影武者華琳様   作:柚子餅

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47.『賈駆、深謀を巡らせ戦うのこと』

 

「お前の予想していたとおり、敵将はとんだ腰抜けだったな。奴らが仕掛けてきたのは最初だけだったぞ」

「ふふ、下手に手出しをして反撃を受けては堪らないとのことでしょうけど、むしろ我らにこそ好都合だったわ。目と鼻の先で好き勝手に振舞う大将首に手出しを許されず、相手方の士気は見るからに落ち込んでいるもの。……詠。言われたとおり、好きにやらせてもらったわ。問題はなかったわね?」

「え、ええ。言いたいことはあるけど、策に関しては大丈夫よ」

 

 ――こいつら、やる。悠々と本陣へ戻ってきた春蘭と曹操に言葉を返しつつ、詠は半ば呆然としながらそう感じていた。

 詠が策として指示していたのは、敵味方の互いの声が届く――姿を目視できる地点で曹操に名乗りを上げさせ、敵にその存在を知らしめることだけだ。随行していた春蘭には、名乗りを待たず敵軍が攻撃を仕掛けてきた場合の護衛、及び主君を退却させるまでの時間稼ぎの役目を申し伝えておいたのである。

 敵の動きに左右される策であるから、敵軍より攻撃があった後の行動は二人の判断に任せるとは伝えておいた。運良く敵がこちらの動きに対して様子見してくれていたので、名乗りを終えた二人は敵兵に矢を射掛けられる前に退却してくるものとの考えていたのだ。流石の詠といえど、よもや名乗りだけに飽き足らず挑発を仕掛け、敵の攻撃に晒されてもその場に留まるなどとは想定外である。

 

 そうして面喰らいながらも、詠は保留中であった目の前の二人の評価を一段引き上げていた。

 まず春蘭。詠であれば持ち上げるのもようやくといった大剣を用いて馬上から飛来する矢を打ち払い、一矢も通さず見事に主人を護り切って見せた。呂布が相手だろうと主君を護り切ると豪語する春蘭ではあるが、呂布に匹敵する馬鹿げた武力を持った武将ではない。それこそ並みの武将と比べたなら桁違いの武力を誇るものの、流石に単騎で突っ込んで敵部隊を撃退させることは出来ない。

 個人の武を誇り、苛烈に攻める性質は華雄に近いだろうか。膂力に限ればどちらが優れているかわからないが、春蘭は力だけに慢心せず鍛錬を重ね、己の技を磨いてきたようである。春蘭と詠の問答はまったくの大げさではなく、春蘭には華雄の一段上の実力があるように思えた。

 更に主君への忠誠心は固く揺ぎ無いが故に、曹操本人より制止されれば突出することもない。それだけで華雄より活躍できる場面は多いだろう。ただ知力はあの華雄をも下回っている可能性があるので、抑え役に副将をつけねばならないことは変わりがなさそうである。

 

 そして、今は詠の主君となる曹操。詠の軍略家としての資質、春蘭の忠誠と武力を信じて、一歩間違えれば死地となる敵前へその身を晒した。

 戦場にて総大将の首を挙げれば、間違いなく戦功第一の手柄である。大成の道が開けるとなれば、当然将に限らず兵に至るまでがこぞって狙いを定めることとなるのだ。そんな中で物怖じする様子を一切見せず、敵兵の前で名乗りを上げてみせた彼女の胆力は人間離れしている。その上で軍略家としてはまだまだ経験不足なれど、言葉の端々には文官としても問題なく通用する高い知性を伺わせている。

 胆力か知力か。そのどちらかで彼女を上回る者ならば、大陸を探せばいくらもいるだろう。詠が驚くのは、曹操がそれら二つを同時に持っていることだ。人間という生き物は、頭が回る者ほど臆病になる傾向がある。慎重と言えば聞こえがいいが、それは理性的であるが故に危険を計算し、強く認識してしまうからに他ならない。身を顧みない無鉄砲さを持つ豪の者であっても、地位や権力を得たり、年齢を重ねることでそうでなくなる者は少なくない。守る物が増えることで、危険を己の身から遠ざけようとしてしまう。彼の劉邦にだって、我が子を捨ててまで己が身を惜しんだという逸話が残っている。それは何らおかしなことではなく、人であるなら当然のことである。

 しかしこの曹操は州牧という高い立場にあり、文官と比較しても遜色の無い理知的な考えを持ち、だというのに命を投げ打てる豪胆さをも持つのである。少なくとも、詠の今生において初めて見る稀有な人間であることは確かであった。そして、心理把握に長けている詠の理解が及ばない、奇妙な精神性を持っている。

 ただ、この目の前の曹操に関しては詠はある仮説を立てている。それが正しいのならば、目の前の曹操の性質には詠なりに一応の説明がつく。とはいえ説明がつくだけであって、常人からは程遠い人間性であることには何ら変わりは無いのではあるが。

 

 聞くところによれば、反董卓連合において逸材と呼べる者はこの二人だけでない。華雄を降し、呂布と張遼を退けた諸侯たちの中にはこの二人に匹敵する将器を持つ者もいたことだろう。

 もしも彼らが中央で官職に就いてくれていたなら、ああも宦官らの横暴を許すことはなかったのではないか。詠や月と手を取り合えたなら、宦官らを無血で粛清できたかもしれない。何故そうなってくれなかったのか、詠は今更ながらそう思わずにはいられない。

 同時に、こんな者たちが中央の要職に就かず、地方の領主とその部下に収まっているという現状に納得もしていた。月や詠は帝のお膝元を守護するという名誉に目が眩んでしまったが、彼らのような目鼻の利く者が中央に近づかなかったということは、つまりはそういうことだったのだ。幾人かが結託した程度では手の施しようが無いほど腐敗していたということに、そこで気づくべきだった。

 

 やはり詠の見通しが甘かったことに尽きる。宦官の姦計を事前に見抜き、辞退する方向に持っていくだけの発言力を持っていたのは董卓軍では詠だけだ。

 月の一族が人質に取られたのは。月が利用されることになったのは。大陸に董卓の名が悪賊のものとして広まってしまったのは。宦官が原因であったとしても、参謀であった詠の責任となる。

 

「詠。悔いるのは後でもできることよ。すべき事を終えてからになさい」

 

 思考の底へ底へと沈んでいこうとする詠を、凛とした声が引き戻す。俯けていた顔を上げると、曹操がじっと詠を眺め見ていた。

 心中をまんまと言い当てられ、詠はうろたえながらも咄嗟に表情からあらゆる感情を消した。何を根拠に読まれたのだろうか、つきあいの長い月は言わずとも詠の心底を理解していた節があったが、『洛陽に居た曹操』とは会ってから一日と経っていない。

 確かに、詠は腹芸に長けた宦官どものようには振舞えまい。宦官らは戦略面でこそ畑違いであるからお粗末なものだが、こと腹の探り合いや政略において右に出る者は大陸でもそうはいない。足を引っ張り合うことが常である洛陽において高い地位を保ち、帝を操り権力を欲しいままにするなど腹芸によほど秀でてなければ不可能である。そして、その狡賢い奴らを相手に詠は長らくやりあってきたのだ。だからこそまんまと思考を読まれたことに驚愕を隠せない。

 

「詠には金言をもらったことだし、こちらからも一つだけ助言を返しておきましょうか。これが金言となるかはあなたの心がけ次第になるけれど」

 

 内心の動揺を置き表情を欠いたまま、詠は曹操を見返した。詠とは対照に、彼女は笑みを深めてる。

 

「そうもあからさまに表情を消しては、思っているよりも多くのことを周囲に知らせるわよ。本当に隠しておきたいのなら動揺していようとも、表では何食わぬ顔で何のことだと質問を返してやりなさい」

 

 詠が意図的に作った無表情に、ヒビが入る。目を見開いて、思わずという風に頬に手を当ててしまう。

 その指摘の通り、詠は感情が昂る時にはそれらを表に出さないよう意識して表情を消すようにしていた。私塾での講釈や書から学べる軍略や政略とは違い、人と人との細かな駆け引きなどは自らの経験によって培っていかなければならない。詠なりに、相手に考えを読ませないよう講じた対策がこの無表情だったのだ。

 

「例えばそうね。あなたが宦官の一人に(たばか)りをかけたとして、あからさまに顔つきを変えるといった反応をした者はいなかった筈よ。狡知(こうち)に長けた者であるなら大方は変わらず笑顔を貼り付けたまま、あるいは逆に笑みを深くするといったところかしら。それらを相手にしては、詠では動揺を与えたのかどうかも察せてはいないことでしょう。――ふふ、一つの表情を貼り付けたままでいるだなんて、表面を取り繕っているだけの薄っぺらい皮膜に過ぎないわ。口元の引き攣り、目尻の皺、瞳の迷い、喉の動き、声の震え、呼吸の間隔……感情の起伏を表す反応などいくらもある。私からすれば、心理を読ませまいとする意図が見えるだけにわかりやすい」

 

 言われてみれば確かにそうだ。宦官は、いつでも不必要に人当たりのよい笑みを浮かべている者が多い。その者たちに幽閉された月の居場所の探りを入れようにも、仮面でも被っているかのように表情は変わらず、詠では彼らが動揺しているのかすら読み取れなかった。

 観察をすれば、そこにはまるで仮面を被った者を相手にしているような不気味さがあった。少なくとも宦官には、詠が今しがたしたように無理に顔から感情を消そうとする者はいなかったのは確かである。

 

「人間観察が足りていないわね。日頃から人間の細かな反応を観察していれば、それはそのまま『どこに気をつければ感情を読ませないか』を理解している筈だもの」

「……さも出来て当然のように言うけどね。曹操、あんたはそれを実践出来ているっていうの?」

「事前に『漏らしてはまずい内容を知らずにいる人間となっていればいいだけ』でしょう。完全ではないにしろ、難しいことではないわ」

「はぁ?」

 

 その内容を咀嚼し、飲み込もうとしたところで思わず停止する。詠は再度この曹操の発言を理解するべく考えてみたものの、やはり何を言っているのかがわからない。

 動揺や感情の起伏を隠せるのかを訊ねたのに、返ってきた答えが『そもそも動揺しない人間になる』と言うのだから詠の困惑も当然である。曹操にそれが出来るのであれば、誰も彼女の嘘を見破れない。いや、曹操のそれは『嘘にすらならない』。知らない素振りが、フリでなくなるのだ。

 そもそも大前提として既に知っていることを知らずにいられる訳がない。それが出来ないからこそ、人は嘘をつけるのだから。

 

「ま、まぁ、そのことについてはいいわよ。とにかく、正面の援兵部隊をこの場に縫い止めることには成功しているわ。敵の本隊は援兵隊から曹操発見の報告を受けた頃でしょうし、策が成っていれば遠くないうちに曹仁隊への追撃を取りやめて援兵隊に合流する筈よ。僅かな時間だろうけど、二人はそれまで休んでいて」

 

 今現在、曹操軍は宦官軍の行動を待っているので切迫している訳ではない。けれども詠は、何かに急かされるように話題を切り替えた。

 昆虫の瞳の中に意思を探そうとした時のような、あるいは温度の一切を感じさせない無機質な物に触れたような、そんな感覚があった。理解できないのに、理解できないからこそ、それが空恐ろしい。

 詠はその重たい感覚を振り払うよう将兵へと意識を向けて、次なる策の指示に声を張り上げた。

 

 

 

 両陣営が睨み合いを続ける中、ついに宦官軍側が動きを見せた。曹仁隊を追っていた宦官軍本隊が取って返し、詠たちの目前で動けずにいる援兵部隊との合流を経ず、曹操軍へ向けて進軍しているのだ。

 宦官軍が虎の子の本隊を差し向けてみせたことで、詠は先の曹操の策が成ったことに確信を持てた。あの二本の軍旗と曹操の名乗りによって、帝が未だ戦場にいるものと敵に錯覚させたのである。それはつまり曹仁隊への追撃を断ったということであり、撤退していった帝と『あちらの曹操』の退路を確保したということでもある。この討伐隊の目的を、戦闘が始まる前までに半ば達成させてしまったのだ。

 そして目的を完遂させるには、宦官軍がしばらく洛陽へ手出し出来ぬよう相応の損害を与えてやらねばならない。攻めかかろうとしている宦官軍本隊は目算で七千強、その後詰には長安よりの援兵部隊二千が控えている。これより曹操軍は三千五百の兵数で倍以上の相手とやりあわねばならないのだ。

 

「斥候、旗印の確認はまだ!? 急いで!」

 

 詠は、敵軍援兵隊の背後に砂塵が上がるのを確認するなりに前面に出ていた曹操と本陣を陣形の中ほどへ戻した。ここに至って主君を危険に晒す必要はない。ただでさえ想定以上の働きをさせてしまったのだ。春蘭が護り抜いた曹操を、詠の失策が元で傷つけるわけにはいくまい。

 本隊を戻すと、入れ替えるように春蘭が率いていた部隊を再び前曲に展開させる。その後は隊列を崩さぬよう維持しつつ、横へ逸れながらも後退を開始した。

 

「軍師さま! 宦官軍本隊、先鋒には『張』『徐』! 中ほどに『高』『郭』『楊』! 後方に『牛』にございます!」

「前曲を張遼とすれば、共に配されているのは徐晃かしら。高順、郭汜、楊定に、大将が牛輔。『高』はあれど『呂』旗はなしか。厳しいけど、そうも言っていられないわね。工兵隊、用意!」

 

 彼我の距離はまだ大きく開いていて、接敵にはまだ遠い。帝を奪って洛陽へと落ち延びていった曹操が、何故か背後から軍を率いて強襲してくるということに二千の援兵隊は動揺を隠せずにいた。数に劣るそれらの混乱に乗じれば、大した被害も受けずに撃破が可能であったろう。その有利を捨てて敵軍の動きを待ったのは、『宦官軍本隊に賈駆配下にあった将を置いているのか』を確認する為であった。

 

 張遼、呂布、華雄の三将は、月を人質を取られて行動に制限がかかる中、詠が宦官の監視を潜って抱え込んだ懐刀である。月の血族を人質に取って彼女を幽閉、そして詠は月の命を盾として傀儡とした宦官の手管に激憤し、詠への助力を約束してくれた者たちであった。

 華雄は袁術配下の将に倒されたとは聞いたものの、それからすぐに詠は月と共に拘束されて連行された為、虎牢関の守将に任命した呂布と張遼の行方を知る術を持たなかった。呂布はどこかへと落ち延びたようだが、あの義理堅い張遼は詠や月を放って置けずに撤退している移送隊へ駆けつけて、そのまま宦官本隊に組み込まれてしまったのだろう。帝や月たちを曹操軍に奪われたことで、宦官たちは董卓と賈駆の両名が曹操軍に討ち取られたものとして張遼にその仇討ちを命じ、使い潰すつもりで宦官軍本隊の先鋒に配したものと詠は見ている。

 確かに、悪辣の限りを働いたとされる詠や月を捕らえたなら真偽がどうであろうとも処断するべきであり、特に帝を保護し敗走する曹操軍に捕虜とする余裕がなければ尚更のことである。そうでなければ悪賊董卓を見逃したとして民草や諸侯たちからの非難は免れないことになるからだ。亡き者になっていると考えるのは道理の上でのことである。ところが月は董白と名を変え存命しており、詠に至ってはこうして曹操軍の軍配を握るという異例の抜擢を受けている。こうして二人揃って生きていられる現状が、合理的な考えからでは説明がつけられない。そしてそれは同時に、宦官軍にとっても慮外のことであるに違いなかった。

 

「今よ、立てて!」

 

 詠が声を上げ、工兵隊が数人掛かりで起こしたのは先に続いて、またも旗である。高らかに掲げられたのは名軍師、賈文和の所在を知らせる『賈』の軍旗。そして、共に寄り添うよう立てられた二本目の旗には房のように垂れ下がる薄紫色の花――『藤(フジ)の花』が描かれている。

 

 宦官軍本隊が攻め寄せている中で詠は護衛を連れ、誇示するように部隊の先頭に立っている。詠の策の趣意とは敵兵の心理を突き、彼我の兵数差を埋めることである。宦官軍の兵に叛意を促し離反させ、曹操軍に引き抜くことだ。

 この策を成すには、今この瞬間に動くしかない。早すぎれば混乱させた相手に落ち着かせる時間を与えることになり、遅すぎれば効果が現れるより先に戦端が開かれてしまう。敵本隊が突撃を開始してから交戦までの僅かな間でしか成り立たない策である。

 

「流石は霞ね、ボクのやり方を理解してくれてる」

 

 馬上から隊列を崩さないようにと後退を指示していた詠は、落ちてきた眼鏡を直しながら口内で張遼への賛辞を呟いた。張遼が二つの旗の意味を理解し、その上で詠の意図を汲んでくれたのだ。

 宦官軍本隊の先鋒である張と徐の軍旗を立てている部隊が突撃の勢いを殺さぬまま進路を緩やかに変え、曹操軍のいる方向から逸れていった。後続を置き去りにして明後日の方へと転回していくと、そのまま不可解な動きに困惑している宦官軍へ突っ込んでいった。最初から打ち合わせていたように、曹操軍と共に挟撃の出来る位置へと移動してくれている。事前に打ち合わせるような時間もなく、内応を示唆する怪しい動きもなかった。突然に先鋒が寝返った宦官軍は混乱の極致にある。

 

 詠が曹操軍にいることを張遼に知らせたのは『賈』の軍旗である。しかし、それだけで詠が降将となっていることを張遼に信じさせるには弱い。詠の人となりを知っているだけに、半身とも云える月を捨ててまで詠が生き長らえるとは考え難いからである。月の安否をも示さなければ、混乱を誘発させる為の虚報の類と取られかねない。

 ならば先ほど曹操が敵軍の前に躍り出たように詠もまた姿を晒せば済むことではあるが、今回宦官軍は足を止めず突撃を仕掛けている為、張遼が詠を確認するまで近づかせてしまえば突撃を止めさせることは出来ない。詠が逃げる間もなく、敵兵は曹操軍へと雪崩れ込むことだろう。

 月もまた曹操軍に降ったと張遼に伝えられるのならばいいのだが、かといって馬鹿正直に董卓軍の軍旗は立てることも出来ない。それを掲げれば月の無事を知らせること自体は出来ても、今度は首都を荒廃させた暴君を匿ったとして曹操が大陸の悪と定められてしまう。そうなったら最後、反董卓連合に参加していた諸侯をそっくりそのまま敵に回すことになるだろう。

 

 そこで詠が軍旗の代わりに用いたのが、もう一つの旗。紫色の藤の花が描かれた旗である。藤は、月の髪と色を同じくする柔らかな花。月が涼州にいた頃から好んでいた、彼女に似たたおやかな花である。これが張遼に月の無事を知らせ、かつ詠が曹操軍に降ったことが真実であるということの何よりの証左となってくれる。藤の花と月との関連を知っているのは詠の側近の者たちか、あるいは旗揚げから月についてきてくれた涼州兵だけだからだ。

 

「春蘭! 後退は終わりよ、迎撃を開始して! 前線の指揮は任せるけれど、先ほどの言付けは兵たちに伝えておいたわね!?」

 

 この局面での張遼や徐晃の裏切りに、宦官軍は対応できていない。華雄や呂布ではこう上手くはいかなかっただろう。この策は張遼の才覚に助けられている部分が大きい。柔軟な発想と状況判断の早さ、それらからの的確の指示によって、神速の用兵と称されている張遼だからこそ呼応できたのである。

 張遼が月たちを助けるべく宦官軍に合流していなければ頓挫していた策であったが、詠は彼女の義理堅さを知っている。軍師として万全を期す為に腹案を用意してはいたが、詠個人としてはそれらに出番はないものと確信していた。月を助ける為の助力を惜しまないと言ってくれた張遼を、信頼していたのだ。

 

「ああ、後事は任されたぞ!」

 

 宦官軍を睨みつけ詠の側で馬を走らせていた春蘭が目を見開いた。頬を紅潮させ、馬の腹に括っていた大剣・七星餓狼を片手で持ち上げる。

 

「兵よ! 我らの手で此度の遠征に終止符を打つぞ! この大陸を蝕む悪徒を駆逐する時が来たのだ!」

 

 春蘭の号令を聞き、戦場の空気が動き出すのを見た詠は固唾を飲んだ。この場で使えるであろう策は全て講じた。詠のこれまでの生涯において会心の出来、本来なら退却すべき兵数の不利を最大限に抑えてみせた筈である。だがそこまでやって、現状まだ有利とはなっていない。贔屓目に見てもようやく五分である。

 此度の一戦は曹操軍にとって乾坤一擲の大博打であるが、それは詠にとっても同じことだ。極悪人とされている詠と月を二人まとめて召抱えてくれる領主などそうはいない。彼女を勝たせることこそが、詠にしても唯一の活路であるのだ。さもなければ詠も月も宦官に、あるいは諸侯らによって処刑されることになる。自分のことはいい。けれども唯一無二の友である月が、悪行を着せられ利用された挙句にそんな結末を迎えるなど、断じて許せるものではない。だからこそ、詠は絶対に負けられない。

 

 

 

 

「今こそ気力を振り絞れ! 我ら一振りの剣となり、敵のことごとくを殲滅する!」

 

 その声を機に、じりじりと後退していた曹操軍は引き波が返すように一斉に突撃を始めた。春蘭は声で以って雷鳴と変わらぬほどに大気を震わせ、そして七星餓狼を敵へ向けて差し向けるや、我先にと馬を走らせていった。

 詠からの合図があるまで、春蘭は自身の身体が飛び出しそうになるのを必死に押さえつけていたようであった。けれども、彼女が逸る気持ちを抑えられぬのも無理はない。彼女の働きが背後の本陣にいる主君の道を切り開き、洛陽へと逃れる主君を護ることに繋がる。本来ならばありえない、主君二人に奉じることの出来るこの戦こそが、主君の剣を自負している彼女の本望を叶える場であろうからだ。

 詠が配下であった将を内応させた為に当初ほどの兵数差はなくなったが、それでも自軍の倍以上の兵数が相手である。敵は混乱しているが、それも長くは続かないだろう。ならばこそ初撃で如何に自軍有利の流れを作り出すか、春蘭は理屈でなくそうすべきであると知っているようである。

 

「我らには天の加護がついている! 大義はこちらにあるぞ!」

「我ら天と共にあり! 曹操軍こそが、真の兵である!」

 

 詠に繰り返すよう言われていた文言を、兵たちが掛け声代わりに叫び立てている。そうしていつしか三千を越える兵たちによる、声を揃えての大合唱となっていた。拍子を揃えて声を上げることで兵たちの連携が強まり、その勢いに押されるように全体が前へと進み出ているのである。

 言葉を浴びせられた敵兵は逆に怯んでいく。帝の存在はしばしば『天』と例えられている。実質の力を失ったとはいえその威光は健在である。朝廷で実権を握る者たちにとっては最早権威の象徴に過ぎないが、農民上がりの兵たちには神と伍する存在なのだ。彼らにとって帝の兵であることが絶対の大義となり、その彼らに刃向かう者はいかなる存在であろうと賊徒となる。これまで己が正義であると思えればこそ戦えていた部分があったのだ。ところが自分たちが帝の兵であったという拠り所が失われ、その上で帝に対して剣を向けなければならない。そうなっては士気が上がろう筈もない。

 

 敵兵が帝を抱える曹操軍に刃を向けることを躊躇っているが、帝から討伐の命を下されたという事実はない。まして宦官らは朝敵の認定をさせてもいなければ、曹操軍が帝の兵とされた訳でもない。

 劉協は後継になれどもまだ即位していない為、今この瞬間に帝という存在はこの大陸に存在していないのだ。だから、詠が唱えるよう言い含めていた『天』という言葉も帝を指したものではなく、『運命が曹操軍を勝たせようとしている』『悪である宦官を倒す曹操軍こそ正義』『我らは強い』といった意味合いでしかない。

 帝の名を勝手に使って宦官軍を敵と定めれば、例え勝てたとしても(そし)りは免れない。ありもしない勅命を吹聴して帝の身柄を盾にして戦ったとなれば、私利によって帝を傀儡とした宦官らと変わらぬ所業となってしまう。詠は自軍を鼓舞する言葉を使いながら、これまで帝を大義にしていた敵兵の心理を逆手に取って勝手に逆賊であると思わせたのである。

 

 一方で兵を率いて馬を駆っている春蘭は、そんな詠の深謀遠慮を知る由もない。己の奮い立つ心のままに目の前の敵を蹴散らしている。

 呼応した張遼の加勢もあり、曹操軍は一気に突き進んでいく。張遼と徐晃の部隊が抜けた穴を『楊』と『郭』の旗の部隊が埋めたようだが、所詮は急場にこしらえた前衛。先陣を切るべく引き絞られた弓矢のように戦意を尖らせていた曹操兵と、中盤に配されて準備もしていなかった宦官兵とでは覚悟の面で大きな差があった。曹操軍の進撃は正に破竹の如く、敵の前曲は崩れていった。

 

 

「……進軍が止まった?」

 

 そうしてしばらく。敵の大将の元まで続くと思われた曹操軍の快進撃が、敵軍中盤へと差し掛かるのを境にしてぴたりと止まる。一向に前へは進まない。

 本陣に加わり、曹操に代わって各部隊に伝令を送っていた詠は前線へと視線を送るや、すぐにその原因に思い至った。

 

「あいつ……!」

 

 曹操軍の進路を塞ぐのは『高』の旗。攻め手の春蘭側が寡兵であるとはいえ、あの猛攻を受け止め、かつ五分にやりあっているのは呂布の副将であった高順である。

 武力において、呂布は大陸最強であると詠は確信している。だがその突出した武勇に反して、部隊の指揮自体は大したものではない。呂布が前線指揮するのであれば鬼神の如き彼女につられて兵たちも勢いづき、詠であろうと止められないことがままある。だが、後方で指揮を飛ばして兵たちだけで戦わせたなら詠や張遼は元より、武一辺倒の華雄にさえも劣ることだろう。

 呂布がいつでも前線に出られるのであれば問題はないが、そうでない時に呂布の代わりに部隊の指揮を執っていたのが副官の高順である。高順は呂布に心酔していて、その武功の助けになるべく呂布の苦手分野である部隊指揮に磨きをかけていた自称の義妹である。同じく呂布に心酔している陳宮と双璧を成していて、武力は呂布、軍略であれば陳宮、部隊指揮は高順と、三人が揃えば付け入る隙がなくなってしまう。

 そして、困ったことに高順も陳宮も、官軍参謀の命令は聞いたとしても詠個人の言うことは聞いてはくれない。呂布は詠の味方となってくれているが、あくまで二人は呂布の家臣であって詠の賛同者ではない。そしてその主人が官軍からの禄を貰っている以上、呂布本人が叛旗を翻さない限りは主人の立場を護る為にこうして容易に詠の敵となるのである。

 

「恋の奴、いったいどこに……!」

 

 高順の厄介なところは個人として高水準の能力を持っていることである。呂布の副官に甘んじているが、少なくとも華雄と打ち合えるだけの武力を持っている。部隊指揮はあの神速の張遼に一枚劣るといったところであり、部隊指揮の一貫として軍略も学んでいる為に生半可な策にはかかってはくれない。本来彼女の実力があればもっと上の役職にあっておかしくないのだ。

 目に見える弱点がない分、敵に回せばある意味で呂布よりも厄介な武将である。彼女の主人を介せば一も二もなく宦官軍から離反するだろうに、それだけに呂布の行方が知れないことが痛手となっている。

 

「とにかく、このままでは夏侯惇の部隊が孤立して袋叩きになるわ! 楽進、于禁、李典の部隊を前曲の助勢に向かわせなさい! 本陣も後詰に向かうわよ!」

 

 前線が膠着してしまえば敵兵も混乱から立ち直り、兵数で負けている曹操軍は押し込まれるように包囲されてしまう。事実、前線は敵味方が入り乱れての乱戦の様相を呈してきている。

 ここで戦力を集中させて押し切らねば、いざという時に戦場からの離脱も容易でなくなる。詠が進軍指示を出したのを同じくして、数騎の伝令兵が本陣へと駆け込んでくる。

 

「前線より伝令にございます! 夏侯惇将軍が矢傷を負われました! 未だ将軍は負傷した身で前線を維持しておりますが、副将の許緒将軍が救援を願っております!」

「斥候より、敵軍本陣、後方援兵部隊と合流して撤退を開始した模様とのことにございます!」

 

 戦況が一転した。矢継ぎ早に届く伝令の声を受け、詠は総毛立つ。控える伝令兵に、怒声で問い返す。

 

「敵の殿は!?」

「『高』旗の部隊、『楊』旗の部隊が合流し依然として抗戦を続けております! およそ二千!」

「相手が撤退するのであれば、此度の出兵目的は達したものとする! 敵大将は捨て置きなさい! 夏侯惇の救援が最優先よ! 全軍、突撃!」

 

 命を受け、兵士たちから鬨の声が上がった。目の前に残る二千を蹴散らせば終わりと知らされ、兵たちの意気も一気に高まっていく。

 前曲を総崩れにされ、中ほどまで突破された敵の大将はさぞ心胆を冷やしたことだろう。さらに寡兵相手にこうまで兵数を減らされた為に、これでは帝の奪取は叶わないと思わせたのだ。

 

 そんな中で詠は顔を険しくさせたまま、前線を睨んでいる。負傷しながらも部隊指揮を続けていられるのだからとつい楽観視しそうになるが、春蘭の部隊と敵の殿との兵数差は然程もないというのに救援を寄越すよう伝令があったということは、負った矢傷とやらは軽傷では済まないものなのであろう。春蘭であれば、致命傷を受けながらも兵の士気を落とさぬよう振舞っているということが充分にありえてしまう。

 頭の中で自分の立てた作戦に落ち度がなかったかと省みそうになるも、無理やりにその思考を断ち切る。威勢を上げて突き進む本陣の兵に続き、各方面に伝令を出すや詠もまた馬の腹を蹴った。

 『悔いるのは、すべきことを終えてからでいい』。詠は、数刻前に投げかけられたこの言葉を思い出していた。

 

 

 


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