影武者華琳様   作:柚子餅

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51.『拓実、思わず演技が剥がれ落ちるのこと』

 

 三姉妹の付き人をやってみないか――男たちにそう尋ねられた拓実と霞は、済南に向かうまでの道すがら付き人とやらについての説明を受けていた。

 聞くところによれば三姉妹は日程の管理をしたり、衣装の用意など身の回りのことを補佐する人材を数ヶ月ほど前から募集しているということで、拓実扮する劉岱の人柄はその募集に適任ではないかということなのである。

 聴衆が増えるに従ってその興行もまた大規模になり、三人だけでは手が回らない状態なのだろう。しかし、そうして募集をかけたところで志願してくるのは三姉妹たちに好意を持ったいい年の男ばかりで、当然ながら三姉妹はそれらを側に置いてはとてもじゃないが安心できない。そうして後に同性であることと、同性であっても彼女たちの後援会に参加していないこと、他にも幾つかの条件が付け加えられていったようであった。

 

 では何故その募集を男たちが代行しているのかと問うてみれば、黄巾党では数十人から数百人程のいくつかの『組』を作っており、それぞれが三姉妹に如何に顔を覚えてもらえるか競っているからと彼らは言う。彼ら以外の他の『組』も付き人探しは行っていて、その中から拓実たちが三姉妹の付き人になれば推薦人として印象が良くなるという考えがあるようだった。彼らにとって物事は全て三姉妹を中心に回っているらしい。

 しかし彼らは、何も知らぬ者たちからすれば年端もいかない女芸人に熱を上げては奇声を発するいい年した男たちと認識されている。特に女性の目には異様に映るらしく、世間での悪評やその風体も手伝って付き人を募って声を掛けても酷い時には悲鳴と共に逃げられてしまっている。三姉妹の追っかけの中には女性もいるようではあるが、三姉妹に顔を覚えてもらおうという考えはなく、さらに女子組として男連中とは完全に交流は断っているとのことで、三姉妹の興行に興味を示しながらも男たちを蔑視せず物怖じしない劉岱は付き人として理想的な人物であったようであった。

 

「ウチらも済南におる間はどっかで日雇いの仕事する予定やったしなぁ。聞けば払いも良さそうやし、その付き人っての受けてみよか。な、拓実」

「ええっ!?」

 

 それまで見るからに興味なさそうにして明後日を眺め歩いていた霞が、唐突に横から口を挟み出した。大仰に驚いてみせたのは拓実である。

 確かに、二人は黄巾党の足取りを掴むまでは済南に滞在する予定であった。けれども一介の行商人に扮して旅する拓実たちに店を構える資金などはないし、物珍しくもない草履や筵を露天販売したところで売上を期待できそうにはない。拓実も霞も、それぞれどこかで下働きでもして滞在費を稼ぐ予定だったのだ。

 そういう意味では、黄巾党の動向を探るようにと命じられた拓実たちにとって滞在費を稼ぎながらも青州に遣わされた目的を果たせるこれ以上ない立ち位置ではある。……あるのだが、しかし拓実はその案に賛同することができない。

 

「あの、あのう。でも霞さん、付き人には条件があるってことだし、私たちじゃ……」

「女で、追っかけじゃないってこと以外は絶対ってことでもないみたいだぜ公山ちゃん。その辺は気にしなくても大丈夫だ」

「あ、ううー。そうなんですかぁ……」

 

 唯一親しげに拓実のことを『公山ちゃん』と呼んでいる、履物を直してやった男に逃げ道を塞がれて拓実は身を縮こませる。

 

「まぁ、これまで天和ちゃんには『不潔』、地和ちゃんからは『不細工』、人和ちゃんは『馬鹿はいらない』やらと理由をつけられて落とされてるからなぁ。ま、二人とも人和ちゃんに及ばずながらもべっぴんさんだしよ、商売やってんだから俺らみたいにまったく学がねえって訳でもねえだろう。不潔ってのはどうすりゃいいのかわかんねえけどよ、とりあえず今夜の宿代は俺らが持つからゆっくり風呂にでも浸かって旅の疲れを癒してくれよ」

「おっ、ええんか?」

「おおよ、そっちには顔が利くしな。そん代わしと言っちゃなんだが、もしお二人さんが人和ちゃんのお眼鏡に叶ったら俺たちのことはよおく伝えてくれよ」

「そんくらいお安い御用や。うっし、決まりやな。宿賃も浮いてええことづくめやし、駄目元で受けてみるぐらいかまへんやろ」

 

 そうこうしている間に霞が話を進めたが為に、拓実もまた男たちの言う三姉妹の付き人とやらに志願する流れになってしまっていた。そして、任務遂行の為に動いている霞を納得させながらこの申し出を断れそうな理由が見つからない。

 

 黄巾党の動向を探る今回の任務において、三姉妹の付き人になれたのならこれ以上ない確度の情報を得ることが出来る。けれども大前提とされている『女性である』という条件に拓実は当て嵌まってはいないのである。演技中は自身を女性と思い込んでいる拓実ではあるが、流石に任務の成否に関わるとなってすんでのところで我に返っていたのだった。

 女物の服を着て女性を基にした役を振る舞っておいて勘違いもないのだが、霞は拓実のことを同性と認識している。それもこれも、華琳を始めとして拓実の本来の性別を知っている者たちが皆、最上の機密とされている影武者の正体を打ち明けた際にもそれについて口に出さないものだから、拓実もまた性別を秘匿しておかなければならないものなのだと考えて積極的に打ち明けることをしなかった為である。

 旅の間は水浴びも出来ず、それぞれ濡らした布で身体を清めていた為に男であると気づかれる機会がなかったが、こんなことになるのなら出発前にでも打ち明けておくべきだった。今更になって男たちの前で性別を訂正する訳にもいかない。意気揚々と先を歩き出した霞とは対照に、もはや為す術のない拓実は消沈した様子でとぼとぼとロバを牽いた。

 

 

 

 そうして一行は夕刻に済南に辿り着いた。街を横断する遠目からも見渡せる黄土の混じった大河は、運河として商業・農業を支え、遥か古代から済南を青州最大の都市として栄えさせてきた。都市というだけあって、いくらもしないうちに日が沈むというのにこれまでの寂れた道のりがウソのように人が溢れている。

 拓実と霞は男たちに先導され、船で大河を渡った先にあるこれまた三姉妹の追っかけが主人をしているという宿に通された。その店構えは立派とは言えなかったが曲りなりにも風呂付き。これまで旅費節約の為に野宿、そうでなかったとしても農家の軒先や納屋を借りて夜を明かしてきた二人にとって、雨風に晒されず布団で眠れるというだけでも上等である。

 

「今の時間、浴場は女湯らしいな。折角やから飯の前にひとっ風呂浴びとこか。ここまで酒も節制しとったんやし、今日ぐらい風呂あがりに一杯やってもええよなー?」

 

 当然のように拓実と霞に宛てがわれ、荷物を運び入れた客室。机一つと寝台が二つばかりあるだけの手狭な部屋では、霞が肩をほぐしながら入浴の準備を進めていた。

 霞は宿に風呂があると知ってからは見てわかるぐらいに機嫌が良い。きっと、任務達成の糸口を見つけたことも無関係ではないだろう。そんな霞に声を掛けられたものの、拓実は返事も返さず思いつめていた。寝台に腰掛けたままで動かずにいる。

 

「拓実ー、何ぼさっとしてんねん。ほれ、行くでー」

「あの、待ってください霞さん。ちょっとお話をしておかないといけないことがあって」

 

 ここに至るまでにああでもないこうでもないと悩んでいた拓実だったが、これではいけないと意を決して霞へと顔を向ける。

 せめて、三姉妹と面通しを行う前に霞には話をしておかなければならない。このまま明日を迎えれば、事情を知らされていない霞の一言によって任務が失敗しかねない。

 

「あん? それは風呂に入りながらやとあかんの?」

「入る前じゃないとダメなんです!」

「もー、何やねーん? 話があるってんならさっさとしぃやー」

 

 楽しみを先延ばしにさせられて唇を尖らせる霞を前に、拓実は目をぎゅっと瞑り、息を吸い込む。

 

「その、たぶん霞さんも私の胸に触った時あんまりにぺったんこで不思議に思ったんじゃないかと思うんですけど……私、実は女の人じゃないんです」

 

 おずおずとしたおっかなびっくりな態度だったが、しかし拓実は言葉の上でははっきりとそう告げた。

 同性と認識していたからこそ、劉岱に気安く接していた部分はあったろう。あまつさえ旅の道中では、霞が半ば無理やりに推し進めたとはいえ互いの背中を拭きあったり、力仕事の代わりに下着を含む衣類の洗濯を任されたりと、異性相手であれば避けるようなことも済ませているのだ。

 最近になってようやく互いにとって気の置けない友人となれていたのに、これで嫌われてしまう――そう思った拓実は、霞の顔を直視できなかった。両目をぎゅっとつむってから恐る恐る片目を開いて、霞の反応を伺う。耳のすぐ後ろからばくばくと音が聞こえてくるぐらいに、心臓が暴れている。

 

「ほぉか、拓実は男って言いたいんか。……で?」

「えっ?」

 

 だが当の霞に呆れ返ったような様子で続きを促されてしまったものだから、拓実は目に見えて怯んだ。まったくの想定外だったのだ。間違いなく衝撃的な告白をしたというのに、反応があまりに素っ気ない。

 

「あの、『で?』って言われても……。えっと、ですから一緒にはお風呂に入れませんし、あと、付き人のお話も霞さんにお願いしたくて」

「やっぱウチが風呂一緒しようって言ったからかい。はぁ……あんなぁ拓実、いくら自分の身体に自信ないからってそないなしょーもないウソ吐いてどないすんねん」

「へ? あれ?」

 

 歩み寄った霞は拓実の肩をぽんぽんと優しく叩いた。拓実は目を白黒させて霞を見返すことしか出来ない。

 

「えーか拓実、よう聞いとき? お前さんの胸をまさぐってから先、ウチが変に気ぃ使うてしもたからそないに気に病んどるのかも知らん。拓実もあれからウチに裸見せんようしとったしな。せやったんならホンマにすまんかった。けどな、世の中には小さい方がむしろええっちゅう奴もおるんや。いや、乳しか見ぃひん野郎はこっちから願い下げって態度やないとあかんな。でかないと嫌やー言う男を好いたってんなら、それは拓実に男を見る目がなかったっちゅーこっちゃ」

「あの、霞さん?」

「こう言っちゃなんやけどな、確かに拓実の乳は大きいとは言えん。はっきり言うたら見渡す限りの平野や。せやけどウチと違って料理は出来るし、洗濯も繕い物も得意やろ? 気は利くし、器量もええ。ちょっと抜けとるとこなんか守ってやりたくなるし、武一辺倒に生きてきて無頓着やったウチが『拓実より年上なのに女としてこれでええのかなー』なんて考えるぐらいには女らしい。拓実を嫁に欲しいって男は掃いて捨てるほどにおる筈や。言うたら、ウチが嫁に欲しい!」

「はぁ……えっと、ありがとうございます?」

「つまりや! ウチが言いたいのは自分の持ってる武器で勝負せなあかんっちゅうこと! ないものねだりしたってしゃーない、目ぇ逸らしたって何の解決にもならんねん! せやろ、拓実?」

「え、は、はい。それについては、私もそう思いますけど……」

 

 霞が真剣に女子としての心構えを語り始めたものだから、拓実は何としていいものかわからずに視線を惑わせ、勢いに押されてついついお礼まで返してしまう。

 次いで隣に腰掛けた霞に両肩を掴まれた拓実は無理矢理に向き直され、そうして真っ直ぐに見つめてくる霞に対してドギマギしてしまう。当の霞はといえば自分の吐いた言葉に感じ入った様子でうんうんと頷いていた。

 

 しばらく目をパチクリさせていた拓実だったが、ようやく思考が追いついてきた。どうやら、霞は拓実の言葉を欠片も信じていない。可能性すら考慮してくれなかったのは、拓実がこの旅の間に女の子女の子している『劉岱』の演技を徹底していたのも無関係ではないだろう。

 

「さ! わかったんなら風呂行くで!」

「あのう。さっきも言いましたけど私は霞さんと一緒にお風呂には入れないので、後で一人で済ませますから……」

「はぁ……。まだそれ続けんのかい。へえへえ、ほんなら風呂一緒すれば拓実が女かどうかの確認も出来るやろ」

 

 言うが早いか霞は拓実の着替えが入った布袋を担ぎ上げると、片手で拓実の腕を掴んで無理やりに引っ張りあげた。拓実はあっさりと立たされてしまう。

 

「霞さん? えっ? ええっ、まさか……」

「うはは! 拓実の手ぇはちっこいなぁ! 背も低けりゃ体重も軽い。こんな形で男とか笑わせるわ!」

「い、いやぁ!」

「イヤよイヤよも好きのうちってな!」

 

 武術の鍛錬によって鍛えに鍛えられている霞の細腕は、いくら振りほどこうとしてもびくともしない。拓実は抵抗もむなしく廊下を引きずられていった。

 

 

 

 

「おおおー! 貸し切りやぁ!」

 

 喜色に溢れた霞の声が、奥で反響している。拓実はそれに反応して顔を上げたかけたが、視界に肌色が入って慌てて顔を背けた。

 拓実にとっては幸か不幸か、中身はともかく安宿のような佇まいであるからか利用するのは男性ばかりのようで、この日に女性客として宿を取っているのは拓実と霞以外にはいないようだった。

 

「あっ、あの、霞さ、ちょっと待……」

 

 無人の更衣室に無理やり引きずりこまれるまでにも必死に弁明していた拓実だったが、風呂に浮かれている霞は話半分にしか聞いてくれない。口で言っても信じてくれない以上、こうなっては実際に男であるところを見せる他ないと覚悟を決めて服を脱いでいるうちに、霞はさっさと裸になって手ぬぐいを片手に浴場に入っていってしまった。

 いっぱいいっぱいになってしまってもたついていたのも確かではあるのだが、サラシに袴、羽織一枚という軽装の霞よりも、ブラウスにベストを重ね、スカートの下にサイハイソックスまで履いて着飾っている拓実の方が脱衣に時間が掛かるのも当然であった。

 

「あああ、どうしよう……」

 

 遅れること数分、ようやく服を脱ぎ終えた拓実は浴場に繋がる木戸の前で立ち尽くす。最早演技どころではない。これから拓実は、入浴者のいる女湯に全裸で突入しなければならないのだ。どんなに都合の良く想像しようとも変態である。おろおろとあちらこちらに視線をやっていると、頭の動きに合わせて背中にまで伸びた金髪が揺れている。

 

 ――いっそ服を着直し、部屋に帰ってしまおうか。そんな考えが拓実の頭を過ぎった。いや、しかし、この場をやり過ごしても問題を先送りにするばかりで何の解決にもなりはしない。

 こうなった以上拓実が裸体を晒すのは仕方がない。三姉妹の付き人に志願することになるとは予測できないにしても、自業自得な部分も多々あった。周りが言わないものだからと思考を止め、右へならえをした結果がこれだ。反省と共に、受け止めなければならない。

 けれど、だとしてもこのまま女湯に入っていくことは出来ない。拓実が霞の裸体を直視してしまうというのは違う。いくら明け透けな霞であろうと異性に裸を見られていい気はしないだろう。霞まで恥をかく必要はない。

 その光景を想像しただけで顔から火が出そうになる拓実ではあったが、自分一人が部屋で脱いで見せるのなら多少なり傷も浅い筈。裸を晒すにしたって二人共が全裸である必要はないのだ。そうだ、きっとそうに違いない――頭の中いっぱいに言い訳を並べ立てた拓実は、その場からの撤退を決めた。

 

「拓実ー、なーに手間取ってんねん。ウチ、もう体洗い終わってもうたでー!」

「あっ……!?」

「え?」

 

 意を決したのと同時に、がらりと拓実の目の前にある木戸が開かれる。更衣室と浴場を隔たるものがなくなったその先、拓実の目の前にはあられもない姿で木戸を開いた体勢の霞がぽかんとした顔で立っている。思いも寄らない状況に、互いに言葉もない。

 

 拓実は呆然と、思考を止めたままに目の前の情報を読み取っていた。

 荒事に首を突っ込んでばかりでちっとも女らしくないと旅中でしきりに言っていた割に、霞の肌には目立った傷もなければ見るからにきめ細やかで、鍛えられた身体は筋肉質でありながらも女性らしい丸みは失われていなかった。

 目を惹くのは、いつもは後ろでまとめて上げていた紫の髪。こうして下ろしてみれば腰にも届くほどの長さで、水気を含んで艶やかなそれは霞をおしとやかな印象に見せている。その前髪の毛先からぽたんと滴った雫は、彼女の鼻へ落ちると顎からほっそりとした首を伝って鎖骨の間を滑っていく。ついつい拓実がその行方を目で追っていくと、すぐに豊かな乳房へと行き当たった。起伏に沿って流れ、二点の薄紅色に挟まれた谷間を通り、更に雫は落ちていく。そして拓実の視線も下へ。引き締まった腹筋、無駄な脂肪のない下腹部をなぞり、そしてその先の……。

 

「うへぇ……びくびくってしとって、なんや、その、形えっぐぅ……」

 

 慄き震える声に拓実は我に返った。下がっていた顔を上げると、いつの間にやらそろそろと拓実の下方へ向けて人差し指を伸ばしている霞の姿がある。

 ならって視線を落としてみれば、拓実の下腹部へと突き当たる。そこには女人の演技を止めてから本来の働きを取り戻していた、理性から独立し本能に従うソレがあった。

 

「わぁ!?」

 

 拓実はそれに気づくなり、すぐに片手に握っていた手巾で霞の視線を遮った。拓実が無意識に霞の体を眺め見ていたように、霞もまた拓実の体を観察していたようである。

 興味深げにしていた霞は不思議そうな表情を浮かべたまま、のろのろと顔を上げた。自然と、拓実と霞は互いの顔を見つめ合うことになった。

 

「ひぃあ!?」

 

 一拍の後、絹を裂くような悲鳴を聞き届けるや拓実の意識は暗転。ぶれる視界に最後に捉えたものは、涙を浮かべ赤面している霞の顔と迫り来る拳であった。

 

 

 

 

 

「……っと?」

 

 身体を起こそうとして失敗した拓実は、引きつり思うように回らない首に手を当てた。身体がいうことを聞かず、起き上がれなかったのだ。

 身動(みじろ)ぎすれば体中のあらゆるところが打ち付けたように痛む。訳のわからないままにぎこちなく視線を巡らせ、遅れて拓実と霞に宛てがわれた客室の、寝台の上に寝ていることに気がついた。

 しかし、部屋には拓実の記憶に無いものがあった。拓実が横たわっている寝台と、霞が使う予定であった寝台との間に大きな布が吊り下げられていて、そう広くもない部屋を分断しているのだ。当然ながら向こう側は見通せない。

 窓は跳ね上げ式の木の板で閉じられていたが隙間からは明かりが漏れていて、部屋の中は薄ぼんやりとしている。早朝か、あるいは夕方だろうか。外から聞こえるのは鳥のさえずりばかりで、生活音がほとんど聞こえてこないことからおそらく早朝なのだろうと見当をつけた。結局いつの間に寝ていたのかもわからない拓実であったが、ともかく上体だけでも起こそうと掛け布団を剥いだところで己の姿が目に入る。

 

「何、この格好……?」

 

 拓実は前も留めていない着物を一枚羽織っているだけで、その他には下着も何も身に着けていなかった。着物一枚の下が全裸であると認識して――『裸』という単語で、一気に記憶が戻ってくる。意識を失う前にいた場所、そこで起きたこと。そこから立てた推測に、浮かんでいた疑問がいくつか氷解していく。

 それに連鎖して、拓実の脳裏には春蘭の姿が浮かんでいた。この時代に来たばかりの頃、彼女に殴り飛ばされた時も何をされたのか理解する間もなく昏倒させられたのだ。それから色々なことがあったものだから、あのやり取りもひどく昔のことのように思えてしまう。

 

 もそもそ寝台から這い出てきた拓実は、部屋に置かれている水瓶の水と手拭いを使って顔を拭き、着物一枚から劉岱の服装に着替えると、慣れた手つきで髪を結んでツーサイドアップへ変える。大陸に来てから伸びが遅くなっているとはいえ、数年経った今では拓実の髪もすっかり長くなった。カーラーなどの道具があれば、ウィッグを使わずとも華琳の髪型も再現出来るだろう。

 

「そ、そのー、霞さん、起きてます?」

「っ……ちょい待ち!」

 

 霞が寝ていることも考えて静かに身支度を終えると、拓実は意を決して部屋中にかろうじて届くほどの声で呼びかけてみる。すると、動揺する気配があった。

 それから少し遅れて、焦った声が飛んで来る。言われたとおりにそのまま少しばかり待ってみると、布の向こうからは忙しなく物音が聞こえてきた。

 

「あー……拓実、開けてもええか?」

「えっ?」

「その、服とかちゃんと着とんのかってことやけど……」

「あ、はい。大丈夫です」

 

 布が少しだけ捲られて、その隙間から霞がちらちらと覗いてくる。拓実がいつもの服装であることを確認してほっと息を吐くとようやく布が除けられた。

 

「おはようございます、霞さん。あのう……」

「お、おはようさん。なんや、昨夜はすまんかったな」

 

 布が取り払われた先に立つ霞は挨拶もおざなりにして、きまり悪そうにそう言った。俯きがちに顔を逸らして拓実と目を合わせようとしない。

 拓実としても結局のところ彼女の裸をまじまじと見つめてしまっていた為に、気恥ずかしさから視線をあちらこちらへと逃がしてしまう。

 

「ええっと、それじゃあ」

「……お前さんの言っとったのが冗談やなかったってのはわかったわ」

 

 続けて「あんなモン女にはついてへんしなぁ」と呟いて、何を思い返したのか霞の頬が染まる。そういえばと、自分の身体をまじまじと見られていたことを思い出して拓実もまた赤面した。

 微妙な空気が流れる中、頭を振って気を取り直した拓実は霞に向かって深く頭を下げた。

 

「霞さん、今まで黙っててごめんなさい。話さないようにとは言われてなかったんですけど、誰も性別について触れないので明かしたらいけないのかと思い込んでました。こんなことなら最初に話しておくべきでしたよね」

「せやなぁ。ま、その格好の拓実に会うてすぐ言われたかて、信じたかっちゅーとわからんけどなぁ。ウチ、完全に女と思い込んどったもん」

 

 はは、と乾いた笑いを浮かべた霞は頬を掻き、真っ直ぐ見つめてくる拓実から逃れるように顔を逸らした。

 先程から一度も霞と目が合っていない。霞があちらこちらへと視線をやっているからだ。いくら互いに異性の裸体を見てしまったとはいえ、流石に不審に思った拓実が霞に近づいていく。

 

「霞さん、大丈夫ですか?」

「ちょっ!」

「え?」

「や、何にもあらへん! あらへんよ!」

 

 具合でも悪いのかと顔を覗きこむようにして声を掛けると、今度は視線だけでなくあたふたと挙動までおかしくなる。霞はびくりと身体を揺らして拓実から距離を取った。

 怒っているという訳でもないのだろうが、竹を割ったような性格の霞であるからこんな歯切れの悪い態度を取られるのは初めてのことだった。

 

「でも……」

「いや、調子悪い訳やあらへんねん。ただなぁ、その……ウチ、拓実のこと同性かと思て、旅の間に色々やらかしてもうたやん?」

「それは、その、黙ってた私が悪い訳ですし……」

「ちゃう。ちゃうねん。そないなことやなくて、そのな、女の心構えやら男の落とし方やらと偉そうに語っとったけど、実は、これまで色恋沙汰には無縁やったからほとんど当てずっぽうでな、それをな、ホンマモンの男の拓実からしたらどう思われとったかって考えると……うああああ!」

「あー……」

 

 頭を抱え、恥じ入るようにしている霞の顔は真っ赤に染まっている。

 ……確かに、旅の最中に世間話の延長で霞に恋愛遍歴を訊ねられたことがあった。男となんて付き合ったこともないと返したところ、したり顔で男心を掴む方法やら教えてもらったこともある。はっきりとは言ってなかったが、荒事だけでなく恋愛においても百戦錬磨であるような口振りであった。

 その時の助言も、男は単純、落とすには胃袋からだとか、長続きするには閨でのことが大事だのと、どこかで聞き齧ったような当たり障りのないようなことばかりだった気もする。拓実としてもどう応対していいかわからないので深く突っ込んだりはしなかったが、今思えばその時の霞は妙に饒舌で落ち着きなかったかもしれない。

 

「しゃーないやん……男の知り合いなんて飲み仲間ぐらいのモンで、そいつらウチのこと女なんて思ってへんし、実際男友達と飲んでるみたいだなんて言われとったし……。ウチかて年長としての矜持もあるし、この年でおぼことか思われたないやん……下の人間に助言したってええやん……」

「その……」

「そら、うちを打ち負かせる奴やないとって構えてたのが良くなったのかもしれん。けどな、勝てないまでも部下に見込みある奴だっておったんや。勘違いやなければウチも慕われとったのに、あっさり年下の村娘とくっついて子供こさえて。なんやねん『張遼将軍に釣り合う男なんていない』ってのは。それを決めるのはウチやないんかい! そもそもそんなん食堂で話すなや! 周りの人間も同意しとるってなんやのもう! そら回れ右して外に一人で飲みに行くわ!」

「あ、う……」

 

 頭を抱えたまま、霞はその場に座り込んでぶつぶつと何事か呟きだした。聞こえていないと思っているのだろうが、しっかり内容を聞き取ってしまった拓実は霞の様子にいたたまれなくなった。

 それがあんまりに不憫で、可哀想で。でもきっと霞は勘違いをしている。だからだろう、拓実がらしからぬ賛辞を述べ始めてしまったのは。

 

「で、でも、霞さんすっごい綺麗で美人ですし、体つきだって女性らしい理想の体型じゃないですか!」

「あん? や、まぁ自分のことながら顔立ちは悪ないとは思っとるし、酒飲みって自覚はあるから体型には気を使っとるけど……けどウチには女らしさなんてちっとも……」

「部下の人にしたって、霞さんは将軍としての功績があったから気後れしちゃったというか、高嶺の花というか、憧れの人だったんだと思いますよ! それに、その、霞さんは可愛らしくて、十分に女性らしいです! 保証します!」

 

 ぐっと握りこぶしを作って、座り込んで消沈している霞に向け拓実は熱弁する。如何に霞が魅力的な女性であるか、拓実は旅の中で知っていたからだ。

 ちょっと呑兵衛なところはあるけれど、面倒見が良くて、明るくて、優しくて、義理堅い。可愛くて美人でおまけに腕っ節まで揃ってる霞がこんなにも自分を卑下していることが、拓実にはどうにも我慢がならなかったのだ。

 

「拓実は優しいやっちゃなぁ。ええんやで、そないな気ぃ使わんでも」

「気なんてつかってません!」

 

 力なく笑みを浮かべた霞はすっかり自信を失っているらしく、不安げに両手を胸の前でもじもじとさせている。霞の心に、拓実の声は届いていないものと感じた。

 拓実は、こちらを見ようともしない霞のその手を、両手で握った。発された強い声に驚き、その上に手を握られたことで、霞はハッと顔を上げる。そして、まじまじと拓実の顔を見返した。

 

「……ほんなら、拓実はウチのこと、綺麗で可愛いって思うの?」

「戦ってる霞さんは凛々しくて綺麗で、笑ってる姿は無邪気でとっても可愛いです!」

「ホンマに女らしい?」

「間違いないです! 一緒に居たら誰だってドキっとしちゃいますよ!」

「ほんなら……嫁に欲しい?」

「はい、欲しいです! 是非来てください! ……ん……嫁?」

 

 不穏な言葉が紛れているのと、霞の様子が変化していたことに、拓実は同時に気がついた。そしてそれは遅すぎた。

 当初はきょとんとした顔つきで自分に訴えかける拓実を見つめていた霞だったが、いつからか頬を上気させて恥じらい、しかしこれまで見たことのない艶やかな笑みを拓実へ向けていたのだ。

 

「……う、ウチ、初めてや。そりゃこれまで荒くれモンから粉かけられることはあったけど、こんな真剣に、面と向かって口説かれたの」

「いえ、口説いてた訳じゃ」

「しゃ、しゃーないな! 嫁に欲しいとまで言われたんなら、無碍には出来ひんってか、正直なところ悪い気せぇへんし。裸見られてもうたからやっぱ責任は取ってもらわんと。そうなるとウチ、姉さん女房?」

「あの、霞さん?」

「んー……拓実は腕っ節の方はからっきしみたいやから、ウチが稼いで……いや、あかん! あかんな! お互い知らんことも多いし、まずは恋人、やなくて、と、友達からやな!? せやろ!?」

「ごめんなさいちょっと待ってください」

 

 身を乗り出すように詰め寄ってくる霞に対して、声色を作ることも演技も忘れ、拓実は制止の声を上げていた。

 霞は熱に浮かされた様子で、たぶん正常な判断ができていない。のぼせ上がっている。これは、消沈している女性に口八丁でつけ込んだ悪い男、という形になるのだろうか。

 

「あのですね、今のはあくまで客観的に見ての話というか」

「はあー? はいはい! つまりウソか!? やっぱウチみたいな粗忽者なんかは嫁に出来ひんってか!! 知っとったわ!」

「そうじゃないです! そうじゃないんです! ごめんなさい!」

「ご、ごめんなさいってなんやー!! ウチ振られたんか!? いつの間に!?」

 

 これ以上ないほどに混乱していた。拓実も、霞もである。

 ここで理由もなしに無理だなんて言えば霞のプライドを著しく傷つけることになるだろう。それはしたくなかった。だからといって霞と結婚を前提にした付き合いをしたいなどと答えることも出来ない。確かに霞は女性としても人間としても魅力的だしもちろんのこと恋愛対象になるけれど、異性として好きかと問われればまだ判断すらつかない。付き合っていくうちに相手を知っていくのもまた恋愛であるが、拓実はそれをしたくなかった。好きかどうかもわからないのにそういったことを決めてしまうのは不義理だと思えたのだ。拓実の恋愛観・貞操観念は華琳が評するところによると『曹操陣営の誰より生娘みたい』とのことである。

 

「お願いですから落ち着いて!」

「ウチは冷静や!」

「そ、それなら話を聞いて欲しいんですけど」

「おう、何や言いたいことあるなら言うてみーや!」

 

 興奮して肩で息をしている霞。明らかに冷静ではなかったし何故か喧嘩腰だったがとりあえず話は聞いてくれそうだったので、霞に椅子に座ってもらって拓実は仕切り直しにこほんと一つ咳払いをした。

 

「ええと、それじゃ、改めて自己紹介からします。()、南雲拓実って言います。華琳には彼女の代役――曹操の影武者として雇われてます。そうじゃなくても荀攸として政務したり、許定って名前で街の警備をしてます。他にもいくつか名前を貰ってますけど、女性の演技の練習ってことで全部女としてです」

「お、おう? 南雲?」

「はい。大陸の外出身なので、こっちとは名前の付け方がちょっと違うんです。本名は南雲拓実っていうんです。で、話を戻しますけど、仕事の関係で普段の生活から女として振る舞ってるので、女性の方とお付き合いしたり結婚したりなんて絶対に出来ないんですよ」

 

 拓実なりに霞のことを傷つけず、かつ穏便に思いとどまらせる方法を考えてのことだったが、とりあえず付き合ってみるのと果たして本当に不義理だったのはどちらだったのか、一瞬そんなことが頭を過ったが拓実は無理矢理に打ち消した。兎にも角にも、この場を収めるのが先決だと判断したのだった。

 

「……はー、なるほどな。渋っとったのはそういうことかい」

 

 拓実の話を聞いてからしばらくうんうんと唸っていた霞はぽんと手を打ち付けると、会得がいった様子で無理矢理に難しい顔を作る。

 

「拓実の事情はわかったわ。目の前に、ほ、惚れた相手がおっても告白も出来んちゅーことやな。そらまた難儀な話やなぁ? な?」

 

 霞の口の端はひくひく吊り上がっており、内面からは別の感情が漏れ出ている。そんな風に拓実を覗き見ては頬を染めている霞を前にして、どうやら根本的な誤解が解けていないことを知らされた。

 励ましの言葉は口説き文句と取られ、その真剣さと熱の入りように霞は拓実にしがらみさえなければ求婚されていたぐらいにベタ惚れされていると思われているようである。さらには、異性に真っ向から好意を向けられた経験がなかった為に、どうやら拓実を強烈に意識してしまっているようだった。

 

「いや、ぐ、むむむ……!」

「何に対しての『むむむ』やねん」

 

 はっきり言えば勘違いではあったが、霞がそれと言葉にしている訳ではないので訂正出来なくないものの難かしい。『あなたに恋愛感情は持っていませんよ』などとはナーバスになっている霞に告げられなかったのだ。

 しかしどちらにしても異性としての付き合いは出来ないとは伝えてあるので、誤解は追々解いていけば一端置いておいてもいいかと思い直した。何のことはなく、ただの問題の先送りである。

 

「とにかくですね、そういう訳なんでバレた時のことを考えるとすごい騒ぎになっちゃいますから、付き人の話も劉岱は抜かしてもらいたいんです」

「や、ウチ一人だけでってのは難しいのとちゃうか? あいつらにしても付き人ってのも拓実の人柄を見込んでって感じやったし、言うたらウチはおまけみたいなモンやろ」

「ええー……でも」

「渋るのもわかるけどな、いまさら辞退するわけにもいかんやろ。もう宿代貰ってもうたし、そもそもこれ逃すといつ陳留に帰れるかわからへん。ウチもバレへんように協力したるから」

 

 華琳から命じられているのは青州黄巾党の動向調査である。行動目的やその集団の規模など、報告できるぐらいの情報を集めておかないと拓実たちはいつまで経っても帰還が出来ない。

 それに、合否はともかくとして今回の付き人に応募しておかなければ、一晩の宿泊費まで払ってくれた黄巾党の彼らへ面目が立たないというのも問題だった。宿泊費を返して交友関係を保とうにも、黄巾党と無関係である拓実たち相手に込み入った話はしてくれないだろう。それでは意味が無いのだ。

 もともと張三姉妹に、味方である筈の霞、そして他にもいるかもしれない他の付き人と、周囲が女性ばかりの環境で性別を隠し通すのは難しいものとして考えていたので、霞の協力が得られるのであれば付き人に志願するのもいくらかやりようがあるかもしれないと前向きに考え直した。

 

「……わかりました。俺一人で隠し通すのはちょっと不安だったんですけど、霞が手伝ってくれるなら」

「『霞』ぁ?」

「えっ? あ、呼び捨ては駄目でしたか? ごめんなさい」

 

 せめて事情を説明する間だけでもと、誰かの演技ではなく南雲拓実として話していた為にぽろっと呼び捨てにしてしまっていた。これまで劉岱はずっと敬語で接していたので、いきなり馴れ馴れしいと思われたのかもしれない。

 拓実が慌てて頭を下げると、にへらと気恥ずかしそうに霞は笑った。

 

「いやぁ、ええってええって。ただ、家族以外の男に真名で呼び捨てされるってのも新鮮やなぁ、なんてな! うへへ」

「……」

 

 霞の勘気に触れたのかと不安げにしていた拓実は思わず(かぶり)を振る。

 誤解について後回しにしても問題ないと考えていたのだが、早計だったのかもしれない。霞が面倒くさいことになりつつあった。

 

 

 


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