影武者華琳様   作:柚子餅

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45.『影武者、賈駆に教えを乞うのこと』

 

 

 山の上だからだろう。吹き上げられる風は強く、そして肌がひりつくほどに冷たい。呼気を白くしながら視界を邪魔する金の髪を手で押さえ、拓実は馬上で目を凝らす。

 そうしているうちに目的の物を見つけると、周囲に悟られぬように口元を緩め、静かに安堵の息を吐いた。険しい山道を抜けた先、眼下の森に身を潜めて移動している宦官軍の千五百ほどの集団を確認できたからだ。宦官軍が詠の策をそのまま採っていることに、確信を持てたのである。

 件の敵軍はといえば、山上の曹操軍にはまったく気づいていない。本隊の後方にいるからか最低限にしか索敵をしていないようで、平地から目視されないよう木々の中に身を隠しているもののまるで無防備である。

 よもや曹操軍が縦列で辛うじて進める山道を抜けてくるなどとは――いや、そもそも、曹操軍がそこに抜け道があることを把握しているとは思ってもいないのだろう。

 

 

 この時代では、一帯の地形を記載した地図は大変に貴重なものである。地図を描き上げるには知識は元より、人手と時間とを使うため酷く金がかかる。特に、地方を記した地図ともなれば粗雑なものであっても相当の金を積まねば手に入らない。ある程度以上に精度の高いものは領主が抱え込んでいるからだ。

 『地の利』という言葉が軍事において重く捉えられていることからわかるように、外敵に自領地の地理を把握されることはすなわち丸裸にされるも同然。これを把握しているか否かで、攻め手守り手共に採れる選択肢が大きく変わることだろう。このことから地理の把握は重要であり、それが事細かに記されている地図とは勢力において充分に機密となるものなのである。

 

 碌な地図が出回らない中で、緻密に記されたそれを持つ例外がある。大陸中から天文学など様々な分野に長けた名士を抱え、人員・資金を余りあるほどにつぎ込むことができる劉王家――大陸を統べていた漢王朝である。地元にしか伝わらない抜け道などはあるだろうが、洛陽周辺の隣接している州までであればかなりの精度の地図を。地方であっても領主が持つものと同程度のものを、おおよそ十年置きに作らせている。

 当然ながら国軍である官軍には大陸中の詳細な地図が回されており、その参謀の立場にあった詠はその多くを暗記している。それだけに止まらず、宦官の傀儡でありながらも軍部における自身の立場を最大限に利用していた。

 今回曹操軍が通った山の抜道は、古く高皇帝・劉邦の時代に整備されたものの、勾配がきつく事故が絶えない為に現在では使われなくなって久しい山道である。そして華琳たちが劉協を連れて身を潜めていた洞穴は、かつて官軍が討伐した山賊の根城であったところらしい。そのどちらも、洛陽の宮城に収められていた古い書物や過去の地図から詠が見つけ出していたものだ。これは、過去洛陽に出仕していた華琳ですらも知りえなかったことである。

 

 反董卓連合軍の討伐目標である悪賊董卓、その腹心であり悪政の片棒を担いでいたとされている賈駆の両名が処刑もされず、賈駆に至っては曹操軍の軍師として重用されているなどと宦官軍からすれば思いも寄らないことであるのだろう。首謀とされている二人を引き込むことで、連合に参加していた諸侯らの反感を買うのは想像に難くはない。

 二人ともども曹操の手により処刑されたか、あるいは道中で野垂れ死んだか。宦官たちが考えているのはそんなところか。危惧していたならば、詠の策をそのまま使うこともなかった筈だ。

 

「数の利もあり、事前に我らの先遣である五千を破っていたことも手伝って宦官軍は慢心しているようね」

「……気が緩んでいるのは確かだろうけど、これに限れば慢心とはいえないんじゃないの? 流石にそれを想定しておけっていうのは酷でしょうよ」

 

 崖上にて絶影に跨り、宦官軍を見下ろしながらの拓実の呟いた言葉に、控えていた詠が首を振って疲れた様子を見せている。

 

「本来は洛陽から長安付近の戦場まで普通に行軍しても片道で三日四日の日数が必要なのよ? 伝令を受けてすぐに援兵を決め、準備に取り掛かって出兵したとして七日は猶予がある筈なのに、劉協様が奪われて五日にして洛陽からの兵が喉下にまで迫っているなんて普通は思わないわよ。ボクたちが洞窟に隠れていた時に追っ手の宦官軍がやられたって聞いたのだって、てっきり黄布の賊の残党あたりの仕業かと思っていたぐらいなのに」

 

 その言葉に込められているのは感心半分、呆れが半分というところだろうか。当然、視線は目下の敵伏兵部隊ではなく馬上の拓実へと向けられている。

 

「確かに、多少無茶が過ぎたのは認めるわ。追撃を緩められず数日戦い通しの宦官軍ほどではないにしても、兵たちの疲労は無視できないもの」

「それはそうでしょうね。いくら急を要するとはいえ、物資輸送ならともかく戦闘を目的にしているのに採る方策ではないもの。それも、伝令が着いたその半刻後にはもう指示を終えているなんて危険性を理解していたのか疑わしいぐらいよ。下手したら兵が使い物にならなくなっていたっていうのに」

「確かにそこらの領主たちが抱える兵ではそうなっていたかもしれないわね。けれども、現実として我が軍はそうなってはいないでしょう」

 

 どうにも食い下がってくる詠に対して、拓実は言って聞かせるように言葉を返す。とかく時間を得るためにその他多くを無視したとは思っていたが、やはりあの強行軍は常識的なものではなかったようだ。

 一応、拓実なりに可能であるだろうと踏み切るだけの材料はあった。洛陽滞在中に充分な休息を兵たちに与えていたこと。急な出兵の可能性があることを前もって兵たちには通達して、準備をさせていたこと。今回の連合軍に参加するにあたり、徴兵したばかりの新兵は領地に置いて、正規兵としての訓練を二年以上受けた者、あるいは課された調練課程を全て修めた精兵だけをつれてきていたこと。そして帝の救出という大義があり、兵たちの士気が高かったこと。

 夜間行軍の合間には頻繁に休憩を挟んで順繰りに仮眠を取らせたりと配慮はしたが、行軍中に脱落した兵はほぼおらず、先程の連戦でも見事な働きを見せた。疲労は隠せないが、士気は落ちてはいない。しかし、詠が指摘したいところではそこではないようだった。

 

「ああ、もう! 今しがた、宦官軍を立て続けに蹴散らしていたのをこの目で見たんだからそれは知っているわよ! ボクが言いたいのは将への役割の指示や任務可能であろう兵の配分なんかは感心するぐらいに的確なのに、どうしてこと作戦立案となると運否天賦に頼った、それも致命になりかねない粗が出てくるのかってことを言っているの!」

「……それに関しては、抗弁の言葉を持たないわね」

 

 反論しようと口を開くも、拓実はそのまま弁解することなく閉ざすことになる。先の一戦では詠よりの申言もあり、華琳の姿を借りながらにして押し黙ってしまった。

 その他に関してはまだしも、こと軍略や兵法に関して軍師相手に一切の反論など出来よう筈もない。ぐぅの音も出ないとはこのことだろう。

 

 

 護送隊が発ってから山道に入るまでに、拓実の率いる曹操軍は宦官軍の部隊二つを撃破していた。その二つは、曹操軍追撃部隊の前衛によって奪われ連れ去られた劉協を捜索する為の部隊であったようで、兵数にしてもひとつひとつが五百にも届かない程度。少数で逃げ延びた華琳たちを捕らえるには充分な兵数だったが、先陣を任せられて猛る春蘭には物の数ではなかったようである。

 部隊の大将を討ち取られ、あるいは中枢を抜かれた敵部隊は総崩れとなり、残った兵たちは三々五々となって逃げ出していった。対して曹操軍の損害は軽微であり、正に快勝といっていい戦果である。

 そんな初戦での曹操軍の優勢が揺るがなくなった頃のこと。敗残兵の掃討を全軍に命じようとする華琳に扮する拓実に対し、なんと異見が上がった。その声を上げたのは軍師に任命されたばかりの詠である。

 

 拓実は捜索部隊の兵を殲滅し、敵軍本隊の程近くまで迫っている自軍の発見を可能な限り遅らせてから奇襲を仕掛けるつもりでいた。この深い位置にまで洛陽からの援軍が迫っているとは敵方は夢にも思っていないだろう。それはきっと兵数で劣る曹操軍にとって大きな武器になっている。伏せておこうとするのは心理的に当然のことだ。

 詠は、その方策に異を唱えたのである。曰く、予想外の大軍による襲撃で混乱に陥ろうとも、機転の利く者が敵方にあれば伝令を本隊に送っているだろうこと。その伝令を抑える為に凪を敵軍の退路に配置したのは炯眼(けいがん)ではあるが、その成否は実際に敵本隊と接敵するまで不明となってしまうこと。運良く伝令を絶てていたとしても殲滅に時間を要する為、曹仁救援を目標の一つにしているこの状況では悪手となりかねないこと。加えて、拓実の発案である山道を抜けて敵本隊の背後を突く作戦であれば、こちらの存在がこの一戦で露見したとしても前方からの襲撃に備えた敵軍の意表を突くことが出来るとした。

 その献策を聞いた拓実はなるほど尤もであるとして、追撃もほどほどに取りやめて全軍で迂回し、険しい山道へと兵を進めるように方針を変更していたのである。

 

 そうして行程を短縮し山を越えた先では、行軍している伏兵部隊を見つけることが出来た。敗残兵の掃討を行って時間を取られていたなら索敵が間に合わずに、敵兵の配置を確認することは出来なかったことだろう。今しがたの詠の言うところの『運否天賦に頼った致命になりかねない粗』とは、拓実のこの軽忽な考えを指しての事であった。 

 

 あわやというところで欠陥を指摘し、目的達成に即した案に修正してくれたということも多分にあるが、拓実が軍師である詠に強く反論できない理由はもっと根本的なものだ。単純に、拓実が軍略の基礎すら修めていないからである。

 拓実には師と呼べる者が多くいる。政務に関連した師は桂花であると言える。部隊の指揮に関しては警備隊の実務経験と許定を構う秋蘭からの度々の助言、そして凪や真桜、沙和と同格の将として切磋琢磨した試行錯誤があった。春蘭や季衣とはよくよく模擬戦の相手をしては否応無しに体術を叩き込まれた。剣の扱いは一度見本にと見せられた華琳の型を模倣し、毎日の反復を経て自分のものとした。

 では軍略はというと、誰からも学び取ることが出来なかったのである。

 

 教育役である桂花より師事を受けたのではないかと言われれば、確かにその通りではあった。桂花の理念や思想は、政略面に限らずその軍略面にも反映されている。拓実はそれらを、荀攸という形で桂花から学んでいた。だが、そうして学び得た理念を同じように軍略に活かそうとしても、桂花本人でないが為に拓実では上手く活用できないのである。

 曹操軍の軍師を任せられている桂花の軍略は、連合に集まった軍師たちを相手にして決して引けをとらない。多くの兵法書を読み学んできた彼女の軍略は、条件さえ当て嵌まれば無類の強さを発揮する。

 桂花の軍略とは彼女が生まれてからの年月が作り上げた集大成であり、特筆すべきにその知識量の多さがある。状況から勝てる策を用意するではなく、自軍を必勝とされている状況に持ち込むのだ。その根幹は古人より伝わる兵法であって、保守的な彼女の信条から自軍の準備を整えつつも相手の出方を見るに始まり、如何なる手を取られても万全の状態で迎え撃つ態勢を作り上げる。

 敵方に対抗策を立てられたとしても多種多様の戦術から代案を選び出し、相手の策を打ち破る。相手がさらに返してくれば桂花もまた違う策を用いて、如何に相手の上をいくか、数多くの兵法を知っているかの知恵比べとなる。特に駆け引きには如才なく、政略を交える充分な時間をも得られればその智謀は華琳をしても及ぶものではない。

 だが、そうした反面で急場の立案には強くない。今現在拓実たちがそうであるように、勝利条件が定められている中でその達成の為に早急に行動を起こさねばならない場面であったり、不利な状況から打って出て逆転を狙う場面を得意としていない。

 

 書物という数多の引き出しを持つ桂花に比べ、読んできた兵法書の数が圧倒的に不足している拓実では同様に策を組み立てようにも数段も劣ったものになり、その上で対策を立てられてしまうと容易に代案が出せない。

 元々荀攸は内政官としての役割を与えられていて、戦場に出る予定はなかった。城の書庫にある経済、農政の書物は読み漁ったが、兵法書の類はいくつか読んだだけでほぼ手付かずである。そして積極的に軍略を学ばねばならない役職にある許定は、基本的に書物を読もうとしない。

 軍略は許定と荀攸のどちらもが学ばない、拓実にとっての死角であった。だから思考傾向から桂花の軍略を模倣することは出来ても、拓実では中身の伴わない張りぼてにしかならない。黄巾党など碌な指揮官のいない農民兵が相手であれば通用するかもしれないが、相手組織に少し学んだ者がいれば歯牙にもかからないだろう。

 

 己のそれを生兵法であると自覚している拓実だが、一方では軍師として高く評価されてしまっている。その写し身である荀攸の名が、反董卓連合に参加した面々の間で稀代の策士として通ってしまっているのだ。これはいくつもの思惑と偶然とが重なり合った上での産物であって、当然ながら拓実の実力がもたらしたものではない。

 荀攸の評価とは、汜水関攻略戦での猛将華雄との一騎討ちという、軍師らしからぬ行動から始まった。華雄を孤立させたその働きにより結んだ諸葛亮と鳳統の策は、目付け役を危険な戦場に立たせた負い目も手伝って共同立案であると劉備軍によって流布されることとなった。これにより、立策にほぼ関わらなかった荀攸が軍略家として大きく評価されることになる。

 続く虎牢関での呂布攻略の際の発言。こちらも歴史を知ることに因るから当然に根拠もなく、たまたま汜水関での一件で注目されていたが為に通ったに過ぎない。本来であったら呂布の万夫不当の噂に恐れをなした惰弱の言と取られ、一笑に付されて終わりである。荀攸の発言により念のため慎重策を取って交戦することになるが、連合軍の猛将が束になって倒しきれない呂布の桁外れの武才が知れ渡ると、それを事前に見抜いた荀攸もまた連合の猛将に比するだけの才を持つ者と噂された。

 駄目押しが、一連の汜水関・虎牢関での行動によって諸葛亮と鳳統の二人に懐かれ、『華雄との一騎討ちは楚軍二十万を釣り出し水計で破った韓信が如く』などと大仰に例えられて軍師連中に宣伝されていたことである。各勢力から選りすぐられた選抜部隊という場所で行われた為に荀攸の名は連合の末端にまで広まり、一角の人物という評価が確固たるものとなった。最早取り返しはつかない。

 

 こうして振り返ればわかるように、荀攸は一度たりとも拓実自身の軍略に基づいての評価はされていない。軍略面の評価の内実は、諸葛亮と鳳統が編み出した策によるものである。

 軍師でありながら荀攸のやったことは全て武官としての働きであり、再三に拓実が言っていたように、他人と軍略を競えるような段階にすら到達していないのである。

 

「詠。是非、私の立案した内容であなたが気に掛かった点を聞いておきたいわ」

 

 当然ながら、拓実が一番それを痛感している。これまで影武者として過不足なく動けていたのは、春蘭を始めとした有能な将や軍師がいたお陰である。

 拓実が多少の無茶無謀な命令をしても春蘭が尽力して達成してみせていたし、兵の充填や物資の手配などは桂花に一任してしまっていた。何事かがあれば秋蘭が補佐に回り、抜けた部分を塞いでくれた。拓実自身が曹孟徳の名に負けず劣らずにこなせたことなどその立ち振る舞いを除いてしまったら、目的に適した将の割り振りと的確な兵数の差配ぐらいのものである。

 文武に長けた秋蘭、軍師である桂花が洛陽へと発っていった今の曹操軍本隊において、拓実の稚拙な立案を正してくれる者は新参の詠を除いていない。数刻前に拓実自身が口にしていたように『今この陣営において、拓実が軍略面で頼りに出来るのは詠だけ』なのである。

 

「……別に、主君としてだったら今のままでもこれといった支障は出てこないと思うわよ。見たところ、物事の理を判断できない凡愚ということもなさそうだもの。そっちで作戦目的さえ定めてくれれば、改善案や不都合があったならその都度軍師たちが口を挟むでしょうし」

 

 それは、先の詠の陳言を拓実があっさり聞き入れたことによるものか。主君の意見に異を唱えることを好しとしなかったり、面子を気にして部下の上申を聞き入れないといった者は往々に存在している。詠なりに、主君としての能力に問題はないものと評価してくれたのであろう。

 有能な人材が豊富な曹操陣営においてならば、上申を受け入れ適切に判断できれば不足のない程度の働きはできる。しかしそれで満足してはいけない。拓実が立たねばならないところはもっと遠く、高いところにある。

 

「いいえ。主君としてではなく、名軍師と謳われているあなたの意見を聞き、今後に活かしたいという個人的なものよ」

 

 言葉を交わしているうちに、拓実たちのいる本隊が動き出した。どうやら、先ほど詠の出していた進路指示が前線へと伝わったようである。

 絶影の手綱を手繰って拓実もまた進軍速度を合わせると、遅れて隣に並んだ詠へ視線を送る。その詠はといえばその瞳は奇特な者を見るような不躾なものだったが、僅かに口の端が吊り上がっていた。

 

「……もういくつかは言った後だけれど、軍略を学ぶ者として意見を求めるのであれば遠慮はしないわよ」

「望むところよ。『苦言は薬なり、甘言は疾なり』――耳に痛いぐらいでなければ、彼の賈文和に訊ねた意味がないもの」

「そう、そこまでいうなら……」

 

 こほん、と咳払いをひとつ。詠の顔つきに浮かんでいた微かな笑みの色が消え、同業の人間を見る鋭い目でじっと拓実を見据える。

 拓実は詠のその変化に、これまでは彼女なりに曹操である拓実を主君として立てていたことに気がついた。平素の言葉遣いこそ主従のものではないが、あれでも参謀として必要なところでだけ発言し、過分に自己主張せず臣下としての分を弁えて振舞っていたようだ。

 

「まず、洛陽からの強行軍に関してだけれど……これはもういいわ。まだ成功する目の方が大きかっただろうし、連合に参加した目的に関することだっていうからわからないでもない。最善の結果が出ている以上、ボクがいくら言っても難癖としか映らないかもしれないもの」

 

 そこまでを一息に告げた詠は、改めて拓実を見つめる。その目には、確実に非難の色が混ざっている。

 

「けれど、先の敵捜索部隊の殲滅命令はそうじゃない。確かに敵の伝令を断って奇襲出来たなら、突然背後に湧いて出た四千相手に宦官軍は為す術もない。こちらの被害なしで宦官軍を撃破させることだって出来るかもしれない。楽進を退路に配置したのも手伝って、少なく見ても十のうち三回は成功を見込めるでしょうね。もしかしたら四か、あるいは二度あれば一度は成功するかもしれない」

 

 知らずに、拓実は息を呑んでいた。視界が一瞬真っ白に染まり、全身の肌が粟立っている。

 裏を返したなら、成功を見込めたのは良くても半々。詠の見立てでは十の内の七は失敗しておかしくなかったということだ。

 拓実が失念していたのはこの部分である。敵の伝令を絶つ為に対策を立てたが、それ故に問題は全て取り払われたと思い込み、その失敗の可能性を一切勘定に入れていなかった。

 

「当然、上手く状況が転ばなかった時の被害はとんでもない。伝令が戦闘に入る前に既に発っていたら? 既に曹仁隊が瓦解していたら? 捜索部隊の殲滅に時間をかけているうちに、曹仁隊が壊滅してしまったとしたら? 目的達成はならず、だっていうのにボクたちの存在は敵に察知されていて、背後を突こうと迂回しているところに追いつかれて逆に背後から奇襲を受けるというところかしら。当然、数で負けている上に虚を突かれたボクたちは為す術なく全滅するでしょうね。これといった損害も与えることが出来ずにボクたちがやられれば次は洛陽の都が標的となり、苦労して保護した劉協様も奪われることになるでしょうよ」

 

 詠の言うとおりになれば、まず敵地深くにいる拓実たちの生存の目は低い。負傷兵を抱えて洛陽へと向かっている華琳たちも容易に捕捉されるだろう。上手く状況が転んで華琳や主要な武将たちが無事であったとしても、数年掛けて作り上げた精鋭が全滅させられ、帝も保護できていないのでは、元通りにまで返り咲くのは難しい。

 つまり拓実が進めようとしていた策では、まず理想的な完勝か、全員の命運までを巻き込んでの完敗となるか、そのどちらかの結果しか出ないということになる。

 確かに今回の宦官軍撃退の任務に失敗は許されない。しかし物事に、特に戦場に絶対はない。結果として失敗をするにしても、再起さえ不可能となっては一切の取り返しがつかなくなる。

 

「最悪の状況を想定出来ていたなら、多少の有利を捨ててでも危険を排した代案を考えるべきところよ。ボクがさっき強行軍について言っていたのも結局はそこに行き着くわ。決断が早いのはひとつの長所と成り得るけれど、熟考すべき箇所で即断してしまうのではただの浅慮でしかないもの。時間のない中で何とかして二倍もの数の差を埋めようとしてのことでしょうけど、だからといって必要以上の対価を払うと馬鹿を見るわよ」

 

 そうして締めくくった詠の言葉を、拓実は改めて始めの一言目から思い起こし、視界を閉ざして深く心に刻み込んでいく。そうして目を見開くと、深く笑みを浮かべて詠を見据えた。

 

「感謝しましょう。この私にとって、紛れもなく金言だったわ」

 

 この詠の助言により、拓実は許定として初陣を飾った時に肝に銘じていた『指示の誤り一つが数多くの兵を死に追いやってしまう』という事実を再認識していた。そして同時に、華琳が連合諸侯を敵に回す危険を冒してまで手に入れようとしていた詠という軍師の価値に気づくことが出来た。

 だからこそ拓実は己の失敗を悔いるではなく、笑みを隠し切れないでいた。華琳がそうであったように、きっと拓実の瞳は今、星が瞬くように輝いて見える筈だ。

 今回の拓実の失敗を既のところで修正してみせたことで、名声に違わぬ詠の手腕に確信を持てた。おそらく局地的な戦略に限るなら、詠は現時点の曹操陣営の誰をも上回っていることだろう。そして、事前に拓実に用意するよう指示させていた小道具から察するに、彼女の着眼点は誰とも重なっていない。

 拓実にとって重要なのは、詠の策はもちろん下地となる知識を必要とはするものの、物事の見方によって着想している為に彼女の価値観や思想を理解すれば拓実でも応用できるかもしれないという点である。

 

「ボクの目の前にいる曹孟徳にとって、ね」

 

 喜びを隠し切れない拓実の様子をじっと見つめた詠は、ふんと鼻を鳴らした。何かしらの会得がいった様子である。

 

「……ま、なんだかんだと言ったけれど、目の付け所自体はそう悪くないわ。あとは思考を止めず、あらゆる選択肢と可能性を模索し続けることかしらね。まったく。立案・献策するだけだなんてあんたは言ってたけど、それ以外にもやることがあるじゃない」

 

 

 

 

 曹操軍は静かに、そして速やかに山を下るや、森林を移動している長安からの援軍部隊一千五百へと襲い掛かった。

 軍議の時点では丘陵を進む部隊に強襲を掛ける予定だったが、敵軍の進軍速度が詠の予想より僅かに速かった為に、最後尾に位置している部隊へと目標が変更されていた。

 

 相手方からすれば、本隊を追って援兵として洛陽方面へ進軍しているところで、自軍拠点のある長安方面からの襲撃を受けた形となる。進軍方向への索敵を行ってはいたようだが、背後への警戒など完全に慮外のことだった。

 後詰による効果的な士気低下を狙って、本隊と交戦している曹仁隊に視認されないよう森を進んでいたことも災いした。自軍がどういう状況であるのか把握しようにも、周囲の木々が視界を奪う障害となったのである。そして後方に位置していた部隊長と思しき者が撤退なり抗戦なりの指示を出す前に討たれたことで指揮系統の混乱が誘発され、現状を把握するのに更なる時間を要することとなる。敵軍前衛部隊が奇襲の報告を受け取る頃には、後続は完全に瓦解していたのだった。

 曹操軍四千が打ち崩したのは兵数にして五百にも満たない。しかし、後方から聞こえる同輩の断末魔の悲鳴、隊長が討たれたという誰が言ったかすら判別出来ない怒声が響き渡り、それを示すように一向に指示が飛んでこないことで恐怖は兵士の間で伝染していき、中盤に配された五百は戦わずして四方八方へ我先にと逃げ始めてしまった。

 前衛には将が配されていたようであり、事態を把握するなり混乱から立ち直り、残った兵をまとめてすぐさまに森林より離脱していく。彼らの進むその先は、丘陵を進む同じく一千五百の援軍部隊である。

 

「戦果としては上々ってところね」

 

 先の詠の進言に従って逃げ惑う敗残兵を放置し、軍を進ませている拓実の横で、詠がにやりと口元を緩ませている。

 彼女はそう言うが、圧倒的に有利な条件であっても曹操軍の負傷兵は増えてきている。混乱し足並みすら揃っていない敵兵の悪足掻きに、行軍による疲労から対応できず、手傷を負う兵が増えてきているのだ。

 

「こいつらは長安で徴兵しておいた兵よ。洛陽に配置されていた兵と違ってほぼ疲労していないのだから、その相手にここまで戦えるのであれば問題はなさそうってことよ。宦官軍本隊の疲弊し切った兵が相手なら充分にやりあえるわ」

 

 横からの視線に気づいた詠が、自身の発言に説明を入れた。ただ上機嫌なだけなのか、それとも軍略家として助言を求めた拓実への講義の延長線であるのか、その口振りから判断は出来ない。

 対して拓実は「そう」と至極あっさりと返答しながら、手綱を締めて馬の速度を緩める。僅かに追い越した詠がすぐさまに手綱を引いて馬を歩かせるのを見届けるや、ゆるゆると自身の乗馬(のりうま)である絶影を詠の隣に寄せた。

 

「ところで、あなたに言われて兵に作らせておいたモノは完成したようだけれど?」

 

 そんな風に今思い出したかのように嘯く拓実に、突然話題を変えられた詠はその胡乱な目を隠そうともしない。子供でも一目でわかるぐらいの、わざとらしい演技だったのだ。

 

「それは、本隊と対峙した時に初めて掲げるようにしなければ効果が薄れるわ。長安からの兵相手ではほとんど役に立たない上、本隊相手でも遠目に確認されたなら交戦を待たず、敵将の指示で兵たちが落ち着いてしまうもの」

「――ふふ」

 

 律儀に答えながらも『ボクに言われずともわかっているんでしょ?』と言わんばかりの詠の流し目に、つい笑い声が漏れてしまう。拓実はそれに、否定する素振りを見せなかった。

 やはり、詠は人心を操ることに長けている。この一戦においても序盤で運良く敵武将を討ち取ったものの、そうでなくとも曹操軍の兵たちには『敵の大将を討ち取った』と声を上げながら突撃するよう詠より指示が出ていたのだ。視界を塞がれ、悲鳴があちこちから発されている戦場では、その誤情報の真偽を確かめる術はなしと見極めてのことである。

 こちらの起こす行動で敵将がどう判断するか、敵兵の心理はどういった状態となるのか。詠の読みは卓越している。

 

 今にして思い返せば、戦場の外でも彼女のその気質は表れていた。軍議において拓実にあれこれ細部について疑問を投げかけたり、指摘をしなかったのは主君の面子を潰さない為だったのだろう。華琳より直々の誘いを受けながら客将のような立場にいるのも、他の配下からの反発をなるべく抑えようと配慮してのことだとわかる。

 きっと拓実が考案した、山道を越えて背後からの奇襲する策に対して一切の異論を挟まないのも、宦官たちの心理を読んで成功すると踏むに足る彼女なりの根拠があるに違いない。

 

「さあて、これといった被害も受けず減らせたのは二千程度かしら。ただ、ここから先はそうはいかないわよ」

「ええ」

 

 拓実は、詠に声を掛けられて我に返った。知らず考え事をしていたが、のんびり彼女の才覚に関心ばかりもしていられない。

 二千を減らしたとはいえ、それでもまだ敵軍はおおよそ七千ほどの大部隊だ。対してこちらは各個撃破で快勝を続けているとはいえ、じりじりと数を減らして三千五百余りとなっている。拓実たちは、これから自軍の二倍の大軍を倒さねばならないのだ。

 今回の一戦で、敵本隊に自軍の位置は知られてしまっている。さらに、敵軍本隊と拓実たちが交戦するのは、兵数が物を云う平地である。いくつか策は講じてあれども、現状では圧倒的に不利といっていい。拓実率いる曹操軍の正念場は、正にここからだ。

 

 

 


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