。声を上げた。

 

「あー! それ、お昼ご飯にするつもりでしょ? 駄目だよー、桂花は普段から全然食べないんだから。もっと食べなきゃすぐお腹空いちゃうし、力が出ないよ?」 

 

 矢継ぎ早に拓実に向かって言葉を放った少女は、んー、と少しばかり考え込む。

 

「もう、仕方ないから、ちょっとだけ分けてあげるね」

「あ、ありがと」

 

 ぽんぽん、と果物の上に三個の饅頭を置いていく少女。それでも少女の手には十数個の饅頭が残っている。しかし、よく見ればこの饅頭、結構大振りである。三個も食べれば、拓実も満腹になるぐらいの大きさだ。

 軍師や武将の部屋が固まっているこの辺りに入ってこれるのは、本当に上層の人間だけだ。そのことから、間違いなく目の前の少女は華琳の臣下の中でも重要な位置にいる者だと推察できるのだけど、どうしたって誰であるのかわからない。何とか早く話を切り上げないと、ボロが出てしまう。おまけに、この少女と桂花は結構仲が良いようだ。

 一応、知っている名前でそれらしいのは……季衣って子がいるらしいけれど、もし呼んでみて、間違っていたら目も当てられない。

 

「あれ? 今日の桂花、何か変なの」

「食事が済んだら来るようにって華琳様に言われてるから、ちょっと急いでるのよ」

「んー? そういうのと違う気がするんだけどなぁ……。まぁいいや。華琳さまに呼ばれてるんじゃ、急がないといけないもんね。じゃあねっ」

 

 そう言って新たな饅頭にかぶりついた少女は、てくてくと廊下を歩き出す。元気に廊下の向こうへ歩いてく少女の後姿を眺めて、拓実はほっと息を吐き出した。

 何とか穏便に済んでよかったけれど、結局あの子は誰だったのだろう。でもとりあえず、手の中にある三つの饅頭をくれたあの少女に会えたことは、地獄で仏にあった、と言えた。

 

 

 

 

 

「きゃああああああっ!?」

 

 ぽーん、と拓実の体が軽々と吹き飛んでいった。手に持っていた剣は、更に遠くに飛んでいく。

 拓実は地面をごろごろと転がって、砂煙を上げながらようやく止まった。しばらくそのままで微動だにしなかったが、突然にがばっと体を起こし、自分を吹き飛ばした相手に向かって大声を上げた。

 

「こんの……馬鹿力っ! 少しは手加減ってものをしたらどうなのっ!」

「何を言うか、手加減ならば充分にしているだろうに。私が本気を出せば、お前など武器の上からまっぷたつになっているぞ」

 

 起き上がり、抗議の声を上げた拓実に、春蘭は愉快だというようにかんらかんらと笑い、見下してくる。桂花の姿の拓実をいじめることが楽しくて仕方がないようだ。

 

 自室で食事を終えた拓実は、首根っこを掴まれて春蘭に連行された。どうやら中庭の一角を借り受けて、そこで拓実の身体能力を試すとの事であった。

 引き摺られて中庭に到着した拓実は、有無すら言わされずに用意されていた一通りの武器を振らされ、その中で一番に使いやすいと伝えた細剣を持たされる。今度はどうやら、手合わせするとのことである。拓実はイヤだと言ったが、聞き入られることはなかった。

 そうして攻撃してこいと言われて両手で振るった剣は春蘭の大剣を揺るがせもせず、何の気なしに春蘭が返した一撃で拓実は鞠のように吹き飛ぶ破目になったのだ。しかも事前にどこを攻撃するか宣言されて振るわれたというのに、この有様であった。

 

「だいたいだな。わざわざ華琳様から調練用の予備の鎌をお借りしてきたのに、満足に振るうことすら出来んとは思わなかったぞ。お前に渡した剣にしたって、本来は片手で持つ軽いものだというのに、それを両手で扱ったりして……」

「仕方ないじゃない! 私は頭脳労働専門なの! 大体、あんな重たい物を振るえっていう方がおかしい話なのよっ」

 

 中庭には、いくつかの武器が転がっていた。先述の華琳が使うのと似た形状をした大きな鎌、春蘭の調練用の模擬刀。兵士が使う大振りの剣、そして今拓実が使っていた片手で扱う刀身の幅が狭い剣だ。

 この内、振るうことも覚束なかったのは、春蘭の剣。これは持つことが精一杯だった。振るうことは出来たけれど、十回の素振りでギブアップしてしまったのが大振りの剣。振るえるが、その遠心力でふらふらと体が流れていってしまうのが華琳の鎌。なんとか拓実が満足に振るうことが出来たのは、文官が持たされる細剣だけだ。

 

「ふはははっ! 力がないのも、そうして理屈ばかりこねているのも、本当に桂花のようだな」

「……あんたねぇ。そうやって笑っているけど、私を華琳様と戦えるところまで鍛えることが出来なかったら、罰を受けるって話は覚えているんでしょうね? 私も酷い目に遭わされるんでしょうけど、罰を受けるあんたは私よりも悲惨なことになるわよ。絶対に」

「むぅ、そうであった! ……しかし、参ったぞ。武術を教えるのは構わんのだが、得物に振り回される程度の筋力しかないとは。二ヶ月と華琳さまは仰っておられたが、この様子では体力作りだけでほとんどが終わってしまう」

 

 むむむ、と考える春蘭ではあるが、拓実はそれどころではない。地面を転がった所為であちこちが痛む。折角の新しい服も、砂だらけになってしまった。

 

「あら、やっているわね。ふうん、桂花の姿も似合うじゃない。言うだけのことはあるわ」

「華琳様っ……あぅっ」

「華琳さまっ、このようなところまで!」

 

 拓実が服についた砂を払っていると、華琳が笑みを浮かべながら歩いてきた。声を上げて近寄ろうとしたところで春蘭に押しのけられる。桂花の姿をした拓実が、春蘭を差し置いて華琳に近づくのが我慢ならなかったらしい。

 

「挨拶はいいわ。春蘭、拓実はモノになりそうかしら?」

「はぁ……、どうにも、何と言ったらいいのやら。拓実、ちょっと華琳さまの調練用の鎌を振るってみろ」

「あのね……あんたにさっき散々剣を振らされた所為で、腕がもう震えているのよ。そこのところ、ちゃんとわかって言っているの?」

 

 何度も素振りをさせられた拓実の両腕はぷるぷると震えている。明日は間違いなく筋肉痛だろう。

 

「そんなことは知ったことか」

「ああ、もう! わかったわよ!」

 

 春蘭に一言で切って捨てられた拓実は、どうにでもなれと自暴自棄の声を上げた。立てかけられていた華琳の調練用の鎌へと歩み寄って手に取り、腰が引けながらもなんとか構えて見せる。

 

「んぐぐぐ」

 

 顔を赤くして両手で振りかぶり、ふらふらしながら重さに負けた様子で大鎌を振り下ろす。振り下ろすと、またよたよたっと前方にたたらを踏んだ。

 

「ちょ、やっぱり、と、止まらない……ひゃあっ!」

 

 柄を持ち替えて横に振るえば、やっぱり自分でつけた勢いを止められずに体を傾ける。そしてそのまま重さを耐え切れずに、しりもちをついてしまった。

 

「いたっ! もうっ! 何だって私がこんな目に」

 

 痛みで涙目になった拓実は、尻をさすった。もう手の中に鎌はなく地面に転がっている。

 その後も何とか肩で息をしながら立ち上がっては鎌を持ち上げようとするが、後ろにすっ転んで仰向けに倒れた。遅れて鎌の柄が胸に倒れ掛かって「えぶっ!?」と不細工な悲鳴を上げている。

 

「これは……ひどいわね」

 

 そんな拓実の様子を見ていた華琳は、桂花の役作りをしている為にこんな無様を晒しているのではないかと己の目を疑った。それほどに酷すぎた。

 しかし華琳も武を嗜む者の一人であるからして、拓実のへっぴり腰を観察していれば流石に理解してしまう。どうやら拓実は、演技でこれをやっている訳ではなさそうである。

 

「その、これをですね、二ヶ月で華琳さまと戦えるようには、この私といえど流石に……」

 

 最早罰は免れまいと思ってしまった春蘭だが、それも仕方がない。二ヶ月あればあの鎌を振るえるようにはなるだろうがそこまでである。とてもじゃないが、戦い方を教える余裕はないだろう。

 

「ええ。この状態からそこまで鍛え上げるのは、誰であっても無理よ。それに武器に振り回されているようじゃ、拓実自身に武の才能があるかもわかりはしないし」

「……今の拓実の姿を見る限りでは、期待は出来そうにないですが」

「まぁ、拓実のことだから、私の姿をしていればもう少しはマシになるかもしれないけれど、それでも筋力まで変わるはずもない。これについては時間がかかりそうね」

 

 華琳と春蘭は、乗っかっている鎌を押し退けられずに潰されそうになり、地面でもがいている拓実を見て、同時にため息を吐いていた。

 


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