▽
「この場にいる臣下に通達を出す。拓実についての情報はそれを持つ者以外には一切の他言無用とし、私が選定する信頼に値する者だけがこれを共有すること。破りし者には例外なく厳罰を下すから覚えておきなさい」
「はっ!」
華琳は玉座より立ち上がると全員を見回して『影武者』秘匿の体制を作ることを宣言し、拓実を含む三人はその場に跪き揃った声を上げた。
「さて。そうと決まれば私の腹心にも話を通しておきましょうか。とは言っても、ここにいる者以外に拓実の存在を知らせておける者などそうはいないのだけど。まずは桂花かしらね」
新たに人を増やすことについて、もちろん拓実に否はない。今のこの陣営に誰がいるかなどわからないことである。そして、華琳が腹心というほどの者であるのなら問題は起こらないだろう確信がある。
秋蘭は瞑目して静かに佇んでいる。普段の秋蘭を知っている者であれば、それが肯定の表れであるとわかった。
「あの、華琳さま。季衣の奴には知らせてやらないのですか?」
「もちろん、季衣には知らせておかねばならないでしょう。親衛隊にも事情を知る者が必要でしょうし、立場柄どうしたって拓実とも顔を合わせる事になるのだもの」
そしておずおずといった風に疑問の声を上げたのは残る一人、春蘭だった。その質問を想定していたのか、玉座に座り直した華琳は即座に言葉を返した。続いて肘掛に身体を預け、脚を組み直す。
「けれども、あの子に伝えるのは順序として桂花の後よ。『影武者』を上手く運用するに軍師である桂花の知恵は不可欠、拓実の存在を打ち明けるならば早いに越したことはないわ。拓実には政務について学ぶ場がなければならないし、そちらの教育は桂花に任せるつもりでいたから丁度いいわ」
「はぁ。成る程、そういったわけでしたか」
得心して眉を開いた春蘭より明るい声が聞こえてくる。二人がそんなやり取りをしている間に拓実は拓実で少しばかり考えていた。知らない名が華琳から発されたことである。
今出てきた名前――華琳が重用しているらしい軍師の桂花と、親衛隊だという季衣。これらの名が真名であろうことはわかるのだけれど、三国志でいうところの誰なのだろうかというものである。魏で有名な軍師とすれば荀彧や郭嘉、賈駆あたりが浮かぶけれども、候補が多すぎて拓実には絞れない。もう一人に至ってはわかっているのは親衛隊というだけである。せめて隊長の役職ということであったなら許緒がそうだった覚えが拓実にはあるが、華琳の口から出てきた名前だからといって必ずしも拓実が知っているような有名な武将ではないかもしれない。
いくら考えたところで答えが出てくる筈もないので、拓実は諦めて顔を上げた。
「それに直ぐ知ることになるとはいえ、拓実のことを誤って口外してしまいそうな者を急いで二つに増やす必要はないわ。あの子は純真だから本質的に隠し事は向いていないでしょうしね」
そう言いながら意味ありげに、目の前で跪く三人を流し見る華琳。彼女の言う『誤って口外してしまいそうな要素』だが、拓実や秋蘭にはその一人目が誰を指したものであったかわかっているから敢えて誰とは言わない。
拓実と秋蘭の視線が残る一人に集まる。ただ、口に出さずにこうして見つめるだけだ。どうやらその者は考え込んでいて、二人の視線には気がついていない。
「二つ、と言うことはだ。既に知っている者の中にも一人、口の軽い不届き者がいるのですか。……なるほど! さすがは華琳さまです」
件の人物は遅れてようやく華琳の言葉の意味を理解したようで、辺りをキョロキョロと見回していた。視線を華琳、拓実、秋蘭へと向けた後、何かに気づいたように拓実にまた戻し、まるで全て理解したかのような口振りで華琳を褒め称える。そして何故か、拓実にこそこそと近寄ってきた。
「おい拓実、充分に気をつけるんだぞ? 華琳さまはお優しいから大きな声で注意を促すことはしなかったが、お前は何だかんだで抜けているところがあるからな」
「……」
そんな春蘭を、拓実は華琳の演技をすることも忘れて呆然と見つめ返してしまった。正に絶句というやつである。この人は何を言っているのだろうか、そんな考えで拓実の頭の中は敷き詰められてしまっていた。
「なんだ? ど、どうした私のことをじっと見つめたりして、照れるじゃないか。駄目だぞ、いくらお前が華琳さまに似ているからといって、そうそう簡単に私が
この言葉で拓実は、春蘭はおバカという単純な言葉で言い表せないことを知る。その季衣という子と同じで、きっとどうしようもなく純真なのだ。この春蘭という娘は。
知らず拓実は微笑んで、こちらに耳打ちするようにしている春蘭の頭を撫でていた。拓実の頭の中にはペットを飼っている者がよく使う例の言葉が思い浮かんでいる。『バカな子ほど可愛い』というやつである。
「な、何をするかっ! そんな顔をして私の頭を撫でるのではない! ……む? 秋蘭までどうしたのだ? あれ? 華琳さま?」
そんな姉を慈しむように見ているのは秋蘭。華琳だって口元に笑みを浮かべていた。春蘭はそんな周囲の様子に驚いているようだが、そのうろたえる様子すらもいとおしく見える。愛されているんだな、と言われずとも拓実は理解できた。
「それじゃ拓実、行くわよ。私についてきなさい。桂花には備蓄確認の書類を任せておいたから、今頃は部屋でまとめて終えている頃よ」
「ええ」
言うなり、華琳は謁見の間の入り口へと歩いていく。拓実は、出来ることならこのまま春蘭の頭を撫で、飽きるまでうろたえる様子でも眺めていたい気もしていたが、その欲求を何とか断ち切って華琳に続いた。
「ほら、我々も行くぞ姉者。遅れるなよ」
「う、うむ」
戸惑いを隠せない様子の春蘭だが、とりあえず考えることをやめて先に続く三人へ追いすがった。
拓実が華琳に従って歩いていると、後ろの会話が聞こえてきた。こそこそ話しているつもりなのだろうが、春蘭の声は大きくて、どうしたって拓実にも聞こえてきてしまう。
「なぁ秋蘭。何故、私は優しく見守られていたのだ? 何ら心当たりがないのだが、知らずに何かしていただろうか」
「言うな姉者。姉者は気にせず、そのままでいいさ」
「む、そうか?」
二言三言の会話であったが、拓実はそれを聞いて優しい気持ちになれた。
程なくして、目的地に着いたらしい。歩いているうちに気づいたが、昨夜拓実が借りた部屋の直ぐ近くであった。
部屋まであと十数歩ほど、というところで華琳がおもむろに足を止める。続く三人も倣って立ち止まることになった。
「あの部屋に桂花はいる筈なのだけれど……しかし私と拓実の二人がいながら、ただ顔会わせするというのもあまりに芸がないわね」
顔合わせに芸は必要ないのではないかと拓実は思ったものだが、同時に華琳の性格からそう考えるのも無理はないことを理解していたので口は挟まない。
基本的に華琳は面白いものが好きなのである。こんな面白くなりそうな状況にあって何もしないとはむしろ考えにくい。
「はいっ、華琳さま! この春蘭めに名案がございます!」
「期待はしていないけど……言って御覧なさい」
「はっ! まず私と拓実が一緒に桂花の部屋へと入室し、仲睦まじくしているところを見せ付けてやります。当然桂花の奴は悔しがって、泣いて拓実にすがりつくことでしょう。『捨てないでー、華琳さまー』とでも言うかもしれません。それも、愚かなことに拓実が華琳さまでないとは知らずにです。しかる後に、桂花が拓実にしがみついている間に、華琳さまに部屋に入室していただくのです。あやつは混乱し、後から入ってきた華琳さまをきっと偽者と断じることでしょう。そして皆でそれを大笑いしてやるのです! 己の主君もわからぬ不忠者め、と! これならば、間違いなく桂花の奴に一泡吹かせることができましょう!」
それは聞いていた拓実が、春蘭はその桂花に恨みでもあるのではないかと邪推してしまうぐらいに、意地の悪い案であった。いつの間にか面白おかしい顔合わせをするということから、桂花なる人物に一泡吹かせることへと主旨が変わっている。いや、その慌てふためく桂花が面白いものであったなら変わってはいないのだろうか?
だが春蘭らしく細かなところの詰めは甘いが、彼女にしては良く出来た発案だ。しっかり順序立てて話すことが出来ていただけでも大したものである、というのはいささか侮りすぎであろうか。
「ふむ……なるほど」
そんな希望的観測が含まれている案を華琳が採用するとは思えなかったが、何故か華琳はそれを吟味しているようである。てっきり一言で切って捨てるものと思っていた拓実は、思わず華琳を凝視してしまう。
「悪くないわね……いいわ。春蘭の案でいきましょうか」
「ほ、本当ですか華琳さま! 私の献策を採用してくださるだなんて、光栄でございます!」
感激に咽び泣く春蘭を置いて、拓実は華琳に近づいた。いくらなんでも、これは止めさせないといけないと思ったからだ。
「華琳、あなた本当にそんな案で私の顔合わせをするつもりなの? 私とだけでなく、春蘭とのその者の関係がこじれても知らないわよ」
「わかっているわよ。拓実、少し耳を貸しなさい。今の春蘭の案に、少しだけ変更を入れるから」
流石に何も考えていないわけではなかったか。拓実は少し安心し、華琳から耳打ちされた内容を聞いてかなりの後悔をした。
▼
桂花は自室にて、陳留の街における兵糧や武具、資金等々の備蓄数を調べ直し、合算し、一つの竹簡に書き留めているところであった。
既に、新たに華琳が統治を任された他の街の備蓄は調べ終え、竹簡にまとめて終えてある。最後に以前よりまとめてあったという陳留の調査書と合わせて報告しようと見直していると、その竹簡に間違いを発見したのだった。
華琳が州牧となって間もなく、同時に桂花が華琳の下に軍師として務めてから一月とも経っていない。
以前から桂花がいれば国勢の調査など手抜かりなく出来ていただろうが、今までの文官に突出している者がいなかった為に調査が行き届いていなかったところがあった。それを見つける度に、こうして桂花がその空いていた穴を埋めることになっているのだ。
「陳留の調査をまとめていたのは、記憶違いでなければあの河馬のような下劣な顔の男だったわね。記憶に残しておきたくなんてなかったけど。これだから男は駄目なのよ。こんないい加減な仕事をするなんて、低脳で、下品で、脳味噌に
ぶつくさと文句を言いながらも、桂花の手は止まることがない。そして、程なくして竹簡に全ての情報を書き終えた。苛々をぶつけるようにして筆を置くと、竹簡の墨を乾かすためにそのままに、寝台に腰を下ろす。
「こんなことばかりに時間を取られて、ここ最近は華琳様にお会いできるのも朝にお仕事を頂く時とその報告をする時だけ。はぁ……早く墨、乾かないかしら。そうしたらすぐにでも華琳様の下へ報告に伺うというのに」
ぼんやりと書き終えたばかりの竹簡を眺める。あれが充分に乾くまで、一刻は必要だろう。いつもの桂花であるならこの時間を使って次の仕事の準備に取り掛かっていたが、どうした訳かそんな気が起きない。今桂花は、空っぽだった。華琳に会ってからでなければ、仕事をする元気が湧いてきそうにない。
「――桂花、ちょっといいかしら?」
桂花が無気力に寝台に倒れた、そんな時だった。求めている人の声が、自室の外から聞こえたのは。
「か、華琳様でございますか!?」
桂花はすかさずに、寝台から飛び起きていた。走り出しそうになる足を叱咤して、極力慌てていないよう取り繕った足取りで扉へと向かう。
「華琳さまっ」
扉を開けた先には、桂花が渇望していた姿があった。凛とした佇まい。桂花が見てきた誰よりも気高い、意志の籠もった瞳。覇王の証明たる覇気を秘めているだろう、自身とそう変わらない小柄な体躯。いつもと服装がいくつか違うが、声も姿もその気品も、桂花の知る華琳以外の誰でもなかった。
思わず蕩けそうな笑顔を浮かべかけた桂花であったが、その後ろに控えていた人物を見て一気に不機嫌になる。
「何であんたが華琳様と一緒にいるのよ、脳筋女」
「ぐっ、誰が脳、むっ、ぎぎ。か、華琳さまに、ついてこいと言われたのだ! ……ふ、ふふふ。お、愚か者め。そう言っていられるのも今のうちだ」
第一声から侮蔑された春蘭は、逆上しかかったようだったが、すんでのところで持ち直したようだ。その後何やら笑いながらぶつぶつと言っているのだが、あの春蘭が挑発に乗らなかったことと合わせ、桂花の目にはさらに異様に映る。
「何ぶつぶつ言ってるのよ、気持ち悪いわね。どんな考えで無理しているか知らないし、知る気もないけれど、あんたは猪なのだから余計なことを考えない方がいいわよ」
「こ、こいつっ、言わせておけばぁ!」
そこまで言われてしまえば元々短気である春蘭だ。激情に任せ、桂花に向かって飛び掛かろうと身を乗り出した。
「ああもう、少し黙りなさい貴女達。春蘭も、ここに来た目的を忘れないで欲しいわね。それで桂花、こんなところで私に立ち話をさせるつもりなのかしら」
春蘭を止めたのは、華琳であった。呆れた様子で、そんな二人を見ている。
視線を受けた桂花は慌てて、深く頭を下げた。会いたいと思っていた相手がこうしてわざわざ出向いてくれたというのに、他の者とばかり話をして時間を無駄にしてしまっていた。
「ああっ、申し訳ございません華琳様! 汚いところでございますが、よろしければどうぞお上がりください。……春蘭、入室は華琳様に免じて、仕方なく許してあげるけど、絶対に私と華琳様のお話は邪魔しないでよね」
「ぐっ、ぬぬぬ!」
そうして、桂花は怒りで唸りを上げる春蘭を置いて、華琳を自室へと嬉々として招き入れる――それが桂花の知る華琳ではないことを知らずに。
「申し訳ありません、華琳様。言いつけられていた備蓄調査なのですが、前任者の河馬男が誤った書類を作っていたために、まとめ直すのに今の時間まで遅れてしまいました。書類の方は書き上げてありますが、まだ墨が乾いておりませんので後ほどまた伺わせて頂きます」
桂花の部屋に入室して、華琳が目を留めていたのは机の上の開かれた竹簡と、いくつかのその束だった。仕事の報告を受けに出向いてくださったのだと考えた桂花は、申し訳なさそうに頭を下げて釈明する。
「そう、わかったわ。報告はその時に一緒にして頂戴」
「恐縮にございます」
同時に、後で構わないと言われて、また華琳と会うことが出来ると思い至った桂花は頬を緩めていた。つい先ほどまで会いたくとも会えないことに沈んでいたが、会う機会が増えるとなれば機嫌も直るというものだ。
何故か、華琳の後ろに控えている春蘭が笑いを堪えているのが癪に触るが、邪魔はしていないようなので捨て置くことにする。
「それで、本日はどのような御用向きでしょうか? 私に出来ることならば誠心誠意手を尽くしますが、備蓄調査については今しばらくお待ちくださると……」
「それなのだけれど――春蘭」
「はっ!」
声を掛けられて、後ろで控えていた春蘭が、すっ、とその横に並ぶ。そして華琳に向き直って跪き、目を瞑った。
いったい何を、と目で追っていた桂花は、思わず自身の目を疑った。そんな春蘭を、華琳は突然に熱に浮かされたように、うっとりと目を細めて眺めているのだ。
差し出した左手で、跪いている春蘭の頬の輪郭をゆるりと、いとおしくなぞっていく。そのまま下ろしていき、顎まで手が掛かると、それをくい、と優しく持ち上げた。
そして、艶々とした春蘭の下唇を、その親指で優しく撫でさする。じわじわと目に見えるほどの速度で、春蘭の頬が赤で染まっていった。びくりと体を震わせ、まぶたをひくつかせる春蘭を見て、華琳は淫靡に口元を歪めていく。
「か、華琳様!? あの、何をなさって……?」
それを目の当たりにしている桂花は、まったく訳がわからなかった。政務の跡が残る桂花の部屋に、どうして閨に呼ばれた時のような空気が蔓延しているのか。華琳が他の娘に寵愛を与えていることは知っている。自身がその内の一人でしかないことだってそうだ。しかし、何故それを目前で、それも他の娘と戯れる姿を見せ付けられているのか。
桂花は咄嗟に自身に至らぬことがなかったか振り返る。――ない、はずだ。桂花が軍師に任命されるきっかけとなった遠征で、兵糧が僅かに不足した不手際はしっかりとお仕置きされていたし、それからは目立った失敗だってしていない。むしろ先日には、よくやったとの言葉を直々に賜ったばかりである。最近構ってもらえないので、小さなところでわざと見落としを作り、華琳からお仕置きを受けようかと画策を始めていたぐらいだ。
「春蘭、目を開けなさい」
「はいっ」
そんなことを桂花が考えている間にも、突然始まった華琳と春蘭の戯れは進んでいる。
春蘭は華琳に言われて、素直にぱっと目を見開いてみせる。開いた目は、潤んでいた。熱っぽく華琳を見上げている。その目がふと横に呆然と立つ、桂花へと向いてみせた。
――勝ち誇っている。
桂花は、ぐっと唇を噛んだ。こちらを見下している春蘭を、全力で睨み返した。何だか知りはしないが、この状態は間違いなく春蘭が絡んでいて、桂花にそれを見せ付ける為に作られている。何故華琳がそんな企てに乗ったかは知らないが、春蘭は桂花を馬鹿にしにきているのだ。わざわざ、桂花の部屋に乗り込んでまで。
「どうしたの桂花。もしや嫉妬でもしているのかしら?」
「そ、それは……」
桂花が春蘭を睨みつけていたことに気がつき、華琳より声がかかった。
しかし、桂花には答えられない。答えたくはない。嫉妬していると認めてしまえば、春蘭の思うとおりに事が運んでいることを示してしまう。春蘭に、負けを認めてしまう気がしていたからだ。
「桂花。この私が聞いているのよ、答えなさい」
「ぅ、はい……。嫉妬、しています」
それも、敬愛する華琳に命令されてしまえば自身の意思など関係がなかった。ぶるぶると、桂花の体は震わせながらも、自身の心情を吐露する。最早、堪えきれずに、桂花の瞳は涙で濡れていた。
責があるのならば、言ってもらえれば受け入れた。もしあるというのなら教えて欲しかった。新参とはいえ他人の倍以上の仕事をしている自負がある。何故、そんな自分がこんな惨めな目を合わされているのか。嫉妬ではない。春蘭への、怒りや、悔しさが桂花の体を震わせていた。
「そう……」
桂花の言葉を聞き、震えているのを見た華琳はそれだけを言うと、春蘭から手を離した。「ぁ……」と春蘭が小さく漏らした声が、桂花の耳に届く。
これ以上、何を見せ付けられるのだろうと、桂花は目を思い切り瞑った。もうこれで、桂花には目の前で何が起こっているかなどわからない。
ふら、と体が揺れて、腰から砕ける。ぺたんと、床に座り込んでしまった。酸素が足りていない。頭がくらくらしている。桂花はこのまま全てを放って、気絶してしまいたい衝動に駆られていた。
「まったく、仕方がないわね」
「……えっ?」
ぎゅう、と体が圧迫された感触にびっくりして、桂花はまぶたを開いた。桂花はそうしてようやく、華琳に抱きしめられていることに気づけた。
泣いた子をあやすように華琳に抱かれたまま、髪に手櫛を通すように頭を撫でられる。桂花が訳も分からずきょろきょろと視線を惑わせていると、華琳の肩越しに驚愕に目を見開いた春蘭が見えた。
「ふふ、桂花ったら、本当に可愛い子。今日は貴女を可愛がろうと思って訪ねて来たのよ」
「かっ、華琳さま!? これでは、当初と話が……」
「お黙りなさい! 春蘭、貴女とは話をしていないわ!」
その華琳の剣幕に、声を上げかけた春蘭はびくっ、と身を竦めた。気勢を削がれ、声もすっかり小さくなった春蘭はその後も必死に気を引こうと呼びかけているが、華琳は一切を聞き届けない。
そして桂花もまた、そんな
「あの、華琳様、それって……?」
「ええ。春蘭には飽きてしまった。これからはずっと貴女に付き合ってもらうことになるのだから、もういらないわ。その代わり、覚悟を決めなさい。私は貴女を決して離したりはしないわよ?」
「あ……は、はいっ! 髪の毛からつま先に至るまで、私は全て、華琳様のものですから!」
花が開いていくように桂花の笑顔が咲いた。直前の嫌な、どん底だった気持ちは吹き飛んで、桂花はもはや天上にいるかの如き幸福を味わっていた。
――桂花の精神がまともな状態であれば、流石にこの展開のおかしさに気がついただろう。しかし、直前に華琳と春蘭の絡みを見て落ち込み、春蘭に見下され怒り、そして急激に華琳に優しくされて彼女の思考回路は半ば停止してしまっている。
「ちょ、ちょっと待っ……。飽きてしまった? い、いらない? な、何だ、この喪失感は? 華琳さまが言った訳ではないだろう! それに桂花が抱きつかれているのは、華琳さまではなく、拓実だ。何故私が、それを見て悔しい思いをせねばならんのだ! いや待て。あれは……た、拓実だよな? 拓実? ……本当に拓実なのか?」
向こうには肩を落とし、茫然自失という様子の春蘭が抱き合う二人の方向を眺めている。しかし、正しくは視界に入っておらず、必死に自身の気持ちに整理をつけているようだった。
「華琳様、あの、私もう……」
もじもじと自身のかぼちゃパンツを握り締め、必死な様子で華琳の腕の中から熱い視線を送る桂花。いや、熱いのは視線だけではなくその吐息もだし、真っ赤にさせた顔も興奮により随分熱くなっているだろう。それらが何を示しているのか、華琳にもわかっている。桂花がどうして欲しいのかも、なんとなくわかった。
「動かないで」
こんな風に耳元で囁き、桂花の動きを止めることに成功したが、しかし華琳にもこれ以上進む余地はなく、動けなかった。
いや、ここから先、華琳の演技を続けることは出来ない以上は華琳などではなく拓実と呼ぶべきか。ともかく拓実は未体験のことまで上手く演技できる自信はなかった。それに、たとえ出来たとしても絶対にやらないだろう。
そうしてどうしていいかわからなくなった拓実は桂花を抱きしめたまま、石のように固まることしか出来なかった。
▼
「桂花、失礼するわよ」
入り口から中を伺っていた華琳が形だけの声をかけて入室してくる。つかつかと我が物顔で歩く華琳の後ろには、秋蘭が控えていた。そうして中を見渡し、膝を突いて涙を流している春蘭の姿を見つけた華琳は、拓実がどうやら上手くやったことを知った。
華琳は春蘭に知らせずに演技内容の変更したものの、その大筋自体は変えていない。拓実に命じたのは、『春蘭が調子に乗り出したら、春蘭を手酷く捨てて桂花にくっつけ』である。
どちらもどちらではあったが、春蘭と桂花との間には衝突が多かった。この前などついに、口論で完膚なきまでに叩きのめされた春蘭が城の中で剣を抜くという事態にまで陥っている。その時は騒ぎを聞いて駆けつけた華琳がとりなして事無きを得たが、下手をしたら両者を失うことになっていたかもしれなかったのだ。
華琳自身のことで争っているのだろうが、それでもやりすぎである。こんな意地の悪い案を言い出した春蘭も、気に入らない相手に会うなり侮辱する桂花も、そんな二人が争うことも調和を乱す原因でしかない。そうして華琳は、一度、両者共に痛い目に合わせるべきだと考えていたのだ。
拓実の演技力もあり春蘭は華琳に言われたかのように傷心したようであるし、今幸せに浸っている桂花には拓実という別人に抱きついていることわからせて両者の均衡を取るつもりである。
結果としては上々。残るは、桂花に事情を話して、華琳の立てた計画を締めるだけである。そうして華琳が抱き合う二人のところまで歩み寄っていくと、恍惚とした表情で目を瞑っている桂花に声を掛ける。
「桂花。こちらを向きなさい」
「ああ、華琳様。桂花めは大陸一の幸せ者でございます」
「桂花……?」
「うふふ、大丈夫です。私は未来永劫、華琳様に従っていきます。貴女様から一時たりとも離れたりなど致しません」
何度か華琳は呼びかけるも、一向にこちらに振り向く様子はない。それどころか目は瞑ったまま、口はだらしなく緩められ、もどかしそうに拓実に身体をこすりつけている。
横に控えていた秋蘭も声をかけてみるが反応はなく、そんな桂花の惚けた顔を覗き込んでから華琳へと振り向いた。
「華琳様。もしや桂花は……」
「ええ、この私の声ですらも届いてはいないようね……」
華琳もまさか、ここまでのことになるとは思っていなかった。己が声をかければ、流石に正気を取り戻すと踏んでいたのだが、桂花は常人には到達の出来ない幸せな世界へと旅立ってしまったようである。
驚くべきはそう詳しくも話してはいないというのに桂花の性格を捉えてみせた、拓実の人柄把握術だろうか。その本人はというと桂花に抱き返されて動けず、頬擦りされながらも困り果てた様子で華琳を見上げていた。