影武者華琳様   作:柚子餅

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7.『荀彧、拓実を嫌悪するのこと』

 

 拓実は意を決して声を上げたのだが、言ってからこそが本当に辛いものとなっていた。発言に対する反応が、一切ない。いっそ絶叫やら怒声でも上げられたほうがどれだけ楽であったか。拓実の心臓の音ばかり大きくなっていく。

 唯一動きがあるのは秋蘭であるが、どうやら彼女もこの雰囲気は好むものではないらしい。周りが一切身動きしないからこそ、一人だけ居辛そうにそわそわとしているのが拓実にはわかってしまう。

 

「ふふ、拓実ったらどうしたのよ。いきなりそんなこと言い出すものだからびっくりしてしまったじゃない」

「え?」

 

 突然に会得がいった様子になった華琳が声を上げた。怪訝な顔をしてはいるものの、そこに意外や驚愕といった色はない。至って華琳は平然としていた。そんな反応をされて逆に驚いたのは拓実である。

 その口振りから、拓実が男であったことなど以前より看破していたという発言にしか取れなかった。けれども、男である拓実を閨に誘うという事実とは繋がってくれない。相反しているそれらが拓実の混乱に拍車をかけている。

 もしや女の子だけが好きなのではなく女性的な顔つきであれば男でもいいのではないか、男嫌いらしい桂花をいじめる為ではないか、そもそも可愛がるというのが健全なものであったのではないか等々、拓実の頭の中に色んな考えが浮かんでは消えていく。しかし、そんな拓実の予想はどれも当たらなかったようだ。

 

「まったく、嫌だったならそう言ってくれていいのよ。貴女の主であるからといって強引に事を進める気などはないのだから、そんな突拍子のない空言を吐く必要なんてないわ。私は、貴女から望むようになってからでも全然構いはしない。それぐらいの器量は持ち合わせているもの」

「なるほど。全ッ然、わかっていなかっただけなのね。華琳は」

 

 真剣な、しかし可愛いものを見る目で拓実を見据えた華琳はこんなことを言ってのけたのだ。慈母の如き優しい笑みを浮かべている華琳がとんでもなく遠い存在に見えて、拓実は酷い眩暈を覚えている。

 駄目だった。華琳は拓実が女であると信じ切っている。美少女と噂される華琳は、その美貌を自負している。その自分とそっくりな拓実が男であるなど、想像の埒外なのだ。

 それでなくとも拓実の容姿と声をしていて、男であるということの方が一般的に見れば考えにくいことである。その拓実が女物の服を着ていたなら、十人が見れば十人が少女にしか見えないと答えるだろう。それは拓実にとって誠に遺憾なことではあったけれども、自覚していない訳ではなかった。

 

「……あの、華琳様。お気持ちは痛いほどにわかります。普段の拓実の様子から、その事実を知っていた私ですら今の今まで忘れていたぐらいなのですから。しかしながら今の拓実の言、偽りの類は含まれておりません。真実にございます」

 

 隣で秋蘭が跪いて、拓実に援護の声を上げてくれた。それ自体は確かに嬉しいのだが、拓実はその言葉を素直に喜べない。華琳に伝えていなかったことを忘れていたのではなく、拓実の性別を忘れていたとはっきり言われたのだ。拓実はなんとも複雑な表情を浮かべて、華琳に向けて頭を垂れている秋蘭を見つめてしまう。

 

「ちょっと、お待ちなさい。あなたたち二人は、本気でそれを言っているの?」

 

 真剣な顔を作り、気迫さえ込めて拓実と秋蘭を睨みつける。どうやら腹心として信頼している秋蘭までが口添えし、ようやく疑念を覚えさせるまでに至ったようである。

 華琳は秋蘭と拓実の二人を交互に見やり、華琳の気迫に対しても動じないのを見て目を見開いた。

 

「春蘭、貴女はどうなの? 貴女までも拓実が男であるだなんて、そんな戯けたことを言うつもりなのかしら?」

「は、はっ! ええと、拓実はですね、拓実……ああっ! そうです。確かに男でありました!」

 

 次に矛先は春蘭に定められる。彼女は彼女で拓実についてぼんやりと思い返していたようだが、華琳の言葉に背筋を伸ばすと自分もまた事実を知るものであることを思い出した。

 

「そう。確かにあの時、この手には何ともいえぬ奇妙な感触が……私はそんな物を掴まされるなどとは露知らず。思い出したい類のものではありませんでしたが、確かに拓実は男でした」

「春蘭が嫌がる私を押し倒したのでしょうが! それを思い出したくないとか貴女の口が言わないで頂戴! 全て私の科白よ!」

 

 怒鳴りつけながらも、周囲の空気が何だかおかしくなってきていると感じた拓実は頭を掻き毟る。焦燥感を覚えるあまりに華琳の演技から離れてきていることには気づいているものの、どうすればいいのかがわからない。そうして頭の両脇につけられたウィッグが手に触れ、勘違いされている原因にようやく思い当たった。

 

「ああ、もう! 華琳の言葉遣いを真似ているから冗談のようにでも取られているのでしょう!」

 

 華琳の真似ていることこそが性別を誤認させてしまっていると気づいた拓実は、言いつけられていた演技の中断を決めた。

 まず髪からウィッグを取り去り、纏めて団子にしてあった髪の結び目――髪留めの輪ゴムを外して解き放った。拓実が頭を振ると金の髪が広がり、その華奢な肩にかかる。団子に結ばれていたからか癖がつき、緩やかなウェーブ状に広がった。

 

「どうですか! これでわかったでしょう!」

 

 珍しく声を荒げ、堂々と言い放った拓実ではあるが、周囲の反応は芳しくない。その中でも特に華琳には何も伝わらなかったようで、首を傾げられてしまっている。

 

「その、拓実よ。言い難いことではあるが、あまり変わった様子はないぞ。声こそ若干低くはなっているが、顔つきが和らぎ、言葉遣いが丁寧になった程度では何の証明にもならん。髪型にしても、それを好む者が見れば、華琳様の演技している時よりも女らしいと……」

「くぅっ! それじゃこれ以上俺に、どうしろって言うんですかっ。後は精々、服を脱いで見せるぐらいしか証明する方法なんて……!」

 

 演技を止めた拓実については、確かに秋蘭の言った通りであった。

 華琳と瓜二つの女顔で、背は低い。声変わりが済んでいるというのに、声は女性としても充分に通る高く澄んだ少年の声だ。ほどいた髪は秋蘭より長いし、物腰だって春蘭に比べれば断然に柔らかい。おまけに言葉遣いも丁寧である。更に付け加えるなら、着ているのは華琳と似た衣装の女性服であり、詰め物までして胸部を膨らませている。

 唯一『南雲拓実』を見たことがなかった桂花は、雰囲気から顔付きからまるで人が変わったような拓実の変貌にこそ驚いていたが、それでも決して男性に見えたりはしていなかった。男嫌いである桂花が嫌悪感を微塵も覚えないぐらいには、拓実の容姿は可愛らしい少女のままである。

 

「『俺』、ですって?」

 

 もはや裸になるしか華琳を信じさせる術はないのか、そんなどうしようもない現状に対して慟哭していた拓実の、たった一つの単語に華琳が反応した。

 

「……えっ? 確かに俺って言いましたけど、以前から自分のことはそう呼んでいますよ。演技のときは別にしてですけど」

「どういうこと? 拓実のような気の弱い娘が、オレっ子? そんな、そんな世の理に反するようなことが、ありえる筈がないわ。もしかして、本当に?」

 

 ぶつぶつと呟きながら考え込む華琳に、拓実はどうしていいものかわからずぼんやり突っ立ったままだ。

 とりあえず室内を見回してみると、桂花は華琳の様子をはらはらと固唾を呑んで見守っている。春蘭、秋蘭の姉妹は華琳に向けて頭を垂れていた。どうやら、謀らずも華琳を騙してしまっていたことに、申し訳がないようであった。

 

「……拓実、ちょっとこちらに来なさい」

 

 考えをまとめ終えたらしい華琳は顔を上げ、睨みつけるようにして拓実を見つめた。それを真正面から受けた拓実は、今までの勢いを急激に削がれて動揺してしまう。

 

「な、なんですか? 何をするつもりですか?」

「いいから、早く」

「わかりましたけど、何をするのかぐらい先に言ってくれたって……」

 

 強く言われ、少し怯えながらも拓実は華琳へと歩み寄っていく。普段から逆らえない拓実ではあるが、それでも今の華琳には反論や抵抗すら許さぬ何かがあった。

 

「もっと近くへよ。早くなさい。そう、私の前まで」

「う、うひぁっ!?」

 

 もたもたと近づいた拓実の腕を、華琳が絡め取った。力任せに引き寄せて、背を向けさせる。

 

「ひゃ、華琳、くすぐったい! や、やめてください、ちょ、やだっ」

 

 背を華琳に預ける形になった拓実は、次いで来る感触に背筋を震わせた。拓実は華琳によって、自身の胸を後ろから揉みしだかれている。

 その手捌きは洗練されたものであった。幾度となく(ふる)われてきたのだろう、確かめるように執拗に、逃がさぬように力強く。華琳の両手は暴れる拓実の胸部から離れようとはしない。

 くすぐったさに身を縮めた拓実は、必死に華琳の手を止めようもするも巧妙に押さえつけられてしまっている。這い回る手に、拓実の顔は赤く染まっていった。

 

「離してっ! 華琳、お願いだから離して!」

 

 必死の嘆願も、華琳は聞き入れたりはしなかった。拓実にそんなつもりなどなかったのだが、艶かしい声を上げるものだから春蘭と桂花も頬を赤くしている。

 そうしている間にも手を休めずにひとしきり拓実の胸部を蹂躙した華琳は、拓実の身柄を開放してから己の両手を見つめて呆然と呟いた。

 

「…………この胸、にせものよ。布か何かが詰めてあるわ。そして、その下にも女性らしい膨らみはない。これっぽっちも」

「う、嘘っ、本当なのですか、華琳様」

 

 悲鳴のように、桂花が声を上げていた。顔はすっかり青ざめて、唇はわなわなと震えている。

 

「この手で確かめたのだもの。間違いないわ。拓実は男、なのね。信じ難いことだけど、本当に」

「だ、だからさっきから男だって言っているじゃないですか!」

「お、お、お黙りなさい! 私と寸分違わぬ容姿を持っていて、その癖に男だなんて、そんな冗談のようなことが信じられるわけがないでしょう!?」

 

 怒りか、羞恥か、動揺か。珍しく顔を真っ赤にさせた華琳はわなわなと身体を震わせ、拓実に向けて八つ当たりめいた言葉を吐いた。

 そんなことを言われた拓実はたじろぐ。振り返り、助けを求めるように春蘭と秋蘭を見やるも、視線が合うなりに顔ごと逸らされる。二人もまた華琳と同意見であるようだ。孤立無援である。

 

「あの、俺って冗談のような存在だったんでしょうか。生まれてくる性別を間違えたとか、女装して芸能界入ってこいとか、ふざけて色々言われてはきたけど、ここまでのは流石に初めてで……」

「いいえ、違ったわ。悪夢よ。まさかこの私が認め、他ならぬ私の代役を任せる相手がまさか男だったなんて……。ふふ、そういえば今日は拓実に会ってからというもの、不測の事態ばかりに見舞われている気がするわ。ふふふ」

「あは、悪夢ですか……あははははっ」

 

 乾いた笑い声を上げる華琳を見て、拓実もまたつられて笑っていた。笑うしかなかった。怒る気力もない。泣きたくはなかったので、笑い声を上げながら項垂れるだけだった。

 

「か、華琳様! 情報が広まっていない今ならば、まだ間に合います! 今度こそこの者の首を刎ね、全てを無かった事にしてしまうべきです!」

「首を刎ねぇえぇっ!? って、ちょっと桂花、何で? どうしていきなりそんな結論になったの!?」

 

 そんな半ば茫然自失の華琳に対して、必死の形相で述べたのは桂花だった。そこに自己紹介された時のような拓実を信頼しきっていた面影は見つからない。それこそ親の敵を見るかのように、拓実のことを睨みつけている。

 そんな目で見られていきなり死刑を求刑された拓実は、手放しかけていた意識を寸でのところで巻き取ることに成功した。

 

「私の真名を呼ばないでよ! 華琳様の姿を真似る、汚らわしい変態の分際で!」

「今度は変態、しかも汚らわしいって。そんな、何か悪いことした? 桂花については、ちゃんと謝ったと思うんだけど……」

 

 申し訳なさそうにしている拓実を冷たい視線で射抜いて、桂花はふんっと鼻で笑ってみせた。どうやら男と判明し華琳の姿を止めた拓実は、桂花にとってはただの敵性生物であるらしい。

 

「華琳様に成りすまし、私の恋心を弄んだことがあんな簡単な謝罪だけで許されると思っているの? 本当にそう思っているなら直ぐ様にでも死んだほうがいいわ。そうでないというのなら、罪を認めて今死になさい」

「あの。それ、どっちを選んでも死んじゃいますけど」

「あら、そう言っているつもりだったのだけれど、そう聞こえなかったのかしら。――華琳様、ご命令をお願いしますっ! 一言いただければ、直ぐにでも用意を整えますっ。下賎な男の身でありながら、華琳様になりすますなどという大罪を犯したこの下郎に、処罰を!」

 

 まさかここまで綺麗に手の平を返されるとは、拓実は思っても見なかった。こんなにも率直にやってもらえるといっそ清々しくさえあった。笑いがこみ上げてきてしまいそうだ。

 拓実は、本当に殺されるかもしれないとも考えていた。男である拓実が華琳の影武者を務めるなど、華琳は認めないだろう。きっとそうだ。華琳は元より男を好んでいないのだから、むしろそうなって当然ともいえるかもしれない。そうなれば桂花の言うとおりに、拓実の存在ごとなかったことにされてしまうだろう。

 先ほどから物言わない華琳に、拓実は不安げな視線を送った。男であることを騙していたつもりはなかったが、結果としてそうなってしまった。せめて悪意がなかったことだけでも弁解しようと声を上げかけ、そうして彼女の佇む姿を見るや開きかけた口を閉じることとなった。

 

「拓実を処刑するだなんてありえないわ。そんなことを私が許す筈もない」

 

 華琳は、拓実を見て静かに微笑んでいただけだった。ただそれだけだったが、拓実はその瞳から向けられている全幅の信頼を受け取っていた。

 同時に拓実の心中は申し訳なさで一杯になる。正体も知れなかった拓実を華琳は信じてくれているというのに、拓実が華琳のことを疑ってしまった。そのことを深く後悔してしまう。

 

「桂花、言ったでしょう。拓実は『もう一人の私』として私自らが認め、名を名乗ることを許したのだと。その相手が男であろうが女であろうが、この曹孟徳、一度口にしたことを違えるような者ではないと貴女も知っているはずよ」

「それは……、しかし……!」

 

 華琳は粛々と、拓実をここで殺してしまうということは、華琳の誇りをも殺してしまうことであると桂花に向けて説いた。

 桂花はその華琳の落ち着き払った様子を見て、ようやく自分一人が先走っていたことに気がついたようである。しかし後戻りも出来ず、必死に言葉を探している。

 

「例え男であったとしてもこの私を演じきったことには変わりはない。状況的には拮抗していたけれど、拓実の演技を崩してみせることが出来なかった私は負けていた。改めてこの場で認めましょう。この曹孟徳の覇王の才が、南雲拓実の演技の才に敗北しているのよ。それが例え私に不利な状況であった、限定的なものだったとは云えね」

 

 拓実にも、自分の演技に矜持はある。演劇の大会において拓実は個人で得られる最高の賞を貰ったことがある。そうしたこともあって、自分の演技を卑下すれば他の者の演技をも貶めることになると考えられるようになったからだ。

 けれども華琳のようにそれを信じることが出来るかと言われればそうではない。何故なら拓実は、己に対して自信を持っていない。たまたま演技については秀でているだけで、所詮は十把一絡げの凡人であるとそう考えている。そんな自分の持つものであるから、演技の才能などと言われても信じきることが出来ないのである。

 

「これは紛れもない事実。だからこそ私は、拓実の演技力を誰よりも買っている。本当に希少で、孤高の才――この私を負かす才を持つ者を、男であるからなどという下らない理由で失うなど、私に向いた天意に対し、自ら背を向けるが行為に他ならないわ」

 

 華琳は、こと拓実の演技においては、一切の疑いを覚えていない。己を打ち倒したものとして揺るぎない評価を下している。拓実の演技を、華琳は本人以上に評価してくれていた。

 拓実は影武者として仕官をする時、それを聞いていた筈だった。なのに、知らずのうちに自分ごと華琳の言葉を軽んじていたのだ。だからこそ、拓実は華琳にそれほどまでに評価されていることが嬉しくもあり、己すら信じ切れないでいたことが恥ずかしくもあったのである。

 

「そ、それでは……?」

「ええ、私の計画に変更はないわ。拓実にはこの私の『影武者』として働いてもらう。拓実、すぐに演技して私になりきりなさい。今回はともかく、今後そのような姿を他の者の前で晒すことは許さないわ」

「わ、わかりました」

 

 命じられて、拓実は急いで解いた髪をまた編み、結んでウィッグを取り付けた。身嗜みを整えた後、ゆっくりと瞑目する。

 たっぷりと時間をかけて次に目を見開いた時、華琳を彷彿とさせる怜悧な瞳が、目の前で笑みを浮かべる本物を捉えていた。

 

 

 

 

 

「さて。私としては拓実が男であろうが女であろうが、付き合い方を変える気はないわ。ああ、別に望むのならば、閨を共にしてもいいと思ってるわよ。男とはいえ拓実ほどの容姿であれば、充分に許容範囲内だもの。……けれど、もう引き返せない子がいるわよね。ここには」

 

 華琳がそう言って意地悪く視線を向けた先には、俯かせた顔を真っ青にして、身体をがくがくと震わせている桂花の姿があった。

 桂花には、華琳の声がまるで壁越しであるように聞こえていた。全身には視えない重圧がかかっていて、押し潰されそうだ。呼吸をしても酸素が肺に送られている気がしない。桂花だけが、まるで深く暗い水の底にいるかのようだった。

 

 最早桂花は、拓実とどう接していいかわからない。華琳は計画を一切変えないと言っていた。つまり桂花は拓実の教育係のままであり、これから毎日、拓実とは顔を会わせることになるのだろう。

 正確にはどう接していいかではなく、どの面を下げてと言ったほうが正しいだろう。拓実を自分の主と等しく扱うとしておきながら、嫌悪の視線を向けて死ねと罵り、自ら改めて預けた真名を呼ぶなと叫んでは、処刑すると喚きあげていたのだから。今だってその気持ちはかなり弱まったものの完全には消えていない。だが、華琳が決めた以上は何としても従わなければならない。

 

 拓実の姿にも問題があった。男は全て汚らわしく、下品で無能で、醜い生物であるというのが桂花の価値観の根底にある。そして今まで見てきた男はみんなそうであったと桂花は確信している。

 だが拓実の姿は桂花がどう見たって涼やかで、上品で、自信に溢れる麗しい華琳の姿そのものなのだ。それどころか声も、口調も、雰囲気までもとてもよく似ている。華琳を信奉している桂花が見ていたって、見た目にも声色にも違いを見つけることが出来ずにいる。強いていうなら気迫に乏しいぐらいだろうが、華琳だって普段から気を張っている訳ではない。流石に二人が並んでいれば区別がつくが、一人と対応した時にどうであったか、桂花は身を以って知っていた。

 

 華琳本人と間違えてしまうかもしれない拓実を相手に、無礼な言葉を吐ける筈がない。そもそも、華琳を真似ている拓実を前にしては難癖すら頭に浮かんでこないだろう。

 だというのに、先の無礼を詫びたところで元通りにはなってくれない。もし再び、華琳を相手にするような口調で話しかけようものなら、それは失笑どころの話ではない。間違いなく軽蔑されてしまう。

 いや、軽蔑ならばきっと、とっくの昔にされている。前言をあっさりとひるがえす『言葉の軽い女』とでも思われているかもしれない。華琳本人ではないというのに、同じ姿である拓実に軽蔑されていることを考えると身が引き裂かれる思いがする。そんな状況が続けば、きっと桂花は耐えられない。

 

 もしも願いが叶うなら、本当に時を巻き戻してほしいと桂花は思った。

 そうしたら拓実が男であれ、当初のように華琳と同じように扱い、敬い、学を授け、親密な関係を桂花は作るだろう。そしてそれはきっと、楽しい時間であったはずだ。毎日のように、華琳の姿と顔を合わせて学を授けられる喜び。そして自身が、もう一人の覇王を育てる喜びを感じることが出来た筈なのだ。

 男と言うだけで反射的に拓実を毛嫌いしてしまっていたが、性別を抜かしてみれば間違いなく好ましい人物でもあった。容姿も然ることながら、経緯は知らないが華琳と互角に渡り合い、直々に首を刎ねると決心させるほどには、拓実も覇王としての素質を持つ傑物であるはずだ。そっくりな容姿も手伝って、もしかしたら、それこそもしかしたらだが、桂花が心を許す事の出来る、唯一の異性になっていたかもしれない。

 

 しかし、そんな未来はもはや存在しない。先ほど拓実に投げかけた言葉を、華琳に告げてみたらどうなるかと想像すればいい。絶対に華琳は許さない。そんな確信を、桂花は持っている。

 そしてそんな華琳をして『もう一人の私』とまで言わしめる拓実は、どうであろうか。同じく、想像は容易かった。

 

「荀彧」

 

 思考に沈みきっていた桂花は、近寄ってきていた拓実に気がつかずにいた。遅れて呼ばれた名を認識すると、がつんと桂花の心には衝撃が走り、石になったかのように身体が動かなくなってしまう。

 

 ――拓実は桂花のことを、真名で呼ばなかった。桂花自身がそうしろと言ったことではあったが、実際に拓実に呼ばれてみると、つらい。かつてないほどに酷く胸が痛んだ。

 華琳の声色でそう呼ばれることも辛いものであったが、桂花の心に深く(ひび)を入れたのは別のことであった。拓実にとって、もう桂花は真名を呼ぶに値しない人間であるのだ、そう思ってしまったことだ。

 これから、ずっと自分は『荀彧』と呼ばれ続けるのだろう。この華琳の陣営において、拓実だけは桂花のことを『荀彧』と呼び続けるのだろう。自分だけは、金輪際拓実に真名を呼んでもらえないのだろう。

 こんな考えばかりが桂花の頭の中でぐるぐる回る。一人、輪から外れて呆然と立ち尽くす自分の姿が脳裏から離れてくれない。

 

「聞こえているのなら返事をなさい、荀彧」

「お……ぃ……ます」

「……荀彧?」

「ぉねがい、します」

 

 感情に任せて、桂花の口は勝手に動いていた。いつもの秀抜とした頭脳はもはや役には立たない。

 

「拓実、さま。どうか、わたしのこと、桂花、とよんでください。勝手なことだと、わかってます。ごめんなさい。あやまります。男があいてだと、わたし……どうしても」

 

 自分でも知らぬうちに、桂花は涙を流していた。顔を俯けたままであったが、頬を熱い雫が伝っていくのがわかった。

 桂花は、もう拓実に荀彧などと呼ばれるのが耐えられなかった。華琳と同じ声で、そんな他人行儀な呼ばれ方をするのが耐えられなかった。華琳に真名を預かった者同士だというのに、真名を呼び合わない。華琳が定めた決まりを自身が原因で破ることになるのが、耐えられなかった。

 

「……わかったわ。これからも桂花と呼んでいいのね?」

「は、はぃ」

「それじゃあ、泣き止みなさい。桂花。貴女が男嫌いであると事前に聞いていたのだから、私に向けて言った言葉は気にしていないわ。男に真名を呼ばれるのは嫌だろうから、桂花と呼ぶのを我慢していたのよ。貴女がそう言ってくれるのであれば断る理由なんてないもの」

「嫌じゃないです。拓実、さまぁ……」

 

 桂花は小さく笑みを浮かべることが出来た。尋常ではない様子で顔を青ざめていた桂花を見て心配していた拓実は、それを見てようやく安心したようである。

 

「ほら、可愛い顔が台無しよ。しょうがないわね」

「ありがとう、ございます」

 

 涙でボロボロになった桂花の目元を、拓実は袖で拭ってやった。為すがままにされた桂花は、優しく微笑んでいる拓実に向けて満面の笑みを浮かべてみせた。

 

 

「ふふ、このままでは本当に、桂花を拓実に奪られてしまいそうね」

 

 傍から口を挟まずに傍観していた華琳も、そんな二人の姿を眺めては微笑んでいた。

 

 

 

 


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