影武者華琳様   作:柚子餅

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46.『影武者、賈駆により奸雄と評されるのこと』

 

 後退していった敵部隊の五百は、丘陵の千五百と合流したようだ。曹操軍は追いすがることはせず、森から出たところで進軍速度を落としていた。

 二千に増えた敵援兵部隊に曹操軍の存在は露見しているのだが、その拓実たちに攻撃をしかけてくるでもなく遠く見える曹仁部隊を追撃している本隊方面へと移動を始めたのだ。

 

「詠。敵のこの動き、あなたにはどう見えているのかしら?」

「丘陵の千五百のあの動き……大将は恐らく李(カク)でしょうね。大方、無駄な損耗を抑えようとしているのよ。『宦官軍』のね」

 

 憎々しげに後退していく宦官軍を詠は眼鏡の通して睨み付け、吐き捨てるように言った。

 

「宦官軍の、とわざわざ言い足したからには、額面通りの意味ではないのでしょう?」

「……今現在、宦官軍を構成している兵は大まかに二つに分けられるわ。宦官及び、それに与する武将の配下にある兵と、汚名を被せられても月やボクに付いてきてくれていた兵。李(カク)たちからすれば、悪役として立てた月やボクについていた兵なんていつ離反してもおかしくない存在なんでしょう。直属の兵を戦わせるより先に、扱いにくい要らない兵を使い潰しておきたいのよ」

「なるほど。本当の意味での自兵力を使う前に、多少なり私たちの数を減らせれば御の字ということ」

 

 拓実は会得がいった風に詠に頷き返して、呆れを隠せない様子で宦官軍を眺め見た。道中の四方山話で、詠や月のここに至るまでの状況は聞いていたからだ。

 

 月の出身地である涼州で友人となった二人は、月の人徳で人を集め、詠の智謀で以って略奪を仕掛けてくる()(西部の異民族)を撃退していたらしい。黄巾党が現れ始めると大陸を回ってその討伐に尽力し、そうしているうちに董卓の名は高まり、朝廷より并州の刺史、後に牧を任せられて董卓軍は万を優に越える兵を持つに至った。

 その兵力に目をつけたのが宦官である。度重なる黄巾党の討伐により兵を消耗していた官軍は何より兵力を欲していた。そこで朝廷に召抱えるという話を餌に月や詠を洛陽に留まらせ、その間に月の親族の身柄を押さえ込んだようである。それを知らない月や詠はまんまと帝の住む洛陽周辺の防衛を命じられるがままに拝命することとなったという。

 後は拓実たちも知るとおりだ。当初こそ月が洛陽を善く治め、民には仁君とされていた。だが、黄巾党の反乱が収束の兆しを見せるや、詠が遠征に出たのを見計らった宦官らにより月は親族の命を盾に取られて脅迫、幽閉されることとなる。詠が遠征より戻ってきた時には体制は固められ、打てる手はなくなっていた。月の身柄を押さえられた詠もまた、宦官の言うことに従わざるをえなかったのだ。董卓軍の万を越える兵はほとんどが宦軍へと引き抜かれ、詠は口出しも許されず目の前で自軍が吸収されていくのを眺めることとなった。

 

 詠が言う汚名を着せられた月や詠に付き従った兵というのは、宦官らの引き抜きに応じなかった者や、宦官を通さず召抱えた張遼や呂布たちのことだ。宦官は、指揮官である詠を傀儡にしている為に、疎ましくこそ思っていたが危険視まではしていなかった。しかし、詠や月がいなくなってしまえば無用の長物ということなのだろう。

 

「宦官の奴らからすれば、いくら使い潰しても痛むものがないのだもの。確かに、悪い手ではないわ」

「ふ――本当に詠が私に討たれていたのなら、でしょう?」

「そういうことね」

 

 にやり、と詠は口の端を吊り上げた。上背のない詠が笑んだだけで、拓実にはまるで獲物を前に舌なめずりする肉食獣のようにも見える。

 敵がそのように動くのであれば、拓実たちもまた動かねばなるまい。拓実は絶影の腹を蹴って走らせると、すぐに馬頭を返して兵たちに向き直る。

 

「これよりはこの本隊が陣頭に立つ! 伝令、その旨を前曲の夏侯惇へ伝えなさい! 前曲が進路より退き次第、本陣は前進! 工兵隊は旗を持て!」

 

 拓実が声を張り上げると、即座に本隊の兵たちより数倍の声量で「応!」と返される。事前に、本陣が前曲に立つなどという指示はしていない。『曹操』が指示をすれば、兵はすぐに応える。そうあるように平時より訓練されていた。

 その中で一人うろたえたのは、これまで拓実の隣に控えていた詠である。

 

「ちょ、ちょっと待ちなさいよ! 本気なの!? ボクと工兵隊だけ陣頭に立たせればいいでしょう!? 曹操、あんたが前に出ても釣り合う程の対価は……」

「詠。あなたには、例の図面の物――作らせる旗は二つと指示していたわね? 実は、それと別にもう一つ、私から作らせている旗があるわ。なけなしの金銀糸を使った特注品よ」

「もう一つ、わざわざ別、に……? 金銀糸まで使ってって、あんた、もしかして!?」

 

 すぐには思い至らなかったのか、遅れて気づいた詠が、目を剥く。まるで突然に頭を殴りつけられたかのような、雷にでも打たれたかのような、驚愕の表情をその顔に貼り付ける。

 

「詠。これは決してあなたが言っていたような『必要以上の対価』ではないわ。私が支払うべき『当然の対価』よ」

「……ふ、ふふ。あははははっ!」

 

 呆然と拓実の顔を見つめていた詠が数拍置いて突然に天を仰ぎ、笑い出した。周囲の兵たちが何事かと詠と拓実とを見るが、真っ向の拓実は動じずに詠を見据えたままだ。

 

「こんなことを考え付くだなんて! 後世に奸雄の(そし)りを受けてもおかしくない、漢の民であればこそ避けて然るべき、けれど憎らしいほどに有用な発想だわ! 曹操! あんたに降ったこと、軍師としてのボクの天命であったと確信を持ったわ!」

「あら、光栄ね」

 

 当然という様子で軽く言葉を返し、表面上には何の感情も浮かんではいないが、しかし拓実の内心では疑問に対する答えが出たことで複雑に揺れ動いている。

 拓実からすれば、効果的に敵に混乱を与えることを目的としたならこの程度、当然に思いつくだろうと考えていたからだ。では、詠が拓実がしたような指示をしなかった理由は何なのかといえば、『漢の民であれば避けて然るべき』――これが答えであった。拓実はようやく、大陸人である詠との間にあった価値観の違いに気づくことが出来たのである。

 

「曹操――いえ、この戦を終えたら、改めてあんたにボクの真名を預けさせてもらうわ。どちらが本物かなんて関係ない、目の前のあんたにボクの真名を預ける」

 

 詠の口元は、堪え切れないというように笑みが張り付いている。それは先ほどに宦官軍を前に浮かんだ憎さ余ってからの獰猛な笑みではない。己が力を十全に揮うに足る名分を見つけ出した、昂りによる笑みだ。

 

「見せてやるわ、仮にも名軍師と謳われる賈文和(ボク)の軍略を。そして、思わせてやる。このボクに心底から真名を預けたいとね」

「ええ、楽しみにしているわ。だからこそ、この戦に我らを勝たせてみせなさい」

 

 詠は、馬上ながら拓実に静かに礼を見せた。一度、華琳と拓実に真名を預けた時に見せてから『曹操』を相手に取ることはなかった、臣下の礼だった。

 

 

 

 

「華琳さま! どうか、この春蘭めをお供につけていただきたく!」

「……そうね。では、私と詠の護衛は春蘭に任せましょう」

「はっ! お任せください!」

 

 拓実たちが前曲に馬を進めていると、春蘭が礼を取りつつも急いで馬を寄せてきた。拓実が許可を出してやると、途端にぱぁっと顔を輝かせる。

 確かに拓実の武力では自衛面で心許なかったので、季衣か凪あたりを護衛につけようと考えていたのだ。抜けた春蘭の代わりに、季衣に前軍部隊を任せるよう伝令兵を呼び寄せる。

 

「……賈駆。貴様は、華琳さまが必要だと仰るからな。ついでに護ってやる」

「はいはい、頼りにしているわよ」

 

 拓実が伝令を出している間に、春蘭が不本意だと見せながら、詠をじろりと睨みつけている。半ば喧嘩を売られている詠だが、どうやら華雄や呂布などを相手にしていたからかそういった手合いには慣れているようで、桂花のように反発したりせずあっさりと受け流している。

 どうやら言い返されると思っていたらしい春蘭は肩透かしを食らったようで、逆にやりにくそうだ。「桂花なら……うーん……」などとぶつぶつと声を漏らしている。

 

「それより夏侯惇。あんた、曹操が陣頭に出てきても止めたりはしないの? 流石にこのまま敵軍とぶつかったりはしないけれど、前曲は敵軍から矢が飛んできたりと危険だっていうのに」

「ふん。生憎だが、私は華琳さまの深謀に気づくことは出来ん!」

「自信満々に言い切ることじゃないのは確かね」

「だが、危険な場に華琳さま自ら立たねばならない、そう考えていらっしゃるということならわかる。ならば私はその危険を全て排し、お護りするだけだ。あと、貴様、華琳さまを呼ぶ時は『さま』をつけろ! 『孟徳さま』だ! いくら客将扱いとて、華琳さまを軽んじるのは許さんぞ!」

「ああ、うっかりしてたわね。そうね、ボクと『孟徳様』が二人でいる時以外は、そう呼ばないとね」

「うむ。誰かとは違って随分と物分りがいいな。……んん? なにか引っかかるが」

 

 詠は、暗に二人きりの時は呼び捨てにすると言っているのだが、残念ながら紙一重で春蘭はそれに気づけなかったようだ。対して、何故か感心した風なのは詠である。

 

「なるほど、華雄とどっこいどっこいってところかしら」

「はっはっは! 馬鹿め。華雄なんぞより私のほうが強いぞ! 私は華琳さまの剣なのだからな!」

「そうね。華雄より一段上かもしれないわ」

「そうだろう、そうだろう。賈駆……いや、詠と言ったか。軍師ながら、この私の武に気づくとは見所があるぞ。私のことは真名である春蘭と呼べ。私も詠と呼ばせてもらう」

 

 拓実は二人のすれ違った会話を聞き流しながら、思った。下手に止める者がいない方が、春蘭は他人と仲良くできることがあるのではないか。

 桂花のように武将連中を毛嫌いしている相手では難しいが――いや、現実には詠にも手のひらの上でいいように転がされているだけなのだが、険悪になるよりはよほどマシに思える。

 

「二人とも、気を緩めるのはそこまでになさい。我らが策が成れば、敵軍は後先なしの突撃を仕掛けてくるわ」

「は、はっ!」

 

 春蘭が頭を下げ、詠もまた目を伏せる。拓実は二人を眺め見て、密かに考え続けていたことを口にした。

 

「では、詠。あなたには、全軍の指揮権を貸し与えましょう」

「はぁっ、か、華琳さま!?」

「……本気?」

「名軍師と謳われた賈文和の智謀、私に見せてくれるのでしょう? 今回に限り、私を含め我が軍はあなたの指示に従うわ。上手く使って御覧なさい」

 

 拓実と詠、どちらが指揮の面において優れているだろうか。兵の運用や将の差配、それだけに関して言えばどちらが上であるのか拓実には判断がつかない。詠が感心してみせたぐらいであるから、あるいは拓実が上であるのかもしれない。

 だが、戦場で機を読み、適切な箇所で策を用いる能力は、間違いなく詠が上である。部隊という人間とは別個の巨大な生き物を相手にする場合、拓実の観察眼はさほど役には立たない。兵たちは通常の精神状態ではない為に、平時で培ってきた拓実の知識や経験が当て嵌まらないのだ。

 その点、詠は官軍の参謀として出征を幾度なく重ねていて、さらに戦場での心理把握に長けている。更には、軍略や策に対しての理解が拓実とは桁違いである。

 もしも詠が拓実の兵の運用能力を自身より高く買っているのであれば、それを含めて詠から拓実に指示させればいい。これが拓実なりに考えた、今の曹操軍にとっての最上の運用法である。

 

「そう、こうまで期待されたのなら、応えないわけにはいかないわね。全指揮、ボクが預からせてもらうわ。……まず順序として、ボクが用意していた策は後になるわね。出来ることなら宦官軍本隊がこちらに向かって来てからが望ましいのだけれど、曹仁隊がいつまで耐えられるかわからない以上はすぐにでも決行するしかない。ボクたちが先頭に出たら工兵隊を傍に控えさせて。その後は……いえ、本陣は後方に……」

「……他に腹案があるのでしょう? ちらちら春蘭と私とを見比べたりせず、打てる策があるのならば言って御覧なさい」

「ん? そうなのか?」

 

 図星を突かれたらしい詠は、息を呑んだ。戦場では正確な読みを見せる詠ではあるが、逆に自分の感情を隠すのはそれほどには上手くない。今息を呑んだのもそうだが、端々の動作や口調などに感情が出てきている。

 注意して抑えているようではあるので常人と比較したならまだ読みにくい方ではあるが、それでも洞察力に優れた拓実の前では丸わかりと言っていい。

 

「ぐ……あ゛ー、もう! 主君の無茶無謀がボクにも移ったのかしらね!?」

 

 頭を掻き毟った詠は、顔を上げるときっと拓実と春蘭を順繰りに睨みつける。

 

「いい? これは、博打になるわ。なにせ、『孟徳様』を敢えて危険に晒す策だから。『孟徳様』はもちろん、これは春蘭、あんたにこそものすごい負担がかかる。本来なら、恋――呂布がいるでもなければ、決行しない策よ」

「……ほう。で、今の話のいったいどこに戸惑うところがあるんだ?」

「はぁ!? ちゃんと理解して物を言ってんの!?」

 

 どうやら、まったく動じた様子を見せない春蘭に、逆に詠の余裕面が剥がれてきたらしい。顔を真っ赤にして、声を張り上げている。その言葉尻は動揺からか跳ね上がり、威嚇しているかのように強い。

 

「言っただろう。私は、華琳さまの万難を排す。たとえ呂布が相手だろうがそればかりは変わらん。これは絶対だ」

「ぅ……曹操! あんたはっ!?」

「それが必要であるならば、この身を晒すことに何の戸惑いがあるのかしら」

 

 拓実もまた動じない。拓実一人が姿を晒すことで勝てるというのなら、いくらだって晒してやる。拓実の腹は決まっていた。

 最悪。そう、最悪だが、拓実がもし死んだとしても、春蘭か詠かがいれば、この場の三千五百が何も出来ずにやられるということはないだろう。ならば、後を託すことが出来る。劉協を擁し、華琳さえ生きているのであるならば、きっと再起は可能だ。

 負け方が多少変わろうと、ここで勝てねば死んでもおかしくないところにいる。少しでも勝率を上げて、宦官軍に打撃を与えて死ぬ。同じ死ぬにしても、後を繋がる死に方であればまだ救いがある。それだけだ。

 きっと、劉協を奪還しようと命を賭けた華琳も、こんな考えだったのではないか。頼れる者が己一人しかいないのであれば、こんな考えは欠片も浮かんだりはしない。拓実も、華琳がいるから信じられる。

 

 詠は拓実の言葉を聞くなり目をきつく瞑り、歯を食いしばった。続けて頭を抱えてしばらくうんうんと唸って葛藤していたようであったが、吹っ切れたのかぱっと顔を上げた。

 憔悴した顔、幾分座った目つきで春蘭を睨みつける。

 

「……なら、護衛の春蘭は、曹操を護ることに専念して。最悪、ボクのことは放ってもいいから。呂布に任せたつもりで使うわ。話を聞いて無理だというのならすぐ言って頂戴」

「くどい。二言はないぞ」

「ああ、もう! わかったわよ! それじゃ、策について一から説明するわ」

 

 

 

 

 

「工兵隊、軍旗を立てろ!」

 

 春蘭が高らかに号令をかける。丘陵を抜けた宦官軍の援兵二千に見せつけるように、二つの軍旗が曹操軍先陣、拓実の横に掲げられた。

 一つは曹操軍にとって馴染みである、紫の生地に『曹』の大将旗。そしてそれに並べられたのは、金銀糸の刺繍が日の光に輝く、大将旗より小さくとも装飾華美である『漢』の旗だ。

 

「……いざ掲げるとなると、とんでもないことをしでかしてる気になってくるわ」

 

 風にはためく『帝』を表す旗の下、絶影に跨って堂々と佇んでいる拓実を、詠が信じられないという風に見て呟いた。拓実は視線を前方の宦官軍へと向けたまま、笑みを崩さない。

 

「詠。実際に劉協様を連れてきている訳ではないのだから、落ち着きなさい」

「だ、だから、とんでもないんじゃない。旗自体、大将旗より小さいし、旗を立てている竿も短いし。戦場で用意できなかったとはいえ、これじゃ傍からはどう見えているか……」

 

 きらめく『漢』の旗へと向けた詠の顔は、これ以上ないほどに苦みばしったものになる。

 

「まず今頃、宦官軍は大紛糾してるわよ? 『帝がいる我らに手を出すのか』なんて脅しとも取れれば、『宦官軍らは朝敵』『曹操軍こそ官軍である』なんて怒りを煽ってるようにも見えるでしょうし。曹の旗より漢の旗が小さく低いのなんて見る者が見れば『漢王朝は衰退し、曹操の下にある』って言うも同然。そもそも戦場に帝を連れ出したなんて不敬を自ら喧伝しているようなものだし……!」

 

 ぶちぶちと文句を垂れている詠は、そわそわと落ち着かない。その辺り、価値観の違いからいまいちぴんときていない拓実は、慌てる理由を理解できても共感はできない。

 そもそも日本で過ごしていた時にしても、天皇を敬うべき人ということ自体は理解していても、どれほど偉いのかがわからずにいた。これは人命に貴賎の差は無いという、他国に比べて博愛主義の強い現代日本に生まれたが故の特異な価値観である。

 

「その上、それら全部がただの騙りだなんて! ああああーっ、下手を打てば賊軍一直線よ!」

「私に降ったことは天命だったとまで言った割りに、心構えが出来ていないわね」

「まさか、大将旗より小さく作っているだなんて思うわけないでしょうが!? 同じぐらいの大きさで作って、曹操の大将旗の上に掲げるものと思っていたのよ! ……まぁ、確かに。宦官どもを動揺させてボクたちの思い通りに動かすってことを考えれば、これで決定的にはなるんでしょうけど」

 

 この、『漢』の旗を作るよう指示を出しておいたのは拓実である。そして、それこそが詠にとって思いもよらない策であり、だからこそ拓実を評価するに至った策であった。

 しかし、詠はもう少し抑え目の策として想定していたようで、実物を目にしてまず固まり、拓実の真意を確かめ、そしてこの通り掲げてからはご覧の有様である。とはいえ、拓実を止めようと説得してこない辺り、当初の策を補強することはあれ、失敗する要因とはなっていないのだろう。

 

「ともかく、この戦で負ければ宦官によって先ほどの汚名を着せられることになるでしょう。そうさせない為には、我らが勝ってそれら全てを負け惜しみの言葉にまで落とす必要があるわ。何処で聞いたか、私の記憶にこういう言葉があったわね。『勝てば官軍、負ければ賊軍』」

「……今のボクたちの状況を端的に表し過ぎていて、まったく笑えないんだけど」

 

 気楽に構えている拓実に、げんなりと項垂れた詠はため息をついた。

 

 そうこうしているうちに、宦官軍が目に見えてざわめき始めた。こちらの旗印を確認したのだろう、しかし曹操軍の真意が読めず、前にも後ろにも進めないようである。

 伝令だろう騎馬があちこちに駆け回り、そうしながら軍としては動かず。その内に早馬数騎が宦官軍の本隊へと放たれていくのを確認すると、詠が手を挙げた。

 

「動いたわね。いいわよ。ここまで来たら後は盛大にやっちゃって」

「春蘭!」

「御意に!」

 

 その言葉を待っていた拓実は、詠が言うが早いか絶影を駆る。加速していく拓実のその後ろを、春蘭が続いた。しかし、本隊は詠の号令により行軍を停止。前進していくのは拓実と春蘭の二騎だけだ。

 

 

 そうして曹操軍から離れて敵軍と等距離になる辺りにまで進むと、馬を歩かせて真っ向から向き直った。声がかろうじて届き、敵兵を見ておおまかに鎧姿であると見て取れるほどの距離である。

 同時にあちらからも拓実の姿が見えていることだろう。特に、拓実の――曹操の姿は目に付きやすく、特徴的だ。少なくとも他の馬より一回りは大柄である絶影のお陰で、大将首に見えているのは間違いない。

 敵軍であるが、こちらが僅か二騎で出てきたことで手を出しかねている。前面には弩を構えた部隊が備え始めているが射掛けてくる様子は見えない。少数であるからこそ、使者であることもあって下手に手出しはしないものだ。

 警戒を強める宦官軍へ向けて、拓実はゆったりとした動作で腰に佩いた青釭の剣を抜き放った。

 

「我が名は、曹孟徳! 帝を傀儡として悪逆を働いた貴様ら賊軍を、主の意向に従い誅罰する漢の臣である!」

 

 拓実は高らかに名乗りを上げると、絶影を歩かせる。ぐるりと己の姿を誇示するように回りながら、続けて言葉を投げかける。

 

「威光を笠に着ての暴虐に飽き足らず、帝の住まう都を滅ぼし遷すなど、人に非ず! 人道に(もと)り、畜生にも劣る所業である! そのような者を天が許すと思うのか! 其に付き従う兵よ! 些少なりにでも人の心を持つのであらば、己が行いを省みよ! 外道に与し天意に逆らう者は、一族郎党に至るまでこの曹孟徳が駆逐することになるぞ!」

 

 そうして拓実が元の位置へと馬を進ませる頃には、敵陣が端からざわめいているのが見て取れた。

 この宦官らへの挑発、敵兵への投降の投げかけの文言自体に意味は無い。帝を連れて遁走していった筈の曹操が、漢の旗を携えて無事な姿でいるのを見せることが重要なのだ。

 

「さて、どう動くかしら」

 

 投降はないだろう。ああまで悪し様に言われて動揺する兵を落ち着かせる為に舌戦で対抗してくるか、当初の予定通り後退を続けて宦官軍本隊と合流するのか、それとも帝を奪い返すべく単独で攻撃を仕掛けてくるか。……詠の予想通りとなるのだろうか。

 これは桂花に教えられたことだが、戦や交渉に限らず人と何らかで争う場合、相手の意図によって自身の行動を左右されてはいけないとのことだ。こちらから選択を迫ってやり、動かしてやることが相手の態勢に隙に作り、それを上手く活用するのが策の土台になるという。

 正に、今のこの状況は桂花の言っていた通りとなっている。拓実は笑みを湛えたまま腕を組み、敵軍を眺め見る。

 

「華琳さま、どうか私の後ろへ」

「ええ、任せるわ」

 

 空気が変わる。それを察知したらしい春蘭が馬をいななかせ、拓実を庇うように前に出た。大剣・七星餓狼を手に、気を張り詰めている。

 遅れて敵軍にも動きがあった。陣の奥から華美な鎧に身を包んだ、痩せぎすの男が兵を掻き分け、前衛の部隊に加わったようである。男の後ろからはどやどやと弓を抱えた兵士たちが戦列に加わっていく。

 

「ええい、何をしておるか! 弓兵、弩兵っ! 彼の奴を討ていっ!」

 

 甲高く怒鳴り散らす声が拓実にも届くや、慌てて弩兵が矢を撃ち出してきた。指示していた男、あれが李(カク)だろうか。

 矢を射掛けてきてはいるが、全軍でこちらへ向かって攻めかかってくるという風ではない。攻め気が見えない。軍は動かさず、大将首である拓実や春蘭が弓や弩の届く距離であるから、あわよくばで攻撃を仕掛けている、それだけのようだ。

 

「――李(カク)。詠から聞いていたように、慎重と言えば聞こえはいいものの、戦場では逃げ腰であるだけのようね」

 

 弓兵、弩兵は敵兵を射殺すことも勿論だが、射撃精度の問題から全てを倒しきることが難しい為、役割として突撃してくる敵軍の勢いを弱めることに重きを置いている。

 武芸に優れた武将ならば離れた『個』の目標を狙って射抜くことも出来るだろうが、弓兵部隊の運用としては大まかに狙いをつけて斉射し、矢の雨を降らして落ちた先にいた兵に当てるという『範囲』を目標としたものになる。

 放たれた矢は百に届くかというほどだったが、距離もあって実際に拓実や春蘭へ降り注ぐ矢は両手で数えるほどだ。

 

「他愛もない! この夏侯元譲がいる限り、幾度狙おうとも我が主に届くことはないと知れ!」

 

 春蘭は馬上で大剣を軽々と振り回し、拓実と自身に向かってくる矢を打ち払っては叫ぶ。あっさりこなして見せているが、重量のある鉄の塊で飛来してくる矢を後ろに人一人護りながら落として見せるなど、尋常の技ではない。神業の類である。

 七星餓狼より遥かに軽い青釭の剣を用いて、更に回避することを許されたとしても拓実では己一人を護れたなら上出来であろう。打ち漏らしがあれば両手で握り直した青釭の剣で自衛しようと密かに身構えていた拓実であったが、その必要はなかったようである。

 

 風切り音を立て、次々と鈍い音と共に地に突き立っていく矢の雨霰は、覚悟していても尚拓実の心胆を寒からしめるものであった。理屈ではない、本能が訴えかける命の危機である。剣を握る手の平は汗で湿り、鼓動は強く激しく、呼吸は自然と浅く忙しなくなっていた。

 だがその拓実も、矢の一つも漏らさず全てを受け止めてみせた春蘭の勇姿によって平常心を取り戻す。思い出したのだ。「万難を排す」と言い切ってみせた春蘭の言葉を。

 

「賊軍よ、如何したか! 未だこの曹孟徳には矢の一つすら届いてはいないぞ!」

 

 春蘭の姿に後押されるように、拓実はまた言葉を続ける。震えの無い声色。薄く湛えた笑み。何よりあの矢の雨の中にあって、その立ち振る舞いに恐れる素振りはなかった。

 だからこそ、朗々と挑発を投げかける拓実へ放たれる追加の矢はない。敵の目に映るは単騎で事も無げに百も射掛けた矢を打ち払って見せた武辺者、それに全幅の信頼を置いて欠片も揺るがず佇む総大将の姿である。

 たかが二騎。されども、この距離からその二騎に数を撃って倒せるかがわからないのである。撃ちたくとも、矢は無尽蔵ではない。さては矢の枯渇を狙っての曹操の策かと一度疑心を持ったら、大将首を挙げるこの上ない好機であるというのに決断に踏み切ることが出来ない。

 

 拓実の役割は、曹孟徳ここに在りと示すことだ。それが結果として敵の援兵部隊をこの場に縛りつけ、宦官軍本隊の追撃を中止させてこちらにおびき寄せることに繋がる。

 元より慎重な用兵を好しとする李(カク)であるらしいが、この状況に置いて攻め気を完全になくしているのは完全に詠の読みどおりであった。流石の春蘭ともいえど攻め寄られ、数で押されれば限界がある。では何故敵がそれをしないかといえば、曹操軍の兵数が敵の援兵部隊を上回っているからだ。

 兵にして二倍近く。数で勝っているのは曹操軍だというのに、その曹操軍がどういった訳か追撃を仕掛けてこない。圧倒的有利な立場にありながら誘うように帝の存在を仄めかされ、これ見よがしに大将首が前に出てくれば、当然ながら敵は罠の可能性を考える。挑発に乗って、寡兵で下手に攻め込んで全滅でもしては堪らないということなのだろう。

 李(カク)としては本隊に合流したいのだろうが、宦官軍の目的である劉協を連れているようにしか見えない拓実たちを放っておく訳にもいかない。反董卓連合軍により多くの兵を失った宦官軍にとっても今回の出兵は乾坤一擲の博打である。退却を優先して目を離している間に目標を見失うなどという失態を演じれば、李(カク)は責任逃れも許されない。

 進む訳でも退く訳でもなく、攻める訳でも守る訳でもない。伝令を本隊へと送るや、その場に留まり形だけの攻撃をするというこの中途半端な方策となって現れているのだ。

 

 心理を読み、選択を縛り、逡巡を誘う。

 全ては、詠の手のひらの上であった。

 

 

 


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