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華琳と拓実が呼びかけることで桂花は何とか正気を取り戻したようだったが、しかし最初に見た光景が悪かった。よりにもよって左右から自身に向かって必死に呼びかけている、華琳と拓実の姿であったのだ。
夢の続きとでも思ったか「華琳さまがお二人では、流石の桂花も体が持ちませぬ!」という嬉しい悲鳴らしきものを叫び残して倒れ、再び常世にはない桃源郷へと旅立っていってしまった。
「まさかこんなことになるだなんて。計算違いもいいところだわ」
華琳は気を失って床に倒れている桂花を見下ろしてそう呟いた。いくら主君が突然に二人に増えたように見えたとしても、気絶するとは思わないだろう。拓実だってこんなことが現実にあるのかとびっくりしたものだ。
「とりあえず桂花は起きるまで放置。春蘭も自身で気がつくまでは放っておきましょう」
一応、桂花については寝台に寝かせてあるが、もっと可哀想なことになっているのは茫然自失となっている春蘭だ。でかい図体をしていて邪魔だからという理由で部屋の隅に押しやられてしまったのである。
『拓実は果たして拓実であるのか、だとしたら何故華琳ではないのか』という哲学的な疑問は一旦収束したらしく、独り言を聞くに『華琳に飽きられないためには』といういくらか前向きなものに変わっている。この分では復活も遠いことではないだろう。
「ところで拓実、訊いておきたいことがあるのだけれど。貴女には必然的に、私の影武者として表舞台に出ている以外のところでは変装してもらって別人物を演じてもらわなければならないわ。その辺りは大丈夫なの?」
机に備え付けられた椅子に腰掛けた華琳に訊ねられて、拓実はしばし思案する。
この華琳の質問は、華琳としてだけではなくその他の人物としても振舞えるのか、という意味だろうか。そういうことならば、素の南雲拓実を選択肢から省いたとしても、現代の知り合いでも真似ればいいだろう。男の方は見た目や身長の面で少し厳しいかもしれないけれど、小柄な女性であればまず問題はない。拓実には、悲しいことではあるが。
「ええ、問題はないわ。演じろと言われたら、この私の理解の及ばない役柄でもなければ、演じてみせる。でも、ただの南雲拓実としての性格で充分、華琳と差別化が図れる気がするのだけれど」
「駄目よ、そのせっかくの才を腐らせておくには惜しいわ。普段から磨いておきなさい。……それはさて置いたとしても、私の顔で情けなくされることが何より我慢ならないの」
それはつまり、南雲拓実のままでいることは無様であるから許されないということだ。そんな物言いをされた拓実は当然ながら面白くない。素の状態であれば気の弱さから苦笑いでも浮かべているところだが、演技をしている拓実は不機嫌さを隠さず、華琳を冷ややかに睨みつけている。
物怖じせず真っ向から睨みつけてくる拓実を見て、華琳は笑みを浮かべる。この反応の違いこそが、演技をしていろと言われている
「ならばそうね……例えばこの場の、私以外の人間の演技は出来る?」
「この場にいる、ね」
拓実は部屋中を見渡した。この部屋にいる人物を一人一人眺めて、今まで得てきた情報を整理していく。
「演技をするには、役となる人物の意志と思想。さらに性格、仕草、口調等を把握してなければならないわ。そういった意味では、この場にいる人物はある程度把握している。その中でも、春蘭が一番揃っているのだけれど」
言って、まだ隅で落ち込んでいる春蘭を見やる。まだ帰ってきてはいないようだ。
今まで一番拓実と話していたのは春蘭であるし、彼女は裏表なく性格を出している。拓実は今演技をしている華琳よりも春蘭の方が多くを知っていると言えるかもしれない。
だが、彼女は背が高く、スタイルもよく、綺麗な長い黒髪を持っている。背が低く、金髪であり、もちろん体に凹凸などありえない拓実の身体特徴とは離れすぎている。真似るだけならやれないこともないだろうが、長時間演じるというところまで考えると周りの反応やらで拓実が描いている春蘭像と自身に齟齬が出てきてしまうだろう。
そういう意味では、同じく秋蘭を演じるのも体格の面で無理が出る。
「私の見た目と離れ過ぎた者を演じるとなれば、見る者に違和感を覚えさせてしまうかもしれない。容姿までを考慮するならば、眠っているその子になりきるのが一番やりやすいかもしれないわね」
笑顔を浮かべ、安らかな寝息を立てている桂花を視線で示す。時折くすくすと笑い声を漏らして、何やら幸せそうである。
髪色は華琳ほどの鮮やかな金ではなく、茶に近いようだがまだ見た目として許容範囲だ。髪の長さも、ウィッグを外し髪を解いた拓実と丁度同じぐらいの長さ。背だって拓実より僅かに高いぐらいで、そうは変わらない。
不安要素はこの場にいる他の者と比べて、情報が圧倒的に不足していることだ。事前に華琳や春蘭、秋蘭から人となりを簡単に聞いていたとはいえ、会ってから十数分といったところでは理解が足りていない。性格や思想、口調などについてはそこそこの把握をしたが、仕草やふとした癖などはしばらく観察しないことにはさっぱりである。
しかしそれでも桂花の人柄を目の前で見、実際に会話した拓実は、決して満足とはいえないものの、それらしく演じることが出来るだろうと考えた。
「そう……桂花にね。ならばやってみてもらいましょうか。秋蘭! この子と同じ服を見繕ってきなさい。流石に勝手に服を漁るのは不躾に過ぎるから、桂花の贔屓している店で買い揃えるように。大至急よ」
「はっ!」
秋蘭は一つ礼をして部屋から出て行った。あまりに素早い秋蘭の初動に、拓実が止める間もない。廊下を覗いても既に角を曲がって、姿はないだろう。
代わりに愉しげな笑みを浮かべて秋蘭の背を目で追っていた華琳に対し、声を上げた。
「華琳、ちょっと待ちなさい。今この場で、私にこの子の演技をさせるつもりなの? この子が起きて、事情を説明してからでも遅くはないでしょう。私が演技している時に起きてしまったらどうするつもりよ」
「あら。私の姿をしていても、謁見のような時でもなければ性質までは似ないのかしらね。貴女は桂花のこと、いじめてあげたいと思わないの? 私の姿であればあの子は喜ぶわよ」
「……そう、この子のことを追い込むつもりなのね。誤解しているようだから言っておくけれど、他人をいじめてやりたいだなんて、少なくても南雲拓実として思ったことはないわ。先ほども泣いているこの子が可哀想になって、つい華琳にしては過度に慰めてしまったぐらいだもの」
「まぁ、それについてはいいわ。私とまったく同じではそれこそ面白くはないのだし」
愉しみを共有できないことを意外そうに呟く華琳に、拓実は渋面を返した。趣味が悪いとは華琳のような者を指して言う言葉だろう。
拓実に向けて口の端を吊り上げた華琳は、寝台で眠っている桂花を見やって目を細めた。
「私はね、桂花が慌てふためく姿が見たいのよ。貴女に問いただされ、涙を流してる桂花を見て身体が興奮してしまうぐらいにはそういった姿が好きなの。そうね。そういえばあの時の拓実は実にいい仕事をしていたわ」
「ありがとう、と言っていいものかしら。あんな不意打ちみたいな真似、好ましくは思えないけれど」
やんわりと批判した程度では華琳がこういった言動を改めることはないだろう。拓実は早々に諦め、息を吐いた。何だかんだと抗弁してみたのだが、結果的には華琳の言うことには逆らえそうにもない。今もそうだし、今までもそうだった。
考えてみれば、演技をしている時に桂花の真名を呼ばされていたのだってそうである。『華琳の真名を預かる者たちは、互いを真名で呼び合うという決まりがある』という話を聞いて一応は納得はしたのだが、それだってあんな目に合わされた桂花が浮かばれない。いや、華琳に命令されたとはいえ実行したのは拓実である。どの口がそれを言うかと言われればそれまでであるし、やってしまったことへの責任はあまりに大きい。
桂花が起きたならまず詫びなければならないなと考え、華琳に倣って寝台に眠る彼女を見た。
「そういえば先の言葉で少し気になったところがあるのだけど。春蘭にはいまいちなりきれないと言っていたけれど、その口振りから察するに、出来ないわけではないのね?」
秋蘭が戻ってくるまで手持ち無沙汰であったので華琳より桂花の普段の振る舞いなどを聞いていたのだが、春蘭との不仲を語っていた華琳が思い出したようにそんなことを訊ねてきた。
「まぁ、出来なくはないわね。必要であるというならば演じるわ。ただ私の体躯と容姿でやっても似合わないと自覚できてしまうから、あんまり気が入らないのよ」
「それじゃ、ちょっとやってごらんなさいな。秋蘭が帰ってくるまで時間もあることだし、私が採点してあげるから」
「……構わないけれど、少しだけよ。似せられるのは口調ぐらいのものでしょうけど。あと、似てないからといって笑ったりはしないように」
「いいから。決して笑ったりしないから、さっさとやってみなさい」
この暴君め、と内心で悪態をつきつつも拓実は準備に入ることにした。直前で桂花のことを反省していたが、それでもやっぱり、華琳に言われると拓実は逆らえそうにないのだった。
「あー、ああー。アーアー」
拓実は背筋を伸ばし、発声練習をするように音程と声質を変えていく。近い音程を見つけると、声の出し方を変えて春蘭のものに近づけていく。あまり出した類の声ではないので、あっちにいって、こっちにいって、ようやくそれっぽいところを見つけ出す。
やはり華琳ほどには似そうにはないが、何とかコツをつかめてきた気がする。喉奥に引っ掛けて、腹から出すような厚く艶のある声の出し方だ。これが自身の出せる声では一番近い。本当ならば最後に調整をかけて、練習して声の出し方を固定すべきなのだが、今はそんな時間がない。
「ふむ。とりあえずは、こんなものか……」
実際に声に出してみて、これならば似ていないとも言えないぐらいの完成度だろうと推察する。自身が聞こえている声と他人が聞く声ではどうしても差異が出てしまうので、ある程度の誤差は許容するしかない。後は口調と抑揚を極力真似れば、多少の声質の違いはカバーできる。
準備を終えた拓実は、何だかんだで楽しみに待っている様子の華琳へと振り向いた。演じるイメージは『ご主人様、大好き!(図体のでかいおバカな犬)』だ。
……拓実もそれはどうかと思うが、春蘭の行動理念が大体そんなものなのだから致し方ない。それを自身の表層に敷き詰めていく。
「貴女さまの第一の臣下、春蘭にございまするっ! どうでしょうか、華琳さまっ!」
「くっ、そ、そうね。かなり似ている……わ」
面食らった、という様子の華琳は少し言葉を途切れさせながらも返事を返した。だがこうした状態では至極真面目に返答しようと思えば思うほどに、決壊は早まるものである。
「そう言って頂けて、この春蘭、身に余る光栄にございますっ。ええと、採点していただけるとの事でしたが、いかほどの点数をいただけるのでしょうか?」
「く、くくっ、ふっ、……わ、わかったからもういいわ。やめなさい」
「か、華琳さまぁ~! 酷いですよぅ! しっかり笑っていらっしゃるではございませんか! 決して笑ったりはしないと仰ってくださったのに……」
「そ、その声も、だから、やめてと、ふ、ふふ、だ、だって、今まで私の姿で私の声が出ていたのに、そこから何故春蘭に似た声が……どう考えてもおかしい、でしょう? くっ、くぅ! もう、駄目。あはっ、あははははははっ!」
そう言って、目じりに涙を溜めながら口を開けて大笑いする華琳。必死に顔を背けるが、笑い声までは隠せない。
これは断言できる。間違いなく珍しい物だ。日本でつちのこを見つけるぐらいには。
「な、なに、何に、何をやっておるか、拓実ィーー!」
華琳が大笑いする中、顔を真っ赤にして拓実に詰め寄ってきたのは、今拓実が演じている春蘭本人であった。どうやら、自身に似た声が聞こえたことが呼び水になって、現実世界への復帰となったらしい。
「おお、春蘭ではないか! 無事に帰ってこれたのだな。こいつめ、この私に心配などかけさせおって!」
「いいから、即刻その私の真似をやめんか、きさまっ! いいや、そもそもだ。私はそんな喋り方などしておらんっ」
そう言い切る春蘭ではあるが、本当に似ていなければ侮辱しているとして問答無用の拳骨を拓実へ飛ばしていただろう。似ているとわかってしまうからこそ、こうして春蘭は顔面を羞恥で真っ赤に染め上げている。
「いいえ、充分に似ているわよ。拓実の演技には七十点をあげましょう」
「そ、そんなぁ、華琳さまぁ……」
「ほうれ、見ろ。華琳さまがそう仰っておるのだ。きさまも素直に認めんか」
「た、拓実! こいつめっ!」
「……春蘭が、春蘭に
どうやらまだ笑いの波が収まりきっていないらしい華琳は、点数を告げるなり顔を背けてしまった。情けなく声を上げ、揶揄するような拓実の声に怒りを覚えていた様子の春蘭ではあったが、そんな華琳を見るなりに笑顔を浮かべている。
長らく華琳に仕えた春蘭であっても華琳がこんな笑い方をするのを見たことがなかったらしく、自身が笑いの種になっていようとなんだかんだで嬉しく感じているようだった。
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「華琳様、お待たせいたしました。店主に同じものを揃えるよう申しつけ、実際に私も確認致しましたが間違いはありません」
「……そう、ご苦労様」
「いえ……?」
竹かごに華琳に頼まれた桂花と同じ衣服を入れ、急ぎ戻ってきた秋蘭が見たのは、何だか不機嫌そうな華琳だった。いや、不機嫌とも違う。居心地が悪い、といった類のものだろうか。秋蘭がいない間に、何かがあったらしい。そしてその理由はどうやら拓実と、いつこの現世に戻ってきたのか春蘭にあるようだ。
「ところで、どうしたのだ。姉者、拓実と二人して嬉しそうに笑みなどを浮かべたりして」
何故そう秋蘭がそう思ったかというのも、先ほどから嬉しそうににこにこと笑う拓実と春蘭の姿があったからだ。部屋の雰囲気から、華琳が居心地悪そうにしているのはこの二人が原因だと思うのだが、その理由というのが皆目見当もつかない。
服の詰まった竹かごを床へと置いてから、この疑問を解消すべく、秋蘭は二人に声をかけた。
「む? 何でもないぞ秋蘭。なぁ、拓実」
「うむ。何でもないから秋蘭は気にしなくてもいいのだぞ」
二つの声を聞き届けた瞬間、秋蘭は抗えずに、ぶっ、と思わず肺の中の空気を噴き出していた。拓実の姿から、あまりに似合わない声が発されたからだ。
一つ目はいい。春蘭が言ったものであるだからどうということもない。笑みの理由を話してくれなかったことが秋蘭には少し寂しかったが、春蘭がそう言うのなら否はない。
だが、続いての二つ目。拓実から返ってきた声と科白は想像もしていなかったものだったのだ。春蘭の声にしては安定感が足りていないし、声質も少し違う。それに少し高いようにも聞こえたが、その抑揚といい言葉遣いといい、直前に聞こえた声を想像するにはあまりに容易かった。
つまり、敬愛する華琳の姿から、親愛している春蘭の声が聞こえてくるという、かなりおかしな状況であったのだ。
「げほっ、ごほ。……なぁ、拓実。どういった経緯で姉者の真似をしているかは知らんのだが、出来ればやめてもらえないだろうか。どうも心臓に悪い。このままでは私は早死にすることになる」
「そうね。もう華琳も充分に満足してくれたでしょうから、構わないでしょう」
「ね?」と拓実が意地の悪い笑みで問い掛けると、華琳はふんっ、とそっぽを向いた。拓実にはその子供のような仕草が可愛らしく見えたのか、華琳にわからぬよう小さく笑みを浮かべていた。
――どうやら華琳は、自身が盛大に笑っていたことを他人に見られたことがもの凄い失態であったと考えている様子だった。しかし自身から拓実に言ったことであるために、嬉しそうにこちらを見る二人を叱り飛ばすこともできなかったようである。
「まぁ、いいわ。華琳、私はこれに着替えればいいのでしょう」
「そうよ。さっさとしなさい」
「はいはい。まったく。ここに来てからというもの、色々な人の演技をさせられるわね」
そう文句を言いながら拓実は竹かごを掴み、着替えるために昨夜泊まった部屋へと場所を移す為に歩き始める。そんな二人の遣り取りを見ていた秋蘭は、拓実と華琳が主従ではなく、友人であるかのように見えていた。
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「あ……私……?」
いざ拓実が部屋を出る、という時に寝台の方から声が聞こえてきた。部屋から出ようとしていた拓実は
「……桂花ったらもう起きてしまったのね」
残念そうに呟く華琳。拓実が振り返ると、桂花が上体を起こそうとしているところであった。周りに人がいることに気づいていないのか、何やら額に手を当てて俯き、何事かを呟いている。
「私、確か、備蓄の調査を終えて、華琳様と春蘭が来て……そう、最後何故か華琳様が二人いて、いいえ、そんなことあるわけないもの。あれは、夢よ。ありえない。華琳様に会えないでいたからって、そんな馬鹿なこと……」
「あら、夢ではないわよ、桂花」
「え、華琳様ぁっ!? そんな、何故私の部屋に?」
顔に手を当て記憶を整理し始める桂花に向かって、華琳は声を掛ける。記憶が混乱しているらしい桂花は、今自分がどうして気絶していたことも覚えていないようだった。ばっと寝台から起き上がり、すぐに華琳の姿を見つけると吃驚した表情を浮かべた。
「だから、夢ではないと言っているの。拓実、こちらへいらっしゃい」
「……ええ、わかったわ」
同じ声色で発された言葉に、自然と桂花の視線が拓実へと向いた。そして驚愕に目を見開く。まさしくありえない者を見た目であった。
「華琳様が、二人……!? えっ、どういう……あの……」
「いいえ、華琳は私よ。この者は、今日より私の臣下に加わることになった南雲拓実という者」
「南雲拓実よ」
拓実は静かに笑って、桂花を真っ向から見つめる。華琳にしか見えない拓実に見つめられ、桂花は僅かに頬を染めている。
「先ほどは悪かったわ。まさかああも大事になるとは思っていなかったの。言い訳するつもりはないけれど、貴女と春蘭に与える罰と華琳が言うものだから」
「あの、何を? ……えっ、もしや、私の部屋に、春蘭と共に訪れた華琳様は……?」
「私ではないわ。この子よ」
拓実の謝罪の言葉から、桂花の明晰な頭脳は答えを導き出す。桂花の顔はその答えを否定して欲しいと書いてあって、声もまた縋りつくようなものであった。
それを華琳は無情に切って落とした。瞬間、桂花はびくり、と震え、顔があっという間に蒼白になっていく。震える桂花を満足そうに眺めた華琳は、言葉を続けた。
「まぁ、桂花が間違えるのも仕方がないわ。この私でさえも驚かされたのだから。……いえ、謁見の間での拓実はこんなものではなかったか。私と気迫を拮抗させ、いざ首を落とされるという時でさえ私になりきっていたのだもの」
「く、首を、ですか!? それは、私の時のように恐らく落とされたりはしないだろうとわかっていたから……?」
「いいえ、あの時の私は間違いなく拓実の首を刎ねる気だったわ。その私の殺気を受けて一歩も退かないのだから、大したものよね」
桂花は最早言葉もない。呆然と、ただ拓実を見ていた。またもその目はありえないというものであった。
対して拓実は苦笑する他にない。拓実にしてもやろうと思ってやったことではなかったからだ。
「その後に色々とあって、この子を『もう一人の私』――影武者なる者として我が陣営に招き入れることになったわ。そしてこの子を有用に、十二分に使うには貴女の智が必要不可欠であったから顔合わせに来たという訳」
「『もう一人の、華琳様』、『影武者』……それはもしや」
「ええ。けれど大丈夫よ、貴女が危惧しているようにはならない。既に最上の秘匿として
「そう、ですか。それならばいいのですが」
ぽんぽんと一段飛ばしで会話が進んでいく。桂花の並外れた頭の回転の早さを、拓実は目の当たりにしていた。単語一つから華琳が思い描いていた拓実の使い方を推察してみせ、尚且つその問題点も突き止めていた。流石は荀彧の名を持つ少女、といったところであろうか。
「……わかりました。華琳様がそうまで仰るのであれば、この荀文若、力を惜しむ理由はございませぬ。つきましては、この方へ華琳様の名に恥じぬだけの教育を授けたいのですが、如何でございましょうか」
「ええ。私も内務面や軍略についての教育を任せるには、桂花をおいて他にいないと思っているわ。全力を以って事に当たりなさい」
「はっ!
華琳へと頭を垂れた桂花は、そのまま拓実へと向き直った。
「それでは改めて名乗らせて頂きます。貴女様の教育を任されました、姓を荀、名を彧、字を文若と申します。どうか真名である桂花とお呼びください」
「……ええ。桂花。先ほど済ませたけど、改めて私からも名乗らせていただきましょうか。姓は南雲、名は拓実。真名はなく、持つ名はこの二つのみであるから、拓実と呼んで頂戴。それともう一つ。華琳に頼まれていたとはいえ貴女の真名を勝手に預かり、呼んでしまったこと。改めての謝罪をさせていただくわ」
「いいえっ! 華琳様が直々に認め、真名を預けたお方でありますので、貴女様が謝られることなど何もございません。あの、それでは、これより拓実様と呼ばせていただいてもよろしいでしょうか?」
「そ、それは構わないのだけれど……どうして桂花は私に向かって華琳を相手にするような言葉遣いをするのかしら」
そう、先ほどから拓実は気になってしょうがなかった。それどころか、周囲で口を挟まず見守っていた春蘭、秋蘭も驚いた顔で桂花を見ている。
何故だかは知らない。だが、桂花は華琳に接するように言葉遣いを選び、そして、華琳に向けるのと同じように慕情の瞳を向けてくる。拓実が華琳とは違う人物であると知れているのだから、そんな思慕の念を向けられる理由はない筈なのだが。
「華琳様が拓実様を指して『もう一人の私』としたことから、この桂花、正しくもう一人の華琳様として敬わせて頂きたく思います。私は華琳様を支えるためにお仕えしておりますので、それは当然のことにございます。ところで、あの……よろしければなのですが、今夜、先の華琳様との謁見のお話をお聞かせいただけないでしょうか?」
「ええ。話すことは構わないけれど」
「嬉しいです、拓実様っ!」
この桂花の期待している目は、それだけではない。きっと済ませてはくれない。あの部屋の続きをするつもりなのが、ひしひしと、それほど身に痛いほどに伝わってくる。
「あら、このままでは桂花を拓実に取られてしまうわね。どうせなら私と拓実の二人で、桂花のことを可愛がってあげましょうか? 私も桂花の可愛い姿を見て昂ぶってしまっていることだし、『もう一人の私』である拓実の身体がどれだけ私と同じなのか、見ておきたいわ」
「は、はいっ! 是非、是非お願い致しますっ」
「ず、ずるいぞ桂花。華琳さま! 私もご一緒させていただきたいですっ!」
桂花の言葉にたじろぐ拓実は、そこで華琳に言葉をかけられて、何か思考に
そうだ、思えばおかしかった。春蘭から聞いて、華琳は同性愛の気があり、基本的に男を好まないと知っていたのだ。ならば何故、拓実はこんなにも華琳に買ってもらえているのだろうか。何故、拓実が閨に誘われるのだろうか。今こんなにも、熱い視線を向けられているのだろうか。
――――簡単な答えだ。華琳は、拓実が男であるなど露程にも思っていないのだ。
「か、華琳? 貴女、もしかして……」
考えてみれば、拓実がそれについて華琳に言った覚えはない。春蘭、秋蘭が華琳に説明していたのもここに来た経緯ばかりで、拓実本人については真名がないことぐらいしか話してはいなかったと思う。
「……!? か、華琳様!!」
拓実の呼びかけに僅かに遅れて、慌てて秋蘭が声を上げていた。恐らく、同じことに思い至ったのだろう。いや、拓実が男であると忘れていたのだろうか。ともかく拓実と同じく、今の今まで気がついていなかったようだ。
それにしては事情を知っている春蘭が華琳や桂花と一緒に声を上げていたが、彼女は拓実にこうも言っていた。――「お前のことは男だとは思わん」と。春蘭は間違いなく、言葉通りに拓実が女であると思い込んでいる。拓実はそれについては自信があった。
「秋蘭、いきなり声を上げたりなんかしてどうしたの? ああ、貴女も一緒に混ざりたいのかしら? いいわよ、今日は特別、全員で楽しみましょう?」
「そうではなく! いえ、拓実のことなのですが、その……」
「拓実が? 拓実がいったいどうしたというの?」
そこまで言って、秋蘭は口ごもる。冷や汗を流し、必死に言葉を探している。言い辛いのか。いや、絶対に言い辛いだろう。拓実だってそう思う。しかし、秋蘭がここまで言ってくれたのだ。ここで本人が出ないでどうするというのか。
「いいわよ、秋蘭。無理をしなくても、私から伝えるから。そうね。これについては、私の口からきちんと伝えておかないと」
そう言ってから拓実は大きく息を吸い込んだ。目の前にはきょとんした様子の華琳と、すぐ側でいがみ合っている桂花と春蘭の姿。
「華琳。すっかり言ったつもりでいたのだけれど、実は私、男なのよ」
瞬間、部屋の中のあらゆる音が消え、そこにいる者は拓実に顔を向けた姿勢で動きを止めた。
時が、止まった気がした。